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記事 32件
  • リアルタイムで黒歴史を作ってみるテスト。

    2014-04-25 23:21  
    50pt
     どもっす。趣味で短編小説など書いてみました。死蔵するのもどうかと思うので、ブロマガで後悔、じゃなかった公開してみます。お金をもらっている場で趣味で書いたものを発表していいのだろうかと思わないこともないけれど、まあいいでしょう。
     ちょっとびっくりするくらい小説を書く才能がないことが一部で知られている海燕さんなのですが、下手の横好きというべきか、書くのは楽しいですねー。
     この話は、一応、これで完結してはいますが、作中の某人物(読めばわかると思う)のことが気になって仕方ないので、彼女を主役にした話をもう一作書きたいところです。その話を読みたいのは地球上でぼくひとりだけかもしれませんが――。
     まあ、暇で暇で仕方ないという方だけ読んでみてください。ぼくは暇で暇で仕方ないので、くり返し読み返しては推敲してます(笑)。楽しいです。文章は書くより書き直すほうが楽しい。ちなみにこの記事はメール配信されません。では。
    「初恋の瑕」
     チノパンのサイドポケットでスマートフォンが小刻みに震えた。一度。そして二度。それだけでふたたび沈黙する。つまり電話の着信ではない。おそらくメッセージアプリの通達だ。新藤夏木はそう判断し、その機械を取り出して画面を覗き込んだ。予想通り、そこには2行のメッセージが表示されていた。
    (ごめん。10分だけ遅れる。)
     そして、
    (いつもより可愛い格好していくから、驚くなよ☆)
     夏木はひとり目を眇めため息を吐いた。
     何が「驚くなよ☆」だ。10分遅刻する自覚があるということは、2、30分は確実に遅れてくるだろう。五十嵐佳苗はそういう女の子だ。17歳にもなって、あたりまえの約束が守れない。まあ、きょうはあらかじめ連絡を入れただけ良いほうだろう。何度も口を酸っぱくしていい聞かせた甲斐があった。
     それにしても、初めてのクリスマスデートにまで遅れてくるとは、夏木には信じがたい神経だった。まだ高校生だから、時間を守ることの大切さがわかっていないのかもしれない。それとも、夏木なら怒らないと侮っているのか。
     十分に考えられる可能性だ。付き合ってから9ヶ月、夏木は4歳年下の恋人相手に怒ったことがない。ほんのちょっと声を荒らげたことすら皆無。それで甘く見られているのかもしれない。じっさい、怒ってもいいことは何度もあったのだが、佳苗にはふしぎな愛嬌があって、どうにも怒鳴ったりする気にはなれなかった。彼女がいたずらを叱られた猫みたいにしゅんと首をすくめて申し訳なさそうにしていると、ひとつため息を吐いて赦してしまう。そういうところは、ほんとうに甘い恋人なのかもしれなかった。
     ともかく、2、30分だけ時間が空いた。この中途半端な間をどうやって過ごそう。
     夏木はそう考えながら冬の繁華街を眺めわたした。聖なる12月25日、街には甘ったるいラブソングが流れ、そこら中に恋人同士と思しい男女が腕を組みながら歩いている。べつに羨ましがる理由はないはずだが、何となく疲れたような気分になった。人類の贖罪のため十字架の上で死んだという救世主は、いまのこの国のありさまを見たら何というだろう。やはり自分もしっかり時間を守れる女の子を選ぶべきだっただろうか――。埒もない考えが浮かんで来て、ハッとして首を振った。いくら時間にルーズでも、佳苗は可愛い恋人だった。ほかの子と付き合うことなど考えられない。
     仕方ない、近くの喫茶店にでも入って待つか。そう考え、頭のなかでマップをひろげたそのときだった。夏木は思い切り頭を殴られたような衝撃を感じた。目の前で、ひとりの若い女性が街灯にもたれかかり俯いていたのだ。
     知っている顔だった。いや、知っているどころではない。一時期は、頭に思い浮かべない日はなかった女性だ。そのひとは、ベージュのマフラーになかば顔を埋め、ひとり、暗い視線で歩道をじっと見つめていた。長いまつげの下の大きな目はいまにも泣き出しそうに見え、身じろぎもせずその場に立ち尽くすその姿はひどく寂しそうな気配を漂わせていた。「孤独な美女」というタイトルの彫像のよう。道行くひとたちも、何となく惹き寄せられて、横目に眺めては、あわてて視線を逸らしていた。
     夏木は目を逸らすことはできなかった。かれの視線はまるで引力にひかれるようにそのひとに吸い寄せられた。唇がかってに動いて彼女の名前を呟く。
    「葉子先輩」
     その声は彼女にまで届いたようだった。そのひと――夏木にとって高校の1歳年上の先輩だった三上葉子は、ちいさく震えるようにして視線を上げた。互いの目を正面から覗きあう格好になる。葉子の目には、思わぬ再会への驚きと、何かそれ以上の感情が揺らめいているように見えた。そして、その右目にきれいな涙のしずくが緩やかに盛り上がったかと思うと、すうっとひと筋、こぼれ、なめらかな頬を伝わり落ちて路面で砕けた。
    「夏木くん――?」
     掠れた声でそうささやく。
     夏木は心臓をかな梃子かなにかで締め付けられる思いがした。かつて、この地上のだれより大切に想っていたひとが、ひとり、寂しげに涙している。そのようすは衝撃的で、かれは、いまの状況も忘れて衝動的に駆け寄っていた。
    「先輩! こんなところで何をしているんですか?」
     彼女は慌てたように手を振った。
    「わたしは、その――買い物帰りよ。夏木くんこそ、どうしたの?」
    「えっと、おれもその、ちょっと待ちぼうけで」
    「そう」
     葉子は夏木の格好を眺め、そっと目を細めてほほ笑んだ。
    「クリスマスだものね。彼女と待ち合わせ?」
    「え、ええ」
     夏木は力なく視線を逸らした。
     いまから佳苗と時間を過ごす予定であることが、なぜか少しだけ後ろめたかった。そんなふうに感じるべき理由など、何もないはずなのに。もう、葉子は夏木の恋人ではないのだから。そう、彼女が夏木のものだったのは、もう3年も前のことなのだ。何もかも遠い昔。いまはもう、夏木には佳苗がいるし、葉子にも、きっとだれか大切なひとがいるのだろう。そうに違いない。しかし――。
    「葉子先輩」
    「うん?」
    「どうして泣いていたのか、訊いていいですか」
     気づくと、夏木はそう訊ねていた。ただでさえつぶらな葉子の瞳が、さらに大きくひらく。この目が、照れくさそうに、しかしまっすぐに自分を見つめてくれたこともあった。夏木はふしぎにやるせない胸の痛みを感じながら、そう思いだしていた。そう、あれはかれがいまより若く、いまよりもっと何も知らなかった季節のことだ――。
     □■□■□
    「葉子先輩!」
     ひと通りがない広い廊下でそう呼びかけると、そのひとは驚いたように振り返った。制服のスカートが、風を孕んでふわりとひろがる。その野暮ったいロングスカートですら、彼女がまとえばとたんに可憐に見えてくるのはなぜだろう。恋の力なのか、それともだれの目にもそういうふうに見えるものなのか。
     後者に違いない、と夏木は確信していた。なぜなら、鞄を胸に抱えたまま、ちょっと怒ったように眉根を寄せて夏木のほうに歩み寄ってくる葉子は、ほとんど眩しいくらい可愛かったからだ。この愛らしさが自分にしか感じられない幻だとは、とても信じられない。
    「もう、夏木くん、学校では、三上先輩って呼ぶ約束でしょう」
    「先輩こそ、学校では新藤くんって呼ぶんじゃなかったんですか」
     幽かに顔をしかめたまま注意してきた葉子に向かい、そういい返すと、彼女はむっとしたように唇を結んだ。その表情がまた、いますぐ抱き締めたいくらい可愛い。もちろん、ひと前でそんな真似をしたりしないし、それどころかいままで一度もそのほっそりした体を抱いたことなどないのだが、空想のなかでは、すでに何度も彼女を抱き締めていた。もちろん、ただそっと優しく抱きしめるだけだ。それ以上のことはまだ考えられない。
     何となく入部した文芸部の部長である彼女に恋して玉砕覚悟で告白し、奇跡のように良い返事を得てから3ヶ月、ふたりの関係は、何度か映画館や美術展へデートしたことのほかには、一向に進展の気配がない。しかし、夏木はそれでも十分にしあわせだった。
     すらりとした長身で、ととのった目鼻立ちで、しかももの静かな佇まいの葉子を狙っている男は少なくなかった。おそらく、誘いをかけたり告白したりした者もほかにもいるだろう。そのなかで、なぜ、自分だけが選ばれたのか夏木にはわからない。ほかの男と比べてとくべつ運動に秀でているわけでもないし、成績優秀でも、眉目秀麗でもない。どう考えても、何かの奇跡としか思えなかった。
     この3ヶ月間は夏木にとって人生の春だった。初めの頃は緊張でろくに口を利くことすらままならなかったし、あるとき、勇気を出して彼女のほっそりした指に自分の指さきを絡めたときなど、ふれた箇所から電流が流れ込んで来るように感じられたものだ。いまでも、ふたりきりになると口がうまく回らない気がする。しかし、何とか自分から積極的に声をかけることはできるようになった。それだけでも長足の進歩に思える。
    「先輩、きょう、6限で終わりですよね。いまから帰るなら、いっしょに帰りませんか」
    「そうね」
     葉子は煮え切らない返事をした。何となく次の言葉をためらっているようすで、じっと夏木の顔を見つめる。たそがれ時の日差しを受け、左右でわずかに大きさが違うまぶたのなかで、きれいに磨かれた黒い真珠めいた目が幾度かくるめいた。
    「何ですか? おれの顔に何か付いています?」
     夏木は照れかくしの微笑を浮かべ、首を傾げた。葉子はその笑いに同調することなく、柔らかそうな頬を薄く紅潮させてうつむいた。
    「そうじゃないの。あのね、夏木くん」
    「はい」
    「そのね、つまり――そう、きょう、両親が留守にしているの。遊びに来ない?」
     夏木の胸郭の奥で心臓がひとつタップした。少なくともかれにはそういうふうに感じられた。夏木は反射的に生唾を飲み込むと、目を驚愕に大きく見ひらいた。
    「それって――」
    「いや?」
     葉子は気恥ずかしそうに、かるく掠れた声でささやいた。夏木はものすごい勢いで首をふった。かれがどんなに間抜けだったとしも、この機会を逃してはならないことはわかっただろう。そして、かれはそこまで間が抜けてはいなかった。
    「そう、ありがとう」
     葉子はさらに何か言葉を重ねようとしたが、彼女の背後からかかってきた声が阻んだ。
    「おい、葉子。行こう」
     葉子の親友の水島橙子だった。おとなしく優しげな葉子とは対照的に、ちょっと怖いような鋭くけわしい雰囲気の少女だ。しかし、ふたりはふしぎと仲が良いようだった。もちろん、夏木にとって、女の子の友情の秘密など、永遠に解けそうもない謎でしかない。
    「待っているから」
     そう、かれの傍でささやいて、葉子は去っていった。あとには呆然とした夏木ひとりがのこされた。
     □■□■□
     そのちょうど一時間後、夏木は葉子の家の玄関前に前に立ち尽くしていた。この家が目的地なのは間違いなかったが、どうしてもチャイムを押す勇気が持てない。万が一、怒り顔の父親が出て来たら、赤面して逃げ出すしかなくなってしまう。
     そんなかれの内心が伝わったのか、どうか、扉は内側からひらいた。中から出て来たのは、間違いなく葉子だった。思わずホッとしてその場に座り込みそうになる。
    「ようこそ。いま、料理をつくっていたの」
     いくらか緊張した表情でいう彼女に、「どうも」などと意味がない返事を返しながら、夏木は恐る恐る室内へ入って行った。葉子の言葉に嘘はなかった。キッチンでは作りかけの料理が火にかけられようとしているところだった。チキンのばらばら死体の火刑だ。
    「食べていく?」
     葉子の言葉に、無言でうなずく。なぜか口のなかが乾いて仕方なかった。
     そのまま、キッチンテーブルの背の高い椅子に座る。しばらく気まずい静寂を過ごしてあと出て来たのは、きれいな半月形のオムライスだった。ケチャップのチキンライスがうっすらと焦げたレモンいろのオムレツによってみごとに包み込まれている。いったいどうやって作ったものなのか見当もつかない。
     「いただきます」と告げてしずかに頬張ると、口のなかに卵とバターとケチャップの芳醇な味わいがひろがった。それほど期待してはいなかったのだが、しろうとが作ったものとは思えないほど美味かった。思わず夢中になって半月を崩してしまう。
    「おいしい?」
    「はい。めちゃくちゃおいしいです」
     ほほ笑ましげに眺めてくる葉子の視線を、今度は正面から受け止めることができた。葉子もまた、自分のぶんのオムライスをゆっくりと食べていった。和やかな食事の時間がつづく。そのまま凍りついてしまえばいいと思うような時間だったが、やがて、ふたりとも食べ終わってしまった。洗い物を片付けると、部屋はしんと静まりかえった。心臓の音ばかりがうるさく、いっそ止まってしまったらいいと思えるほどだった。油をさし忘れたブリキの木こりのようになった夏木に、葉子はささやくような声で話しかけてきた。
    「ね、夏木くん」
    「はい」
    「わたしの部屋に、行かない?」
     夏木はかろうじてうなずいた。甘い声で誘いかけてくる葉子が、いつもの彼女とはまるで別人に見えた。世界の秘密を何もかも知り尽くした大人の女性のようだった。そんなはずはないと、3年後のかれならわかっただろうが。
     ふたりは幽霊のようにしずかに二階の一室に入り込んだ。葉子はきれいな木目が浮かび上がったベッドの上に座り、純白のシーツを幽かに乱しながら、そっと優しく告げた。
    「――いいよ」
     その瞬間に彼女に襲いかからなかったのは、精一杯の自制心の結果だった。夏木はそっと葉子の肢体を抱きしめると、なるべく優しく乳房の線を撫ぜた。葉子の唇からちいさな呻きがもれる。それが、快感か拒絶のいずれを意味しているのか、わからない。夏木はただ、追い立てられるようにして、彼女の制服の釦を外していった。迷路のような刺繍がほどこされたピンクのブラジャーがあらわになる。それをそっと上にずらすと、かれがいままで想像のなかですら見ることを赦さなかったところ、つまり白く円い小ぶりな乳房がまろび出た。淡い色あいの乳首のまわりに、青い血管が幾筋か走っている。そのすべてが、かれがいままで見て来たこの世の何よりも美しかった。感嘆と同時に、猛るような欲望が湧き上がってくる。かれはゆっくりと手をのばし、そこにふれ、そして――そして、葉子の甲高い悲鳴に殴られたような衝撃を感じた。
    「だめ!」
     彼女はそう叫んだのだ。
     見ると、葉子の顔は血の気が失せ、青ざめていた。いままで憶えがないような焦りと狼狽に駆られて、夏木は彼女の体から飛びすさった。頭のなかはひどく混乱していた。気づかないうちに、何か致命的なミスを犯してしまったのだろうか。
    「ごめんなさい。おれ――」
     何とかそう口にしようとした夏木を、葉子は止めた。
    「違う! そうじゃないの。あなたが悪いんじゃない。わたしに問題があるのよ」
     痛々しいほど青ざめた顔いろのまま、彼女は夏木から視線を逸らし、ベッドのシーツを固く握り締めた。ため息めいた掠れた声で、ひとりごとのようにささやく。
    「わたしね、男の人がだめなの」
    「――え?」
    「男性をそういう対象として見られないのよ。女の子しか好きになれないの。あなたに責任はないわ。わたしがそういう性向のもち主なんだから、仕方ない」
    「そんな――」
     視界が、嵐の小舟にでも乗っているかのようにゆらゆらと揺らいだ。すうっと血の気が失せていくことがわかる。夏木は無意識に頭を抑えながら、かろうじて何か言葉を紡ぎ出そうとした。
    「じゃあ、ぼくのことは――?」
     葉子は申し訳なさそうに夏木を見つめた。しかし、その言葉は残酷だった。
    「あなたなら平気かと思っていたの。その、あまり男の子っぽくないし。でも、やっぱり駄目だった。ごめんなさい。利用したような形になってしまったわね。でも、わたしはそんなつもりじゃなかった。男の人を好きになれるなら、それでもいいと思ったの。わたしには、ほんとうは好きなひとがいるんだけれど、その子はそういう意味では女の子を好きじゃないと思ったから。だから――」
    「まさか」
     夏木の脳裏にひとつの名前が浮かんだ。
     水島橙子。
     まったくタイプが違うように見えるのに、なぜかいつもいっしょにいる葉子の親友。
    「ずっとわたしの片想いなのよ。叶うあてのない恋」
     葉子は夏木のようすにはかまわず、自嘲するような口ぶりで続けた。このときの夏木はそこまで思い巡らす余裕がなかったが、紛れもなく、彼女もまた深く傷ついていて、しかも、自らその瑕口をいじらずにはいられないのだった。そのひとみが涙で潤んだ。
    「だから、だれかにわたしを好きになってほしかった。愛しているっていって、抱きしめてほしかった。そのとき、あなたがあらわれたの。それで――」
    「もういい!」
     夏木は両手で乱暴に耳をふさいだ。葉子が暗い目つきでかれを見つめる。
    「聞いて、夏木くん。わたしはね」
    「もういいっていっているだろ! おれは、おれはあなたのことを、本気で――」
     それ以上は口にできなかった。夏木は逃げ出すように部屋を飛び出ると、そのまま外へ出た。わけがわからないことを口走りながら、アスファルトを走る。心臓の血管が破れ、そこからどす黒い血が流れ出ているように思えてならなかった。そのせいで体重が減っているのか、どうか、ふしぎとからだは軽く、地に足が着いている実感がない。だからなかば転がるようにして路面に倒れたときも、べつだん、痛くもなかった。額が擦りむけて血が流れ出てはいたが、それも気にならない。
     ただ、異様な感情が胸の奥から後から後から湧いてきて、ひどく辛かった。それは哀しみのせいだっただろうか? しかし、哀しみというにはあまりにどす黒く、むしろ怒りや憎しみに近いように思われた。
     かれはひとり、路傍に倒れ、鼻水を垂らしながら泣いた。ひとが見て奇異に思われるとしてもかまわなかった。泣いて、泣きながら歩いて、そしていつのまにか、自分の部屋に戻っていた。
     それが、夏木にとって初めての失恋だった。
     □■□■□
     その後のことは思い出しくもない。夏木は文芸部を退部し、葉子が卒業するまでの半年間を、なるべく彼女の顔を見ないように暮らした。周囲の生徒たちは急に部活動をやめ、妙に寡黙になったかれを好奇と心配の目で見たが、夏木は決して葉子の秘密を話さなかった。話せるはずもなかった。半分は自分自身の名誉のためだ。
     夏木は打ちのめされていた。たしかに、葉子に対する想いは特別な純愛ではなかったかもしれない。淡いあこがれめいた初恋が偶然に受け入れられて燃え上がった、それだけのことだったといえなくもない。しかし、彼女を想う心に嘘はなかったのだ。
     時々、読みさしの本から顔を上げ柔らかくほほ笑む葉子の顔が好きだった。長い髪を後ろでくくって大股に歩く彼女の姿が好きだった。彼女のすべてが、その言葉や行動の一々が、ほんとうに好きでたまらなかった。しかし、結局、それはかれのひとり相撲であるに過ぎず、一方通行の片思いでしかなかったわけだ。
     ひとり、だれの視線もないところで自分の内面を探ってみるとき、夏木は葉子に裏切られたのだと感じ、そんなふうに考える自分を厭に思った。しかも、その被害者感覚ははてしなかった。底なしに深い自己嫌悪の泥沼に、どこまでも沈み込んでいく錯覚。それから1年間は、ひとが変わったように暗い日々を過ごした。しかし、時が経つにつれてその感覚も褪せ、佳苗と付き合うようになってすっかりもとの自分に戻れたと感じていた。
     そしていま、こうして彼女と再会することになった。いったい何ものの導きだろう? ただ、彼女とこうしていることは大きな危険を意味していることもたしかだった。いくらなんでも、クリスマスデートの待ち合わせ時刻にほかの女性と過ごしているところを佳苗に見つかったら問題だ。佳苗はいまのところ特に嫉妬深いところを見せてはいないが、まったくジェラシーがないわけでもないだろう。いますぐ彼女と別れるべきだ。そう理性ではわかっていたが、どういうわけか、一向に体は動かなかった。
    「泣いてなんかいないわ」
     葉子は強がった。
    「ただ、ちょっと、哀しいことを思い出しただけ。でも、こんなところで、ひとりで俯いているなんて、変よね。ひどいところを見られてしまったみたい」
    「先輩――」
     何かやるせないような想いに駆られて、夏木は沈黙した。葉子もまた、黙りこむ。そうして、ふたり、どのくらい時を過ごしたことだろう。おそらくは、数分に過ぎなかっただろうが、遥かに長い時間に思われた。と、夏木は後ろからの声に気づいて、振り返った。
    「佳苗――」
     そこに、いつもより可愛らしく着飾った恋人が立っていた。キュートな女ものの帽子をかむり、ちょっと大きめのピンクのワンピースの上にコートをまとって、ちいさなハンドバッグを持っている。いつもの彼女と比べると、いくらか大人っぽい格好だった。そしてその顔は、めったにそこに見いだせないような怒りと疑いを孕んで、こわばっていた。
    「どういうこと?」
     しまった、と夏木は内心で舌打ちした。もうしばらく来ないだろうと見ていたが、思ったより早く間に合ったらしい。何か、いい訳をしなければ。いや、ただほんとうのことを話せばいい。真実、後ろめたいことは何もないのだから。
    「ああ、佳苗、気づかなくて悪かった。こちら、三上葉子さん。いま、そこで偶然逢ったんだ。何年かぶりだから、なつかしくて、つい話しあっちゃった。それだけだよ」
    「ごめんなさい。せっかくの日に、邪魔しちゃったわけね」
     葉子は薄くほほ笑んだが、佳苗は硬い表情のまま応じなかった。彼女の心のなかで、深刻な猜疑が渦を巻いていることが手に取るようにわかった。
    「ほんとにそれだけなの?」
    「ほかに何がある?」
     佳苗はカッとしたようにバッグを振りまわした。
    「わたしは――」
    「待って」
     葉子がそっと彼女を制止した。
    「あなたはかれの彼女なのね? 大丈夫よ。あなたの恋人はこんな日に浮気するような男じゃない。ただ、そう、とても優しいから、わたしがひとりぼっちで寂しそうにしているところを放っておけなかったの。そうね、たとえばプライベートのお医者さんが具合が悪そうな患者さんを見つけてしまったみたいなものかな? かれが優しいことは知っているでしょう?」
    「――知ってる」
     佳苗はふくれっ面のままそうひとことだけ答えた。葉子はほほ笑ましげに彼女を見下ろし、優しく大人びた口調で告げた。
    「こんな優しい彼氏は大切にしなくちゃね。邪魔者はもう退散するわ。もう二度とあなたたちの前にはあらわれない。だから機嫌をなおして。ね?」
     そして彼女は夏木のほうを見ようともせず、そこから歩き出した。少しでも別れがたい想いがあったとしても、その歩みからはまったく見て取ることはできない。夏木は反射的に彼女を呼び止めていた。
    「先輩!」
     葉子が立ち止まる。しかし、彼女にかけるべき言葉は脳裏に見あたらなかった。自分はいったい何をいおうとしていたのだろう? 夏木は必死になって言葉を探した。
    「えっと、その――メリー・クリスマス」
     口にした次の瞬間には、ひどく間抜けなことをいってしまったと気づいた。葉子は、かるく吹き出して、おかしそうに少し笑った。それから、姿勢を正し、笑顔で答えた。
    「メリー・クリスマス、新藤くん。彼女とお幸せに」
    「うん。先輩も、どうかお幸せに」
     そのひとことで、葉子の夜空の色のひとみが幽かに潤んだ。そこからもういちど涙が流れ落ちるかと思われたが、今度はその涙は堰を切らなかった。彼女は優しくほほ笑みながら、夏木たちに背を向けた。それきり、彼女が振り返ることはなかった。
     その姿が見えなくなると、夏木はそっと佳苗の指に自分のそれを絡めた。拒まれるかもしれないと思ったが、彼女はかれの手をいつになく力強く握りしめてきた。驚いてその顔を見ると、いままで見たことがないくらい真剣そうな表情をしていた。かれの顔を見上げて、硬い声で呟く。
    「ね。新藤さん」
    「うん?」
    「キス、して」
    「――え?」
     佳苗は、きつい問い詰めるようなまなざしで夏木の目を睨み据えた。
    「わからない? キスしてって云っているの」
    「そんな。こんな人前で、無理だよ」
     この子は突然何をいいだすのだろう。思わずうろたえた。
     佳苗はそんなかれをきつい目つきで睨みつづける。恋人ではなく、仇を見るように。
    「わたしのこと、好きじゃないの?」
    「それとこれとはべつの問題だろ」
    「べつじゃないよ! 同じことでしょう」
     夏木はため息を吐いた。
     ふいに強い苛立ちがこみ上げてきて、苦労してこらえた。この子は、どうしてこう自分を困らせるのだろう。たしかに自分も悪かったかもしれないが、だからといってこんな無理難題をいわれる筋合いはない。やはり自分たちは相性が悪いのだろうか――。
     しかし――そのときだった。不器用な化粧で彩られた佳苗の目から、涙の雫が盛り上がってこぼれだした。低い嗚咽とともに、涙は次から次へと流れ落ちていった。
    「佳苗――?」
    「新藤さんの嘘つき!」
     唖然とする夏木の前で、彼女は両拳を握りしめ、嗚咽まじりの声で叫んだ。
    「ほんとうはあのひとが好きなんでしょう? それなのに、自分に嘘をついて、わたしと付き合っていたんだ。わたし、わかっていたよ。いつもわたしをだれかと比べているんだって。だれか新藤さんには大切なひとがいるんだって。ずっと、わかっていた。でも、わたし、我慢していた。だって、新藤さんはわたしのことを選んでくれたんだって思っていたから」
    「佳苗」
    「でも、そうじゃなかった。新藤さんは、わたしのことなんてどうでも良かったんだ。あのひとのことをいちばん大切に想っていたんだ。わたしなんて、ただの代用品で、邪魔もので、それで――」
    「佳苗、それは違う!」
     道行く人々の露骨な好奇の視線が集まるなか、くるりと後ろを向いてそのまま駆け出そうとした佳苗の肩を、夏木は何とか掴んだ。
    「そうじゃないんだ。あのひとはそういう相手じゃない。たしかに昔、彼女はぼくにとって大事なひとだった。でも、いまは君がいちばん大切だよ。だれよりも、何よりも大切に思っている。嘘じゃない」
     偽りない本心だった。夏木を失恋の瑕から立ち直らせてくれたのは佳苗だ。そのはつらつとした元気さに、どんなに勇気づけられてきたことか。佳苗はいま、かれにとってほんとうにかけがえがない存在だった。まして、だれかの代用品などでは絶対にありえない。
     佳苗は振り返った。涙でせっかくの化粧が落ちて、いっそこっけいなほどの顔になっている。その顔が、夏木の胸に勢いよく飛び込んできた。
    「わたし、時間、ちゃんと守るから! もう絶対、約束を破ったりしないし、高いプレゼントおねだりしたりもしないし、いい子にしているから。だから、お願い――」
     それ以上は言葉にはならなかった。夏木はそっとその背中に手をのばし、ひどく傷つきやすい大切な品物を抱えるようにして、彼女の体を抱きしめた。そうしてみると、腕のなかの肢体はひどく小さく、たよりなげに思えた。
     こんなに小さかったのか。
     あらためてそう思った。あたりまえなのかもしれない。まだ十七なのだ。かれが過去に置いてきた早春の季節を、彼女はいまから過ごそうとしている。そう考えると、両腕のなかの仄かなぬくもりが、しみじみと愛おしく感じられた。強く抱きしめる。
    「ごめん。佳苗がそんなふうに考えていたなんて、全然気づかなかった。でも、大丈夫だよ。あのひととは、いまはもう何でもないから。ただの高校の先輩だよ。お世話になったひとだから、ちょっと声をかけてみただけだ」
     佳苗は不安そうに揺れる視線でかれを見上げた。
    「ほんとう?」
    「ほんと、ほんと」
    「――うん、わかった。信じる」
     きゅっと唇を結ぶ。もちろん、すべて納得したわけではないだろう。しかし、彼女はどうやら夏木を信じることにしてくれたようだった。これから夏木は、その信頼に応えていかなくてはならない。
     そのとき、ふいにこみ上げてきたひとつの想いが、かれを圧倒した。そうなのだ。過去は美しく、遠い思い出はほろ苦くもなつかしい。しかし、それでも、なお、夏木はいまを生きているのだった。過去はどこまでも過去であるに過ぎず、思い出のなかの可憐な恋人より、じっさいにいま抱き合っている少女をこそ大切にしなければならないのである。
     ようやくほんとうに昔の瑕に別れを告げられるのかもしれなかった。そして、いま、初めて、葉子に幸せになってほしいと心から思える。時が過ぎ去ったのだ。初恋の深い瑕口は、ついにふさがろうとしていた。そのことが嬉しく、また、少しだけ切なかった。
     夏木はそっと佳苗から体を離し、照れた笑いを交わし合った。
     きょうはこの後、駅前のいくらかしゃれたイタリアンレストランで食事の予定だ。そのあとの予定は決まっていない。ふたりの気もちしだいになるだろう。いずれにしろ、きょうはかれらにとって特別な日になるに違いない。
     ふしぎにあたたかく安らかな気もちに満たされながら、夏木は佳苗のちいさな手を握ったまま、クリスマスソングが流れる街なかを歩きはじめた。恋人たちのそのあとを、影だけがしずかに追いかけていった。
     完 
  • 『神のみぞ知るセカイ』最終回がマジ神エンドだった件。

    2014-04-25 14:14  
    50pt


     先日、漫画『神のみぞ知るセカイ』が完結しました。いやー、素晴らしかったですね! 過去編が終わると同時に連載そのものも終わると聞いた時には、正直どうなるかと思ったんだけれど、予想を超える神エンド。今年の漫画ナンバー1は決まりかも。
     ネットの感想を漁ってみたところ賛否両論はあるようですが、ぼくのなかでは神作品決定なので、何の不満もありません。
     しかし、この作品について語るとなると、どうしてもネタバレせざるをえないわけで、以下、大々的にネタバレします。非常に致命的な内容を含んでいるので、単行本で読んでいるひとは最終巻が出てから読んでください。ネタバレを踏んで後悔しても責任は取れませんよ。
     オーケー? じゃ、書くよ。まず、この最終回で賛否を呼ぶのは、何といっても「桂馬がひとりの女の子を選んだ」というこの一点に尽きるでしょう。
     しかも、その相手はちひろ。これはもう、すばらしいとしかいいようがない作者の英断であるわけですが、やっぱり批判もあるとは思う。
     まず第一にあるひとりのヒロインを選ぶということはほかのヒロインのエンドを切り捨てることに繋がるわけで、当然、ほかのヒロインのファンは面白くない。
     第二に、物語がラブコメにフォーカスした結果、マクロ的な設定の数々はほとんど描かれずに終わったわけで、そこに着目していた読者は半端な印象を受けるかもしれない。
     しかし、これはそういった読者の批判を覚悟した上で、切り捨てるべきものを切り捨て、選ぶべきものを選んだ偉大な結末だと思う。
     そもそも、ここ十数年くらいヒロインの数が肥大化する一方のハーレムラブコメは、前述の理由によってひとりのヒロインとの結末を描くことができなくなっていました。
     作者にしても、ひとりを選ぶとどっかから非難が飛んでくるので、どうしても「これからも騒動は続いていくのです」的な、だれともくっつかないエンドに落ち着いてしまうわけです。
     でも、やっぱりこれは何の決着にもなっていないわけで、納得がいかないんですよね。そこらへん、LDさんあたりに云わせると、あだち充あたりから延々とつながっている流れがあるそうなのですが、まあ、それは長くなるから割愛。
     アニメ版の『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』あたりは、この「未完結エンド」でした。まあ、これはハーレムラブコメの構造的な問題で、仕方ない一面もあります。
     『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のような、タイトルの段階でメインヒロインが決定している擬似ハーレムスタイルのラブコメだとそれでもメインヒロインにフォーカスできるんだけれど、そうでない場合、ひとりを選ぶことの論理的根拠が乏しくなってしまうんですね。
     最近だと、やはり『魔法先生ネギま!』の例が思い浮かびます。『ネギま!』では、どうやら最終的にはひとりの女の子を選んだと思しいのですが、そのひとりがだれなのかは省略されてはっきりとは描かれなかった。
     その意味では、やはり『ネギま!』も「壁」を突破しきれていない印象を受けました。主人公がひとりを選べないという「壁」。しかし、この「壁」を打ち破らないかぎり、ほんとうの意味で物語が完結したとは云えなくなってしまいます。
     で、『神のみ』はついにその「壁」を突破したわけです! これを凄いと云わずして何と云おう。いくらハクアファンやら天理ファンが怒ろうとも、ぼくは断然、支持しますね。
     作者の判断は正しいと思う。ここからまたちょっとハーレムラブコメの流れも変わっていくかもしれません。じっさい、最近、 
  • 『アナと雪の女王』の結末はやっぱり納得いかない。

    2014-04-20 20:14  
    50pt
     映画『アナと雪の女王』を観て来ました。アニメーション映画の興行記録を更新しそうな勢いのヒット作ですが、ぼく的にいまひとつでしたねー。
     この結論をごまかそうと色々書いてみたのだけれど、結局、そういう論旨にしかならないので、初めにそのことを記しておきます。うん、イマイチだった!
     いや、もちろん全編にわたって歌われる楽曲はすばらしいのひと言だし、壮大にして華麗な映像も圧巻なのだけれど、いやー、肝心のお話がちょっとね。
     物語の内容についてふれると必然的にネタバレせざるをえないので、以下はネタバレ注意と書いておきます。全編の内容に関して完全にネタバレありだよ!
     さて、驚異的なヒットを続けている『アナと雪の女王』にもし賛否を呼ぶ点があるとするなら、それはやっぱり結末ですよね。
     その生まれ持った魔法の力によって「氷の女王」となったエルサが、アナの自己犠牲的な無死の愛によって解放され、自分の力をコントロールできるようになる感動的な場面。
     しかし、ぼくとしてはやっぱりどうにも納得がいきませんでした。この結末はやっぱり辛かった。
     いや、べつに「真実の愛」がすべてを無条件で解決してもいいんですよ。そういういかにもミュージカル的なご都合主義をぼくは肯定する立場です。でも、今回ばかりはちょっとついていけなかった。
     というのも、「真実の愛」がすべてを解決するのは良いとしても、それでは、エルサの両親が彼女にそそいだ愛情は「真実の愛」ではなかったの?と思ってしまうんですよ。
     いや、もちろんわかっている。国王夫妻がエルサに向けた愛情は結果的にはエルサを苦しめることになる抑圧的な愛であって、深くはあっても、方向性を間違えていた、と解釈するべきなのでしょう。
     でも、両親がエルサに対して抑圧的であったとしても、それは理由がないことではないと思うんだよね。エルサの能力はじっさいにひとを傷つけているわけだし、下手すると国ごと亡ぼしてしまうくらいの力であるわけですよ。それを抑圧しようとすることはごく自然な選択だったのではないか、と思いませんか?
     むしろほんとうに国のためを考えるのなら、両親は自分の手でエルサを殺すとか、そういうことまでしなければならないところだったかもしれません。
     それをしなかった時点でかれらがエルサを愛していたことはあきらかであるわけで、一概にかれらを「娘に真実の愛をそそげなかった抑圧的な両親」と決めつけることはできないと思う。
     で、物語のなかでアナはその両親が果たせなかった奇跡を叶えるんだけれど、うーん、納得がいかない。そもそも、あきらかにこの子、何にも考えていませんよね?
     このままエルサを放っておいたら国がどうなってしまうんだろうとか、人々を救うためにはエルサを犠牲にする必要があるのかもしれないとか、そういうことをちらっとでも考えた形跡がまったくない。
     もちろん、「どんなにまわりのひとを傷つけるとしても、それでも自分はエルサを愛している」というのなら、ぼくにも納得がいく。そういう愛がものごとを解決に導くこともありえるとは思う。
     しかし、アナの愛情は、そこまでの深慮や決断に支えられているようには見えない。いくら考えてみても、やっぱりアナは何も考えずに無邪気に行動しているだけの幼い女の子としか思えないのですよ。
     ラストの自己犠牲シーンにしても、反射的にエルサの前に飛び込んだだけで、自分がそう行動したらどういうことになるかということはまったく考えていなかったのでは? 皆、ほんとうにアナの行動に納得しているのかな……。
     さて、そもそもエルサの能力とは何を意味し、象徴しているのかを考えていくと、やはり「社会に受け容れられづらいような強烈な個性」のことだと思えます。
     つまり、この映画の結末は、そういう強烈な個性を抑圧し、また排除することなく愛をもって受け入れよう、というメッセージなのだと思う。
     しかし、そのメッセージが「愛をもって受け入れさえすれば全部解決」としか見えないところにこの映画の問題はある。いや、いくらなんでもそんなに簡単に解決しないだろうと。
     「社会に受け容れられづらいような強烈な個性」なり「社会にとって脅威であるような特異な才能」をちゃんと受け容れましょう、愛しましょうという思想が間違えているとは思いません。
     しかし、そういう個性を受け入れれば当然、そこには社会とのあつれきが発生するわけですね。この映画にはその点に関する考察が足りないように思えるんですよね。
     とにかく受け容れることが大切!でメッセージが終わっていて、そのあとはもう絵に描いたようなハッピーエンド。
     それでは、エルサと社会との間に発生していたはずの問題はどうなったかといえば、なぜか彼女は突然力をコントロールできるようになっていて(それはまあ愛の力なんだろうけれど)、問題そのものが雲散霧消しているのですね。
     いやまあ、ハッピーエンドは良いんだけれど、こんなことで解決できる問題なら両親も初めから悩まなかったんじゃ、と思うんだけれどどうだろう。
     しかも、エルサを殺そうとした連中は全員国から排除されてしまうんですよね。いや、 
  • この希望のない世界で、それでも映画は訴えかける。

    2014-04-17 17:25  
    50pt

    「うーん、幸福って何?」
    「またすごい質問だなあ」
    「なんだと思うの?」
    「そうだなあ、わからないけど、なんとなく、今思ってるものだけどいい?」
    「うん、なに?」
    「ガラクタ」
    「えー、幸福はガラクタなの?」
    「気に入らなかったら、違うのもある」
    「なに」
    「ほら、マンガとかでさあ、馬の頭に釣り竿つけて、先っぽにニンジンつるすでしょ。馬はそれを追いかけてずっと走るって」
    「うん」
    「あのニンジン」
     ――『CARNIVAL』

     あなたは人生に満足していますか? 自分の仕事に誇りを持っていますか? それとも人生は退屈だと感じていますか? つまらない仕事に過ぎないと思っているのでしょうか?
      ベン・スティラー監督の映画『LIFE!』は、そのいずれだとしても観る価値がある映画。ひとを励まし、勇気づけ、行動するために必要な活力を与えてくれる一作だ。
     物語の主人公は、雑誌『LIFE』を出版する企業に務めるひとりの男。かれは時々、現実を離れ空想の世界に入り込んでしまうという困った性癖を持っていて、そのせいもあって冴えない生活を送っている。
     16年間写真のネガを管理する仕事を続けてきたのだが、会社の合併によってそれも風前のともしび。しかも、そこで世界的写真家が送って来た写真を紛失するという致命的な事件が起こる。
     このままではクビは間違いない。そこで、かれは写真家が送って来たほかの写真から推理して、かれの居場所を探し求める旅に出る。おどろくべきことに、それは、世界中を経巡ることになる大冒険の始まりだった――。
     いや、ほんとうにすばらしい映画だった。べつだん、歴史にのこる大傑作といったものではないかもしれないが、ぼくは好きだ。こういう映画を観たくて、足しげく映画館に通っている。
     リアリティという意味ではツッコミどころが多いのだが、ぼくはそういうところは気にしない。気にするひとは評価が下がるかもしれないが、それは仕方ないところだろう。
     この映画のメッセージはシンプルだ。「たとえ無駄に思える仕事でも、評価してくれているひとはいる」。そして、「行動せよ」。
     物語はある種の予定調和のまま進んでいき、終わる。ある程度映画を見なれているひとは予告編さえ見れば結末が予想できてしまうだろう。しかし、それでも、いや、そうだからこそ、いい映画なのだ。
     この作品はひとのあるべき姿を示している。「行動せよ。そうすれば、世界はひらかれる」。そのメッセージは、まさにいま、ぼくが必要としているものだった。このタイミングでこの映画と出逢えた幸運に感謝したい。
     それにしても、この映画を観ていると、いったい映画とは何だろうかと考えさせられる。映画は「たとえ無駄に思える仕事でも、評価してくれているひとはいる」と語っているように思える。
     しかし、現実には往々にしてだれもそんな仕事を評価していない。どんなに一生懸命仕事をしたところで、世界的写真家に高く評価されたりすることはないのがシビアな事実だ。
     また、勇気を出して一歩を踏み出したところで、それが大冒険へとつながっていくことはめったにない。仮にあったとしても、サメに食われて終わるか、雪山に骸を晒すかすることになるのが関の山だろう。現実はきびしい!
     ほんとうはこの世に希望は存在しないのだ。映画が見せてくれるものは、しょせんは映画のなかで完結している夢まぼろしであるに過ぎない。
     しかし、それなら、映画は無意味なのか? 物語には存在する価値はないのか? そうではないとぼくは思う。あきらかに映画には価値がある。
     たとえそれが現実から遊離した架空の世界に過ぎないとしても、映画は、ひとはこうあるべきであるという規範を見せてくれる。世界はこのようにあるべきだという理想を示してくれるのだ。
     そう、映画がひとに訴えかけるのは、それが現実を反映しているからではなく、本来そうあるべき人間と世界の形をアピールしているからだ。
     文学や音楽がそうであるように、それは、現実世界を何ら変えられないかもしれない。無力で無意味なものかもしれない。それでも、一本の映画を胸に立ち上がるひとは絶えないだろう。それこそが映画が持っている至上の力なのだ。
     『LIFE!』に話を戻そう。 
  • 村上春樹というカメラの精密さについて。

    2014-04-15 22:24  
    50pt


     だれに話しても「いまさら」と云うかもしれないが、村上春樹の『1Q84』を読みはじめた。
     数ある村上作品のなかから、この長編を選んだことに特に意味はない。ただ、ふと手をのばしたところにその本があった。それだけのことである。
     ぼくは『ノルウェイの森』も、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も、『海辺のカフカ』も読んでいないにわか読者なので、読みさしの内容について多弁を弄するつもりはない。
     ただ、やはりその並外れて端正な内容には圧倒される。文章、構成、人物造形、風景描写――小説世界を構成する要素の一々が、あたりまえのように洗練されている、その凄み。
     特に、くせのないシャープな文章は、読んでいてため息がもれるほど美しい。もちろん、いたずらに美文を弄しているわけではない。そうではなく、細部に至るまで怠りなく意志が込められたその高いクオリティを「美しい」と形容したいのである。
     村上春樹は、ことさらに文章技巧を衒うことをしないが、まさにそうだからこそ、かれの文章には完成された美意識が宿る。感嘆するよりほかない。
     文章には、うまく書こうとすればするほど、どうしても厭味がにじみ出てくる一面がある。ひととは違う表現を用いよう、ほとばしる才気を感じさせよう、そういうことを考えると、とたんに文章は厭らしくなる。
     表現を通し自分自身の技量を誇ろうとすればするほどに、言葉は濁る。じっさい、そのせいでひどく濁った厭らしい文章を書いているぼくが云うのだから間違いない。
     文章の品格とは、そういう「我」を抑え、あたりまえのことをあたりまえに書くところから生まれる。そういう意味で、村上春樹の文章はどこまでも上品で、かつ花やか、さすが日本最高のベストセラー作家だ。
     何より、恐ろしく読みやすい。果てしなく描写に淫し、細部に耽溺していながら、それでもなお、異常にリーダビリティが高い。何百万人ものひとが読める文章なのだから当然だが、その一切力みがない書きようはやはりすばらしい。
     つまりは、村上の文章は 
  • 同人誌『戦場感覚』宣伝。

    2014-04-15 14:38  
    50pt
     同人誌通信販売の宣伝として、以前、『戦場感覚』をコミックマーケットに販売するときに書いた文章を転載しておきます。なお、本文中に送料込み1300円で販売とありますが、現在の価格は同条件で800円です。以下からお買い求めください。
    https://spike.cc/p/dD23B3S9
     ちなみにその半年前に出した同人誌『BREAK/THROUGH』もやはり800円です。
    https://spike.cc/p/pzKHubR0
     『戦場感覚』と『BREAK/THROUGH』を合わせてご購入いただくと1500円でお買い求めいただけます。
    https://spike.cc/p/6r9vgAr0
     安っ。ちなみに2冊とも12~13万文字程度の分量があります。
     なお、もし、クレジットカードがなくて買えないという方がいたらkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまでメールをください。銀行振込も受けつけます。
     さて、それでは、『戦場感覚』の宣伝をお読みください。ちなみに、あくまで当時の情報の転載であって、今年の夏コミに参加するということではありません。念のため。
    ■お知らせと目次■
     そういうわけで――といっても、何がそういうわけなのかわからないかもしれませんが――今年も夏のコミックマーケットにおいて新刊を発売いたします。前々から告知していたとおり、タイトルは『戦場感覚 ポラリスの銀河ステーション』となります。
     前回に続いてサークルスペースは落選したので(なぜだ!)、今回も敷居さんのところに委託させていただくことにしたいと考えています。
    8月14日(日)東地区P-26a
     ぼくは当日、このスペースにいます。ぜひ遊びに来てください。今回もコミケのみ配布のおまけディスクを作ろうかとか考えていますが――疲れ果てたので作らないかもしれません(笑)。
     いや、今回はほんとに疲れた。疲れたんだよ、パトラッシュ。本来、ぼくは前回ですべてを出し切ってしまうつもりでした。つまりまあ、真っ白な灰になって終わりたかった。
     しかし、前作『BREAK/THROUGH』を書き終わったとき、ぼくのなかではまだ燃えのこっているものがありました。まだ書けるな、と思わざるをえなかったのです。
     その直後は当然、一冊の本にするほどのアイディアはのこっていなかったのですが、それから半年が過ぎるうちに、いろいろなものが自分のなかにたまり、ふたたび新刊を出すよう促しはじめました。しかし――ああ、しかし、そこからが大変だった。
     前回の目標は「Something Orangeを超えること」でした。一冊の本として上梓する以上、ふだん「Something Orange」に書いている内容を遥かに上回る密度とテンションを実現させることが、前作を書くうえでの最低限の目標として浮かび上がってきたのです。
     そして、前作はそれを達成できたと思っています。あきらかに『BREAK/THROUGH』は「Something Orange」よりおもしろいし、また濃密だといまでも思っています。しかし、今回は二冊目です。前回と同じ程度のものなら、作る意味がありません。
     いや、アベレージを稼ぎながら何冊も本を出しつづけるひともいますが、ぼくはそういうタイプではない。やるからには、前作『BREAK/THROUGH』を超えるものでなければ意味がない、初めからそう思っていました。これはひとの評価は関係ありません。自分のなかで、たしかに前作を超えたと思えれば、それで良いのです。
     ところが、じっさいに書きはじめてみると、この前作を超えるということが意外にむずかしいことがわかってきました。そもそもぼくは前作の時点ですべてを出し切ることを目標においていたのです。つまり、前作にはほぼぼくのすべてがあるということになります。
     それからたった半年で、その「すべて」をさらに超克する。考えてみれば、無茶としかいいようがない話でした。とはいえ、前作の二番煎じのような本を出しても意味がない。だれよりもぼく自身が納得できない。そこで生まれてきたテーマが「戦場感覚」でした。
     これはぼく自身が抱えている想いを言葉にしたものですが、いつも戦場に生きているということの感覚です。これはむろん銃弾が飛びかうじっさいの戦場を意味しているわけではありません。ただ生きるということ、それだけが「たたかい」なのだといいたいのです。
     詳細は同人誌に譲りますが、今回はこのアイディアを中核に置くことにしました。戦場感覚――この言葉が浮かんだのと並行して、内容はどんどん決まっていきました。それは前回の段階で構想していたものとはまったくべつの内容でしたが、ぼくにはあきらかにその構想より魅力的なものに思えました。
     前作が、ぼくがおもしろいと思うテーマを適当に並べたいわば「短篇集」だったとするならば、今回は「戦場感覚」という概念で一本通した、まさに「長編」です。長編ならば短編集を超えられるのではないか――ぼくはそんなふうに考えました。
     このもくろみは、おおむね成功したと思っています。今回も前回と同じく最終章でテンションがクライマックスにいたるよう計算して書かれているのですが、そのピークは前作のピークよりさらに高いものに仕上がっているといえるでしょう。つまり、最終到達点が更新されているのです。
     前作と今作、いずれがおもしろく印象にのこるかは、それはまあ、個人の価値しだいではあるでしょうが、少なくともぼくにとっては、前作以上に思い入れ深い一冊に仕上がったと思っています。
     今回は本当に真っ白な灰になりました。ここにすべてを蕩尽したので、もう何もアイディアはのこっていません。これを超えることはもうさすがに無理です。少なくともあと一年はチャレンジする気になれない。それくらいぼくにとっては自分のすべてを置いてきた本だといえます。
     ちなみに前作のとき、ラジオなどで聞いた話ばっかりといわれたことを根に持って、今回は意図的に情報をセーブしました。したがって、「Something Orange」などで見たような内容はほとんどないはずです。新鮮な感触を得られると思います。
     本のサイズはA5でページ数は144枚。前作と完全に同じサイズ、同じ厚さとなっています。その意味でも、これは前作と対になる一冊といってもいいでしょう。もちろん、内容は完全に独立していて、前作とは一切関係ありませんが、前作とあわせて読んでいただけるとよりおもしろいのではないかと考えます。
     前作も刷りなおしましたので、近々再販します。前回入手しそこねた方はあらためて入手されて読まれてみると楽しいかな、と。
     ちなみに今回はゲスト原稿はほとんどありません。レスター伯による「解説」を除くと、原稿用紙400枚強、すべてぼくが書きました。それも執筆が難航した原因のひとつかもしれません。まあ、量が多すぎた。個人的にはそれくらいの分量がないと読みごたえがないと思うんですけどね。「長編」だし。
     価格は前作同様、コミケ価格1000円。通販価格1300円です。とにかく、ぼくにとっては「一応はこれで死ねるな」と思うくらい全力投球の一冊になっています。そのため、決して気楽に読み捨てられる本当はいえないかもしれません。しかし、熱量には自信をもっています。熱いよ。夏なのに。
    序幕「発端」
    第一部「α」
    第一幕「エスカレーション」
    始発駅「アルデバラン――戦場感覚」
    第二駅「ベテルギウス――レジスタンス」
    第三駅「プロキオン――ただ一本の「道」」
    第四駅「ヒアデス――穴のあいたパラシュート」
    第二部「Ω」
    第二幕「殺人事件」
    第五駅「リゲル――ハートカットガールズ」
    第六駅「カストル――ひとでなしとひとと」
    第七駅「ポルックス――タナトスのエロス」
    第八駅「プロキオン――遙かなる中原へ」
    第九駅「カペラ――あいのうた」
    第三部「αでありΩ」
    第三幕「言葉、言葉、言葉」
    第十駅「カノープス――メメント・モリ 花のテーマ」
    第十一駅「プレアデス――修羅の生命螺旋」
    第十二駅「シリウス――星は生きている」
    終着駅「ポラリス――ポラリスの銀河ステーション」
    終幕「きみにささげる花束」
    ■各章内容解説■
    ●序幕~終幕
    「ああ、海燕さん、最近大変みたいですね」
     開口一番、ペトロニウスさんはそういってくれた。いつものことだが、このひとの声には何かひとを安心させるようなものがある。決して穏やかなだけの人柄ではないはずだが、それでも何かひとをほっと安堵させるようなふしぎな「力」があるのだ。ぼくはそういってもらったことで、自分がどれだけ消耗していたのか、初めて気づいたくらいだった。
     前回に続いて評論と並べて小説が掲載されます。今回は落ち目のもと人気ブロガー「海燕」を主人公にした私小説ふうの作品になっています。「Something Orange」をお読みの方にはおなじみの(?)かんでさん、ペトロニウスさん、敷居さんなどが登場します。このうちひとりは死にます(笑)。いろいろと洒落にならない話であるかもしれません。
    ●始発駅「アルデバラン――戦場感覚」
     わたしたちは戦場を生きている。銃弾が飛びかい疫病がはやる最前線で、血をながし泥をすすり戦いつづけている。過酷な日々に心は乱れ、肉体は病む。魂は嗚咽し、神経は狂う。それでも逃亡は許されない。そもそも逃げる場所などない。その戦場は現代社会といい、わたしたちはひとりのこらずそこに住んでいるのだから。
     「戦場感覚」に対する解説を開始する第一章です。ちなみにこの本では、各章は「駅」と題され、星の名前が付いています。各地の銀河ステーションをおとないながら、広漠たる大宇宙を旅していくイメージです。終着駅は「ポラリスの銀河ステーション」。これはあるたましいの銀河旅行の物語なのです。
    ●第二駅「ベテルギウス――レジスタンス」
     かれらが考える「悪いこと」とは「教室内での「身分」をわきまえないこと」であり、それに比べれば殺人ですら決して「悪」とはいえないのである。このようなある集団での支配的な価値を、わたしは「覇権価値」と呼ぶ。ひとりひとりのいじめ加害者は、実は教室空間の覇権価値である空気至上主義の奴隷であるに過ぎない。
     「いじめ」や「差別」をテーマに、ひとをそういった悪に加担させるものについて考察しています。ひとを悪へと導くもの――それは「蛇」と「システム」。ひとは内なる蛇に誘惑され、外なるシステムに操られて悪を犯す。それでは、どうやってそれに対抗するのか、というおはなし。
    ●第三駅「プロキオン――ただ一本の「道」」
     そう、おそらくは「少年」の生き方を最もよく表す言葉は、「道」である。地平線の果てまで続く、ただ一本の「道」。「少年」は果てしなくその道を歩みつづける。それが、それだけが、かれの生き方なのだ。
     「少年の夢」の話。「少年の夢」というテーマは前作でも扱いました。今回はそれをふたたび取り上げています。これが唯一、前作からひき継いだテーマです。というのも、前作を書き終えたあと、何か書き足りないという印象があったのです。もちろん、前作とはべつの角度から題材を切り取っています。
    ●第四駅「ヒアデス――穴のあいたパラシュート」
     「愛」は誘惑する。わたしを手にいれれば、お前の苦しみは終わるのだ、と。わたしはすべてを持っている。それを何もかもお前に与えよう、と。しかし、わたしたちは「愛」とは壊れたものであることをしってしまった。もはや無邪気に「愛」を礼賛することはできない。
     第三章のテーマが「少年」ということで、第四章のテーマは自然、「少女」に決まりました。少女といえば少女漫画、ということで、この第四章ではさまざまな少女漫画について語り倒しています。さらに桜庭一樹なんかについても語っています。何しろぼくは男なのでっわからないところも多いと想いますが、精一杯がんばりました。
    ●第五駅「リゲル――ハートカットガールズ」
     家族が寝しずまった頃、ひとりしずかにベッドから起きあがると、机の奥にしまった使い捨てメスを取り出し、そっと、肌のうえを滑らせる。既に何本もの線がはしる肌のうえに、また一本、赤い筋が出来あがる。まるで他人の肌であるように、痛みはほとんどない。それは「乖離」と呼ばれる現象であると、何かの本で読んだ。
     第五章のテーマはリストカットを初めとする「自傷行為」です。自らおのれのからだを切り刻み、傷めつけるというこのなぞの行為に、ぼくは「戦場感覚」を見て取りました。この平和な平穏な世界にあって、修羅の葛藤を生きる少女たち。ぼくは彼女たちを「ハートカットガールズ」と呼びます。
    ●第六駅「カストル――ひとでなしとひとと」
     かれはこの世界は流刑地であるといってはばからなかった。ほんとうにあるべき「真世界」を離れ、なぜともしれず誤って生まれてしまった流刑の地。そこで生きていかなければならないという絶望。
     戦場感覚は、自然、「ひとでなし」というイメージを呼び寄せます。乙一、シオドア・スタージョン、江戸川乱歩、中井英夫といった作家たちの作品を取り上げています。また、有川浩のことを少しばかり批判的に語ってもいます。有川浩は「ひと」の作家であり、「ひとでなし」の文学とは相容れないと思うのです。
    ●第七駅「ポルックス――タナトスのエロス」
     それでは、そのゴスが戦場感覚とどのようにかかわるのか。いうまでもない。戦場と死は兄弟の関係にあるのだから、戦場感覚とゴスもまたきわめて近しい間柄といえる。わたしは、戦場感覚者のグランドテーマとは「戦場である世界でいかに生き抜くか」であると書いた。しかし、「世界は戦場である」というグランドルールからは、自然、負けても良い、死んでもかまわないというもうひとつの価値も導きだされるはずである。
     折り返しの第七章。この章では、一時期はまっていた「ゴシック」について語っています。ゴシックミステリやテクノゴシック、ゴスの沃野は広漠無辺なのですが、一章で語れるかぎりのことを語りました。知識不足から人形愛について語れなかったことは残念です。まあ、仕方ないけれど。
    ●第八駅「プロキオン――遙かなる中原へ」
     そして、いつ果てるともなく続く、孤独な戦い――それは、「不信」という病をともなっている。ひとが信じられなくなるという、病。それはあまりにも当然のことだ。なぜなら、たやすくひとを信じれば、いつ裏切られるともわからぬのだから。そうして、裏切られたら最後、待つものは死だ。だから、ナリスにしろ、イシュトヴァーンにしろ、物語が進むにつれ、ひとを信じることができなくなっていたのだ。
     前作に続いて、作家栗本薫を取り上げています。ただし、前作が『グイン・サーガ』の一登場人物に焦点を絞ったのに対し、今回は栗本薫の作品世界全体を取り上げるものになっています。栗本こそは戦場感覚の作家です。彼女の全作品、ボーイズ・ラブからヒロイック・ファンタジーにまで共通する要素が戦場感覚なのです。
    ●第九駅「カペラ――あいのうた」
     あなたはかけがえがない。わたしもまた、かけがえがない。世界はかけがえのない音で満たされた、二度とは再演されない音楽である。わたしはそんな世界を、わたし自身を愛する。
     第二部を締めくくる第九章のテーマは「愛」です。この世に無償の愛、無条件の愛というものが存在しえるのか。存在しえるのだとすれば、それはどのようなかたちを採るのか。そんな内容となっています。気恥ずかしいような話ですが、おもしろいのではないかと。そして本書は怒涛の第三部に突入します。
    ●第十駅「カノープス――メメント・モリ 花のテーマ」
     栗本薫のボーイズラブ作品におけるレイプ描写が趣味的なものではありえないように、虚淵の少女に対する加虐描写も単に趣味的なものではない。それはこの世の真実を描き出している。
     第三部開始。この第三部はひとつづきの話となっています。つまり、この第十章から第十三章まではほんとうはひとつの章なのです。この章では『魔法少女まどか☆マギカ』などを取り上げながら、テンションを上げていっています。ほんとうは奈須きのこと虚淵玄で一章を割く予定もあったのですが、結果的にはそうはなりませんでした。
    ●第十一駅「プレアデス――修羅の生命螺旋」
     おとぎ話のハッピーエンドはいつもこのように語られる。「そしてふたりはいつまでも幸せに暮らしました」。この「いつまでも続く」ということこそ、「幸せ」の理想であるといえるだろう。だが、それを「幸福」と呼ぶならば、「いまある状態からさらに高くまで駆け上がりたい」という想いを何と呼ぶべきなのか。
     『AIR』のことなどを語っている章です。この章の役割は、続く十二章、十三章への橋渡しといっていいでしょう。このあたりからいよいよテンションは上がりはじめ、読むほうもおそらく何かしらのドライブ感をもって読めると想います。いよいよクライマックスなのです。
    ●第十二駅「シリウス――星は生きている」
     わたしたちは、すべてのことに慣れ、何もかもあたりまえだと思ってしまっている。りんごの木にりんごの花が咲く? なんだ、あたりまえじゃないか、というふうに。しかし、わたしたちが幼い頃、それは決してあたりまえなどではなかったはずである。それはまさに驚異の事実であったはずなのだ。
     十三の駅を経巡る「銀河鉄道の旅」も、ついにシリウスまでたどり着きます。この章で語られているものはチェスタトンの「正統」の思想です。ほんとうはこの章を最終にもってくる予定だったのですが、そこからさらなる高みをめざすために、十三章構成ということになりました。が、この章のテンションも高いと思います。
    ●終着駅「ポラリス――ポラリスの銀河ステーション」
     そうして、どれくらい時間が経ったことだろう。周囲を見まわせば、いつのまにか金いろ銀いろの雪がはらはらと降りしきり、降り積もっている。どこからか銀河ステーション、銀河ステーションと告げる声が聴こえる。ああ、いつのまにかずいぶん遠いところまで来てしまった。ふりかえってみれば、ほら、地球があんなに小さい。そうか、いよいよ空へ還るときが来たのだ。さようなら。さようなら。さようなら。わたしはついに「わたし」から解放される。
     そうして、旅の終着点、「ポラリスの銀河ステーション」です。北極星をめざす旅は、ここで終わることになります。北極星とは何の象徴なのか? それはお読みいただければわかることと思いますが、まあ、この旅そのものがひとの人生の暗喩といっていいでしょう。作中のテンションはついに最高潮に達し、そして潮がひくようにしずまっていきます。
    ■サンプル■
     本編第一章をサンプルとして公開します。
     始発駅「アルデバラン――戦場感覚」
     0.出発。
     甲高く汽笛が鳴り、車掌がゆっくりと手をふると、星の平原を往く黒い列車は、颯爽と走りはじめる。
     銀河列車、出発進行。
     1.戦場感覚とは何か。
     わたしたちは戦場を生きている。銃弾が飛びかい疫病がはやる最前線で、血をながし泥をすすり戦いつづけている。過酷な日々に心は乱れ、肉体は病む。魂は嗚咽し、神経は狂う。それでも逃亡は許されない。そもそも逃げる場所などない。その戦場は現代社会といい、わたしたちはひとりのこらずそこに住んでいるのだから。
     いまから「戦場感覚」の話をしよう。戦場感覚。それは文字通り、自分は戦場に生きているという感覚である。まどろみに似た平和が続くわが国だが、ある種の人々はこの感覚をもって暮らしている。むろん、それは本物の兵士の感覚とは異なるだろう。しかし、世界をひとつの戦場と考え、人生を不断の闘争と捉えるなら、どれほど平穏な時代にも戦場感覚の持ち主がいて当然ではないだろうか。いまこうしているあいだにも、世界各地では無数の「戦い」が続いている。軍隊による戦闘行為ではない。もっと象徴的な意味での「戦い」。本書全編を通じ、わたしはその意味での「戦い」について語るつもりである。どうか飛ばさず読みすすめていただきたい。
     さて、本書の内容はすべて上記の「現代社会は戦場である」という事実から演繹されている。事実。そう、わたしにとってこの一文は動かしがたい事実である。あるいは、こう書けば、あなたは失笑していうかもしれぬ。戦場だと。現代ほど恵まれた時代がないことを知らないのか、きみの戦場はひとりも死者を出さないらしいな、と。わたしは答える。死者ならいる。およそ年間三万人も、と。この数字は日本の年間自殺者数である。わたしたちの戦場では、兵士は自ら頭を撃つ。そこでは敵味方の区別が定かではないから、最後には自分を撃ちぬくほかなくなるのだ。わたしたちは自分殺しの戦場を生きている。
     ただ、早合点しないでほしい。わたしは日本の自殺率の高さ(2010年時点で世界第6位)そのものを問題にしたいわけではないし、政治や経済の問題について語りたいわけでもない。わたしがいまから語ろうとしていることは、必ずしも現代特有の問題ではない。いまより花やかに見える80年代、90年代も、社会はやはり戦場であった。より正確にいえば、社会を戦場と感じる人々は存在した。かれらは自分が戦場の住人だと「知っている」。知識ではなく、実感で理解している。それが戦場感覚である。
     あなたはこの感覚を理解できるだろうか。何か大げさなことをいっているとしか思われない方が大半かもしれない。それでは、あなたは生きていることが辛いと感じたことはないだろうか。特に理由もなく、ただ何となく苦しく、いたたまれなく、消えてしまいたいと思ったことは。もしあるのなら、あなたは戦場感覚を推測できる。戦場感覚とは、つまり日常的にその種の苦悶と戦っている感覚である。
     戦場感覚者にとって、世界は楽園ではない。むしろそれは困難にみちた荒野である。かれは楽園を否定しないが、自分自身はどうしようもなくそこから疎外されていると感じている。戦場感覚者とは楽園のアウトサイダーなのだ。
     「アウトサイダー」。それはコリン・ウィルソンの著書のタイトルだ。ウィルソンはその本で、サルトル、カミュ、ロレンス、ゴッホ、ニジンスキー、ドストエフスキー、ブレイク、グルジェフといった人々を「アウトサイダー」として並べあげた。この世界の倫理や常識の外側(アウトサイド)にいる人々、というほどの意味である。そして、ウィルソンは、かれらアウトサイダーは何億という「インサイダー」たちよりはるかに優れた人種なのだと力説した。インサイダーがのんきに眠りこけているとすれば、アウトサイダーはまさに覚醒しているのだと。
     ウィルソンのアウトサイダーとわたしがいう戦場感覚者には共通項も多い。しかし、根本的なところが違っている。アウトサイダーが多く孤高の天才であるのに対し、戦場感覚者はときに強い劣等感、自己否定感を抱えているという点である。なぜなら、かれは世間の人々があたりまえにこなすことがどうしてもできないからだ。たとえば戦場感覚者はときに部屋から一歩外へ出るだけのことにも深刻な恐怖を感じる。いうまでもない、そこが戦場だからだ。戦場感覚者にとっては、時にただあたりまえの日常を生きるだけのことも「戦い」なのだ。
     もっとも、必ずしも戦場感覚者がわかりやすい被害体験を抱えているとは限らない。何か明確なスティグマを抱えているものもいるだろうが、そうでないものもいる。そして、何の被害体験もなくても、深刻な「生きづらさ」と戦っているものはみな戦場感覚者である。そういったものにとっては、たとえば教室に一歩足を踏みいれることがひとつの「戦い」なのだ。戦場感覚者にとって世界は戦場であり、生きることは戦いである。わたしは戦場感覚の根底をなすこの事実を、すべてのルールの大元にあるルールという意味で「グランドルール」と呼ぶことにしたい。
     戦場感覚者にとって、グランドルールは世界の最も根本的な理である。グランドルールを骨身にしみて認識するところから、戦場感覚者の人生は始まる。そしてまた、グランドルールからは必然的にひとつのテーマが導きだされる。即ち、「戦場である世界をどう生き抜くか」。これを、戦場感覚者にとっての究極のテーマという意味で「グランドテーマ」と呼ぼう。戦場感覚的な物語は、自然、このグランドテーマに沿ったものとなる。
     本書では乙一、栗本薫、桜庭一樹、虚淵玄といった作家たちの戦場感覚的作品を取り扱う。かれらの作品は、その苛烈さ、容赦のなさが共通している。しかし、それは決して趣味的なものではなく、かれらの戦場感覚から導きだされた必然なのである。かつて岡崎京子は著書『リバース・エッジ』に一篇の詩を付した。ウィリアム・ギブスン「平坦な戦場で僕らが生き延びること」。本書もまた「平坦な戦場で生き延びること」を巡る本だ。願わくは、本書がひとりでも多くの戦場感覚者の友とならんことを。
     2.コギト。
     しかし、そう、先走りすぎたかもしれない。まずは何をいっているのかわからないというあなたのために、レッスン1を開始しよう。まず、「あなたに見えている世界はあなただけのものである」と納得してもらいたい。
     簡単な話だ。わたしたちは同じものを見るときも、ひとりひとり異なる主観を通しそれを見ているということ。たとえば同じりんごを見るときも、異なる観点で見ているはずである。極論するならわたしたちはそれぞれべつのりんごを見ているといえる。その意味で、わたしたちは孤独だ。どんなに大勢の仲間といるときもひとり。なぜなら、自分に見えている世界を分けあうことはできないのだから。愛する恋人が何を考え、何を想っているのか、その本当のところは一生わからない。コギト・エルゴ・スム。わたしたちは絶対孤独という牢獄の囚人である。
     もうすこしわかりやすい話をしよう。トロンプ・ルイユ(だまし絵)と呼ばれる絵画技法がある。ある一枚の絵が、見方により異なる絵柄に見えてくるというものだ。それはひとの主観の奇妙を思い知らせてくれる。ある部分を背景として見たときと、人物として見たときでは全く違うものが見えてくるふしぎ。このふしぎが世界そのものにもあてはまる。世界とはひとつのだまし絵なのだ。ふだんはなかなかそうとは知れないものの、わたしたちの主観は百人百様である。客体はひとつ。しかし、ひとはそこに主観的な「感想」を上書きする。熱烈な信仰者の目に壁のしみが聖者の顔に見えたりすることはその典型であろう。
     そう考えると、ひとによってある物語の見え方が違ってくることは必然である。わたしたちが小説や映画で物語を楽しむとき、当然、それぞれ異なる感想が生まれる。しかし、一方でその作品は感想がひとつにまとまるよう計算されており、自然、メジャーな感想とマイナーな感想というものが生まれる。たとえば、人魚姫が泡になり消えていく場面の感想は「人魚姫が可哀想」というものが大方を占めるであろう。しかしまた、「人魚姫の生き方は美しい」という感想もありえる。前者は憐憫、後者は讃嘆である。
     前者の見方を採る人物にとって、人魚姫の物語はあくまでも悲劇と映る。後者の見方を採る人物にとっては必ずしもそうではない。かれは、たしかに人魚姫は泡になり消えたが、恋に殉じたその生き方は素晴らしい、と捉える。その意味でこの物語は必ずしも悲劇はいえぬ、と。ここには思想の差異がある。前者にあるものは不幸を哀れむ思想であり、後者は不幸と戦うことを称える思想である。前者は「結果」を見、後者は「過程」に注目する。わたしが本書で取りあげたいのは後者の思想だ。その「結果」がどうであるかではなく、そこにいたる「過程」をこそ問い、「戦うことそのもの」に価値を見出す思想。それは戦場感覚者の価値観である。そこには「戦うもの」に対するリスペクトがある。その思想においては、人魚姫は一方的な同情の対象ではない。同じ「戦い」を戦う同志である。彼女は敗れたかもしれぬ。しかし、その生涯そのものは崇高であった。戦場感覚者はそう考える。
     これは社会の結果主義と真っ向から対立する思想だ。現代社会において、わたしたちは何より「結果」を求められる。ある意味で公正なことである。畢竟、「過程」など計測しようがないのだから。結果主義は正しい。しかし、わたしたちはその「正しさ」に疲れてはいないだろうか。結果主義の行き着くところは順位表である。わたしたちの人生は順位表に縛られている。わたしたちは「競争」こそ生の本質だと錯覚してすらいる。より座り心地の良い椅子、それこそが人生だ、と。
     わたしはその価値に「否」を突きつけよう。人生とは座り心地の良い椅子ではない。人生とは、果てしなく続く歩みそのものである、と。かつて順位表を人間の存在価値そのものにまであてはめようとする学問が存在した。悪名高き優生学である。優生学は生命の価値を優生と劣生に分け、劣生とされた生命を社会から排除しようとした。その思想がかのナチスドイツによる大量虐殺の思想的背景となったことは有名である。いまではだれもナチスの暴挙を支持しないことだろう。しかし、どうだろう、わたしたちの内面には、いまなおこの優生思想が根を張っていはしないか。
     あなたはいうかもしれない。わたしは何ら人種偏見を抱いてはいないし、遺伝学の知識もある。わたしにとって優生学など過去の悪夢であるに過ぎない、と。本当にそうだろうか。それではなぜ、わたしたちは大半が自分の子供に五体満足であってほしいと願っているのか。親として、あまりにも当然の願いではある。しかし、この祈りはじかに優生思想に繋がっている。自分の子供に障碍があってほしくないと願うことは、この世に障碍者がいないほうが良いと願うことである。ここには「内なる優生思想」がある。内なる優生思想はわたしたちに優しく囁く。劣生なる「生」は、周辺に多大なる迷惑を及ぼすばかりか、本人にとっても不幸である。わたしたちは本人のためにもかれらの人生を静かに閉ざしてやるべきなのだ。むろん既に生きている人間を殺すことはナチスの悪夢の再現だ。だからより良い方法を用意した。生まれてくる前に「生」を断ってしまうのだ。それなら、不幸な人生を未然に予防できるばかりか、倫理的にも何ら問題はないではないか、と。
     このようにして選択的中絶のシステムが生まれた。選択的中絶の「選択」とは、遺伝子の選択を指す。現在、生まれてくるまえの子供を遺伝子調査し、中絶することは一般に行われている。このシステムによってわが子を中絶した両親は罪悪感すら抱かずに済むかもしれぬ。嬰児を殺したわけではなく、単に受精卵を潰しただけなのだから。ひとつの科学の夢。いずれ遺伝子調査の技術がいまより進歩したなら、すべての先天的な障碍を未然に調査し中絶することが可能になるかもしれぬ。それはすべての人間が「健常」な肉体と精神を持つ社会へと繋がる。それは楽園だろうか。一面ではそうである。しかし、それは「障碍者」と呼ばれる人々の「生」を否定する優生思想的な社会でもある。
     障碍者などいないほうがいいに決まっているではないか、とあなたはいうかもしれぬ。本人にとっても、その「生」は苦痛であるに違いないのだから、と。しかし、それはやはり「健常者」の思いあがりである。むろん、すべての「障碍者」が幸福な人生を送っているはずもないが、それは「健常者」であっても同じことだ。障碍と不幸を等号で結ぶ根拠はない。仮にすべての「障碍者」が不幸な人生を歩まざるをえないとするなら、それは社会の責任だろう。
     3.ヒューマンエンハンスメント。
     一方、魔術的な現代社会においては中絶以外の方法で「生」を曲げる方法も存在する。ヒューマンエンハンスメント(人体強化)である。
     エンハンスメントとは、先天的、あるいは後天的に人間存在を強化しその能力を増進させようとする方法を指す。たとえば薬物投与やサイボーグ化による能力増強はエンハンスメントにあたる。エンハンスメントを否定することはむずかしい。たとえば、わたしがふだんかけている眼鏡などもある種のサイボーグ化であり、エンハンスメントである。視力回復、増進をもたらすレーシック手術もエンハンスメントにあたるだろう。エンハンスメントは既に社会に深く入り込んでおり、わたしたちはもはやそれを放棄できない。
     エンハンスメントの魅力を、たとえば森薫の漫画『エマ』に見ることができる。作中、主人公エマが初めて眼鏡をかける場面がある。それまでぼやけていたエマの視界は、一気に鮮明に変わる。見える! その感動は彼女の人生を変革する。なんぴともこのエマの感動を否定できないだろう。
     しかし、だからといってエンハンスメントを全面的に受け入れることはできない。たとえばマラソンレースを1時間で走り切る人間、円周率を百万桁まで暗唱できる人間、そういったエンハンスメントに、あなたは何か不気味なものを感じないだろうか。そこには、何かが間違えているのではないか、と思わせるものがある。
     このエンハンスメントの問題について、昨今、日本でも有名になったかのマイケル・サンデルが本を著している。その本『完全な人間を目指さなくて良い理由』のなかで、サンデルは、エンハンスメントは生命の被贈与性を損なうと記している。ひとにとって新たに生まれてくる生命はすべて「贈り物」であるべきであり、それを好き勝手に改造することは何かしらの道徳的退廃をもたらす。わたしたちは「招かれざるものへの寛大さ」を保持するべきなのだ、と。宗教的に過ぎる信条だと思われるだろうか。しかし、ここには何か真実の響きがある。生の被贈与性。それこそ生命の本質ではないか。ある意味でそれはわたしたちの「生」の実感から最も遠い概念であるかもしれぬ。わたしたちは「生」を操作可能なものとして扱うことに慣れている。が、それはわたしたちの「生」を根底のところで損なっているとも思うのだ。
     エンハンスメントはスポーツの世界にも忍び寄っている。最もわかりやすい例はドーピングである。しかし、そもそもドーピングの何が悪いのだろうか。肉体の健康を損なうことか。それなら将来、無害な薬物が開発されたならドーピングを受け入れるべきなのか。それができないとしたら、なぜだろう。ドーピングは競技の公正を損なうという見方もある。それなら全選手が「公平に」ドーピングを行うようになったらどうだろう。あるいは通常のオリンピックとはべつに「ドーピングピック」を開いたら。
     それは観客の興味を集めるかもしれない。そこには100メートルを8秒で駆け抜ける選手、500キロのバーベルを持ち上げる選手などが登場するだろう。わたしたちは人類の常識を絶した奇跡の目撃者となる――しばらくして見飽きるまでは。そう、それはたしかにおもしろい見世物ではあるに違いない。しかし、それはスポーツの本質を致命的に損なっている。それはけっきょく見世物にとどまるだろう。なぜなら、ある選手が薬物を用いて素晴らしい成果を収めたとしても、素晴らしいのは薬物であって、選手ではないことはあきらかだからである。それはスポーツとはべつの概念として――たとえば、最新強化薬物の品評会として――意味を持つかもしれないが、少なくとも観衆に感動を与えるとは考えがたい。わたしたち人間は最速の選手ですらチーターより鈍足だが、だれもそれを恥ずべきこととは思わない。スポーツの本質はそこにはないのだ。
     わたしたちがスポーツに感動するのは、そこに積みあげられた時間を見るからである。わたしたちはある選手が時速40キロで走るから感動するわけではない。そうではなく、その選手が、時速40キロで走るにいたるまで自分を鍛えあげた事実に感動するのである。いわば、わたしたちは金メダルという「結果」に圧縮された「過程」を見ている。そうでなければドーピングもサイボーグ手術もたいした問題ではないはずではないか。
     そしてまた、人生そのもの、「戦い」そのものを評価し、敬意を払う戦場感覚的価値観から見れば、エンハンスメントは無意味である。それは「結果」を改善する(時速200キロの球を投げる投手を作り出す)かもしれない。しかし、戦場感覚的価値観は「結果」を重視しない。それはあくまでも生きることそのものにこそ価値を見出す。そこには「順位表」はない。ランキングもヒエラルキーもない。わたしたちの社会には、たぐいまれな天才もいる。能なしの凡人もいる。「健常者」もいる。「障碍者」もいる。戦場感覚者の価値感は、かれらの「生」そのもの、「戦い」そのものに価値を見出す。その価値観では、たとえばホームレスの若者は社会の敗残者というより、より厳しい状況でタフに生き抜いている勇者として見えてくるだろう。
     最後に、そこから導きだされるわたしの信仰について話しておきたい。それは、すべての子供たちは祝福されて生まれてくるべきだという信仰である。いま、ある子供たちは涙と笑いに包まれて生まれてくるが、べつの子供たちを迎えるのは哀しげな沈黙である。が、本来、すべての「いのち」は祝福されていてしかるべきではないだろうか。新しく生まれてくる「いのち」、どこか遠いところからこの世界に呼ばれてやってきた「いのち」に対し、わたしは呼びかける。ようこそ、この世界へ。ようこそ、歓迎する。あるいはきみの「生」は苦しみとともに出発するかもしれないが、それだけで終わることはないだろう。たとえきみが生涯、自分の足で立ち上がることがないとしても、大丈夫、きみを支えようとする人々はたくさんいる。だから何も心配はいらない。安心してこちらへおいで。ようこそ、この美しき地上へ。ようこそ、この豊かな世界へ。何度でもいおう。ようこそ、ようこそ、と。
     わたしは信じる。いかなる重い運命を背負った子供も、あたたかな祝福の声に包まれて生まれてくる資格があると。それがわたしの信仰である。
     わたしは、信じる。
     4.「蛇」との戦い。
     しかし、この「信仰」に対してはすぐさま反論が返ってくることが予想される。それは綺麗事だ、なるほど「内なる優生思想」は悪であるかもしれぬ。しかし、それはいわば必要悪であって、わがもの顔で得々と理想論を語るお前にしても、現実に障害を持った子供ができたとき、その事実から逃避しないか怪しいものだ。お前の理論はしょせん机上の空論であるに過ぎない、と。
     的確な反論である。わたしはいくらでも正論を述べることができるが、いざそれが現実になれば、狼狽するに違いない。わたしは「わが子は障碍児でも健常児でもどちらでもかまわない」と言い切れるほど立派な人物ではない。内なる優生思想は紛れもなくわたしの心も蝕んでいる。しかし、それでもなお、わたしは「内なる優生思想」に屈服はしない。仮にわたしのパートナーが妊娠したとしたら、そのとき、わたしの「戦い」は始まるだろう。
     わたしは「そうはいってもやはり子供は健常であるほうが良い」と考える自分と直面するかもしれない。それは「わたしの内なる蛇」の誘惑の声である。蛇はわたしの耳元で囁く。障害児を世話することになったら、どれだけ手間がかかると思うのだ。それにお前は本当にそんな子供を愛せるのか。さあ、偽善的な道徳など捨ててしまえ。大人になって現実を見るのだ、と。はたして蛇の囁きを拒むことができるかどうか、それはそのときになってみなければわからない。しかし、ひとついえることがある。わたしは弱々しくも戦うだろう、ということだ。
     内なる蛇とは、むろん自分自身のことである。わたしの心の弱さや楽をしたいと思う気持ちを仮に「蛇」と呼んでいるに過ぎない。したがって蛇との戦いは「葛藤」と呼ぶべきだ。非情な現実を前にして、わたしは悩み、迷い、葛藤することだろう。そのプロセスが、即ち「戦い」である。わたしの「戦い」は孤独だ。なぜなら、それはわたしの内面で起こる「戦い」だからである。
     わたしはむろんパートナーと相談するだろう。あるいは両親や友人にも意見を求めるだろう。しかし、かれらがわたしの「戦い」を代わりに戦ってくれるわけではない。わたしはひとり、自分自身と戦わなければならない。わたしの内なる蛇は強力だ。それはさまざまな手段を用いてわたしを誘惑してくる。わたしは弱い。あるいは蛇の誘惑に敗れそうになるかもしれない。
     そのとき、何がわたしを助けてくれるだろう。それはやはり、同じような「戦い」を戦ってきた先達たちの存在にほかならない。わたしはただひとりわたしの内なる蛇と戦っているが、しかし、同じように自分のなかの蛇と戦った人々がいる。その事実は、わたしを勇気づけてくれるだろう。そしてまた、わたしがそうやって弱々しくも戦いつづけることが、遠くだれかを励ますことに繋がるかもしれない。そうやって、わたしたちの「戦い」は広がってゆく。戦場感覚とは、この「どこかに同じ「戦い」を戦っているひとがいる」という実感のことでもある。
     ここであげた「内なる優生思想」との戦いは一例に過ぎない。わたしたちは人生の様々な局面で「内なる蛇」や「外なるシステム」と戦うことになる。それを戦いと実感している人間が即ち戦場感覚者である、といういい方もできるだろう。
     わたしたちはみな、戦場に生きている。これは、世界のグランドルールである。一方で、あるひとはその戦場を楽園と思い、またあるひとは煉獄と認識する。そして、かれらにとっては、それはじっさいにその通りのものであるのかもしれない。しかし、わたしは世界を戦場と捉える。そしてそういうもの人々の「戦い」の話をしようと思う。かれらの敵はときに「蛇」であり、ときに「システム」である。
     次回以降では、さまざまな局面での「戦い」について語ることになるだろう。
    ■解説■
     レスター伯による解説を公開します。
     解説
    「やりたければやればいいよ
     それがお前の理屈なら
     じゃあ俺は俺の理屈で
     お前の内蔵を引きずり出して
     屈辱的な死に様を世界中に晒してやる」
    浅野いにお『うみべの女の子(1)』
     どうも、レスター伯です。何の因果か、『戦場感覚 ポラリスの銀河ステーション』の解説を書く事になりました。「いや誰だよ、お前?」という方も大量にいらっしゃるかと思いますが、何を隠そう、海燕さんから直々に解説の依頼を受けた僕自身が一番驚いている自信があります!
     まあ、そんな前置きは本当にどうでもいいので、早速解説に入ってしまいたいと思います。たった十枚程度の文章ですので気楽にお読みいただけたらと思います。
     本書は2010年の冬コミで頒布された『BREAK/THROUGH たとえあなたがエヴァに乗らなくても』に続く、海燕さんの二冊目の同人誌になります。
     前著巻末の予告とはいささか異なる内容になっていますが、分量・熱量ともに前著に負けない、むしろ上回る仕上がりになっている事は保証できます。
     解説を書くために予め原稿を渡された訳ですが、圧倒的な筆致が迫ってくる感覚は非常に心地よく、むさぼるように読み切ってしまいました。詳しくは後述しますが、特に中盤以降は書き手である海燕さんのテンションが如実に上がってきていることが文章を通して伝わってくるため、それにつられるかたちで読み手の側もえも言われぬ高揚感を味わうことができるでしょう。
     こうした至極の読書体験を得ることこそが、本書を読む最大の意義の一つだといえるでしょうし、もし先にこの解説を読んでいるという希少な方は震えて待っていただければよろしいと思います。
     こうした体験をできるのは、海燕さんという書き手がアジテーターとしての性質を強くもっているということに起因するのだと思います。本書は大量の小説・漫画・アニメーションを取り上げながら書かれているわけですが、評論というにはあまりにも主観に寄りすぎていわざるをえません。銀河を巡りながらポラリスを目指すという体裁をとっている『戦場感覚』は、前著『BREAK/THROUGH』以上に目的へと向かって突き進んでいくという性質が強い著作です。
     その意味で、本書はマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』がそうであるように、読者を導く、いや、煽動し歩ませようとする「アジテーションの書」であり、同時に海燕さん自身の理念と信念をぶちまけた「宣言の書」であるといえるでしょう。『BREAK/THROUGH』を紹介する記事を書いたときには「評論小説」という言葉で表現したのですが、本書を読んだ後ではその表現が非常にぬるく感じられます。
     そして、「戦場感覚」ほど「宣言の書」にふさわしいテーマはないでしょう。始発駅「アルデバラン――戦場感覚」で定義されているように、本書における「戦場」とは実際に銃弾が飛び交う狭義の戦場に限られている訳ではなく、むしろ僕たちが生活している日常空間に「戦場」は偏在していると定義されています。その上で「生きづらさ」と向かい合いながら、「戦場である世界をいかに生き抜くか」というグランドテーマを抱いて生きている者達のことを「戦場感覚者」と呼び、戦場感覚者である物語の登場人物や、彼らの生みの親で作家達の象徴的な「戦い」の軌跡が描かれているのです。
     また、世界の理の外にはじき出されているものの、その常人(「インサイダー」)よりも優越な存在だと見なされるような孤高の天才(「アウトサイダー」)と分類されるような人物だけでなく、むしろ他人から見れば何ということのないコンプレックスを抱えながらも、「日常空間」を支配するルールと戦い続ける無名の存在を取り上げようとする点も、海燕さんの戦場感覚の特徴の一つでしょう。例えば、より厳しい「戦場」に身をおいている戦場感覚者として障碍者に光が当てられ、たとえ苦しみにみていたとしても彼らの「生」は祝福されるべきであると高々と謳い上げられています。
     このように「生」という戦いの輝きを何よりも重視する姿勢は、海燕さん自身が戦場感覚者であり続けることを宣言していることに他なりません。確かに『Something Orange』や『BREAK/THROUGH』を通じて築き上げられてきた実績は、海燕さんをカリスマ的な「アウトサイダー」足らしめるには十分だといえます。しかし、海燕さんの本質は、数えきれないほどの作品や現象に関する文章を書く形で戦い続けてきたこと、そして今も戦い続けていることにあります。
     正直に告白すれば、僕は1年前まで海燕さんの存在を全く知りませんでした。それが前著『BREAK/THROUGH』で示された感覚にシンクロし、その共感に文章の力でドライブかかることで、海燕さんという存在に強烈に惹かれていったわけですが、その時にあったのは僕の目に入らなかった所で自分と同じような作品を体験し、同じような考えをもっている人が存在していたんだという感慨でした。その上で、本書『戦場感覚』を通じて、ようやく巡り会えた同志が戦ってきた歴史の重みと、そして今なお戦場で戦い続けている姿をまざまざと見せつけられたわけです。人間賛歌を高らかに謳い上げた前作以上に、その賛美と裏表の関係にある戦場感覚者達の戦いの輝き、美しさ、強さを描いた今作は、自身も戦場感覚者である海燕さんのレゾンデートルの証明たる作品になっているといえるでしょう。
     自己証明に関しては、テーマが戦いという事でアジテーションの色合いが単に強くなったという面だけでなく、文章や美に対するこだわりが強く打ち出されている点にも見いだすことができます。前著でもそうだったように感じたのですが、グイン・サーガと栗本薫論あたりを境に筆致が一気に勢いを増し、戦場感覚者たるキャラクター/作者の戦いの描写以上に、文章の力で読者をトリップさせてしまいます。それと同時に戦場感覚というテーマに貫かれた本書の「旅」も、「美」、「愛」、「死」、そして「生」といったより根源的なテーマをより深く追い求めるようになっていきます。
     本書『戦場感覚』における、こうした文章へのこだわりとテーマの選択は、「『美』の戦場」における文章での戦いを続けてきた海燕さんの戦いの軌跡を象徴的に示しているといえるでしょう。
     さて、ここまで解説のようなそうでないような何かを書き連ねてきたわけですが、少しばかり僕自身のことを照らし合わせながら、戦場感覚とは何なのか考えてみたいと思います。
     僕の大学時代の恩師は、学園闘争に身を投じた人でした。最近にわかに1968年に関する出版物が増えてきており、客観的な歴史として語られるようになってきている感がありますが、飲み会の席で僕は恩師から何度も繰り返し体験としての学園紛争についての話を聞かされてきました。
     もちろんセクトによって実態は様々であり、祝祭的な雰囲気があったことは否定できないでしょうが、学園紛争の時代の大学は間違いなく「戦場」であったといえるでしょう。真の革命の成就のために「ロシア語版」の『資本論』を輪読し、ソ連や北朝鮮に共産主義の夢をみた学生達の中には強烈な戦場感覚者が存在していたはずです。
     ただし、戦いを続けることはきわめて困難です。革命における最大のパラドックスとはその正否にあるのではなく、むしろ権力の転覆に成功/失敗した後にあるのです。つまり、革命という戦場が消失してもなお、戦場感覚を保ち続けることができるのか、それこそが問われるべき問題であるはずなのです。
     恩師は大学紛争が下火になった後に大学院へと進学し、最終的には国立大学の教授になるわけですが、常に自らが戦ってきた権威の下で安穏と学問を続けていくことに疑問をもちつづけていたといいます。大学を去り、職工として工場で働きながら、労働者として戦い続ける道を選んだかつての仲間に対するコンプレックスをぬぐい去ることは自分にはできないと語る恩師の姿は、今でも忘れることができません。
     幾分アナクロな話に聞こえるかもしれませんが、『戦場感覚』を読み切ったときに僕の脳裏に真っ先に浮かんできたのは恩師の姿でした。「権威に対して喧嘩を売ることができない学問に何の意味があるのか?」、「今世界中でおこっている紛争に対して、何のリアクションも示すことができない学者に存在意義はあるのか?」という問いかけは、形は違えど、本書において海燕さんが戦場感覚者として宣言したことは重なるのではないかと思うのです。
     豊穣な未来のために、戦場感覚が求められているのかもしれない。
     「サンディカリスムの神髄は、ソレルやマルクスが何と言おうと、“職場の主人公はあくまでもひとりひとりの労働者なのだ”という頑固なまでの自負が、直接、社会革命の回路につながっているところにある。
     ......もとよりサンディカリスムや自主管理社会主義に豊穣な未来が約束されているというわけではない。にもかかわらず、ひとつだけ言っておかねばならないことは、少なくともサンディカリスム的契機を欠いた社会主義や革命運動は、今以上に抑圧的な社会を生み出すだろうということである。」
    谷川稔『フランス社会運動史』 
  • 手数料無料のオンライン決済サービス「SPIKE」で、12万文字のテキストデータを売りに出してみる。

    2014-04-15 14:05  
    50pt
     手数料無料のオンライン決済サービス「SPIKE」で「カンパ」と「同人誌2冊」を売りに出して、1日が過ぎました。おお! カンパしてくれているひとがいる! 同人誌も売れている! ヒャッハー! ありがとうございます~。
     この同人誌はけっこう力を入れて書いたものなので嬉しいです。きょう中には本を発送いたしますので、到着までいましばらくお待ちください。同人誌の宣伝記事も再掲しようかな。
     いやー、しかし、買ってくれるひともいるものなんだなあ。しかも、手数料が一切かからないということはすばらしい。お客さまが振り込んでくれた額が100%ぼくの手もとに来るわけで、これは画期的なサービスと云うしかありません。
     しかも、基本的にだれが買ったのかもはっきりしている(住所氏名を入力していない場合はアカウントがわかるだけだけれど)。こちら側から連絡することもできる。その気になれば「顧客リスト」を作っていくことができるのです。まったく凄いサービスだと思う。いったいどんなビジネススタイルになっているのか謎だけれど……。
     まあ、とにかくありがとうございます。800円の同人誌が3冊と、カンパが3件で、現在、ダッシュボードに3300円と表示されています。いやー、嬉しい。この原初的な嬉しさ。たまらないですね。
     「note」も良いけれど、SPIKEがあればあまり使い道がなくなってしまうかもしれません。それくらいのインパクトがある。あとで不便なところがわかる可能性もあるけれど、とりあえずいまのところは簡単で快適きわまりない。
     さて、そこで、このブロマガの過去ログをSPIKEで販売してみることにしました。もう、いちいち電子書籍化したりしません! テキストデータです! ご購入いただくと、そのデータをダウンロードできるアドレスとパスワードを表示いたします(もし見逃してしまったらご連絡ください)。
    https://spike.cc/p/TvCvoCPH
     手抜きみたいに思われるかもしれませんが、何だかんだ云ってテキストデータが最高の電子書籍だと思うんだよなー。EPUBなんかよりはるかに扱いが簡単です。
     テキストデータなら、スマホやタブレットさえあれば、i文庫などのアプリで縦書きで読むことができます。そんなもの持っていないという方でも、当然、パソコンで読むことができる。コピーし放題ではありますが、まあ、そんなこといまさら気にしても仕方ないですよね。
     というわけで、今回はお試しとして「『ゆるオタ残念教養講座』過去ログ集小説記事編vol.1」を作ってみました。
     2012年8月から2013年5月までの小説にかかわる記事50本を集めたデータに書き下ろしのあとがきを付けて、なんと120223文字! 分厚い文庫本1冊くらいあります。これを、800円、いやさらに下げて500円、いやいやさらにさらにまけて300円!で販売いたします。もってけ泥棒!
     いま、過去ログ1本が52円に設定されていますから、50本の記事すべてをいちいち買って行ったら2600円になる計算。手間もかかるし、縦書きで読むこともむずかしい。
     それがわずか300円でお買い求めいただけるのですから、これはお買い得というものではないでしょうか? ちなみにこの300円という価格はSPIKEで付けられる最低価格なので、今後、これ以上安くなることはありません。ぜひぜひ買ってみてください。
     そうしたら売り上げはすべてぼくの懐に入ります。これが、そうですね、10部以上売れるようだったら次の「漫画記事編vol.1」を作りたいと思います。
     うまく行けばそのあとは「アニメ記事編」とか「論考記事編」(?)とかに続くかも。反対に、ここまでやってまるで売れないようだったらこれでやめにするかもしれません。
     さすがに、労力に見合わないからね。いや、過去ログから記事を探してきてまとめるだけでも、これだけの量となると、けっこう大変なんですにょろ。
     なお、今回の収録記事は以下のようになっています。

    ・№1 『ソードアート・オンライン』は『クリス・クロス』のパクリか?2012-08-23 
    ・№2 本日デビュー25周年! 綾辻行人の館シリーズをふり返る。2012-09-05
    ・№3 ひとつの内容を99通りの文体で表現している小説を紹介するよ。2012-09-08
    ・№4 「石炭のかわりに黒人を燃料にして走る列車」が出てくる小説を紹介するよ。・№5 10分でわかる『銀河英雄伝説』。2012-09-09
    ・№6 10分でわかる『グイン・サーガ』。2012-09-09
    ・№7 天才連城三紀彦、最高傑作。奇跡の短篇集『戻り川心中』を読む。2012-09-11
    ・№8 伝説の暗黒超傑作『ブライトライツ・ホーリーランド』を語る。2012-09-12 
    ・№9 『池袋ウエストゲートパーク』は時代をカットする。2012-09-15
    ・№10 日本初の疫学小説『エピデミック』は読みごたえ十分の力作。2012-09-16
    ・№11 バビロニアの女神の名を与えられた天才作家タニス・リー。2012-09-22
    ・№12 『天使の梯子』。2012-09-23
    ・№13 『詩羽のいる街』は山本弘のインナースペース。2012-09-29
    ・№14 本格ファンタジーの傑作『チャリオンの影』。2012-10-08
    ・№15 藤田和日郎が語るヤン・ウェンリー。2012-10-13
    ・№16 リアルな物語とは何か。『ぼくらの』と『スロウハイツの神様』で考える。2012-10-23
    ・№17 山本周五郎『日日平安』を読む。2012-10-24
    ・№18 『バガボンド』最新刊と『グイン・サーガ』続編企画に思う。2012-10-24
    ・№19 石田衣良の天才と弱点。2012-10-31
    ・№20 Kindleストアランキング2位! アマチュア作品がプロを超えるとき。
    ・№21 石田衣良『ブルータワー』は時代を象徴するSFだ。
    ・№22 本格ミステリのマイルストーン『りら荘事件』を読む。2012-11-08
    ・№23 才能という重荷を背負う生き方。「ギフテッド」の苦悩を乙一に見る。2012-11-24
    ・№24 非モテはなぜ非モテなのか。めざす「愛」の質的違いにリア充と非モテの落差を見る。2012-11-28
    ・№25 マクロとミクロは相克する。目の前の子供を救うか、その子を犠牲にし世界を救うかの問題。2012-12-03
    ・№26 俺の妹がこんなに健気なわけがない? 山本周五郎の時代小説に究極の妹萌えを発見した。2012-12-07
    ・№27 2012年のクリスマスを前に。その白き聖なる夜、ぼくが信じてみたいと思う夢について。2012-12-17
    ・№28 第一回団鬼六賞大賞受賞! 狂乱の官能小説『花祀り』を読む。2012-12-21
    ・№29 小野不由美『十二国記』を再読する。堅牢たる名文で綴られるその不思議な世界。2013-01-02 
    ・№30 尾崎紅葉の名作『金色夜叉』にろくでなし非モテの源流を見たよ。2013-01-06
    ・№31 ひとりも友達がいない12%の人種はどう生きればいいのか。孤独との付き合い方を問う。2013-01-15
    ・№32 ディオ・ブランドーの憂鬱。西尾維新は少年漫画屈指の悪役をどう再解釈し再構築したか。2013-01-16
    ・№33 『Fate/Zero』を熱く語る。血と暗黒の大傑作スペクタクルエンターテインメント。2013-01-21
    ・№34 『十二国記』のここが納得いかない。2013-01-24
    ・№35 ただいまセール中。いまさらといわず菊地秀行の名作『吸血鬼ハンター』を読もう!2013-01-26
    ・№36 俺の幼なじみがこんなに計算通りなわけがない。恋愛戦国時代の物語ダイバーたち。2013-02-10
    ・№37 何が欺瞞で何が真実なのか。この世界を戦場として受け止めること。2013-02-14
    ・№38 巨匠、貫禄の傑作。リチャード・マシスン『奇術師の密室』を読む。2013-02-23
    ・№39 田中芳樹『奔流』を読む。2013-02-27
    ・№40 幻想と奇跡の短篇集。スティーヴン・ミルハウザー『イン・ザ・ペニーアーケード』の風景。2013-02-25
    ・№41・ ライトノベル往年の傑作が十数年の時を超え電子書籍で復活! 2013-03-29
    ・№42 リア充幻想の彼方へ。友達さがしラノベは「脱ルサンチマン」に向かう(かもしれない)。2013-03-31
    ・№43 漫画もアニメもライトノベルも「混沌」から「秩序」へ向かっていく。2013-04-06
    ・№44 何が有川浩を人気作家にしたのか。ハッピーエンドの力を信じよう!2013-04-06
    ・№45 いま伝説が生まれる。奇跡の傑作『ソードアート・オンライン アリシゼーション』を読め!2013-04-13
    ・№46 名探偵伊集院大介。「魔法つかいのお婆さん」になりたかった男。2013-04-18
    ・№47 荒川弘による漫画化決定! 田中芳樹の名作『アルスラーン戦記』を5分で紹介するよ。2013-05-09
    ・№48 それは少女と愛馬の物語。村山由佳の最新長編『天翔る』に深く充実した読後感をおぼえる。2013-05-26
    ・№49 ぼくたちはこの社会に咎人を迎え入れることができるだろうか。2013-05-31
    ・№50 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』最終巻に感じるライトノベルの魅力と限界。2013-06-11

     このリストを作るのもけっこう大変だった……。そういうわけで、ウルトラ特価大安売りですので、ぜひ買ってみてくださいね~。ついでに同人誌も注文してくださるとさらに嬉しいです。 
  • 「産んでいいドットコム」で考える差別問題。

    2014-04-15 08:59  
    50pt
     イケダハヤトさんのブログで「産んでいいドットコム」というサイトがあることを知る。
    http://www.undeii.com/
     いつできたのか知らないが、Twitterを見ると、話題になっているのは最近のようだ。
     繊細な取り扱いを要する問題が絡んでいるのでじっさいのところはリンク先から飛んで読んでいただきたいのだが、あえてまとめるなら、出生前診断によって「産んでもいい障害」と「産まない方がいい障害」を分けることを提案しているサイトであるように思える。
     「産んでいい障害」とは、家族を苦しめない(あるいは苦しめる度合いが少ない)障害であり、「産んではいけない障害」とは家族を苦しめる障害であると説明される。
     つまり、「一部の障害は家族を苦しめるので、出生前診断によって判定し、中絶するべき」と主張しているように思える。これが「優生思想」だとして問題になっているわけだ。
     そして、じっさいこのサイトを読んでみると、ほぼダウン症を狙い撃ちしている感がある。しかし、それならダウン症に対する悪意に満ちた差別的なサイトなのかといえば、判断がむずかしいところだ。
     あるいは、書き手は心からダウン症の害を感じて、このサイトを作ったのかもしれない。書き手が何者で、どういう事情でこのサイトを作るに至ったのか、一切記述がないので、何とも判断できない。ここらへんはどうにも片手落ちではある。
     出生前診断と胎児中絶に関しては、実に長く複雑な議論があるのだが、ここではそれらを紹介して語ってゆくことはしない。図書館に行けば専門の本がたくさん置いてあると思うので、調べてみてほしい。こういう云い方をすることが正しいなら、実に興味深い議論が見つかるだろう。
     ぼくは一時期、興味を抱いて調べていたことがあるのだが、とても要約しきれない錯綜した議論の結論として、最終的には女性の中絶する権利を否定できないように思う。
     何といっても、子供を産むのは女性自身なのである。ただ、それは出生前診断や障害児の中絶を肯定することではない。産む、産まないを決めるのは女性自身でしかありえないという凄愴な決意は、あるいは「権利」というきれいな言葉では表しきれないかもしれない。
     さて、「産んでもいいドットコム」である。じっさい、このサイトの論理的な瑕疵を非難することはそうむずかしくないように思える。何といっても、論理の展開が乱暴である。
     このサイトでは、ダウン症の子供を持った親の「本心」が縷々述べられているのだが、かってに他人の「本心」を代弁されても困る。「ダウン症の親はほんとうはこう考えているのです」などと、当事者が発言してもいないことを述べ立てることは、控えめに云っても問題含みだろう。
     その理屈が通るなら、当事者がいくら「この子が産まれてくれて良かった」と云ったところで、「それは本心ではない。ほんとうはダウン症の子供など産まれないほうがよかったと思っているに違いない」と否定できることになる。
     これでは、議論さえ始まらない。つまりは、当事者の現実を無視して、第三者が「こうに決まっている」と思い込みを投影しているにすぎないわけで、それはやはり無理筋な論法だろう。
     もちろん、じっさいに障害児を産んで苦しんでいる親もいれば、「やはり産まないほうが良かった」と思っている親もいるには違いない。しかし、それは第三者がかってに決めつけていいことではない。あたりまえの理屈だ。
     仮に当事者がみな苦しんでいるとしても、どんなことに、どのくらい、どういうふうに苦しんでいるかは、適当に決めていいことではないだろう。
     そして、ふと思うのは、そもそも苦しんではいけないのだろうか?ということである。
     このサイトは「家族が苦しむこと」を論外の悪として指摘しているように思える。しかし、どんなによくできた子供であっても、親にいくらかの苦労はかけるものではないか? 子供を産むということは、そのリスクをひき受けることではないだろうか?
     そして、親自身がその苦労を通して成長していける一面もあるのではないか? 「子供による苦しみ」はほんとうに全面的に悪いものなのだろうか? あるいはこれ自体も単なるきれいごとの言葉遊びかもしれないが、そう考えてみると、違う視野が拓けてくるかもしれない。
     「産んでいいドットコム」はたしかに問題を含んだサイトである。じっさい、一定以上の知性と知識を持ったひとならこれは差別だ、優生思想だ、と指摘するひとが多いように思う。
     しかし――ただそれだけで終わらせていいのだろうか? いつも思うのだが、わたしは差別したりしませんよ、と口で云うことはたやすいのである。
     おそらく、この社会に生きているまっとうな人間ならだれもがそう云うだろう。優生思想は良くない、障害を持った子供にも権利はある、それはまったくもって正論だ。
     だが、 
  • 手数料無料のオンライン決済サービス「SPIKE」を使ってみた。

    2014-04-14 16:56  
    50pt
     つい先ほど、「オンライン決済サービス「SPIKE」のオーペンベータ版がリリース」と題するメールが届いた。こんな内容。

     大変お待たせをいたしました。
     本日、SPIKEのオープンベータ版を日本先行公開します。
     通常、インターネット上でクレジットカード決済を導入する場合、一取引ごとに平均約3%〜5%の決済手数料+30円程度のトランザクションフィーが発生します。また、決済機能をWEBサイトやアプリケーションに導入する場合は、システム周りのプログラミングが必須であり、これらが導入ハードルを高めている要因にもなっています。
     「SPIKE」は決済手数料無料、専門知識不要、リンクを設置するだけで決済機能をWebサイトなどWeb上のあらゆる場所に追加することができ、個人の方や事業者が最小限の労力とコストで導入できるオンライン販売&支払ツールです。
     
    ・初期費用無料
    ・フリープランは月間100万円まで決済手数料は無料
    ・ビジネスプレミアムでは月間1,000万円までの決済手数料が無料

     無料……。無料!? いやいやいやいや、おかしいでしょ、それ。いったいどうやってそんなサービスを実現しているんだ? マネタイズの手段は? 月間1000万円以上のビジネスプレミアムプランでフリープランの赤字を補填しているの? それとも広告がバンバン出るとか?
     うーん、興味が湧いてきた。というか、メールが届くということは以前、このサービスに関心を抱いてアドレスを登録していたということなのだろうが、すっかり忘れていた。いや、興味があることにはとりあえず注目しておくものである。
     さっそく、SPIKEの公式サイトへ飛ぶ。
    https://spike.cc/
     とりあえず、広告が出ているようすはない。そして、メールアドレスとパスワードを入力するだけで、あっさりアカウント登録が完了した。これでクレジットカード決済を実行できるらしい。驚異的な簡単さ。
     Paypalの面倒くささにめげて登録を途中で投げ出してしまった者としては、ありがたいことこの上ない。さっそく、商品をふたつほど登録してみる。以前作って、在庫が余っている同人誌である。
    https://spike.cc/p/pzKHubR0
    https://spike.cc/p/dD23B3S9
     送料込み1冊800円という値段を設定する。この2冊、発刊当初はたしか1300円で売っていた記憶があるのだが、発刊から時間が過ぎ、いくらか内容が古くなっていることを鑑みて、値下げすることにした。
     仮にこれらの本が売れたとしたら、800円丸々がぼくの懐に入ってくることになる。これは凄い。というか、凄すぎておかしい。どこかに仕掛けがあるのではないかと不安になる。海外では例があるらしいけれど……。
     しかし、まあ良い、ヒトバシラとして続けて使用を続けてみよう。TwitterでSPIKEを検索してみたところ、「ウェブサービスの話をするランチ」を2000円で販売しているひとがいた。
    https://spike.cc/p/aUzPVGWy
     なるほど、こういう使い方もできるのね。さっそく、真似して「海燕にカンパ」という商品を作ってみる。設定可能最低金額の300円。文字通りのただのカンパである。ただ、買ってくれたひとに対しては何か電子データでお礼をしようと思う(このブロマガの過去ログのテキストファイルデータとかだろうか)。皆さん、もし良かったらカンパしてください。
    https://spike.cc/p/v4IcbCJV
     そして、友人にリンクを晒したところ、買ってくれた。――おお、ほんとうに300円入っている! 凄い! 凄い! これは素晴らしいなあ。 ちょっと大げさかもしれないが、革命的な未来が見える気がする。というのも、 
  • 西尾維新に学ぶ、ベストパフォーマンスを発揮しつづける仕事術。

    2014-04-13 17:15  
    50pt
     西尾維新の作業ペースに関するインタビューがTwitterで流れてきたので、引用しておこう。

    ―― へえー、文字数で!
    1日でどれくらい書かれるのですか?
    西尾 今は、基本1日2万字です。
    ―― 1日2万字‥‥。す、すごい‥‥。
    西尾 もう少し詳しくいうと、
    5000字を書くのに2時間かかるので、
    2時間ごとに1回休憩、という感覚ですね。
    2時間で5000字ということは、
    15分で約700字書けていれば、達成できます。
    ですので、15分経ったところで
    600字なら今日はちょっと苦戦するぞ。
    800字なら今日は調子がよさそうだ、とわかります。
    http://www.1101.com/store/techo/people/014_2.html

     1日20000文字……。相当の生産量だ。ぼくも1日だけならそれくらい書けるけれど、毎日20000文字を書きつづけるとなると、ちょっとむずかしい。いや、はっきりと無理に違いない。恐ろしい分量である。
     もっとも、2時間で5000文字というペースは決して速くはない(小説に限るなら速いかもしれないが)。むしろ、驚異的なのは毎日8時間程度(休憩を入れるともっと長いかも)、連続して書きつづけられるということだ。
     皆さん御存知の通り、日によってパフォーマンスがまったく違うぼくとしては、まったく尊敬に値する。やっぱりプロフェッショナルはこうでないとダメだよな……。
     何であれ、アマチュアはただ好きなことを好きなように書いていればいい。むしろ、ひとの意見になど耳を傾けて本質が揺らぐことのほうが危険だろう。
     しかし、プロは安定したペースで作品を生産しつづけることが要求される。ただ、好きなときに好きなだけ書いているだけではプロではない。
     もちろん、驚異的なクオリティが備わっていれば、ペースの乱高下も許容されるかもしれないが……。しかし、それは基本的にプロフェッショナルな方法論ではない。
     プロとは、スケジュールを計算できてこそなのだ。その意味で、ぼくなどは、まったくアマチュアというしかない方法論でやっている。自分でも、さすがにどうかと思うので、これからは、少しでもプロらしくやれるよう努力することにしたい。
     もっとも、ぼくの場合、やはりインプットが必要なので、1日に8時間も執筆しつづけることはむずかしい。せいぜいがその半分、4時間というところだろう。
     毎日4時間、必ずデスクの前に坐ってキーボードを叩きつづければ、さぞ生産性が向上するだろうな。とは云え、そこまでして果たすべき仕事そのものがぼくには存在しないのだけれど。だれかお仕事ください。締め切りは守ります。
     西尾維新は、デビュー当時から速筆で知られた作家だが、こうして見ると、特別に思考速度が速いわけではないことがわかる(もちろん、このスピードで小説を組み立てられることは驚異的なのだけれど、そういうひとは他にもいるだろう)。
     かれの最大の長所は、むしろ一定のペースを延々と崩さない、その勤勉さにあるのではないか。
     西尾はむしろ「書きすぎる」ことを注意しているという。勢いに任せて書きすぎると翌日書けなくなるから、ということらしい。かれにとっては、1日だけのペースより、より長期間にわたってどのくらいの仕事を達成するかのほうが重要なのだろう。
     まったくもって合理的で隙がない。つまりは、一瞬だけマックスを超えた力を発揮することに意味はないと割り切っているのだと思う。長期間にわたってベストパフォーマンスを出しつづけることこそ大切だということ。
     ちょっと漫画『ベイビーステップ』を思わせるような話で、面白い。ひととの競争に勝利するためには、あるいは自分自身を鍛えあげるためにも、中長期的なスパンで最大限の力を発揮しつづけることが肝要で、そのためのスケジューリング能力が重要になるということで良いだろうか。
     その点に関しては、