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記事 10件
  • お休み。

    2020-05-30 14:49  
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    げほげほ。今週の「終末ラジオ」は準備が間に合わなかったのでお休みとしたいと思います。ご、ごめんよ。早くも休みか!と思わないでくれ。来週は『無職転生』の話とかしたいですね。
  • シャカイ系と新世界系とはどこが決定的に違うのか?

    2020-05-29 17:42  
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     ども。ここしばらく更新が途絶えていて申し訳ありません。ここら辺でちょっと読みごたえのある記事を書いて今月を締めることにしたいと思います。
     ぼくたち〈アズキアライアカデミア〉でいうところの「新世界系」のまとめと、「その先」の展望です。
     新世界系の発端である『進撃の巨人』の連載開始から11年、『魔法少女まどか☆マギカ』の放送から9年、いわゆるテン年代が終わり、2020年代が始まったいま、新世界系は新たな展開を迎えつつあるように思います。
     そこで、ここで「新世界系とはいったい何だったのか?」を踏まえ、「これからどのような方向へ向かうのか?」を占っておきたいと思うのです。
     まず、新世界系の定義についてもう一度、振り返っておきましょう。新世界系とは、そもそも『ONE PIECE』、『HUNTER×HUNTER』、『トリコ』といった一連の作品において「新世界」とか「暗黒大陸」と呼ばれる新たな冒険のステージが提示されたことを見て、「いったいこれは何なのか?」と考えたところから生まれた概念でした。
     そして、この「新世界」とは「まったくの突然死」すらありえる「現実世界」なのではないか、と思考を進めていったわけです。
     物語ならぬ現実の世界においては、『ドラゴンクエスト』のように敵が一段階ずつ順番に強くなっていって主人公の経験値となるとは限りません。最初の段階で突然、ラスボスが表れてデッドエンドとなることも十分ありえる、それが現実。
     したがって、ある意味では、新世界においては「物語」が成立しません。いきなり最強の敵が出て来ました、死んでしまいました、おしまい、では面白くも何ともないわけですから。
     そこで、「壁」という概念が登場します。これは、たとえば『進撃の巨人』のように、物理的、設定的に本物の壁である必要はありません。あくまでも「新世界(突然死すらありえる現実世界)」と「セカイ(人間の望みが外部化された世界)」を隔てる境界が存在することが重要なのだと思ってください。
     それは『HUNTER×HUNTER』では「海」でしたし、『約束のネバーランド』では「崖」の形を取っていました。とにかく残酷で過酷な「新世界」と「相対的に安全なセカイ」が何らかの形で隔てられていることが重要なのです。
     この「壁」の存在によって初めて新世界系は「不条理で理不尽な現実」をエンターテインメントの形で描くことが可能となった、といっても良いでしょう。
     それでは、なぜ、ゼロ年代末期からテン年代初頭にかけてこのような新世界系が生まれたのか? それは、つまりは高度経済成長からバブルの時代が完全に終わり、社会に余裕(リソース)がなくなり、状況が切迫してきたからにほかなりません。
     生きる環境がきびしくなっていくにつれ、人間の内面世界を描く「セカイ系」的な作品群からよりリアルな世界を描く「新世界系」へ関心が移ってきたわけです。
     これはどうやら、日本だけの現象というよりは、アメリカを含めた先進国である程度は共通していることらしい。ヨーロッパあたりのエンターテインメントがいま、どのような状況になっているのか不勉強にしてぼくは知らないのですが、おそらくそちらでも同じようなことが起こっているのかもしれません。
     さて、ここで以前も引用して語った評論家の杉田俊介氏による『天気の子』評をもう一度引いてみましょう。

    それに対し、帆高は「陽菜を殺し(かけ)たのは、この自分の欲望そのものだ」と、彼自身の能動的な加害性を自覚しようとする、あるいは自覚しかける――そして「誰か一人に不幸を押し付けてそれ以外の多数派が幸福でいられる社会(最大多数の最大幸福をめざす功利的な社会)」よりも「全員が平等に不幸になって衰退していく社会(ポストアポカリプス的でポストヒストリカルでポストヒューマンな世界)」を選択しよう、と決断する。そして物語の最終盤、帆高は言う。それでも僕らは「大丈夫」であるはずだ、と。
    象徴的な人柱(アイドルやキャラクターや天皇?)を立てることによって、じわじわと崩壊し水没していく日本の現実を誤魔化すのはもうやめよう、狂ったこの世界にちゃんと直面しよう、と。
    しかし奇妙に感じられるのは、帆高がむき出しになった「狂った世界」を、まさに「アニメ的」な情念と感情だけによって、無根拠な力技によって「大丈夫」だ、と全肯定してしまうことである。それはほとんど、人間の世界なんて最初から非人間的に狂ったものなのだから仕方ない、それを受け入れるしかない、という責任放棄の論理を口にさせられているようなものである。そこに根本的な違和感を持った。欺瞞的だと思った。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66422

     「狂った世界」。ここで何げなく使用されているこの言葉はじつに新世界系とその時代を端的に表現するキーワードだといえます。
     世界は狂っているということ、過酷で残酷で不条理で理不尽で、「間違えて」いるということこそが、新世界系の端的な前提なのです。
     新世界系とは、「この狂った世界でいかにして生きる(べき)か?」という問いに答えようとする一連の作品を示すといっても良いでしょう。
     しかし、杉田氏はここでその「狂った世界」は是正されるべきだという考えを示し、そういった想像力を「シャカイ系」と名づけます。杉田氏によればそういった「シャカイ系の想像力」こそ『天気の子』に欠けているものなのです。かれはさらに続けます。

     「君とぼく」の個人的な恋愛関係と、セカイ全体の破局的な危機だけがあり、それらを媒介するための「社会」という公共的な領域が存在しない――というのは(個人/社会/世界→個人/世界)、まさに「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観そのものだろう。そこでは「社会」であるべきものが「世界」にすり替えられているのだ。
     「社会」とは、人々がそれをメンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである。その意味でセカイ系とはネオリベラル系であり(実際に帆高や陽菜の経済的貧困の描写はかなり浅薄であり、自助努力や工夫をすれば結構簡単に乗り越えられる、という現実離れの甘さがある)、そこに欠けているのは「シャカイ系」の想像力であると言える。

     以前にも書きましたが、この認識は致命的なまでに甘い、とぼくは考えます。というか、若者層のシビアな実感からあまりにもずれているというしかありません。
     もちろん、我々個人と世界のあいだには中間項としての「シャカイ」が存在することはたしかであり、それを民主的な方法によって改善していかなければならないということは一応は正論ではあるでしょう。
     しかし、あきらかに時代はその「狂った世界」を変えることは容易ではなく、ほとんど不可能に近いという実感を前提にした作品のほうに近づいている。
     『フロストパンク』というゲームがあります。これは大寒波によって全人類が滅んだ時代を舞台に、「地球最後の都市」の指導者となってその街を導いていくという内容です。
     ぼくはまだプレイしていませんが(その前に遊んでおかないといけないゲームが無数にあるので)、プレイヤーが指導者として人を切り捨てたり見捨てたりするという倫理的に正しいとはいえない選択肢を迫られる内容であるらしい。
     このゲームの内容はある意味、現代という時代をカリカチュアライズしていると感じます。倫理的に正しく生きようにも、その「正しい選択」を行うためのリソースが不足しているというのが現代の実感なのだと思う。
     もっとも、これは必ずしも社会が衰退していることを意味しません。それこそ『ファクトフルネス』あたりを読めばわかるように、地球人類社会は全体としては確実に前進しているし、成長している。問題は、その結果として生まれたリソースが平等に配分されることはありえないということなのです。
     「狂った世界」とは、たとえば、一部に富が集中し、多くには不足するというモザイク状の状況を意味しています。日本を含めた先進国でも中産階級が崩壊し、都市市民はかなりギリギリのところにまで追いつめられているのがいまの現状でしょう。
     もちろん、これは放置していて良い問題ではない。だから、あるいは中長期的にはこの問題すらも解決されていくかもしれません。しかし、その解決策は短期的状況には間に合わないであろうこともたしかです。
     つまり、おそらく生きているあいだはぼくたちの多くはあらゆるリソースが不足する過酷な環境を生き抜くしかない。このきびしい認識は、いまとなっては若者層の「所与の前提」となっていると思うのです。
     そして、そこから新世界系の物語が生み出されてくる。余裕(リソース)がない環境とはどのようなものか? 『フロストパンク』を見ていればわかるように、それは「正しい答え」が絶対に見つからないなかで、どうにか選択して生きていかなければならないという状況です。
     いい換えるなら、そもそも「正解の選択肢」が存在しないなかでそれでも選択していかなければならないということ。ここで、ぼくは山本弘さんが新世界系の代表作のひとつである『魔法少女まどか☆マギカ』について、ブログに書いていた文章を思い出します。
     この記事の無料公開はここまで。後半は会員限定です。海燕のニコニコチャンネルは週一回+αの生放送、無数の動画、ブロマガの記事を含んで月額330円です。海燕の記事を読みたい人は良ければ入会してみてください。よろしくお願いします。 
  • ポルノかポリコレか? あるいは『ONE PIECE』の豚骨ラーメン性についての考察。

    2020-05-18 01:35  
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     次回のニコニコ生放送のテーマを何にしようかなー、とまだ考えています。とりあえず一年分くらいのネタを考えてあるのですが、あまり大きいものを最初にやってしまうとネタ切れを起こす可能性があるし、だからといってつまらない話をしてもしかたないし、となかなか迷うところ。
     とりあえずTONOさんの『カルバニア物語』にしようかなーと思っているのですが、変わるかもしれません。一応、枠は取っておいたので、良ければ聴いてください。
    https://live2.nicovideo.jp/watch/lv326010188
     さてさて、今日はLINEで面白い記事を教えてもらったので、それを枕に「物語」、あるいは「エンターテインメント」とは何か、という話をしたいと思います。この記事。

    文化現象としてのBLは、男性社会の抑圧に対する怒りと裏返しになった女性ジェンダーへの苛烈な憎悪や否認やら何やらがごちゃごちゃ混ざり合っている。でも同時にやっぱりもっと単純に快楽をもたらすポルノでもあって、苦しみも何もなくただ単に萌えるものでもある。どちらか一方ではありません。BL文化にはどちらもある。そこでは「ねじれた表現」なのかそれとも単なるポルノなのか、見分けがつかないほどぐちゃぐちゃに混ざり合っていると思います。
    BL文化のそういうめちゃくちゃさが好きです。危うさが好き。しんどいけどやっぱり好き。こんなことだらだら書いてるわたしが何より一番ねじれてて厄介なのかもしれないけど。まあこれからも厄介なオタクとして生きていきます。
    http://nightyqueer.hatenablog.com/entry/2019/01/23/220614

     この話、めちゃくちゃよくわかる、と思う。ひょっとしたら全然わかっていないのかもしれないけれど、まあ、わかる、と感じる。というのも、ぼくもやっぱりそういう意味での「厄介なオタク」性をある程度持っていると思うからです。
     ここでは「ねじれた表現」と「ポルノ」が対比的に語られていて、しかもその両方を兼ね備えているのがBLである、とされているわけなのですが、ひとつBLだけではなく、「物語」とはそういうものだよね、という話をしたい。
     もっとも、ここでいう「物語」とはぼくが好んで読む一群の作品を指していて、一般にいう物語のことではないわけですが。ややこしい。
     わかってもらえるかな? 一般的にいって、娯楽として、快楽として消費されているエンターテインメント作品は、大いにポルノ的なものです。ここでいうポルノとは、予定調和の快楽を追求する表現、みたいな意味だと思ってほしい。
     たとえば『水戸黄門』、たとえば『美女と野獣』。いや、何でもいいのですが、基本的にエンターテインメントは正義が悪に勝つこととか、愛が苦難の末に実ることとかを描く予定調和の表現なんですよね。
     もちろん、ただそれだけではないからこそ面白いのですが、それでもいわゆる「王道」はやはり予定調和の魅力にある。
     ただ、すぐに予定が調和してしまうとそこで終わってしまうので、そうならないように色々と試練だの苦難だのを描くわけです。そういう意味ではエンタメとは「遠回りするポルノ」であるのかもしれません。
     一方で、上の記事では「ねじれた表現」と書かれている批評的、あるいは文学的、さもなければ芸術的な反予定調和の表現がある。それは現在の社会構造や人間の生のありようなどを分析し、分解し、相対化して突きつける。
     それを「クリティーク(批評)」的な表現ともいえるかもしれませんが、ここでは、「アート」と呼ぶことにしましょう。ぼくが好む「物語」は、この「アート」と「ポルノ」が混然一体となって成立しているものである、と感じるのですね。
     ただのポルノ、ないしエンタメではない、しかしだからといって文学とか芸術とかに分類されて澄ましているような高踏な作品でもない。アートでありながらポルノ、ポルノでありながらアート、というその危うい混交具合が面白いわけです。
     まあ、普通であたりまえの作品に飽き飽きした「厄介なオタク」は喜んでそういうものを味わうわけですよ。上記記事ではBLが例に挙げられていますが、じつは男性向けエンターテインメントだって単純にポルノ的なだけではありません。
     そこには「男性的な快楽」を批評的に相対化し、あるいは脱構築する作品がいくらでも見つかるのです。
     しかし、ここが重要なことなのですが、「それなら、ポルノはいらないのか? アートこそが高度であって、表現はそういうものであるべきなのか?」といったら、決してそうではないのですね。
     たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』はポルノ的な「男の子の物語」のエンタメ構造をぶっ壊し相対化したかもしれない。だけれど、「だから『エヴァ』は偉くて、しょせんポルノ的な予定調和のエンタメであるに過ぎない普通の少年漫画はダメなんだ」ということにはならない。
     「厄介なオタク」はやはりポルノ性がないと惹かれないわけです。文学では物足りない。芸術では満たされない。しかし、だからといってただのポルノにはもう飽きている。そういうめんどくさくもこじらせた「厄介なオタク」が好むのが、ぼくが「物語」と呼ぶ表現だということ。
     これは男性向けでも女性向けでもそうなのですが、ポルノとは、「隠された本音」、「社会的に認められない隠蔽された欲望」が噴出するものです。
     「可愛い女の子をレイプしたい」とか「強い男に支配されたい」とか、そういう、少なくとも現代社会のポリティカル・コレクトネスの基準では「正しい」とはされないであろう「本音」や「欲望」が猛烈な勢いで表に出て来るのがポルノだといっても良い。
     したがって、ポルノはアート的、クリティーク的な分析、分解では語り切れない。どう考えても「これは政治的な正しくない」、「下等で差別的な表現だ」というだけの判断で終わってしまう。
     しかし、いかに差別的であろうが、それは「本音」なのであって、やっぱり「気持ちいい」こともたしかなのです。フェミニストがどんなに声高に「こんな表現があることは間違えている!」と叫ぼうとも、凌辱ものポルノはなくならない。また、少年漫画や少女漫画は価値中立的にはならない。
     あいかわらず『少年ジャンプ』は古典的な「男の子の物語」を紡ぐし、少女漫画はドS男子を描く。もちろん、お偉い批評家の方々は「これは差別的だ! くだらない表現だ!」と叫ぶことでしょうが、それでもそういう表現は決してなくならない。
     ポリコレだけでは決してエンターテインメントにはならないし、ただポリコレ的に正しいということだけがエンターテインメントの価値ではないわけです。このことを根本的にわかっていない批評家は多いと思うのですが……。
     しかし、だからといってアート性やクリティーク性、上の記事で「ねじれた表現」とされている側面がエンターテインメントにないわけではない。優れた物語作品はアートとポルノ、クリティークとエンターテインメントの両方の要素を持っているものなのです。
     だからこそ、面白い。少なくとも、まあ、色々とこじらせた「厄介なオタク」にとっては。
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  • にこなまをはじめたよ。

    2020-05-16 21:02  
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    ニコ生・山本弘回を開始しました。https://live2.nicovideo.jp/watch/lv325855267
  • 「想像力」の正体。初期『ドラクエ』や『ウィザードリィ』の感動の本質は何だったのか?

    2020-05-15 03:18  
    50pt


     ども。夜更けて、やることもないので、記事を書いています。いや、やるべきことは色々あるはずなのだけれど、もう、こうね、何ひとつやる気にならない。ミツユビナマケモノよりも怠惰な日常といえるでしょう。
     いやー、『鬼滅の刃』、ほんとうに終わるんですかねー。『SPY×FAMILY』、面白いですよねー。売れまくっていますねー。はあ(精魂尽き果てたため息)。
     そんなリヴィングデッド的に腐り果てた精神状態でTwitterをさまよっていたら、ひとつ面白い記事を見つけたので、紹介させてもらいます。「「昔のゲームの方が想像力を刺激されて良かった」は本当か」というタイトル。
     書き手の方は「ファミコンのゲームをやってた時に、ドット絵からリアルを想像していたか?」ということについて考えた結果、「これ、冷静に自分の記憶をたどってみると、たぶん、「していなかった」と思うんですよね。」という結論にたどり着いています。
     で、そこから先が興味深い。

    確かに、ドット絵の向こうに「見た目以上の何か別の世界」を感じ取ってはいたんだけど、それは「リアル」の延長というわけではなかった。マリオはマリオであってボブ・ホスキンスではなかったし、グーニーズを遊びながら映画のマイキーを想像したこともなかった。ドラクエ1で草原を歩いていても、現実の草原のような風景は浮かばなかった。
    例えば、マリオが狭い足場を渡る時は自分のことのようにハラハラしたし、ドラクエで呪文を唱えれば本当に風や炎がまきおこっているような気がした。「アトランチスの謎」ではだだっ広い島を探索しているような気分を味わったし、「ドラクエIII」は本当に世界をまたにかけて冒険している感覚があった(よくオープンワールドゲームで「マップの広さ比較」が話題になるけど、宇宙規模のやつを除けば僕は今でもドラクエIIIがトップ陣に食い込むと思ってる)。
    それは決して「リアル」な風景ではなかったけど、少なくともわずか25色、256ドット×224ドットの画面から得られる以上の「何か」を受け取っていたのは間違いなかった。でもその「何か」って一体なんだ? と考えると、これがなかなかうまく言語化できないんですよね……。
    https://note.com/tekken8810/n/ncfe394d7d6be

     わかる! わかるわー。この話、めちゃくちゃよくわかるわー。ぼくもファミコンの『マリオ』からずっとゲームを遊んで来ている年寄りゲーマーなので、この方が何をいわんとしているのか、実感としてめちゃくちゃ伝わってくる、と思います。
     たしかに、ぼくも『マリオ』や『ドラクエ』をプレイしているとき、現在のゲームのような「リアルな」グラフィックを想像していたわけではなかった。
     そもそも、どこぞの天才児ならともかく、人並みの平凡なイマジネーションしか持ち合わせていない地方都市の一小学生に「リアルな」映像なんて想像できたはずもないんですよね。
     でも、それなら当時のゲームはつまらなかったかといえば、めちゃくちゃ面白かったんです。まさに「マリオが狭い足場を渡る時は自分のことのようにハラハラしたし、ドラクエで呪文を唱えれば本当に風や炎がまきおこっているような気がした」のです。
     おそらく、多くの人が「チープなグラフィックを想像力で補っていた」というのは、この感覚のことを指しているのではないでしょうか。ごくあたりまえに考えて、ファミコンのドット絵から具体的に壮大な冒険世界を想像/創造できるほどイマジネーションの豊かな人はそうはいないでしょうからね。
     しかし、それでは、上記記事でも書かれているようにこの感覚はいったい何なのでしょう? 「想像力で補う」とは実際にはどういうことなのでしょうか?
     これも上に書かれていることですが、「パッケージやイメージイラストから想像を膨らませ」るということがひとつあると思います。これね、ぼくはかなりやっていた。
     当時のゲームグラフィックは限りなくチープで、それに対しパッケージなどのイラストは(センスの古さはともかく)いまと同等に描き込まれていたわけですから、それらのイラストのイメージをゲームのグラフィックに上書きするかたちで想像していた側面はあると思う。
     ただ、それを「ゲームグラフィックを見て、イラストのリアルなグラフィックが動くところを想像していた」というふうに表現すると、やはり違う。
     もしかしたら一定以上の絵画的才能がある人はドット絵から詳細なグラフィックを想像できたかもしれないけれど、ぼくにはできなかった。
     ただ、何というか、ぼくの頭のなかではチープなドット絵と、パッケージや攻略本などで仕入れてきたイラストなどが混然一体となって、ひとつの「リアルな」、あるいは「リアルに感じられる」世界を形づくっていたのです。
     この感覚、わかりますかね? わかってもらえると非常に嬉しいんですけれど。
     まあ、そういうことをやっていない人もいるとは思うんですけれど、そういう人もただ単にドット絵をドット絵としてしか認識していなかったわけではないんじゃないかな、と思います。
     そう。それは、あるいは夢を見ている感覚に近いものかもしれません。夢のなかでは、すべてがぼんやりと曖昧です。決して理路整然としてはいないし、飛躍しているところもたくさんあるはずなのに、なぜかすべては強烈に現実的に感じられます。
     それと同じように、少年時代にゲームをしていたときのぼくは、すべてが曖昧で抽象的で、しかしなぜかはっきりと現実として感じられる世界を旅していたのではないか。そんな気がするんですね。
     もっというなら、そもそも子供時代にはまだ現実は完全に現実ではなかったのではないか。もちろん、普段は現実に所属しすべてを受け入れて生きていたけれど、ゲームをしたり、小説を読んだりしているときはそのあたりまえの世界から遊離して、まさに夢のようにファジィで非現実的な宇宙に旅立っていたのかもしれない。
     もう少し言葉を弄するなら、ゲームをやっていたときは「リアルの閾値が下がっていた」のかもしれません。
     ぼくたちが現実世界を現実として認識するためには、それなりの情報量が必要です。つまり、視覚、聴覚を初めとする五感で世界を詳細に把握して初めて、これは現実だと感じ取れる。
     その一方で、初期の『マリオ』や『ドラクエ』のようなチープなグラフィックは「現実ではない」と判断するわけです。しかし、もし、ゲームをするとき、その「現実らしさ」の基準がはるかに曖昧になっていたとしたら?
     それならば、チープなグラフィックをチープと認識したそのままで、広大な世界を経巡る大冒険を感じ取るという矛盾した現象が説明できるのではないでしょうか。
     もちろん、「ほんとうに」現実と非現実が区別できなくなっていたわけではない。理性ではゲームはゲームに過ぎないとわかっている。しかし、その一方で感性の領域では幻想と現実が混然となった感覚に酔っていたとはいえないでしょうか。
     それはチープなグラフィックを見ながら「想像力でリアルな世界を築き上げた」ということとは違う。チープなドット絵はチープなものとしてきちんと認識しているのです。ですが、その一方でそれと同時にはるかに広い世界をぼんやりと感じ取っていたということなのではないか、と。
     この話を突き詰めると、人間はどのようにして世界を認識しているのか、ということに行き当たるように思えます。
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  • 作家・山本弘と「協調優位の論理」。

    2020-05-14 14:13  
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     今週のニコ生は作家の山本弘さんのことについて語ろうかなあと思っています。
     ぼくは長年、山本弘の批判的ウォッチャーをやっていまして、非常に興味深い人だなあと思っているのですが、その面白さをどう伝えたら良いのかは迷うところがあります。
     ぼくの目から見ると、ある種の反面教師というか、「なるほど、こう考えるとこういう結論になるのか」というひとつの見本みたいなところがある人なんですけれど、はたしてそこをうまく伝えられるものかどうか。まあ、とにかく、試してみることにしましょう。
     それにしても、作家・山本弘の本を追いかけて、何十年になるでしょうね。いちばん最初に読んだのは同名ゲームのノベライズでもある(じっさいには小説のほうが先なのかもしれないけれど)『サイバーナイト ドキュメント・戦士たちの肖像』だろうから、おそらく30年は過ぎているはずです。
     少年時代のぼくは山本さんの作品を心から楽しんでいました。たぶんぼくが初めて読んだ本格的なSF小説は、山本さんの作品だっただろうと思います。
     以来、『時の果てのフェブラリー』、『神は沈黙せず』、『詩羽のいる街』などのフィクションはもちろん、ノンフィクションまで欠かさず読んで来たのですが、しだいにかれの主張のあまりの「くさみ」にうんざりするようになってしまい、ここ最近の作品は読んでいません。
     「くさみ」とは何かというと、ぼくの言葉を使うなら、かれの思想の独善性です。「懐疑主義者」を自任する山本さんは、その実、自分の正しさを信じて疑わないように見えます。というか、そのようにしか見えないんですよね。
     かれの価値観はぼくにはかなり偏ったものであるように見えるのですが、かれはそれが唯一の自明の真理であるかのように思い込んでいる、ように見えます。
     もちろん、ぼくたち人間は、多かれ少なかれ、自分の正しさを信じているものです。一切、正しさを信じていなければ、そもそも何ひとつ意味があることをいえなくなるでしょう。だから、それそのものは問題ではない。
     しかし、それが盲目的な信仰といえる次元ならべつです。山本さんは、非常に口汚く他人を罵る。嘲る。攻撃する。しかし、それにもかかわらず、かれのなかに自分が悪いことをしているという後ろめたさはかけらほどもないらしいのです。
     もちろん、インターネット時代のいま、そういう人は大勢います。むしろ、対立者と話をするときもいちいち丁寧な言葉遣いを心がける人のほうが少ないかもしれません。
     また、口調が丁寧だからといって、話の内容が正しいことにもならないし、その逆もいえるでしょう。それはたしか。ですが、それでもなお、ぼくには山本さんの話の「くさみ」はやはり特別いやらしく感じられてならないのです。
     それはたぶん、ぼくがかつて山本の作品の全面的なファンであり、いまでもその一部を高く評価しているからでしょう。自分の好きな作品の作者にはみな高潔な人物であってほしい。そんな子供じみた不可能な願いを、ぼくはいまでもわずかに残しているわけです。
     で、まあ、この文章は、ぼくのその思いが決定的に打ち砕かれ、ぼくが山本さんに決定的に絶望するまでの記録だといえます。ぼくはもう、山本さんに何ひとつ期待しません。
     かれは自分で作った独善の檻のなかに座り込んで、あい変わらず他者の愚かしさ(かれの目には他者はつねに愚かしく見えるようです)に腹を立てながら生きて、そして死んでいくのでしょう。
     かれが「自分とは違う考え方もあるのかもしれない」と考えることは、永遠にないでしょう。ぼくはそれを残念には思いますが、同時にしかたないことだとも感じます。結局、そういう人はそういう人なのです。
     いくら30年間愛読してきた読者とはいえ、他人の人格を変えることはできません。もし、ぼくが人を変えることができると思うのなら、それこそ傲慢そのものでしょう。
     また、ぼくが山本さんに対して抱く不満は、かってに抱いているものです。「可愛さ余って憎さ百倍」とはよくいったもので、だれかの「ファン」を自任する人物が、その人物の「アンチ」に姿を変えるのは、よくあることです。
     これは、かってにその人に幻想を抱き、そしてそれが破れて失望するところから来ているのでしょう。このパターンは幻想を抱いたほうにも問題があるのに、その責任を一方的に相手に取らせようとするわけで、あまりよろしくないと思います。
     だから、なるべく「すべてはしかたないことだ」という諦念を持って、かれを「告発」しましょう。
     そもそも、他者の人格なんて、ほんとうはよくわからないものです。その人がアウトプットしたものから、推測に推測を重ねて、「きっとこう考えているのだろう」と考えているに過ぎない。
     そんな不たしかなものを根拠に人を批判したり告発しようなど、本来は不遜かつ不可能な行為であるはずですが、ぼくは今回、あえてそれをやります。
     この文章は、ぼくが過去20年間にわたって折に触れて書いて来た山本弘という人物の「印象論」の総括ということになります。あくまで印象論であり、かれの人格について推測している箇所も多いので、すべてがロジカルだとはいえません。
     あるいはすべてぼくの勘繰りに過ぎないかもしれない。以下はそのことを承知の上で読んでいただきたいものです。
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  • 『ファイブスター物語』の新設定が例によってぶっ飛んでいる件。

    2020-05-12 12:00  
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     さてさて皆さま、開設以来8年目にしてようやく、ニコニコチャンネルのトップページをまともなデザインに改装しました。
    https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030
     タイトルはいまだに「海燕のチャンネル」となっていますが、申請が通れば、数日中に「アラフォーオタクハゲの陰キャでも配信したい!」に変更されるはずです。
     ちなみにブロマガのタイトルはいままで通り「弱いなら弱いままで。」です。シンプルながらなかなか見やすいデザインになったと思っているのですが、いかがでしょうか。
     じつはニコニコチャンネルトップページのデザインのシステムは大変に使いづらく、非常に苦労していじったので、苦労が報われると嬉しいです。
     で、いままでどうせブロマガしか見られないだろうと思って放置しつづけたこのトップページを改良したことからもわかる通り、これからは生放送や動画と記事を組み合わせて運営
  • フェミニストが腐敗したように、このままではいずれ表現の自由戦士も腐敗する。

    2020-05-11 02:42  
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     まあ、タイトル通りの話であるわけですが、ネットで活動しているフェミニスト、いわゆるツイフェミってほんとうに腐敗し堕落している人が多いよね、そして、このままだといわゆる「表現の自由戦士」もその道を追随することになるよね、という話です。
     あるいは、ツイフェミと表現の自由戦士の両方を敵に回す記事になるかもしれませんが、ぼくはあえていまのうちに書いておこうと思います。それはぼくが現状にきわめて危機感を抱いているからです。このままではまずいと思っていますし、可能であれば方向転換を促したいと考えているのです。
     まず、「ツイフェミ」について書いていきましょう。ツイフェミ、あるいはTwitterフェミニストが大きな話題になるようになったのはここ数年のことだと思います。
     それまでもフェミニストを敵視する人はいたでしょうが、一部の限られた存在だったと思えます。それが、このわずか数年で「全オタク共通の敵」という感じにまでなってしまった。とりあえずは、そのように見て間違いないのではないでしょうか。
     なぜそうなったのかといえば、フェミニストを自称、あるいは僭称する人たちが、表現規制の議論を持ち出したからです。このことについては、おそらくこの記事を読まれている皆さんもくわしくご存知でしょう。
     キズナアイやら、宇崎ちゃんやら、膨大な例があるわけですが、ツイフェミの人たちはいわゆる「萌え系」(この言葉自体が最近はもうあまり使われなくなっていますが)のイラストやキャラクターのなかに「悪い表現」を見い出しては規制しようと数の猛威を振るったのでした。
     もちろん、それぞれの問題は個別に丁寧に見ていかなければなりませんが、ぼくはその活動全般がはっきりと不当だったと思っています。
     まあ、そうですよね。いちいち表現の自由を持ち出すまでもなく、ちょっと足が出ているだの、胸が大きいだのという、性的と見えなくもないといったレベルのキャラクター表現を規制していては、まともな表現は何もできなくなってしまう。
     ツイフェミの方々はしばしば「これくらい規制しても表現はできるだろう。むしろ、規制のなかで良い表現を模索することが良いクリエイターだ」といいますが、それはダンサーに向かって「ちょっと鎖で縛られても踊ることはできるだろう。むしろ、不自由のなかで良い踊りを模索することが良いダンサーだ」というに等しいことだと思います。
     自由であることは表現の本質なのです。ちょっとくらいなら規制を受け入れるのが大人というものだ、といった意見は論外だと考えます。それは自由人に奴隷になれといっているのと変わらないのではないでしょうか。
     いうまでもなく、この表現と規制の戦いは過去数十年にわたって延々と続いて来たものであるわけですが、ネットが発達したいま、そこが主戦場になった印象があります。
     特にTwitterは、いまでは毎日のように、いや、毎日、必ずツイフェミと自由戦士の争いが続いている印象です。そこで露わになったのは、フェミニストを名乗る人たちの驚くべき腐敗ぶりでした。
     まあ、最初からおかしかったのだという人もいるでしょうが、ぼくはそうは考えていません。少なくとも、ここまでの状況になったのはわりと近頃のことなのではないかと思います。
     また、あるいはこのようにいうと、仮に一部のフェミニストが腐っているとしても、全員がそうではない、フェミニストは一人一派なのだから、というお約束の反論が返って来るかもしれません。
     しかし、これはどうにも都合の良い意見です。Twitterを見ているとわかることに、ツイフェミの意見は驚くほど多様性がありません。一人一派どころか、ほとんど集合意識か何かのように共通の意見を持っているようにしか見えない。
     ひとりが何らかの表現を持ち出して「けしからん!」と叫ぶと、他の人たちもわらわらと集まってきて「まったくけしからん!」と叫ぶ、ということがあたりまえのように見受けられます。
     ほとんどの場合、「これに関しては見逃がしても良いのではないか」というような意見を述べる人は見あたりません。仮にいたとしても仲間のはずのツイフェミから集中攻撃を受けて意見を変えざるを得ないところにまで追い込まれることがほとんどです。
     いったい、そのどこが一人一派なのでしょうか。まあ、あえて強弁するならたまたま意見が合っているだけだともいえるかもしれませんが、それはやはり無理がある考えであるように思えます。
     そうなった理由は色々とあるでしょうが、とにかくフェミニストなりツイフェミは驚くほど身勝手に腐敗していて、専横の限りを尽くしているというのが、ぼくの私見です。
     ここまでは、まあ、ツイフェミを嫌う多くの人に理解してもらえるでしょう。しかし、ぼくはここからそのツイフェミに対抗している表現の自由戦士だって、いずれ腐敗していくだろう、という話をします。
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  • トップページ工事ちう。

    2020-05-10 00:24  
    50pt
     昨日、配信したニコニコ生放送を動画にして会員限定でアップしました。タイムシフトが切れたら動画でしか見れなくなるので、もしよければ見てみてください。
     ようやく機材がそろった感じなので、見やすく、聴きやすくなっていると思います。チャンネルの「動画」タグのところから飛ぶと簡単に探し出せます。
     今回は『エヴァ』に関する放送で、おおよそ60行に及ぶ台本を用意していました。まあ、台本といっても箇条書きのメモのようなものですが、これだけでもあるとないとでは大違い。やっぱり事前に用意していないとぼくはしゃべれないですね。
     今後は毎週土曜日の午後9時から定期的に何らかの「講義」を配信する予定なので、その時間にお暇な方は見てみてください。つたないしゃべりも多少はこなれてきたのではないかと思います。
     ちなみに来週は作家の山本弘さんのSF小説について取り上げようと考えています。はたして毎週、ネタはもつの
  • にこなま。

    2020-05-02 20:37  
    50pt
     本日21時頃から以下の枠で、今度こそ! 『攻殻機動隊』ネタのニコ生を放送します。1時間ほどの放送となる予定です。ちゃんと台本も書きました。よろしくお願いします。
    https://live2.nicovideo.jp/watch/lv325689229