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2016年1月の記事 12件

女の子は「ありのまま」で可愛いという思想。

 この個展に行ってみたい。 http://news.goo.ne.jp/article/evenear/entertainment/evenear-20160116201326712.html  「花盛友里個展 「脱いでみた」  女性が見ても楽しめる『おしゃれ』なヌード。」ということで、ヌード写真の個展ですね。  場所が渋谷だから新潟在住のぼくが行くのはきびしいものがあるけれど、写真集が出たら欲しいなあ。  ぼくは特に写真というアートに興味がある人ではなく、ヌードであれそうでないものであれ写真集の類は一冊も持っていないのですが、この人の写真には興味がある。  というのも、モデルや芸能人ではない一般社会の女性を被写体に、女性の「ありのまま」の姿を撮ろうとしているという姿勢に共感を覚えるから。  もちろんぼく自身は女性でもないし、女性を撮る立場でもないんだけれど、ナチュラルな女性の姿を映しだそうとする意図には惹かれるものを感じる。  主催者のフォトグラファー・花盛友里はこう語っています。  私、基本的に女子が好きなんです。男子の裸とかは全然撮りたいと思わないけど、女子の丸い身体はきれいだと思うし、撮りながら少しずつ心を開いてくれる感じも楽しい。 男の人が撮るグラビアとか、すごくイヤで。縛られてたり、服の変なところに穴空いてたり(笑)。男のオカズとして使うためにポーズを取らされる女子は商品みたいでイヤだけど、そういうのをやりたい女子もいる。私は「そんな男ウケみたいなことせんでも、女子はそのままで可愛いんやで」って感じるし、分かってもらいたい。  http://qreators.jp/qreator/hanamoriyuri/  ぼくも男性ながら「商品みたい」な女性のイメージにすごく違和感を感じるのですね。  まあ、ぼくは一方で萌えオタとかやっているわけで、異常にデフォルメされた女性身体に「萌え」るものを感じることもたしかなのだけれど、でも、より本質的にはどうもそっち側の人ではないらしい。  おっぱいが極度に強調されたデザインとか、好きじゃないんですよね。  これはまあ趣味の問題かもしれませんが、あまりに自然な姿から離れた造形には非常に違和感を感じます。  というのも、 

女の子は「ありのまま」で可愛いという思想。

鈍感系主人公に見る萌えトレンドの推移。

 白鳥士郎『りゅうおうのおしごと』第2巻を読み終えました。  将棋を題材にした異色のライトノベルです。  主人公は十代にして竜王のタイトルを獲得した天才少年棋士。現実世界だと羽生善治さんあたりが成し遂げているだけの超偉業であるわけですが、なぜかあまり尊敬されることなく、「クズ竜王」とまで呼ばれているこの少年が、JS(女子小学生)の弟子を取ったところで前巻は終わっていました。  この巻はその続き。ライバルがいないために伸び悩んでいる様子の弟子の前に、待望の宿敵が現れます。  彼女と同い年のツンデレ少女。  最強の「受け」の才能を持つこの新たなキャラクターの出現で、色々なことのバランスが揺らぎます。さて、竜王のお仕事やいかに――?  というわけで、この巻もとても面白かったです。  ほとんど漫画をも上回る驚異的なリーダビリティのため、あっというまに読み終えてしまいました。  発売からしばらく経っていますが、これはKindle落ちを待っていたからなので、ぼくとしてはほぼ最速で読み終えたに等しい。  それくらい楽しみにしていた作品だということです。  で、今回もまさしく期待に違わぬクオリティでした。はっきりいって前巻より面白い。  最近のライトノベルでは、とか迂闊に口にすると絶対正義のライトノベル警察に捕まるからいわないけれど、最近読んだライトノベルのなかでは非常に面白く、完成度も高い作品でした。  あてるべきところにきっちりあてている感じ。ほぼ文句なしの出来かと。  第1巻の時点で早くも漫画化が始まっていたりと、レーベルのほうでも相当力を入れている様子なので、順当にアニメ化まで行くといいですね。  そうなってもまったく不思議はないレベルの作品だと思われます。  ただ、内容的にぼくは一抹の物足りなさを感じないこともないわけで、ここらへんはほんとうにむずかしい問題だと思います。  何もかもきれいにバランスが取れているからこその秀作なのだけれど、その上に達するためにはそのバランスを崩すほどの強烈な個性が必要になる、という気がするのです。  「よくできました」ではどうしたって物足りなさが残る。  これはまあ、いち読者としてのわがままに過ぎないといえばそうなのですが、殻を破るだけの存在感がないと大成しないように思うわけです。  しかし、コメディとシリアスのバランスを維持するこの繊細なバランス感覚こそが持ち味でもあるわけで、それを崩したら作品世界全体が崩れかねないのも事実。  だから、そこの正解はわからないのだけれど、ぼくとしては志高くもう一段上のエンターテインメントを目指してほしいな、という気持ちはあります。  そこはほんとうに作者のさじ加減ひとつなのでしょうけれどね。  まあ、今回も一本のライトノベルとしてはほぼ文句のつけようがないくらいきれいに仕上がった作品になっております。  ロリコン冥府魔道へと一直線に転がり落ちていく主人公が情けない限りですが、作品の企画意図からしてしょうがないのかも。  おかしいな、この人、現実世界の例にすれば羽生、谷川レベルの大英才であるはずなんだけれど、ちっともそんなふうに見えない。ただのロリコン棋士に見える。これは作品意図としてはどうなんだろう……。  あと、ちょっと思ったのが、主人公の鈍感系主人公らしさがちょっと苛立たしいということ。  鈍感系主人公は 

鈍感系主人公に見る萌えトレンドの推移。

あなたの感性を年老いさせないためにできるいくつかのこと。

背景にあると思われるのは、アカデミー会員にとっての「優れた映画」の定義だ。L.A.TIMES紙の調査によると、アカデミー会員の94%が白人、76%が男性、平均年齢は63歳。一度入会すると永久会員で、新会員は、基本的に、亡くなった会員を補填する形で入れる。昨年のように、意図的に300人を入れることがあったとしても、6,000人強という全体数から見ると、たいした影響は与えない。そして彼らは、トップが外から受けるイメージを心配していようがいまいが、自分の基準にとって優れている映画に投票する。いくら「ストレイト・アウタ~」が批評家から高い評価を受け、興行的に大ヒットしても、ヒップホップの話は、彼らにとって正直なところ、ピンとこないのである。 (中略) オスカー候補者が全員白人だったのは、アカデミーの人種差別を意味するものではなく、昔のまま凍りついた、ハリウッド映画業界の価値観を表すものなのだ。アカデミーだけでなく、映画界の現状が変わらない限り、「白すぎるオスカー」は、再び繰り返されるだろう。 http://bylines.news.yahoo.co.jp/saruwatariyuki/20160116-00053472  アカデミー賞候補者が全員白人になってしまう理由を解説した記事ですが、何となく胸に刺さります。  アカデミー会員が賞の候補者に白人ばかりを選んでしまうのは、かれらが人種差別主義者だからではなく、ただ新しい価値観が「ピンとこない」からだという話。  きっとそうなのだろうなあ、と思いますね。  で、なぜこの話が突き刺さるかというと、自分自身に跳ね返って来る話だからでしょう。  ぼく自身の価値観だって、いつのまにか年老い、変化を厭い、「昔のまま凍りつい」てしまうことはありえる。いや、すでにそうなっているかもしれない。  そういう意味でなかなか切実な記事です。  価値観が年老いるのを防ぐためにはどうすればいいのか。  それはひとえに新しい作家や作品を発掘し、玩味するということに尽きます。  特に新しい作品を味わうとき、可能な限り偏見なく向き合うことが必要です。  「どうせこんなものつまらないだろう」と思って向き合うのではなく、常に新鮮な気持ちで対峙することが重要なのです。  一定のバイアスを持って作品を味わうことは、何も見ないことと同じです。  時は過ぎ、恐ろしい速度で作品と作品を巡る状況は変わって行く。だから、いつも新しい作品を発見しつづけることが必要なのです。  そういう視点から最近の自分を振り返ってみると、つくづくダメだなあと思いますね。  どうにもよくなじんだ古い作家や作品ばかり追いかけていて、新しい路線の発掘が十分ではないと感じます。  もちろん、個人的にはよくなじんだ作家/作品のほうが楽しみやすいのですが、そういうものばかり追いかけているとあっというまに価値観は老いてしまう。  たとえ、いまの自分の価値観とずれているとしても、新しいものを追わなければなりません。  もちろん、それらすべてを高く評価することは無理でしょう。どうしたって「ピンとこない」作品は出て来るに違いありません。  しかし、そういう経験も含めて、新しいものと出逢いつづけていかないと、自分自身をアップデートすることはできない。  そして、自分自身を更新しないことには、常に更新されつづけている時代に置き去りにされるのです。  まあ、いうは易しで、とてもむずかしいことだと思います。  ひとは自分が若い頃にふれた作品を神聖視しがちです。  十代の頃に出逢った作家や作品から最も多くの影響を受け、それ以降の時代の作品に低い評価を与えがちになるのはしかたないことかもしれません。  ですが、 

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べたあま少女漫画を読みふける日々。

 相変わらず雑誌『AneLaLa』を追いかけています。  『LaLa』のお姉さんという立場にあたる少女漫画誌なのですが、『LaLa』で何かしらヒット作を描いた作家さんを中心に集めているだけあって、面白く読みごたえがある雑誌になっています。素晴らしい。  その『AneLaLa』の掲載作品が続々と単行本になっているので、いくつか紹介したいと思います。  まずは田中メカ『朝まで待てません!』。  わりとめずらしい漫画編集者を主役にした漫画ですね。  主人公がやたらと恋愛攻撃力が高い(笑)青年編集者で、お相手役はクールな美人編集者。  「クーデレ」という言葉がありますが、まさにそういうタイプのヒロインです。  これが、可愛い。草食系に見えてじっさいにはものすごくストレートに攻撃して来る主人公に、ヒロインのディフェンスがどんどん壊れていくところを楽しむ漫画だと思います。  ペトロニウスさんも書いていましたが、相当に甘い内容なので、読む人を選ぶかと思いますが、まあ、いいよね、少女漫画だもの!  本来はぼくのようなおっさんが読むものではないのだろうなあと思いながら読んでいます。  いいじゃないか、それが人生に残されたたったひとつの幸せなんだから……。  続いては森生まさみ『愛が地球を救うのだ!』&『オトナの小林くん』。  田中メカさんの漫画も甘ったるいのですが、森生まさみさんの漫画はさらに輪をかけて甘いです。  日本一甘い恋愛漫画を描く作家といっても過言ではないでしょう。  最初から最後まで、徹底してスウィート。これでいいのか?と思うくらいなのですが、ぼくは好きなのでまあいいでしょう。  『愛が地球を救うのだ!』は田舎から出てきた天然な少女と、彼女の「にいやん」のラブストーリー。  初めは少女を恋愛対象外に見ていた「にいやん」が、しだいに惹かれていくプロセスが見どころ、読みどころです。  『オトナの小林くん』は、ヒット作『おまけの小林くん』の続編で、これまた甘ったるい一作。  よくもまあ、と思うくらいスウィートな作品です。  そういうのが平気な人だけ読んでください。そうじゃない人は胸焼けするかも。仕方ないことですが……。  さて、その次は 

べたあま少女漫画を読みふける日々。

恋愛漫画(含む百合)を読む、読む。

 ここ数日、色々と漫画を読んだので、そこらへんを雑然と並べてみます。  まずは柊ゆたか『新米姉妹のふたりごはん』。  ご飯ものというかお食事ものというジャンルがありますが、これはそのジャンルに含まれそうな一作。  新しく姉妹になったふたりの少女が食べ物によって結ばれる様子が描かれます。  作者は百合ものの同人誌を描いているひとらしいですが、たしかにそういったフレーバーがほのかにただよっています。  しかし、この作品自体は(とりあえず現時点では)百合ではないですね。  仲良し姉妹が楽しくご飯を作って食べる、それだけといえばそれだけの漫画です。  しかし、作中のお食事描写は素晴らしく、読ませます。  日常ものとしてはひそかにかなりオススメな一作です。楽しい。  続いて芥文江『妹ができました』。  これは完全に百合の短編集ですね。  なんとなく百合っぽいという作品からいわゆるガチ百合まで、百合具合は作品によって違っていますが、どれも面白いです。  繊細に描きこまれた絵柄がいちいち素晴らしい。  こういう絵を見ると、読むほうが数秒で流し読んでしまう絵にも恐ろしい労力がかけられているんだろうなあと思い至ります。  個人的には短編集としては久々のヒット作です。  どこがどうものすごいというわけではないのですが、甘く、苦く、百合の妙味を楽しませてくれます。  一般的にどこまでウケるものかわかりませんが、ぼくとしては大あたりの作品集なので、オススメです。面白いよ。  次も百合漫画で、大沢やよい『2DK、Gペン、目覚まし時計』。  この作品は百合漫画としてはめずらしいことに、第2巻が終わるところまで行っても具体的なカップリングがわかりません。  だれとだれが結ばれるのかいまひとつはっきりしないのですね。  なので、特に甘い描写などもありません。  それではどこが読みどころかといえば、これ、ある種のお仕事漫画なのですね。  仕事ができる女性である主人公が時として「意識高い系」と呼ばれる人々と遭遇したりしながら、日々、お仕事をこなしていくところに面白さがあります。  一応百合ではあるなので、同居している女性との間にそういう雰囲気が流れたりもしますが、あまりラブラブな方向に進んだりするようには見えません。  今後、どう展開するか、楽しみな一作ということができるでしょう。  アサダニッキ『ナビカトリア』は、インターネットでだまされた挙句、色々あって日本一知名度が低い県とされる島根県に住むことになった東京在住のOLさんの話。  アサダニッキさんのふわふわな絵柄と、シビアな現実との取り合わせがなかなかです。  全3巻完結なのですが、ぼくは第1巻を読んだあとすぐ第2巻と第3巻を購入して読んでしまいました。恋愛漫画にはそういう力があるよね。  便利な東京で暮らしていた女性がいかにして島根の田舎村に惹き寄せられていくかが読みどころです。  文句なしのハッピーエンドなので、安心して読んで、本を置けます。  次の 

恋愛漫画(含む百合)を読む、読む。

歴史に残る無名の傑作『ヴァンパイア十字界』を読もう!

 最近、わりと生活が昼夜逆転気味になって来ているんですけれど、夜中に読むのがふさわしい作品ということで、城平京&木村有里『ヴァンパイア十字界』を読み返してみました。  いままで何度となく読んで来た作品ですが、いまあらためて読み返してみても、歴史的大傑作という評価は揺らぎません。  親しい人には「とにかく読め!」といって押しつけたいレベルのマスターピース。  いま単行本を新刊で入手する方法がないらしいことが残念ですが、Kindleでは買えるので、そちらで入手してもいいかも。  古本で買うとまとめて数百円という値段でもありますしね。  いや、しかし、これはほんとうに素晴らしい漫画です。  同じ城平さん原作の『スパイラル 推理の絆』や『絶園のテンペスト』と比べても、ぼくは一段階高い評価を与えたい。  まあ、アニメ化した『スパイラル』などと比べると知名度では遥かに劣っているのですが、内容の素晴らしさは凄まじいものがある。  もっとも、絵柄を含めた作中の描写が原作の深みを表現しきれていないところがあって、完璧とはいいがたい作品でもあるのですが、シナリオの素晴らしさは絶品です。  過去十年間で読んだ作品のなかでも最高といっていい。  第1巻の1ページ目から最終巻のラストページに至るまで、すべてが緻密に組み立てられていて圧巻です。  この漫画の最大の凄みは、現代では失われた「王」というものを正面から描こうとしている点にあります。  本書で描かれる「至高の王」とはヴァンパイアたちの帝王ローズレッド・ストラウスその人。  物語開始の時点ですでに国を失い、亡国の王となっているこの人物がいかなる意思で生きているのか、その謎がこの物語のすべてを貫いています。  詳しくは語れませんが、このストラウスの動機という謎を巡って、物語は二転三転します。  普通はまあ、二転三転といってもそう物語の根幹がころころ変わるはずがないのだけれど、この作品は違います。  それはもう、ストーリーーの骨格の根底のところから完璧に逆転する。  その昔、1000年前、その運命の日にいったい何が起こっていたのか、登場人物各人に異なる認識があり、なおかつそのほとんどが一面的でしかないという展開の妙にはほんとうに驚かされます。  至高の王ローズレッド・ストラウス――すべての真実が明かされるとき、かれがいかに重いものを背負っていたのか、読者は戦慄とともに思い知るはずです。  まさに孤高の英雄。凡庸な支配者とは格が違います。  余談ですが、こういう「王」の姿を見せられると、「夜神月ってダメな奴だったんだなあ」と思いますね(笑)。統治者としての器量が違いすぎる。  しかし、まさにそうであるからこそ、 

歴史に残る無名の傑作『ヴァンパイア十字界』を読もう!

本格ミステリ+青春暴走コメディ! 『ハルチカ』が面白いよ!

 初野晴&ぶーた『ハルチカ(1)』を読み終えました。  同名のアニメの放送に合わせて第1巻が発売されたのだと思いますが、一作の漫画としてなかなか面白い作品に仕上がっていて、オススメです。  幼馴染みの少年ハルタと少女チカが、さまざまな謎を解きながら吹奏楽の甲子園「普門館」を目指すというストーリーなのですが、面白いのはハルタもチカもある男性教師に恋しているということ。  チカは「こんな三角関係絶対に認めない!」と叫びますが、しだいになし崩し的にその関係に慣れていくことになります。  色白の美少年で推理の天才という設定のハルタなのですが、その挙動はコミカルで、読んでいて楽しいものがあります。  ここらへんの設定を受け入れられるかどうかが、このシリーズを楽しめるかどうかに関わって来るでしょうね。  とはいえ、もともと原作はライトノベルでもなんでもない本格ミステリのシリーズなので、あまりわかりやすくキャラ萌えに走ったりはしていません。  あくまでキーとなるのはさまざまな「日常の謎」。  そういったところをどう評価するかで、この作品の全体評価も決まって来るだろうと思います。  ぼくはといえば、原作小説は大好きでずっと追いかけています。  本格ミステリとしての洗練と青春小説としての楽しさをここまで高次元で両立させている作品は数少ないでしょう。  既存作品でいうと『響け!ユーフォニアム』と『氷菓』を足したような内容というのがわかりやすいかもしれません。  ひとが死なないタイプのミステリと青春ドラマを両立させているところに面白さがあるわけです。  とりあえずこの第1巻で扱われている「謎」はすべて白面のルービックキューブをどうやって解くか、というパズル。  すべてが白ということは解けているか解けていないかも判断できないわけで、いったいどうやってこの矛盾を解き明かせば良いのか?  非常にヴィジュアル的に映える「謎」だと思います。  それに加えてハルタとチカと有象無象たちの暴走的ともいえる青春コメディが描かれるわけで、これは面白い。  アニメはおそらく1クールだと思うので、漫画もそれに合わせて数巻で終わるのかな?   たぶん原作第2巻『初恋ソムリエ』のエピソードを消化して終わりになるのではないかと思います。  原作小説は 

本格ミステリ+青春暴走コメディ! 『ハルチカ』が面白いよ!

新しい『スター・ウォーズ』を目撃した。

 いまさらですが、『スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒』を見て来ました。  ぼくはさほど『スター・ウォーズ』に深い思い入れがある人ではないのですが、とても面白かったです。  さすがJ・J・エイブラムス、隙のない仕事をしてくれたと思います。  まあ、そうはいっても、かつてのエピソード4をなぞる形で全編にわたってかなり強引なご都合主義が続き、特にクライマックスなどはちょっと笑っちゃうような無茶な展開になっているのですが、そんなところに文句を付ける人はそもそもいまになって『スター・ウォーズ』を見に来ないですよね。  あの展開は『スター・ウォーズ』の伝統なのだからそれでいいのでしょう。ファースト・オーダー、もっとちゃんと警備しろよと思うけれど。  それにしても、三作の前日譚を経ているとはいえ、数十年ぶりの『スター・ウォーズ』の正統続編です。  少しでも狙いを外したら非難轟轟になりそうなところですが、ほんとうによい作品に仕上がったと思います。  なんといっても印象的なのは、女性と黒人男性というコンビが堂々と主役を張っていることですね。  おまけにレイア姫はレイア将軍になって戦いを続けているし、『エピソード4』の頃にはまずありえなかったであろう描写に胸が熱くなります。  特に今回、初登場となるストームトルーパー出身のフィン。  本来、「何者でもない」身分で、善と悪の壮大な神話的闘争になど参加するべくもないわき役であるはずのかれが、「正しいことがしたい」といってその運命を拒み、主役級の活躍を続けるあたりには感動させられます。  新世代の『スター・ウォーズ』の中心人物が、神に選ばれたフォースの英雄ではなく、ごくありふれた凡人のフィンであるところに制作スタッフの意図を感じたいところです。  ここらへんの、限りなく現代的なキャスティングのセンスが、この映画を、いま見られ、語られるにふさわしい作品にしているといえるでしょう。  時代は変わっているのだなあと強く実感させられる話です。  しかも、この社会的多様性の作品への反映が、ただ単に教条的目的から導入されているわけではなく、物語をより面白くするための必然として組み込まれていることがあきらかなところが素晴らしい。  多様なキャラクターを導入することによって、『スター・ウォーズ』はピュアな白人男性主導の物語よりも面白くなったと思います。いろいろな意味で素晴らしいことですね。  とはいえ、 

新しい『スター・ウォーズ』を目撃した。

「普通」って何か知っているかい?

 最近、Twitterもほとんどやっていないのですが、久々に面白いと思ったツイートがあったのでメモメモ。 おそ松さんをクソニートが酒飲んだりして暮らすクズアニメとして面白がってる僕は、ホモ的に熱狂する腐女子もそれを弾圧するアンチおそ松腐派も「マナーを守ろう」と訴える学級委員長派も全部ピンとこなくて「みんな一体誰と戦ってるんだ」ってなる。「普通に面白い」派もっとがんばってくれ。 https://twitter.com/tarochinko/status/684764087352344576  何が面白いって、期せずして「普通」という見方が相対化されているように思えるところですね。  この発言者さんはおそらく『おそ松さん』というアニメを「クソニートが酒飲んだりして暮らすクズアニメとして面白が」ることが最も「普通」の見方だと考えているのでしょう。  しかし、現実に目立っているのは「ホモ的に熱狂する腐女子」や「それを弾圧するアンチおそ松腐派」だったりするわけで、最終的には「「普通に面白い」派もっとがんばってくれ。」というなんとなく矛盾した発言を行うことになっている。  これはちょっと面白い事態だな、と思うわけです。  わかるでしょうか。本来、「普通に面白い」という派閥は(その作品が面白いといえる出来なら)最も「普通」で、メジャーであるはずなのに現実には「もっとがんばってくれ」と言わなければならないほど少数派に見えている。そのギャップが非常に現代的だな、と感じるわけです。  もちろん、じっさいにはサイレントマジョリティがたくさんいるのかもしれないけれど、いわゆる「腐女子的な見方」がメジャーになって来ると、こういうある種の逆転現象が起こることにもなるのだな、と感慨深いですね。  そしてそれはひょっとしたらだれにとっても望むべきでない展開なのかもしれず、ぼくもまた「「普通に面白い」派もっとがんばってくれ」と思わないこともありません。  しかし、その一方で、ここまでいろいろな見方が氾濫して来ると、いったい何が正しい、正統な見方で、何がマイナーな見方なのか、はっきりと確定させることは容易ではありません。  『おそ松さん』を見て「ホモ的に熱狂する」ことは異端の、奇妙な見方だとだれに断言できるでしょう?  それに比べて「クソニートが酒飲んだりして暮らすクズアニメとして面白が」ることが「普通」だとみなすことにどれほどの正当性があるでしょうか?  まあ、「腐女子」の人たちはその存在を隠したがる傾向があるので(現実にはまったく隠れられていないことも多いわけですが)、「自分たちの見方こそが普通だ!」とは主張しないと思われますが、それにしても見方の多様化は「普通」という概念を歪ませているのだな、と思わせられるのでした。  いい方を変えるなら、 

「普通」って何か知っているかい?
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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