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記事 10件
  • 映画『さよならの朝に約束をかざろう』と『#魔女集会で会いましょう』が興味深い。

    2018-02-28 23:26  
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     『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』、『心が叫びたがってるんだ。』などのアニメの原作、脚本を手がけたことで有名な岡田麿里さんの初監督作品『さよならの朝に、約束の花をかざろう』を観て来ました。
     ほぼネタバレゼロの状態で観に行けたこともあって、なかなか楽しめました。
     大傑作というほどではないかもしれないけれど、かなり良い映画なのではないかと。
     「女性が監督した女性向けの映画」という印象なので、あるいは女性のほうが楽しめるかもしれません。
     『おおかみこどもの雨と雪』あたりがダメだった方もこちらのほうはいける可能性があります。
     『おおかみこども』が「男性の監督した女性映画」だとすれば、『さよ朝』は「女性が監督した女性映画」だといえそう。すごく女の子の辛いところにフォーカスした作品、という印象ですね。
     はたして一般曹にウケるかどうかは何ともいえないけれど、ごく一部の層にはハマる
  • すべての表現は「本物」と「偽物」に分けられるのか?

    2018-02-23 22:19  
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     映画『グレイテスト・ショーマン』を見ました。
     『レ・ミゼラブル』や『アナと雪の女王』、『ラ・ラ・ランド』などのヒットで最近、人気を取り戻しつつあるミュージカル映画です。
     この作品の主人公は貧しい身の上から興行によって成り上がった男、P・T・バーナム。
     かれと、かれが生み出した史上初の「サーカス」がこの映画の中心です。
     このバーナムさん、実在の人物で、それどころかアメリカではとても有名な人のようです。
     史実のかれは、相当に後ろ暗いビジネスにも手を染めたペテン師まがいの男だったようですが、この映画のなかのバーナムはあくまでヒーロー。
     ときに判断を誤り、差別的な行動に走ることもありますが、基本的には家族を愛し、仲間たちを守ろうとする心優しい人物として描かれています。
     アメリカの批評家界隈では、この、主人公の「いい人化」が史実をねじ曲げているということで評価を下げている人も相当多くいるようですが、日本人のぼくとしてはまったく気になりません。
     そもそも史実を知らないのだからいくらかねじ曲げられていても問題はないというものです。
     ただ、それでも少々、人間ドラマの要素が薄いようには感じられました。
     話がとんとん拍子で進んでいくのは軽快なのですが、その分、ちょっと筋書き通りの展開に思われてしまうことは否めないのです。
     きっちり定石通り試練は起きますし、辛い出来事も色々と描かれてはいるのですが、それでもどうにも「軽い」描写に留まっているように思われます。
     音楽とダンスは文句なしに素晴らしいので、ここらへんの人間ドラマの薄さをどう見るかがこの作品の評価の鍵になるかと思います。あまりにも「いい話」すぎて、かえって胡散臭いと思う人も少なくないことでしょう。
     じっさい、ぼくも見終わった後は、「面白いけれど、ちょっとドラマが薄いな」と感じました。
     しかし、ミュージカル部分の見事さと、スピーディーな演出はその欠点を補って余りあるものがあることもたしか。人によって相当に評価が分かれる映画かもしれません。
     さて、この映画のテーマとして、バーナムが生み出したサーカスが、はたして「本物」の表現なのか、それとも「偽物」に過ぎないのか、ということがあります。
     ふたつ前の記事でも触れましたが、ある作品なり芸を評価するとき、それは「本物」だとか「偽物」だと語られることがあります。
     おそらく庵野さんがオリジナルな表現にこだわり、このアニメには「中身」がある、ない、と語ることもそういう文脈の話でしょう。
     しかし、ぼくは思うのです。ほんとうに「本物」の表現などというものがありえるのでしょうか?
     昔には「オリジナル」の作品があったというのは事実なのでしょうか?
     この映画のなかでは、オペラやクラシックバレエといった表現が「本物」の代表例として挙げられています。
     それと比べて、サーカスはあくまで「芸術」とはいえない紛い物のショーとして扱われています。
     ですが、どうでしょう、その区別は意味があるものなのでしょうか。
     ぼくにはそうは思えません。それはようするに単なる差別に過ぎないのではないのでは?
     たしかに、サーカスの表現は、少なくともこの時点では、オペラやバレエのように「上流」の人々の心を捉えるものではないかもしれません。
     けれど、「上流」に通用するものが「本物」だとすることはいかにもばかばかしくないでしょうか。
     それはあまりにも俗っぽい権威主義に過ぎないように思われます。
     そもそも、どんな表現も最初からいきなり「芸術」などというたいそうなものとして生まれるわけではないのです。
     大抵の表現は、まず愚にも付かない、「芸」などと呼ぶこともはばかられる、他愛ないものとして始まります。
     それが時間とともにしだいに洗練され、重厚さを増していき、そして「権威」になっていくのです。
     オペラにせよ、バレエにせよ、最初から「本物」とか「芸術」などと誉めそやされる表現だったわけではないでしょう。
     それらもまた、ごくつまらない芸としてスタートし、やがて「本物」と呼ばれるまでになったのです。
     そうだとすれば、そこにあるものはつまるところクオリティの差だけであり、それ以外の本質的な違いなどないと考えるべきではないでしょうか。
     ぼくは庵野さんが『美少女戦士セーラームーン』を「中身がない」と評していることにも疑問があります。
     ぼくは『セーラームーン』にくわしくないのでその評価が妥当なものなのかどうかはわかりませんが、表現を「中身がある」、「中身がない」と分けること自体が、あまり意味があることとは思われない。
     もちろん、庵野さんや奈須さんは「オリジナル」とか「偽物」という発想にこだわることで作品を生み出せたのだから、それ自体は意味あることなのでしょうが、批評概念としてはそれは価値が薄いと思うのです。
     良い作品があり、そうでない作品がある。それくらいの評価軸がシンプルで良いと考えます。あまり複雑化するとろくなことがない。
     「本物」であれ、「偽物」であれ、良いものは良い。面白いものは面白い。それで十分ではありませんか。ぼくは、そういうふうに考えます。 
  • 『コードギアス』劇場版はダイジェストを超える出来。

    2018-02-22 00:34  
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     映画『コードギアス 反逆のルルーシュ 叛道』を観て来ました。
     ダイジェスト版『コードギアス』三部作の第二章にあたるわけですが、いやあ、面白かった。
     本来、50話ある『コードギアス』本編を2時間超の映画3本にまとめあげるという無茶な企画であるわけですが、実によくまとまっていると思います。素晴らしい構成力。
     しかも今回は相当にオリジナル演出が入っていて、良くも悪くもテレビ版『コードギアス』とは別ものになっています。ここまで来るとダイジェストというレベルじゃないですね。
     よくいわれることですが、『コードギアス』という作品は、ある意味でそのちょうど10年前に発表されている『新世紀エヴァンゲリオン』へのアンサーという側面があると思います。
     『エヴァ』は、長い戦いの果てに大義を見失い、戦うべきモチベーションをなくしてしまった主人公を描いた。
     そして、『コードギアス』はその迷路から脱出するために意識的に悪を選択する主人公の物語を綴っているわけです。
     LDさんはその系譜を「悪を為す系」と呼んでいるようですが、つまりは「世界を変える」という大局的な目的のためにあえて悪の道を進んでいるのが『コードギアス』の主人公ルルーシュなのです。
     ルルーシュの大義は妹であるナナリーに象徴されます。かれは社会的弱者であるナナリーを守るため、テロを初めとする悪行を犯していくのです。
     ルルーシュは「正義の味方」ではありません。一貫して「正義の味方」として行動するのは、かれのライバルであるスザクのほうです。
     しかし、ルルーシュがある種のダークヒーローであることは間違いないでしょう。そして、かれはゼロ年代でおそらく最も魅力的な主人公です。
     ルルーシュは計算外の出来事からたびたびミスを犯しますが、まったくいいわけを口にしません。かれには「ギアス」という人を支配する悪の力を使用するにあたっての覚悟があるのです。
     そんなルルーシュに比べると、スザクのほうはもう少し軟弱かもしれません。ここら辺はスザクのほうが自分の正義を信じているからというところが大きいのでしょうね。
     本来であればスザクのほうが主役だったのでしょうが、時代はルルーシュを必要としているようです。ただし、スザクはヒーローだけにルルーシュの計算を突き破るだけの力を持っている。
     そして、このふたりを中心に、『コードギアス』は群像劇を展開していきます。
     わりに女の子が重要な役目を果たすあたりがぼく的に嬉しいところなのですが、そこら辺には限界を感じないこともない。
     今回、わりを食ったのはなんといってもユフィことユーフェミアでしょう。完璧にルルーシュの計画を打ち破ったにもかかわらず、かれのギアスの暴走によって死んでしまうという必然性のない展開。
     ぼくはこれはユフィが物語のなかでしかるべきポジションを発見できなかったということだと思っています。
     スザクには「ルルーシュのライバル」というポジションがあるのだけれど、ユフィはそれを見つけられない。だから、死ぬしかなかった。そういうことなのではないかと。
     いいキャラクターなのですけれどね。ルルーシュの知略を人徳によって破っていくその能力をぼくは高く評価しています。
     それにしても、今回の映画はテレビシリーズに比べだいぶわかりやすかったです。皇帝シャルルが何を考えているのかとか、テレビシリーズではいまひとつピンと来なかったのだけれど、この映画でははっきりと感じ取れる。
     これは、物語の重要なポイントに合わせて再編集しているからなのでしょうね。
     この第二章でテレビシリーズのかなり後半のほうまでエピソードを消化しているので、おそらく次はもっとオリジナル要素が入って来るのではないかと思います。
     そうでないと、語るべき要素がなくなってしまいますからね。
     すでに現時点でテレビシリーズとの齟齬が発生しているのですが、はたして今後、テレビシリーズと辻褄が合うことはあるのでしょうか。
     このままだと、『復活のルルーシュ』につながったとき、まずいと思うのですが。
     特にシャーリー関係とか、どうするつもりなんだろ。たぶん、『復活のルルーシュ』はテレビシリーズと映画、どちらを見た人も違和感なく楽しめるものにするつもりだとは思うんだけれど。
     それにしても、テレビシリーズでここまでやってしまって、いったい『復活のルルーシュ』では何をやるつもりなのでしょうね。
     ルルーシュの死後数年して再び世界に戦乱が巻き起こる、というのでは二番煎じめいていますし、何より『反逆のルルーシュ』の感動的な最終回を台無しにしている感がぬぐえません。
     あえて新作を用意するからには何かしらアイディアがあるとは思うのですが、ちょっと思いつかないですね。まあ、それだけに楽しみだともいえる。
     『コードギアス』は時代の寵児です。あれから十数年が経ったいま、どのような新たなヴィジョンを見せてくれるのでしょうか。わくわくしつつ待つことにしたいと思います。 
  • 庵野秀明のオリジナル幻想と奈須きのこの偽物論。

    2018-02-13 12:54  
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     『ファイブスター物語』の第14巻が出ました。今回は魔導大戦序盤のベラ国攻防戦。ソープとラキシスを初め、オールスターキャストが関わる豪華な巻となっています。
     また、今回は一巻まるまる戦争ということで、凄まじい量のキャラクターが登場し、情報量も膨大です。
     憶え切れない読者をかるく振り落としていくこの傲慢さ。これぞ『ファイブスター物語』という感じですね。
     前巻の総設定変更で不満たらたらだった読者にもこの巻は好評のようです。作家が実力で読者をねじ伏せてしまった印象。
     『HUNTER×HUNTER』なんかもそうだけれど、読者の不満を無理やり封じ込めてしまうくらいの実力って凄いですよね。
     ここには作者が神として君臨する形の作品の凄みがあります。
     ぼくはソーシャルゲームの『Fate/Grand Order』を遊んでいるのですが、『ファイブスター物語』のような古典的な作りの作品とはまるっきり印象が違う感じです。
     『FGO』はどちらかといえば作り手と受け手、そして受け手同士のコミュニケーションに面白さがあると思うのですよね。
     つまり、作り手が作品を投げかける。すると、読者がそれを二次創作を初めとするあらゆるやり方で消費していく。それが『FGO』のようなコンテンツの魅力。
     『FGO』のシナリオが傑出して面白いとはぼくは思わないのだけれど、膨大なキャラクターを使ってしょっちゅう「お祭り」を繰りひろげている楽しさはたしかにある。
     いま、『ファイブスター物語』のスタイルを「古典的」と書きましたが、さらに時代をさかのぼればおそらく物語は作り手と受け手のコミュニケーションのなかで可変的に綴られていたはずなのですよね。
     作家が神のごとく作品世界をコントロールするようになったのは紙の本による出版というシステムが成立してからでしょう。
     その意味では、『FGO』のようなスタイルは超古典的といえなくもないかもしれない。
     何百年も何千年も昔、人々が焚き火を囲んで話しあい物語を紡いでいったことのデジタルな再現というか。
     実はいまから20年以上前、1996年の段階で、庵野秀明さんがこれに関して鋭い指摘をしています(https://home.gamer.com.tw/creationDetail.php?sn=863326)。

    庵野秀明:
    『ガンダム』のとき、すでに(監督の)富野由悠季さんが、自分の仕事とはアニメファンにパロディーとしての場を与えているだけではないかという、鋭い指摘をなされていた。僕もそれを実感したのは『セーラームーン』です。あのアニメには中味がない。キャラクターと最低限の世界観だけ、つまり人形と砂場だけ用意されていて、そこで砂山を作ったり、人形の性格付けは自由です。凄く使い勝手のいい遊び場なんですよ、アニメファンにとって。自分たちで創作したいのに自分から作れないという人たちにはいいんでしょうね、アニメーションは。(作品が)隙だらけですから。『エヴァ』もその点でよかったようです。所詮(キャラクターは)記号論ですが。

     
     ぼくのいい方をすると、庵野さんは「神」としてオリジナルな作品を作りたいのに作れないということで悩み、最終的に「自分自身の人生だけがオリジナル」ということでああいう物語を作りだしていったわけです。
     この後、20年かけて「人形と砂場」の方法論は洗練されていき、『FGO』のようなコンテンツというか「場」が生み出されることになった。
     それはもちろん「小説家になろう」あたりとパラレルだし、とても現代的な現象ではあるのだけれど、ひょっとしたら庵野さんあたりは苦々しく考えているかもしれない。
     ただ、オリジナルな表現という幻想だとか、作者が「神」として完成されたコンテンツを送り出すというシステム自体が近代独特の特殊な方法論でしかないことを考えるなら、『FGO』的な作品を一概に非難することもできないはずです。
     さらにはこういう意見もあります。

    興味深いのは、ここで、僕の中で逆転現象が起きたこと。
    基本、アニメ・マンガが大好きで、その話がしたくて、「場」を求めていたんです。
    それは今も変わりません。未だにプリキュア5とかけいおん!とかアイマスとか凸守とか山田葵とかみつどもえとかガルパンとか上坂すみれとかアスカとかアスカとかアスカとかの話したくて、うずうずうずうずしてますよ。
     
    でも、「今期何見てる?」って言うようになってる自分にも気づきました。
    もう話す「仲間」がいるから、そこで会話の題材となる作品を、逆に「場」にしているんですよ、ぼくが。
    「題材があるから場を求めている」んじゃなくて、「自分のいる地点で、砂場となる題材を求めている」にひっくり返っていることが稀にある。
    これ自体が、意外にも楽しいじゃないかと。
    http://makaronisan.hatenablog.com/entry/20130423/1366738022

     うん、まあ、わかる。じっさい、砂場と人形さえあればいくらでも楽しめることはたしか。LINEで『FGO』の話をしてTwitterで二次創作漫画をあさっているだけで十分に楽しいもの。
     庵野さんふうにいうなら、『FGO』は現代日本で最も成功した砂場で、英霊たちは最も魅力的な人形なのだと思います。
     しかし、そこではかつての奈須きのこの才能の鋭さは陰をひそめている。ちょっと残念ではありますね。
     『Fate/stay night』では「偽物」という言葉がひとつのテーマになっていました。
     庵野さんがオリジナルにこだわるのに対し、より下の世代の奈須きのこは「偽物」でしかありえない自分をより肯定的に受け止めようとしているように見える。その果てに『FGO』がある。
     そうだとすれば、『FGO』を否定的に捉えることはできないのかもしれない。ぼくはどうしてももうひとつ物足りないのだけれど……。
     作者が「神」として振る舞う宗教型コンテンツと作者も含めて「場」を楽しむ砂場型コンテンツ。現時点ではどちらが優れているともいえませんが、今後、状況がどう変化していくのか、注目したいところです。 
  • ブログでお金を稼ぐためにはどうすればいいのか? ひとつの実験。

    2018-02-12 09:30  
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     お金のことをずーっと考えています。
     このブログでは月額300円ほどいただいて購読してもらっていて、そのうち何割かがぼくの懐に入るシステムになっています。
     常日頃からプアなぼくとしてはありがたいことこの上ない話なのですが、同時に「広く記事を読んでもらえない」という問題も発生しています。
     会員数が何千人もいればそれでいいのですが、どうしたってそこまでとどかない以上、せっかく記事を書いてもわずか数百人の人にしか読んでもらえないことになるわけです。
     正直いって、これは残念な話。有料で書いている以上、ほかのブログに転載するわけにもいかないし。どうしたもんじゃろうのうとここ何年間も考えているのです。
     ユーザーの側の利便性からいえば、無料で手軽かつ無限に読めるシステムがいちばん良いわけです。
     ブロマガのシステムはそれを歪めているということもできるでしょう。でも、お金をもらうためにはそうやって歪めるしかないのが現状なんですよね。
     ここらへんの議論はブロマガが導入されたときにさんざん行われたと思いますが、でもアンサーは出ていません。
     ぼくとしては、ほんとうはブロマガを無料公開したい、でも、そうするとお金にならないという矛盾を抱え込んでいるわけです。
     で、正直いって、少なくともぼくの場合、このままだとジリ貧なんですよね。広く読まれる無料の文章を公開できないから知名度や色々な可能性も狭まっていく一方だし、ブロマガの会員そのものも減っています。
     それはイコールで収入が減っていることを意味しているわけで、このまま同じ状況を続けることは悪手だと断言できる。
     だからといってどうすればいいのかというと――どうすればいいんでしょうね。いままで電子書籍とか、文章のマネタイズ手段を色々と試してみましたが、ぼくの知名度&コンテンツ製造力だと「ほとんどお金にならない」というのが現実のところです。
     そこら辺をよくよく考えていくとネットでマネタイズすることそのものが無理なのかもしれないと思えてきますが、それいっちゃうとぼくは食っていけないわけで、話はまた同じところに戻ってきます。
     このままだとジリ貧だよなあ。うーん。ほんと、どうしたものなのだろう。
     まあ、ぼくの場合はぼくひとりが食べていければいいので、ほんの数百万円もあれば十分に暮らしていけるのですけれど、このままだと将来が不安です。
     どこかで何かしらチャレンジに出るしかない。というわけで、とりあえずブロマガをひっそり無料にしてみようかな、ということを考えています。
     いきなり永続的に無料にするのは怖いので、とりあえずしばらく記事を無料にしてみようかと。それでどれだけ会員が減るのか試してみる。
     まあ、無料で記事を読める以上、月額300円はいわゆる「お布施」ということになります。あえていうなら記事がメール配信されるシステムにお金を払ってもらう、ということになるかなあ。
     もちろんそんなものを払う義理はどこにもないので、会員数は確実に減ることになるかと思いますが、でも、ここらへんで勝負に出ないとどうしようもないという気もするのですよね。
     まあ、ただ単に会員が減って元に戻して終わることになるかもしれませんが……。
     ブロマガの会員を減らす以上、どこかでその分を補填するだけの収入を得る必要があるのだけれど、どうすればいいでしょうね。
     おそらくセミナーとかオフ会とか、そういったものを開いて収入を得るのがいちばんだと思うのだけれど、ぼくは何といっても新潟県在住で東京でセミナーを開くのはむずかしい。
     そして、セミナーなんてやってもそこまで人が集まってお金になるとも思えないですしね。
     結局、ぼく自身がそこまで魅力がある文章を書けないということが最大の問題なんだよなあ。うーむ、絶望的な結論になってしまった。
     そこそこ文章力はあると思うのですけれど、それをお金に変える手段がない感じですね。
     文章でお金を稼ぐためにはそれだけ魅力がある文章を書けることが最低限の条件であることはいうまでもないのですが、ぼくはその条件を満たしていないのかもしれない。つ、つら。
     まあ、とりあえずこの記事を無料にしてみるか。読者の方には今後、無料で読める記事が混ざってくるかもしれないという認識でいていただければ。
     それではお金を払う気にはなれないということなら、退会してもらうよりほかないかもしれませんね。
     ぼくとしては会員が減ると大きなダメージなので、できればやめてほしくないわけですが、それはまさにぼくの都合でしかないわけで、会員の方に強制できるはずもない。
     どうやったらネットで文章を書いてお金を稼ぐことができるか。いままでもトライアル&エラーをくり返してはきたのですが、ほぼすべて失敗というのが現実でした。
     あまり変なこともしたくないしなあ。悩むところです。 
  • ヴァーチャル・リアリティは「自分自身からの解放」をもたらすのか?

    2018-02-08 02:31  
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     「おじさんが心の中の美少女に気づくとき~VRが導く「外装からの逸脱または解放」(https://togetter.com/li/1196771)」というまとめが面白い。
     つまりはVRで美少女になり切ることによって、現実世界ではどうしても付きまとう「外装の呪縛」から解放されるという内容なのだけれど、『ソードアート・オンライン』というより柾悟朗の『ヴィーナス・シティ』めいた話だと思う。
     いくつもの意味で興味深い。このまとめでは、50代の男性が「初音ミクとしての自分」に目覚めていくプロセスが綴られているのだが、はたしてぼくなら、「VR内での初音ミクの肉体」を「自分」として感じられるだろうか。
     あるいは、どんなに自由に動かせたとしても、あくまでそれは「他者」としてしか感じられない気もするのだ。
     あるいは、仮にVR内のミクを「自分」として感じられたとしても、そこから現実世界に「帰還」したと
  • たまには理解を絶する映画を見よう。

    2018-02-06 23:16  
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     どもです。結局、数日空いてしまいました。なかなか毎日更新はむずかしいですね……。
     最近は『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』を再開してプレイしています。
     いまさらぼくがいう必要もありませんが、驚異的な傑作ですね。
     恐るべき完成度もさることながら、何より素晴らしいのは遊んでいてワクワクするところ。少年の日の冒険の楽しさを思い出させる作品です。
     『スーパーマリオオデッセイ』と並んで文字通り世界最高峰のゲームなので、しばらく暇は潰せそう。
     いや、『プリティーリズム オーロラドリーム』も見ないといけないし、読みかけのライトノベルも大量にあるのですが。
     よく無人島に一冊本を持っていくなら何にするか?という話がありますが、いまの時代、スマホがひとつあればいくらでも暇つぶしできますよね。まあ、電源が切れないならという条件だけれど……。
     さて、それはともかく、大林宣彦監督の最新作『
  • 泣き叫ぶインナーチャイルドを救え。

    2018-02-03 06:10  
    51pt
     ぐぬぅ、起きたら朝だった。
     とりあえず『プリティーリズム オーロラドリーム』、第16話まで視聴しました。みおんさま、何気にいい人だな。
     あいらの善良かつ親切だからこその無神経さもちょっと描写されるようになってきている感じ。あとはぼくのりずむちゃんがどう活躍するかだよ。
     まあ、まだ先は長いので、ゆっくり見ていこうと思います。
     あいらはぼくがいうところの「光属性」のキャラクターなんですけれど、だからこそ、りずむのなかの闇に気づけないという描写は深いですね。
     そういうものだよね。過剰なまでの愛情を受けて育ったあいらには、りずむの孤独は伝わらない。人は親友同士でもたやすく理解しあえはしない。
     なかなか辛い話ですが、どうなるのだろう。楽しみ。
     それにしても、あいらとりずむ、あるいはみおん、だれに肩入れするかは好みが分かれるところだと思いますね。
     あいらは両親から過剰なほどの愛情を受
  • 「ほんとうのこと」から目を逸らしてはならない。

    2018-02-02 03:15  
    51pt
     また更新が遅れてしまった。まあ、1日深夜の更新扱いということでよろしくお願いします。
     最近はNetflixで麻薬汚染都市のドキュメンタリーを見たり、『プリティーリズム』見たり『プリティーリズム』見たり『プリティーリズム』見たりしています。
     ……終わらねえ。このアニメ、マジで終わらねえ。少しずつ暗い要素が出てくるあたりが何とも素敵ですね。
     女児アニメもたいがいすごい沼だと思います。暇人のぼくでなければ見ていられないぞ。
     これで『プリキュア』とか見始めたら恐ろしいことになりますね。感謝の正拳突きならぬ感謝の女児アニメ鑑賞。考えるだけでもぞわっとする。
     が、どんなに長いアニメも、ぐだぐだ文句をいわず見ていればいつかは終わるのだ。ふぁいとだよ。りずむちゃん可愛い。
     それにしても、こういう王道の「物語」を見ていると、やっぱりぼくはこういうものが好きだなあと感じますね。
     ある意味では泥
  • 女児アニメを見て考える愛と孤独。

    2018-02-01 02:41  
    51pt
     ども。1日に1本記事を書くという約束をしたのに早くも予定より遅れていますね。申し訳ない。
     まあ、この記事は31日の記事ということでよろしくお願いします。
     さて、てれびんにそそのかされたこともあり、『プリティーリズム オーロラドリーム』を見ています。
     これは「プリズムショー」と呼ばれる、アイススケートとアイドルステージを合わせたようなショーに挑む少女たちを描く物語で、文脈的には『カレイドスター』あたりに連なる作品です。
     女児アニメだけあって4クール51話もあるのですが、とりあえず第6話まで見てみました。
     この時点ですでに先行きに暗い影がただよっていることを確認できますが、この先に色々と辛い展開が待っているらしいので、なかなか楽しみです。
     いかにもぼく好みの展開っぽい。情報源はこの記事。

     あいらがりずむの手をつかもうとした瞬間、りずむの姿は消えてしまう。あいらが「本当のりずむ