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もっとSF映画を見たい。

 ども。  世間は『スター・ウォーズ』上映で大騒ぎになっているようですが、ぼくはそこまで関心がないので家で漫画を読んでいます。  『スター・ウォーズ』が色々と凄いのはたしかなのでしょうが、何しろぼくはリアルタイムで体験していないのでどうも実感がありません。  むしろ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』あたりのほうが「すげー」という印象がありますね。  そのあとのSFX系映画に関してはあまり知見がなく、「きっとすごい映像になっているんだろうな」と予想している程度。  最近のそれ系映画で見ているものといえば、『アベンジャーズ』と『パシフィック・リム』くらい。  どちらも友人の家で観ました。ひとりだったら観なかったかも。  この手の映画に興味がないかといえばそんなこともなく、基本的にヒーローの物語は大好きなのだけれど、どちらを優先するかとなると人間ドラマのほうを重視して映画をセレクトしているため、結果としてはSFX系の映画から遠ざかることになってしまっているのでした。  ちなみに、『ハリー・ポッター』も見ていません。  『ロード・オブ・ザ・リング』は全部見ましたが、それも10年以上前のことですよね……。  うーん、気づいたらほんとうにこの手の映画から遠ざかっているな。  その理由のひとつに、ものすごい特殊効果を見てもあまり素直に「すげー」と思えなくなったということがあって、まあ、ようするに慣れて食傷気味になってしまっていたのですね。  でも、それからもう十数年とか経っているわけだから、現代のコンピューター・グラフィックスなどには普通に感動したりするかも。  『スター・ウォーズ』も見に行ってみるか……。  しかし 

もっとSF映画を見たい。

物語論。奈須きのこの世界は「拡散」する一方で「前進」しない。

 昨夜、LINEで話したことがちょっと面白かったのでメモしておこう。  最近、『アベンジャーズ』とか『バットマンVSスーパーマン』とか、本来、独立しているヒーローの映画を組み合わせた映画作品が次々と発表されて話題をさらっている。  映画史的にはそれなりに画期的な事態だと思うのだが、この種のクロスオーヴァーは、アメコミの歴史のなかではくり返し行われてきたことであるらしい。  というのも、本来、「なんでもあり」のアメコミでは、バットマンやスパイダーマン、ウルヴァリンといったキャラクターだけを活用してさまざまな実験的な作品が描かれてきたからだ。  それもこれも作家ではなく出版社が著作権を有しているからではあるのだが、あるキャラクターが何度も死んだり、そのたびに生き返ったり、いろいろなキャラクター同士がくっついたり離れたりすることはかなり常識的に行われているのだとか。  日本人の目から見るとかなり奇妙にも思える話ではあるが、あらゆる物語の根源である神話や民話に近いと考えると、こちらのほうが正統な物語の系譜であるといえるかもしれない。  一方、より作家的/近代的な作品が多いと思われる日本ではそういうオールスターキャスト的作例は少ないと思われる(ないことはない)。  『ガンダム』とか『仮面ライダー』あたりは比較的近いだろうか。  もっとも、『ガンダム』でさえひとつの宇宙を共有しているというわけではない。  その一方で「ある作家が描いた複数の作品がひとつのバックグラウンドを共有する」という真逆の現象はよく起こる。  それはたとえば永井豪の作品がそうなったように、独立して描かれた複数の作品が最終的にはひとつの物語世界へ流れ込んでいく、という形を取ることもあるし、奈須きのこの作品がそうであるように、初めからひとつのバックグラウンド世界を想定して書かれることもある。  『エヴァ』とか『ジョジョ』とか『ファイブスター物語』などを見て行くと、まったく異なる作品を作り出そうとしても最終的には同じものに仕上がってしまう作家がいることもわかる。  その作家が自分の内面世界を象徴的に描き出しているだけなのだと考えるなら、それは当然のことであるのだろう。  『エヴァ』にしても、新劇場版のシリーズは「まったく新しいものを作ろうとしても『エヴァ』になってしまう」というところから「それなら『エヴァ』にしよう」ということになったらしいし……。  とにかく、このように、それぞれ独立した物語であるように見えていた物語がひとつの物語世界の出来事として語られることは洋の東西をまたいで少なくない。  もっというなら、その際、「公式」か「非公式」か、一次創作か、二次創作か、という話は原理的にはあまり意味がない。  重要なのは、一度発表された魅力的な物語は、その瞬間から「拡散」しはじめるということである。  たとえば、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズものは発表以来、数知れない「パスティーシュ(贋作小説)」を生み出している。  その数、数万ともいわれるパスティーシュは出来も内容もさまざまだが、シャーロック・ホームズないし類似の人物が登場していることだけは共通している。  これをすべてひとつの世界のパラレルワールドの出来事として考えると、ちょっと面白い。  というか、こういう「同じキャラクターが登場するが内容的に矛盾する複数の物語」を合理的に整理しようとすると、必然的に「平行世界(パラレルワールド)」を持ちださざるを得なくなるということだろう。  逆にいえば、その設定さえ持ち出してしまえばどんな異質な物語であろうと、異なる世界線の出来事として整理してしまえるということでもある。  先述した奈須きのこの作品世界は、それぞれの作品がパラレルワールドの関係にあり、しかもひとつの作品内でもパラレルな複数の物語が展開しているという非常に複雑な構造になっている。  そこに『Fate/Zero』を初めとする「外典」がいくつも加わるわけで、もう何がなんだか、という状況ではある。  だから、たとえば『Fate』なり『月姫』の番外編的新作が作られても、それは必ずしも『Fate』や『月姫』の物語が先へ進んだことにはならないわけだ。  それぞれ「Fate」とか「Unlimited Blade Works」と名付けられた物語はあくまですでに完結しており、それはもう変わることはないということなのだろう。  ここまで書いてきて、それでは、一本の連続した物語とはどう定義すればいいのだろう、ということが頭に浮かんだ。 

物語論。奈須きのこの世界は「拡散」する一方で「前進」しない。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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