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「生きることに失敗した人々」を暴力以外の方法で救済できるか?
2015-04-04 22:3851pt
森恒二『自殺島』が佳境を迎えていますね。
法の通用しない「自殺島」に追いやられた自殺未遂者たちがそれぞれに社会を作り上げ、いま「戦争」に至ろうとしています。
自衛のためとはいえ、ひとを殺しても良いのか? 善も悪もない凄惨な戦争の先に解決は存在するのか? 非常に重苦しい展開になっているといえるでしょう。
この物語の基本の設定となっている自殺未遂者が追放される「自殺島」という設定は、もちろん荒唐無稽なものですが、ぼくたちの社会がじっさいに抱えている問題を考えてみれば、ある種の説得力を持っていることもたしかです。
「活き活きとして生きていくというあたりまえのことに失敗した人々を抱える社会である」という問題です。
この問題を考えるにあたって非常に興味深いのがいわゆる「戸塚ヨットスクール事件」ですね。
体罰を肯定して教育を行うことを前提とした「戸塚ヨットスクール」に送り込まれたひとりの少女が入って三日後に自殺してしまった、などといった一連の事件です。
この事件の30年後の戸塚ヨットスクールを追った『戸塚ヨットスクールは、いま』という本を読んでみると、スクールの教育理念やその歪みなどがよくわかります。
ただ、ここには非常にむずかしい問題があると考えざるをえない。
体罰を教育として肯定したり、いじめには「正しいいじめ」があるとしたりといったスクールの理念を肯定することは到底できません。
しかし、それなら、いま現在苦しんでいる子供たち、若者たちやその家族をどう救えばいいのか? それに対して有効な手立てはだれもしらないわけです。
いや、もちろん、この現代社会においても、大半の子供はすくすくと健全に育ち、ほとんどの若者はまっとうに生きていくことでしょう。
ですが、それでも、なお、一部にはそのレールから落ちこぼれる人間がいる。
そして、そういう人を救済してくれるシステムはどこにも存在していないのです。
95%の人間は適応しているんだ、といってものこり5%をどうするのか?という問いに答えたことにはならないですよね。
そういうひとはときにニートと呼ばれ、あるいはひきこもりといわれたりしますが、その名称の正否はともかく、この社会の脱落者であるとはいえると思います。
まあ、ぼくもそのひとりであるかもしれないわけですが、その「当事者」、ないし「もと当事者」として、やはり問題は深刻であると思います。
もちろん、ニートやひきこもりの問題は労働問題として考えるべき一面もあり、必ずしも本人たちに問題があるとはいえないかもしれません。
すべてを本人たちの内面に見いだそうとすることはあきらかな誤謬です。また、精神的な病気なら専門家に対処を任せればいい。
とはいえ、逆にいえば、状況が改善すれば社会に参画できる人間ばかりではないということにもなる。
ぼく自身がまさにそうだと思うのですが、どうしたって社会に自分の居場所を見いだすことができそうにない人間もいるわけです。
そういう存在にどう対処するか? どのようにすればかれらの心を救えるのか?
いろいろな意見があり、またいくつもの理論が打ち立てられていますが、決定的なものはありません。
もし -
どんどんひとが死んでいく物語は刺激的だろうか。
2015-03-24 22:2351pt
ども。海燕です。
どうやら風邪をひいたらしく、ふらふらしています。
いまは薬が効き始めたようで正常になったけれど、さっきまでもうろうとしていました。
失って初めてわかる健康のありがたさ。ぼくもいいかげん歳老いたので、健康に気を遣わなくては。
さて、そういうわけできょうは特にネタはありません。
そこで、最近ちょっと興味がある「デスゲーム」の話でもしようかと。
デスゲーム。ある厳密なルールのもと、命を賭けてゲームを展開する物語の一ジャンルです。
古くは山田風太郎があり、また横山光輝があるわけなのですが、現代的な意味でのデスゲームものの嚆矢はやはり『バトル・ロワイアル』になるでしょう。
いまさら詳細に説明する必要はないと思いますが、この小説の目新しさはデスゲームの戦場を現代(一応は架空の国家ではありますが……)に持って来て、一般の中学生たちを主人公にしたところにあります。
話の展開そのものは『甲賀忍法帖』や『バビル2世』に近いところがあるとしても、その文脈がまったく違っているのですね。
先日のラジオでLDさんが話していましたが、デスゲームものが流行する背景には「生の不全感」があるように思います。
「生きているということ」が満たされていないから、死が目の前にある極限状況に「生の燃焼」を求める。これは非常にわかりやすい話だと思います。
デスゲームものの最高傑作のひとつである『DEATH NOTE』にしてからが、主人公夜神月が「退屈だ」と感じている場面から始まるわけです。
社会を変えるとか新世界の神になるとかいった野望はあるにしても、あくまで「退屈な生」を充足させることが本来の目的。
スリリングな戦いの日々はすべてそのためにあるのです。
つまり、デスゲームものとは「生の不全感」を癒やす方法論のひとつだということ。
その意味で、暴力に充足感を求める『ホーリーランド』とか『自殺島』といった作品に近いところにあるといえます。
ここまでは、まあ、わかる。
ところが、ぼくが見るに、最近のデスゲームものは「死」が非常に軽く扱われているように思えるんですよね。
『少年マガジン』の『リアルアカウント』とか『神さまの言うとおり』あたりが象徴的ですが、「死」の描写がやたら軽い。
あたかも文字通り「ゲーム」に過ぎないかのように見える。
いや、ゲームであってもかまわないのだけれど、そのゲームに命がかかっているという切迫感が、『リアルアカウント』などには見られないと思うのです。
これには異論もあるかもしれません。
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