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記事 10件
  • むにゃむにゃラジオ、始まるお!

    2017-03-30 20:10  
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    20時30分からてれびん(実体)とむにゃむにゃラジオを放送します!http://live.nicovideo.jp/watch/lv294479885
  • 趣味共同体「オタクヴィレッジ」は可能か。

    2017-03-25 15:27  
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     引っ越しをしようかなあ、とぼんやり考えている。といっても、いまある家を捨てるというのではなく、どこかにもうひとつの拠点を持てないかということだ。いわゆる「多拠点生活(マルチハビテーション)」である。
     都会と田舎、あるいは国内と海外、異なる場所に複数の拠点をもつ他拠点生活は最近流行のキーワードのひとつで、じっさいに実践している人たちも大勢いる。
     そこで、ぼくも真似したいと思うわけなのだ。しかし、ぼくにはいまのところ家を買うほどのお金はない。そこで、とりあえず「お試し」として、どこかでウィークリーマンションでも借りようかなと思っている。
     友人がたくさんいる関西、それも兵庫のあたりなどどうだろう。ちょっと検索してみたところ、時期によっては10万円以下で借りられる物件も少なくないようだ。そして、当然、家具家電は完備である。
     こういった物件を活用しつつ、日本中、あるいは世界中を旅するように
  • なぜ、大人は子供にサンタクロースの存在を信じさせたがるのか。

    2017-03-23 23:05  
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     植島啓司『君と地球を幸せにする方法』を読み上げた。この本のテーマのひとつは「贈与」の問題で、なかなか面白い論考が展開されている。ぼくはいままでずっと贈与について考えていた。
     宮沢賢治や金子みすずの作品に興味を持ったのも、贈与について考えていたからである。なぜ、贈与について興味を持つのか。それは、人は人に何かを与えることができたとき、最も幸福を感じるのではないかと思うからだ。
     ぼくは幸せになりたい。だから、どうしても贈与の問題を考えないわけにはいかないのだ。思うに、人はひとりではなかなか幸せにはなれない。もちろん孤独を好み、ひとりを愛する人もいないわけではないだろうが、大半の人は生涯ひとりぼっちでだれともコミュニケーションを取れなかったら辛いと思うだろう。
     また、どれほど孤高を好む人にしても、最初からひとりであったわけではない。アドラー心理学について書かれたベストセラーの『嫌われる勇
  • 「オタク」は死んだし、これからその残像も薄れていく。

    2017-03-20 06:56  
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     以前にも取り上げたことがありますが、佐々木俊尚さんに『そして、暮らしは共同体になる。』という本があります。これは、ぼくが「暮らし」について考えていたこと(に近いこと)を「まさに!」というような絶妙な表現でまとめあげてくれた一冊です。
     この本のなかでは、「上へ、上へ」とか「外へ、外へ」といった志向性がしだいに「横へ、横へ」といった方向に変わってきていると記されています。
     つまり、わけのわからない上昇志向や反逆志向に捉われることなく、自分と外界を区別せず、都市やコミュニティをうまく活用してオープンでミニマムに暮らしていく、それが現代の理想的な生活だというわけです。
     この考え方は実によくわかります。じっさい、ぼくもそういうふうに暮らしていきたいと考えているからです。
     Phaさんが提唱しているような「もたない幸福」に近いものがありますが、じっさいにまったくお金を稼がないで生きていける人は
  • 『ベイビーステップ』と『灰と幻想のグリムガル』に共通する感性を見た。

    2017-03-17 11:57  
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     ペトロニウスさんの最新記事が面白かったので触発されてぼくも何か書いてみようと思います。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20170316/p1

    別に書こうと思っているのですがラジオでしゃべったのですが、鶴巻和哉監督の『龍の歯医者』の男の子も女の子も、旧世代の宮崎駿や庵野秀明に比較すると、自意識の在り方が、凄い弱い。というか、「運命を受け入れている状態」であることに疑問を持たないという言い方になるんですが、それを「弱い」というかは微妙なところで、強い目的意識を持つ宮崎駿の主人公に対して、それでいいのか?と疑問を持ち悩み続けてすくんで動けなくなっていくのが、押井守、庵野秀明という後続のクリエイターの系譜なんですが、その後になると、そういった「疑問自体」を持たないで、あっけらかんと世界に対する姿勢を持つようになるんですね。僕は、『フリクリ』とかの話
  • 負け組のまま最高に自由で贅沢な暮らしを生きるにはどうすればいいか。

    2017-03-16 15:04  
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     何年か前から「暮らし」に興味を持っている。ここでいう「暮らし」とは、いかにして自由で快適な生活を送るかというテーマのことである。
     好きな時に好きなことをして、多様な趣味を楽しみ、なおかつ充実した人生を過ごすためにはどのような方法論を採ればいいのか。そんなことを考えて、何十冊かの本を読んできた。
     ひとつの道標はPhaさんの『持たない幸福論』だ。この本には「日本一有名なニート」であるところのPhaさんがいかにして快適な暮らしを営んでいるかが書かれていて、参考になる。
     ぼくはフリーランスという名目のダメニートなので、その気になればこの本に記されているような「持たない暮らし」を送ることもできそうだ。
     しかし、完全なニート暮らしはやはりそれはそれで辛い。収入がないと自由が制限されるし、暇を持て余すことになりそうだ。
     人によっては「働かない自由」が何より優先されるのだろうが、ぼくは必ずしも
  • Xらじお。

    2017-03-14 17:16  
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     きょう、20時30分ごろからてれびんとラジオを放送します。
    http://live.nicovideo.jp/watch/lv293096273
     X JAPANのドキュメンタリー映画『We are X』とかの話をするんじゃないかと。この映画、面白かったです。けっこうオススメ。
  • 正義のために嫌味をいう奴なんていない。

    2017-03-11 16:40  
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     ぼくはいままで批判と悪口はどこが違うのだろう、そもそも区別できるのだろうか、ということをずーっと考えていたのだが、ふと答えが出た気がするので、ここに記しておく。
     まず、そもそも批判とは何だろうか。goo国語辞書には「人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。」と記されている。つまりおおまかにいって、他者の間違いや問題を指摘することだといっていいと思う。
     たとえば、「1+1=3だ」と主張している人に対し「いやいや、1+1=2だよ」などと指摘することを批判と呼ぶ、といっていいだろう。
     問題は、「1+1=2に決まっているのにアホか(笑)」などという口汚い表現で批判する人がいることだ。こういう批判を、ぼくは「悪口」と呼ぶべきだと思う。
     悪口は、相手に対する反感や嫌悪といった人間の悪意から出て来るものである。しかし、このようにいうと、おそらく反論が返ってくるだろう。
     「自分は悪意でものをいっているのではない。正しいことをいっているだけだ。正しいことを指摘してはいけないのか。お前は他者の間違いを正す自由を否定するのか」と。
     そうではない。問題は、なぜその人は他人を批判する際に、あえて皮肉や嫌味や口汚い表現を採用するのかということなのだ。もし、その人がほんとうに相手に自分の主張をわかってほしい、その人に考えを変えてほしいと望んでいるなら、その人に伝わりやすい表現を選ぶはずではないか。
     「1+1=2だ、バカ」というより、「そこは1+1=2だと思います。ご一考願います」といったほうが伝わりやすいに決まっている。
     あるいは、その人を変えることが目的なのではない、世間一般に対し正しい事実を伝えることが目的なのだというかもしれない。だが、そうだとしても、口汚い言葉を使う意味はない。
     むしろ、広く世間一般を説得しようとしているのなら、必然的に丁寧に説明しなければならないはずだ。口汚い言葉を使えば、その人の主張が通りにくくなるのは上に書いた通りあきらかである。
     つまり、ここでは「人の考えの間違いを正す」という目的と「口汚くののしる」という方法が矛盾しているのだ。なぜか。方法は現実に採用されたものだから、目的に嘘があると考えるしかない。
     つまり、人を口汚く批判する人は、口先では「相手の主張を正したいだけだ」、「それが間違えていることを人々に伝えたいのだ」といっていても、ほんとうはそんなことは望んでいないのだ、ということになる。
     なぜだろうか。思うに、相手が反省し考えを変えてしまえば、一方的に批判することができなくなるからではないか。
     たとえば、一部のフェミニストは男性の差別的言説を攻撃する時、その男性が変わることを望んでいないような態度を取る。しかし、ほんとうに相手に差別をやめてほしいと望んでいるなら、その男性を説得しやすい言葉を選ぶはずだ。
     つまり、そのフェミニストは本心では差別がなくなることなど望んでいない、ただ一方的に差別的な男性を批判しつづけられる状況をこそ望んでいる、ということになる。
     そうでないとするなら、なぜ相手や読者一般に伝わりやすい表現を選ばないのか、おかしいではないか。
     「人を口汚く批判してはいけない」のではない、「人を口汚く批判することはその人の目的と矛盾している」ということなのだ。結局、「自分は世のため人のために皮肉や嫌味を言っているのだ、口汚い言葉を使っているのだ」ということは嘘だということなのである。
     しかし、そういう人は往々にして「いや、自分は世のため人のためにあえてこの表現を選んでいるのだ」というようなことをいう。
     だが、それは嘘なのだ。世のため人のためを考えるなら丁寧な表現になる。それは、そうでなければならないと決められているからではなく、そうであったほうが有効に目的を達成できるからだ。
     口では「公衆の利益のために批判を展開しているのだ」といっても、それが皮肉や嫌味や悪口を含んでいるのなら、そこには欺瞞があるということになる。
     「そうじゃない」というのなら、「では、あなたは何のためにわざわざ人に伝わりにくい表現、つまり目的にそぐさない方法を選んでいるのですか」ということになるだろう。
     あるいは、自分の批判が届かないのはそもそも相手の責任である、ということもできるだろう。自分は正しいことをいっているのだから、相手はどんなに皮肉や嫌味を含んでいてもそれを受け取るべきなのだ、と。
     しかし、これは理想のためなら現実は無視してもいい、という考え方である。この場合の現実とは「どんな正論であっても、口汚い表現を使えば相手が受け取りにくくなること」だ。
     理想としては、その批判が正しければ、たしかにどんなに皮肉をいわれても黙って受け入れるべきかもしれない。しかし、大半の人間はそこまで物わかりが良くないという現実がある。
     批判者はその現実を無視していることになるのだ。つまり、その人は何らかの現実的目的のために相手を批判しているわけではないことになる。
     問題のある発言をした相手に責任があるのはいいとしよう。しかし、それは相手に責任をかぶせられるなら目的が叶わなくてもかまわない、という考え方ではないか。
     いや、自分はただ口汚くののしりたいだけだ、それが目的なのだ、というのなら良い。良くはないが、少なくとも理屈は通っている。
     そう、自分が批判した結果、相手の主張が変わらなくても、何も間違いが正されなくても何の問題もない、おれは自分がすっきりしたいだけだ、ということなら少なくとも矛盾はないのである。
     たとえば、原子力発電所について嘘をついて風評被害をもたらしている人がいるとしよう。で、その人を口汚く批判している人がいて、批判された人が彼をブロックしてしまったとする。
     このとき、批判された側が批判を受け入れるべきであることはたしかだろう。それはそうだと思う。しかし、そもそも何のために批判しているのか、ということなわけだ。
     「批判したいから批判しているだけだ。風評被害なんてどうなろうとも知ったことじゃない」ということならたしかに理屈は通っている。
     けれど、「自分は風評被害を何とかしたいから批判しているのだ」といっているのなら、そのやり方はおかしい。少なくとも最適な方法ではない。
     最適でない方法を取るということは、その理由があることになる。それは何なのか、先に述べたように、多くの場合、「ほんとうは気に入らない相手を口汚く罵ってうさを晴らしたいだけ」ということになるだろう。
     あるいはそうではないかもしれないが、少なくとも「風評被害を何とかしたい」ということは嘘だとはいえると思うのだ。風評被害をなくしたいはずなのに、わざわざその目的を達成しづらい方法論を取っているのだから。
     たしかに風評被害は相手の責任であるかもしれない。しかし、相手の責任であるのなら風評被害は改善しなくてもいいですね?という話になると思うわけだ。
     そこで、そうです、原発で苦しんでいる人のことなんて知ったことじゃありません、というのなら何の文句もない。ぼくはね。心底いやな奴だとは思うが、それだけだ。ただ、そういえる人は少ないとは思う。
     以上、「正義のために嫌味をいう奴なんていない」という話でした。おしまい。 
  • 非モテに品格はあるのか。

    2017-03-07 16:33  
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     『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』という本を読んでいます。タイトルを見て読まずにはいられなかったw といっても非モテの本というよりは、非モテをきっかけにした男性論の本ですね。
     この手のジャンルはけっこう好きで、いままで何冊か読んでいるのですが、どれも論調がじめじめしているというか、「男に生まれてきたこと」に対する苦悩がにじんでいます。
     特に自分の男性性に違和感をもたないぼくとしては、どうしてそんなに悩むのかよくわからん。男性だからといってべつに特定の個性を強要されているわけではないわけで、たとえば暴力的であることは良くないと思うなら、暴力的に振る舞わないよう注意すればいいだけのことではないのかしらん。
     いや、きっとそれだけでは済まない深い人生の懊悩があるのだろうけれど、ぼくにはやっぱりよくわからない。ひたすらマッチョに生きるか、自分自身に強い原罪意識を持つか、二択というわ
  • こいつはまさに大迷惑。

    2017-03-03 10:55  
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     ぼくの一日は、おおよそ、LINEに始まり、LINEに終わることになっています。というのも、朝起きると必ずLINEに「おはよう」と書き、また夜寝る時もほぼ毎回「おやすみ」と書き込むからです。
     いやー、いまとなってはLINEがなかった頃、どうやって暮らしていたのか思い出すこともできない感じですね。LINEはもちろん通話ツールとしても使用できるので、ぼくの日常におけるコミュニケーションはなかばLINEで終始していると思います。
     あとの半分は家族との会話ですから、ぼくの人生においてLINEがいかに大きな割合を占めているかわかると思います。
     LINEのおかげで、ぼくは遠地にいる友人たちとスムーズにやり取りすることができ、ひとりぼっちという孤独から解放されます。映画を見たときなどはまずLINEに感想をアップしますし、何か美味しいものを食べたときもLINEに写真を載せています。
     ぼくの人生はも