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「弱者男性(仮)のつらさ」とはいったいどこから来ているのか?
2021-04-30 00:0650pt杉田俊介さんの新作記事を読んだ。
https://bunshun.jp/articles/-/44981
いままで「弱者男性」と呼ばれてきた人たちの「つらさ」に別方向からスポットライトをあてた興味深い記事である。非常に面白い。が、一方でふしぎと共感がない。
いままでは「弱者男性」と呼称されていて、杉田の言葉では「非正規的なマジョリティ男性」と呼ばれる人たちの「つらさ」に焦点があたっているのだが、ぼくじしんは特に「男性はつらい」とも「男性がつらい」とも思わないから、ほとんど共感できないのだ。
ただ、かれらを横から見ていると、たしかに苦しいのだろうとは思う。本人たちが苦しいといっているのだから、その言葉を否定する根拠はぼくにはない。
だが、見ていれば見ているほど何とも奇妙な気持ちにはなる。かれら、「弱者男性(仮)」ないし「非正規的なマジョリティ男性」たちは、何がそれほど苦しいのだろうか?
そう、ぼくもまた、ただ外的な条件だけを見るならその定義にに十分あてはまっているはずだ。低収入だし、障害者だし、独身だし、恋人も、そしてもちろん子供もいない。しかし、ぼくはべつに自分が不幸だとは思わない。
たしかにお金がないことは不自由ではあるが、時々、てれびんにたかって美味しい寿司を食べられたりする程度でそれなりに幸せである。それではぼくと、「かれら」とは何が違うのか? そこがぼくにはきわめて興味深い。
すぐに思いつくのは、外的な問題が共通しているとするなら、異なっているのは内的な問題だろうということだ。外的な面においてはぼくは紛れもない「弱者男性(仮)」だが、内的にはそうでもないかもしれないわけである。
いい換えるなら、ぼくは社会においては「弱者男性」だが、実存においてはそうではない、ともいえる。
杉田はいう。「非正規的なマジョリティ男性」たちの生のつらさは、「半ば制度の問題、半ば実存の問題」である、と。ぼくにはかれがこのようないい方を選んだ、選ばざるを得なかった理由が理解できると思う。
この記事を読んだうえで、いや、「男性」とか「女性」という区分で考えることそのものがそもそも間違いなのだ、あくまで個人の苦しみの問題でしかないのだから個人という単位で考えるべきだろうという意見を述べている人を何人か見かけた。
これは一見すると正論にも見えるが、「男性」と「女性」のところを「白人」と「黒人」に変えてみるとその問題点がよくわかる(わかる人には)。
たしかに個人の苦しみは個人のものだが、その背景には歴然と社会構造の問題があるわけであり、黒人差別問題(や、白人差別問題)をないことにできないのと同様、女性差別問題(や、男性差別問題)をないことにはできないのである。
したがって、「非正規的なマジョリティ男性」の生きるつらさを語るとき、単に人間としての実存のつらさがあるだけだ、と語ることは端的に間違えている。
既存の弱者男性論やら男性学ではまだはっきりと分析され切っていないにせよ、そこにはおそらく社会制度の問題が関わっているからだ。ただ、むずかしいのはそれは純粋に制度の問題なのであって、制度を改善しさえすれば良くなるともいい切れないことである。
「非正規的なマジョリティ男性」ないし「弱者男性(仮)」の人生にどうしようもないつらさ、苦しみがあるとして(あるのだろう、きっと)、それはただ社会制度から来ているものだとはとてもいえそうにない。その過半はあきらかに個人の実存の問題であるように思われる。
だからこそ、杉田は「半ば制度の問題、半ば実存の問題」というような少々あいまいないい方を採用したのだ。
それは「弱者男性(仮)」のつらさを自己責任論に回収させないためのいい方でもあるし、その一方で「つまり弱者男性をケアしない社会が悪い」といったいい草に終始することを防ぐための論法でもある。
杉田はつまりはこういいたいのだろう。いったい「弱者男性(仮)」ないし「非正規的なマジョリティ男性」たちの「つらさ」はどこから来ているのか? それは制度から来ているとも実存から来ているとも断定することはできない、その両者が複雑に絡み合ってできている、と。
じっさい、そうなのだろうと思う。かれの論旨は非常に明快でわかりやすい。しかし――ぼくはやはりどうしてもここで描かれている「弱者男性(仮)」の姿にまったく共感できないのである。
ぼくは昔から「非正規的なマジョリティ男性」に属するであろう人間たち、つまり過去に「非モテ」とか「弱者男性」とか呼ばれていた人たちに対してシンパシーがない。ただモテないとか金がないとかいったことがそれほど苦しいとは思われないのである。
もちろん、一般的な生活が成り立たないほどの貧困は基本的人権が侵害されている状況であるともいえるし、それがつらいのは十分に理解できる。
しかし、「非正規的なマジョリティ男性」の「つらさ」はそのようなこと(だけ)ではないだろう。
むしろ、それがつらいのは、「一人前の男でありながら人並みの生活費すら稼げないなんて」とか、「同期のほかの連中に比べて自分は給料が少ない。完全に負けている」といった自意識に起因するものだろうと考えられる。
あるいはかれらの収入が少ないことそのものは社会制度の問題かもしれないが、そこから派生している自意識の苦悩は制度の問題とばかりはいい切れそうにない。それはまさに「半ば制度から、半ば実存から」生じている問題なのだ。
したがって、この種の問題を解決するためには、社会制度と自意識の双方をどうにかしなければならないことになる。
まず、外的な社会制度的には、男性だけが特別に「もっと男らしくあれ」とか「一人前の男になれ」といった「男らしさの呪い」をかけられる状況を解決しなければならないだろう。
これらの「呪い」、つまりジェンダーの存在を否定したり疑問視したりする人もいるが、ぼく個人は紛れもなくジェンダーは存在するものと考えている。
ただ、すべてのジェンダーが即ち悪だとも思っていない。結局、それもまたこの社会の文化のひとつなのであって、個人に猛烈に強制されない限りはそこまで問題視する必要はないのではないかとも思うのだ(とはいえ、じっさいには猛烈に強制されているからやはり問題なのだが)。
とにかくジェンダーの呪いは、女性に対してだけではなく、男性に対しても大きな影響を与えている。それらは解決されるべきである、とぼくは思う。その上でこれはごくまっとうな意味でのフェミニズム的発想である、と捉えている。
そしてまた、内的な自意識の問題としては、多くの男性が程度の差こそあれ内面化しているそのジェンダーを自ら解体していく作業が必要になるはずだ。
そこには、フェミニズム由来の「男性とは加害者の性であり、差別的なマジョリティ勢力に属しているのだ」という自意識を解きほぐす作業も含まれていなければならない。
つまりは「非正規的なマジョリティ男性」の内面的なつらさとは、その手の「強い男性でなければならないという呪縛」と「男性であるだけでマジョリティであるという加害者意識」とが組み合わさってできているものなのではないだろうか。
もちろん、その割合は人によって違う。なかには「じっさいには強くもないのに社会的に強者として扱われてしまいがちな男性としての被害者意識」を抱えている人たちも相当数いるだろう。
ただ、その手の被害者意識も、やはりマッチョな意味で一人前の男性でなければならないという規範意識と無縁ではないようにぼくには見える。
そう、ぼくが「自称弱者男性」たちの語りを見ていて思うのは、かれらはどうにもマッチョイズムへのあこがれを手放そうとしていないように見えるということなのだ。
かれらは口々に「弱者男性」としての自分の苦しみを語るが、その裏には「可能であれば強者男性でありたかった」という想いが透けて見える。
単なるぼくの偏見だろうか。そうかもしれない。だが、それでもやはりぼくにはそのような例が多いように見えてならない。
もちろん、先述したようにその一方で自分が男性性を加害的なものとして「原罪」のように捉えている人も一定数いるのだから事態は複雑ではある。
ただ、それでも「非モテ」だとか「インセル」だとか「弱者男性論者」の人たちのしばしば女性嫌悪的な語りを見ていると、やはり「マッチョになれなかっただけのマッチョイズム信奉者」がそのかなりの割合を占めているのを感じる。
逆にいうなら、そういった「強くあらなければならないという男性ジェンダーの呪縛」や「フェミニズム由来の原罪的な加害者意識」や「幾重にも屈折したマッチョな男性性へのあこがれ」がなければ、「弱者男性(仮)」であることそのものは、べつだん、そこまで苦しいことではないのではないだろうか。
ただぼくがそう感じるというだけのことではあるかもしれないが、いくら考えてもどうにも正体のわからない「弱者男性の苦しみ」をあえて分析するなら、そういうことになりそうだと思うのだ。
ある人は男性である自分を、「差別者」や「加害者」、そこまでいかなくても「この社会におけるマジョリティ」として認識し、そのことに傷ついている。
またある人は男性であることを「フェミニストによる男性差別の被害者」として認識し、そのことを憤っている。そしてまたまたある人は「マッチョな意味で一人前の男性」になれない自分自身を蔑んだり、哀れんだりして苦しんでいる。そういう状況がある。
それがすべてまとめて「弱者男性(仮)」の「つらさ」として語られている感が、ぼくにはあるのである。不幸なことだ。「弱者男性(仮)」の皆さんには、ぜひ、幸せになってほしい。
かれらが被害者意識を一転させて加害に転じるような「闇落ち」に至らないことを、切に願っている。 -
「議論」から「対話」へ。いつまでも続く不毛なやり取りを乗り越える方法論。
2021-04-27 23:5550ptあなたは「オープンダイアローグ」をご存知だろうか。おそらくご存知ではない方のほうが圧倒的に多いだろうと思う。それくらい(少なくとも日本では)マイナーな概念だ。
すでに何冊か解説書は出ているものの、GoogleやYouTubeで調べてもあまり情報は出てこないし、いまのところ「知る人ぞ知る」言葉に留まっていると思しい。しかし、これが面白い。
この記事の目的は、いま読んでいるあなたを「オープンダイアローグ沼」にひきずり込んで、可能であればオープンダイアローグをいっしょに体験してみたいというものだ。
何しろ、「ダイアローグ(対話)」というくらいで、オープンダイアローグはひとりでは実践できない。最低3人、できれば5~6人くらいの参加者が欲しいのだ。
しかし、友人連中を誘ってもほとんど乗ってこないため、ぼくはいま「対話仲間」を探し求めている。この記事を読まれた方は、よければぼくといっしょに「沼」に足を踏み入れてみてほしい。
大丈夫。決して底なし沼というわけじゃないし、その先には、ちょっといままで経験したことがない領域がひろがっている、かもしれない。
「オープンダイアローグ」とは何か?
まずは「オープンダイアローグ」という言葉の説明から始めるべきだろう。それは、フィンランドのとある病院発祥の対話の手法である。何らかの精神病を初めとするさまざまな困難を抱えた当事者を関係者が囲んで対話を行う。
ひと言で対話といっても色々なやり方があるわけだが、オープンダイアローグの特徴は関係者全員が車座になって話し合うところにある。
そのなかにはいわゆる「患者」も含まれていれば、「医師」や「看護師」、「心理士」、「患者家族」も属することになるわけだが、そこに「医師は先生だから上」とか「患者は治療してもらう立場だから下」というような権力関係はないとされる。
もちろん、そうはいっても現実にはそうはいかないだろう、と疑いたくなるところだ。やはり医師と患者のあいだには非対称な権力関係が必然的に紛れ込むのではないか、と。
そう考えるのは自然なことだが、じっさいのオープンダイアローグの動画などを見てみると、この療法においてはわりとほんとうに対等に近い関係が維持されているように見える。
これは「医師」と「患者」が一対一で向かい合う従来の治療現場では考えづらいことだろう。いままでの治療現場では、いわゆるカウンセリングもそうだと思うのだが、どうしても権力関係を排除し切れなかった。
というか、二者が一対一で向かい合うと、そこにはどうしても権力関係が発生してしまうのだ。オープンダイアローグはその「閉じた」関係を三者以上の関係に開くことによって、権力をフラットにする。「開かれた対話」と名づけられたゆえんだろう。
もうひとつ、オープンダイアローグには斬新な特徴がある。それは「患者のいないところで患者に関する話はしない」ということだ。つまり、患者の治療方針など、患者に関するすべての情報を患者や患者家族に対して公開してしまうのである。 通常は医師と患者には、病気についての情報格差があるものだが、オープンダイアローグではそれも存在しないことになる。
オープンダイアローグのエビデンス
オープンダイアローグの目的は、「患者」の「モノローグ(独白)」を「ダイアローグ(対話)」に開くことである。
これは多くの方にご理解いただけると思うのだが、人間、ひとりで延々と考え込んでいると、ときに病的なほど不健康な方向に発想が飛躍していくものだ。
その「不健康なひとり言」を「健康な対話」に開いていくための方法論、それがオープンダイアローグだということもできる。
ここまで読んで、「なるほど。それは良さそうな対話のやり方かもしれないが、軽い悩みはともかく、重度の精神病などに対してはじっさいのところ、ほとんど効果はないのではないか」と思われた方もいるかもしれない。
あるいは、オープンダイアローグに対して何か怪しげな印象を抱いた方もいらっしゃることだろう。つまりは疑似科学か代替医療のようなものなのではないかと思われた方の感性はまっとうである。
しかし、そうではない。オープンダイアローグにははっきりと統計的なエビデンスがある。そして、驚くべきことに、いままで薬物療法以外はほとんど効果が見込めないとされていた重い統合失調症などもオープンダイアローグは治してしまえるらしいのである。
もっとも、何しろ発祥は遠いフィンランドのことだから、いま、まだ日本では十分なエビデンスが積み重ねられているとはいえない。ただ、オープンダイアローグをアヤシイものと見ることはやはり一面的な見方であるとはいえそうだ。何しろ、たしかに効果があるというデータが上がっているのだから。
Wikipediaによると、オープンダイアローグは以下のような成績を残している。
この治療法を導入した結果、西ラップランド地方において、統合失調症の入院治療期間は平均19日間短縮された。薬物を含む通常の治療を受けた統合失調症患者群との比較において、この治療では、服薬を必要とした患者は全体の35%、2年間の予後調査で82%は症状の再発がないか、ごく軽微なものにとどまり(対照群では50%)、障害者手当を受給していたのは23%(対照群では57%)、再発率は24%(対照群では71%)に抑えられた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B0
オープンダイアローグはどのように行えば良いか?
オープンダイアローグを行うためには、数年間にわたる研修を通して、それなりの技能と専門知識を身につける必要があるようだ。そして、いまのところ、その資格を取得している人は日本には何人もいない状況らしい。
まあ、さすがにフィンランドまで行って何年もかけて資格を取って来るのはラクじゃないよね……。
そういうわけで、しろうとが本格的なオープンダイアローグを行うことはむずかしいのだが、その形式を真似した「なんちゃってオープンダイアローグ」ならできるだろう。
じっさい、オープンダイアローグの形式そのものはごくシンプルで、特に「秘密の技術」みたいなものがあるわけではないというから、何となくマネしてみるくらいならしろうとでもできる、らしい。
何しろ、オープンダイアローグの日本への伝道師であるところの斎藤環さんの本にそう書かれている。そして、ぼくが何冊か本を読んでみたところでは、何だかとても面白そうなのである。
オープンダイアローグは、かならずしも精神病の治療法に留まるものではない。じつに色々な悩みの解決に使える対話のやり方なのであって、日本ではひきこもりの解決に応用されることが期待されていたりする。
というわけで! ぼくは一度、「オンライン(なんちゃって)オープンダイアローグ」をやってみようと思う。そのためにLINEでオープンチャットを作った。もしお暇な方がいらっしゃったら、ぜひ、入ってみてください。
人数がそろったら(ほんの数名で十分だ)、スケジュールを合わせてやってみましょう。その際は、参加者のだれかが悩みを持ち込んでも良いし、だれも話したい人がいないようならぼくが悩みを吐き出させてもらう。
もちろん、統合失調症は治せないと思うが、より軽い悩みなら案外軽くなったりすることもあるかもしれない。そうでなくても、失うものは特にないのではないだろうか。そう思われる方は以下のLINEオープンチャットにご参加を。よろ。
「なんちゃってオープンダイアローグでお悩み解決!」
https://line.me/ti/g2/3zLYUWG79aYjah4zR0BDyA
「議論」ではなく「対話」の方向へ
ここからは余談になるが、いま、ぼくがオープンダイアローグについて書いていて思い出すのは、ネット論客である青識亜論さんのことである。
かれは一面でアンチフェミの立場に立ちながら、つねに「対話」の重要性を説き、意見が対立するフェミニストと「対話」を望んでいると語っている。
それ自体は素晴らしいことだと思う。対話が途絶えるとき、暴力が生まれる。逆説的ではあるが、最も対話不可能と思われる相手とこそ対話を続けなければならない。ぼくもそう思う。
しかし、一方でぼくは青識さんのともすれば攻撃的な姿勢に違和を感じるのである。かれは「対話」の相手を論理でもって徹底的に追い詰め、皮肉や揶揄で攻撃することをためらわれないように見える。それは望ましい「対話」の姿勢だろうか。
ぼくには、青識さんは「対話」を望んでいるといいながら、その実、「議論」をこそ希望しているように見えてならないのである。というか、おそらく青識さんは「対話」と「議論」を同じ概念として区別していないのだろう。
あるいは、「対話」を「議論」を包括した概念として捉えているのか。だが、ぼくにいわせれば「対話」と「議論」は異なる概念だ。
何といっても「対話」の目的が「その対話を続けること」でしかないのに対し、「議論」の目的は「自分の理屈で相手を説得すること」である。違っていると考えることが当然なのではないか。
ただ、言葉の使い方はそれぞれだし、ぼくには青識さんを批判する意図はない。その上でひとつ思うのは、ぼくの言葉でいう「議論」をいくら繰り返したところで、あまり相互理解は進まないのではないということだ。
ぼくは最終的に「議論」は避けがたいにしろ、その前段階として「対話」が必要だと考える。何のために? お互いを知るためにである。
問題の地下茎をさぐれ!
べつに追従するつもりはないが、青識さんの論理展開はいつもクリアーで、きわめてわかりやすい。説得力もある。だが、それにもかかわらずかれは、少なくともいまのところフェミニストを説得することに成功していないように見える。
もちろん、それは非論理的なフェミニストたちが悪いのであって、青識さんに責任はない――そうだろうか? しかし、その立場に立つ限り、アンチフェミとフェミニストはいつまで経っても平行線の「議論」を続けるほかないだろう。
人間は結局、論理だけで納得する生き物ではない。初めから自分のなかで「正しさ」を決定していて、後から理屈を考えるようなところが、だれにでもあるはずだ。
もちろんいうまでもなく、理想をいうなら、たとえ感情的に納得しがたい理屈であっても、論理がそれを指し示すのならきちんと受け入れていくことが合理的な姿勢であると思われる。
ただ、それはやはり建前であって、現実はそうはいかないことが多々あると思うのだ。何より、「感情(お気持ち)」を論理の下位に置き、それを理屈で封印することを求める限り、現実的には「議論」はいつまでも先に進まない。
あなたはインターネットで繰り広げられる「議論」がロジックのやり取りだけで綺麗に決着を見るところを見たことがあるだろうか。ぼくはない。それは人間がやはり、どんなに理性的に振る舞おうとしても感情を無視し切れない生きものであることの証左だと思う。
だからこそ、そこで「対話」が必要となる。フェミニストが正しいのか、アンチフェミが正しいのか、そういった矛盾の故事をそのままなぞるような「絶対正義のぶつけ合い」はとりあえず脇に措いて、相手がどのような「お気持ち」を抱いていて、それがどういう環境から発しているのか、いわばその問題の地下茎を傾聴してみる姿勢がまず要るわけである。
現在のインターネットで、その実現はむずかしいかもしれないが、それでもぼくはそのような意味での「対話」なくして「分断」の解決はありえないと考えている。
対話こそは人間の叡智である。ぼくは対話の可能性を信じる。信じつづける。そして、そのためのひとつの方法論として、オープンダイアローグにはつよい関心を抱いているのである。 -
なぜ男女は蔑み合い、そして非モテはいくらモテても救われないのか?
2021-04-18 03:0150pt
ども。遥か遠くにかがやくあのリア充の星を目ざし、きょうも一歩、また一歩と進んでいる(つもりの)海燕です。
いやー、リア充への道は果てしなく長い。生きているうちにたどり着けるのかどうか、何かもうかぎりなく怪しいところ。でもね、あこがれるよね、リア充。
そういうわけで、きょうはリア充の必須スキルであるところの「コミュニケーション」について解説した漫画を読んでみました。その名も水谷緑&吉田尚記『コミュ障は治らなくても大丈夫』。
これさえ読めばきょうからぼくもリア充だ! と思ったのですが、これがね……じつに何ともいえない気持ちにさせられる本だったのですよ。どういうことなのか、これから説明しますが、ほんとにちょっと説明しがたい読後感でしたね。いやはやいやはや。
まず、この本ではいわゆる「コミュ障」であるにもかかわらず、なぜかラジオアナウンサーになってしまった著者(吉田尚記)が自分の抱える問題点を分析し、克服していく過程が書かれています。
それは良いんですよ。いくつか非常に参考になるところもあって、「ふむふむ」と関心しながら読んでいました。それが違和感がつのってくるのは、著者が芸人たちのコミュニケーションを学び始めるあたりから。
そこには「相手の発言から2秒間以上空けずに話を相手に投げ返すべき」ということが書かれています。いわば「2秒パスルール」ですね。つまり、話の内容は何でも良いんだと。
ただ、2秒以内に相手にパスしつづけることこそが肝心なのであって、そういう意味でコミュニケーションとは協調のゲームなんだということです。
そして、さらに読み進めると「愚者戦略」という言葉が出て来る。これは「人にバカにされても怒らずへらへらしていろ」というような「戦略」です(ほんとにそう書いてあるのよ)。
その名の通り、あえて愚か者の「キャラ」を受け入れることによって、その場を楽しくさせるのだ、ということなんですね。
ここまで読むと、ぼくははっきりと「ちょっと待って」と思ってしまいました。いや、それはあまりに「浅い」コミュニケーションでしょうと。
ただひたすらにバカのふりをして、「いじられキャラ」になって、2秒以内に言葉をパスしつづける。そういうコミュニケーションを続ければ、たしかに気まずくはならないし、その場の空気も崩さないし、楽しく話ができるかもしれない。
でも、それだけですよね。ただ「2秒パス」を続けるだけで人生を変えるような深い話ができるはずはない。もちろん、初対面の相手とはいきなりそんなに深い話はできないし、する必要もないでしょう。
だから、「2秒パスルール」はある限定された条件のもとでは有効だと思う。とはいえ、すべてのコミュニケーションを「2秒パスルール」や「愚者戦略」で切り抜けようとすることには無理がある。
もっとも、著者もそのことは良くわかっているようで、この本のあとがきにはこう書いてあります。
ただ、もしかしたら気になっている人がいるかもしれません。コミュニケーションは自己表現ではなく、会話の時間を繋いでいくゲーム。そして、相手が答えやすい質問をすることが大切。そんなことをしていたら、薄っぺらい関係しか作れないんじゃないの?と。
もう一つ、大切なことを書いていませんでした。和やかな会話をくり返していると、努力しなくてもいつまでも会話が終わらない相手が不思議と現れます。そういう相手とは、いつの間にか、大切なことを打ち明けたり、聞かせあったりすることになります。「この人と友達になろう」って思ったり「私たち、友達だよね」って確認をしなくても、一緒にいて楽な人。それこそ、友達、なんじゃないでしょうか。
でも、一足飛びに友達にはなれません。すべては会話からスタートします。普通の会話を繰り返しているうちに、いつの間にか、そう、なるんです。
なるほど。つまり、この本で解説されているのはすべて親しくない人と「浅くて楽しいコミュニケーション」を行うための方法論であって、「「大切なことを打ち明けたり、聞かせあったりする」深くてマジメなコミュニケーション」はその「浅くて楽しいコミュニケーション」を通して「友達(とか恋人とか)」になった相手とだけ行えば良い、ということなのでしょう。
これは良く理解できる。ただ、「浅くて楽しいコミュニケーション」のことだけを「コミュニケーション」と呼ぶのはやめてほしいけれど。
で、また、本書のAmazonレビューにはこのような文章があります。
自分は馬鹿にされても良い、愚者を装ってでも相手を楽しませる。イジられてナンボなんだ、と。
コミュニケーションは対戦型のゲームではなく参加者全員が協力するゲームだから、みんなが楽しくなれば、(自分も含めた)みんなの勝ちなんだと。
それはその通りなのかもしれないけど、それは本当に「楽しい」のだろうかと思ってしまう。少なくとも私はその場で笑えたとしても、次に同じ相手に会う時に気が重くなっていると思う。(だから私はコミュ障なんだろうけど)
著者はコミュニケーションは出世やお金儲けのような利益を得るための『手段』ではなく、それ自体を楽しむことが目的なんだ、とおっしゃるが、私は読めば読むほど「こんなこと、何か利益でも得られないとやってられないよ…」という気になりました。
これ、吉田さんのコミュニケーション理論に対する非常に本質的な批判だと思うんですよ。
あるいは、吉田さん本人は「2秒パスルール」や「愚者戦略」に基づくスピーディーな心から楽しめる人なのかもしれません。しかし、そういうやり取りを楽しいと思わない人は大勢いるはずです。
そういう人はどうすれば良いのか? そもそも浅いコミュニケーションができなければ深いコミュニケーションを取れる相手を見つけることはできないのだから、とりあえず浅いコミュニケーションのやり方、つまり「2秒パスルール」や「愚者戦略」を学ぶべきなのか? しかし、どうしてもそれがイヤだったら?
何より、ぼく自身、「2秒パスルール」や「愚者戦略」のようなやり方がコミュニケーションの本質だとか奥義だと思われると非常にイヤだな、と思のです。
吉田さんは、コミュニケーションというゲームに参加するプレイヤーたちの共通の敵は「気まずさ」だと書いています。つまり、浅いコミュニケーションにおいていちばん大事なことは相手と気まずくならないことなのだ、ということですね。
そのためにこそ、2秒以内に会話を相手に投げ返したり、真剣な顔をせずへらへらしたりする必要がある。しかし、ほんとうにそうでしょうか? もちろん、ほんとうに「浅い」内容しか理解できない相手とのあいだでは、そのようなやり方を採用するしかないかもしれません。
けれど、もう少し「深い」話ができそうな人が相手なら、たとえ親しい「友達」でなくても、もう少し違うやり方を試してみても良いのではないでしょうか? ぼくはそう思います。
とはいえ、この本は非常に面白いひとつの事実を教えてくれています。つまり、一般にコミュニケーションと呼ばれているものには、じっさいには「深さ」のレベルがあり、「浅い(表面的な)」コミュニケーションと「深い(熟慮を要する)」コミュニケーションはまったく違う性質のものだということです。
で、いささか唐突ではありますが、ここでぼくは非モテ界隈でよく聞かれる話を思い出すのです。つまり、「女は「男らしく」暴力的な男を好むものだ」という話です。無関係に思われるかもしれませんが、まあ、読み進めてみてください。
この話、かぎりなくマユツバではあるのですが、そうかといって否定できない真実の響きを秘めているように思います。というのも、少女漫画などを読むと、よく暴力的としかいいようがないイケメンの「ドS男子」が出て来て、主人公をいじめながら愛の言葉をささやいたりしているからです。
もちろん、それはフィクションであるに過ぎませんが、男性向けの漫画と同じく、現実の嗜好を繁栄している一面はあると思います。
で、それだけだと、まさに非モテの恨み節というか、「どうせ「ただしイケメンに限る」なんだろ?」みたいな不毛な話にしかならないのですが、面白いのは女性のほうも「男は「女らしく」従順な女を好むものだ」と考えている人がたくさんいるということなんですよね。
先ほどの『コミュ障は治らなくても大丈夫』と同じ水谷緑さんに『男との付き合い方がわからない』という本があるのですが、この本ではまさにそういうことが書かれています。
女性から見た男性の真実というか、まさに「ただしイケメンに限る」の裏返し、「ただし従順で貞淑で清楚な可愛い女に限る」というわけですね。
そして、ぼくもひとりの男性として、少なくとも「ただしイケメンに限る」と同じくらいには、この言葉が真実であると感じます。
しかし――ほんとうにそうなのでしょうか? 男性はみながみな、従順で貞淑な女だけを好み、女性はだれもがマッチョな金持ちのイケメンだけを好きになるものなのでしょうか? そうではない選択はすべて「妥協」の産物なのでしょうか?
ぼくはそうは思わないのですよ。本来、男性にしろ女性にしろ、好みは多様だと考えます。つまり、ほんとうは多様な需要があるはずだと思うのです。繊細な男性が好きだという女性がかなりの割合でいてもおかしくないし、気の強い女性が好きな男性だってそれなりにいるはずだと。
それなら、なぜ、奇妙なほど男女の「好み」は一様化している(ように見える)のか? そう、ぼくはその原因こそが「ジェンダーロールの呪い」だと思います。
つまり、じっさいには多様な需要と供給があるはずの恋愛マーケットのプレイヤーたちに「男は男らしいほうが良いに決まってる」とか「女は女らしいほうが良いに違いない」と思わせている「呪い」がある。それが「ジェンダー」なのだと。
ただし、ぼくは一部のフェミニストたちのように「ジェンダーの押しつけは悪なのだから、人をそこから解放しなければならない」といった考え方はしません。それはあまりにも単純すぎる見方に思えます。
じっさいには、ジェンダーにはある種の魅力がある。人はそれをむりやり押しつけられてジェンダーに従うだけではなく、その魅力に惹かれて自らジェンダーロールを演じるようになるのです。つまり、「ジェンダーにはアメの側面とムチの側面がある」ということ。
そのジェンダーの魅力とは、つまり、「ジェンダーロールに沿った行動をしていれば異性からの評価が上がる」ということです。より簡単にいい換えるなら、「男らしく」、あるいは「女らしく」していたほうが、モテやすい。
そういう意味では、非モテの人たちが言うことには、一面の真実がたしかにある。ぼくもたしかにそうだと思います。ただし! それはあくまで表面だけのことです。なぜなら、この世には多様な人間が存在し、やはり多様な価値観を抱いているからです。
「男はこうだ」とか「女はああだ」といわれるときの「男」とか「女」とは、まさにジェンダーロールの仮面に過ぎない。その仮面をかぶっていれば、たしかに異性からの評価は上がるかもしれません。
たとえば、女性は可愛い恰好をして清楚を演じて、そのうえで何かと「すごーい!」と男を立てていれば、モテやすくなるのはたしかでしょうね。ですが、それはやはり「浅いコミュニケーション」の方法論に過ぎないのです。
もちろん、男性が「ただしイケメンに限る」とか「女はマッチョで頼りになる男しか好きにならない」というのも、あくまで表面的な話です。
ようするに、不特定多数からやたらと好意を寄せられるという「モテ」とは「浅いレベルのコミュニケーション」の結果にしか過ぎないということ!
いや、もちろん、より「深い」レベルで他者からモテている人もいるのでしょう。めちゃくちゃに人間的魅力があり、異性(や同性)をやたらに惹きつける、そういう人はたしかにいます。ここではそういう人のことを「本物のモテ」といいたいと思います。
もっとも、そういう「本物」はやはり数少ないものです。大半の「モテる男」とか「モテる女」は、容姿とか収入とか、そういう「ジェンダー的長所」に魅力を依存しているのだと思います。
そして、世の中の「モテ本」などを読むと、たいていは意図して「男らしく」なったり、「女らしく」振る舞ったりすることによってモテよう、ということが書かれている。つまり、「男と女ごっこ」を演じさえすれば労せずしてモテるのだ、ということですね。
この手の恋愛観は男女を問わず見られます。いわゆる「恋愛工学」がそうですね。あれは徹底して女性をバカにして下にあつかう方がモテるのだという理論なのですが、その成功率はともかく、たしかにそれでトライアルアンドエラーを繰り返せば、一定の確率で女性と関係を結ぶことができるようになることはたしかだろうとぼくも思います。
そのような「男らしい」態度を好ましいと考える女性は一定数いるはずだからです。それは男性が「女らしい」女性を好む、とされていることの鏡像です。そう、単に「モテ」を目指すのならそれで良い。
しかし、このやり方にはひとつ問題があります。そのようなある種のジェンダーロールになり切る方法論を使っていると、モテればモテるほど異性が嫌いになっていくということです。
なぜか。それはジェンダーロールにもとづく「浅いコミュニケーション」にひっかかって拠って来る異性がバカにしか見えないからです。
この種のモテ理論は、「どうせ男はこういう女が好きなんだろ」とか「どうせ女はこういう男が好きなんだろ」という、一種の人間に対するニヒリズムが根底にある。
そして、恋愛を、あるいはコミュニケーションをそのような「浅い」ゲームだと認識している限り、「深く」相手を知ることはできない。それは人間を嫌いにもなるだろう、と思うところです。
それでもモテるなら良いだろうと思うかもしれません。そうでしょうか? 昔読んだ本に『モテる小説』という作品があります。この本の主人公は、モテる方法について考えに考えたあげく、最後にはネットで見つけた適当な相手にひたすら性的な誘いのメールを送りつけるようになります。
もちろん、その大半は断られたり無視されることはわかり切っている。それでも一定の割合で誘いに乗る相手はいる。その相手との関係を増やしていけば良い、という理屈なのです。
初めてこの本を読んだとき、ぼくはひとつの根本的な疑問を抱かざるを得ませんでした。「で、それって楽しいの?」と。ぼくにはこの主人公が究極的な本末転倒に陥っているように思われてならなかったのです。
楽しい時間を過ごしたいがために恋愛をするはずなのに、それをただの「退屈な作業」にまで貶めてどうする、と。もっとも、いや、楽しいかどうかという話ではないのだ、という人もいるでしょう。
重要なのはセックスができるかどうかであり、性欲さえ効率良く満たせるならそれに越したことはないのだ、と。そういう人はそれでかまわないのかもしれません。ですが、それを一生続けられる人は少ないだろうとぼくは見ます。
それで「モテ」たとしても、大半の人はどこかでむなしくなるはず。なぜなら、そこには「ほんとうの自分」を自ら開示し、「ほんとうの相手」を知ろうとするという意味での「深いコミュニケーション」が決定的に、そして致命的に欠けているからです。
「深いコミュニケーション」を抜きにして、いくらからだを重ねたところでむなしいのではないか、とぼくは考えます。ただ、それはぼくの個人的な価値観ですから、「女性に求めるものはセックスだけだ」とか、「男性に求めるものは金銭だけだ」というような価値観も否定はしません。
とはいえ、そういう人にはひとつだけいっておきたいことがあります。それは、「あなたがバカにして見下している男(女)は、同じくらいあなたをバカにしていますよ」ということ。
そう、男も女も、互いに対して呪いをかけあっている。男は女に「もっと可愛い女になれ。そうでないと愛されないぞ」と呪うし、女は男に「もっと強い男になれ。そうでないと選ばれないぞ」と呪う。さらにもちろん、同性への同じような内容の呪いもある。
したがって、非モテは基本的にいくらモテても救われません。かれらが救われるためには、本来、「素顔(ほんとうの自分)」での「深いコミュニケーション」が必要なのに、「仮面(偽りの自分)」で「浅いコミュニケーション」を繰り返し、その結果、「モテ」たとしても救いにはたどり着けないわけです。
そもそも非モテが不特定多数からやたらに好意を寄せられるという意味での「モテ」を目指すこと自体が間違えているというしかない。それは非モテがモテることが不可能だからではありません。むしろ、非モテがモテること自体はまったく不可能ではない。
けれど、いくらモテたところで仮面をかぶったままでは人は救われないのです。綺麗ごとをいうようだけれど、やっぱり人は「ほんとうの自分」をさらして生きていかないと幸せになれないのではないでしょうか。
我孫子武丸さんに「人形シリーズ」というミステリの連絡があるのですが、そのなかで主人公の女性が気の弱い男性を好きになって、より「男らしい」男を拒否するんですね。
ぼくは個人的にその描写に説得力を感じました。それはそういうこともあるだろう、と。すべての女性が同じ需要を抱えているはずはない。
でも、ジェンダーは「男らしく、女らしくしたほうがモテますよ。愛されますよ」と誘惑する。それで世の中ではときに互いに深く軽蔑しあったカップルが生まれるわけです。不幸な話。
このディスコミュニケーションは、ジェンダーが要求する仮面をかぶったままの「浅いコミュニケーション」では解決しません。どうしても「深いコミュニケーション」が必要になるはずです。
しかし、「ほんとうの自分」をさらし、「ほんとうの相手」を知ろうとする(もちろん、どんなに知っても知り尽くせるはずがないことをわかったうえでそうする)という意味での「深いコミュニケーション」は、「ザ・男」とか「ザ・女」のようなジェンダーロールを通したやり取りほど簡単ではありません。
「生身の女とは話が通じない」と思っている男性も、「男はバカばっかりで話し合えない」と感じている女性も多いと思いますが、それはどこまでも相手とのあいだに「浅いコミュニケーション」しか行っていないからです。
その不幸なすれ違いを脱するためには、相手と「深いコミュニケーション」を行うしかないでしょう。ぼくはいわゆる「ルッキズム」とか「収入至上主義」が一概に悪いとは思いません。顔や金だって、人間の重要な要素です。
そうではなくて、「そういった価値観で相手を選んで、自分はほんとうに幸せになれるのか?」と考えなければならないということです。
どこまでも「浅いコミュニケーション」しかできない相手と結婚し、一生、仮面をかぶったまま生活する。そんなことに耐えられる人はそう多くはないでしょう。
そうだとしたら、「深いコミュニケーション」にもとづく恋愛ができる相手を探すべきじゃないかな。それは必ずしも見た目とか収入のスペックとはマッチしないかもしれないし、そのやり方では男性であれ女性であれ、「モテ」になることはできないだろうけれど。
でも、それがたぶん「ほんとうに幸せな恋愛」をするための方法論なのではないかと。ぼくはそう思います。おまえがモテないから自己弁護でそんなことをいっているんだろうと思われるかもしれないけれどね!
うん、「浅い」レベルでモテているという意味での「リア充」にはならなくても良い気がしてきた。もっと「深い」レベルで人と話ができる人間になりたい。まずはそれが目標だと、いまは思います。 -
非モテ研の非モテ当事者研究が面白いよ!
2021-04-04 17:4850pt
皆さん、生きていますか? ぼくはどうにか、かろうじて生きています。
いったんは就職活動をして働こう! あの碇シンジだってちゃんと大人になったんだから! とキラキラきらめく労働精神に目覚めたりもしたのですが、紆余曲折の末、そのルートはあきらめました。ええ、もう、一生、無職のダメ人間として生きていこうと思っています。
もちろん生活のためお金は欲しいけれど、現実問題、ぼくに就職と労働ができるかといったら無理だろうなと。「働きたくないでござる」というより「働きたくても働けないでござる」というほうが正しい。
ほんとうに日々、マジメに働いている人たちには頭が下がります。それにしても、どうやって生きていったら良いものか……。不安はつのるばかりです。
さて、ニートとも呼べない歳であいかわらず無職を続けていると時間が余るわけで、読書や映画に精を出したりすることになるのですが、最近、以前から気にな
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