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タグ “艦隊これくしょん” を含む記事 8件

「『艦これ』がしくじったようだな。しかし、奴は我らソシャゲアニメ化四天王のなかでは――」。

 『アイドルマスターシンデレラガールズ』最新話を観ました。  今回は大規模なフェスを目前に控えた合宿回。前作でもありましたねー。あいかわらず面白いです。  前作『アイドルマスター』は文句なしの傑作だったわけですが、『デレマス』もここまでその路線を踏襲して来ているようです。  ただ、たぶん前作と同じ路線だけで終わりはしないと思うので、二期を楽しみにしたいところ。  一期でほぼ各キャラクターの個別エピソードを(数人まとめながらとはいえ)消化したので、二期で何かチャレンジして来るかもしれません。いまから楽しみ。  今季のアニメでは『デレマス』の完成度は傑出して高いように思われます。  同じくソーシャルゲームのアニメ化である『艦これ』がさんざん叩かれてしまったこととは対照的に感じますね。  『デレマス』と『艦これ』はある程度共通した課題を抱えた作品だったと思うのですよ。  両方とも原作そのものが狭い意味での物語がなくて、それでいて設定はたくさんあるソーシャルゲームだという問題を解決しなければならない作品なんですよね。  で、どうするのかな?と思って見ていたんだけれど、『デレマス』は実にみごとな解決を見せてくれた感じですね。その一方で『艦これ』はこけてしまったようですが……。  もっとも、ぼくはあまりアニメ『艦これ』を叩く気にはなれなくて、まあ、ある程度は仕方ないよね、と思っています。  何といっても原作の設定をあまり開陳しすぎるわけにもいかなければ、破壊するわけにもいかないという「縛り」が大きい。  また、ヴィジュアル的なところも一から想像して設定する必要があったわけだし。  それは『デレマス』も同じかもしれないけれど、『艦これ』のほうがあきらかにむずかしい条件を抱えているよね、と思います。  もちろん、それらすべての条件を無視するという手もあった。たとえばひたすら萌え日常アニメに終始するという手もあったわけですよね。  魅力的なキャラクターはたくさんいるわけだから、それらを使ってひたすら甘ったるい演出の作品を作り出すやり方も考えられたと思う。  結果的にはそれは選ばれなかったわけですけれど、第4話みたいな艦娘キャッキャウフフアニメに終始していたら良かったんだよ、といういうひともいるかもしれない。  ぼくは第4話大好きなんですけれど(笑)。金剛型四姉妹がアイドルやるところが妙に好きでね……。  ただ、そう割り切ってしまうのも寂しい話だという気もしなくもないんですよね。  たぶんそれでもかなり面白いアニメができあがったかもしれないけれど、『艦これ』のポテンシャルを使い尽くした作品とはいえないわけですから。  結局、いまのところ、「ソーシャルゲームをどう映像にするか?」という問いへの完全なアンサーは出ていないと思うんですよね。  漫画とかライトノベルをアニメ化する方法論は長い歴史のなかである程度仕上がってきたわけなのだけれど、ソーシャルゲームをアニメにする方法論はまだうまくできあがっていないんじゃないか、ということです。  まあ、 

「『艦これ』がしくじったようだな。しかし、奴は我らソシャゲアニメ化四天王のなかでは――」。

『艦これ』最終回を見て『真月譚月姫』を思い出す。

 アニメ『艦これ』の最終回の評価、さんざんだったようですね。  ぼくも見ましたけれど、たしかに「……」な出来。  とくべつ作画が崩壊したとかそういうことじゃないんだけれど、シナリオの脈絡がなさすぎる。  いや、脚本家としてはすべての描写に意味があると主張したいかもしれないけれど、ファンが一生懸命「解釈」しないと意味が通らない時点でやはり失敗でしょう。  シリアスをやりたいのかコメディをやりたいのかよくわからないですしね。シリアスな場面でむやみと萌えカットを挟むのはやめてほしいところ。  ただ、今回、このアニメ版が不評なのは、単純に出来が悪いという以上に、原作の設定を大きく改変しているという一点に問題があるらしい。  意味もなく原作を改変すると熱心なファンが沸騰するといういいサンプルですね。  その話を聞いてすぐに思い出したのがアニメ『真月譚月姫』であるキャラクターがスパゲッティを食べている描写があったこと。  本来ならまったくどうということはない一シーンなのですが、そのキャラクターは原作では根っからのカレー好きという設定なので、ファンは強烈な違和感を抱き、大きな話題になったのでした。  ことほどさように視聴者は作品のディティールに愛着を抱き、大切にするものだということです。  製作スタッフにしてみれば「そんなの、どうでもいいじゃん」と思うかもしれませんが、むしろそういう細部こそが作品に命がこもるかどうか決する決定的なポイントなのです。  『真月譚月姫』にせよ、『艦これ』にせよ、そこまでクオリティが低いアニメというわけでもない。  むしろそれなりにはよくできているからこそ、原作ファンは「何か違う」と感じてしまうのだと思います。  で、面白いのは、同じ『真月譚月姫』であっても、佐々木少年による漫画版の評判は非常に高いんですね。  ぼくも全巻読みましたが、たしかに傑作だったと思う。  ただ、漫画は漫画でオリジナル展開を付け加えたりしているんですよ。  それなのに、そのことに対して文句をつけるファンはほとんどいない。いったいどこが違うのか?  それについて、ぼくは昔、「わかってる度」という尺度を考えたことがありました。  「原作に忠実」と評されている作品でも、じっさいにはメディアが違うわけだからそこまで忠実に映像化しているはずはない。  やはり、原作の描写や設定を何かしら解釈して描き出していることには違いないわけです。  しかし、それらの作品では原作に対する理解とリスペクト、つまり「わかってる度」が高いから、ファンがそうしてほしいように解釈している。  結果、あたかも何もかも原作に忠実であるかのような印象を与える作品ができあがることになる――そういうことなのではないかと。  つまり、『月姫』の漫画とアニメでは「わかってる度」に差があるわけです。  「わかってる度」が高いとは、 

『艦これ』最終回を見て『真月譚月姫』を思い出す。

『艦これ』がプラットフォームになる日。

 『艦隊これくしょん』のアニメ版をまったり見ています。まだ最新話まで追いついていませんが、いまのところなかなか面白いですね。  第1話の時点ではちょっとどうかと思ったんだけれど、しだいに調子を上げて来ている感じ。金剛型四姉妹が楽しいなー。こういう子たちだったのか。  まあ、原作を知らない人にとってはまったくわけがわからない世界設定だろうけれど、それはそういうものなのだと割り切るしかないのでしょう。  ぼくは原作のゲームも一応はプレイしているのですが、あまりハマらずにやめてしまったので、そんなにくわしくない。アニメを見て初めてわかったことも多く、なかなか新鮮です。  それにしても、『艦これ』のことがより詳しくわかるようになると、それだけでネット生活が楽しくなりますね(笑)。Twitterとかに流れて来るイラストとか短編漫画を見ているだけで楽しい。  おそらくみんなこういうものを求めて『艦これ』にハマっている側面も大きいのだろうな、と思わせられます。  そう、『艦これ』のような作品は、もはや単なるひとつのコンテンツではなく、さまざまなコンテンツやコミュニケーションのハブとなるエンターテインメント・プラットフォームなのですね。  オタクはある共通知識を前提にして話をすると昔からいわれているけれど、『艦これ』のことを知っていると、楽しめるコミュニケーションの幅が一気に広くなる。それも含めて「艦これ」の魅力なのでしょう。  その「楽しめるコミュニケーションの幅」を「砂場」に喩えた人もいたけれど、もはや、そういう作品周辺に広がる二次創作やコミュニケーション空間をも含めて作品を楽しむこと、ぼくの造語でいう「砂場消費」は、既存の「物語消費」や「データベース消費」ともまた一風異なる作品消化のスタイルとして定着したように思えます。  まあ、昔から映画について語り合うことは映画そのものより楽しかったりするわけで、何が変わったというわけでもないのかもしれません。ただ、そのコミュニケーション志向がより先鋭化したということは、既に各所で語られている通りです。  じっさい、『艦これ』そのものにはさほどハマれなかったぼくにしても、ネットに落ちている『艦これ』絡みのイラストや漫画、動画、音楽といったものを楽しんでいるだけで十分幸せになれてしまいます。  そこに公式のコンテンツを加えると、もはやそれだけで他のものは何もいらないくらい楽しめるのではないかと思う。  そうなのです、いまのご時世、べつだん『艦これ』じゃなく、『アイマス』でも『ラブライブ!』でも何でもいいのだけれど、何かひとつのプラットフォーム・コンテンツにハマっていると、もうそれだけでエンターテインメント生活が完結するくらいさまざまなことを楽しめるのですね。  これ、ある意味ではユーザーの囲い込みを行っているに等しいんじゃないかと思うくらいなのですが、そういうわけでもないんだろうな。 (ここまで1213文字/これから1364文字) 

『艦これ』がプラットフォームになる日。

アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』と『艦隊これくしょん』の違いが興味深い。

 最近、ちょこちょこアニメを見ています。何といっても先が楽しみなのは『ユリ熊嵐』ですが、他にもいくつか面白そうな作品があって、なかなか楽しい。  ぼくは地方在住なのですべてをリアルタイムで見るというわけには行きませんが、インターネットと衛星放送を駆使すればほとんど遅延なく大半の作品を見ることができるようです。いやー、ほんとうに素晴らしい時代ですね。それがセクシー。シャバダドゥ。  既に各地で話題が沸騰しているようですが、『アイドルマスターシンデレラガールズ』の初回が素晴らしい出来でした。このまま行けばかなりの名作が仕上がるんじゃないかな、と早くも期待は高まるばかり。  同じくソーシャルゲームをアニメ化した『艦隊これくしょん -艦これ-』のほうはもうひとつの印象が強いだけに、両作品の落差に着目してみたくなります。  そもそもソーシャルゲーのアニメ化、というか物語化にはどこかに無理があっておかしくないと思うのですね。  もともとがひとつの自然な物語を紡ぐように作られているわけではないわけで、それを一本の物語に仕立て上げることは、ある意味ではゼロから物語を作るよりむずかしい作業になるのではないかと。  それをみごとやってのけたように見える『シンデレラガールズ』のスタッフには感嘆するしかありません。それにしてもなぜここまでクオリティの高いアニメーションが仕上がったのでしょうか?  はっきりいって、事前にヒットが見込めるコンテンツだけに単純にお金がかかっているということも大きいのだろうけれど、あきらかにそれだけではない。とにかく仕事が丁寧なんですよね。愚直なまでに基本に忠実に制作されているイメージ。  おそらくこれも既に大きな話題になっていることだと思うけれど、数百人に及ぶ美少女キャラクターが登場している原作ゲームからあえて数人(実質2人)のキャラクターを選んで初回の物語を作り出した姿勢には驚かされました。  前作『アイドルマスター』の初回は主要なキャラクターを全員登場させて、ひとりひとりを紹介していった感じだったので、異なる方法論で作られている印象です。  で、これが実に決まっている。素晴らしい。あえていってしまうならば、『シンデレラガールズ』の初回に特別なケレンは何ひとつないともいっていいでしょう。  まず主人公を登場させ、その動機(モチベーション)を語り、ほかのキャラクターと絡ませ、ひとりひとりその個性を紹介していく――といった、あたりまえといえばあたりまえの方法論。  一切登場人物を紹介することなくいきなり物語を語り始めた『冴えない彼女の育て方』の初回(正確には第0回みたいだけど)あたりと比べても、むしろ地味とすらいえかねないやり方です。  しかし、正統には力が宿り、王道には魔法が生まれる。シナリオ的にはそこまで特別なことは何もやっていないにもかかわらず、『シンデレラガールズ』は強い印象を残す初回を生み出すことに成功しました。  じっさい、あらゆることがハイレベルに仕上がっているということは、ここまで強い印象を残すものであるということには、いまさらながら驚かされます。  もちろん、「シンデレラガールズ」というタイトルからもわかるように、これから膨大なキャラクターが登場するのでしょう。原作にはちょっとテレビアニメの枠に収まり切らないくらいのキャラクターが存在しているのだから当然です。  しかし、それらのそれぞれに魅力的なのであろうキャラクターたちに幻惑されることなく、まずはごく少数のキャラクターにのみ焦点を絞って物語を作り始めた監督以下スタッフの英断には心から拍手を送りたいと思います。  どうやら、この一作はソーシャルゲームを映像化するための方法論を確立させたといってもいいようです。つまり、「何が変わったわけでもない。王道の方法論を丁寧に実践するやり方はこれからも通用する」ということです。 (ここまで1605文字/ここから1475文字) 

アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』と『艦隊これくしょん』の違いが興味深い。

『艦隊これくしょん』が生み出す「広い砂場」。

 ども。ようやくコミケアフターの脱力感から回復してきた海燕です。実は通信販売で購入された方に同人誌を送ったものの、宛先を間違えたせいで何冊かの本が自宅に返ってきてしまいました。まだ届かない方はもう数日だけ待ってください。申し訳ありませぬ。  さて、何の話をするべきか――コミケで何かと印象的だったのは、『艦これ』コスチュームの女性たちだったので、その話でもしましょうか。  いや、べつにコスプレの話をしたいわけではなく、いまのオタクシーンを一望してみると、やっぱり最も注目するべきは『艦これ』とかその辺のソーシャルゲームの流れですよね、と思うわけです。個人的にはアニメよりラノベより興味を惹かれる。  だからといって自分でやろうと思わない辺りがぼくのダメなところであるわけですが、じっさい、ぼくはこの種のゲームそのものには、そこまでの関心がないのだと思う。ぼくが惹かれるのは、あくまでそのゲームのまわりに発生してる「砂場」なのです。  どういうことか。「砂場論」とは1年ちょっと前に話題になった話で、このインタビュー(http://animeanime.jp/article/2013/04/11/13652_2.html)が元ネタになっているらしい。  この記事のなかで、プロデューサーが『革命機ヴァルヴレイヴ』という作品について以下のように語っているんですね。 アニメが好きだったり、メカが好きで見てくれる方々やスタッフ含めてみんなが、毎週遊べる砂場みたいなものになれたら幸いですね。  で、正確なソースがわからないので孫引きになりますが、この発言のさらなる元ネタは庵野秀明による1999年のインタビューにさかのぼるようです(http://d.hatena.ne.jp/mattune/20130512/1368374772)。 庵野 ロボットアニメの流れみたいな、それを一通り検証してですね。    で、その後に、その時に、その時の主流だった『セーラームーン』を    検証してみた。で、『セーラームーン』で分かったのは    「緩い世界観というのがいい。要は遊び場を提供すれば良いんだ」    という事だったんです。    個性的な、分かりやすいキャラクター配置と、遊べる場所。    だから、何体かの人形と砂場が用意されていて、    ファンがその砂場で自分達で遊ぶ事ができるというのが、    『セーラー』人気の秘訣だと思った。だから、わざと緩く作る。    ガチガチに作っちゃうと、余裕が無くなるんだよね。    最近のサンライズのアニメとか、そうだと思うんですよ。  ある作品の周りに発生する「砂場」。あるいは「遊び場」。ぼくにとっては、『艦これ』のようなソーシャルゲームの最大の魅力はそこにあるように思えてなりません。  まあ、ぼく自身はそこまで『艦これ』や『モバマス』にくわしいわけではないから、見当外れのことを云っているかもしれないんですけれどね。でも、『艦これ』をやっている人たちを見ていていちばんうらやましいのはそこなんですね。  とはいえ、じっさいにゲームをプレイするのは億劫だから、何とかゲームをやらずに「砂場」を楽しむすべがないだろうか、と思うわけなんですけれど。  ともかく、ひとつ云えることがあります。『セーラームーン』の段階では「何体かの人形と砂場」で満足できていたのかもしれないけれど、最新のソーシャルゲームでは「何百体かの人形と広大な砂場」が用意されている、ということです。  端的な事実として、「人形」の数は膨大に増え、またその背景となる世界も複雑怪奇に発展している(あるいは現実世界と設置することによって広がりを獲得している)。  この「広い砂場」性こそが、ソーシャルゲームの最大の魅力であるように思えます。コミケで『艦これ』がナンバー1ジャンルになったことは必然としか云いようがありません。それはコミケのような二次創作の場でこそ、最も輝くコンテンツなのですから。  まあ、でも、当然というか、「砂場」的な作品には批判も存在しています。 ■「砂場」としてのアニメがある、日々の楽しみ。(たまごまごごはん) 先ず、一番最初に書いておきたいことは…あのね、上記のエントリを読んでも、引用されているインタビューを読んでも、自分、全く共感できなかったんですよ。もうね、一切、共感できなかった。 (中略) そういうフィーリングの持ち主からするとね。例えば、「ヴァルヴレイヴ」みたいな作品を観ると凄く勿体ない気がするんですよ。良い悪いじゃなくて"勿体ない"。沢山の人が力を合わせて作って、時間とお金を掛けて、その結果が「砂場」って勿体なくないですか? っていう。そこは、遊びなんかいらないんじゃないか、シッカリと作りこむべきなんじゃないか。で、受け手ももっと"本気"になるべきなんじゃないかって…そりゃスピルバーグとかコッポラ、キューブリックの映画みたいな完璧なものを目指せとまでは言わないまでも、裏側はどんなにボロボロのハリボテでもいいから、表向きだけは完璧な…立派なエンターテインメントを作ってくださいよって思うんですよ。今だと、そのハリボテの裏側を敢えて見せちゃって、突っ込み入れられるのを待ってる状態なわけじゃないですか。それは、ちょっとどうなのよって感覚がある。それは、「砂場」で遊ぶことができない人間の劣等感と僻みが大部分を含んでいるという自覚をした上で。 http://d.hatena.ne.jp/tunderealrovski/20130425  で、まあ、ぼくなんかはこういう意見もわかるわけなんですよ。いくら「砂場」が楽しいとしても、「遊び場」に転がっている人形や玩具に心惹かれるとしても、それはやっぱりガチでマジな「傑作」があって初めて楽しいと思えるものなんじゃないか、という消せない想い。  「作品を通してのクリエイターとのマンツーマンでの対話」を置き去りにして、「砂場」だけがひたすらに発展してゆくことに対する、何とも云えない違和感。それはなくはない。  ぼくは6年以上前に「二次創作は一次創作をスポイルするか?」(http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080411)という記事を書いていて、その時は自分が何を云いたいのかうまく説明できなかったんだけれど、ようはこういうことなんだよね。  「砂場」の面白さが先行して「作品」の魅力を削ぐようなことがあるとすれば、本末転倒ではないか? 「砂場」でウケるために物語が歪んだり、演出が手抜きになったりすることはあってはならないのではないか?  いや、仮にそういう「ゆるい」作品の存在を認めるとしても、「ガチの傑作」が正当に評価されることがない状況はおかしいのではないか。そういうふうに考えていくと、ぼくもまたちょっと「砂場なんていらない!」と叫びたくもなる。  しかし――とりあえずその意見は下げることにしましょう。『艦これ』なり『モバマス』がそういう問題点を抱えているというわけではないのですから。 

『艦隊これくしょん』が生み出す「広い砂場」。

『艦これ』は政治的に正しい!

 つい先ほど、「艦これは少女を命がけで戦わせる”美少女ポケモン”なのでヤバい」というTogetterを読みました。 http://togetter.com/li/703275  んー、コメント欄で異論反論が百出していることからもわかる通り、「何か違うのでわ?」と思わせられる話なんだけれど、ぼくはそこまで熱心な『艦これ』ユーザーではないので、ここでは一般論として上記リンク先で語られている「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子が比較的安全な後方に陣取り、女子に命令して前線へ送り込み命がけで戦わせる」という形式のどこに問題があるのか、あるいはないのか、という話をしましょう。  このまとめで語られている論旨は(複数の人物の複数の意見を経たものではありますが)、一貫しているように思えます。  「少女を前方で戦わせて男性が後方で命令する」形式には倫理的、あるいは政治的な問題がある。それは「ヒモ」めいていて、「醜い」し、「気持ち悪い」という主張です。  これは一見すると、なかなか論破しがたい主張であるように思えます。だって、大の男が後方で偉そうに命令していて、可憐な女の子たちが前方で戦う。そんな形式って、どこか歪んでいるとしか思えないではありませんか?  しかし、ほんとうにそうでしょうか? 結論から書いてしまうと、ぼくは違うのではないかと思う。「少女を前面で戦わせて男性が後方で命令する」という形式に、何らかの「歪み」を見てしまうその認識こそが、まさに歪んでいるのだ、と思うのです。  どういうことか? 前提から考えてみましょう。まず、ここで使用されている「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子が比較的安全な後方に陣取り、女子に命令して前線へ送り込み命がけで戦わせる」」という云い方には、既にしてふたつの予断が含まれています。  (1)「後方で命令する」人物、『艦これ』の場合で云えば、「提督」が男性であること。そして(2)あくまで少女たち、『艦これ』で云えば艦娘たちは提督の命令に従って戦わせられているに過ぎないのであって、主体的な意志で戦っているわけではない、ということです。  上記のまとめではこのふたつの予断によって、結論が誘導されている印象があります。まず、少なくとも『艦これ』では客観的事実として「女性提督」が相当数実在しているはずで、「提督は男性」と決め付けるべき理由は見あたりません。  この時点で、仮に『艦これ』が「美少女ポケモン」ものであると認めるとしても、「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子」だけを描く作品であるとは云えません。  むしろ、そうであるにもかかわらず、なぜ提督は「男子」であると決めてかかっているのか、その点を考えてみるべきです。そこにはある種の偏見(バイアス)が含まれているように思えます。  が、それは置いておいて、次のポイントに行きましょう。「(2)」です。ここでは「「タキシード仮面は働かないのにうさぎに惚れられてるけど、物理的に上の位置にいる助言役ってだけで積極的な指示は出さず、命がけで戦うのはあくまで少女の意思なんですよね。「さあ戦え、セーラームーン!」とか煽ってたらダメなヒモっぽさで超いやらしいかんじ。」と書かれています。 また、「その立場の人が働いてる様子なしで命令してたらやらしい感じなのは男女あんまり関係なさそうですけどね。むしろ男女関係的に超慕われてるのが働いてないのに言うこと聞いてもらえる免罪符なのかも。結局ヒモっぽいのは変わんないですか」とも書かれているんですけれど、ぼくはこの意見に大きな異論を感じます。  提督は提督という仕事をしているのであって、十分に「働いている」ではありませんか? 何の根拠があって命令しているほうが働いていて、命令されているほうは働いていないと決めつけるのか?  いや、もちろんわかりますよ。命がけで戦場で戦っているのは艦娘たちなのであって、提督は具体的に何の仕事もしていない、安全なところでふんぞり返っていばっているだけだ、ということなのでしょう。  しかし、この種の主張は組織におけるリーダーの役割を不当に軽んじているように思えます。つまりは一兵卒は働いているけれど将軍は働いていないで楽をしている、という主張ですからね。  もちろん、無能で傲慢な将軍はそういうものかもしれないけれど、有能な将軍はめちゃくちゃ働いていると考えるべきではないでしょうか?  つまり、提督は「その戦いにおける戦術を緻密に練り、艦娘たちの戦力を効果的に活かす」という仕事を行っているのです。だから、たとえ自分自身が命を晒していないにしても、そこには重い責任感があると考えるべきでしょう。  ここにあるものは、ぼくがずっと前から語っている「リーダーとフォロワーを巡る倫理の問題」です。つまり、フォロワーに指示を下すリーダーにはフォロワーに対する無限責任が存在するのか?という問題ですね。  ぼくは、この問題に対して「存在しない」という結論を出しています。ひとがだれかに対する無限責任を負おうとすることは傲慢であり、不当なのだと。  もちろん、リーダーはフォロワーに対して「一定の」責任を負っている。そして、最善を尽くしてフォロワーの能力を活かす義務をも負っている。  しかし、フォロワーの行動と存在のすべてが全面的にリーダーの責任であると考えることは、フォロワーの自我を無視する考え方であり、間違えている、という結論です。  このことについて、ペトロニウスさんは『魔法先生ネギま!』を例に出してこう書いています。 でも、僕はよく思うのですが・・・確かにリーダーや公的に責任がある立場の人には、絶大な責任があります。だってマクロを管理する立場にあるわけだから。でも、すべてを管理できるわけではない以上、やはり、どこかで線を引いて、「何をなすにも、それはフォロワーの決断」と考えなければ、それは、相手を対等に見ていないことになってしまうのではないかな?って思うのです。たくさんの情報を持つネギだって、リーダーだって、すべてを見とおせるわけではないのですから。結局は、「どうなるかわからない不確かな未来に足を踏み出している」同じ人間にすぎません。 http://ameblo.jp/petronius/entry-10056687241.html  おお、7年前の記事だよ。なつかしい。ぼくもよくこんなやり取りを憶えているよな。  それはともかく、ぼくもまさにこう思うのです。提督にしろ、艦娘にしろ、サトシにしろ、ピカチュウにしろ、つまりは「「どうなるかわからない不確かな未来に足を踏み出している」同じ人間」に過ぎないのであって、表面的な主従関係を超えて、実は対等なのだと。  なるほど、表面的にはピカチュウは戦っていて、サトシは後方で楽をしているように見える。しかし、そのとき、サトシにはピカチュウを最善の形で戦わせる責任があり、ピカチュウにはサトシに対する絶対の信頼がある。  だからこそ、『ポケモン』という物語は表面的な倫理問題を超えて多くのひとの心に波及していくのであって、決して「『ポケモン』はサトシがポケモンを虐待するだけのひどい話」などとは云えないのです。  むしろ、部下を可能な限り効果的に戦地へ送り込まなければならない将軍の苦悩は、ただひたすらに戦っていれば良い兵士の苦悩を上回ることすらあるでしょう。  最近の作品でここらへんのことを最もうまく描いているのはおがきちか『Landreaall』だと思います。このテーマの具体的な展開を知りたい方は、この漫画の第12巻から第13巻をぜひどうぞ。  そして、このテーマを最も先鋭的な形で表現しているとぼくが考えるのは、栗本薫『グイン・サーガ』第65巻の一節です。この巻で、パロの王子アルド・ナリスは、不運にも無数の部下を辺境の土地に散らせてしまったことに重い後悔を感じている黒太子スカールに向けて云い放ちます。 「私は、いま、心から、『それは、かれら自身が選んだことなのだ。だからそれについて、私がいたんだり、くやんだりするのはあまりに傲慢である』と答えることができます。――私自身もたとえ誰にさとされようとすかされようと、あるいはさまたげられようと迷うことなくおのれの信ずるままに進んできてここにいたった。そしておのれののぞみをつらぬくためにつきすすみ、そのために死んでもいいと思っている。(略)かれらがもしここに亡霊となって立ちあらわれたとしたら、かれらは何というと思います。かれらは誰もあなたを責めはしない。かれらはおのれのことを誇りに思っていないでしょうか? そしてあなたのいのちを守るため、あなたの望みをかなえるためにそのいのちをささげたことをもって『自分の生まれてきたのはこのためだったのだ』と思って死んでいったのではないのですか――あなたのために。あなたのお役にたててよかった――と。(略)」 「あなたが、かれらに命じたのではない。かれらが、あなたを選んだのだ。あなたには、選ばれたことに対する責任こそあれ、かれらの死を背負いこむ理由などありませんよ。あったとしたらそれは傲慢というものです。こういっては、傷ついているあなたにきびしすぎることばときこえるかもしれませんが。私は――私もまた、いろいろと悩みました……私の迷いを啓いてくれたのは、私がその一生をほろぼすことになった男のことばだった。私が正しい愛国者の道からひきずりおろし、闇にひきこみ、迷わせ、恋を奪い、ともに破滅することへひきずりこんだ、その男がにっこりと笑って、『あなたじゃない、私があなたを選ぶのだ』と考えるにいたったとき――私は、はじめて知りました。それでは世の中には、何かを与えてやることではなく――何かをしてもらうこと、何かを与えてもらうことによってだけ与えることのできる贈り物もあるのだなと――その贈り物の名は、《信頼》というのだと」  「あなたが、かれらに命じたのではない。かれらが、あなたを選んだのだ」。そして、世の中には「何かをしてもらうこと、何かを与えてもらうことによってだけ与えることのできる贈り物」もある。その贈り物の名は、「信頼」という。  こう考えるなら、提督と艦娘たちの関係は決して一方的な命令→服従というものではなく、責任↔信頼であることが想像できます。もちろん、作中でそこまでは描かれていないとしても、少なくともそういうふうに受け止めることはできる。  だとしたら、なぜ、提督と艦娘たちの関係が「醜い」、「気持ち悪い」ものに思えてしまうのか? それは「成人男性」という「強者」が、「未成人女性」という「弱者」を前線で戦わせて自分は戦わない、という形式に倫理的な問題を見るからでしょう。  たとえば、このツイートではこう書かれています。 特に日本のゲームやアニメ・漫画に対して感心しないのは、少年少女を戦わせてそれがさも当たり前みたいに話が進んでいくところかな。現実的に考えれば成人男性が真っ先に矢面に立って戦うのに。現実的に見たら主人公が少年少女って少年兵の話ですよ。どこの未開の地の民兵組織よ。  つまり、ここでは「成人男性が真っ先に矢面に立って戦う」ことが最も正しい、政治的問題が存在しない形式である、という意見が提出されているわけです。  この意見には成人男性こそが「強者」であり、本質的に「弱者」である「女子供」を守って戦うことこそが正しい姿なのだ、という考え方が背景にあるのでしょう。  しかし、成人男性こそ強者であり、「女子供」は弱者である、というのはほんとうにそうでしょうか? 仮に現実世界ではそうであると認めるとしても、イマジネーションの世界において、その「現実」をなぞることが最も政治的/倫理的に正しいのでしょうか?   ぼくはそうは思わない。それは結局、戦うのは男の仕事、女子供は守られていれば良いという発想であって、「固定的性役割分担にもとづく性差別」というものなのではないですか?  もちろん、日本のサブカルチャーに、成人男性が「矢面に立って」戦う物語がまったく存在しないというのなら、それは倒錯であり歪みである、という云い方はできるでしょう。  しかし、現実にはそうではない。仮面ライダーやウルトラマンの大半が成人男性であることからもわかるように、ちゃんと大人が戦っている作品もあるわけなんですよ。  何が云いたいのか? つまり、ぼくは「成人男性が戦い、女子供は守られる」という形こそが唯一の政治的に正しい形式だとは考えないということです。  それどころか、そもそも「唯一の政治的に正しい関係」なるものが存在し、その反対の「許されるべきではない間違えた関係」も存在する、という認識そのものを認めない。  そういうことじゃないと思うんですよ。逆に考えるんだ、ジョジョ、です。そう、たったひとつの「政治的に正しい」関係性が存在するのではなく、ありとあらゆる多様な倒錯的関係性が許容され、しかもそれが倒錯と認識されない状況こそが最も政治的に正しいのだと考えるべきなのです!  つまり、成人男性が少女に命令する形式があっても良いし、成人女性が少年に命令する形式があってもいい。あるいは少女が男性に命令する形式があってもかまわない。  さまざまな関係性が野放図に繁栄している状況こそが最も倫理的なのであって、あるひとつの作品、ひとつの形式、ひとつの関係性を取り上げて「これは政治的に間違えている」ということは、じっさいにはむしろ差別的言説であるかもしれない、ということです。  『艦これ』に従来の前衛男性中心的関係性からの逸脱なり倒錯が見られるとしても、それを是正しようとするべきではありません。むしろもっと広範に多角的に倒錯させるべきなのです。  そのような逸脱的主従関係を、ぼくたちはたとえば『Fate』シリーズに見て取れるでしょう。この物語では、ほとんどありとあらゆるパターンのマスター×サーヴァント関係を発見することができます(二次創作まで入れるとさらに多様。ここでこっそり自分の同人誌を宣伝しておくと、ぼくが夏コミで発売する予定の『Fate/Bloody rounds(1)』は「美少女リーダー、男性フォロワーたち」の物語です。よろしくお願いします)。  詳細は以下をどうぞ。http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar592457 いやまったく、「男性が戦い、女子供は守られる」というひとつのパターンしか許されないような社会に比べ、現代日本は何と素晴らしいのでしょうか!  『艦これ』はたしかにそれ単体を見ればひとつの倒錯した人間関係を推奨しているように見えなくもない。しかし、だからその倒錯を見直そう、ということは間違えている。  もっともっと倒錯させつづけ、ありとあらゆる倒錯があたりまえな状況を作るべきなのです。それが最もポリティカル・コレクトな結論だと思います。  だから、 そうすると、ぼくの考える美少女ポケモンもの、「男性指揮官が女性戦闘員を使役して命がけで戦わせる」「戦闘員が幼い女性だとヤバい」「恋愛感情で操ってるともっとヤバい」ってのにいちばん自覚的な作品は、『ガンスリンガー・ガール』ってことになりますねー。 ガンスリンガー・ガールは、オタが好きな少女兵士の非人道的なヤバさをドライアイスで固めてブン殴ってくるような、画期的に自覚的な作品です。2002年の時点ですでに美少女ポケモンをテーマの中核に据えたマスターピースですね。いや終盤読んでないんですが。  いや、終盤も読みましょうよ! だって、その終盤ではまさに「たとえ、表面的な関係に主従、支配と被支配といった非対称性があろうとも、それでもなお、ほんとうに対等な関係を築くことは可能である」というテーマが打ち出されているんだから!  どんな人間関係も、必然的にある種の権力関係を内包します。そこでは強者と弱者が生まれ、支配と被支配の関係が表れる。それでもなお、その限界を超えて、ひとは対等な愛と信頼の関係を築くことができる、ということが『GUNSLINGER GIRL』の、あるいは栗本薫作品の最終的な結論でありテーマでした。  たとえそれが一瞬のうたかたの幻であるに過ぎず、次の瞬間にはまた果てしない権力闘争に戻っていくしかないとしても、です。  たしかに初期の『GUNSLINGER GIRL』は「オタが好きな少女兵士の非人道的なヤバさをドライアイスで固めてブン殴ってくるような、画期的に自覚的な作品」と評価するべきだったかもしれませんが、終盤ではそれをも確信的に乗り越えていると思うんですよ。  こういう作品がちゃんと出て来るということが、この世の中の面白さであり、それを無視して「これは倫理的に間違えている!」と告発しても始まりません。ただ上から目線で告発して終わらせるのではなく、「その先」を考えていくのが読者たる者の役割ではありませんか?  ちなみにぼくはもう疲れたので(現在早朝5時……)、あえて語りませんが、『GUNSLINGER GIRL』のドラマツルギーに関する詳細な分析は、ペトロニウスさんの以下の記事をどうぞ。さらには永野護『ファイブスター物語』あたりも押さえておきたいところです。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130103/p1  そして、この分析は、昨日発売(!)の『ビッグコミックスピリッツ』で商業版連載が始まった『バーサスアンダースロー』こと『1518!』へと続いていきます。  こうやって、物語は語られ、詠われ、継がれてゆくものなのでしょう。ひとつの物語の終わりは次なる物語の始まり。そして、さらなる次の世代、次のテーマへ、ひとが、ひとを愛するということを巡る物語は続いてゆくのです。  

『艦これ』は政治的に正しい!

海燕提督、いまさら『艦これ』を始める。(2108文字)

【毎朝更新】  ども。きのう(10月1日)からずっと記事を書きつづけていて、これで10本目くらいなので、さすがにイヤになって来ました。  いや、きょうのノルマは既に終わっているので、そろそろやめてもいいのですが、書けるときに買いておかないとあとで苦労しそうだからなあ。  あしたを丸一日お休みにするためにも、きょうがんばって書くんだ。うん。  このブロマガを始めてからというもの、通常の意味での「休日」というものはなく、休みたいときにかっては休んでいたのですが、毎日定期的に更新するというシステムだとちゃんと休日ができますね。  もちろん、その日の記事はあらかじめ書いておく必要があるのですが、思うに、その程度のことは苦労とか努力とかいうレベルではないかと。  このやり方だと毎日同時刻にちゃんと記事は更新されるし(書けばね)、なかなか良いんじゃないでしょうか。  ただ、あまりじっさいの日付けと書いた日が乖離しすぎると情報が古くなってしまう可能性があるので、1週間以上は差を付けないことにしたいと思います。  1日3本の記事を更新するとして、一度に21本以上のストックは設けないということですね。  そういうわけで、これからの『ゆるオタひきこもり生活研究室』は毎朝、数本の記事が更新されつづける予定です。  そのためにいま必死でこの記事を書いているわけです。おれ、この記事を書き終わったら『艦これ』やるんだ……。 【『艦隊』これくしょん】  そうです、やたらに枕が長くなってしまいましたが、この記事はいま話題のブラウザゲーム『艦隊これくしょん』の記事だったりするのです。  ひさし 

海燕提督、いまさら『艦これ』を始める。(2108文字)
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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