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タグ “音楽” を含む記事 7件

丁寧に生きるということ。「生」のキラメキを捉えたい。

 ども。あまりこのブログに書くことではないかもしれませんが、最近、なんとか自分の「生活」をより良くしたいなあと思っています。  日々の「暮らし」を洗練させることはぼくの数年来のテーマで、つまりより生き活きと暮らしたいわけです。  森浩二の『自殺島』は、人生に絶望した自殺志願者たちがなぞの「自殺島」へ送り込まれサバイバルしながら「生」の輝きを取り戻す物語でした。  しかし、ぼくとしては平穏な都市生活を送りながらなんとかその「生」のキラメキを実感したいと思うのです。  そのためにはたぶんいまよりもっと丁寧に生きることが必要でしょう。  「生きている意味が全て噛み合うその瞬間を味わいたいのなら丁寧に生きろ」とは漫画『少女ファイト』の名台詞ですが、ぼくとしては「瞬間」ではなく長期間にわたって「生きている意味」を実感しつづけたいのです。  可能なら死ぬとき、「ああ、いい人生だった」といって死ねるような、そんな人生を送りたい。  そのために、自分のすべてを燃やし尽くすように烈しく生きるという手段もあるでしょう。  『あしたのジョー』とか『昴』のような人生ですね。どこまでも高みを目指して自己を燃焼させるスタイル。  そういう目的志向な人生も悪くはない。でも、ぼくとしては日々のあたりまえの「暮らし」のなかにこそ「生」を実感したいと思うのです。  たとえば、一冊の本、一曲の歌、あるいはひとすくいのそぼろあんかけ豆腐に「生」は感じ取れると思う。  目的は都市生活のなかで麻痺している「いま、生きている」というあたりまえの感覚を取り戻すこと。生き活きと暮らすこと。刻々と過ぎてゆく一瞬一瞬を噛み締めること。  それでは、そのためには具体的にどうすればいいのか。そう考えていくと、まずは早寝早起きして――という、きわめて平凡な地点にたどり着きます。  丁寧な生活はそういうところからしか始まらない。まあ、そういいつつもこうして夜更かししているわけですが、ほんとうは良くないと思うのですよ。  朝起き、夜眠る。太陽のリズムとともに生きていく。そんな当然のことの大切さを思います。  全然実践できていませんが、ほんとうは朝早く起き、前日のうちに準備しておいた仕事を早めに終わらせ、その後はゆっくりと翌日の仕事のために本を読んだり映画を見たりする、という暮らしを送りたいのです。  こう書くと、もうひとりのぼくが「じゃあ、送ればいいじゃん」とささやくし、まったくその通りなのですが、現実にはなかなか生活のリズムが整わない。  まるで丁寧に生きられていないなあ、と反省するばかりです。  生活に関するぼくの興味は、たとえば料理や、入浴や、睡眠、読書、音楽、映画、インテリア、菜園、狩猟といった方向へ向かいます。  狩猟はちょっとべつとするにしても、こういった生活のディティールをより良いものに変えていければ、もっと良い人生を送れるのではないかと思うのです。  最近、ぼくはわりと自炊しているのですが、生活リズムが整っていないせいで毎日同じタイミングで料理することができていません。  やっぱりまずは生活リズムからだよなあ、と思います。それが人生の「基本のき」だよな、と。  まあ、それでも自分で料理していくらかでも美味しいものができあがるととても嬉しいです。  それもまた「生活の喜び」のひとつでしょう。そういうささやかな喜びを丁寧に積み重ねていけば、いつかは「いま、生きている」という実感にたどり着けるのではないか、と漠然と思っています。  「いつか」なんてあいまいなことではいけないのかもしれないけれど……。  そういう文脈でいうと、映画『リトル・フォレスト』は田舎暮らしのなかでさまざまに自炊して暮らす様子を綴った物語で、「生」の実感が山盛りの素晴らしい作品した。  一種の「スローライフもの」なのですが、流行りの言葉で終わらない生々しさを捉えた傑作です。  「スローライフ」とか「シンプルライフ」とか「ミニマリズム」とか「断捨離」とか、綺麗な言葉に惑わされないよう気をつけたいものです。  そう、生活の魔法は一 

丁寧に生きるということ。「生」のキラメキを捉えたい。

かよわさ、儚さ、脆さ、いじらしさ、健気さ、清潔感、透明感――フラジャイルでピティな感覚に惹かれる。

 きょうは前回の記事の続きを書く予定だったのですが、そこを変更して思いつき記事をお送りします。  まだ全然煮詰まっていない生煮えのアイディアなのですが、LINEで話していたら個人的に盛り上がってきたのでそのままメモしておこうかと。  どういえばいいのか、ぼくが昔から好きなある「感性」、あるいは「表現の傾向」の話なのですが。  うーん、これでは漠然としていますね。  ぼくは昔からずっと「ある種の作品」や「キャラクター」が好きなのですが、具体的にそれをどう表現したらいいのかわからずにいました。  いまでもわからないのだけれど、最近、時代がずいぶんぼく好みの方向に進展していると思うのです。  それで目につくところで起こっている現象をメモしておこうというわけです。  どこから話したらいいのか――そう、まずは「Future Bass」という音楽ジャンルについて話したいと思います。  「Future Bass」とはどんな音楽なのか? 実はよくわかりません(笑)。  この記事(http://www.edmbanana.com/entry/future-bass)によると、「キラキラ系かわいい感じのテイストや、ゴージャスなシンセが特徴で、ときにはゲームサウンドっぽいものが入ったりするElectronic Music」ということのようです。  じっさいにどんな音楽なのかは、リンク先に飛んで聴いてみてください。ちょっと新しい感じがするものを聴けると思います。  具体的にどのくらい影響を与えあっているのかちょっとぼくにはわかりませんが、ボカロなんかを聴き慣れている人にとっては耳障りのいい音なのではないでしょうか。  ボカロのあの現実から浮遊した感じ、生々しさがない感じが共通しているかな、と。  上記したように具体的にどういうジャンルなのかもよくわからない音楽なのですが、Youtubeなんかで続けて聴いていると、ぼくは非常に自分の好みに合うものを感じます。  そうそう、これこれ、こういうのが好きなんだよね、という感じ。  この、音の「軽さ」みたいなものにぼくは非常に惹かれるわけです。  ぼくがアニメを好きなのも、結局はその「軽さ」が好きなのだと思う。  ここでいう「軽さ」とは、「生々しさ」の対局にある概念だと理解してほしいところです。  ちょっとチープな、リアリティのない、ニセモノっぽい、なめらかでプラスティックめいた感じ、といえばわかってもらえるでしょうか。  アニメのキャラクターが持っているその非現実感が好きなのです。  とても綺麗で花やかだけれど、現実的から何センチか浮遊している感じ。  最近、ぼくはゲームをプレイするようになったのですが、欧米のゲーム企業が作る大作はいずれも大金を投じてリアリティを突き詰めているように思えます。  息を呑むような生々しさ、まるで現実であるかのような実在感。それはそれですごいものではあるのですが、ぼくはそういう方向性にあまり興味がないのですね。  ぼくはやっぱり非実在の存在であることをそのままに主張しているキャラクターが好きなのだと思います。  これはぼくだけではなく、日本で生まれ育ち、かつては「オタク」と呼ばれていた人たちにはある程度共通する感性なのではないでしょうか。  アニメキャラクターが持つ「過剰なまでの清潔さ」をこそ愛するセンス。  そして、ぼくがその「リアリティから浮遊するほどのクリーンさ」と合わせて重視しているのは「フラジャイル」の感覚です。  「壊れやすい」を意味する英語ですが、そこには「儚い、脆い、かよわい、虚ろな」というイメージが重なります。  この「軽さ」と「壊れやすさ」を併せ持つ表現がぼくは好きでならないのです。  つまり、「非現実的なほどに清潔で、儚く、かよわく、壊れやすい」ものを愛でる感覚。  わかってもらえるでしょうか?  おそらく 

かよわさ、儚さ、脆さ、いじらしさ、健気さ、清潔感、透明感――フラジャイルでピティな感覚に惹かれる。

語りきれないものを語りたい。

 たとえば、どういう作品が好きですか、と訊かれたとき、「こういう作品です」とシンプルに答えることはむずかしい。  もちろん、ぼくにもたくさん好きな作品はあって、そこには共通項もあるようなのだけれど、「こうだ」といい切った瞬間にすでに何かがずれ始めている気がする。  それでもあえて言葉にするなら、ぼくはたぶん矛盾する概念の相克が見たいのだと思う。  少々格好をつけたいい方になってしまった。もう少し噛み砕いた言葉にするなら、互いに相いれない観念がぶつかりあって火花を散らすところが見たいのだ。  つまり、「こういう主題の作品だ」とはっきり言葉にして表せない作品こそが好きなのである。  たとえば、娯楽作品であるはずなのにひたすら陰惨で淫靡であったりとか、そういう、内部に矛盾を抱えた作家性が好きだ。  いい換えるなら、無矛盾に整合させられた作品には、ぼくは関心がない。  わかってもらえるだろうか? エンターテインメントは好きだけれど、ただのエンターテインメントは好きではないということ。  常にエンターテインメントの定石から逸脱する何かを秘めながら、それでも、なお、エンターテインメントの枠組みのなかになんとか収まった作品が好きなのだ。  この場合、「エンターテインメントであること」を放棄して、「わかる人にだけわかればいい」と決めてしまったなら、矛盾がなくなってつまらない。  その反対に「エンターテインメントであること」に特化して、「ウケさえすればそれでいい」と考えるとしても、矛盾がなくなってしまうので面白くなくなる。  ぼくはあくまで相互に矛盾し対立しあう概念が衝突し相克しつづけるその現場にこだわりたい。  ぼくはハッピーエンドの物語が好きだけれど、それもシンプルな予定調和になってしまうとやっぱり退屈に感じると思う。  大切なのは「いま、そこ」で、過去のどの作品とも違う未知の物語が生まれているという感触なのだ。  「こういうものだ」とか「これが正しいのだ」と訳知り顔で悟ってしまったその瞬間に、新しいものは生まれて来なくなる。  ぼくはやはり何が正しいのかわからない五里霧中のなかから生まれてくる新作にこそわくわくする。  「いったいこれは何なのだろう?」という謎と神秘を秘めた作品にこそときめく。  わかってもらえるだろうか? 語りきれないものこそ語る価値があるということなのだ。  だから、 

語りきれないものを語りたい。

あなたの最愛の天才は、いつか必ずあなたを裏切る。

 たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』である。 世の中には天才といわれるようなクリエイターがいて、時折、信じられないほどクオリティが高い作品を生み出す。  しかもそれはただ品質的に高度だというだけではなく、何かひとの心を捉えて離さない特別な魅力を秘めている。  そういう作品にふれたとき、受け手は思う。「ああ、まさにこれこそ自分が夢にまで見た理想の作品だ」。  そして、その作者に対し強い親近感を抱く。この人は自分のような人間のことをとてもよく理解してくれているに違いない、と。  これが、ひとがあるクリエイターの「ファン」になるということである。  クリエイターとファンの良好な関係は、しばらくの間は続くだろう。そのクリエイターがファンにとって最高の作品を提供しつづける限り、ファンはかれを神とも崇めつづけるに違いない。  この状態を、ぼくの言葉で「蜜月」と呼ぶ。  しかし、時は過ぎ、状況は変化する。永遠に変わらないかに思われたその天才クリエイターの作品も、しだいに変わっていく。  その変化は、人間であるかぎり必然的なものだが、ファンには重大な「裏切り」とも感じられる。  なぜなら、ファンはそのクリエイターに幻想を見ているからだ。そのひとが自分の理想を体現しつづけてくれるという幻想を。  だからこそ、クリエイターがその理想から外れることは途方もなく辛く感じられるのだ。  そして、ときにファンはその「裏切られた」という思いをクリエイターにぶつける。  最も熱烈なファンであったひとは、最も凶悪な弾劾者になるだろう。こういうパターンを、あなたも一度や二度は見たことがあるのではないだろうか。  『エヴァ』ではなく、『グイン・サーガ』でも、『AIR』でも、『ファイブスター物語』でもなんでもいいのだが、熱狂的な「信者」を集めるカルトな傑作は、次の段階に進んだとき、「そっちへ行くな! ここに留まれ!」というファンたちの非難に晒される。  かれらはいうに違いない。「一時だけ夢を見せてそれを裏切るなんて、なんてひどい!」と。  しかし、それは本質的にクリエイターのせいではないのである。どんな天才的なクリエイターといえども、人間である以上、変わっていくことは必然なのだ。  そして、ファンとまったく同じ人格ではない以上、ファンの気持ちをどこまでも汲み取りつづけることも不可能なのである。  あるいはファンはいうかもしれない。「自分は金を払ったのだから、作者には自分の望むとおりにする義務がある」。  だが、そんな義務はない。わずかな金銭で他人の行動をコントロールしようなどと、無駄なことだ。  たとえばアニメ『艦これ』のように、大規模な失望が「炎上」現象を生むこともある。それも無駄といえば無駄なことである。  どんなに騒いでも、他人の気持ちを変えることはできない。そしてすでに作られてしまった作品の筋書きを変えるわけにもいかないのだ。  大切なのは、クリエイターと自分はべつの人間であり、べつの価値観を持っていて、べつのものを良いと考えるのだ、という事実をしっかり認識しておくことである。  ひととひとはあくまでも「個別」。蜜月の夢は甘いが、それはどこまで行っても幻想に過ぎない。  だから、怒ってもいいし、批判してもいいが、他人を自分の思い通りにコントロールしようなどと考えるべきではない。他人は他人に過ぎないのだ――たとえ、信じられないほど天才的な他人ではあるにせよ。  理屈では、そういうふうに思う。とはいえ、 

あなたの最愛の天才は、いつか必ずあなたを裏切る。

北風に立ち向かえ。映画『くちびるに歌を』は感涙の傑作。

心に太陽を持て。 あらしが ふこうと、 ふぶきが こようと、 天には黒くも、 地には争いが絶えなかろうと、 いつも、心に太陽を持て。  映画『くちびるに歌を』をみた。  圧倒されて言葉ひとつ出て来なかった。  これは、まさに吹き荒れる嵐のなか、なお青褪めたくちびるに歌声を保とうとする、その健気な人々の物語だ。  運命の無情な羽ばたきに吹き飛ばされながら、それでも心に太陽を抱きつづけようとする人たちの鮮烈な生の記録だ。  ここには〈世界〉がある。そして〈人間〉がいる。  どうしようもない巨大な歯車に押しつぶされながら、何とか一生懸命に生き抜こうとするひとの意思がある。  美しい。なんと美しい映画なのだろう。  傑作とか名画とか、そのような陳腐な表現はこの清新な一作に似合わないが、あえてそういうふうに呼ばせてもらおう。傑作だ。名画である。  ひとつ映画に限らず、今年ふれたあらゆる物語のなかでも、出色の一作ということができる。  話は、ある小さな離島の中学校に、ひとりの美貌の女性教師が赴任してくるところから始まる。  ささやかな約束によって合唱部の担当となったその教師は、しかしかれらを熱心に指導しようとはしなかった。  やがてその教師目あてに幾人かの男子部員たちが入って来て、部は分裂し、混乱する。  そしてあきらかになる教師の過去。彼女は元々、素晴らしいピアニストだったのだ。  それなら、なぜ自分たちのためにその天性の技量を振るおうとはしないのか? 合唱部の生徒たちの間にフラストレーションが溜まっていく。  しかし、そのうち彼女が心に抱えたひとつの〈瑕〉が明かされることになる。  一方、生徒たちもまた物語を抱えている。自閉症の兄とともに暮らす少年。実の父親に見捨てられた少女。そして、かれらの想いと教師の想いが響き合うとき、ひとつの奇跡が起こる――。  この映画が描こうとしているものも、ある種の〈諦念〉である。  主人公の少年は自閉症の兄の世話をする人生を受け入れている。自分の生の意味はそこにあるのだと、はっきりとわかっている。  父に見捨てられた少女はそれはどうしようもないことだときちんと理解している。  しかし、それでもなお、そこに「どうしても割り切れない想い」がある。  ひとがひとである限り、純粋に無私の境地には到達できない。どんなに割り切ろうとしても、やはりほんの少しだけ無念がのこる。  だから、そう、くちびるに歌を。  何もかも思い通りにならない、辛く、また切ない日々のなかでも、歌声を保ちつづけること、それが、 

北風に立ち向かえ。映画『くちびるに歌を』は感涙の傑作。

初音ミクは新時代のメディアミックスを導く天使となるか。

 しばらく前に初音ミクのジグソーパズル(300ピース)を買ったのだけれど、なかなかやる機会がありません。  まずはケースを買わないと始められないな、と思うのですが。  ぼくは以前から初音ミクが象徴するボカロ(ボーカロイド)文化に興味を抱いていて、ちょっとふれてみたいな、という気はあるのですが、どこから手を出したらいいのかわからなくて放置しています。  ニコニコ動画でミクさんの動画をいくつか見てみたのだけれど、それだけではボカロ王国の門のなかに入ったともいえないのではないでしょうか。  じっさいにいくつか聞いてみた感想といえば、センチメンタルな歌詞が多いかな、という程度。  もちろん、それもボカロの表面をさらっと撫ぜたような評価に過ぎないのでしょう。  なぜいまさらボカロに興味を持つのか?  それはやはりボカロが若い世代を象徴するカルチャーであるように思われるからです。  ぼくがしっている文化とはまた違うテン年代の若者たちの文化。  おお何か面白そう、わけわからなさそう、変な人がいっぱいいそう、ということでわくわくするのですが、でも、どこから手をつけたらいいかわからないんですよね。  まずは読みさしの『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』を読み終えなくてはならないのかもしれません。  それとも、もっとニコニコにアップされている動画を見て行くか――ぼくは初期のボカロはあまり受け付けなかったひとなのですが、最近上がっている曲の数々は素直に「ええなー」と思います。  技術が向上しているのか、こなれてきているのか? いや、ぼくがボカロに慣れただけかもしれません。  それにしても、ボカロ文化はいま、若者層において非常にメジャーなものなのでしょう。  ただ単にボカロそのものだけではなく、その周辺文化もすごい勢いで拡大していっているようです。  先日書店の店頭でぶらぶらしていたところ、ボカロ小説として有名な『カゲロウデイズ』がたくさん平積みされていて、780万部と書かれていました。  は?  既刊わずか6巻で780万部?  それがほんとうならいまのライトノベルで最も売れている『ソードアート・オンライン』を大きく上回る数字ですし、おそらくライトノベル史上でもここまで売れた作品はないはず。  『ロードス島戦記』の全盛期でも敵わないんじゃないかな。  うーん、ちょっと信じられないような数字なのですが、でも、まさか出版社がウソをつくはずはないから、事実なのでしょう。  ことほどさようにボカロ文化は若者層にとってメジャーだということなのでしょうね。凄いなあ。  年長の世代から見れば時にイミフとも思える作品なり文化が、若者の熱い支持を得てメジャーになっていく。  いつの時代もくり返されて来たことではありますが、ボカロ小説もまたそういうもののひとつなのかもしれません。  いや、もちろん、ボカロを支持する「大人」はたくさんいるけれど、それにしたってボカロ小説はやはり若者文化でしょう。  ぼくはいままでボカロこそある程度しっていても、ボカロ小説については???な状態でした。  いわばまったくのノーマーク。その上でただ遠巻きに眺めているだけだったのですが、これくらいはっきり数字になって出て来ると興味が湧いてきます。  うーむ、とりあえず「カゲロウプロジェクト」から入ってみるとするか。  実は『カゲロウデイズ』は2年近くまえにKindleで買ってあったりするのですが――買っただけで、読んでいなかったのですね。  ちなみに、ボカロ小説とその背景についてはこの記事がわかりやすいです。 http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1308/02/news007.html  こういう内容を読むと、「オタク」という括りは、ほんとうに何の意味もなくなってしまったんだなあ、と感慨深い。  おそらくはご存知かと思いますが、初音ミクは一見してそう見えるようなオタクのアイドルでも何でもないのですね。もっと普遍的な存在だと捉えるべきなのでしょう。  この先、「ゆるいオタク」が増えていくことを見越して「ゆるオタ残念教養講座」と題したこのチャンネルのコンセプトも、どうやらもう古くなりすぎているようです。  だからといって、「次」の世代を指すネーミングはまだ存在しないので、どうしようもないのだけれど。  現時点でおぼろげに感じるのは、 

初音ミクは新時代のメディアミックスを導く天使となるか。

『SAO』、『ログホラ』、そしてSEKAI NO OWARI。ファンタジー的想像力の彼方にあるものとは。

 ペトロニウスさんが最新記事でSEKAI NO OWARIを取り上げていますね。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150321/p1  SEKAI NO OWARIはたしか新潟にもツアーで来たりしているはずなので、たまに視界の端っこに入ったりするアーティストなんですけれど、なるほど、ゲームと仮想現実の文脈で見るのは面白いです。  たしかにSEKAI NO OWARIが歌う「ファンタジー」って、ゲーム世代のファンタジーだよなあ、という気は強くする。  べつだん熱烈なファンというわけじゃないし、何曲か聴いて感じただけの印象ですが、まあ、『ドラゴンクエスト』の世界ですよね。  ただ、『ドラクエ』的なイマジネーションというものは、いまではもうひとつ『ドラクエ』を超えて普遍化したものだと思うんですよ。  ぼくたち以降の世代は、仮に『ドラクエ』をプレイしたことがないとしても、その想像力を確実にシェアしているんじゃないか。  「小説家になろう」で広く見られるファンタジー作品などはその典型であるわけですけれど、年代的に必ずしも『ドラクエ』がメジャーでない若い世代にとっても、やっぱり『ドラクエ』的なファンタジーは親和性が高いものなのだろうと思うのです。  『ドラクエ』に始まり、一般化し、普遍化し、日本中に広がっていったひとつの「世界観」があるということですね。  その「世界観」はもはや膨大な数のファンタジー作品に影響を与えていて、若い世代にとっては「原風景」とすらいえるものとなっている気すらします。  どういえばいいのかな、何かきれいな風景や、神秘的な物体を見ると、ぼくなどはすぐに、ああ『ドラクエ』だ、『ファイナルファンタジー』だ、『ゼルダの伝説』だ、というふうに思う。  でも、それってほんとうは順序が転倒していることなんですよね。  ほんとうは現実に美しい景色や神秘なモノが存在していて、それを引用してゲーム的なイマジネーションが紡がれていったのだから。  ただ、いまのぼくたちにとっては現実の自然よりも虚構のゲームのほうがはるかに身近になってしまっていることは、良し悪しはともかくもう完全な事実ですよね。  たとえば「戦争」というと、まず『ガンダム』が思い出される、みたいな現象に近いかもしれません。  いまのぼくたちにとって、ゲームの世界が「もうひとつの現実」であり、「いつかそこにいたことがあったかもしれない世界」と感じられることは争えない事実でしょう。  たぶんですね、、、この作詞の感性って、『RPG』や『眠り姫』もそうなんですが、ゲームの世界をも一つの「現実」として前提として考えている感性なんだと僕は感じるんですよ。『眠り姫』とかも、僕らはたくさん冒険したよね!というフレーズは、僕には、ロールプレイングゲームやネットのゲームの世界で、異世界転生というか「もう一つの現実」を生きたことが、現実と等価かそれ以上の価値をもって世界を生きている人の感性が、自然にナチュラルに描かれているですよね。  そう――SEKAI NO OWARIの歌詞の感性は、いまやごく普遍的なものでしょう。  「ゲームでの冒険」は現実の冒険と等価である、と信じることができるセンスは、広く共有されていると思う。  もっとも、こう書いてみてあらためて「その感覚はほんとうだろうか?」と思うことも事実です。  これは『ログ・ホライズン』の記事で書いたことですが、現代で流通しているファンタジー的な想像力はそのほとんどが「コピーのコピーのコピー」であるに過ぎません。  その源流にまでたどっていけばたしかにオリジナルがあるにせよ、それと比べたらはるかに色褪せた想像力でしかありえないと思うのです。  これには異論もあることでしょう。  アニメやゲームのヴィジュアル的な解像度は増すばかりであり、迫真の作品が次々と出て来ている。  たとえそれが「コピー」であるとしても、圧倒的な薄力をもった作品もあるはずではないか、とか。  しかし、そうはいっても、ぼくたちはファンタジーゲームをあくまで「ゲーム」として、「フィクション」として割り切った上でプレイしている。  一方で、ぼくたちが単にファンタジーゲームのジョブのひとつとして扱っている「騎士」とか「魔法使い」とか「占星術師」とかが現実の存在だった時代があるのです(占い師は一応いまでもいますが)。  もっというなら、森の奥に妖精が住んでいるかもしれないと信じられる時代が現実にあったし、どこか遠くにドラゴンがひそんでいるかもしれないと考えられた時代もあったわけなんですよ。  そういう時代において、魔法使いや妖精やドラゴンや吸血鬼は紛れもない「実在」の存在であって、ファンタジーはただの遠い世界を描いた夢の話ではなくまさに「真実」の物語だった。  もちろん、あるいはその時代の人々もそれらはしょせん迷信の産物に過ぎないと考えていたかもしれない。  しかし、それにしたって、高度産業文明に守られて自然から切り離されたぼくたちとは「魔法」のリアリティが格段に違っていたはずなんですよね。  そこにはじっさいに自然があり、脅威があった。  森の奥には何がひそんでいるのかわからなかった。  海の向こうには何が生きていてもおかしくないと思えた。  そういう広い意味での「自然」に接した体験に由来するファンタジーを、ぼくは「本物」と呼びます。  そして、きょう流通しているファンタジーのほとんどは、ひとつの作品としてどんなに優れているとしても、そういう意味ではやはり「コピー」なのです。  現代人そのものが「コピー」に囲まれて人工の世界を生きている存在だといってもいい。  それが「生の不全感」へつながっていくこともある。  しかし――ここが重要なところなのですが、「コピー」が「本物」になりえる瞬間もまたあると思うのです。  ほんとうは「フェイカー」であるに過ぎない衛宮士郎が、本物の神話の英雄であるギルガメッシュを破ったように、といえば良いでしょうか。  なぜそんなことが起こるのか? それは、 

『SAO』、『ログホラ』、そしてSEKAI NO OWARI。ファンタジー的想像力の彼方にあるものとは。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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