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「超越的なるもの」とファンタジーの系譜。

 夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。  数年前、『戦場感覚』というタイトルの同人誌を出したのですが、いま思うと、ぼくがそこで語りたかったのはひとつの「世界観」でした。すべての人がその人なりの戦場を生きているという世界観ですね。  そこで、ぼくはその戦場としての現世を超えた「超越的な世界」として「ポラリスの銀河ステーション」なるものを想定しました。  ひとの戦いの根源である「愛=差別」が消失し、一切の戦いが止む彼岸の世界。楽園。その時に考えていたのは宮沢賢治の「よだかの星」や『銀河鉄道の夜』のイメージだったのですが、もちろん、「超越的な世界」のイメージは他にも色々な文学作品に登場します。  そもそも、ひとはなぜ「超越的な世界」、あるいは「神なるもの」について考えるのでしょうか? Wikipediaによると、「宗教的行為の信頼できる証拠は中期旧石器時代(5-30万年前)から見つかっている」ということです。  つまり、その頃からひとは現世を超えたものの存在を肌で感じていたのです。ひとはなぜそういうものを感じるのか? それは、ひとつにはひとが社会を形作る生き物だからです。  つまり、ひとはほかの動物とは異なり、過去の人間の知見の上に自分の人生を築いていく生き物であるわけで、つまりその意味で死者は死後も生きつづけることになる。  その状況のなかで、何かしら一個人の生死を超越した「魂」といったものが想起されて行ったのでしょう。そして、「我々はどこから来てどこへ行くのか」という、あの超普遍的な問いとともに「神」や「楽園」といった「超越的なるもの」が生み出されていったのだと思う。  もちろん、ここらへんはもう何冊か宗教学の本でも読んでみないことには何ともいえませんが……。  そして、現代を生きるぼくたちは一見するとこういう「超越的なるもの」とは距離を置いて生きているように思えます。人間には「魂」なんてないし、この世の外に「楽園」とか「天国」とか「浄土」なんてものは存在しない、すべては自分ひとりで完結して、死んだらそこで終わりだ、と。  しかし、こういう考え方とは別に、あいかわらず宗教的なものはぼくたちの日常に存在しています。決してすべてが世俗化したわけではない。  なぜなら、「我々はどこから来てどこへ行くのか」というあの問いには、未だに答えが出ていないからです。ただ、日常を超えた超越的なるものに触れる機会は、圧倒的に減少してはいるでしょう。  そういう状況下で、ぼくたちはしばしば「生の不全感」に悩まされたりするわけですね。  そして、その上でなお「超越的なるもの」を志向し、そういう生の不全感を癒やすために書かれた一群の物語を、ぼくたちはファンタジーと呼んでいます。  もともとは 

「超越的なるもの」とファンタジーの系譜。

『ヱヴァ』と『妖怪ウォッチ』で考える責任論。

 ども。近所のゲオで『たまこラブストーリー』をレンタルしてきた海燕です。はたして寝る前に試聴することができるか、どうか。非常に楽しみな内容ではあるんですけれど、どうかなあ。  さて、ここ数日、腰痛を初めとする身体不良にボロボロになっていたぼくであるわけなのですが、数度に渡る電気ショックと、注射と、数多すぎて何が何だかわからない錠剤のマジカルパワーによって、ついにここに復活を遂げました。  まだ100%とは行かないけれど、だいたい90~95%くらいまでは回復したと思う。そうなると、いままで更新をサボってきたことが罪深く思えて来るわけで、枕を座椅子代わりにしてパソコンに向かおうと思ったしだいです。  しかしまあ、ほんとうに大変な数日でありましたことよ。肉体的に相当やばい橋を渡っていた上、精神的にもどん底のさらにどん底。ついには体内のどこかの血管が破れたらしく、血まみれの痰を吐き出すようになって、真剣に死を考えました。  というか、今回はまあ大丈夫だったとして、このままストレスフルな生活を続けていると、いつか確実にガンになって死亡すると思う。いまこそ人生を変える時!  とはいえ、そう簡単に生き方を変えられたら苦労はしない。もちろんさまざまな出来事を経験するたび、理屈としては色々な「悟り」があるものの、押し寄せる現実のプレッシャーは圧倒的で、それを前にどうしようもなく流されてしまうのがきょうまでのぼくだったわけです。  それはきっとあしたからも変わらないことでしょう。人生が格段に楽になる魔法のひと言なんて存在しない。ぼくの手もとにある美しい錠剤の数々も、人生そのものを一気に治療できるほどにはマジカルではないらしい。  ただ、いくらか人生の重みを軽くしてくれる言葉は見つけました。それでは、ぼくが地獄のような自己追求の迷宮の底で、ついに悟ったこの世の真理をお教えしましょう。  それはわずか一行で表せます。つまり、「この地上で起こる出来事は、何もかもぼくのせいではない」。以上!  いやー、この単純な「悟り」はぼくの人生にとって革命的な意味を持つと思う。もちろん、現実にはこの言葉をどこまで実感しつづけられるかという問題があるのだけれど、それにしても、思考の基板となっているところにある倫理をドラスティックに変えてくれる一行なんじゃないか。  この言葉にたどり着けた自分を褒めてやりたい気持ちである。偉いぞ>ぼく。まあ、いかにも極端かつ無責任きわまりまりない発言に思えることはわかっています。  でも、ぼくの硬直しきった人生を変えるにはこのくらいの劇薬が必要だと思うのですね。ぼくはいままで「何であれひとのせいにしてはいけない。自分で自分の人生を背負わないことには成長はない」と考えて生きて来ました。  ある意味では非常に「正しい」理屈だといまでも思う。「自分の問題をひとのせいにするな」というのは、ある意味で日本人好みのモラルではあると思うのですが――でも、これ、突き詰めていくと世界のすべてをひとりで背負わないといけなくなるんですね。  『Fate』のセイバーとか衛宮士郎がこの陥穽に陥った典型的なキャラクターだと思うけれど、果てしなく拡大していく責任を、すべて自分でひき受けようとすると必ず破綻する。  人間にはどうしたって個人でひき受けられる責任の限界があって、その外のことは「哀しいけれど、仕方ないよね」と割り切るしかないのです。  たとえば、ぼくが全人生をつぎ込めばアフリカの飢えた子供の数十人くらいは救えるかもしれないけれど、ぼくはそうしない。それはある意味でその子供たちを見捨てているともいえるわけだけれど、それを「仕方のないこと」と合理化することなしには、ひとは生きていけないわけです。  それでもなおかつ、「すべての人に平和を! 幸福を!」とかありえない理想を抱いてしまうと、それこそ『Fate/Zero』の衛宮切嗣のようになってしまう。  だから、自分の適切な責任範囲を設定して、その範囲のことだけに集中するのが、まあ大人の態度なのでしょう。  しかし――やっぱりそういう態度はどうしても妥協的なものに思えないこともありません。芥川賞作家の玄侑宗久は、金子みすゞや宮沢賢治の作風には「大乗仏教の呪縛」があるといい、まずは自利に努めなければならないと語っています。  うなずける意見ではありますが、ほんとうにそうでしょうか? そういう都合の良い云い訳を用意して、自分をごまかしているだけなのでは?  ぼくはずっとそう思って、割合に「理想の自分」を追求してきたように思う。「理想の自分」は無限に優しく無限に寛容です。  どんなに傷つけられても、虐げられても、決して怒ることもなく、まして暴力を振るうことなどありえないデクノボー――そういうふうになりたいと思って生きて来た。  ひとは知らず、己はそうでなければならないのだ、と信じて、滑稽な努力を続けてきたように思うのです。そうして、崩れつづける石を積むこと36年。よくやったものだ、と我ながら思います。  高すぎる理想にたどり着くことはついになかったけれど、それでもその青くさい理想を折らずに追い求めつづけてきた。自分なりに妥協せず、真理だと信じるところを追いかけて来た。  だけれど――その結果がストレスとなって積もりに積もって、文字通り血を吐く羽目になったわけです。あたりまえといえば、あたりまえのこと。決して手が届かない高すぎる「理想」と、醜怪にして卑小な「現実」との耐えがたい落差は、そのまま重圧となって自分を苦しめるのですから。  その苦しみを、しのぎ、しのぎ、何とか乗り越えて生きて来たのがぼくの人生だったと思います。  苦しかった。聖賢に非ず、どこにでもいる凡人であり俗人であるに過ぎないぼくが、届かない理想に手をのばそうとしてきたのだから、その無理、矛盾はあまりにも大きかったといえます。  そしていま、ついにぼくは「このままこの生き方を続ければ死ぬ」と悟らざるを得なくなったわけです。さて――さて。それでは、どうするか。  死ぬとしてもあくまで自分の理想を貫くか。それとも妥協して普通のあたりまえの人生を送りつづけるか。もっとも、元々、普通の人生を送っていることには変わりはないのです。  つまり、意識の上で理想を追うかどうかという違いがあるだけなのですね。だから、ぼくがどう決意しようと世界には何ら変化はないはずなのですが、それでも、迷いに迷い、苦しみに苦しみました。  そして、いま、ぼくはついに世界という重荷を手放そうと思う。自分の行動に完全な責任を取ることをやめようと思うのです。つまりは、生きることを選ぶ――それがぼくの選択です。  金子みすゞは、この究極の矛盾を整合させることができないまま、自殺を遂げました。その激烈な生に比べれば、ぼくの生き方はやはり微温です。ぼくにはそこまで自分を貫き通すことはできない。  だけれど、そうであるとしても、ぼくはとりあえず生きることを選びたい。妥協するとしても、理想を見失うとしても、心を折るとしても、ひとりの人間として生きていくことを選びたいと思う。  高すぎる理想と卑しい自分との乖離に苦しめられることは、もういいかげん限界だ。文字通り血を吐いてみて、それがようやくわかった。 

『ヱヴァ』と『妖怪ウォッチ』で考える責任論。

ひとはどこまで共感することができるか?

 森絵都『君と一緒に生きよう』を読む。森は、何十冊もの本を上梓している直木賞作家であり、ぼくが個人的に好きな作品もあるが、この場合、そのことはあまり関係がない。  より重要なのは、彼女が二匹の犬の飼い主であるということ。スウと、ハク。ある愛犬と別れる際、「もう二度と犬なんて飼わない」と誓った彼女にその誓いを破らせた犬たち。この本は、そんな犬たちの「母親」である森が綴った人と犬との記録である。  人と、犬。それぞれ異なる種であるはずのふたつの存在は、しかし、時に互いを必要としあうことがある。人は犬の想いに共感し、犬は人の哀しみに共鳴する。その不思議。  ある意味でこの本の続編ともいえる『おいで、一緒に行こう』と合わせて、犬好きの方にはお奨めできる一冊である。  こういう本を読むとき、ぼくはいつも共感について考える。共感とは何だろう。ひとの想いに共振すること。そうだろうか? しかし、森のように同じ人間ではない犬の想いに共感する人もいる。犬だけではなく、猫や、鳥に共感する人もいることだろう。  フィリップ・K・ディックだったか、捕らわれたゴキブリにすら共感し、それを飼っていたという作家の話を聞いたこともある。人は果てしなくどこまでも共感の範囲を広げていける生き物であるようだ。  とはいえ、ぼくのような普通の人間の共感範囲は限られている。同じ人間に対してすら、なかなか共感を寄せることはむずかしい。時には怒りや憎しみに囚われ、実在しない「敵」を生み出すことすらある。狭隘な自我の虜囚。  しかし、この世には、ごく少数ではあるだろうが、人並み外れた共感力を持つ「共感の天才」とでも呼ぶべき人々がいる。宮沢賢治がそうだったし、金子みすゞもおそらくそうだったのだろう。かれらはときに無生物にすら共感を注ぐ。  上の雪  さむかろな。  つめたい月がさしていて。  下の雪  重かろな。  何百人ものせていて。  中の雪  さみしかろな。  空も地面(じべた)もみえないで。  雪という無生物にまで想像力を働かせ、「さむかろな。重かろな。さみしかろな」と「共感」してしまう、この異常に鋭敏な感受性が、金子の作品のなんともいえない魅力である。  金子や賢治のような天才は、いわば果てしなくどこまでも広がる無限射程の共感能力を持っているのだ。そのような天才的な共感力を持って見てみれば、この世はすべて共感の対象である。  すべての人間はおろか、あらゆる生き物、それどころか無生物すらも、愛を注ぐべき対象として浮かび上がってくるのだ。時々見かけるあの野良犬も、となり街に咲く桜の花も、しずかにそびえ立つ電柱も、遠い空の彼方の星々すらも、すべては「時」の侵食を免れず、やがてはその命尽きて消えていく儚い存在に他ならない。  その意味ではこの宇宙全体が、ぼくとともに時のなかを駆け抜けてゆく同胞なのだということ。『ヴィンランド・サガ』で語られたように、この世に敵などいない。すべてみな友であり、仲間であるのだという実感、それが、ぼくがいうところの「戦場感覚」の行き着く究極の地点だ。  そこにはもはや「戦い」の感覚はない。この宇宙のすべての存在が限りなく愛おしく、かけがえなく、それでいていつか失われてゆくものなのだという想い――ぼくが「ポラリスの銀河ステーション」と呼んだ境地である。  最近読んだ『嫌われる勇気』によると、アドラー心理学では「共同体感覚」という言葉があるという。この共同体感覚とは、ぼくが云うところの「戦場感覚の向こう側」、「ポラリス」と近いところにあるものなのではないだろうか。もはや敵もなく、味方もいない、すべては平等で、差別も価値判断もない世界。  金子みすゞは詠う。  私は好きになりたいな、  何でもかんでもみいんな。  葱も、トマトも、おさかなも、  残らず好きになりたいな。  うちのおかずは、みいんな、  母さまがおつくりなったもの。  私は好きになりたいな、  誰でもかれでもみいんな。  お医者さんでも、烏でも、  残らず好きになりたいな。  世界のものはみィんな、  神さまがおつくりなったもの。  この世のあらゆる森羅万象の存在へと注ぐ、無限射程の愛と共感――しかし、決してそれは人がたどり着けない境地でもある。それは「死」に限りなく近い世界だからだ。 

ひとはどこまで共感することができるか?
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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