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「クンフー」とは何か? 最速の成長のため最も遠回りな道を選べ。
2015-03-16 07:0051pt
本が好きだ。 最近は電子書籍で代用することも多いけれど、随分と長いあいだ紙の本を読むことが最高の趣味であり娯楽だった。
自然、本には思い入れがある。ぼくはあまりていねいに本を扱うほうではないが、それでも、たくさんの本が集まった書店や図書館に行くと陶然となる。
しかし、世の中にはぼくよりはるかに本が好きな人がいて、そういう人たちは文字通り本なしには生きていけない。活字中毒ないしビブリオマニアと呼ばれるその種の「本の虫」たちにとって、本はまさに生きる糧そのものなのである。
香月美夜『本好きの下剋上』の主人公マインもその「本の虫」のひとり。いや、ほんとうは彼女自身は本などという概念そのものを知らない病弱な子供に過ぎないのだが、異世界の活字中毒の女性が彼女の体に生まれ変わってしまうところから物語は始まる。
一般人には本などとても手に入らない過酷な環境で、彼女は愛する本を手に入れるべく、さまざまな試行錯誤を始めるのだが、そこには実に多種多様な困難が待ちかまえていて――と、話は続く。とても面白いので、未読の人にはオススメである。
それにしても椎名優のイラストは素晴らしいなあ。これだけで本としてのクオリティが一気にアップした印象を受ける。マイン可愛い。
話を戻そう。『本好きの下剋上』は「小説家になろう」に掲載されている諸作品のなかでも最も好きな作品のひとつだ。「なろう」にはよくある異世界転生ものなのだけれど、描写がていねいで楽しい。
異世界に転生して何をやるかといえばひたすらに本を求めるだけなのだけれど、それ自体はそこまで魅力的な物語を生み出しそうにないアイディアだ。
しかし、「本を作る」というマインのあくなき執念は、やがてひとが生きるとは何か、愛するとはどういうことなのか、ぼくたちに見せてくれるようになるのである。
物語を動かすマインの動機はきわめてシンプルだ。「本を読みたい」。それだけ。その、本来ならたやすいはずのことが、たまたま異世界に生まれ変わってしまったために叶わなくなる。そこにドラマが生まれる。
そしてその「本を読みたい」というほとんど不可能とも思える願いに対し、トライアル&エラーをくりかえしながらも真っ直ぐに進んでいくマインの姿を見ていると、強い感銘を受ける。
そうだ、ひとが目標に向かって成長していくとはこういうことなのだ、と思わせられるものがあるのだ。
人生はある種のロールプレイングゲームのようなものである。何か作業をするたびに少しずつ経験値が入ってきて、それが一定値に達するとレベルアップし、少しだけ能力が上がる。そのくり返しを「成長」と呼ぶ。
いやまあ、じっさいには全くの逆で、人間の成長の仕組みを数値化したのがRPGなのだが、いまの30代以降にはこのような説明がわかりやすいだろう。
とにかく、何かの経験を通して経験値をためることなしには成長することはできないわけだ。あたりまえといえば、あたりまえのこと。
ただここで重要なのは、ある作業のくり返しで一定レベルまで達すると、もうその作業を続けていても経験値が入りづらくなるということだ。
ハイスピードで成長するためにはひたすら同じことをくり返しているだけではダメなのである。ある作業が練達の域に達したなら、今度はべつの作業に挑まなければならない。
たとえば、ぼくなどは漫画やライトノベルを読みつづけていてもなかなか経験値がたまらないようになっていると思う。いままで膨大な量の作品を読んで来たため、漫画やライトノベルで入る経験値はもう少なくなってしまっているのだ。
だから、ここからさらに成長しようと思ったなら、ほかのジャンルの作品を読むか、あるいはいっそ「読む」という行為そのものを捨てて、まったくべつの行為にチャレンジしなければならない。常識で考えれば、そうしたほうが効率がいい。
しかし、それが「道を究める」話となると、理屈がまったく変わって来る。 -
『新世紀エヴァンゲリオン』の狂気とは何だったのか。
2014-10-29 11:2751pt
おそらくご存知のように、ぼくは物語が好きで、ずっと追いかけ続けている。その思考の軌跡はそのままこのブログに残されているわけだが、定期的にまとめて提示しなければ何を語っているのかだれにも理解できなくなることだろう。
そこで、今回の記事では、いままでの思索をあらためて振り返り、過去ログの墓場に埋ずもれた論考を再び可視化するとともに、新たな一歩を踏み出すことを目指したい。
さて、ぼく(たち)の思考はいま、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』といった作品が代表する「新世界の物語」にたどり着いている。
「新世界の物語」とは、「いつ何が起こるかわからない過酷な現実」をそのまま物語化した作品群を指している。
『進撃の巨人』の、「人が生きたまま巨人に喰われる」というゴヤ的にショッキングな描写が直接に表しているように、それは一切のヒューマニズム的価値が通用しない世界の物語である。
日本では少年漫画が代表しているような通常のエンターテインメント作品では、通常、物語は「階段状」に展開してゆく。序盤から中盤へ、そして終盤へ、順を追うほどに敵は強くなり、試練は過酷となる。それが一般のエンターテインメントの描写であるわけだ。
むろん、エンターテインメントの作法として、そのつど、「とても勝てそうにない敵」、「まるで乗り越えられそうにない試練」を用意しなければサスペンスが機能せず、読者の注目を集めることはできない。
しかし、それでもなお、それらは最終的には超克されていくのであって、その意味でこれらの作品には畢竟、主人公の成長を促す「階段」が用意されているともいえる。
この『ドラゴンクエスト』的に美しい予定調和展開は、特に『少年ジャンプ』でくり返し用いられ、膨大な読者を熱狂させた。
とはいえ、それはフィクションの方法論として底知れない魅力を放っているものの、一面でリアリスティックとはいいがたいこともたしかである。
現実ではもっと不条理なことが起こりえる。その人物の内面的/能力的な成長を待つことなしに最大の試練が襲いかかってくることもありえるのだ。
その意味で、『少年ジャンプ』的な「階段状の物語」とは、クリフハンガーが連続する見せかけのサスペンスとはうらはらに、真の不条理が慎重に排除された予定調和の宇宙であるとひとまずはいうことができるだろう。
ところが、「新世界の物語」においてはその不条理は前景化する。物語序盤において主人公であるエレンがあっさり殺害されるかと見せた『進撃の巨人』の描写がきわめて秀抜であったことは、既に多くの論者が書いている通りである。
これはつまり「その世界の限りない不条理さ」をそのままに見せた演出であったわけだ。
しかし、ただこういった「身も蓋もない現実」に登場人物を放り出すだけでは、物語はその猟奇描写で一部の残酷趣味的な読者を満足させるに留まり、広範な支持を集めることはできないだろう。
そこで用意されるのが「壁」である。これはつまり『ドラゴンクエスト』的な「階段状の物語」世界と、真の意味で過酷な(ゲームバランスが調整されていない、とでもいえばいいか)「新世界」を分断する物語装置である。
この「壁」が用意されることによって、物語は「新世界=身も蓋もない現実」と適切な距離を保ちながら展開してゆくことが可能となる。
そして、この「新世界」的な「不条理な苛酷さ」は、虚淵玄脚本で知られる『魔法少女まどか☆マギカ』においても見ることができる。
しばしば「鬱アニメ」と称されるそのダークな内容の骨子は、「ごく平凡な少女が突然、命がけの契約を結ばされ、戦場に放り出されて死んでいく」点にある。ここでは「契約」の内容をよく吟味せずに契約を結んでしまうたぐいの未熟者はまず生き残れない。
少女たちの生きる日常世界そのものは決して「新世界」ではないだろうが、無邪気を装って彼女たちに死の契約を奨めるキュゥべえは「新世界から日常世界への侵入者」と見ることができるだろう。
ここにおいて「壁」は存在せず、「新世界」と日常世界は地続きで、したがって少女たちの物語は決して階段状に展開しないわけだ。
しかし、それではただ「新世界」的な「不条理な苛酷さ」を丹念に描けばそれで『進撃の巨人』や『魔法少女まどか☆マギカ』のような傑作が生まれるのだろうか。換言するなら、『進撃の巨人』なり『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力とは、その「鬱描写」にこそ存在するのか。
しかし、思考を進めていくと、どうやらそうではないらしい、ということになる。
そもそも「身も蓋もない現実」をただそのままに描くことは、特に作劇的工夫を必要としない、ごく容易な作業である。現実世界にはありふれている現実なのだから、ただそれを物語世界に移植すれば良い。
じっさい、商業エンターテインメントならざる同人漫画などでは、そういった展開の物語を頻繁に見いだすことが可能だろう。
しかし、当然ながらただそれだけでは一本の悪趣味な「鬱作品」を生み出すに過ぎず、せいぜいが一部にカルト的人気を誇る程度の作品に終わる。
ここで発想の転換が必要である。現代(テン年代)において必要とされているものは、不条理に過酷な「新世界」そのものではなく、「その新世界のなかでいかに生き抜くか」、その実践的な描写であると考えるべきなのだ。
「新世界」そのものはあくまで背景であって、主眼はあくまでもその新世界での主人公たちの行動にあるということ。この点を見誤ると、単に露悪趣味的な「鬱作品」しか出来上がらないだろう。
この「新世界の物語」(より正確に語るなら「新世界と壁と階段状世界の物語」)は90年代の内的思索モード、ゼロ年代の決断主義(あるいは決断幻想)を経て物語がたどり着いた時代の最新モードである、とひとまず述べておこう。
少なくとも豊饒を究めるテン年代サブカルチャーシーンを切り取る視点のひとつとして、「新世界の物語」というタームは機能するだろう。
しかし、「新世界の物語」風のアンチ・ヒューマニズム的現実描写を行いながら、それでも「新世界の物語」とは呼びがたい作品も存在する。久慈進之介『PACT』のように。
『PACT』は第一話にしてヒロインにあたる少女を死亡させてしまっている点などを見てもわかる通り、表面的には新世界的な世界観で貫かれているように見える作品である。
また、そこには「壁」はなく、したがって物語は一貫して過酷である。しかし、そうであるにもかかわらず、『PACT』においては登場人物が奇妙なまでに感傷的で、「個」の権利を叫びつづける。
つまり、世界観は新世界であるにもかかわらず、登場人物たちは階段状世界ないしより手厚く保護された世界の描写なのだ。これはいったいどういうことなのか?
そう、『PACT』は一見して「新世界の物語」と見えるものの、似て非なるものを考えるべきなのだ。ここで思い出されるのが、既に風化しつつある「セカイ系」というジャンルである。
『PACT』の描写は「新世界の物語」というよりセカイ系的なのではないか、と考えることができる――と、ここまでが「いままでのおさらい」。
となると、次の作業は「セカイ系」とはどのような物語だったのか、その再考ということになるだろう。
セカイ系とは -
キュウべぇはどこからやってきたのか? 「ほんとうの世界」のリアルと、「新世界の物語」。
2014-07-16 17:0251pt
きょう、LDさんとペトロニウスさんのラジオを聴いていたところ、面白いことを思いついたのでまとめておく。思いついたというか、いままで整理できずにいたことが整理できた、ということなんですけれど。
http://www.ustream.tv/recorded/49943304
このラジオの1時間20分のあたりから今回ふれる「新世界」の話が始まるので、ぜひ聴いていただければ、と思います。
で、「新世界」の話とは何かというと、これ(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar564366)のことですね。あるいはペトロニウスさんがここ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140622/p1)で語っている内容です。
ようするにここ最近、『トリコ』とか『HUNTERXHUNTER』とかで、いままでいた世界よりもっと広い世界=「新世界」を扱っている作品が見られるよね、ということ。
で、その「新世界」って、「現実の世界」のことなんじゃない?ということです。ここでいう「現実の世界」とは、「主人公が保護されていない世界」といっても良いでしょう。
通常、あたりまえの物語においては、主人公の前に表れる敵は強さの順番にあらわれてきます。それは『ドラゴンクエスト』的であるといってもいい。
冷静に考えれば主人公の前に突然最強の敵があらわれて即座に死ぬこともありえるわけですが、まあ、そんな物語は少ない。まずは弱い敵が出て来て、次にそれなりに強い敵が出て来て、そいつを倒すと次は四天王(の最弱)が――というふうにつながっていくわけです。
これはある意味で「現実」を無視した展開ですよね。つまり、そういう「試練が順々に訪れる物語」とは、「保護された世界の物語」であるわけです。
もちろん、保護されているなりに「とても敵いそうにないすごい敵」があらわれないと、物語として盛り上がらないわけですが、それにしても「ちょっと勝てそうにないすごい敵」を次々と出すところが作劇のコツであって、「絶対に勝てないすごい敵」があらわれて終わり、ということにはならない。
たとえばこの手の少年漫画の最高傑作のひとつというべき『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』でいえば、最初にクロコダインが、次にヒュンケルが、フレイザードが出て来て、そこから満を持してバランが出て来る、という順番になっているわけです。
これがいきなりバランが出て来たら困るところだったと思うんですよね(正確にはその前にハドラーが出て来るんだけれど、それはアバン先生が対決してくれます)。
こういう物語は非常にカタルシスがありますが、しかし、ウソといえばウソです。現実にはレベル1の状況でレベル99が襲い掛かってくることがありえる。そしてそれで死んで終わってしまうこともありえる。
つまり、ものすごく理不尽なことが起こりえるのが「現実」の世界。で、この「現実」の世界と「保護された世界」を隔てているのが『HUNTERXHUNTER』でいうところの「無限海」、あるいは『進撃の巨人』でいうところの「壁」なのではないか、というのがLDさんの見立てであるわけです。
これはこれで非常に面白い話なんだけれど、今回、LDさんはさらに『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げて、「この物語でも(新世界の物語のように)ひどいことは起こっている」と指摘し、つまりは「壁」があるかどうかが重要なんじゃないか、と述べています。
つまり、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』では「ほんとうに理不尽なこと」が起こる世界とそうでない世界を分かつ「壁」があるけれど、『まどマギ』にはそれがない、その差が大きいんだ、と。
なるほど、ますます面白い。普通の女の子が突然に理不尽な契約を結ばされてしまう酷烈さが、『まどマギ』のひとつの大きな魅力であったことは自明です。
いい方を変えるなら、『まどマギ』におけるキュウべぇは、「壁」の向こうの世界(「現実」世界)のプレイヤーで、ひとり「壁」を超えてその世界からまどかたちがいる世界にやって来たのだ、ということもできるでしょう(物理的な、あるいは物語設定的な話をしているわけではないことに注意してください)。
この場合、物語は一貫して「壁」の内側で繰り広げられるので、「壁」そのものは登場しないのですが、キュウべえは安全な「保護された世界」に「壁の外=現実」の論理を持ち込んでいるということになります。
そこまでラジオを聴いて、はて、どっかで聴いたことがあるような話だな、と思ったのですが、なんと! ぼくは自分ですでにこの話を書いていたのですね。
『戦場感覚』と題した同人誌の話です。その本のなかで、ぼくは「この世界は戦場である」という感覚、つまり「ひとは保護されていない=保護されているということは幻想である」という感覚に根ざす物語を、「戦場感覚の物語」と名づけたのでした。
『HUNTERXHUNTER』にしろ『進撃の巨人』にしろ『まどマギ』にしろ、すべてまさにこの「戦場感覚の物語」に相当します。ただ、「壁」があるかどうかが重要な差としてあるだけです。
「壁」がない「戦場感覚の物語」は、ある意味でほんとうに身も蓋もないものになります。ある日突然女の子がレイプされてズタボロにされて死んでしまいました、おしまい、といったものがそれにあたります。
ジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』のように。それが「世界の現実」なのだから仕方ない、というのがそういう物語の描写です。
これはある種の「リアリズム」だとぼくは思う。どんなに整備された社会においても、理不尽なことは起こりうる。だったら、その現実を率直に描くのだ、という方法論はありでしょう。
それなら、ただ残酷なだけのお話もその「戦場感覚の物語」に入るのか、といわれれば、答えはノーです。「戦場感覚の物語」とは、その「世界の理不尽なひどさ」に対し、「それでも戦っている」という描写が存在するものだけを指す言葉だからです。ひたすらに弱者がひどい目にあっていれば良いというものではない。
さて、この「戦場感覚」の話とはべつに、ぼくは先述の記事で「人間社会のルール」と「自然世界のルール(グランド・ルール)」といういい方もしてました。
ここでは便宜上、「ルール」といういい方を採っていますが、「自然世界のルール」とはつまり「ルールがない」ということです。「何でもあり」、「どんな理不尽なことでも起こりうる」ということ。
これは「世界は戦場である」ということと同じですよね。つまり、「戦場感覚の物語」とは、「自然世界のルールが支配する舞台で、それでも必死になって戦っている人々の物語」ということになります。
で、ここまで書いていくと、「新世界の物語」における「壁」が何と何を隔てているのか、ということが、ぼくの言葉でも語ることが可能になります。
それは「人間社会」と「自然世界」を隔てているのです!
つまり、「人間的なルールが存在する世界」と「一切のルールが通用しない世界」を分けているといってもいい。
「人間社会」においてはある程度は通用する愛とか、正義とか、人権といったものは、「自然世界」においてはまったく通用しないかもしれません。繰り返しますが、どんなにでも理不尽なことが起こりうるということが「自然世界」なのです。
だから、「自然世界」においては子供が突然殺されたりとか、愛しあうふたりが永遠にばらばらにされたりとか、「起こってはいけないこと」が平然と起こります。
そして、ぼくはぼくたちが住んでいる「ほんとうの世界」とは「自然世界」なのであって、「人間社会のルール」とは、それを包み込む人間の願望のオブラートのようなものでしかないと思っています。何でも起こりうる、という「自然社会のルール」こそ「ほんとうのこと」だと。
しかし、これもやはりその「ほんとうのこと」をそのままに描き出すとほんとうに身も蓋もない物語になってしまいがちです。正義の主人公がある日道を曲がったら交通事故にあって死んでしまいました、ということだって「ほんとうの世界」のルールでは起こるのですから。
ぼくが「世界は間違えている」というのはそういうことです。「世界は人間が作った、人間に都合が良いルールでは動いていない」ということ。それが「身も蓋もない事実」というものだと、ぼくは思っています。
しかし、物語とは、本来、人間の夢と希望と願いが込められたものです。だから、この「自然社会のルール」、あるいは「ほんとうのこと」はとりあえず巧みに隠蔽されて、「愛は奇跡を起こす」とか「正義は勝つ」といったことが描かれるのが普通です。
そして、それらは実に素晴らしい。ぼくは何も皮肉でいっているのではありません。心の底からそういう物語は素晴らしいと思うのです。それはひとの心に希望を与えてくれる物語です。
ただ、それでも、なお、やはりそういった物語にはどこか欺瞞がただようことも事実です。「正義は必ず勝つ」というウソ、「いつまでも幸せに暮らしました」というウソに、どこかでぼくたちは気づいてしまいます。
とはいえ、だからといって「ほんとうのこと」を身も蓋もなくそのままに描いた物語は気が滅入る。たとえばコミケで売っているエロ同人誌を見ればそういう救いのない物語はいくらでも見あたるし、それらは一面で「メジャーな物語の欺瞞に対する告発」でもあるけれど、それだけで満足できるという人はそう多くはないでしょう。
なんといっても、そこには夢も希望もない気がする。で、いま、その「物語のウソ」に気づいてしまい、なおかつ「身も蓋もないほんとうのこと」だけを見たいわけでもない、というひとが一定数を超えたのかな、という気がします。
そこで、「壁」がある物語(「新世界」の物語)が生み出されたのかな、と。ある程度のところまでは守られていて、しかしその先は冷厳な「ほんとうのこと」が待ち受けている、という物語です。
まあ、これはいまのところ特に根拠もない「見立て」ですが、ちょっと面白い見方でしょ。
ペトロニウスさんがよく「ナルシシズムの檻」ということをいいますね。現代社会は、人間が過剰なまでに保護されているが故に、ひとはナルシシズムのループにはまって苦しむのだと。
これを、ぼくの言葉で言い換えると、「自然世界のルール」が隠蔽された「人間社会」に住んでいる人が、その過保護故に自分の存在を確認できなくなった、ということになります。
ペトロニウスさんがいう歴代村上春樹作品の主人公たちもそうでしょうし、真綿で首を締められるような苦しみによって自殺未遂を試みた『自殺島』の主人公などがこの種のキャラクターです。
ですが、かれらはある意味で「安全な(安全だという幻想が確保された)人間社会」に住んでいるからこそ、そういう苦しみに晒されることになったのです。
戸塚ヨットスクールではありませんが、「生きるか死ぬか」という事態に陥れば、ゆっくりとナルシシズムに苦しんでいるヒマもなくなります。
で、どうやら社会がそういうフェイズに入ってきたのかもしれません。お前の主張などどうでもいい! 人類存亡のほうが問題だ、というような、より切迫した時代。あるいは少なくともそういう物語のほうに人々がリアリティを感じ始めているのかも。
『エヴァ』にしても、『新劇場版Q』では、「主人公の選択が世界の命運を左右する」というような自己中心的な地点からは遠く隔たったところに行っているわけです。これらは一様にパラレルな現象であるように思えます。面白いですね。
ところで、上記で取り上げた同人誌『戦場感覚』はいまなら送料込み800円でお買い求めいただけます(笑)。
https://spike.cc/p/dD23B3S9
さらにその半年前に出した同人誌『BREAK/THROUGH』もやはり800円です。
https://spike.cc/p/pzKHubR0
『戦場感覚』と『BREAK/THROUGH』を合わせてご購入いただくと1500円でお買い求めいただけます。
https://spike.cc/p/6r9vgAr0
安っ。2冊とも12~13万文字程度の分量があります。よければ、ぜひどうぞ。
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