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更新病欠のご報告。
2013-01-31 20:0953pt -
ブロマガで夢のプロ生活を送るために、やるべきこととやめるべきこと。(1622文字)
2013-01-29 17:3053pt昨日書いた記事「ユーザーブロマガ参入でアクセスは数十分の一に! それでもぼくは楽しく書き続けるのさ。」が人気記事ランキングで著名人枠の4位、全体の13位まで行きました。
しかし、昨日のアクセスはユニークで1800程度。うーん、こんなものか。いやまあ、いままで通りといえばそれまでなんだけれど、いままでどおりの数字をいままでの100倍の人数で分けていることになっている模様。
これはランキングからのアクセスはほとんど期待できないってことだなあ。おそらく、ランキングで数千から数万というアクセスを得るためには、1位、2位あたりに入らないと無理でしょう。
日々数万単位で生み出される記事のなかでの1位。しかも有名人がたくさん混じっている。非常にむずかしいといわざるをえないですね。また、仮にそれを達成できたとしても一日だけのことで、翌日からはゼロからやり直しです。
アクセスが減ったことそのものをネタにして記事を書くという、ある意味では転んでもただでは起きない行動で人気記事上位に食い込んだわけですが、起きてもどうにもならないようです。シビアだなあ。
まあ、今日はこの記事が「話題の記事」に選ばれてニコニコのトップページに画像つきで載っているので、もう少しアクセスが増えているかもしれませんが、いずれにしろたいした数字ではないでしょう。
ランキングからアクセスを集める作戦はあきらめるよりほかないものと思われます。つまり、この上、チャンネル会員数を増やしたかったらランキング以外のところでアクセスを集める必要があるようです。
チャンネル会員数数千人でウハウハ生活を送るドリームはさすがにあきらめましたが、会員数1000人を達成してこれだけで暮らしていくという目標はまだあきらめてはいません。
たとえ数年かかろうと何とかやりとげたいと思っています。そのためには、コツコツとなるべく質の高い更新を続けるることが必要なことはいうまでもありませんが、さすがにそれだけでは無理かも。
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どんなイヤな奴も好きでそうしているとは限らない。(1316文字)
2013-01-29 09:1553ptスマイリーキクチ『突然、僕は殺人犯にされた』は、お笑い芸人の著者がある日を境にネットで殺人犯の汚名を着せられ、誹謗中傷の的となった様を描いた一冊だ。
著者は何年もかけて警察に被害を訴え、ついに自分を誹謗していた人々を突き止めるのだが、それは年齢も性別も社会的地位もバラバラの連中なのであった。
この本を読んでからぼくは時々考える。ネットでひとの悪口を書きまくっているひとたちは、いったいどんな人生を送っているのだろうと。
おそらくは、たいした意図もなしに書いているに違いない。いま目の前にいる人間を罵倒することはそれなりに年季の入ったイヤな奴でなければできないが、ネットで中傷することは非常に気楽である。だれにでもできるし、だれでもしてしまう可能性がある。
何かに怒って、感情を抑制し切れないとき、ついつい言葉が過激になってしまうということはありがちなことだ。それは、良くはないかもしれないがふつうのことである。
一方で、積極的にひとに悪意を向けている人物というものもあるはずだ。日がな一日ネットに向かい悪意を配ってまわっているようなひと。
山本弘『詩羽のいる街』にそういう男が出てくる。かれにとってはひとに嫌がられることこそ歓びであり、生きがいだ。かれの行動に特に目的はない。ほんとうにただひとの人生を台無しにすることが嬉しいというだけの男なのである。
しかし、物語が進むにつれ、男は自分のそんな行動には論理的な意味がないと悟っていく。個人的に山本さんの「論理」という言葉の使い方はちょっと疑問があるのだが、この場合はたしかに悪意に固執しても幸せになれるわけではないだろう。
ひとを傷つけてやったという卑小な歓びはあるかもしれないが、それは心の平安には繋がっていかない。積極的にひとに悪意を向ける者は、どこかで心の構造が歪んでしまっているのだと思う。
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『ハチミツとクローバー』で考える才能論。(2052文字)
2013-01-28 10:3053pt才能という言葉にはふしぎな魅力がある。多くのひとがその言葉に惹きつけられ、多かれ少なかれ気にして生きている。
しかし、よく考えてみればこれほど正体不明の言葉もない。いったい才能とは何だろう? 何ができれば才能があることになるのだろうか?
ぼくの考えをいわせてもらえば、才能とは結果によって判断されるものである。だれかが結果として成功すれば、そのひとは才能があったといわれる。失敗すれば、才能がなかったと見なされる。それだけのものだ。
もちろん、成功失敗には努力や時間も大いに関係しているはずだが、大抵の場合、それは無視される。ひとはこう思うものなのだ。たしかに努力の問題はあるだろう。しかし、努力だけでそこまでひとと差がつくものだろうか? 才能の差があると考えなければ説明がつかない、と。
つまり、才能とは結果の巨大な格差を説明するためのマジックワードであり、ほとんど実体がない空虚な概念であるともいえる。
たしかに生まれつきの能力の差、といったものはあるだろう。それは努力の質や量だけでは説明し切れないものかもしれない。しかし、すべてを才能という言葉で説明してしまうことはいかにも安易だ。
他人の成功を「あのひとには才能があったのだ」というひと言で切り捨てられるひとには、たしかに才能がないのだと思う。
もしあなたが自分に才能があるかどうか気にしているようなら、その時点であなたにはほんとうに才能がない、といういい方もできる。才能があるひとなら、自分に才能があるかどうかなどと悩むこともせずにその行為に夢中になっているはずだから、という理屈だ。
自分には才能がないのではないかと悩む時点で大した才能はないのだ。天才は才能の有無に懊悩するより前にその物事を楽しみ抜く。
羽海野チカの『ハチミツとクローバー』に森田馨と忍という兄弟が登場する。心に暗いものを抱えた秀才である馨に対し、弟の忍は天才肌の人物で、一切ダークサイドを持っていないように見える。
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ユーザーブロマガ参入でアクセスは数十分の一に! それでもぼくは楽しく書き続けるのさ。(1916文字)
2013-01-28 09:2253ptオワタ! まさにオワタ! 何が終わったかってぼくのブロマガが終わった。いや、内容的には何も変わっていないし、これからも粛々と続けていくつもりなんだけれど、アクセス数的にはほぼ壊滅状態。ここ数日のアクセスはそれ以前の数十分の一にまで減っています。
まあ、ここ何日かは記事の中身もいまひとつぴりっとしなかったんだけれど(自覚はしているんだ)、それにしてもアクセス少なくなりすぎ。
もちろん原因ははっきりしていて、ユーザーブロマガが始まったからですね。大量のユーザーがランキングに流れ込んできたことによっていままでランキングを独占していた著名人枠のブロマガが埋没したということでしょう。
ほかの「著名人」のアクセスも減っているはず。減っていないのはランキングにアクセスを頼っていないほんとうの有名人と、ニコ生などで活動しているひとだけでしょう。
そういうわけで、ぼくのプロブロマガ使いの夢はほぼ命脈を絶たれました。いやー、短い夢だったな。
おそらくいまはいままではあったランキングからのアクセスがほとんどなくなった状態なのだと思われます。
まあ、開始数日にして20000人を超えるユーザーがブロマガを始めているそうで、単純計算でライバルがいままでの100倍近くになったことになる。それはアクセス数も減って当然だよね、とも思う。
以前からきっとこうなるだろうと予想していたことでもある。それにしても現実になるとちょっと泣いちゃいますね。うるうるうる。
今後、ランキングからのアクセスを得ようと思ったらその数万人、将来的には数十万人に及ぶかもしれないひとのなかで目立ってランキング上位に食い込まなければならないわけで、これはきつい。
不可能とはいわないまでも超困難といえるでしょう。まあね、いままでが優遇されすぎていたんだけれどね!
そういうわけで色々な意味で大変なことになっているわけなのですが、想像していたことが現実になってみると、意外にあまり落ち込んでいない自分に気付く。
いままでのぼくだったら落胆と失望でへたりこんでいてもおかしくないのに。何が変わったのか? べつにポジティヴ・シンキングとかではありません。
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あなたは普通のひとである。ネットでひとに好かれたり嫌われたりする訓練を積もう。(1446文字)
2013-01-27 06:1853pt
ひとに嫌われることは辛いものだ。リアルではもちろんだし、ネットですらそうだ。それを悪意と呼んでいいかどうかは微妙だが、少なくとも気分がいいものではないだろう。
しかし、そうはいっても、ネットでアクセスが多くなると、いちいちひとに好かれているの嫌われているのと気にしていられないことはたしかである。
10000人読者がいれば、その全員が好意的だということはありえない。自分の書くことを好きなひともいれば嫌いなひともいる。それが当然で、そもそも全員に好かれる必要はまったくないのだ。
Amazonを見ていると、レビューの数が多くなると、名作中の名作といわれる作品ですら、必ず星ひとつの最低評価を下しているひとを見かける。ひとの価値観はそれだけ多様だということで、これはもう、どうしようもないように思う。
そうかといって、積極的に嫌われることを目指す必要も、もちろんない。なるべく好感がもてる書き方をするよう気を付け、その上で嫌われてしまったら従容とそれを受けいれるというあたりが正しいのではないか。
ただ、悪意あふれるメールなどが届くとさすがにうんざりするし、いったい何がこいつをこうさせるのかと疑問に思うわけだが、それで全体を判断できないこともたしかだ。
悪意あるコメントやメールなどを見ると、それだけでなんだか世界中から嫌われているような気がすることがあるが、それはやはり錯覚である。
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ただいまセール中。いまさらといわず菊地秀行の名作『吸血鬼ハンター』を読もう!(1839文字)
2013-01-26 14:5853pt
いま、Kindleストアで菊地秀行の『吸血鬼ハンター』シリーズが210円から250円という安価で売られている。先日まで『グイン・サーガ』がセールしていたが、今度は『吸血鬼ハンター』か。なんともなつかしい話である。
ぼくは中高生の頃、このシリーズの熱狂的ファンだった。最近はいささか内容がマンネリ化したせいもあって読んでいないが、それでも大好きなシリーズであることに変わりはない。
いまのライトノベルの源流にあたる作品であり、そして、そこらのライトノベルがまるで歯が立たないほど面白い物語である。嘘だと思われるなら、シリーズ初期の作品を、どれでもいい、一冊呼んでみるといいだろう。そこに、西暦12000年代の狂乱の世界を見いだすことができるだろう。
個人的にはいいかげん完結させてほしいシリーズでもあるが、果たして大量の伏線が回収される日が来るのかどうかは定かではない。まあ、基本的には一冊単位で完結しているので、シリーズ全体の構成についてはあまり気にせず読むのがいいだろう。
あるいはDの流浪の旅は作者が亡くなるそのときまで続くのかもしれず、あまり謎を考えても意味がないと思われる。
物語の舞台は、西暦12000年代とも、それより先とも思われる超未来の地球である。この時代、世界を支配しているのは、人類ではなく「貴族」と呼ばれる吸血鬼たちだ。
しかし、その貴族たちの支配もようやく終わりを告げようとしており、人類がふたたび惑星の覇権を取り戻そうとしている時代でもある。
ただ、各地に貴族たちは生きのこっており、それぞれに強大な力を振るっている。そんななか、荒野がつづく「辺境」を旅しているのが凍てついた美貌と最強の力を持つ「吸血鬼ハンター」のDだ。
かれの仕事は貴族を見つけ出して狩ること。しかし、D自身、そのひとならぬ美貌を見てわかる通り、どうやら貴族の血を引いているらしいのだ――というところから壮大な展開が幕をあける。
菊地秀行作品らしく、基本的には「なんでもあり」の冒険活劇なのであるが、この作品をほかの作品と区別しているのはその悲劇性である。
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努力には限界がある。どんなにがんばっても報われないかもしれない現実を見つめろ。(2205文字)
2013-01-26 14:0353pt
羽海野チカ『3月のライオン』第7巻の冒頭で、前巻で主人公に敗れ去った脇役の山崎順慶がこう切々と語る場面がある。
「信じれば夢は叶う」
それは多分 本当だ
但し 一文が抜けている
「信じて努力を続けていれば夢は叶う」
――――これが正解だ
さらに言えば
信じて
「他のどのライバルよりも1時間長く
毎日 努力を続ければ
ある程度迄の夢は、かなりの確率で」
叶う――だ
そしてこのように続く。
キャッチコピーというものは 短い方がいい
――でも これは あまりにも はしょり過ぎだと思う
それじゃまるで「何もしなくても」「ただ信じていれば」
叶うみたいじゃないか
この文章を
ここまで削ったヤツに
何を思って
ここまで削ったのかと
問い質したい
前巻で悪役然として描かれていた山崎の独白だけに、胸に染み入るような台詞である。色々な解釈があるだろうが、ぼくはここから山崎の、「信じれば夢は叶う」と無邪気にいう世間の人々に対する反感を読み取った。
現役のプロ棋士である山崎は、人並み外れた努力を積んできた男である。その山崎に向かい、かれの知人たちは「有名になってTVとか出てよー」「でさぁ!! 早く名人とかなっちゃってよー」と気楽にいう。
ほんとうの努力と、それが報われないことの苦しさを知らない者の台詞である。山崎でなくても、このような言葉を「暴力的」だと思うことだろう。しかし、それでも「信じれば夢は叶う」と他人に語るひとはいるものだ。
それはもはや理性的な判断というより「信じること」に対する信仰である。こういう信仰は何か歪んだものを生むとぼくは考える。たしかに成功のためには「信じること」が必要な一面もあるだろう。自分は成功できると信じなければ努力できないからだ。
しかし、じっさいには信じて努力したところで、夢が叶うとはかぎらない。山崎の言葉は、裏を返せば「他のどのライバルよりも1時間長く毎日努力を続けたとしても、あまり大きな夢は叶わないし、ある程度までの夢も一定の確率で無理だ」という意味になる。
身も蓋もない話だが、社会のどうしようもない現実である。もちろん、艱難辛苦の果てに大きな夢を叶えるひと握りの人々は実在する。しかし、かれらが成功したということは、ぼくやあなたが同じだけ努力をすれば同じように成功するということではない。
努力には限界があり、そしてその限界まで努力したところで、才能や環境や、さらには幸運を持った人々には勝てないかもしれないのだ。
「信じれば夢は叶う」とはいわないひとたちも、どうかすると「努力すれば夢は叶う」といってしまう。しかし、これもやはり欺瞞を抱えた言葉だ。
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振り込めない詐欺よ、さようなら。ブロマガが切り開くマネタイズの新地平。(2137文字)
2013-01-26 09:2653pt
今は著名人として活動している海燕さんもついこの間までは、
一般人という分類でした。本人は自分が一般人と思ってそうですけど、
もう完全に僕としては海燕さんはプロです。
(しかしこうなると、著名人と一般人、アマチュアとプロの境目がややこしくなるな。)
http://ch.nicovideo.jp/bokuchin/blomaga/ar52199
何気なくブロマガを巡っていたら自分の名前が出てきて驚いたw ども、海燕です。たしかに「一般人」というには目立っていますけれど、まだプロを名乗るには早いかなーとか思っております。
どこまで行ったらプロなのかという線引きはできないので、あくまで自分のなかではそうだというだけですが、まだ「一般人」の側でぬくぬくしていたいな、と。もちろんお金をもらう以上、どこかにプロ意識は持っていなければならないわけで、そういう意味ではプロだと考えて行きたいとは思います。
まあ、ぼくのポジションは微妙なところで、プロだといえば「お前程度がプロを名乗るのか」といわれるし、アマチュアだといえば「金をもらっているくせに責任を逃れるつもりか」と批判されると思うんですよね。
じっさい、著名人というほどの知名度はないんだけれど、さりとて一般人というにはお金が入っているし、自分でもはっきりしない位置にいると思います。個人的には年収が2、300万円くらいになって、それ一本で食べていけるようになったら完全にプロかな、と考えていますが、これも外からわかる基準ではないのでむずかしいですよね。
過去何回か書いていますが、今後、エンターテインメントの業界では、プロとアマチュアの境界は限りなくあいまいになっていくのでしょう。たぶんぼくのようなセミプロ的なポジションのひとがたくさんあらわれて、純粋なプロは減っていくのでしょうね。
しかしまあ、上記の記事で語られている通り、ブロマガでいままで「振り込めない詐欺」といわれていたひとたちにお金が行くのは素晴らしいことだと思います。いままで商売にならなかったものが商売になるようになるわけで、これはひとつの革命といってもいいかと。
これからはおもしろい動画を作ったり、素晴らしい歌声を聴かせてくれたりしたひとが、ストレートに金銭という形で報われるようになる。いままでも預金通帳の番号を公開するとかでお金を集めていたひとはいたかもしれないけれど、よりビジネスとして洗練された形になる。これはとてもいいことだと思うのです。
もちろん、何もかもいいことばかりではなく、嫌儲の立場から反発する層も出てくるでしょう。でも、そういう情緒的反発はあまり意味があるとは思えない。
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自殺という名の他殺。(1466文字)
2013-01-25 11:5653pt
昨年、自殺者数は15年ぶりに3万人を割り込んだらしい。景気が良くなったわけでなし、なぜなのだろうと思っていたら、こんな記事を見つけた(http://bylines.news.yahoo.co.jp/yasushimizu/20130117-00023089/)。
自殺対策支援団体ライフリンクの清水康之代表による文章で、なぜ自殺が減ったのか、その理由が詳細に記されている。清水さんによると自殺が「それでも3年前から、毎年千人単位で減少してきているのは、遅ればせながらだが、「自殺対策を推進するために必要な社会的条件」が整ってきたことの影響が大きい」らしい。
かれはその条件を五つ挙げている。「地域データの公表」、「先進事例のモデル化」、「ネットワークの構築」、「タイミングの設定」、「財源の確保」である。つまりは、社会がようやく自殺防止に熱心になり、先進事例をモデル化しつつ対策を行った結果、自殺者が年間数千人も減ったということなのだ。
これは、自殺が決して「個人の問題」として済ませることはできない問題であることを示している。自殺の多くは「社会に強いられた死」であり、その意味では自殺とは「他殺」なのだといえる。
それにしても、社会状況が改善しているようにも思えないにもかかわらず、きちんと対策を打ちさえすれば自殺率が大きく減少するという事実には驚かされる。やはりひとはだれにも相談できない孤独のなかでこそ死を選ぶものなのだろう。
だれかがその悩みを受け止めてくれさえすれば、少しずつ問題を解決しつつ生きていくことができるのだ。純粋に自分の意思で死を選ぶひとがいないとはいわないが、ほとんどのひとは「それ以外に道はない」と信じて自殺するわけである。その種の悲劇的な死を社会的に減らしていくことが大切だろう。
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