• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 3件
  • 「小説家になろう」の作品が自己満足に終わらない理由。

    2016-04-13 00:10  
    51pt

     先日のラジオは『やる気なし英雄譚』の津田彷徨さんがゲストだったのですが、創作のスタイルという点で面白い話を伺えました。
     「小説家になろう」で書いている作家さんの多くは「読者に喜んでもらうため」という目的で書いている人が多い、という話ですね。
     これはあたりまえといえばあたりまえの話ではあるでしょうが、過去の作家たちは必ずしもそういう動機がメインではなかったはずです。
     少なくとも通説として巷間いわれていたことは、作家とは内面になんらかの執筆動機を抱えていて、その動機に従って書くものである、と。
     つまり、たとえ読者がいなくても書くのが作家なのであって、その動機を持っていない人間は作家としてふさわしくないというのが、いわば常識だったと思います。
     それは究極的には「作家の自己満足」ということになるわけですが、それでもとにかくなんらかの内発性があって初めて創作は行われるものだとする考え方だったわけですね。
     ところが、「小説家になろう」では――ニコニコ動画でも同じかもしれませんが――必ずしもそこのところがそうなっていない。
     まず読者(消費者)がいて、その読者のために書く、という書き手が大勢いるのだといいます。
     もちろん、これは程度問題であって、自分のなかにこれっぽっちも書きたいものがない人は、やはり書き手にはなりづらくはあるでしょう。
     しかし、「なろう」ではまさにその「程度」が違っている。
     より読者に奉仕する形での創作が行われやすいと思うのです。
     そうなる理由はあきらかで、「なろう」においては書き手と読み手の距離がきわめて近いからです。
     一般的にプロの作家が読者の感想を知るのは、ファンレターか、ネットのエゴサーチくらいでしょう。
     いや、ほかにもあるかもしれないけれど、それらはめったにあるものではない。
     作家と読者の距離は、かなり「遠い」といってもいいわけです。
     それが「なろう」においてはごく「近い」。
     「近すぎる」といってもいいくらいで、作家は読者の意見を相当に意識しながら執筆せざるを得ないのです。
     もちろん、強い意志を持ってそれらをすべて無視する人もいれば、最初から感想蘭を閉じてしまう人もいるでしょうが、おそらくそうでない人のほうが多い。
     だって、自作の感想を知りたいから書くという側面があるわけですからね。
     「自分の作品を認めてほしい、可能なら褒めてほしい」という欲望を持っていないアマチュア作家は少数でしょう。
     そういうわけで、「なろう」などの投稿サイトにおいては、書き手と読み手は密接な関係を形作ります。
     だから、書き手は読み手のことを思いながら、読み手のために書くことになりがちではある。
     これが、良いことなのか悪いことなのかというと、まあ、そうだな、どうなんだろう。
     一概にいえることではないと考えます。
     書き手の内発性を重視する思想から行けば、「なろう」のありようは邪道ともいえます。
     内面の燃えたぎる炎があって初めて傑作を書けるのだという思想はいまなお強く、そういう思想の持ち主からすればいちいち読者のの顔色をうかがうような書き手は情けない存在といえるでしょう。
     しかし、高尚な文学作品ならいざしらず、エンターテインメントにおいては、読者の心理を把握することがきわめて重要であることはいうまでもありません。
     そういう文脈で考えるなら、「読者のために書く」ということはエンターテインメントの王道といってもいいでしょう。
     じっさい、そうやって読者のために書かれた作品は、多くは完成度から行けばプロフェッショナルの作品に及ばないにもかかわらず、しばしば非常に好評を得るわけです。
     それを考えると、「なろう」のスタイルはとても良い長所を持っていることになる。
     もしそういう環境でなければ、大半の作家が作品を途中で投げだす、いわゆる「エタる(エターナルする)」ことになってるかもしれません。
     いや、あるいは初めから書き出すことすらないかも……。
     創作する側から見ると、「なろう」の最大の魅力は、この「感想をもらいやすい」というところにあるのです。
     いったいどれくらいの素人作家が、自作の感想に飢えて来たかを考えると、「なろう」はまさに画期的なシステムといっていいでしょう。
     ただ、もちろん作家と読者の距離が近いこと、そして作家が「読者のために書く」ことにはネガティヴな側面もあるはずです。
     それは 
  • やる気がないくらいでちょうどいい。『やる気なし英雄譚』は正統なヒーロー物語だ。

    2014-11-04 06:22  
    51pt


     この頃、読みさしで中断していたいくつかの「小説家になろう」作品の続きを読んでいます。そのひとつが津田彷徨さんの『やる気なし英雄譚』。これがめっぽう面白い。
     ユイ・イスターツという名の「やる気のない」青年を主人公にしたお話なのですが、読み始めるとすいすい読めてしまうこともあって、最近、はまっています。
     作者によると、『機動警察パトレイバー』の後藤喜一から発想を得たキャラクターということで、なるほど、あまりに切れすぎ、有能すぎるために中央から疎まれて左遷させられているというところが似ていますね。
     怠け者の天才ということで、『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーを想起する人もいるようですが、あくまでモデルは後藤隊長、とのことです。
     そしてたしかにじっさい読んでみると、ヤンとはまったく違っているな、という印象です。で、ぼくは後藤とも違うと思う。
     ヤンとか後藤は、天才的な頭脳を持っていながら、一見するとそれがわからないというキャラクターであるわけです。『忠臣蔵』の大石内蔵助(正確には大星由良之助)以来伝統の昼行灯キャラというか。
     まあ、大石内蔵助の昼行灯はあくまでも偽装であって、ヤンとか後藤は本心から怠けているわけなんですけれどね。
     一方、ユイ・イスターツもたしかに「理解されない天才」の類型ではあるのですが、かれの場合、見る人が見れば一瞬でその才能がわかります。
     じっさい、多くの理解者に恵まれていますし、むしろわからないのはバカだけ、といってもいいくらい。どう見ても国家の柱石たるべき人材なんですよ。
     したがって、この小説は通常の英雄譚をひとひねりした『銀英伝』や『パトレイバー』とは異なり、ほぼストレートな英雄譚といえるかと思います。
     ところが、ストレートなヒーローの文脈を突き詰めていくと、責任(responsibility)の問題が付きまとうことはいままで語ってきた通りです。
     無敵の能力を持つヒーローであればあるほど、際限なく重い責任(無限責任)を背負い込んでしまうものなのです。
     このことがいちばん良くわかる物語は映画『ダークナイト』でしょう。ハリウッドのヒーロー映画のなかでも伝説的な傑作と称されるこの作品において、主人公のバットマンはそれはもう傷つき、悩み、苦しみ、そのあげくに自ら「悪の象徴」となることを選びます。見ていて痛々しい限りです。
     続編の『ダークナイト・ライジング』では一応、物語はハッピーエンドを迎えるのですが、べつにこの無限責任問題は解決したわけではありません。ただ、バットマンがそこから降りただけです。
     つまり、現代においてユイ・イスターツのような天才型主人公を設定すると、あっというまに無数の助けを求める人々の「呼びかけ」がのしかかって来て、それに一々responseしないといけなくなり、『ダークナイト』的に暗くて深刻な話になってしまいそうなところなのです。
     桂正和の『ZETMAN』なんかは完全にそのパターンですね。『ZETMAN』の主人公は心清く美しい「正義の味方」なのですが、まさにそうであるからこそ、悪の象徴として人々の憎悪を一身に集めることになってしまいます。
     ヒーローがひとりでありとあらゆる悪を背負う「生贄の王の類型」です。洋の東西を問わず、ヒーローがどこまでも誠実に責任を果たそうとするとどうしてもこういうことになってしまいがちなんですね。
     ただ、この問題の当面の解決策はあきらかです。 
  • スラッカー(怠け者)ヒーローの系譜を考えてみる。

    2014-07-30 07:00  
    51pt


     「小説家になろう」で津田彷徨『やる気なし英雄譚』を読みはじめた。ペトロニウスさんが、何かのラジオで「この主人公みたいなキャラクターは、いそうで案外いないよね」と云っていたので、どういうキャラクターがいるのか考えてみた。
     思うに、この種のキャラクターの特徴は、「怠け者」というネガティヴな個性を背負っているところだと思う。
     トム・ルッツの『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』によると、こうした「怠け者」たちは、その時代、時代でさまざまな名前が与えられるものの、現代ではスラッカーと呼ばれているらしい。Wikipediaではこんなふうに記述されている。

    スラッカー, slacker は、第1次/第2次世界大戦間の時期に、徴兵制を拒否していた人々を指していたが、1990年代には、静的、熱心でない、努力をしないような人々の状態を表す言葉として使われる。典型として、スラッカーは無職・或はサービス業で不安定な被雇用状態にある。
    イギリスでは、アイドラー, "idlers" とも呼ばれる。

     また、同書の訳者あとがきでは、「『ドラえもん』ののび太くん、『釣りバカ日記』のハマちゃん、フーテンの寅さん、放浪芸術家の山下清などなど」が日本のスラッカー文化のキャラクターとして挙げられているのだが、ぼくとしてはここに『必殺』シリーズの中村主水、『機動警察パトレイバー』の後藤隊長と、『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーを付け加えたいところだ。
     『ルパン三世』のルパン、『シティハンター』の冴羽獠あたりにも何か共通するものを感じる。Twitterで指摘されたところでは、キン肉マンや『DEATH NOTE』のLなんかもあてはまるかもしれない。
     それから、『ファイブスター物語』のダグラス・カイエン。『涼宮ハルヒの憂鬱』のキョンや『氷菓』の折木奉太郎は微妙なところか。
     こうやって並べてみると、ある程度の共通点が見て取れる気がする。これらのキャラクターの共通点は、