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「生きている意味が全て噛み合うその瞬間を味わいたいのなら丁寧に生きろ」を実践してみよう。

 あいかわらず禅宗だの仏教だの老荘だのといった本を読んでいます。  この一週間で何十冊読んだでしょうか。どうも「読むモード」になってしまうと「書くモード」に移行するのが億劫で、更新が減ってしまい申し訳ありません。  個人的には色々な発見や納得があった実り多い一週間だったのですが、書かなかったら伝わりませんよね。  さて、その手の本をたくさん読んでいくうちに出逢ったのがこの本、『みんなの楽しい修行』。  これがなかなか面白かったのできょうはこの本のことを紹介したいと思います。  タイトルからわかるでしょうが、「修行」について書かれた本です。  修業とはいっても、ここでいうそれは日常生活に密着したものです。  著者はふたつの基本(「至福」と「今ここ」)及び八つの道(「身心」、「食農」、「自然」、「対話」、「旅」、「仕事」、「アート」、「祈り」)とジャンル分けしていますね。  ようするに「いま、ここ」を至福にすることを基本に、旅や農作業やアートを実践していこうということだといっていいでしょう。  で、まあ、修行というくらいなので、そこには宗教的なニュアンスが入ってきます。  ここがあえていうならちょっと危うさを感じるポイントですね。  著者は「インド精神世界、東洋思想や様々な神秘主義、ボディワークや瞑想、チャネンリグやニューエイジ、イスラム教の神秘主義やキリスト教の原点、トランスパーソナル心理学やディープエコロジー、ティク・ナット・ハンや行動する仏教、修験道やアミニズム、様々なものに興味をもち、また導かれて旅してきた」と語るのですが、キリスト教や仏教や瞑想といったものはともかく、トランスパーソナル心理学やディープエコロジーにはちょっと怪しげな印象があります。チャネリングやニューエイジとなると完全に怪しい(笑)。  ぼくは精神世界にも興味があるけれど、それ以前に科学の成果を信じるSF者なので、そういうオカルトじみた発想には抵抗があります。  いやまあ、オカルトという言葉もほんとうはこういう使い方は誤用なのですけれどね。  最近、『カルト漂流記 オウム篇』という本を読んだのですが、なかばオウム寄りの人物が書いている本だけに、ごく一般的な意見とオカルトや陰謀論がシームレスに混在していてくらくらしました。  こういう本を読むと、精神世界系の本を読むときは注意しないといけないなあ、とあらためて感じます。  ほんとうに深い「教え」は決してそうではないと思うんだけれど、浅いレベルで精神世界をあさっていくと、それこそカルト宗教の信者みたいになってしまう。  ぼくはべつにそういうものを求めているわけじゃないんですよね。  著者はこの本のなかで自然農法とか有機無農薬野菜とかについても書いているのだけれど、ぼくはその手のジャンルにはちょっと距離を置きたいと思ってしまうのですよ。  そうやって「近代の毒」を排除しようとする価値観には反感があるというか。  ぼくは自然も好きだけれど、スマホやパソコンやテレビゲームも大好きなわけで、「自然がいちばん!」とは全然思わないのです。  むしろ、そういった「毒」とともに生きていくことを選びたいと思っている。たとえそのことで寿命が何歳か縮むとしてもね。  まあ、これはぼくのなかでもまだ消化されていない話なので、はっきりしたことは書けませんが。  とにかく、修行とか精神世界とかそういうジャンルには興味があるし、面白そうだと思うのだけれど、オカルトには立ち入らないよう気をつけないといけないな、という話です。まあ、たぶん大丈夫だろうとは思うんだけれどね。  さて、それではどうしてぼくはここで書かれている「修行」に興味をもつのか?  それはぼくが人生に退屈しているからです。  長いあいだこのブログを読んでいる人は、ぼくが普段から退屈だ、退屈だといっていることをご存知だろうと思います。  いままで、それは何らかの「面白いこと」を見つけられないからこその退屈なのだと思っていたのだけれど、最近はどうも違うのではないかと考えるようになりました。  つまり、「生きていることそのもの」に充実感を感じられていないから退屈だと騒ぐことになるのではないか、と。  そう、「ただ生きていること」だけで幸せだったなら、人は退屈だなどと感じないものだと思うのです。  人は本来、「生きていることそのものの歓び」に満たされているはずであって、それがどこかでショートしているからやれ退屈だ、憂鬱だといいだす。  そうだとしたら、なんらかの「修行」を通して「いま、生きているという充実感」を取り戻すことによって、ぼくの抱えている問題は解決できるはず。  おおよそそういう発想で禅宗だの老荘思想に興味を抱いたのですね。  もちろん、いまから出家して本格的に修行するわけにはいかないのだけれど、『少女ファイト』で語られているように日常生活を丁寧に生きることでこの「生の不全感」を解消したいと思うのです。  生の不全感と充足感。いまここを生きていることの苦しみと歓び。これはぼくが実人生とフィクションを通して追いかけているテーマです。  作家のコリン・ウィルソンは『アウトサイダー』という本で、サルトルの小説やT・E・ロレンスの生涯を参照しながらこの「生の不全感」について書いています。  この本、特別に難解というわけでもないと思うのだけれど、読む人によっては「何がなんだかさっぱりわからない」一冊であるらしい。  たぶん、「生の不全感」についてリアルに感じたことがあるかどうかによってこの本を理解できるかどうかが決まってくるのでしょう。  ともあれ、『アウトサイダー』刊行から数十年の時が経って、コリン・ウィルソンが「アウトサイダー」と呼んだ一部の人々の悩みはごく一般的なものとなりました。  それはつまり「自然から切り離された都市生活のなかで生きているという実感を感じられない」という苦しみです。  この「都市生活者の憂鬱」というテーマは実存主義文学やフランス映画の主題になったり、村上龍あたりの小説で取り上げられたり、『新世紀エヴァンゲリオン』で爆発したりするのですが、最近の作品ではやはり『自殺島』がわかりやすいでしょう。  『自殺島』の主人公は、何不自由なく暮らしているはずなのに「生きているという実感」を喪失して自殺未遂をくり返した少年です。まさに都市文明のメランコリー。  『自殺島』では、かれは極限的な自然状況のなかでハンターとなり、自ら生き物を殺して食べることによって生の実感を取り戻します。  まあ、自然から切り離されることによって生の実感を失ったのなら、ふたたび自然に叩き込んでしまえばそれを取り戻せるだろうという単純な理屈ですね。  ペトロニウスさんはそれを「戸塚ヨットスクールの原理」と呼んでいたと思います。  つまり、かの戸塚ヨットスクール(いまとなっては知らない人もいるかな? ぐぬぬ)が試したように、「生の不全感」に悩んでいる人間は生死にかかわる極限状況に追い込んでしまえば快復するというロジックです。  これはじっさいに使えるテクニックではあると思う。  たとえば、元F1レーサーの片山右京さんなんかは、引退後、冒険家に転身しましたよね。  一度、極限のスピードの世界を体験した人はもう平穏なだけの暮らしでは生きているとは思えないということなんじゃないかと思ったりします。  まあ、それは憶測ですが、とにかく「死」を意識することによって「生」が輝くということは現実にありえるわけです。  ヨーロッパに昔から伝わるという「メメント・モリ(死を思え)」の原則ですね。  いつ死ぬかわからないということを実感して生きるのなら、「生」は必然的に輝くということ。  『灰と幻想のグリムガル』の時もこの話はしましたね。  ただ、そうはいってもじっさいに「死」を身近に感じることは容易ではありません。  まあ、ぼくが思うに、戸塚ヨットスクールはやっぱりまずいでしょう(笑)。  人を次々と死に近いところに放り込んでいったら、あたりまえですが、そのうちほんとうに死んでしまう子が出てくるわけです。  それは現代の価値観ではやっぱり許されないし、そもそもぼくはそんなことしたくない。  それでは、どうすればいいのか? そこで、禅とか、老荘思想とか、『葉隠』とか、三島由紀夫とか、「修行」という概念とかが浮上してきます。  禅の影響を受けた『葉隠』が「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」と喝破していることは皆さんご存知の通りでしょう。  これだけを見ていると『葉隠』はまさにタナトスの書とも思えますが、じっさいには必ずしもそうではなく、むしろエロスをいかに充実させるかについて参考になる本だといいます。  その『葉隠』には、「端的只今の一念より外はこれなく候。一念一念と重ねて一生なり。」という一文があります。  「まさに現在の一瞬に徹する以外にはない。一瞬、一瞬と積み重ねて一生となるのだ。」という意味です。  ここには確実に禅のこだまがある。「メメント・モリ」とたしかによく似ていますが、微妙に違う考え方です。  いつか訪れる死のことを思いわずらうのではなく、「いまここ」という一念(一瞬)を大切にしようという教えであるわけですから。  ペトロニウスさん流にいえば、「「いま」のインプロビゼーションを濃密にしていく」ということになるでしょうか。  つまり、「いま、ここ」という一瞬にだけ精神を集中し、その前後のことは忘れ去ってしまうというやり方です。  未来の死を思うわけでもなく、まして過去のことなど一切考えない。ただ、「いま」だけを思って生きることを続ける。  それはニーチェが『ツァラトゥストラ』で「この瞬間を見よ」と述べていることにも通じる「教え」なのだと思います。  そして、だからこその「修行」なのです。 

「生きている意味が全て噛み合うその瞬間を味わいたいのなら丁寧に生きろ」を実践してみよう。

「生きることに失敗した人々」を暴力以外の方法で救済できるか?

 森恒二『自殺島』が佳境を迎えていますね。  法の通用しない「自殺島」に追いやられた自殺未遂者たちがそれぞれに社会を作り上げ、いま「戦争」に至ろうとしています。  自衛のためとはいえ、ひとを殺しても良いのか? 善も悪もない凄惨な戦争の先に解決は存在するのか? 非常に重苦しい展開になっているといえるでしょう。  この物語の基本の設定となっている自殺未遂者が追放される「自殺島」という設定は、もちろん荒唐無稽なものですが、ぼくたちの社会がじっさいに抱えている問題を考えてみれば、ある種の説得力を持っていることもたしかです。  「活き活きとして生きていくというあたりまえのことに失敗した人々を抱える社会である」という問題です。  この問題を考えるにあたって非常に興味深いのがいわゆる「戸塚ヨットスクール事件」ですね。  体罰を肯定して教育を行うことを前提とした「戸塚ヨットスクール」に送り込まれたひとりの少女が入って三日後に自殺してしまった、などといった一連の事件です。  この事件の30年後の戸塚ヨットスクールを追った『戸塚ヨットスクールは、いま』という本を読んでみると、スクールの教育理念やその歪みなどがよくわかります。  ただ、ここには非常にむずかしい問題があると考えざるをえない。  体罰を教育として肯定したり、いじめには「正しいいじめ」があるとしたりといったスクールの理念を肯定することは到底できません。  しかし、それなら、いま現在苦しんでいる子供たち、若者たちやその家族をどう救えばいいのか? それに対して有効な手立てはだれもしらないわけです。  いや、もちろん、この現代社会においても、大半の子供はすくすくと健全に育ち、ほとんどの若者はまっとうに生きていくことでしょう。  ですが、それでも、なお、一部にはそのレールから落ちこぼれる人間がいる。  そして、そういう人を救済してくれるシステムはどこにも存在していないのです。  95%の人間は適応しているんだ、といってものこり5%をどうするのか?という問いに答えたことにはならないですよね。  そういうひとはときにニートと呼ばれ、あるいはひきこもりといわれたりしますが、その名称の正否はともかく、この社会の脱落者であるとはいえると思います。  まあ、ぼくもそのひとりであるかもしれないわけですが、その「当事者」、ないし「もと当事者」として、やはり問題は深刻であると思います。  もちろん、ニートやひきこもりの問題は労働問題として考えるべき一面もあり、必ずしも本人たちに問題があるとはいえないかもしれません。  すべてを本人たちの内面に見いだそうとすることはあきらかな誤謬です。また、精神的な病気なら専門家に対処を任せればいい。  とはいえ、逆にいえば、状況が改善すれば社会に参画できる人間ばかりではないということにもなる。  ぼく自身がまさにそうだと思うのですが、どうしたって社会に自分の居場所を見いだすことができそうにない人間もいるわけです。  そういう存在にどう対処するか? どのようにすればかれらの心を救えるのか?  いろいろな意見があり、またいくつもの理論が打ち立てられていますが、決定的なものはありません。  もし 

「生きることに失敗した人々」を暴力以外の方法で救済できるか?

どんどんひとが死んでいく物語は刺激的だろうか。

 ども。海燕です。  どうやら風邪をひいたらしく、ふらふらしています。  いまは薬が効き始めたようで正常になったけれど、さっきまでもうろうとしていました。  失って初めてわかる健康のありがたさ。ぼくもいいかげん歳老いたので、健康に気を遣わなくては。  さて、そういうわけできょうは特にネタはありません。  そこで、最近ちょっと興味がある「デスゲーム」の話でもしようかと。  デスゲーム。ある厳密なルールのもと、命を賭けてゲームを展開する物語の一ジャンルです。  古くは山田風太郎があり、また横山光輝があるわけなのですが、現代的な意味でのデスゲームものの嚆矢はやはり『バトル・ロワイアル』になるでしょう。  いまさら詳細に説明する必要はないと思いますが、この小説の目新しさはデスゲームの戦場を現代(一応は架空の国家ではありますが……)に持って来て、一般の中学生たちを主人公にしたところにあります。  話の展開そのものは『甲賀忍法帖』や『バビル2世』に近いところがあるとしても、その文脈がまったく違っているのですね。  先日のラジオでLDさんが話していましたが、デスゲームものが流行する背景には「生の不全感」があるように思います。  「生きているということ」が満たされていないから、死が目の前にある極限状況に「生の燃焼」を求める。これは非常にわかりやすい話だと思います。  デスゲームものの最高傑作のひとつである『DEATH NOTE』にしてからが、主人公夜神月が「退屈だ」と感じている場面から始まるわけです。  社会を変えるとか新世界の神になるとかいった野望はあるにしても、あくまで「退屈な生」を充足させることが本来の目的。  スリリングな戦いの日々はすべてそのためにあるのです。  つまり、デスゲームものとは「生の不全感」を癒やす方法論のひとつだということ。  その意味で、暴力に充足感を求める『ホーリーランド』とか『自殺島』といった作品に近いところにあるといえます。  ここまでは、まあ、わかる。  ところが、ぼくが見るに、最近のデスゲームものは「死」が非常に軽く扱われているように思えるんですよね。  『少年マガジン』の『リアルアカウント』とか『神さまの言うとおり』あたりが象徴的ですが、「死」の描写がやたら軽い。  あたかも文字通り「ゲーム」に過ぎないかのように見える。  いや、ゲームであってもかまわないのだけれど、そのゲームに命がかかっているという切迫感が、『リアルアカウント』などには見られないと思うのです。  これには異論もあるかもしれません。 

どんどんひとが死んでいく物語は刺激的だろうか。

セックスでもなく。暴力でもなく。ギャンブルでもなく。自傷/自殺でもなく。

 森恒二の漫画『自殺島』が面白い。この作品について、ペトロニウスさんがこう書いている。  新刊が出てたので買ってみる。読んでいて思ったんですが、この手の「生きることそのものを目的とする」物語というテーマは、前回の記事で書いたように、物質的な基礎条件があるレベルを超えると(=僕はGNP1万ドルクラスの資本主義経済と考えている)、貧・病・苦といったわかりやすい「欠乏」が失われ、生きていくことの優先順位がつかなくなってしまう後期資本制の真綿に包まれた都市社会が生まれるので、その中で生きる人々には、「生きていること」の実感が曖昧になってしまう。が故に、それを、もう一度ゼロベースで考えるどどういうものなのか?と問い直すという欲望・テーマがベースになっていると僕は考えています。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110601/p7  まさに。  『自殺島』は、何らかの理由で自殺をこころみて生きのびた青少年たちが、ある無人島(実はそうではないが)に送り込まれ、サバイバルするという物語。  その特徴は、かれらの自殺未遂の理由がそれこそ「貧・病・苦」ではないところにある点に存在する。  いや、「貧・病・苦」がまったく影響を与えていないはずもないのだが、しかし主人公のセイは、それこそ「後期資本制の真綿に包まれた都市社会」で、「「生きていること」の実感が曖昧になって」しまったが故に自殺しようとするのである。  本編のなかの描写は、ペトロニウスさんが指摘している事実にぴたりと合致する。いや、だからといってその文脈が正しいと云いたいのではない。  そうではなく、この文脈を通して見るとこういうものが見える、という「見立て」の面白さが重要なのである。「何が正しいか?」は批評家に任せておけば良い。  とにかく、作者はおそらくペトロニウスさんが云うところの「真綿」で首を締められるような「後期資本主義社会」特有の苦しさを意識していると思う。  思えば、前作『ホーリーランド』もその種の苦悩がベースになっていた。また、最新作『デストロイアンドレボリューション』は、退屈な社会そのものを破壊するテロリズムがテーマになっている。  つまりは、全力で「この社会は息苦しい!」「辛い、苦しい!」と云っている作家なのだと思う。そこからの「出口」が暴力であり、テロリズムであり、自殺であるというわけだ。  しかし、ただ単に暴力やセックスや、自傷、自殺に耽溺するだけでは物語にならない。いや、ならないことはないが、きわめて刹那的な、「いまさえ良ければそれでいい」というだけの物語になってしまい、ポジティヴなヴィジョンを示せないだろう。  そこで、森は『ホーリーランド』のときは「暴力」の先にある「絆」を描いた。『自殺島』では、「サバイバル」の先にある「生きている実感」を描き出そうとしている。  つまりは「失われた生の実感をどうやって取り戻すか?」というテーマであるわけで、「近代社会の「真綿」を取り除いて、生きるか死ぬかの環境に叩き込んでやればいい」という答えが出てくるのは当然のことではあるだろう。  しかし――これもペトロニウスさんが書いているように、『デストロイアンドレボリューション』のように「この社会そのもの」の形を破壊してしまうとしても、「その先」にあるものは、社会再建の努力だったりするわけである。  やっとこの本(自殺島)を見て思ったことの本質が言えるのですが(笑)、それは、ああ、、、、、生の不全感からもう一度、生の輝きを取り戻すために、「文明を無に帰して」そして殺し合いのバトルロワイヤルをやってはみたけれども、そうしたシュチュエーション(=マクロの外部環境)を設定したところで、歴史の法則というグランドルールは変わらないんだな!と感じたのです。もう少し敷衍して説明すると、バトルロワイヤルの目的はなんだったか考えてみましょう。それは、後期資本制の行きついた社会では、生きるための動機が失われていきやすい。それをもう一度ちゃんと実感しなおす為には、「生きること自体が目的」という万人が万人に対する闘争というシュチュエーションを仮設してみよう(サバゲーですね!←ちがうっ)ということでした。けど、そういう新しい秩序の形成(=反近代思想の帰結として文明を無に帰す)をしたところで、結局のところ、人類は同じ道をたどるわけです。人類が人類である限り、そんなに変わらないんですよ。もう一度同じことを繰り返すだけ。ああ、つまりこの設問自体は、あまり先のない問題設定なんだな、ということです。  つまりは、人間が人間としての性質をもつ以上、どうあがいてもどこかで同じことをくり返すことになるわけで、社会を破壊しようとしても意味がないのだ。  『自殺島』では「すべての男がすべての女を共有する」という、フリーセックス的な「楽園=地獄」も描かれているのだが、こういうものも、突き詰めていけばどこかで破綻して、いまの社会のシステムに近づいていくに違いない。  なぜなら、人間の愛情や独占欲は克服できないからである。そして、女性たちが決してそのようなシステムを望まないからである。  たぶん作者は知らないだろうと思うが(知っていたらびっくり)、この「性の暗いユートピア」は、アメリカの「オナイダ・コミュニティ」という村のシステムによく似ている。  じっさい、そういうことを試したひとたちがいたのである。しかし、オナイダ・コミュニティは最後にはその欺瞞に耐えられず破綻した。  つまりは、現代社会のシステムはどれもそれなりの理由があってそうなっているのであって、もういちど試してみても同じところに至る公算が高いのだ。ただ、それまでの間、女性たちが苦しむことになるだけのことである。  ようするに「何もかもゼロに戻してしまおう!」という試みは、「ゼロからもういちど時間をかけて同じ社会に至るだけ」という結末に至ることがもう決まっているということ。その意味で「筋が悪い」ルートなのだということができる。  つまり、この社会そのものを破壊しようとすることは、結局は問題解決にはならず、ただ問題を先延ばしすることにしかつながらないということなのだと思う。  それならどうすればいいか? そう――この、あまりにも貴族的な「生の退屈」を一時的にも癒やすことができるものがあるとすれば、セックス、暴力、スピード、ギャンブル。そういったところだろう。  自分自身をギリギリの極限状況に追い込んで初めて、「ああ、生きている」という実感は得られる。だから、これらをテーマにした漫画がたくさんあるのかもしれない。より健康的なところではスポーツとか一部のビジネスもそうですね。  ああ、ここまで書いていて気づいたけれど、そうか、考えてみれば福本伸行などのギャンブル漫画もまた、「極限の状況で生きる実感を取り戻す」系譜の物語だったのだな。  『カイジ』と『ホーリーランド』や『自殺島』は、やはり同時代のパラレルで同じテーマの物語なのだろう。  カイジは、 

セックスでもなく。暴力でもなく。ギャンブルでもなく。自傷/自殺でもなく。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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