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タグ “自由” を含む記事 4件

モテるためにはどうすればいい? あるレズビアンの答え。

 以前から気になっていた『百合のリアル』という本を読みました。  これが、とてもとても、とても素晴らしい内容だったので、皆さんにオススメしなければと思っているところです。  いやー、久々に良い本を読んだ。ジェンダー系の内容に抵抗がなければ、ぜひ読んでほしい本ですね。  タイトルに「百合」という言葉は使われていますが、ジャンルフィクションとしての「百合」ではなく、「セクシュアリティ」一般について考察している書籍です。  この問題について、ここまで平明に、かつ明快に書かれている本はちょっと読んだ記憶がない。  内容的にもっと深遠な本は、フェミニズムやLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)系統の書物を探ればあるかもしれないけれど、このジャンルの入門編としてほぼ文句がない出来といっていいのではないかと。  むしろ、シンプルすぎるタイトルが内容の奥深さを隠しているようにも思えますが、読み終えてみるとこのタイトルの意図するところもわかってきます。  とにかくディープかつ明晰な一冊なので、百合に興味がある方もない方もぜひ読んでいただきたいところ。  未だに電子書籍が出ていない(!)という欠点はあるものの、内容的には満点を付けたいくらい。いや、ほんと、素晴らしい。  と、空虚な言葉を連ねていても仕方ないので内容を紹介したいと思いますが、ちょっとめずらしい形式の本なのでどう説明したものか迷う。  基本的にセクシュアリティを巡るさまざまな知見や価値観について書かれた内容なのだけれど、それがとある恋愛セミナーの「マヤ先生」と生徒たちの対話、という形式で書かれている点に特徴があります。  また、各章の合間には著者からの「手紙」も挟まれていて、読者はそれらを通じて少しずつセクシュアリティの問題について学び、考えていくことができるようになっている。  著者は女性として女性を愛し、一般に「レズビアン」として「カテゴライズ」されるタイプの女性なのだけれど、自分では自分をそう定義する必要は感じていないらしい。  ただし、その境地に至るまでには長い葛藤の歴史があったようです。  また、世間的には「レズビアンタレント」という「カテゴリ」で活動している人物でもあります。  この人の性格や来歴については、ほかにくわしく語っている本があるのだけれど、その話はまたいずれ。  さて、一般的には「レズビアン」と呼ばることが多い立場である著者は(こう書いてみても、「一般」ってなんだ?といった疑問は浮かぶわけですが)、「マヤ先生」の講義という形で、セクシュアリティについてのさまざまな知見を紹介していきます。  必ずしも「レズビアン」に限るわけではなく、もっと広く、人間ひとりひとりの存在と生き方についての話が続きます。  まず「モテるとは何か?」、「モテるためにはどうすればいいのか?」という話から始まり、しだいに人間の不思議、人間の認識の仕方の面白さへと話が進んで行く構成が秀逸。  ちなみにこのこの「モテるためにはどうすればいいのか?」には、最後に簡潔な答えが出ます。  このアンサーが実に目からうろこ。モテるための具体的なテクニックといったものではないものの、ちまたの恋愛指南本を100冊読んでもなかなか出てこないであろう秀抜なものです。  ネタバレなのでここに書いてしまうのはためらわれますが、あまりに素晴らしいのでぼくなりに解釈して書くと、 

モテるためにはどうすればいい? あるレズビアンの答え。

退屈は人類最後の課題だ。

 先日教わった『地龍のダンジョン奮闘記!』というなろう小説がなかなか面白くて、読み耽っている。  タイトルだけ見ると異世界ファンタジーのようだが、じっさいには地龍に転生した主人公ができるだけ居心地のいいダンジョンを作ろうとするいわゆるスローライフもの。  最強の地龍に生まれ変わったくせに、徹底してニートな主人公の発想が心地よく、なかなか読んでいて楽しい。  ストーリーが一挙に動き出してからは面白くなるのかどうか微妙だけれど、何しろストレスがなく気楽なのですらすら読み進めてしまう。  考えてみればわざわざ異世界に転生してまでなぜスローライフを送らなければならないのだとも思えるが、現実世界の現実的な条件に縛られないあたりがこのジャンルの人気の理由だろう。  異世界ものではないが、『妹さえいればいい。』とか『エロマンガ先生』あたりも似たようなところに面白さの根幹があると思う。  多くの人が、派手な冒険や過酷な成長よりも、まったりとした成熟した日常にあこがれを抱くようになっているのかもしれない。  もちろん、その一方で冒険活劇はしっかりと生き残っているのだが。  ところで、ぼく自身もまずスローライフといっていい暮らしを送っている。  このブログそのほかでいくらかの収入を得て、毎日だらだらと暮らしているわけだ。  1日1回ジムに通うほかは、いくら寝ていてもだれにも怒られない。生きたいように生きられる。  自由で快適なひきこもりライフ。  しかし、この至福とも思える生活は、ひとが思うほど良いものではないともいえる。  なんといっても、退屈なのだ!  孤独はSkypeで話すなどして晴らすことができるが、退屈はまさにいかんともしがたい。  読書とか映画とかテレビゲームとか、そういう内向的な趣味には限界がある。  いくら面白くても自分のなかに情報を詰め込むだけでは飽きて来るのだ。  たぶん、行動することが必要なのだと思う。  前の記事で書いたように、くだらないことでもコミットしてみるのだ。  そうして本気になってバカをやって汗をかくことで、人生のむなしさを乗り越える。それしかない。  しかし、現実に地方都市でひとりひきこもりをやっているだけだと、できることは限られているのも事実。  ぼくはつまり「生きがい」が欲しいのだが、そんなもの、そこかしこに落ちているわけがない。  働きに出かけるか? しかし、いま現在、特にお金に不自由しているわけではないし、時給650円でバイトしたって、辛い思いをするだけでいいことはないと思う。  そういうわけで、悩むところなのだ。  この退屈という魔物を打ち倒すことができれば、ぼくのスローライフは理想的だといえそうなのだが……。  いったいどうすればいいだろう?  ぼくは本のなかに答えを探してみた。  何冊かの本は、プアでフリーでスローな人生こそが素晴らしいのだと示唆しているように思えた。  たとえば、こんな本たちである。 

退屈は人類最後の課題だ。

お誕生日おめでとう。

 きょう、7月30日はぼくの37歳の誕生日である。  37歳――ほとんど信じられないような歳だ。  35歳になったときも憂鬱だった気がするが、37歳となると、これはもう、逃げ場がない。  ぼくはもはやいかなる意味でも若者ではない。ただの中年男性である。  ほんとうに歳を取ったものだ、と思う。何か哀しいような気持ちがする。  そんな日に、ぼくはまた自分の二面性について考えてみた。  前の記事では、ぼくの人格は本来のものから歪んでいるのではないか、と書いた。  これはだれしもそうであるかもしれない。  生まれた時の自分そのままで生きているという人など、めったにいるものではないだろう。  ひとの人格は世間に揉まれ、社会に揺らいでしだいしだいに変わっていき、みずみずしさと柔らかさを失って硬直していく。  筋肉が凝るように、心もまた凝る。硬くなってより柔軟に変化しづらくなっていく。  それが「老い」ということだ。  10歳の頃にはもうすでに老いは始まっている。とすれば、37歳のぼくなど、老人もいいところだろう。  しかし、これはぼくだけではないだろうが、ふしぎと、子供の頃から変わっていない部分も残っているように思える。  ぼくのなかのある部分だけは、子供の頃の自然な柔らかさのまま、保存されているような気がするのだ。  その「本来の自分(先天的な自分)」と「大人の自分(後天的な自分)」が矛盾しあい、対立しあい、それでも混ざり合うことなく、一定の純度を保って独立しているのがぼくという人間なのではないか、と思ったりする。  ぼくはじっさい、37歳になったいまでも、部分的には子供のままなだ。そのほかの部分はすっかり老いて硬直してしまっていることもたしかだが……。  ひとは一般に加齢によってさまざまな邪念を身につけて硬直し、変化を恐れるようになる。  さまざまな「常識」という名の固定観念によって硬く、硬く変わっていくのだ。  ぼくは可能な限り柔らかくありたいと思う。  そのためには「心のストレッチ」をして、先入観や固定観念で硬くなった心をほぐしていく作業が必要になるのだろう。  ぼくの場合、本を読んでいる時は童心に帰る。  おそらく、本を読んでいるときが「本来の自分」に最も近いのではないかと思う。  その自分が「基準」になるわけだ。  一方、感情的に昂って小さなプライドを守ろうとする自分はあきらかに後天的に身につけたものだ。  心を柔らかく保ちたいなら、自分のなかの「怒り」や「憎しみ」と向き合わなければならないということ。  生まれたときの裸の自分は、怒ることはあっても根に持ちはしなかったはず。それが、いつまでもひとつのことで延々と怒っているのなら、心のどこかが凝っている証拠だ。  その凝りはどうにかしてほぐさなければならない。  おそらく、自分なりの「正義」を重んじ、それが叶わないとなると烈火のように怒るぼくは、思春期のあたりで生まれた人格だと思う。  本来のぼくは、もっと自然体で、力が抜けているような気がするのだ。  その人格が「基準」となる自分で、時々、マグマのように噴出する感情は、いずれも「心の凝り」から来ているものだと思っている。  この「凝り」をどうほぐしたものか……。  どこまでも柔らかく自然で変化を怖れない心を取り戻したい。 

お誕生日おめでとう。

リアルはなぜクソゲーなのか?

 ニンテンドー3DSでLEVEL5制作のRPG『ファンタジーライフ』を始めました。  ああ、まだ『スーパーマリオ3Dワールド』も『ゼノブレイドクロス』も終わっていないのに新たにゲームを始めてしまうぼくの意思の弱さよ。  ちなみにiOS版の『シュタインズゲート』なんかも途中で止まっています。『逆転裁判2』と『3』、『アサシンクリード4』あたりも途中だな。  いい訳させてもらうならべつだん意志が弱くてひとつのゲームを続けられないわけじゃなくて、むしろ「複数のゲームを同時進行している状態」をこそ快適だと感じているのだと思うのですね。  それもアクション、正統派RPG、スローライフ系RPG、ADVといろいろなジャンルの作品がそろっている状態が心地いい。  ようするにぼくは「選択肢を増やしたい」と考えているのでしょう。  いつでもやりたいと思ったときにそのジャンルのゲームを遊ぶことができるということに「自由」を見いだしているわけですね。  べつにやらなくてもいいのだけれど、やりたくなったらいつでもできる。  それがぼくが考える「自由」であり「贅沢」なのだと思います。  もちろん、事はゲームに限りません。たとえば、中華料理を食べたいな、と思ったときに即座に食べることができるということが「贅沢」だと思います。  そういう意味では、ぼくはなかなかに自由で贅沢な人生を送っているといえるかもしれません。  いつでも寝たいときに寝て、起きたいときに起き、やりたいことだけをやって暮らしているわけですから。  もちろん、そうはいっても、「金銭」という条件によって制限される要素は少なくありません。  たとえば海外旅行に行きたいな、と思ってもすぐに実行するのはむずかしい。  だから、ぼくがお金を欲しいと思うのは、必ずしもそれを使いたいからではないのですね。  仮に貯金が1000万円くらいあったら、たぶんじっさいに使わなくてもそれなりに満足できるんじゃないかと思う。  「いつでも使うことができる」と思っていられることが重要なのであって、じっさいにやりたいことはそれほどないんじゃないか。  この感覚、わかる人はわかってくれると思うんだけれど、どんなものだろう。  さて、『ファンタジーライフ』の話に戻ります。 

リアルはなぜクソゲーなのか?
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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