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記事 19件
  • どんなに恵まれていても、ひとは飽きる。

    2015-06-30 00:05  
    51pt
     「いばや通信」のこの記事が非常に面白かった。
    http://ibaya.hatenablog.com/entries/2015/06/29
     ここで坂爪さんは「漁師とコンサルタント」という有名な寓話を取り出してこう書いている。

    坂爪「これさ、俺は『半分同意、半分違和感』って言うのが正直な感想で、半分の同意は『そう言う生活を既に手に入れている漁師は非常に豊か!』ということで、根本的に、自分で自分の人生は最高だと思っている人は、その時点で(他の人間がとやかく言うものじゃないし)勝ち組だと思っているのね」
    みっつ「はい」
    坂爪「でね、半分の違和感は自分自身に対してなんだけど、『幸せな日々に飽きることはないのかな?』っていうことなの。毎日シエスタをして、自然を楽しみ、仲の良い人達とのんびり過ごす時間は絶対に豊かだと思うけど、もしも自分だったら『絶対にもぞもぞしてくるだろ!』って思うのね」
    みっつ「はい」
    坂爪「男の子的なもぞもぞ感、とでも言いましょうか。確かに幸せなんだけど、幸せなだけじゃ足りないんだよ。毎日同じことをしていたら必ず飽きるし、『新しい何か』をしてみたくなると思うんだよ。世界にはまだ俺の知らない面白い場所があるはずだ!って、俺は絶対に思っちゃう気がするんだよ」

     まさにいまのぼくのことだな、と思う。
     家はあるし、そこそこの収入もあるし、友人はたくさんいるし、娯楽もたくさんあるし、とても幸せなのだけれど、同時に「やることがない」という退屈さの地獄に閉じ込められた感がある。それがぼく。
     もちろん、あまりに忙しいとそれはそれで苦しいことになるのだが、暇すぎることも楽ではないんだよね。
     まあ、真面目に働いている人たちからすれば何をほざいているんだと思う悩みかもしれないが、しかし、この問題、リンク先で坂爪さんが書いている通り、本質的なものだとも思う。
     「幸せなだけじゃ足りない」。
     たとえ贅沢といわれようと、それはほんとうのことなのだ。ひとは幸福なだけでは生きていけないのである。
     じっさい、ポジティブ心理学の本などを読むと、宝くじがあたった人の幸福度は予想されるほど高くないらしいということが書かれている。
     その反対に、事故などに遭って障害を負った人の幸福度も意外に低くないようだ。
     もちろん宝くじがあたった瞬間は嬉しいだろうし、怪我を負った瞬間は嘆くことだろうが、それらは長くは続かない。
     ひとは幸運であれ、不運であれ、あっというまに慣れてしまう。そういう事実があるのである。
     だから、ひとは「幸福」にも慣れるし、飽きてしまう。
     子供の頃は「学校に行かずに漫画だけ読んで暮らせたらどんなにいいだろう」と思ったものだが、じっさいにそういう暮らしをできる身の上になってみると、やはり飽きるのである。退屈するのだ。
     ニートをしていると、どうしてもこの問題に対する答えを出すことを求められる。
     ニートブロガーのPhaさんは、一箇所に常住するのが良くないと考えて、他拠点生活をすることにしたようだ。
     それが正解なのかはどうかはぼくにはわからないが、とにかく常に新しいことをしていないと退屈するというのが人間のさがであるらしい。
     これは非常にむずかしい問題である。なぜなら、この問題に対しある対策を見つけ出して実行したとしても、それがあたりまえになるとやはり慣れ、飽きてしまうからだ。
     この退屈という名の地獄に耐えることができる、あるいはそもそも退屈さを感じない能力が、即ち「無職の才能」なのだろう。
     しかし、だれもがその種の才能に恵まれているわけではないし、坂爪さんのように大人気ブログの管理人になれるわけでもない。
     それでは、どうすればいいのか? 
  • アニメ『Fate』最終回にこの世界の真実を見た。

    2015-06-29 03:36  
    51pt

     ども。ペトロニウスさんが日本に帰国したことを機に、ひさしぶりに東京へ遊びに行って来ました。
     いやー、めちゃくちゃ楽しかった&疲れた。
     旅先だと気が昂って眠れない癖はなんとかしないといけないですね。睡眠導入剤でも使うしかないのかも。
     プアなニートの身の上にもかかわらずフォアグラだのなんだの美味しいものを片っ端から食べてきたので、この上は働くしかないでしょう。そういうわけで記事を更新します。
     まずはアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』最終回の話。
     聖杯戦争が終わったあとを描くこの回はほぼアニメのオリジナル展開。
     魔術協会の統治機構である「時計塔」が存在する街ロンドンに住む遠坂凛と衛宮士郎が描かれます。
     激烈を究める闘争が終わったあとの平和な日々。癒やされますね。
     あの過酷な事件を生き抜いた魔術使いである凛と士郎もここでは一学徒。
     ふたり、幸せな時間を過ごしています。こいつら、いちゃいちゃしやがって。
     聖杯戦争の物語がすべて終わったあと、舞台を変えることによって生じる「世界がひろがっていく」感覚が素晴らしいですね。
     本編では聖杯戦争がすべてだったわけですが、ことここに至ってはそれも数ある事件のひとつに過ぎない。
     『Fate』全編を内包してさらに続いてゆく広大な世界を感じさせるこの構成は凄いです。
     アニメ版未視聴の原作ユーザーも、この最終回は一見の価値ありといえるでしょう。
     しかし、ひとときの幸せはまるでまどろみの夢。おそらく士郎はいつかまた再び戦いのなかに身を投じることになるに違いありません。
     それがかれがかれであるということ。
     いっときの幸福を味わうことはできても、そこに浸りきるためにはあまりにも気高い理想を抱えているのが衛宮士郎という人間なのです。
     また、それがあってこその『Fate』であるということもできるでしょう。
     そんな士郎を凛はどこまでサポートすることができるのか? これから続いてゆく物語を予感させて長い物語は終わります。
     平和が夢か、それとも戦いの時こそが夢なのか、むずかしいところですが、全編、戦いが続いたこの物語の終幕には、この平穏なエピローグこそがふさわしいのかもしれません。
     それにしても、 
  • 『ファイアーエムブレム』への同性婚システムの導入にまずは大きな拍手を送ろう。

    2015-06-25 02:20  
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     任天堂は6月24日、ニンテンドー3DS向けソフト「ファイアーエムブレムif」(25日発売)で、主人公キャラクターの同性婚が可能になっていることを明らかにした。同社が昨年発売した「トモダチコレクション」欧米版では同性婚ができないことで批判を受け、「次作では努力する」としていた。同社は今回の対応について「ゲーム体験は、当社が事業活動を行う地域社会における多様性を反映させたものであるべき」とコメントしている。http://news.nicovideo.jp/watch/nw1659408

     というわけで、『ファイアーエムブレム』の最新作で同性婚が可能になったようだ。
     『ファイアーエムブレム』の結婚システムはスーパーファミコンの『聖戦の系譜』以来のものであるわけですが、ついにそこに同性同士の関係が導入されたわけで、長年のファンとしてはなかなかに感慨深い。
     より保守的であることも可能であろう局面で、革新を選んだ任天堂の判断にひとまずは拍手を送りたい。
     じっさいにゲーム内でどのような描写になるのかはやってみないとわからないところだが、プレイしてみたいという意欲は増した。
     ただ、「ゲーム体験は、当社が事業活動を行う地域社会における多様性を反映させたものであるべき」といわれると、一抹の違和感を覚えないこともない。
     いや、文言としてはもちろん正しいのだが、多様性を反映させる方法が「主人公を異性、同性ともに結婚させることができるシステムを導入する」ことであるのかどうか、ぼくとしては微妙に迷うところだ。
     というか、『ファイアーエムブレム』一作がその手法を導入することは問題ないのだが、それがスタンダードとして今後のゲームにおいても活かされるべきかというと、そうとは思えない。
     あくまで『ファイアーエムブレム』一作の手法としては高く評価するというのがぼくの判断になる。
     とはいえ、任天堂のテレビゲームに同性愛の描写が導入されることはやはり画期的であり、その判断は偉大な英断であるといえる。
     ぼくとしては、それがなんらかの政治的な強制力を持たない限り、コンピューターゲームに同性愛の描写を増やしていくことには無条件で賛成だ。
     なんといっても、現在の状態が社会の実情を反映していないことは明白だからである。
     敵、味方の双方に一定の割合でLGBTがいることを前提としてシナリオが組まれてもいい。
     というか、そうなることが自然ではないだろうか。
     ただ、そういった配慮をシステムに落としこむときに、同性結婚を許容するという形が唯一の正しいあり方かというと、ぼくはそうは考えないということだ。
     ほかにもいろいろな方法論が考えられるだろうし、「恋愛/結婚描写が存在するゲームの主人公はバイセクシュアルであるべき」といえるかというとそうではないだろう。
     『ファイアーエムブレム』の方法論はひとつのやり方として尊重されてしかるべきだが、ほかのゲームはほかのやり方を考えてもいいと思う。
     LGBTを含む多様性の描写が「唯一の正しいあり方」に収斂していくのではなく、「無数の多様なあり方」に拡散していくことこそが、最も重要だと考える。
     ただ、いままでの国産ゲームでは「異性愛を前提とした異性婚に限定したシステム」以外がほとんどない状況だったのだから、それに比べれば一歩進んだとはいえるだろう。
     まあ、じっさいにプレイしてみないとその革新性についてはなんともいえないということも事実だが。
     いまの時点でああでもないこうでもないということは早計であるかもしれない。
     しかし、 
  • 非モテ男、オトナガール向け少女漫画雑誌にハマる。

    2015-06-23 06:20  
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     ひとが食べているラーメンはとても美味しそうに見える。ひとが読んでいる漫画はとても面白そうに思える。これ、すなわち天地(あまつち)の法則なり。
     そういうわけで、このあいだてれびんが面白そうに読んでいた『AneLaLa』を読んでみることにしました。
     ちなみにKindleだと第3号まで0円という太っ腹さ。さっそくそこまで落としました。
     「『LaLa』のお姉さん」を意味すると思しいタイトルからもわかる通り、かつて『LaLa』や『花とゆめ』で描いていた作家さんたちを集めた『LaLa』の増刊ですね。
     ということは当然ながらその作家さんたちは一世代前の白泉社少女漫画の看板作家だった人たち。森生まさみさんとか橘裕さんとか。
     ちょうどぼくの世代の白泉社少女漫画のイメージは彼女たちの漫画でできているといっていい。
     で、ひさしぶりにその人たちの読んでみたわけですが――う、うまい。うまーい。やだ、この人たち、漫画が上手。
     いやまあ、ある意味、あたりまえなのですが、でもうまいよー。
     特に津田雅美作品の完成度やばい。もともとうまい人だったけれど、なんか異様に洗練された感じ。
     素晴らしくスマートな世界を楽しむことができます。
     ほかにも斎藤けんさんとか筑波さくらさんとか、ぼくこの人たちの漫画読んでいたなーなつかしーという作家さんたちが目白押し。
     『AneLaLa』よりさらにひと世代前の少女漫画家たちを集めた『メロディ』なんかを読んでも思うけれど、この人たち、あきらかにいまの白泉社の若手少女漫画家より実力上だよね。
     いいかげん少女漫画としては賞味期限切れになっていてもおかしくないベテランぞろいのはずなんだけれど、どういうわけかいまなおみずみずしい作品を読ませてくれます。
     ああまったく、36歳ハゲ(円形脱毛症)オヤジになってどうして少女漫画でときめかないといけないのか?
     それもこれもみんなてれびんのせい。朝の番組でやっている星占いでてんびん座が最下位になるよう呪っておいてやろう。
     いや、てれびんがてんびん座かどうかしらないけれど、ほら、音が近いから。てんびん座の皆さんごめんなさい。
     しかし、面白いなー。とりあえず3号まで読んでしまったので続きの4号を買うことにします。
     雑誌は紙で買い集めると邪魔になるからKindleでちょうどいい。ひさしぶりに少女漫画の甘酸っぱい世界にひたれます。
     いやまあ、現実に帰ってくると36歳未婚非モテのおっさんでしかないんですけれどね……。
     いいじゃないか、少女漫画を読んでいるときくらい現実を忘れても。
     漫画のページをめくっているそのとき、ぼくは男でもなければ女でもないただの「観察者」。
     ひたすらに物語世界を見守り、その展開に一喜一憂してはページをめくる「傍観者」なのです。
     もうたぶん一生恋の機会はないだろうと思うと泣きたくなるわ。うるうるうる。ああ、何もいいことのない人生だった。漫画は面白かったからいいか。
     さて、 
  • 新作を読んでもらう場としての発表媒体の機能が低下している(と思う)。

    2015-06-23 01:23  
    51pt
     ぼくはしょっちゅう「何か新作を読みたいなあ」、「まったく見ず知らずの、でも面白いエンターテインメントにふれたいなあ」と呟いています。
     おそらくそういう話を聞くと「じゃあ、読めばいいじゃん」と考える人もいるでしょう。
     しかし、これが意外にむずかしいんですよね。
     なんらかの既存の作品の延長線上にある作品はその面白さを把握しやすく、購入意欲を高めやすいけれど、そうでないまったくの新作は買うのに勇気がいる。読むのに挑戦心がいる。
     どうしたってついつい既に面白いとわかっているシリーズものの続きなどを読んでしまう結果になりがちです。
     つまり、面白い新規作品を探し求める読者としては、市場にまったく知らない新作が出て来たとき、何を根拠にしてその本を買うか? 読むか? という問題があると思うんです。
     これを作家側の視点でいうなら、まったく世に知られていない新作を何をとっかかりにして買って読んでもらうかということでもある。
     この問題を解決できない本は売れないと断言できます。なぜなら、だれもその本を買うべき理由を見いだせないから。
     もうちょっと格好つけるなら購入するインセンティブがない、といういい方になるのかな。
     したがって、本を売る側はなんらかの情報を本に付与して購入意欲を高める計算を働かせる必要があります。
     最も基本的なところでは、「作家の名前」があります。
     以前読んだ作品と同じ作者の本なら、きっと面白いだろう。読者側がそう判断して買ってくれることを期待するわけですね。
     本に作家の名前を載せるなんてあまりにもあたりまえのことではありますが、それにも購入意欲向上因子としての役割があるのです。
     あとは「表紙」もその因子として機能します。
     ライトノベルなどでは非常にわかりやすいですが、きれいなイラストが付いている本は面白いのではないかと思いたくなる。
     そしてまた、「帯」や「あらすじ」なんかも重要ですね。
     帯の推薦文を読んで買うことにする人とか、あらすじを読んで面白そうだったら買う人というのは、そう多くはないにしろ一定数はいることでしょう。
     さらには「レーベル」などもあります。
     あるレーベルから出ている本であればそのレーベルを信頼して買うという人はいますよね。
     ほかにもあるでしょうが、まあ読者はだいたいこういった要素から本の内容を予測して買うことにしている。
     逆にいうと、これらの要素に買うべき理由を見いだせなかったら買わないのです。
     で、いち読者として思うのですが、この頃、その「まったくの新作を買うべきだと判断する」ことがちょっとむずかしくなってきてね?という気がするのですよ。
     どういうことか。 
  • 人類の能力がすべて人工知能に抜き去られたとき、人間に何がのこるか?

    2015-06-22 22:46  
    51pt

     海に沈む夕焼けを見るために海岸まで歩いて行って来た。
     結局、雲が厚く、夕日が沈むところは見られなかったけれど、落日に照らされた雲が一刻一刻と色を変えるさまはうつくしかった。
     いいものを見た。またこんど、晴れた日にここを訪れよう。
     さて、いうまでもないことだが、海岸の夕焼けなんて見たところで一銭にもならない。
     また、だれかに褒めてもらえることもありえない。無意味といえば、この上なく無意味な行為だ。
     しかし、そうはいっても人生を多少なりとも豊かにするのはこういう無意味なことの積み重ねなのだろう。
     幸い、売るほど時間があるぼくはいくらでも無意味な行為にいそしむことができる。
     だから、テトラポットの上に座り、道すがらセブンイレブンで購入したサラミとチーズを食べながら落陽の芸術に感嘆したのであった。
     いや、しかし、海岸まで歩いていけるところに住んでいるというのは贅沢ですね。
     それにしても、「意味」とはなんだろう?
     世の中には、さも深い意味がありそうな事柄がたくさんある。だが、じっさいにはそれらにたいした意味などありはしない。
     人類の存在にしてからが、進化の樹形が生み出したある種の偶然の産物であるに過ぎないわけで、それ以上でも以下でもないのだ。
     そうであるからには、個人の社会的使命がどうとか、失笑するしかない出来の悪いジョークでしかありえない。
     べつだん、ある個人がどうがんばろうと、がんばるまいと、社会全体に大した影響を及ぼせるわけではない。
     また、いくらか影響を及ぼせたところで、それにさしたる意味があるわけではないのだ。
     ぼくのいうことはいくらかニヒリズムめいて聞こえるだろうか。そうではない。
     まともに現実を直視するのなら、ひとのやることなすことに格別の意味がないということには向き合わざるを得なくなる。
     あたりまえのことだ。天までそびえ立つビルになんの意味がある? 海底を貫通するトンネルにどんな意味があるというのか?
     それらは、ひとの力の巨大さを示すある種のモニュメントであることはたしかだろう。
     しかし、それも、ただそれだけといえばそれだけのことだ。しょせん時の波濤にさらされればいつかは崩れゆく砂の楼閣であるにすぎない。
     そして、そうであって何が悪いというのか。
     ひとのやることがすべて無意味だとしても、だからそこに価値がないということにはならない。
     価値はある。あきらかにある。より正確にいえば、そこに価値を見いだすことは可能なのである。
     なぜなら、価値とはひとがさだめて見いだすものにほかならないからだ。
     もしそこに「すごいものを作ったものだ……!」という感嘆があるのなら、意味などなくてもなんの問題もない。
     ミケランジェロのピエタにそれが生み出されなければならなかった宇宙的意義はあるだろうか?
     もちろん、あるはずもない。しかし、それはどこまでも気高く美しい。ただそれだけで十分ではないか。
     この先、人工知能が発達していくと、いままで人間しかできなかったことすべては機械によって代替可能になるだろう。
     「人間のみが持つ人間らしさ」という幻想が剥がれ落ちてゆくわけだ。
     それは絵画や音楽といった芸術分野をも含むに違いない。人間はここで「すべてにおいて機械に追い抜かれた自分たちの存在になんの意義があるか?」という問いと向き合わなければならなくなる。
     山本弘のSF長編『アイの物語』では 
  • 騙されても、裏切られても、傷つけられても、まっすぐ光の差すほうへ歩いていこう。

    2015-06-21 03:40  
    51pt

     「幸せ」のことを考えている。
     幸せになるとはどういうことか、そして、幸せでありつづけたいならどういうことをすればいいのか。
     答えは明瞭ではありえないが、幸せになるためにはいくばくかの勇気と、そして素直さが必要であるという考えは揺るがない。
     勇気については、すでに語った。素直さとはどういうことか。
     つまり、自分が幸せになりたいと思っていると素直に認めることが大切だと思うのだ。
     そうでなければ、幸せになるためにはああすればいい、こうすればいいと教示されたところで、皮肉にほほ笑んでこう呟くばかりだろう。「そんなことで幸せになれるなら苦労はしないさ」。
     しかし、幸福とはどこか遠くにあるものとは限らない、心のありようひとつでいかようにも変われるものなのだ。
     それなのに「自分は決して幸せになれない」と考える人は、むしろ「不幸である自分」に何かしらの価値を見いだしている可能性がある。
     そうやって、素直になれない限り、幸せに手が届くはずもない。ひとは光の差すほうへ歩いて行くべきなのだ。
     と、こう書いていて思い出されるのは、北村薫の小説『朝霧』に出て来るこんなセリフだ。

    「いいかい、君、好きになるなら、一流の人物を好きになりなさい。──それから、これは、いかにも爺さんらしいいい方かもしれんが、本当にいいものはね、やはり太陽の方を向いているんだと思うよ」

     「本当にいいものは太陽の方を向いている」。
     十数年前、初めてこの小説を読んだときは「ほんとうにそうだろうか」と疑問に感じたものだが、いまならいくらかはわかるように思う。
     「本当にいいもの」には、無明の闇のなかでなお光を目ざすような向日性がある。
     それは決してただ明るい光が燦々と照らすなかで生まれ育っているということではない。
     むしろ、絶望の闇のなかでこそ、それでも光を目ざすことができるかどうかが試されるのだ。
     たしかに、闇や悪や狂気といったものの深遠な魅力にくらべ、光には素朴なところしかないようにも思える。
     しかし、そうではない、光の道の奥深さは、それを歩いてみて初めてわかるもの、ナウシカもいっているではないか。「いのちは闇の中のまたたく光だ」と。
     もちろん、 
  • どこまでもオリジナルあっての二次創作だと思うのだ。

    2015-06-21 02:31  
    51pt

     アニメ『Fate/staynight [Unlimited Blade Works]』の最終回をニコニコ生放送で視聴しました。
     「フェイカー」衛宮士郎が本物の神話の王であるギルガメッシュを上回る迫力の展開を、よく映像化してくれていると思います。
     「Unlimited Blade Works」はかっこいいよなあ、やっぱり。
     ぼくは原作をプレイ済みなのでどうしてもその視点でしか見れないのだけれど、初見の皆さまはさぞ感動したことでしょう。
     『Fate』が恐ろしいのはこれだけのシナリオであっても三部作の一でしかないということで、さらに物語は最終章「Heaven's Feel」へと続いていきます。
     「Heaven's Feel」の映画版、18禁で上映しないかな、と思うのですが、さすがに無理だろうなあ。ここまで大きくなったプロジェクトだと。
     でもなるべくえろえろしくしてほしい。桜のあの淫靡な背徳の魅力をどこまで描き出せるかで作品の出来が決まってくるのではないかしらん。上映されたら見に行こうっと。
     それにしても、『Fate』もほんとうに大きくなりましたね。
     前作『月姫』に続く同人サークルTYPE-MOON最後の仕事として企画された物語が、商業作品となって誕生してはや11年。
     そのあいだ『Fate』は膨大な派生を生んできました。
     しかし、オリジナルなのはあくまで『Fate/stay night』の三つのシナリオです。これは未来永劫変わらないでしょう。
     初めて『Fate』をプレイした時の感動は忘れられません。セイバーシナリオで「終わった……。なにもかもみななつかしい」みたいな感動に沈んでいたのに、「じゃあ、そういうわけで全部もういちど初めからやるからね」と凛シナリオが始まり、その果てにはさらに桜シナリオまでがあって、というあの膨大なボリューム。
     ひたすら圧倒されてプレイしていたことを思い出します。
     ああ、まだあの頃はぼくもそこそこ純真だったんだなあ。いまだって枯れ切ったとは思っていないけれど。
     で、『Fate』シリーズはさらに番外編のファンディスク『Fate/hollow ataraxia』へと続いていくことになります。
     当時はまだエロゲが元気だった時代ですから、それはもうわくわくして『hollow』を待ちました。
     そして発売されたものをプレイしてみた感想は――うーん、まあこんなものか、と。
     発売されるまでは心待ちにしていたんだけれど、じっさいに『hollow』を読んでみたら、「ああ、二次創作は一次創作に勝てないものなんだな」ということを痛感させられたんですよね。
     ファンディスクはファンディスクで悪くはないけれど、それはやっぱり「おまけ」の域を出ないんだなあ、と。
     いや、 
  • 人生に対しツンデレになるな。

    2015-06-20 03:33  
    51pt

     ポジティブ心理学をご存知だろうか。
     「なんでもポジティブに考えればうまくいく」という思想のこと「ではない」。
     それは、鬱や病といった人生のネガティヴな側面を注視する既存の心理学と異なり、幸福や活力といったポジティヴな側面に目を向けようとする心理学のことである。
     この新しい学問が誕生したのは1990年代のことで、爾来、いろいろな成果を積み重ね、いまでは心理学の大きな支柱のひとつとみなされるに至っている、らしい。
     「らしい」と書くのはぼくもくわしい知識を持っていないからだが、興味は大いにあるので、イローナ・ボニウェル『ポジティブ心理学が1冊でわかる本』を読んでみた。
     タイトル通り、実に多岐にわたるテーマが語られている本なのだが、個人的に興味深かったのは、そのなかの第13章「ポジティブ心理学を暮らしに活かすには」の結論だった。
     そこにはこう書かれていたのである。「自分自身についてよく考え、得意なことをし、人生のよい面に意識を向け、他者に親切にしましょう」。
     著者自身が書いているように、「あまりにも単純すぎるようにみえ」る結論なのだが、結局、これしかないらしい。
     幸せになるためには、もっとポジティブになることが大切だという結論なのだ。
     しかし、どうだろう、この種の理屈を鼻で笑ってしまう人は少なくないのではないだろうか。
     ポジティブ・シンキングをすれば幸せになれるとは、ようするにひとに脳天気であれといっているようにも思える。
     そんなふうにして幸福になるくらいならいっそ不幸であるほうがいい、そういうふうに思う人は大勢いるのではと思うのだ。
     ぼくたち、と大きな主語を使っていいのかどうかわからないが、少なくともぼくのような人間は、口先では幸せになりたい、幸せになりたいといいながら、しかし、幸せという状態をどこか軽んじているところがある。
     なんといっても、人間の苦悩の底知れない複雑さにくらべて、幸福はいかにも単純ではないだろうか。
     それはまたどことなく軽薄であり、深刻さを欠いているように思える。
     四六時中機嫌がよく、なんの悩みもないように見える人物は、友人としては最適だが、しかし、あまり強く尊敬する気にはなれない。
     何かしらの悩みと苦しみこそがひとを複雑な存在にする――そうではないだろうか。
     しかし、これは一面的な見方である。最近、ぼくはそう思うようになった。
     幸せが単純だと、いったいだれが決めたのだろう?
     まさに 
  • 人生がつまらなくてしょうがねえ問題をどう解決すればいいか?

    2015-06-19 03:07  
    51pt
     ども。きょうもきょうとてニート暮らしの海燕です。
     正確にはNEETの定義は35歳までなので、来月で37歳になるぼくはそこから外れまくりであるわけですが、まあ、ただ無職っていうのもどうかと思うよね……。
     しかし37歳て。ちょっと自分がそこまで歳をとったことが信じられないですね。
     この調子だと無為のまま40歳になり50歳になり60、70と歳を取っていくんだろうな。そこまで生きられればの話だけれど。
     いまの生活は非常に安定していて気楽なんですけれど、唯一、やることがなくて活動エネルギーが余ることだけが困ります。
     「無職の才能がない」ということなんだろうけれど、やっぱりぼくは何かしら活動していないといらいらしますねー。
     暇なのは悪いことではないと思うけれど、ひとりで暇だとね、もうね、やることないんですよね。
     一日中『スプラトゥーン』やっていても飽きるしなあ。
     やっぱりぼくは何かしら仕事をしたいのだと思う。そうかといっていまさらアルバイトとかも効率悪いし、さて、何をしたものだろう……。
     いわゆるワーク・ライフ・バランス、仕事と余暇のバランスがどのくらいが適当かということは、ひとによって違っているんでしょう。
     たぶんぼくはプロニートのPhaさんあたりと比べると多少は働き者属性が強くて、無職属性が弱いんだろうな。
     まあ、このブログをもっと更新したらいいのかもしれないけれど、どうも1日いくつも記事を更新するのは読者に負担が増えるようなんですよね。
     なので、日々、「うーん、どうしたものかなあ」などと唸っています。
     いや、その前に1日1本はちゃんと更新しろよって話ですが。今月、更新数少ないですよね。
     すいません。ちょっと気を抜くとこうなる。
     たぶん1日1本定期的に更新しつづけることが会員を維持するためにはベストだと思うんだけれど、これが意外にむずかしくて、書きすぎたり書かなすぎたりしてしまうんですよね。
     まあ、書くだけ書いてストックしておけばいいのかもしれないけれど、それだとブログの特長であるリアルタイム性が薄れて面白くなくなる。なかなかうまく行かないものです。むずかしい。
     話が逸れましたが、まあ、リアルライフを神ゲーにするためには、次の「目標」を設定しないといけないのだと思います。
     目標が決まればそこに至るまでの作業も決まるし、HHK(暇で暇で困っちゃう)状態も抜け出せるかと。
     まあ、限りなく贅沢な悩みといえばそうなのですが。
     で、そのためにとりあえず何か電子書籍を出したいなあと思っているのですが、じっさいに電書を出してもなかなか儲からない、わりに合わないという問題がありそうなんですよね。
     だから