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2013年10月の記事 87件

ポジティヴに絶望しろ。

【あきらめたらおしまいか】  「あきらめたらそこで試合終了だよ」とは、傑作漫画『SLAM DUNK』の登場人物、安西先生の名言である。  「あきらめないこと」のすばらしさを示すひと言として、『SLAM DUNK』でも最も有名なセリフだろう。しかし、「あきらめないこと」はいつも正しいのだろうか。ときには「あきらめること」も必要なのではないか。  もちろん、簡単に投げ出すことが良いとは思わない。過酷な状況でもあきらめないことは大切である。  ただ、それならあきらめなければ必ず結果が出るのかと云えば、そうではない。場合によっては目の前の出来事をあきらめ、先へ進むこともまた重要であるはずだ。  「あきらめたらそこで試合終了だよ」が間違えていると云っているのではない。  ただ、その真意を読み違えると、ひたすら「あきらめないこと」を賛美する一方、「あきらめること」の価値を見失う結果になりかねない。「ひたすらあきらめずに努力しつづければ、必ず結果が出る」という「努力神話」は有害なのである。  元プロアスリートの為末大さんはTwitterで書いている。 努力についての発言はいつも世の中の反応が多いように思う。努力すれば成功できるのかどうか。これはある意味で取引の社会では根幹を成す重要な事で、アメリカで感じたのはあの国はアメリカンドリームがあるのではなく、あると仮定しないと不満が爆発してしまうという事だった。 https://twitter.com/daijapan/status/394597841655455745 成功をある程度成功率が高いものにおくのであれば、努力すれば夢は叶うと思う。でも五輪選手になるとか、かなり少ない席の話であれば誰でもできるわけではなくて、才能と、環境がまず重要だと思う。そのスポーツをやる環境に生まれた事が、努力よりも先にくる。 https://twitter.com/daijapan/status/394598620093095936 努力には三つある。何を、どうやって、どのくらい。努力を怠らないと言っている人が、どのくらいだけを話している事が多い。自分で選んだ道でもなく気がついたら歩いていた道でただ耐えて積み重ねる事は努力を怠っているともいえる。選ぶ努力は結構辛い。 https://twitter.com/daijapan/status/394599506588622848  これらの発言を、ネガティヴなものと受け止めるひともいるかもしれない。いくら努力しても才能には及ばないのだからあきらめろ、と云っているのだと。  そうではない。ただ、努力が必ずしも成功に結びつかないという冷厳な現実を直視するべきだと主張しているに過ぎない。  あるいはそれは過酷な事実かもしれない。「頑張れば何とかなる」という幻想の、なんと甘いことか。  しかし、それは「自己責任」にすべてを帰す思想でもある。すべては本人の努力しだいなのだと考えるなら、成功できなかったひとは努力が足りなかったのだという結論になる。それはそれで、問題含みの考え方なのだ。  じっさいには、成功不成功には、環境や、運や、才能が大きく左右する。即ち、自分ではどうすることもできない状況によって変わってしまう一面があるのである。  良し悪しの問題ではない。現実としてそうなのだ。まずはこのリアルを受け入れなければならない。  「努力は才能を凌駕する」という教えは尊い。場合によってはそうかもしれない。しかし、一定の才能を持って生まれなかった人間は参入することすらできない世界はたしかに存在する。  生得で大方が決まってしまうことは、じっさいにありえるのだ。絶望的な事実だろうか。そうかもしれない。  しかし、その事実から目を背け、「努力すれば夢は叶う」という幻想に逃げ込むなら、待ち受けるものはさらに苦い挫折だろう。現実はご都合主義にはできていない。  それなら、特別な才能に恵まれなかった凡人はすべてを投げ出すよりほかないのか。  そうとは限らない。為末さんの言葉を思い出してみよう。「努力には三つある」とかれは云う。「何を」と「どうやって」と「どのくらい」だ。  一般には「どのくらい」だけが努力の尺度とされるが、じっさいには「何を」と「どうやって」を真剣に考えることが必要である。  そのことはようやく周知されるようになって来ている。これは漫画の世界にも反映されていて、「どのくらい」だけでなく、「どうやって」を重視する作品が増えてきている。 【ポジティヴに絶望する物語】  たとえば、最近、初版100万部突破で勢いがある『黒子のバスケ』だ。この作品は、ある意味、「あきらめること」から始まっている。  主人公である黒子には肉体的な意味でのバスケの才能はない。かれの身体能力は凡人以下なのだ。まして「キセキの世代」と呼ばれる天才たちと比べると、比較にならないレベルでしかない。  ところが、それでもなお、黒子はバスケを続ける。それもひたすらしゃにむに努力を続けるということではない。  自分のウィークポイントとストロングポイントがどこにあるのか、それをはっきりと自覚し、長所をのばしていくことでかれは天才に対向する。  『SLAM DUNK』と比べるとはるかに非現実的な設定の物語ではあるが、とても現代的な思想に貫かれている。自分にどんな才能がどの程度あるのか、冷酷なまでにはっきりと認識し、その上で戦略を組み立てていくこと。  これをぼくは「ポジティヴな絶望」と呼びたい。自分の能力の限界にしっかりと絶望しておくこと。その上で自暴自棄にならず、自分にできる努力を続けていくこと。それがいま必要とされる方法論ではないだろうか。  これは『ベイビーステップ』や『BE BLUES! ~青になれ~』などの現代スポーツ漫画の傑作を読んでいても思うことだ。  『ベビステ』の主人公は高校デビューのハンディを恨まず、嘆かず、自分の肉体能力の範疇で可能な限りの努力を続けるし、『BE BLUES!』の主人公はいちど事故によって歩けない躰にまで落ちながら再起をかけ立ち上がる。  かれらは紛れもなく努力の人ではあるが、その努力はかつての漫画とは質的に違っている。努力の内容を考えることに努力する、いわば「メタ努力」が絡んでいるのだ。そこには強烈な同時代性がある。  為末さんのツイートを受けて、 

ポジティヴに絶望しろ。

『劇場版魔法少女まどかマギカ[新編] 叛逆の物語』全力全開ネタバレレビュー!!!!!(2866文字)

 話題の映画『劇場版魔法少女まどかマギカ[新編] 叛逆の物語』を観た。以下はそのネタバレ記事。  もう一度云う。「ネタバレ」記事だ。初めから終わりまで鑑賞していることを前提に情報を公開している。映画未見の方は、悪いことは云わないから、読まないほうがいい。  あるいは、映画未見のうちに、テレビシリーズの安易な続編を予想して、大して内容に期待していない方もいらっしゃるかもしれない。  そういう方も、この記事を読んではいけない。とにかくまずは見てみるべき。内容については何も語らないが、テレビシリーズを何らかの形で楽しんだ人間なら見ておくいたほうがいい一作だと断言できる。ほんとうはそれさえ口にしたくないのだが――。  そういうわけで、以下はネタバレだらけである。覚悟して読んでいただきたい。Do you understand? 先へ進むことにしよう。  さて、映画をご覧になった方はおわかりの通り、『叛逆の物語』は紛れもなく叛逆の物語である。世界のすべてを見守る女神と化したまどかへの、暁美ほむらの叛逆の物語。  物語終盤、ほむらは「魔女」をも超え「悪魔」と化す。それはただひたすらまどかへの愛のため。そう、『叛逆の物語』はまたとなく過激なラブストーリーだったのだ。  ほむらのまどかへの愛(という名の欲望)は、まどかを神の座からひきずり下ろし、ひとりの少女に戻してしまう。  それは彼女の暴力的なエゴに過ぎない。しかし、それを云うならまどかの魔女救済もエゴである。どれほどの大義を背負っているとしても、個々の意志を無視し、かってに救いだしていることに変わりはない。  即ち、ここにおいて『まどマギ』は、世界の法則をも揺り動かす巨大なエゴがぶつかり合う壮大な神話的物語へ姿を変えたのである。  テレビ版『まどマギ』は、それはそれでひとつの衝撃的な、独創的な、そしてきわめて美しい物語であった。その上、めったにない完成度で完結している。  この名作にさらに屋上屋を架す意味はあるのか。多くのファンは考えたことであろう。そしていくらかの期待とともに不安と猜疑も抱えて劇場へ赴いたファンは、まず、圧倒的な演出と作画に遭遇する。  じっさい、この映画はただ美術品として見ているだけでも愉快だ。魔法少女たちの戦いの背景となる異空間、いわゆる「イヌカレー空間」はいっそうオリジナリティを増し、目も綾な、あるいはおぞましく毒々しい個性で観客に迫る。  また、ひとりひとりの魔法少女たちの愛らしさはどうだろう。まどかは、ほむらは、さやかは、杏子は、マミは、テレビシリーズをはるかに上回る繊細さで描きこまれている。  まどかが動く。観客の心も動かされる。ほむらが微笑む。愛くるしくてたまらない。一本のアニメーション映像作品として『叛逆の物語』は傑作と云うしかない。  その美しさ、怖さ、可憐さ、おぞましさ。どの面から見ても冴えている。なかでも魔法少女たちの変身シーンは出色。  映画のテンポは少々失速を余儀なくされるが、この、いっそ不安をそそるような映像美はどうだろう。思春期の少女の光と闇を描くアニメーションとして、これ以上のものはめったにない。  そして、その物語。今回、多くのファンが最も不安に思っていたのは脚本だろう。テレビシリーズの最終回がひとつの極北を示していただけに、もう「この先」はありえないのではないかという推測には妥当性があった。  しかし、凡夫の予測はしばしば現実に上を行かれる。結果として、『叛逆の物語』のシナリオは虚淵玄の最高傑作を究める。歴史的なマスターピースと云っていい。  たしかに、テレビシリーズの錯綜した人間関係を踏まえ、さらに多重的な逆転を仕込んでいるだけに、一定の難解さは禁じえない。作中の情報量は膨大、ひとことでも聞き逃がせばわからなくなってしまう。  とはいえ、それはあえて云うなら『新世紀エヴァンゲリオン』のような観客を突き放す難解さではない。状況は最大限に親切に説明されている。ただ映画の構造的な限界があるだけだ。  物語は終盤までほむらの内面世界を舞台に進行していくわけだが、それ自体はもちろんさほど独創的ではない。  奇才押井守の名作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を思い出したひとも多いだろう。また、そこから脱出しようとする後半の展開も特にサプライズはない。  しかし、クライマックス、魔女化を目前にしたほむらが、救済に訪れた「円環の理」ことまどかを掴み、「堕天」させる展開は、ほとんどの観客のイマジネーションの上を行ったに違いない。  この瞬間、『叛逆の物語』は単なる「非常によくできた続編」以上のものとなった。テレビシリーズの構造そのものが書き換えられ、物語宇宙全体が新たなステージへと足を踏み入れる。その戦慄。素晴らしいとしか云いようがない。  本作で何より心を打たれるのは、監督脚本を初めとする制作陣の誠実さであり真摯さだ。云い換えるなら無上の志の高さ。  おそらくはテレビシリーズのヒットを受けての当初の企画にはない続編であるにもかかわらず、あらゆる面で最高の品質が保たれ、一切の手抜きが見られない。  制作陣は至上の執念と情熱とでもって、それじたい奇跡的なマスターピースであったはずのテレビシリーズを超克する物語を生み出そうとし、成功したのだ。  叛逆の物語――ほむらはここで観測者インキュベーターの思惑をも超え、最愛の女神に叛逆する。待ち受けるはあるいは冥府魔道。祝福されざる魔性の道へ足を踏み入れた者には、女神の救済さえ及ばない。  だが、それでも 

『劇場版魔法少女まどかマギカ[新編] 叛逆の物語』全力全開ネタバレレビュー!!!!!(2866文字)

2013年、オタク業界は正道を歩んでいるか? ライトノベルの25年を踏まえ論じる。(2247文字)

【「萌え」への集約】  書店の一角でライトノベルの棚を眺めていると、つい物思いに耽ってしまうことがある。このジャンルも変わったものだ、と。  ぼくは黎明期からライトノベルを読みつづけている。『ロードス島戦記』、『フォーチュン・クエスト』、『スレイヤーズ』といった初期のヒット作からきょうの作品まで知っているわけだ。  その上で現在のライトノベルを見つめてみると、ある種の感慨がある。ほんとうに変わった。そして、その変化は、現在のオタク文化全体を象徴するものだ。  即ち、萌え美少女キャラクターの席捲と、そして物語内容の「売れ線」への集約。あらゆる作品に「萌え」美少女が登場するようになり、物語はその少女を中心としたものへ変わっていった。  もちろん、既に80年代、90年代において一部のファンの間で美少女キャラクターは人気を集めていた。しかし、ゼロ年代以降、「萌え」という言葉が生まれて以降の美少女キャラクターの氾濫は、やはりそれまでとは一線を画する。  何しろきょうのライトノベルのカバーを見れば、その大半に美少女が出ている。しかもきわめてよく似た絵柄だ。  もちろんぼくのような「熱心なファン」はその違いを見て取れるが、くわしくないひとは区別がむずかしいのではないか。それくらい個々の差が小さくなっている。  つまりはライトノベルは、イラストにおいても、物語においても、およそ四半世紀の時をかけてひとつの形に洗練されていったのである。そしてオタク業界全体も。  何もかもがより快楽的に、より欲望に忠実に完成された。2013年のライトノベルのエンターテインメントとしてのもてなしのよさは空前のものがある。  ヒット作を見れば、読者がひっかかる要素はことごとく排除されている。読者は物語へ気持ちよく入り、気分よく出て行くことができるのである。  それはどんな望みも叶う願望充足の小宇宙。思春期の少年が望むものすべてがそろっている――しかもすべてが微温な形で。  ぼくは皮肉を云っているつもりはない。このライトノベルの「萌えへの集約」は、ライトノベルがビジネスとして洗練されていくなかで生まれた必然の結末だ。  そして、その事象には正と負の側面がある。いつもそうなのかもしれないが、現在は極端に表れている。 【正の側面、負の側面】  正の側面とは、作品の数が増え、クオリティが上がり、サービス精神が増し、またインターネットのソーシャルメディアを用いて感想を共有できるようになったことだ。  個人的な好みはあるにしろ、20年前のライトノベルと現在のものを比べれば、やはり現在のほうが平均品質は上だろう。  あるいはそれは「素人だまし」に過ぎないとの意見もあるかもしれない。表面的な要素が改善したに過ぎず、本質的な点では劇的に変わってはいない、と。  しかし、そうだとしても、客層の大半がその素人である以上、かれらを魅了する作品を生み出すことは重要である。一部のマニアにだけ評価されればいいというものではない。  それでは、負の側面とは何か。ひと言で云えば、 

2013年、オタク業界は正道を歩んでいるか? ライトノベルの25年を踏まえ論じる。(2247文字)
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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