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記事 340件
  • 結婚の夢と現実を描く映画『ストーリー・オブ・マイライフ』が傑作。

    2021-06-10 23:51  
    300pt
     映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』を観た。観てしまった。
     タイトルの通り、オルコットの名作『若草物語』の映画化である。ぼくはあまりくわしくないが、過去、何度も映像化されている作品であり、日本でも「名作劇場」枠でアニメになっている。この映画はその最新のバージョンというわけだ。
     ただ、現代において、古典的な傑作を映画にする以上は、何かしら新たな解釈を求められる。だからぼくは最初、さてお手並み拝見といった感じで余裕しゃくしゃくに観ていたのだが、シリアスなテーマが浮かび上がって来るにつれてしだいに余裕がなくなり、最後には真剣に観入った。
     いやあ、これは素晴らしいですわ。まさに現代の傑作。ハリウッド映画ってまだこんなに美しい映画を撮れるのだなあ。凄い。
     物語の基本的な骨子は良く知られている『若草物語』そのままだ。メグ、ジョー、ベス、エイミー。それぞれ異なる個性を持つマーチ家の四人姉妹の少女時代が暖かな映像とともに綴られる。
     この四人の性格描写が絶妙で、長女としての責任を感じ大人びたメグ、奔放で破天荒なジョー、内気でおとなしいが優しい心を持ったベス、しょっちゅうジョーと喧嘩している勝ち気で頑固なエイミーと、四者四様のキャラクターが丹念に描かれていることはご存知の通り。
     しかし、この映画ではただオルコットの『若草物語』をそのまま再現するに留まらず、彼女たちの過去(少女時代)と現在(大人になってから)を交錯させながら描写することで、女性の生き方のむずかしさを描き切っている。
     女性の幸せが「結婚」にしかないと見られていた時代、自由な生き方を貫くにはどうすれば良いのか? はたしてほんとうに愛さえあれば人は幸せになれるのか?
     「愛」という感情と「結婚」という制度から構成されるいわゆるロマンティック・ラブ・イデオロギーに正面から疑義を突きつけていく展開は、まさに端正なフェミニズム映画といって良いだろう。
     もっとも、必ずしもそのような頭でっかちな解釈で見る必要はないかもしれない。何といってもそれぞれ負けず劣らずに美しく可憐な四人の少女たちを見ているだけで楽しい。
     長女メグを演じたエマ・ワトスンを初め、あたりまえのようにハリウッド映画らしい美人女優がそろっていて、きわめて花やかな映画である。
     ただし、『若草物語』のストーリーをまったく知らないと、過去と現在が錯綜する内容、特に序盤はいくらか混乱する可能性がある。おそらく、制作側は観客が『若草物語』の筋書きをそれなりに知っていることを前提に映画を作っているのだろう。
     そこは欠点といえば欠点なのだが、映画全体の素晴らしさを考えればささやかな瑕疵に過ぎない。これから観る人はひとつの愉快なエンターテインメントを観るつもりで気軽に鑑賞してほしい。
     物語の実質的な主人公は作家を目指すジョーである。四人姉妹のうち最も男まさりで自由闊達な性格をした彼女は、作家として身を立ててひとりで生きていくことを望んで幼馴染みのローリーのプロポーズも断わってしまう。
     だが、どうにかニューヨークに出て作家にはなったものの、「刺激的な」作品を求める編集者に合わせ、どうしようもなく俗悪なストーリーを綴る日々が続いている。
     いったい自分は何をやっているのか? 心中では疑問に思いながらも家族を養うためといいわけして自分の心をごまかしつづける彼女のもとに、妹のベスが病に臥せっているという報せが届く。ジョーは仕事を投げ捨てて家に帰るのだが、というところから物語は始まる。
     そこに昔日の家族の想い出の回想がインサートされていくわけだ。そのジョーたちの少女時代は全体に暖かな色調で描かれているのだが、一方で「現在」は寒々としたカラーが貫かれている。
     四人が四人とも、貧しい生活ではあっても、それぞれに自由で素直でいられた少女時代と、それぞれ生活の現実に追い立てられている大人時代が対比されているのである。
     そういう意味では、ロマンティックなラブストーリーに終始する作品ではまったくない。むしろ、「アンチ・ラブストーリー」といったほうが良さそうですらある。
     そう、全体を通して観てみると、この映画のテーマはあきらかだ。女性にとって「自由」と「結婚」は矛盾する、自由でありつづけたいと願うなら安易に結婚したりしてはいけないということなのである。
     ジェンダーフリーやリベラリズムが浸透し、女性もまたさまざまな生き方を選択できるようになった現代でもなお、どうしても愛や結婚に夢を見がちな女性たちに向け、シビアな現実を突きつけているといえるだろう。
     いや、ほんとうに凄い映画だ。感心したし、感動もした。しかも、物語そのものは単純に面白いのだ。うーん、素晴らしい。
     さて、この先は映画のクライマックスのネタバレを含みます。また、ここからは300円の有料部分となっているので、その点、よろしく。サブスクリプションに入会してもらうとこの記事はもちろん、他の記事の有料部分も読めます。 
  • 「生きものに感謝して食べる」って変だよね?

    2021-06-08 06:16  
    300pt
     いま、YouTubeで配信されている『100日後に食われる豚』という動画が話題らしい。
     「らしい」と書くのは、ぼくがこの動画にたいした興味もなく、きちんと調べてもおらず、くわしいことを知らないからである。
     タイトル通り、100日後に殺して食べる予定の可愛い豚の姿を配信しつづける動画らしいのだが、ほんとうにまったく興味が湧かないので、詳細に検索するつもりにすらならない。
     ウケ狙いのアイディアとしてはよくできているし、それはたしかにバズるだろうとは思うけれども、他人の動画がいくらバズったところでぼくには1円も入って来ないからね。まあ、どうでもいいといえばどうでもいい。
     が、この動画を巡る言説には興味がある。ぼくが見るところ、否定的意見としては「悪趣味だ」というものが多く、逆に肯定的意見には「食育として意味がある」といったものが多いようだが、両者ともじつに面白い。
     なるほど、こういう動画に対してはそういうふうに考えるのが一般的なのだなあ、と感心させられる。みんな、意外と善良なのか、それとも動物に対しては人間に対してほど非情になり切れないだけなのか、どっちなんだろ。
     ちなみに、この企画に携わっている某企業の社長はインタビューでこのように語っている。

    S社長 いま流行っているSDGs(持続可能な開発目標)の中に、食品ロスをなくそうという目標があります。教育の現場や企業など様々な取り組みがありますが、その取り組みの意義を十分にPRできていないと見ています。楽しんでもらいながら、食品ロスに関して自分たちの行動を見直すきっかけをつくってもらいたいと思い、企画しました。私たちが食べているものの中にある命の尊さを考えてもらいたいと思っています。
    https://news.yahoo.co.jp/articles/5e6869fdb456eb473eaa4282ff2ddfa230bf17ad

     ふむ、「命の尊さ」と来たか。何だろ。べつに食べても食べなくてもどっちでもいいとは思うのだけれど、こういう露骨に白々しいことはなるべくいわないでほしいですね。
     さすがにここまで胡散臭いことを堂々と語られると、ぼくのなかの消えやらぬ中二病ゴコロが反発しだしてしまう。
     いや、だって、ほんとうに命が尊いというなら、その尊いものを殺して食べちゃダメでしょ。尊い、尊いといいつつ一方的に生き物を殺害して美味しく食べちゃう行為にはどう考えても矛盾があるのでは、と思うのだ。
     ただ、もちろん、ぼくはだからこの豚を食べるべきではないとか、もっというなら人間は肉食をやめるべきだとか、そういうことをいうつもりはさらさらない。また、自分自身も肉食をやめようとは考えない。だって、焼き肉も唐揚げも美味しいものね。
     単に「命の尊さ」を掲げながら一方でその尊い命を食べることにはどうにも無理があるのでは、と感じるだけなのである。
     もっとも、このように語るとすぐに反論が返って来そうではある。そうではない、ここでいう「命の尊さ」とは、命のことを尊いと感じる知性を持ちながらも、それを食べることなしでは生きていくことができない人間が感謝の気持ちを抱きつつ命をいただくことを指しているのだ、命を尊いと感じることと命を感謝しながらいただくことは、べつだん何も矛盾していない、とか。
     そう、「命の尊さ」が云々と語るとき、必ず出て来るのがこの「感謝」というフレーズである。上記のインタビューにもこの言葉が登場する。

    ――「かわいそう」というコメントもありますね。
    A 想定の範囲内です。動画を投稿し始めたときは低評価が多かったのですが、4日昼時点での高評価は最大で92%、低いものでも66%です。視聴者の視点も変わってきているのかなという印象です。コメントでも「ブタはいつも食べているし、命に感謝しないといけない」、「いただきますを心を込めて言いたくなった」という感想が増えています。

     つまり、そこには何やら、人間は生き物のたったひとつしかない命をいただいているわけなのだから、その生き物に対するありがとうという気持ちを持って食さなければならない、という道徳があるらしいのだ。
     だが、あるいは申し訳ないことかもしれないが、ぼくはこの種のモラルもかなり怪しいシロモノだと考える。そもそも「いただきます」とはいうものの、ぼくたちが動物から命を「いただいて」いるというのは大いなるウソだろう。
     「いただく」とは「もらう」の謙譲語である。人間に食べられる動物たちはだれも「ぼくの命をあげるよ」などと許可を出してはいないのだから、人間が動物から「命をもらっている」という考え方はおかしい。「動物の命を一方的に奪って食べている」というほうが正確だ。
     どうも「動物を殺しているのだから感謝しなければならない」という道徳理念は、「自分が快適に生きるためだけに、ほかの動物を一方的に殺して食べている」という事実から目を背けるために利用されている気がしてならない。
     その意味で、ぼくは「食育」という概念に対してもかなり懐疑的である。子供たちに食の教育をほどこすなら、だれよりも大人たち自身が「生き物を食べるとはどういうことなのか」と真剣に考えなければならないと思うのだが「感謝の念さえ持っていれば殺して食べてもいい」というかなり倒錯的な観念で思考停止しているようにしか見えないからだ。
     いや、動物の殺害を「感謝」で正当化するのはやっぱり無理でしょ。一方的に殺して食べておいて「わたしの食欲を満たすために死んでくれてありがとう」などといいだすのはどうにもグロテスクではないだろうか。
     ただ、どうやらこの「感謝」という概念が「食育」の中核をなしていることはたしかで、農林水産省のウェブサイトを見ると、このように書かれている。

    食育基本法においては「食に関する感謝の念と理解」(第3条)として「食育の推進に当たっては、国民の食生活が、自然の恩恵の上に成り立っており、また、食に関わる人々の様々な活動に支えられていることについて、感謝の念や理解が深まるよう配慮されなければならない。」としています。また、平成28(2016)年3月に作成された第3次基本計画においても、重点課題の一つとして、新しく「食の循環や環境を意識した食育の推進」を定め、「食に対する感謝の念を深めていくためには、自然や社会環境との関わりの中で、食料の生産から消費に至る食の循環を意識し、生産者を始めとして多くの関係者により食が支えられていることを理解することが大切である。」としています。
    https://www.maff.go.jp/j/syokuiku/wpaper/h28/h28_h/book/part1/chap1/b1_c1_2_01.html

     いったい何に対する「感謝」なのか少しあいまいだが、どうも「自然の恩恵」に対するものでもあるような書き方である。
     しかし、あくまで意地悪く思考を進めるなら、「恩恵」とはいっても、自然動物はべつに対しどこまでも寛容に人間に自分を食べることを許して自分を恵んでくれているわけではない。
     「恩恵」とか「恵み」とはあくまで人間の視点から見てそういうふうに見えるというだけであって、一般に動物はみな、人間と同じように、もっと生きていたい、ほかの動物に食べられたくなどないという本能を抱いて生きていることだろう。
     それをあっさり殺して美味しく食べてしまうことを「恩恵」などと呼ぶことは、やはり少しくおかしい。
     とはいえ、だからといって「どうせ人間の身勝手で殺していることには違いないのだから、一切感謝したりする必要はない」というふうにシニカルな考えかたをすることも極端ではある。
     自分という人間が、生物が、ただ自分の欲望を満たすためだけに、ほかの生き物の命を奪いつづけて生きているという現実を淡々と直視した上で、その、素直に考えるなら恐ろしいともおぞましいとも罪深いとも受け取れるであろうことをどのように解釈していくべきなのか、何らかの哲学が必要になるところなのだろう。
     ぼくじしん、べつだん、何か簡にして要を得た究極の答えを持っているわけではない。ただ「感謝することが大切だ」という考えが安易に流れるなら、それは「とりあえず感謝さえしておけばいい」という思考停止と変わらないことになってしまうだろうとは思う。
     この世界は人間の目から見て残酷に思えるシステムでできているわけなのであり、人間にその残酷さを消し去ることはできない。また、はたして消し去るべきなのかどうかもわからない。
     そのことを明確に認識し、正確に洞察してなお、考えつづけることをやめない姿勢こそが大切だろうというのがぼくなりに思うところだ。それもまた、ひとつの欺瞞だといえばそうかもしれないが。
     さて、ここまでが、この記事の前半の無料部分。ここから先は『100日後に食われる豚』の「悪趣味さ」について、それははたして批判されるべきものなのかと考察していく。また、「ペット」と「家畜」の区分についても考えを進める。
     300円ほど払っていただくと読めるようになるので、ぜひどうぞ。ちなみにサブスクリプションに入ってもらうとほかの記事も含めて読めます。良ければよろしくお願いします。 
  • ほんとうに映画は幼稚な観客向けになったのか? 過去を美化し現在を否定する言説の問題とは。

    2021-06-04 02:25  
    50pt
     こんな記事を読んだ。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83647
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83706
     「「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81647)の続編で、「映像作品の観客が幼稚になってきている。あるいは、幼稚な観客の感想がネットによって可視化され、それが作品にフィードバックされた結果、作品もまた説明過多の幼稚なものになって来ている」という趣旨である。
     一読、なるほど、と思わせられる。たしかに、テレビ番組などは「説明過多」の傾向があるし、そこから論理的に考えるとそういう結論が出て来る。いや、まったくいまどきの映像作品は幼稚かつ低俗で困ったものだ……。
     うん? ちょっと待て。ほんとうにそうだろうか? この記事、論旨そのものはきわめてロジカルだし、うっかりするとつい安直に追随して「昔は良かったなあ」とかいいたくなる誘惑に満ちているのだが、それだけにここは眉に唾をつけて読んでみることにしたい。
     そうすると、色々と怪しい個所が見えて来る。たとえばこの記事の結論は、こうだ。

    「変えた、と言えば『シン・エヴァンゲリオン』がいい例ですよ。1995~96年のTVシリーズから25年間、ずっと“説明しない”でおなじみだった庵野秀明監督でしたが、『シン~』の終盤では、主要キャラクターが順番に登場して、心情をセリフで丁寧に説明してくれました。
    こんな親切な『エヴァ』は初めてです。庵野さんは常に時代に寄り添う人だから、“今はこういうターンだ”と思って、あえてそうしたんじゃないでしょうか」(佐藤氏)

     一瞬、たしかにそうだな、庵野さん変わったな、と思いたくなるのだが、ほんとうにそういえるのか。
     庵野秀明監督作品、特に『エヴァ』が「説明しない」作品だったことは事実だ。しかし、それは物語の背景設定について説明しないということであって、登場人物が心情をセリフで説明する側面がないということではないだろう。
     むしろ、『エヴァ』で名ゼリフとされているものは直接的に心情をセリフで説明したものが少なくない。何しろ第一話から「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」である。
     これは主人公・碇シンジの「そこから逃げ出してしまいたいけれど、逃げてはいけないと思う気持ち」をダイレクトにセリフで説明しているわけで、とても『エヴァ』が「セリフで説明しない」スタイルだとはいえない。
     よくよく考えてみると『エヴァ』の特徴はその直接さにあるとすら思えて来るくらいだ。たとえば「みんなもっとぼくに優しくしてよ!」のようなきわめて直接的なセリフは、どう考えても「登場人物の心情をセリフで説明」しているものだろう。
     そしてまた、物語の背景設定について説明を省いていることは『シン・エヴァ』でも同じである。あいかわらず「ゴルゴダ・オブジェクト」だの何だの、よくわからない専門用語が膨大に登場して観客を幻惑する。情報過多で一回見ただけでは把握し切れないスタイルは何も変わっていないのだ。
     たしかに『シン・エヴァ』にはきわめて「親切」な印象があるのだが、それは「登場人物が急に自分の心情をセリフで説明するようになったから」だとはいえないとぼくは考える。
     それでは、それまでの『エヴァ』と『シン・エヴァ』では何が違っているのか。それは、ひとつには登場人物のコミュニケーションが円滑に行われているということなのではないか。
     この記事は『シン・エヴァ』について語ることが趣旨ではないのでこの作品についてこれ以上は踏み込まないが、『シン・エヴァ』を例に出して「庵野監督はリテラシーが低い層にも通じるように心情をセリフで説明するようになって来ている」とはいえない。
     そもそも、前編で佐藤氏自身が語っている「口では相手のことを『嫌い』と言っているけど本当は好き、みたいな描写が、今は通じないんですよ」というのがほんとうなら、『シン・エヴァ』のアスカのシンジに対する態度はいまの観客には「通じない」はずではないか。
     『シン・エヴァ』におけるアスカの心情はそれこそセリフではほとんど説明されていない上に、愛情と嫌悪がないまぜになった非常に複雑なものである。もし佐藤氏のいうことが正しいのなら、それは「誤読」されて当然のはずなのだ。
     しかし、あの描写を見て「アスカはシンジのことが心から嫌いだから辛くあたっているんだな」といった感想を抱いた人はほとんどいないものと思われる。
     じっさい、ネットでは「アスカが何を考えているのかさっぱりわからなかった」といった感想は見かけない。つまりは、観客はアスカの「説明されない」複雑な心情を正確に把握することができているわけだ。
     ほんとうにいまはそういう描写が通じないのか、非常に疑わしいのではないか? ぼく個人の実感としては、むしろ現代のアニメは、特に京都アニメーションあたりの作品を代表格として、かつてでは考えられないくらい繊細な描写を行うようになって来ていると感じている。
     『リズと青い鳥』とか、『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』とかね。『リズと青い鳥』なんて、相当にリテラシーが高くないと理解できない非常に高度な脚本だ。
     また、昔のアニメやドラマや映画がそれほど知的だったのかというと、「ぼくの実感は逆」なのである。昔、そうだな、たとえば80年代とか90年代くらいのフィクションは一般にもっと「幼稚」だったとぼくは思っている。
     もちろん、その頃の作品も色々あったので、それを乱暴に総括して幼稚だの低俗だのいうことはできないことは当然だけれど、少なくとも大衆向けにヒットした作品には知的な意味ではろくでもないものが少なくなかった。 

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  • この世に「絶対悪」は存在するのか?

    2021-06-01 12:35  
    50pt
     先月はまったく記事投稿ができず、ごめんなさい。このような状態のブログにお金を払いつづけている皆さんに感謝を。ありがとうございます。そして、ほんとにごめんね。良い記事を書こうと思うほどどうしても手が止まってしまうのですよね。とほほ。
     さて、そういうわけで、今月一本目の記事から始めます。
     いま、Twitterを中心に「一般社団法人この指とめよう」という組織が話題になっています。これ(↓)ですね。
    https://yubitome.or.jp/
     「ネット(SNS)における誹謗中傷をやめよう」という、それ自体はだれにも文句のつけようがない立派なココロザシを掲げた団体なのですが、その理念を掲げる当事者本人たちが過去にさんざん誹謗中傷を行ってきたことを各方面から指摘され、まさに議論百出の状態にあります。
     その全体はもちろん把握し切れないのですが、「おまえがいうな!」という指摘は完全に正当なも
  • 電子書籍シリーズを始めたよ。もし良ければ買ってくださいのお願い。

    2021-05-21 23:50  
    50pt

     「サークル・アズキアライアカデミア」の電子書籍シリーズ「アズキアライアカデミアブックス」の第一弾として『「小説家になろう」の風景【新装版】 未利用者でも理解できる! 日本最大の小説投稿サイトの野蛮な魅力』が出ました。
     われらアズキアライアカデミアによる電子書籍出版の第一弾ということになるわけですけれど、まだ色々なことが未定で、たとえば出版社部分の名義は「アズキアライアカデミアパブリッシング」とか何かに変えるかもしれません。その点はご了承ください。
     ちなみに内容的には「旧装版」とは表紙が違っているだけで、ほかは何も変わっていません。せいぜいあきらかな誤字脱字を直したくらいです。さすがに申し訳ないので、もう一章か二章くらい、加筆修正をしたいなあと考えています。
     いまはちょっと試験勉強で忙しいので、もうしばらくしたらきっと書くぞ。
     本の中身は、「なろう」の研究というか、分析ですね。「なろう」についての論考はたくさん出ていますが、クリティカルに本質を捉えたものはなかなかない気がします。
     この本がそうだ!というつもりはさらさらありませんが、まあ、がんばって書いたものなので読んでいただけたらありがたいと思います。
     「旧装版」の出版からまだ一年も経っていないにもかかわらず、すでに情報が古くなっているところもありますが、それは加筆でどうにかフォローしたいところです。アニメ版『無職転生』の話題とかね。
     それにしても、自分が書いたものがAmazonに並ぶのはなかなか良い気分ですね。いや、いままでもたくさん電子書籍を出しては来ているのですが、過去の本はすべて自分で装丁を描いているので、いずれもどうしようもなくしろうとくさい表紙で、あまり本を出したという気になれなかったのですね。
     それと比べ今回はそこをプロに頼んでいるので、さすがに完成度が高く、「ふふーん」と鼻歌のひとつも歌いたい気持ちになります。歌わないけど。やっぱり何でもケチらずプロに頼むべきところは頼んでみるものだ。
     ちなみに第一弾ということは当然ながら第二弾以降もあるわけで、色々と企画を練っているところです。アズキアライアカデミアの本となると著者はぼくだけではないわけで、まあ、色々なものを出したい気持ちはあります。
     じっさいにどこまで実現するかはまだわかりませんが、少なくとも一冊出してそこで終わりということにはならないはず。今回は古い本の「新装版」に過ぎませんが、新刊のことも考えています。ちょっとまだ企画がまとまり切っていないのですが……。
     もうタイトルを出してしまいましょうか。『シュミ充になる! 灰色の日常をカラフルに色取る新時代オタクライフスタイル・マニュアル』というのです。
     「マインドフルネス」とか「フロー理論」とか「ゲーミフィケーション」とか「ロゴセラピー」とか「ナラティヴ・アプローチ」とか「弱者男性論」などというテーマを扱いたいなあとぼんやり考えているところです。
     つまりまあ、趣味を究めて幸せに暮らそう!という趣旨の本ですね。フィクション作品からは『弱キャラ友崎くん』、『その着せ替え人形は恋をする』、それから来月あたりメディアワークスから出る『オタク同僚と偽装結婚した結果、毎日がメッチャ楽しいんだけど!』などを取り上げるつもりです。いや、何もかも未定なんですけれどね……。
     ブログの過去ログも膨大なものがあるので、それらも少しずつ本として整理していけたら良いなあと漠然と考えています。1冊12万文字の980円くらいで出そうかなあ、とか考える。
     ちゃんとした表紙で出せば少しは売れるんじゃないかな。売れるといいな。まあ、売れなくても電子書籍だからリスクはないんだけれど。
     などと弱気のことを思ってしまうのですが、アズキアライアカデミアから出した同人誌は相当の冊数が売れているので、ぼくの本だってちゃんと宣伝すればそこそこ売れてもおかしくないと思うんですよね。
     1巻につき300冊くらい売れてくれると、それだけでぼくの生活はだいぶラクになるんだけれど、さすがに無理な話かなあ。うーむ。最初から本にするつもりでブログで連載企画をやるというのもありですね。夢は広がる。この際、キビシイ現実は見ないことにしておきましょう。
     ちなみに、上記の『オタク同僚と偽装結婚した結果、毎日がメッチャ楽しいんだけど!』は傑作なので、オススメです。ペトロニウスさんから教わったのだったかな?
     「カクヨム」で連載していた作品なのだけれど、ぼくは何となく読み始めたら嵌まってしまって最後まで読み終えました。非常に面白かったです。オタク自己言及系の作品としては、『その着せ替え人形は恋をする』と並んで最先端の一作ですね。
     というか、ここまで来るともうオタクという概念はあまり意味を為さないところがありますよね。どう見たって超絶リア充なわけで。かつてのオタク暗黒時代を知っている人間としてはもう涙なしでは読めません。ぼくたちは、幸せになったんだ。
     というあたりで、今日はトートツに終わります。あしたは試験なのです。でわでわ。 
  • なぜ人はわかりあえないのか? わかりあうためにはどうすれば良いのか?

    2021-05-17 16:52  
    50pt
     このツイートが非常に興味深かった。

    スゴ本ブログのDainさんにご紹介いただいたジェームズ・フランクリン『「蓋然性」の探求』がすごく良い本で、何というか、「なぜヒトは分かり合えないのか」が分かった気がする。読了直後よりも、時間が経ってからじわじわと効いてくるタイプの本だ。なぜ証拠を示されてもヒトは考えを変えないのか?
    現在では、定常宇宙論よりもビッグバン宇宙論のほうが正しいとされている。創造論よりも進化論のほうが正しいとされている。でも、その「正しさ」、言い換えれば「蓋然性」を、定量的に比較できない。私たちの科学哲学が未熟で、「どれほど正しいか」を数値化できないからだ。
    では、なぜビッグバン宇宙論のほうが蓋然的だと見做されるかというと、既知の理論や証拠との矛盾が少ないからだ。なぜ進化論のほうが正しいと見做されるかといえば、既知の理論や証拠との矛盾が少ないからだ。この〝既知の〟という部分がクセ者なのである。この世に、すべてを知っている人はいない。
    群盲撫象。
    https://twitter.com/rootport/status/1392871408082984969

     つまりは、現在の科学体系も含めた「たしかとされていること」とは、結局は「蓋然性」の問題にしか過ぎないという内容である。
     それでは蓋然性とは何かというと、辞書には「ある物事や事象が実現するか否か、または知識が確実かどうかの度合いのこと」と書かれている。つまりそれが事実なのかどうかという「たしからしさの度合い」という意味だろう。
     だから、上に書いたことをいい換えるなら、「いま、たしかとされていること」は「ある程度たしからしいということでしかない」ということになる。そして、それを「80%くらい正しそう」とか「63度くらい正しそう」というように「数値化」して「定量的」に示すことはできない。
     よってある事実が「ほんとうに正しいのかどうか」を議論することはきわめてむずかしく、結局は主観の域を出ないということである。
     もちろん、社会的に「ほとんど確実に正しいだろう」というコンセンサスが取れている事実はある。たとえば、地球は宇宙に浮かんだ球体である、といったことはそうだ。
     しかし、この先のツイートに書かれているように、それに対してすら反対する人はいる。そして、そういう人を説き伏せることはきわめてむずかしいのだ。なぜか? そういう人は頭が悪くてこの世の真実を理解できないから、といってしまうことは簡単だ。
     だが、そうなのだろうか? それは結局、自分の説の蓋然性を盲信しているに過ぎないのでは? 上記のツイートは、このように続いている(長々と引用してしまってごめんなさい)。

    地球平面説を信じる人々を追ったNetflixのドキュメンタリー映画『ビハインド・ザ・カーブ』には、実験で地球が平らであることを証明しようとする人物が登場する。もしも地球が本当に球体だとしたら、自転により1時間に15度回る。ジャイロスコープでそれを検証することで、球体説を反証しようとする。
    彼は2万ドルもするジャイロスコープを購入し、何時間経ってもそれが傾かないことを検証しようとした。地球が平らであり球体ではないことを、実験で証明しようとしたのだ。結果、ジャイロスコープはきっかり1時間で15度傾いた。
    それを見た彼の反応は「誤作動かもしれない」だった。
    彼の頭の中には(YouTubeの動画などで学んだ)地球平面説の〝証拠〟が、すでに1000個も2000個も詰め込まれていたのだ。だから、たった1つの「地球が丸い証拠」を発見しても、平面説を捨てる気になれなかった。球体説に蓋然性を覚えるよりも、実験装置の誤作動を疑うほうが、彼にとっては蓋然的だった。
    扱うものが地球平面説だから笑っていられる。でも、本質的には私たちと彼らの間に大きな違いはない。彼らが「地球が丸い証拠」を知らなかったように、私たちだって、すべての物事について万全の知識を持っているわけではない。今までの信念を捨てるよりも、それを守るようなロジックを創造してしまう。

     もし逆だったら、と考えてみよう。たったいま、何か「地球球体説」を覆し、じつは地球は平面だったことを証明するような決定的な証拠が見つかったとする。たとえば全能の神とか宇宙人が地球は球体だと見せかけていただけだったとか。
     そのとき、ぼくたちはその「事実」を受け入れられるだろうか? おそらく無理だろう。まず大半の人は「そんなわけはない」と考えるはずだ。それが常識的な考え方というものだ。
     じっさいに飛行機などで地球を一周している人もいるわけだし、宇宙から見た写真もあるし、と数々の「反証」を思い浮かべ、その説を否定するに違いない。しかし、それはジャイロスコープの「誤作動かもしれない」と考えた人と同じような発想なのではないか。
     すでに自分の頭のなかに「膨大な証拠」があるとき、それに反する「新しい証拠」を受け入れることはきわめてむずかしい。
     これはもちろん、極端な話ではある。しかし、人間は自分が信じている説を補強するようにしか考えない、そうでない証拠が見つかったとしても「めずらしい例外だ」としか考えない、そういう傾向はたしかにあると感じる。
     たとえばぼくは歴史的にいわゆる南京事件(南京大虐殺)が起こったことは事実だと考えていて、その説を否定するネトウヨをバカにしたりするのだけれど、ぼくの説の根拠も結局は絶対的なものではない。
     じっさいに膨大な「証拠」があることはたしかだが、つまるところ、ぼくの説もそのようなさまざまな「証拠」をパッチワークのようにつなぎ合わせて作り出した、ひとつの「物語」でしかないともいえるわけだ。
     それでもぼくがその説を信じるのは、ぼくにとってそれが蓋然性が高い物語であると思えるからだ。その説を信じることのほうが、たとえば「すべて中国の陰謀だ!」といった陰謀論を信じるよりぼくにとっては蓋然的に思われるのである。
     だが、先に述べたように、それが「どのくらい真実なのか」を「数値的」にいい表して比較することはできない。だから、結局は「信じるか、信じないか」の話でしかなくなってしまいがちだ。
     ということは、おそらく、たぶんぼくは「南京事件があったということは紛れもない真実だ。その証拠はこれだけある」というふうに主張するべきではないのだろう。
     そのかわり、「南京事件実在論の蓋然性は高く、非実在論の蓋然性は低いと考えるべきこれだけの理由がある」と話を進めていくほうが妥当なのだと思われる。だれであれ人と対話するときには、相手の説にも相手なりの蓋然性があると考えるべきなのではないだろうか。
     たとえ、それがたとえ地球平面説のようなぼくにとって限りなく蓋然性が低いように思える説であっても。
     インターネットで対話(ダイアローグ)が成り立たない最大の理由は、蓋然性ではなく「絶対の真実」を持ち出して話をするからだろう。
     「自分の意見は絶対に正しい」、「相手の意見は絶対に間違えている」。そういった意見同士の対立はどこまでいっても妥協点を見いだせない。それは結局は相手に自分の主張に対する服従を求めているに過ぎないからだ。
     このようなぼくの考え方はいかにも素朴な相対主義に過ぎないように見えるだろうか。しかし、Twitterあたりでのあまりに独善的な「絶対主義」を見ていると、まずは素朴な相対主義に立ち返りたくなるのである。
     もっとも、問題はその先だ。素朴な相対主義者のぼくは絶対主義者に対してどう振る舞うべきなのだろうか。
     たとえば「アンチワクチン」とか「Qアノン」、あるいは「ネトウヨ」とか「パヨク」とか「ツイフェミ」みたいな人に対して、ぼくはどう話していけば良いのか。
     ぼくがいわゆる「原発処理水」の問題に対し興味があるのはそこなのだ。ぼく個人は処理水の安全性を信じる立場を取る。それがなぜなのかというと、情報に一定の透明性があると考えるからだ。
     処理水は東電だけでなく、日本政府だけでもなく、国際原子力機関や漁業関係者などによってチェックされる(とされている)。これら複数の機関がそろって陰謀を巡らせていると考えるよりは、じっさいに処理水が基準を満たしていると考えるほうが、ぼくにとっては蓋然性が高い。
     しかし、世の中には国も東電もIAEAも信じられないというひるわけなのだ。その人にとっては「国や東電やIAEAが共謀しているかもしれない」という陰謀論は十分な蓋然性を持つ。
     そういうことをいわれると、ぼくとしては自分の説のほうが正しく、陰謀論は間違えているという話をしたい誘惑を感じるわけだが、その種の話し方は決して陰謀論者を納得させられないだろう。
     相手はすでに陰謀論に蓋然性を感じていて、それに背く証拠は「めずらしい偶然」としか感じられないだろうからだ。となると、ぼくは相手の説にも相手なりの蓋然性があることを認めざるを得ない。
     そして、ここで相対主義の欠点が露呈する。素朴な相対主義的には「しょせん互いの世界観の差の問題ですよね。どっちもそれなりに説得力がありますよね」という話に持っていくしかないわけだが、それで済ませるにはあまりに問題が巨大すぎるのである。
     それでは、いったいどうすれば良いのか。
     ミステリファンならすぐに名前が思い浮かぶことだろうが、ある世界的に有名な作品の推理小説のトリックで「容疑者全員が共謀して全員分のアリバイを作って上で被害者を殺していた」というものがある。
     これはある意味で陰謀論トリックといえるのではないかと思う。じつは容疑者たちにはある隠された共通点(ミッシング・リンク)があるのだが、それが見えないためにそれぞれの人物の動機が見えなくなっているのである。
     あるいは政府と東電とIAEAにもその種の「ミッシング・リンク」があるのかもしれない。その部分が見える人にとっては、陰謀論は真実に思えるわけだ。
     もちろん、それも蓋然性の、世界観の問題に過ぎない。そして、それぞれの蓋然性は定量的に比べることができないので「自分の説のほうがこれほど矛盾なく事象を説明でき、蓋然性が高いぞ」といったところで、究極的にははっきり比較する方法はない。故にこそ人は理解し合えず、異なる価値観の持ち主同士で対話は成り立たない。
     だが、それでも社会的に「事実」を決定していかなければならないことはある。「風評被害」という言葉があるが、「被害」がある以上、「加害」もあるはずだ。
     科学的安全処置がほどこされた「原発処理水」をあくまで「汚染水」と呼び、どこまでもその危険性を叫びつづけることは必然的に廃炉作業を遅らせることに加担する「加害行為」であるとぼくは考える。
     だから、そういう人たちがかれらの蓋然性にもとづき、どれほど「東電や国なんて信用できない!」と叫んだとしても、処理水は放出するべきであると考える。
     しかし、そういう態度は結局は社会の分断を深めるだけであるのかもしれない。それなら、いったいどうすればいいのか?
     まずはある種の相対主義という土俵に乗ってくれる相手を探すことなのかな、と思う。ロジカルに陰謀論がウソであることを証明することはできない。そして、自分の説の蓋然性を数値化して比較し相手を説得することもできない。
     そうだとすれば、相手にも「すべては蓋然性の問題である」と理解してもらった上で互いの世界観を比較していく。それくらいしかできないのではないか。つまりは絶対的な意味での「真実」や「正義」を捨て去ることである。
     ぼくは南京事件の実在を唱えるだけの理由があるが、それが絶対的な正義であり真実であるという考え方は捨てるべきだろう。その種の「正義」を抱えているかぎり、人はどうしても傲慢に相手を踏みにじろうとするからである。
     ただ、だからといって「どのような事実を物語として採用するのも各個人の自由だ」ということにはならない。その種の考え方はあまりに行き過ぎている。
     たとえ数値化し定量的に比べることができないとしても、それぞれの説に蓋然性の差はあるのであって、それは無視して良いものではないのだ。
     だからこそ、最終的に互いに理解しあえないとしても、対話には意味があるのである。ふと、そんなことを思った。あなたの考え方はいかがだろうか? 
  • 「議論」から「対話」へ。いつまでも続く不毛なやり取りを乗り越える方法論。

    2021-04-27 23:55  
    50pt
     あなたは「オープンダイアローグ」をご存知だろうか。おそらくご存知ではない方のほうが圧倒的に多いだろうと思う。それくらい(少なくとも日本では)マイナーな概念だ。
     すでに何冊か解説書は出ているものの、GoogleやYouTubeで調べてもあまり情報は出てこないし、いまのところ「知る人ぞ知る」言葉に留まっていると思しい。しかし、これが面白い。
     この記事の目的は、いま読んでいるあなたを「オープンダイアローグ沼」にひきずり込んで、可能であればオープンダイアローグをいっしょに体験してみたいというものだ。
     何しろ、「ダイアローグ(対話)」というくらいで、オープンダイアローグはひとりでは実践できない。最低3人、できれば5~6人くらいの参加者が欲しいのだ。
     しかし、友人連中を誘ってもほとんど乗ってこないため、ぼくはいま「対話仲間」を探し求めている。この記事を読まれた方は、よければぼくといっしょに「沼」に足を踏み入れてみてほしい。
     大丈夫。決して底なし沼というわけじゃないし、その先には、ちょっといままで経験したことがない領域がひろがっている、かもしれない。
    「オープンダイアローグ」とは何か?
     まずは「オープンダイアローグ」という言葉の説明から始めるべきだろう。それは、フィンランドのとある病院発祥の対話の手法である。何らかの精神病を初めとするさまざまな困難を抱えた当事者を関係者が囲んで対話を行う。
     ひと言で対話といっても色々なやり方があるわけだが、オープンダイアローグの特徴は関係者全員が車座になって話し合うところにある。
     そのなかにはいわゆる「患者」も含まれていれば、「医師」や「看護師」、「心理士」、「患者家族」も属することになるわけだが、そこに「医師は先生だから上」とか「患者は治療してもらう立場だから下」というような権力関係はないとされる。
     もちろん、そうはいっても現実にはそうはいかないだろう、と疑いたくなるところだ。やはり医師と患者のあいだには非対称な権力関係が必然的に紛れ込むのではないか、と。
     そう考えるのは自然なことだが、じっさいのオープンダイアローグの動画などを見てみると、この療法においてはわりとほんとうに対等に近い関係が維持されているように見える。
     これは「医師」と「患者」が一対一で向かい合う従来の治療現場では考えづらいことだろう。いままでの治療現場では、いわゆるカウンセリングもそうだと思うのだが、どうしても権力関係を排除し切れなかった。
     というか、二者が一対一で向かい合うと、そこにはどうしても権力関係が発生してしまうのだ。オープンダイアローグはその「閉じた」関係を三者以上の関係に開くことによって、権力をフラットにする。「開かれた対話」と名づけられたゆえんだろう。
     もうひとつ、オープンダイアローグには斬新な特徴がある。それは「患者のいないところで患者に関する話はしない」ということだ。つまり、患者の治療方針など、患者に関するすべての情報を患者や患者家族に対して公開してしまうのである。 通常は医師と患者には、病気についての情報格差があるものだが、オープンダイアローグではそれも存在しないことになる。
    オープンダイアローグのエビデンス
     オープンダイアローグの目的は、「患者」の「モノローグ(独白)」を「ダイアローグ(対話)」に開くことである。
     これは多くの方にご理解いただけると思うのだが、人間、ひとりで延々と考え込んでいると、ときに病的なほど不健康な方向に発想が飛躍していくものだ。
     その「不健康なひとり言」を「健康な対話」に開いていくための方法論、それがオープンダイアローグだということもできる。
     ここまで読んで、「なるほど。それは良さそうな対話のやり方かもしれないが、軽い悩みはともかく、重度の精神病などに対してはじっさいのところ、ほとんど効果はないのではないか」と思われた方もいるかもしれない。
     あるいは、オープンダイアローグに対して何か怪しげな印象を抱いた方もいらっしゃることだろう。つまりは疑似科学か代替医療のようなものなのではないかと思われた方の感性はまっとうである。
     しかし、そうではない。オープンダイアローグにははっきりと統計的なエビデンスがある。そして、驚くべきことに、いままで薬物療法以外はほとんど効果が見込めないとされていた重い統合失調症などもオープンダイアローグは治してしまえるらしいのである。
     もっとも、何しろ発祥は遠いフィンランドのことだから、いま、まだ日本では十分なエビデンスが積み重ねられているとはいえない。ただ、オープンダイアローグをアヤシイものと見ることはやはり一面的な見方であるとはいえそうだ。何しろ、たしかに効果があるというデータが上がっているのだから。
     Wikipediaによると、オープンダイアローグは以下のような成績を残している。

    この治療法を導入した結果、西ラップランド地方において、統合失調症の入院治療期間は平均19日間短縮された。薬物を含む通常の治療を受けた統合失調症患者群との比較において、この治療では、服薬を必要とした患者は全体の35%、2年間の予後調査で82%は症状の再発がないか、ごく軽微なものにとどまり(対照群では50%)、障害者手当を受給していたのは23%(対照群では57%)、再発率は24%(対照群では71%)に抑えられた。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B0

    オープンダイアローグはどのように行えば良いか?
     オープンダイアローグを行うためには、数年間にわたる研修を通して、それなりの技能と専門知識を身につける必要があるようだ。そして、いまのところ、その資格を取得している人は日本には何人もいない状況らしい。
     まあ、さすがにフィンランドまで行って何年もかけて資格を取って来るのはラクじゃないよね……。
     そういうわけで、しろうとが本格的なオープンダイアローグを行うことはむずかしいのだが、その形式を真似した「なんちゃってオープンダイアローグ」ならできるだろう。
     じっさい、オープンダイアローグの形式そのものはごくシンプルで、特に「秘密の技術」みたいなものがあるわけではないというから、何となくマネしてみるくらいならしろうとでもできる、らしい。
     何しろ、オープンダイアローグの日本への伝道師であるところの斎藤環さんの本にそう書かれている。そして、ぼくが何冊か本を読んでみたところでは、何だかとても面白そうなのである。
     オープンダイアローグは、かならずしも精神病の治療法に留まるものではない。じつに色々な悩みの解決に使える対話のやり方なのであって、日本ではひきこもりの解決に応用されることが期待されていたりする。
     というわけで! ぼくは一度、「オンライン(なんちゃって)オープンダイアローグ」をやってみようと思う。そのためにLINEでオープンチャットを作った。もしお暇な方がいらっしゃったら、ぜひ、入ってみてください。
     人数がそろったら(ほんの数名で十分だ)、スケジュールを合わせてやってみましょう。その際は、参加者のだれかが悩みを持ち込んでも良いし、だれも話したい人がいないようならぼくが悩みを吐き出させてもらう。
     もちろん、統合失調症は治せないと思うが、より軽い悩みなら案外軽くなったりすることもあるかもしれない。そうでなくても、失うものは特にないのではないだろうか。そう思われる方は以下のLINEオープンチャットにご参加を。よろ。
    「なんちゃってオープンダイアローグでお悩み解決!」
    https://line.me/ti/g2/3zLYUWG79aYjah4zR0BDyA
    「議論」ではなく「対話」の方向へ
     ここからは余談になるが、いま、ぼくがオープンダイアローグについて書いていて思い出すのは、ネット論客である青識亜論さんのことである。
     かれは一面でアンチフェミの立場に立ちながら、つねに「対話」の重要性を説き、意見が対立するフェミニストと「対話」を望んでいると語っている。
     それ自体は素晴らしいことだと思う。対話が途絶えるとき、暴力が生まれる。逆説的ではあるが、最も対話不可能と思われる相手とこそ対話を続けなければならない。ぼくもそう思う。
     しかし、一方でぼくは青識さんのともすれば攻撃的な姿勢に違和を感じるのである。かれは「対話」の相手を論理でもって徹底的に追い詰め、皮肉や揶揄で攻撃することをためらわれないように見える。それは望ましい「対話」の姿勢だろうか。
     ぼくには、青識さんは「対話」を望んでいるといいながら、その実、「議論」をこそ希望しているように見えてならないのである。というか、おそらく青識さんは「対話」と「議論」を同じ概念として区別していないのだろう。
     あるいは、「対話」を「議論」を包括した概念として捉えているのか。だが、ぼくにいわせれば「対話」と「議論」は異なる概念だ。
     何といっても「対話」の目的が「その対話を続けること」でしかないのに対し、「議論」の目的は「自分の理屈で相手を説得すること」である。違っていると考えることが当然なのではないか。
     ただ、言葉の使い方はそれぞれだし、ぼくには青識さんを批判する意図はない。その上でひとつ思うのは、ぼくの言葉でいう「議論」をいくら繰り返したところで、あまり相互理解は進まないのではないということだ。
     ぼくは最終的に「議論」は避けがたいにしろ、その前段階として「対話」が必要だと考える。何のために? お互いを知るためにである。
    問題の地下茎をさぐれ!
     べつに追従するつもりはないが、青識さんの論理展開はいつもクリアーで、きわめてわかりやすい。説得力もある。だが、それにもかかわらずかれは、少なくともいまのところフェミニストを説得することに成功していないように見える。
     もちろん、それは非論理的なフェミニストたちが悪いのであって、青識さんに責任はない――そうだろうか? しかし、その立場に立つ限り、アンチフェミとフェミニストはいつまで経っても平行線の「議論」を続けるほかないだろう。
     人間は結局、論理だけで納得する生き物ではない。初めから自分のなかで「正しさ」を決定していて、後から理屈を考えるようなところが、だれにでもあるはずだ。
     もちろんいうまでもなく、理想をいうなら、たとえ感情的に納得しがたい理屈であっても、論理がそれを指し示すのならきちんと受け入れていくことが合理的な姿勢であると思われる。
     ただ、それはやはり建前であって、現実はそうはいかないことが多々あると思うのだ。何より、「感情(お気持ち)」を論理の下位に置き、それを理屈で封印することを求める限り、現実的には「議論」はいつまでも先に進まない。
     あなたはインターネットで繰り広げられる「議論」がロジックのやり取りだけで綺麗に決着を見るところを見たことがあるだろうか。ぼくはない。それは人間がやはり、どんなに理性的に振る舞おうとしても感情を無視し切れない生きものであることの証左だと思う。
     だからこそ、そこで「対話」が必要となる。フェミニストが正しいのか、アンチフェミが正しいのか、そういった矛盾の故事をそのままなぞるような「絶対正義のぶつけ合い」はとりあえず脇に措いて、相手がどのような「お気持ち」を抱いていて、それがどういう環境から発しているのか、いわばその問題の地下茎を傾聴してみる姿勢がまず要るわけである。
     現在のインターネットで、その実現はむずかしいかもしれないが、それでもぼくはそのような意味での「対話」なくして「分断」の解決はありえないと考えている。
     対話こそは人間の叡智である。ぼくは対話の可能性を信じる。信じつづける。そして、そのためのひとつの方法論として、オープンダイアローグにはつよい関心を抱いているのである。 
  • 庵野秀明と「ほんとうに大人になる」というテーマ。

    2021-03-23 13:36  
    50pt
     皆さん、昨夜の『プロフェッショナル 庵野秀明スペシャル』はご覧になられたでしょうか。いやあ、凄かったですね! まだ未見の方は今後一週間は「NHKプラス」で見れるらしいので、ぜひ見てみてください。ほんとに凄いから。
     最初から最後まで期待通りの映像がわんさか。全部で75分なのだけれど、できれば3時間くらいの映画にまとめ直してほしいくらい。めちゃくちゃ濃密な時間でした。
     本編中でスタジオジブリの鈴木プロデューサーが庵野さんのことを「大人になりたかったのに大人になれない」みたいに語っていて、まあそうなのだろうなとは思うのだけれど、振り返ってみると、そもそも「大人」とは何なのだろうと考えざるを得ません。
     これは番組の最後で庵野さんが「プロフェッショナルという言葉は嫌い」と語っていることともパラレルな話で、つまり、形だけ大人になるとか、見た目だけプロフェッショナルになるといったことはある意味で
  • なぜ、話すことはできるのに書くことができない人がいるのか。

    2021-03-12 07:00  
    50pt
     ども。最近は毎日午前7時の更新をめざしているのですが、3日間もサボってしまって申し訳ありませんでした。いや、『シン・エヴァ』を見て帰宅してすぐ、感想記事を書こうとしたのよ? ところが、これが、書けない、書けない。
     いや、まったく書けないわけではないのだけれど、いくら書いても「これはちがーう!」となってしまう。あらためて『エヴァ』という作品の大きさと、自分のなかに残った爪痕の深さとを思い知ったありさまです。
     ネタバレなしの表面的な感想ならどうにか書けるかな?とも思うのですが、何しろ「面白かった」とか「素晴らしかった」とひとこと洩らすだけでもネタバレといわれる稀有な作品のこと、「完全にネタバレなし」ではほんとうに何も書けません。
     まあ、凄かったし素晴らしかったんですけれどね……。ええ、ぼくの『エヴァ』に対する四半世紀にほんとうに決着が着きました。「どうせまともな完結なんてしないに決まっている」とかいっていた連中に心から「ざまぁ」といってやりたいお気持ち。
     それ以上はほんとうにネタバレできないので、観たいと思う方はぜひ、早めに劇場へ向かってください。首都圏の方は緊急事態宣言との兼ねあいもあって大変なこともあるかと思いますが、いくらか努力して見るに値する作品です。
     とりあえず、ぼくも頑張ってネタバレ感想記事を書きます。はい。
     さて、そういうことなのできょうは何について書こうかな。『黒猫if』の最新刊が出ていますがまだ読んでいないので何も書けない。そうですね、ちょっと「文章の書き方」について書いておこうと思います。
     このあいだ、ある所でこのテーマについて話をする機会があったのですが、そこでちょっとした発見があったのですね。「なぜ文章を書けない、あるいは極端に書くことが苦手な人がいるのか」ということです。
     いや、いままでずっと不思議だったんですよ。「なぜ、会話はできるのに文章は書けない人がいるのか」と。だって、言葉を紡ぐという意味では会話も文章も同じでしょ?
     しかも、会話がすばやくリアルタイムにやらないといけないのに対し、文章はある程度の時間をかけることができる。本質的に文章を書くほうが会話をする楽なはずで、会話ができるなら文章も書けるのが当然なのではないか、とそんなふうに思っていたんですね。
     でも、よくよく考えてみればごくあたりまえのことなのですが、会話と文章ではひとつ大きな差異があるんですよね。いや、ほんとうに当然以前のこと。そう、会話には「相手」がいるけれど、文章はすべてひとりで考えなければならないのです。
     これが、 
  • 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』最新・最速ネタバレレビュー「碇シンジは戦慄と終局のファイナル・インパクトに何を見たか?」のただの予告。

    2021-03-08 07:00  
    50pt
     そういうわけで、この更新から1時間半後の8時半からの初回で『シン・エヴァ』を見て来ます! 見終えたら記事を更新するからよろしくね!
     LINEにネタバレオープンチャットを作りましたので、参加したい方はご自由になさってください。ただし、通知欄にネタバレ書き込みが行く可能性があるため、映画を見たあとの参加を推奨します。
     いやあ、わくわくしますねー。では、また、鑑賞後に。
    ・オープンチャット「『シン・エヴァンゲリオン劇場版』ネタバレトーク専用チャット」
    https://line.me/ti/g2/WC8dmRJ_E_HGvDH3ZkDYVw?utm_source=invitation&utm_medium=link_copy&utm_campaign=default