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記事 287件
  • なろう小説への批判は成立するのか? 夏目漱石と「信長の料理人」で考える。(再送)

    2020-10-15 17:08  
    50pt
     「コンテンツ生成システム化する「小説家になろう」系WEB小説群」という記事を読みました。いまや「コンテンツ生成システム」と化しているという「なろう小説」についていくらか批判的かつ揶揄的に語った内容で、以下のようなことが書かれています。

     商業化した小説も、無料で読めるなろう連載版も同じ文字ですから、なろう掲載時に応援していた読者が商業化した小説を買い求めるのはご祝儀的な意味がけっこうデカいことは想像がつきます。あとはヒロインがどんな姿格好でイラストになっているか、とか。わりと買っても読まないよね、出版されたなろう系小説。スマホでダラダラ流し読みできるから商業化してクオリティが一定担保されている小説よりなろう系を選んできたわけだから。フォーマットが不便になってさらに有料になったともとれるわけです。
    https://note.com/tabloid/n/ne58358f43d60

      「
  • 電子書籍『新世界系の風景(仮)』を出したい。(再送)

    2020-10-15 17:05  
    50pt
     ブロマガの不具合で記事のメールが送れていないようなので、再送します。 以前からちょこちょこ書いている通り、新たに電子書籍を出したいと思っていて、テーマを見つくろっています。
     で、本を一冊しあげるとなるとそれなりの内実が必要になるわけで、まあ、やっぱり「新世界系」の話をまとめるのが良いのかなーといまは考えております。
     『進撃の巨人』が結末に近づき、『約束のネバーランド』や『鬼滅の刃』が完結したことで、新世界系はだいぶ見晴らしが良くなったというか、「結局、こういうことだったんだよね」と見えて来た感がある。
     ペトロニウスさんあたりはだいぶ前から「新世界系はもう終わった概念だよね」といっていますね。
     一方で、「ポスト新世界系」ともいうべき『チェンソーマン』みたいなマンガも出て来ていて、ここら辺で一度、「新世界系とは何だったのか?」とまとめておく必要性を感じます。
     内容はこんなものを考え
  • なろう小説への批判は成立するのか? 夏目漱石と「信長の料理人」で考える。

    2020-10-14 19:03  
    50pt
     「コンテンツ生成システム化する「小説家になろう」系WEB小説群」という記事を読みました。いまや「コンテンツ生成システム」と化しているという「なろう小説」についていくらか批判的かつ揶揄的に語った内容で、以下のようなことが書かれています。

     商業化した小説も、無料で読めるなろう連載版も同じ文字ですから、なろう掲載時に応援していた読者が商業化した小説を買い求めるのはご祝儀的な意味がけっこうデカいことは想像がつきます。あとはヒロインがどんな姿格好でイラストになっているか、とか。わりと買っても読まないよね、出版されたなろう系小説。スマホでダラダラ流し読みできるから商業化してクオリティが一定担保されている小説よりなろう系を選んできたわけだから。フォーマットが不便になってさらに有料になったともとれるわけです。
    https://note.com/tabloid/n/ne58358f43d60

      「読まないよね」ということですが、じっさいに読んでいるぼくからすると「そんなことはない」としかいいようがありません。 そもそもあれだけ膨大な数が出ているなろう小説が一般に「ご祝儀的な意味」で買われている側面が大きいと見るのは無理があるんじゃないかな。やっぱり読まれているからこそ売れていると見るのが当然だと思うのですよ。
     昔は商業出版されるときにはウェブ掲載された作品を削除したり、ダイジェストに変えたりしていましたが最近はそれも少なくなったところを見ても、商業出版とウェブではべつの市場があると考えることが妥当なのではないかと思います。 
     もちろん、同じ作品を「小説家になろう」で読めば無料であるわけですが、商業版を買う読者はいちいち「なろう」に読みに行ったりしない気がします。
     それがなぜなのか、イラストがあるからなのかそれとも紙の本という形式に愛着があるのか、それはわかりませんが、ぼく自身も「なろう」ではほとんど作品を読まず、本を買って読んでいますからなんとなくわかるような気がします。
     それでは、なぜ「なろう系」は読まれるのか。上記記事ではなろう小説の「クオリティ」の低さが嘆かれていますが、ぼくはこの見方には懐疑的です。そもそも従来のラノベがいうほどクオリティが高かったのかが疑問です。
     たしかに誤字脱字は相対的にチェックされていたかもしれませんが、「なろう系」との差はその程度じゃないかなあ。そもそも「なろう系」の「クオリティ」の低さを笑おうにも、ラノベ自体がさんざんその「クオリティ」の低さを批判されてきたジャンルであるわけです。
     純粋に小説を「クオリティ」で評価するならすでに名作という評価が確立された古典を読みますよね。それでは、ラノベのターゲットだった若い読者は『吾輩は猫である』や『細雪』や『伊豆の踊り子』や『金閣寺』を読むのか。読まないですよね。そのかわりに「クオリティ」でははるかに低いと思われる『スレイヤーズ!』やら『涼宮ハルヒの憂鬱』やらを読んできたわけです。
     なぜか。そこに「いまの空気」があったからでしょう。つまり、ラノベ読者は一貫して「クオリティ」よりも「同時代性」を重視して小説を読んできたわけです。ラノベ作家たちもそれを良しとして「クオリティ」より売れること、ヒットすることを重視して作品を生み出してきたといって良いでしょう。
     それなのになろう系が出てくると突然に「クオリティ」を問題にしだすのは、それだけでも従来のラノベがエンターテインメントとして古くなったことを感じさせます。なろう系は「コンテンツ生成システム」と化しているというけれど、それでは従来のラノベは違ったの?という話です。
     従来のラノベだってマンガやアニメといったメディア展開なしには成立しない構造をしていたとぼくは思います。べつになろう系が出て来て何が変わったわけでもない。
     ただ、従来のラノベがさらに「ラノベらしい」作品群の登場によって一世代古いものになってしまっただけのことです。従来のラノベの関係者がそれを笑うのは、まさに天に唾する行為だといえるでしょう。
     また、もっというなら「クオリティが低い」と批判することは小説に一定の「クオリティ」の基準が存在することを前提としているわけですが、そもそも小説の「クオリティ」とは何か、という話があると思うのですよね。
     まあ、文章力とか構成力とか、いろいろあるとは思いますが、すべての読者がそういった基準に賛同するわけではありません。文章なんてどうだっていい、それよりキャラクターだなどと考える読者は大勢いるだろうし、べつだん、それが間違えているともいえないわけです。そもそういう価値観を示してきたのがライトノベルなのではなかったでしょうか。
     ただ、だからといって一読者としては「売れていれば何でも良いのだ」と開き直る気にはなれません。売れるか売れないかはビジネスとして小説を見るとき重要な基準になるでしょうが、読者、あるいは消費者にはまったく関係ない話だともいえます。
     読者としてのぼくはやはり自分が「良い」と思う作品を選んで読んでいきたいし、できれば作家にもぼくの価値観で「良い」と思える作品を生み出してほしいのです。ただ、それがかならずしも商業的成功につながるかというと、それはわからない。
     だから、小説の商業的成功と「クオリティ」にはしばしば矛盾が存在する。自分が考える「クオリティ」を追求すればするほど売れなくなるということがありえるのです。また、逆に「クオリティ」が低いものを出すほうが売れるということもある。
     望公太さんの『ラノベのプロ!』という作品に、このようなセリフがあります。

    「読者の需要に応えるのがプロ作家の仕事だよ。僕はただ、読者のために書いてるだけ……みんなが求めているんだよ。二番煎じを、劣化コピーを、後追いを、便乗商法を、パクリを、トレスを、テンプレを、レプリカを、シェアワールドを、類似品を、粗悪品を……求めているのは、他でもない読者なんだ」

     「トレス」と「シェアワールド」は違うだろう、とは感じるもの、一面、非常に的確に商業小説の問題を指摘したセリフだと思います。というか、ひとつ商業小説、あるいはライトノベルの枠を超えて、「商品を売ること」が孕む問題を指摘しているといって良い。
     つまり「クオリティ」が低いもののほうが売れることがありえるとしたら、あえて「クオリティ」の低いものを売ることは許されるべきかどうか、というビジネスモラルの話ですね。
     作中、このセリフを放った本人はそれを朗らかに肯定してしまうのですが、主人公は反発します。ただ、反発するだけで的確に反論することはできない。やはりビジネスとしてラノベを選んだ以上、ひたすらに「クオリティ」にこだわることはかれにもできないわけなのです。
     ぼくはここで料理漫画の傑作『ラーメン発見伝』を思い出します。この作品の敵役にして陰の主人公ともいうべき存在は「ラーメンハゲ」こと芹沢達也です。かれはまさに自分が最高だと考えるラーメンを売りつづけ、理解されず、自分が駄作だと考えるラーメンのほうが評価されるという経験をします。その結果、かれは自分のラーメンをたべる客を信じられなくなってしまうのです。
     その経験を通して芹沢は「プロ」になります。自分ほど鋭くない客の味覚、あるいは価値観にアジャストするラーメンビジネスの「プロ」に。それが「堕落」だったのか、それとも「成長」と呼ぶべきなのか、それはわかりません。しかし、ともかく作中で芹沢は「プロ」の論理でもって「優秀なアマチュア」に過ぎない主人公のまえに立ちふさがります。
     この例を見ればわかるように、「プロ」であることを選ぶか、それとも自分の信じる「クオリティ」を重視するかということはむずかしいところです。
     夏目漱石の『それから』に、「食ふために働く」ことに関する有名なやり取りがあります。

     「つまり食ふ為ための職業は、誠実にや出来悪にくいと云ふ意味さ」
    「僕の考へとは丸で反対だね。食ふ為めだから、猛烈に働らく気になるんだらう」
    「猛烈には働けるかも知れないが誠実には働き悪いよ。食ふ為ための働きと云ふと、つまり食ふのと、働くのと何方が目的だと思ふ」
    「無論食ふ方さ」
    「夫れ見給へ。食ふ方が目的で働く方が方便なら、食ひ易い様に、働き方を合はせて行くのが当然だらう。さうすりや、何を働いたつて、又どう働つて、構はない、只麺麭が得られゝば好いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」
    「まだ理論的だね、何どうも。夫で一向差支ないぢやないか」
    「では極上品な例で説明してやらう。古臭い話だが、ある本で斯こんな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱へた所が、始めて、其料理人の拵へたものを食つて見ると頗る不味かつたんで、大変小言を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を食はして、叱かられたものだから、其次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがつて、始終褒められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の為に働らく事は抜目のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために働く点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」
    「だつて左様しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
    「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働きでなくつちや、真面目な仕事は出来できるものぢやないんだよ」

     ここでは生活のために働くこと、つまり「プロ」であることは「堕落」であるとして否定されているわけです。つまり、料理人であるならば客の嗜好にかかわらず、自分の信じる「一流」の料理を提供することべきである、それが「誠実」な料理人のあり方だということでしょう。
     その意味で、客の好みに合わせざるを得ないプロの料理人はすべて「堕落」していることになる。しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。
     早見慎司さんに「終夜図書館」という傑作短編があります。この作品のなかでは、時代に合わなくなって売れなくなった作家たちが集められ自分の好きな作品を好きなように執筆しています。
     『それから』で語られた意味ではまさに作家の理想郷ということになりますが、おそらく作家自身が仮託されていると思しいこの作品の主人公は、そこに不気味なものを感じ、その場所を拒否するのです。
     なぜその「図書館」は不気味なのか。それは、そこに客という名の「他者」がいないからでしょう。「他者」がいない小説、それはどこまでいっても自己満足です。べつだんそれがすべて悪いというわけでもないでしょうが、「他者」と交流するために小説を書いてきた主人公にとっては、まさにそれこそが「堕落」に思えるわけです。
     つまり、ここでは『それから』とは逆方向の「堕落」が描かれていることになる。いったいどちらが正しいのか。もちろん、いずれが正しく、いずれが間違えているというものでもないでしょう。
     じっさいのところ、ほとんどのプロ作家は、信長の料理人のようにひたすらに客の欲望に即してアジャストするわけでもなく、そうかといってただ単に自分の我を通しつづけるわけでもなく、そのあいだのどこかで「すりあわせ」を行っているものと思われます。
      ここで重要なのは、作家の考える「クオリティ」とは絶対的なものではなく、あくまでその作家個人の価値観に過ぎないということです。信長の料理人は信長に「一流」の料理を出したと信じていたかもしれませんが、信長にはべつの価値観があり、その価値観ではそれは二流、三流の料理に過ぎなかったとも考えられるわけです。
     そうであるなら、あくまで自分の信じる「一流」の料理を出すか。それとも信長の考える「一流」に合わせるか。いいえ、そうではなく自分の信じる「一流」と客の考える「一流」をかぎりなく一致させようと努力する人を、ぼくは「真のプロ」と呼びます。
     もちろん、世の中にはただ自分の考える一流品を出せば客にも喜ばれるという人もいて、そういう人は「天才」と呼ばれたりしますが、その天才ですらいつまでもその「蜜月」が続くわけではありません。いつかは作家と客の価値観はずれていきます。
     そのとき、作家は自分と客の価値観の「すりあわせ」を行わなければならない。自分の信じる一流を放棄するのでもなく、客の考える一流を無視するのでもなく、その両者を満足させる作品を模索する。きわめてむずかしいことではありますが、それが「真のプロ」だと思います。
     ぼくはそういう「真のプロ」を高く評価します。その意味で、一概になろう小説を否定する気にはなれません。作家にはただ自分が「クオリティが高い」と信じるものを出す「優秀なアマチュア」の道でもなく、ひたすらに客の嗜好に合わせる「二流のプロ」の道でもなく、「真のプロ」の道を行ってほしい。それはあまりに望みすぎでしょうか。しかし、ぼくは本心からそう思うのです。
     なろう系の「堕落」を笑うことはたやすいでしょう。しかし、それが何を意味するのか、エンターテインメントはどうあるべきなのか、よく考えてから笑うことにしたいですね。
     おしまい。
     
  • 電子書籍『新世界系の風景(仮)』を出したい。

    2020-10-14 19:02  
    50pt
     以前からちょこちょこ書いている通り、新たに電子書籍を出したいと思っていて、テーマを見つくろっています。
     で、本を一冊しあげるとなるとそれなりの内実が必要になるわけで、まあ、やっぱり「新世界系」の話をまとめるのが良いのかなーといまは考えております。
     『進撃の巨人』が結末に近づき、『約束のネバーランド』や『鬼滅の刃』が完結したことで、新世界系はだいぶ見晴らしが良くなったというか、「結局、こういうことだったんだよね」と見えて来た感がある。
     ペトロニウスさんあたりはだいぶ前から「新世界系はもう終わった概念だよね」といっていますね。
     一方で、「ポスト新世界系」ともいうべき『チェンソーマン』みたいなマンガも出て来ていて、ここら辺で一度、「新世界系とは何だったのか?」とまとめておく必要性を感じます。
     内容はこんなものを考えているところ。もちろん、いまはまだまったく手を付けてはいませんが……。
  • ぷあぷあ。

    2020-08-10 11:47  
    50pt
     例によって間が空いてしまって申し訳ありません。何をしていたかというと、しゅーしょく活動をしておりました。この歳(42歳)になっていまさらしゅーしょくも何もないものだとは思いますが、現実的にお金がないので仕事を探すことにしたのです。
     とはいえ、精神障害でひきこもり20年、経歴の空白ありありのありとなると、なかなか仕事を探すこともむずかしい。現在、非常に迷走しています。
     精神障害者の平均月収を知っている方はいらっしゃるでしょうか? 何と、12万円ちょっとなんですよね。とてもひとりで暮らしていける額じゃない。
     もちろん、その背景には色々な事情があるのでひとことで是非を語ることはできませんが、まあ、障害を抱えている人間が就職してもその程度の額に留まる。
     精神障害者の仕事はほとんどが法律が決めている最低賃金です。わが県だと時給800円と少し。ちょっとね、どうしようかと思いますよね。
     でも
  • 時の波濤と砂の城。そして「ハイ・プラトー・エクスペリエンス」。

    2020-07-25 20:50  
    50pt
     どもです。先日、陰キャをやめて陽キャとして生きることを決意した海燕です。このまま行くと光属性のリア充になるまであとわずかといえるでしょう(?)。
     具体的に何が変わったかというと、「希死念慮(死にたい気持ち)」が消えてなくなりました。「将来への不安」とか「過去への悔恨」もどこかへ行ってしまいました。そして「強い怒り」や「暗い憎しみ」も、また。
     結果として「心の平穏」だけが残り、「静かな丘のうえにたたずむような気持ち」で日々を生きています。まあ、完全に感情の揺らぎがなくなったわけでは(もちろん)ないけれど、それでも激しい気分のアップダウンはほぼなくなりました。
     いまはもう、いわゆる「ネガティヴな感情」はほとんど感じません。いや、当然あしたにはどうなっているかはわからないわけですが、その「あした」の心配まで背負って生きることはどうやらなくなったようです。
     まだまだ「悟り」とまでは行かなくても、いままでの自分から考えると格段の進歩といえるのではないでしょうか。心理的な意味での「マイナス」がほぼなくなったというところです。ここまでたどり着くまで長かった。じつに40年もかかっていますからね。
     ぼくはだいたい幼稚園児の頃から心配性でネガティヴな性格の子供で、そのためにいろいろな損をして生きてきたのですが、ようやく「人生の方向転換」に成功したかもしれません。たとえ一時的なものに過ぎないかもしれないとしてもね……。
     そういうわけで、とりあえずそこそこ幸せに暮らしているのですが、ここに「大きなプラス」、つまり何らかの「素晴らしい至福」や「大いなる歓喜」を加えるにはどうすれば良いかと考えています。
     たとえば「人間性心理学」の開祖として知られ、「欲求五段階説」で有名なマズローは、「人生は素晴らしい!」としみじみと感じ入るような瞬間のことを「至高体験(ピーク・エクスぺリエンス)」と呼んでいます。
     さらにこの「至高体験」が長きにわたって続くと「高原体験(ハイ・プラトー・エクスペリエンス)」と呼ばれる状況になるのだとか。
     これは「人間の第六の欲求」である「自己超越」と密接に関わった概念で、ここまでたどり着くと人は人生の価値、そして意味を深々と悟ることになるらしいです。
     ぼくもそこまで行きたいなあと思ったりします。もっとも、マズローによると「至高体験」は求めて得るものではないらしいのですが。
     ちなみに、このマズローの思想から派生したのが「個」を超えた精神を仮定するいわゆる「トランスパーソナル心理学」です。
     ただ、そこまで行くとかなり怪しげというか、スピリチュアル風味な世界に突入します。いやまあ、まったくのインチキとも思わないけれど、眉に唾を付けておいたほうが良さそう。
     もっとも、至高体験やチクセントミハイの「フロー」はどうやら実在する観念であって、何やら幸福の実感や極度の集中と関係があるらしい。
     この種の感覚を抱いたまま生活しているひと握りの人たちは、たとえ金銭や社会的名誉に恵まれていなくても、「ほんとうに幸せな人々」といえるでしょう。ぼくもそうなりたい。なりたいぞ。
     もっとも、その幸せも永遠に続くものではありません。かれらがひとりの人間としてどんなにいまを幸福だと感じていても、何十年か経てばすべて消え去ってしまう性質のものです。
     その「弱さ」、あるいは「儚さ」こそがひとつ人間のみならず、この地上のあらゆる存在の本質でしょう。その意味ではおよそ人間の行為とはひとしなみに時の波濤のまえで砂の城を築くような真似であるに過ぎません。
     どれほど壮麗な砂の城砦を建ててみせても、「時」はあっさりとそれを消し去っていく。ぼくはそのことを想うとき、古代の覇王ラムセス二世を詠ったシェリーの詩『オジマンディアス』を思い出します。

    古の国から来た旅人に会った
    彼は言った――「二本の巨大な胴を失った石の脚
    沙漠に立ち……その近くに、沙(すな)に
    半ば埋もれ崩れた顔が転がり、その渋面
    皺の寄った唇、冷酷な命令に歪んだ微笑
    工人その情念を巧みに読んだことを告げ
    表情は今なお生き生きと、命なきものに刻まれながら
    その面持を嘲笑い写した匠の手、
       それを養った心臓より生き存らえて
    そして台座には銘が見える。
    我が名はオジマンディアス、〈王〉の〈王〉
    我が偉勲を見よ、汝ら強き諸侯よ、そして絶望せよ!
    他は跡形なし。その巨大な〈遺骸〉の
    廃址の周りには、極みなく、草木なく
    寂寞たる平らかな沙、渺茫と広がるのみ。」――

     あるいは『平家物語』の冒頭でも良いでしょう。

    祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
    沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
    奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
    猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。

     ここで語られているものはつまり「無常」、この世界のどのようなものもいつまでもは続かないという真理です。この真理をまえにして多くの人は「栄枯盛衰の儚さ」を悟り、「何もかもむなしい」と感じるのではないでしょうか。
     時の波濤はこの世のすべてを押し流すのです。すべての花々はいつか枯れ、すべての恋びとたちはいつか別れ、すべての城砦はいつか朽ち、すべての国はいつか亡ぶ。
     その絶対の摂理、「この世界のグランド・ルール」をまえにして、いったい人生に何の意味が残るというのでしょうか?
     「朝に紅顔あって世路に誇れども、暮(ゆふべ)に白骨となって郊原に朽ちぬ」。何もかも皆むなしい。無意味でしかない。そう思ってしまうことも無理ではありません。
     しかし、ぼくはこの「時の摂理」こそが人生に「歓喜」や「至福」をもたらすものだと思うのです。いずれ死に、滅ぶことの歓喜! 塵となり忘れられてゆくこことの至福!
     決してシニカルな逆説ではありません。つまり、「たゆみなく進む時の大河」をまえにした「わが身の脆さ」や「世界の儚さ」を骨身に染みて知ったそのときこそ、この世のすべてのものに対して、透きとおった蝶の翅や散りゆく桜の花びらを目にするような感動を知るのではないかと思うのです。
     すべてのものは亡びてゆく。何もかもが忘れられてゆく。人類の偉大な業績のことごとくも、この惑星そのものも、いつかは。しかし、それで良い。まったくそれでかまわない!
     「時」が正しくながれているからこそ「いま」があり、やがて死が訪れるからこそ生の歓びがある。「無常」とは「何もかもが無意味だというむなしさ」を意味するものでは決してない。むしろその反対に、時が止まらずながれるからこそ人生には価値があるのだ。そのことの「素晴らしい至福」、「大いなる歓喜」を噛みしめよう。
     ――と、ぼくは思っているのですが、ぼく自身、はっきりとそこまで「実感」できたことはまだありません。あくまで頭のなかでそういうふうに考えているだけです。なので、その「実感」にたどり着くことがぼくの当面の目標になるでしょうか。
     もうそこまで行くと陽キャも陰キャもない、「究極のリア充」といえるかもしれません。あるいはそれこそが「ハイ・プラトー・エクスペリエンス」なのかも。
     いずれにしろ、ぼくは宗教でも、自己啓発でも、せつな的快楽主義でも、スピリチュアルでもないかたちで人生を肯定したい、と思う。自己啓発やスピリチュアルが一概に悪いとはいわないけれど、それらにひたれない性格の人にとっての「救い」をめざしたい。
     この世の「底知れない無意味さ」という「虚無の深淵」をのぞき込んで、なおそれに呑まれず、「いま」を「ただ生きる」。その果てに「ほんとうに巨大な歓び」は待っているのではないでしょうか? いや、ぼくはそう思うんですよね。
     あるいはそこまでたどり着くためにはあと40年かかるかもしれません。ぼくの人生の最終目標ですね。世界の脆さと儚さを直視し、歓喜を抱いて無常を肯定せよ! はたしてその心境に至ることがあるのかどうかわかりませんが、まあ、頑張りたいと思います。 
  • サーバルちゃんとかカタリナ・クラエスみたいになりたいです。

    2020-07-20 15:16  
    50pt
     Kindleで『アダルトチルドレンから自由へ』という本を読みました。これがなかなか素晴らしい。タイトルの通り、「アダルトチルドレン」と「自由」について語っているんだけれど、そのなかで人の心の成熟度を示すレベルが書かれている。
     それが、

    レベル① 劣等感を許していない人
    レベル➁ 劣等感を許している人
    レベル③ 劣等感を魅力にしている人
    レベル④ 人の劣等感を傷つけない人
    レベル⑤ 人に自尊心を与える人(いつも笑顔、ぽかぽかハート)

     というもの。
     あるいは、これだけだとわかりづらいかもしれませんね。つまり、ここでいう「アダルトチルドレン」とは、多くは幼年期の経験によって、自分の劣等感、一流大学に入れなかったとか、顔にあざがあるとか、太り過ぎだとか、親から愛されなかったとか、そういう点を「許し」、「認め」、その劣等感と「和解」することができていない人のことをいうのです。
     そういう人は歳を取りはしても内面は「子供のまま」なのですね。ぼくは最近ようやくレベル①から➁になったところかなあ、と思っています。次は③を目指したいところ。
     で、『けものフレンズ』のサーバルちゃんとか『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』のカタリナ・クラエスはレベル⑤だよなーと考えます。
     サーバルちゃんやカタリナさんは「人が自分では欠点だと思っているところを認めて言葉にすることができる人」なんですよね。
     たとえば、カバンちゃんは何ひとつ野生の世界で役に立つ才能や資質を持っていない「人間のフレンズ」なんだけれど、サーバルちゃんは彼女に向かって「へーきへーき! フレンズによって得意なこと違うから!」といい、彼女の唯一の長所である秀でた頭脳を認めます。
     そして、「カバンちゃんはすごいんだよ!」とはっきり言葉にして伝える。これがまさに「人に自尊心を与える」ということですね。
     また、カタリナも相手が自分では欠点だと思っているところを認めて褒める。「あなたは緑の指を持っているのね」とか「あなたのその白い髪と紅い目、とっても綺麗」とかね。彼女はそういうことがナチュラルにできるわけです。
     これはアダルトチルドレンに限ったことではないけれど、人は往々にして自分のほんとうの魅力をわかっていなかったりするものなんですよね。
     たとえば東大を出たことが自慢の人は「おれは東大を出たからまわりに好かれているだろう」とか思ったりするんだけれど、人は学歴によって愛されたりはしない。そういう「わかりやすい長所」は決して「愛されポイント」にはならないのです。
     もしその人がまわりから愛されているとしたら、じつは東大を出たわりに世間知らずで初心なところが可愛かったりするのかもしれない。人間のほんとうの「愛されポイント」とは、世間や本人には「欠点」として認識されるところだったりするんですよ。
     たとえば『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーがまわりの人から愛されるのはかれが戦争の天才だからじゃないですよね。むしろ仕事嫌いの怠け者だったり、生活能力が欠如していたり、まるで軍人らしくなかったりするあたりがかれの魅力だと思います。
     つまり、「欠点こそじつは魅力」ということ。それが世にも意外な「愛の法則」で、そのことをきちんとわかっている人は成熟度レベル③以上に達することができる。そういう人こそ、正しい意味で「大人」と呼ばれるにふさわしいでしょう。
     ところが、先述したように、機能不全家庭で育って親から十分な愛情を受けられなかったりすると、歳を取ってもほんとうの意味での「大人」になれず、レベル①のままでストップしていたりする。それが「アダルトチルドレン」。
     重要なのは、親から愛されなかったことそのものがほんとうの問題なのではないということです。真の難題は、そのことをキッカケにして、「自分は「いい子」でいないとだれからも愛されない」とか、「人に好かれるためには何か大きな欠点を持っていてはいけない」とカンチガイしてしまうことなのです。
     そういう人は往々にして何とか自分の「短所」を隠し、「長所」だけを見せることによって人から愛されようとします。『グイン・サーガ』のアルド・ナリスとか、まさにそれなんですけれど。
     でもね、それってまさにカンチガイなんですよ。いくら「長所」が秀でていても、それだけでは人間は愛されないからです。たとえばテストで毎回100点を取れるから愛されるということはない。
     それなのにナリスは「完璧な人間」を演じ、まわりに利益をまわすことで愛されることができる、自分のほんとうの貌を晒せば嫌われると思っている。いうなれば「自分は毎回100点を取ってまわりのためになることをしているから必要とされているんだ」と考えているんだけれど、いや、まさにどうしようもないカンチガイ野郎です。アホですね、アホ。
     それでは、アルド・ナリスのほんとうの魅力はどこにあるのか? それは、じつは陰険で、ハラグロで、いい歳してマザコンのロリコンで、母親に愛されなかったとかいってうじうじしている、そういうところだったりするわけです。
     本人は「そんな「欠点」をあらわにしたらまわりの人間はみんな逃げていくに違いない」とかカンチガイしているんだけれど、でも、その「欠点」は、じつは「見る人が見ればとっくにバレバレ」だったりするんですね。
     そして、そういう人たちは「あなたの陰険なところが好きですよ。ハラグロでロリコンでマザコンで、愛情不足のせいでいつもうじうじしている、そして自分ではそれをバレていないつもりでいる、でもいままで必死に頑張って生き抜いて来た努力家で勉強家のそんなあなたを愛していますよ」といってくれたりするのです。ヴァレリウスとかね。リギアとか。
     ナリスは全身の自由を失い障害者になって「役立たず」になることで初めて、「じつはほんとうは自分は愛されていたこと」に気付きます。そして、「人に迷惑をかけなければ生きていけないこと」の意味を知り、「人に何かをしてもらうこと」が愛の贈り物になることもあるのだと悟るのです。
     かれはその贈り物を「信頼」と呼ぶのですが、まさにこの「信頼」こそ、レベル①を抜け出して大人になるためにどうしても必要なものでしょう。
     一方で『グイン・サーガ』にはイシュトヴァーンという男もいて、かれは「王になる」という夢を叶えることによって、貧しい孤児だった自分の欠落を埋めようとする。その結果、一国の帝王になりはするのだけれど、どんどん不幸になっていってしまう。
     これも良くあるパターンです。かれの場合は「自分の不足している部分」を「地位や権力」で埋めれば幸せになれるというカンチガイをしているのですね。
     でも、読者から見れば、じつは「何もかも足りない」と思って、いつか王になるという夢を見ていた頃のイシュトヴァーンがいちばん魅力的だったりすることは歴然としているんですよ。
     ぼくはもしかれに逢うことがあったら言ってやりたい。「おまえは身勝手で法螺吹きでわがままで夢ばかり大きくてどうしようもない奴だけれど、おまえのそんなところが大好きだよ。おまえはたしかに王さまになれるくらいの器量があるだろう。でも、べつにそうならなくてもいいじゃないか。いまの何も持っていないおまえが、そのままで充分に魅力的だよ」と。
     ナリスもイシュトも成熟度がレベル①から抜け出せていないんです。だからいつまでも「不幸な子供」なんですね。で、「欠点のある自分には価値がない」という劣等感に震えている。
     でも、ほんとうはそんな欠点だらけのかれらこそが魅力的で愛されているのです。たしかに、無関係の人間はかれらの容姿や才能や財産や地位だけを誉めそやすし、それこそがかれらの美点だというでしょう。
     でも、そんな連中はほんとうに大切にするべき相手ではない。ほんとうに大切な人は、身近にいて、かれらの欠点も弱点も知り尽くし、なおかつその点を愛してくれている、そんな人たちです。
     たとえばヤン・ウェンリーは「無敗の魔術師」であることによって民衆から崇拝されたけれど、ヤンにとってほんとうに大切な存在はかれの死後、「連戦連敗でもいい。生きていてほしかった」と考えるユリアンやフレデリカであったはずです。
     ヤンの場合は十分に「大人」だったからそのことがわかっていたけれど、もしかれがあくまで「自分は連戦連勝だから価値がある人間なんだ」などと思い込んでいたら不幸だったことでしょう。
     人は「自分は欠点だらけだが、まさにそうだからこそ愛される価値がある」と考えるべきなのだし、また、そのようにしてまわりの欠点だらけの人間に愛情を注いでいけばいい。それがレベル⑤の人間、サーバルちゃんとかカタリナの領域。
     それが「ほんとうの大人」だよなーと思いますね。そういうふうになりたいものです。 
  • セカイ系と新世界系(シン・セカイ系?)の長い物語。

    2020-06-25 16:44  
    50pt
     人づてに某かわんごさん(で、いいのかな?)が「新世界系」のことを記事にしてくれていると聞いて、読みに行ったので、いまさらですがお返事を書きたいと思います。おひさしぶりです。またお逢いしてお話したいですね。
    http://kawango.hatenablog.com/entry/2020/06/01/233919
     個人的な見解としては、セカイ系の時代の作品と新世界系の時代の作品には共通する部分と明確に異なっている部分があるように思います。
     ただ、上記記事にある通り、そこに一定の共通項が見られることはたしかで、その意味でたしかに新世界系を「シン・セカイ系」と呼ぶことは可能かもしれない。何かかっこいいし。
     それでは、まずはなつかしいセカイ系ジャンルを振り返ってみることにしましょう。「セカイ系」とは、往年のウェブサイト「ぷるにえブックマーク」で、当時流行していた西尾維新などの作品に対して、揶揄的に使用されたのが最初だといわれています。
     つまりは、西洋絵画における「印象派」などと同じく、初めは批判的な表現に過ぎなかったわけです。そこから哲学者、批評家、SF作家の東浩紀や、作家にして批評家の笠井潔らによる引用と展開を経て「セカイ系」概念はかぎりなく拡散しました。
     ゼロ年代からテン年代初頭にかけてのサブカルチャー批評はこの概念を中心に動いていたといっても良いかもしれません。その証拠にタイトルにこの言葉を冠した本が色々出ています。
     とはいえ、セカイ系は、その射程を最大に見積もるとしても、その時代のエンターテインメント作品全体を覆いつくすほどの巨大なムーヴメントだったとはいいがたいでしょう。
     たとえば、それこそ世界的にヒットした『ONE PIECE』も『NARUTO』もセカイ系にはあたらないわけです。サブカルチャーないしエンターテインメントの広漠たる世界をあくまで冷静に一望するのなら、それはあくまで傍流の一マイナージャンルに過ぎないのです。
     それなら、そうにもかかわらず、セカイ系がサブカルチャー批評界隈においてあれほど取り沙汰されたのはなぜか。あえていうなら、そこに「批評難度の低さ」があったことは否めません。
     セカイ系がどうこう、シャカイがどうこうといっているだけで、いかにも何か深遠な意味を内包しているように感じられる。その一方で、たとえば累計発行部数1000万部を超えるようなベストセラー・ライトノベルはほとんど無視されたのです。
     ここではそのサブカルチャー批評の構造的問題をあえて語ることはしませんが、ぼくはそういった批評の偏りをいささか懸念するものではあります。
     ただが、そうはいってもやはり「セカイ系の時代」はあったのでしょう。ようは、ある種、90年代後半から2010年代までの「時代の空気」を象徴する概念が、セカイ系だったわけです。
     セカイ系という概念は、『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』といった作品が代表的であるとされています。その定義を考えると一般的なSF小説はほとんどがセカイ系になってしまうといった指摘もあるようですが、ぼくにはセカイ系とクラシックなSF作品のあいだにはやはり落差があるように思われます。
     つまり、『最終兵器彼女』にしろ、『ほしのこえ』にしろ、サイエンス・フィクション的なリアリティは明確に、そしておそらくは意図的に、無視されているのです。
     『最終兵器彼女』においてはなぜ平凡な女子高生だったヒロインが世界最強の最終兵器に改造されてしまったのかは説明されないし、『ほしにこえ』においてもどうして宇宙の彼方にまで携帯電話のメールが届くのかはわからない。
     いや、説明のしようがないといったほうが正しいでしょう。そこで問題になっているものはまさに世界ではなくセカイなのです。
     ここで思い出されるのが、『ほしのこえ』の新海誠監督のウルトラヒット作『君の名は。』に対し、隕石の軌道が科学的に不自然であるという批判があったことです。
     思うに、おそらくその点は新海誠にとってそれほど重要ではなかったのでしょう。それはたしかにSF的な視点から見れば明確な瑕疵ですが、セカイ系的な視点ではそうでもないのです。
     これは、先行する時代の代表作にあたる庵野秀明監督の『トップをねらえ!』がSF的な設定にこだわり抜いていたことと比較するとわかりやすい。
     セカイ系とはSF的な遠近法が狂った世界だということもできるかもしれません。逆にいうのなら、セカイ系を批判した人々にとって、その遠近法は自明のものであったわけです。
     で、上記で引用したかわんごさんの記事でも記されていますが、やはり『新世紀エヴァンゲリオン』が「セカイ系の時代」を代表し、あるいは産出した道標的傑作であることは論を俟ちません。
     いわゆるセカイ系の作品すべてが『エヴァ』を意識していたわけではないにしろ、セカイ系一般が『エヴァ』の隠然たる影響下にあることは間違いないと思えます。
     その『エヴァ』がマクロなハードSF的の側面とミクロな関係性の物語という両面性を持っていたことを考えると、セカイ系が矛盾した性格を持つに至っていることも当然に思われます。
     おそらく、『エヴァ』が最初に構想されたとき、そこでめざされていたのはまさに『トップをねらえ!』のようなハードSFであったのでしょう。
     しかし、じっさいには『エヴァ』はそのハードSF構想を完遂するどころか、主人公・碇シンジ個人の「補完」という、きわめてミクロな終着点としての「人類補完計画」を描くことに着地したのです。
     これを作劇の失敗として揶揄することはできるし、しょせんその程度の作品だったと評価することも可能ではあると思います。
     ですが、『エヴァ』の放送からじつに四半世紀が経ったいまあらためて思うのは、そのときはたしかにハードSF的に壮大な物語より、ミクロの『中学生日記』が優先されるだけの理由があったのだということです。
     「セカイ系」は時代のあだ花でした。けれど、この時代にはまだ社会にある程度の「余裕」があった。故に、碇シンジは思い悩みながらも行動をストップさせることができたのです。
     そして、その「余裕」が致命的になくなっていった頃、「新世界系」が登場する。いままでにもくり返し説明していますが、新世界系という概念は、『少年ジャンプ』で連載されているいくつかの漫画を観察するなかで出て来たものです。
     つまり、ある時期の『ジャンプ』で、「新世界」とか「暗黒大陸」と呼ばれるような「新しい領域」の話が同時多発的に出て来た。これは何なのか?というところから話がスタートしている。
     もちろん、それは連載が長期化するなかで、物語の新たなフィールドが要請されたというだけのことではあるでしょう。いい換えるなら、「パワーのインフレ」ならぬ「舞台のインフレ」と見ることはできる。
     いままでの舞台よりもっと凄い、もっと恐ろしい舞台があるんだぞ、というわけですね。しかし、ただそれだけにしてはそこには何かしら過剰なものがあった。
     特に『HUNTER×HUNTER』などは、あきらかにいままでの物語の前提が通用しない、途方もない場所として「新世界」を描写するわけです。まあ、もっとも、それから数年経って連載は未だに新世界にまでたどり着いていないんですけれどね……。
     これらはいったい何なのか? そう、つまり、いままで物語の都合によって巧妙に隠蔽されていた「現実世界」なのではないか、とLDさんやぼくたち〈アズキアライアカデミア〉の面々は考えました(ちなみに、サークル〈アズキアライアカデミア〉は四人で構成されるグループです。ラジオに登場するのはほぼ三人だけですが)。
     「現実世界」とはどういうことかというと、つまり何が起こるかわからないような世界ということです。ぼくたちの生きているこの世界は本来、そういう場所ですよね?
     次の瞬間、何が起こるかはだれにもわからない。地面が割れて呑み込まれるかもしれないし、空から隕石が降ってくるかもしれない。人はつねに死の危険にさらされていて、偶然にそれを避けているに過ぎないわけです。
     しかし、こういったあまりにも身も蓋もない認識はぼくたち人間には耐えられない。次に踏み出す一歩もまた、必ず地面を捉えるはずだという確信がなければただ歩くことすらできないわけです。そこで、「物語」が生まれる。
     物語とは、無限に複雑な世界を人間に理解できるよう単純化して語ったものです。たとえば、「努力したので、成功した」というのは典型的な物語だといえるでしょう。
     ジャーナリストの佐々木俊尚さんは著書『時間とテクノロジー』のなかで、このような種類の物語を「因果の物語」と呼んでいます。「××した。故に〇〇になった」という因果関係を説明する物語ですね。人間はあらゆるところにこの因果の物語を見る。
     ところが、このような物語というものはしょせんは虚構、フィクションに過ぎないわけです。というか、限りなく複雑な現実を人間にわかる形で切り取っているだけであって、ほんとうは「××」をしても、結果が「〇〇」になるとは限らない。
     努力すれば必ず成功するとは限らないんですよね。ただ、後から考えるといかにもそのような因果が存在したかのように感じられることもたしかで、事後的に振り返ってこのような「因果の物語」を信じ込むことを「生存者バイアス」といいます。生存者バイアスに捕らわれると老害真っ逆さまですね。
     まあ、それは余談なのですが、とにかく「因果の物語」は基本的にウソなのであって、あまり信用できない。しかし、我々は「因果の物語」なしには生きていけない。そういうことがいえます。

    佐々木:そうですね。去年の暮れに、『時間とテクノロジー』という本を出しました。これは何を書いているかというと、「我々は物語によって生きているよね」と。Aが起きたからBが起きている。大学受験をがんばったからいい大学に入れて、いい大学に入ったからいい会社に入れたみたいな因果関係で生きている。
    でも、因果関係なんて、実際にはほとんど嘘っぱちだよね。後付けでしかなくて、だいたいの出来事は理由もなく唐突に起きるわけです。まさに今のコロナがそうだし、3.11もそうだったし、すべては唐突に起きてしまう。
    唐突に起きてしまうことは、我々にとっては許しがたいわけです。許しがたいから「そこになにか因果関係があるんだよね」と思いたがるのが、人間の性なわけですよね。
    でも、そういう因果関係的なものさえも意味がなくなってきて、それこそAI、人工知能が出てきて、今の機械学習、深層学習のメカニズムは、人間には到底理解できないような、ある種のロジックをそこに見つけてしまったりするわけです。
    そうすると、我々にとってはなぜそれがいい結果を招くのかわからないんだけど、AIが「それをやるといいはずだ」と言い、そのとおりにやると確かにいい結果が起きる、ということが起きてしまうわけ。
    そうすると、もはや自分たちがロジックやメカニズムを理解できなくても、この世界が動いているんだと認識せざるを得ないし、そのほうが実は我々がチープな因果関係で考えているよりもずっといい社会ができる可能性があることが、わかりつつあるんじゃないかと。それだけ社会が複雑になっているということなんですよね。
    中世とか古代のシンプルな時代であれば、我々が想像する程度のメカニズムで世の中が動いていたと思うんだけど、これだけさまざまな要因が無数にあって、その要因の力学によっていろんなことがどんどん起きてくるようになると、もはや我々の認識能力では世の中が動いている理由なんて実際理解できないよねと。
    https://logmi.jp/business/articles/323004

     で、この「因果の物語」が通用しない、いつ何が起こるかわからないということが、ぼく(たち)のいう「現実」です。都合の良いフィクションでごまかされていない真のリアルといっても良いかもしれません。
     そして、その「現実」を象徴的に表したものが「新世界」なのではないか、と考えたのです。それまでの『少年ジャンプ』の作品は、基本的に「弱いやつから順番に襲いかかってきて、そのあいだに主人公が成長する」ようにできていました。
     『ドラゴンボール』あたりがわかりやすいですが、つねに主人公より少し強い強敵が目の前に立ちふさがるようにできているわけですね。その敵は主人公と比べると圧倒的に強くはあるんだけれど、まったく勝ち目がないほどではない。そういうスタイル。
     このような物語の形式のことを、ぼくたちは「階梯的ビルドゥングス・ロマン」と呼んでいます。まるで階段を登るように主人公たちの成長を促す物語ということですね。
     まあ、ほんとうなら「しかし奴は四天王のなかでは最弱」とかいっていないで最強からいきなりかかって来れば良いと思うわけなのですが、それでは主人公たちが成長している余裕がない。だから、あくまで敵は段階を踏んで出て来るわけです。
     それが、いままでの物語のあたりまえだった。なぜなら、あまりにも実力差がある相手が最初から出て来ると、その時点で主人公は死んでしまい、物語は終わるからですね。
     この「突然死」の概念は新世界系を語るとき、きわめて重要です。「主人公の突然死がありえる場所」、それが新世界なのです。
     いい換えるなら、ほとんど一切の物語が成立しない場所ともいえる。次の瞬間に何が起こるか予想できないのですから、まともなストーリーが成立しないことは当然です。
     その意味で、原理的に新世界はエンターテインメントとして描けないことになる。あるいはカフカやカミュのような不条理文学として発表すれば高い評価を得るかもしれませんが、大衆向けの娯楽作品にはなりえないでしょう。
     そこで、かどうかはわかりませんが、新世界と旧世界?(因果の物語が通用する世界)のあいだは、何らかの「壁」で隔てられることになりました。
     「過酷で残酷な新世界とより安全で階梯的な世界を何らかの「壁」でさえぎったうえで語られる物語」、これが新世界系だといっても良いと思います。
     時系列的には前後することになりますが、この方法論を端的に完成させて大成功したのが、いわずと知れた傑作『進撃の巨人』です。
     『進撃の巨人』の、特に序盤においては、「壁」でさえぎられた平和な都市と、その周囲の、人食いの巨人が徘徊する「新世界」が舞台となっています。
     非常にわかりやすい形で「平和だが欺瞞に満ちた社会」と「悪夢のように過酷で残酷な現実世界」をパラレルに描きだすことに成功したわけです。まさに最も典型的にして最も成功した新世界系作品です。
     『進撃の巨人』について語りたいことはたくさんありますが、あまり寄り道ばかりしていると際限なく記事が長くなるのでカットすることにしましょう。
     とにかく、2009年に『進撃の巨人』の連載は始まり、直後に話題になって大ヒットを遂げます。この時点では、「欺瞞に満ちた平和にまどろんでいた人々が突然の災厄に恐怖する」という演出はきわめて効果的だったのです。
     ですが、いま、2020年、この種の新世界系の演出は、すでに過去になったと考えています。つまり、新世界系はもう終わった、あるいはいままさに終わろうとしているわけです。
     ほんとうならいまごろ、『進撃の巨人』の最終回や『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の結末によって終止符が打たれていたかもしれないのですが、新型コロナウィルスの蔓延というまさに突然の事態によってとりあえずそれが延期されているのが現状といえるでしょう。
     この記事は、その新世界系は終わったという認識を踏まえたうえで、「それは結局、何だったのか?」をまとめるために書かれています。
     さて、『進撃の巨人』以降、あるいは『少年ジャンプ』の『ONE PIECE』、『HUNTER×HUNTER』、『トリコ』の三作品以降も、いくつか上記の「新世界系の演出」を使った作品はあらわれてきています。
     たとえば、その後の『少年ジャンプ』で連載された『約束のネバーランド』での「孤児院を取り囲む崖」、『ワールドトリガー』における「世界の境」も「壁」の一種と見ることはできるでしょう。
     いずれも、その外には「壁の中」に比べてより過酷な、そして広大な別の世界がひろがっていることが共通しています。
     『ワールドトリガー』においては一貫して「壁の中」で物語が進むわけで、この作品を新世界系と呼ぶことはむずかしいでしょうが、いずれにしろ新世界系の見立てで語ることは可能です。
     ただ、もちろん、ぼく(たち)は何もこの批評的な見解がこの時代のあらゆる作品を説明するための唯一の方策であると主張するつもりはありません。念のため。
     新世界の血塗られた系譜は、2010年代後半にひとつの秀抜な作品を生みます。いうまでもなく『鬼滅の刃』のことです。
     もっとも、『鬼滅の刃』の設定においては、「壁」らしきものは見あたらないので、これは新世界系というよりは「さらに次の時代の作品」と見ることが正しいかもしれない。あるいは、「新世界系とジャンプ漫画のハイブリッド」というのが正解でしょうか。
     いずれにしても、この作品がきわめてきびしい環境を描いていることはたしかで、したがって主人公は平穏な日常からあっさりと人が死ぬ「狂った世界」に突然に放り出されることとなってしまいます。
     平和で幸福な生活を送っていた主人公の家族が突然そろって殺害されてしまう展開の『鬼滅の刃』アニメ第一話のタイトルは、あまりにも象徴的なことに「残酷」です。
     もうご理解いただけることと思いますが、この「突然」というところがキーポイントなのであって、つまり、この作品もまた「次に何が起こるかわからない」新世界系的な世界を背景としているわけです。
     また、この作品が荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』の大きな影響のもとに描かれていると思しいこともよく納得できる。『ジョジョ』もまた、ときにはシビアな「突然死」を描いてきた作品でした。
     『鬼滅の刃』は、『ジョジョ』と同じく、シビアで残酷な世界を舞台にどう生きるべきか? 人間らしさとは何か? その問いを突き詰めています。
     そう、「この狂った世界でどう生きるべきか?」、それが新世界系のグランド・テーマであり、『進撃の巨人』にせよ、『魔法少女まどか☆マギカ』にせよ、あるいは『鬼滅の刃』にせよ、このアポリアともいうべきビッグ・クエスチョンに対し何らかのアンサーを提示したために大ヒットしたように見えます。
     事実、『まどマギ』の後、同じように少女を残酷な環境に叩き込んだ作品がいくつも作られましたが、『まどマギ』ほど大きく話題になることはありませんでした。
     これは、『まどマギ』の魅力が、女の子を酷烈な環境(新世界)に投げ込んでサディスティックに嬲ることそのもの「ではなく」、「そのような環境でどう生きれば良いのか?」に答えたところにあるということを証明しているように思います。
     まさに時代の要請でしょう。「狂った世界」。しかし、それはこの世界の本来の姿である。人間の目で見るから狂っているように思えるだけなのであって、世界の側から見れば、それはごく当然の自然な形なのです。
     とはいえ、それはあまりにも残酷で過酷で、耐えがたい。いうなれば、人類はこの「狂った世界」に産み落とされた寄る辺なき孤児です。
     かれはこの酷烈な世界を生き抜くため、そのなかにより快適で生存に適した「社会」というシェルターを作り出し、それを整備し、拡大していくことによって世界の理不尽なまでの残酷さを緩和しました。
     そのことによって不条理な(人間には不条理と感じられる)もろもろの出来事、たとえば「突然死」といった事態は限りなく遠くなりました。
     もちろん、原理的にいってどれほど社会が整備されようとも世界が内在する本質的な残酷さが消え去ることはなく、我々はときにそのことを突然に思い出させられて愕然とするわけですが、それにしても普段はそのことを忘却していられるわけです。
     その結果、現代社会は一面でハックスリーのディストピア小説『すばらしい新世界』めいたものとなっている。だから、いくらか視点を変えるなら、新世界系は、新世界におけるむき出しの「生」にある種の可能性を見ていると捉えることもできます。
     我々は新世界のような環境ではなかなか生きられない。よって、新世界ではあたりまえの「突然の不条理な死」を遠ざけるために「社会」を必要とし、そのなかで「権利」とか「平等」といったフィクションを整備していったわけですが、その「社会」にはどうしようもなく欺瞞が付きまとう。
     社会とは、世界に直面する苦痛から人を守る保護膜のようなものですから、そのなかで生きている限り、「世界(新世界)」のことを直接に感じ取れないのです。そこでは、「生きていることそのものの歓び」はかき消えていくことになる。
     そうだとしたら、「新世界」には、ほんとうの「生のよろこび」があるのかもしれない。『灰と幻想のグリムガル』のような作品はそのことをかなりわかりやすく描いています。
     あるいは、この矛盾を、「身体の欲望」と「生のよろこび」というタームで説明した『無痛文明論』という本もあります。
     無痛文明とは何か。それは、あらゆるやり方でさまざまな苦痛を徹底して排除する社会構造のことです。「新世界」が「世界」の本質を極限的な形で伝えるものだとすれば、「無痛文明」は「社会」のありようを極限化した状態といえるかもしれません。
     この本の筆者は、無痛文明を批判的に語ります。「身体の欲望」にのっとって苦痛を避けつづける無痛文明については、「生のよろこび」はなくなってしまうというのです。
     この本を読むと、「新世界」も「無痛文明」もぼくたちが生きていくべき場所としてふさわしくないことがあらためてわかります。
     つまり、過酷な「世界」と安楽な「社会」のいずれもそれぞれべつの意味で過剰なのであって、そのあいだのどこかに、あるべきバランスポイントは存在するのでしょう。もっとも、そのバランスを維持することは限りなく困難なことでしょうが。
     そう、人にとって世界、あるいは他者とはそもそも不快な存在です。他者の存在が明確に認識されるのは、その他者とのあいだに何らかの摩擦が生じたときなのですから、当然のことでしょう。
     この「他者の本質的な不快さ」を極限的な形で描写したアニメーションが即ち『新世紀エヴァンゲリオン』であったことはいまさら指摘するまでもありません。
     その事実は劇場版『THE END OF EVANGELION』において閉幕を飾った「気持ち悪い」というひと言に端的に表れています。どうしようもなく避けがたい、他者の、そして、世界の不快さ。
     そしてまた、そこには「それでもなお、その残酷なる環境を生き抜け」という鮮烈なメッセージもありました。他者は不快であり世界は残酷である。しかし、その不快で残酷な場所を生き抜くことがどうしても必要なのだ、と。
     とはいえ、このメッセージは間違いなくポジティヴなものではあるものの、同時に、限りなく厳酷でもあります。『エヴァ』の「気持ち悪い」という言葉を受けて、そのような世界をそれでもなお積極的に生きようと思える人はまれでしょう。
     じっさい、その後のアニメーションの主流は『けいおん!』や『らき☆すた』に代表されるいわゆる「空気系」を中心とする「萌え系」作品に流れていきました。
     この時代のアニメーションファンは『エヴァ』が描出した「狂った世界」の過酷さに耐えられなかったのだともいえるかもしれません。それはまさに麻酔的な描写、無痛文明的な世界であったということもできるでしょう。
     そういった「萌え」作品を逃避的なものと見て批判する書き手は数知れませんが、ようはそれほどまでに視聴者層が疲労していたのだということもできると思います。
     また、人間にとって物理法則を初めとする「世界」のグランド・ルールは変更不可能ですが、「社会」のルールは変更可能です。したがって、「社会」をより良く改善していくべきだという考え方は基本的に正しい。
     評論家の杉田俊介氏の述べるところの「シャカイ系の想像力」とはそういうものでしょう。ですが、同時に、「シャカイ系」概念の現代における求心力の弱さは、その本質的な楽天性に由来しています。
     なるほど、環境問題などの大きな問題も含めたもろもろの問題の多くが、人間には決して変更不可能な「セカイ」ではなく、改善可能な「シャカイ」に属していることはたしかです。ぼくはそのことを認めます。
     しかし、それは「シャカイ」が容易に変えられるところであることを意味しません。現代において、きわめて複雑で不透明な「シャカイ」を解決していくことは非常にむずかしいことです。
     何もかもアベが悪いとか、そういった物語にわかりやすい話にフォーカスするのならべつですが、その種の論理は若い世代には説得力を持たないと思います。
     ぼくは安倍政権の政策に問題がないといっているのではありません。ただ、きわめて複雑な社会問題をひとりの絶対悪としての個人に象徴させることはそれ自体がひとつの単純すぎる物語、フィクションだといっているのです。
     しかし、それでは我々は社会の変革をあきらめるべきなのか? 種々の問題を「しょせん個人の手のとどかない領域」とみなして放棄してしまうべきなのでしょうか? 答えはもちろん否でしょう。
     我々はこれからも社会のあらゆる問題を積極的に改革し、改善していくべきだし、それはじっさいに可能であると考えるべきです。当然のことでしょう。
     ただ、重要なのは、そういった複雑な問題を、あくまで民主的で漸進的なプロセスを経て解決しようとしていく限り、その「解決」は致命的に間に合わないかもしれないということです。
     いわゆる地球環境問題はその典型的なものです。それは人類全体が影響を受けるグローバルな規模の問題なのであって、いますぐ簡単に解決する方法はない。
     その認識は、新世界系を受容する消費者たちのあいだで所与の前提となっていると思います。だからこそ、『進撃の巨人』や『天気の子』が熱狂的に受け入れられたのです。
     もちろん、『進撃の巨人』のまえにも「狂った世界でのサバイバル」を主眼にした作品は存在しました。最も典型的なのは三浦健太郎『ベルセルク』でしょう。
     『ベルセルク』が「新世界系のグランド・テーマ」の答えとして提示したものは一種の狂気であった。ただひたすらに狂い切ったものこそがこの新世界を生き抜けるのだと。
     また、現代においては『ブルーロック』や『アオアシ』といったスポーツ漫画も、サバイバル漫画の一面を見せます。
     『少年ジャンプ』のそれを初めとするスポーツ漫画の内容的な変遷についてはいずれまた書きたいと思いますが、『H2』、『SLAM DUNK』といった「天才マンガ」の後には『黒子のバスケ』、『ベイビーステップ』といった「自分の個性を最大限に活かして天才に対抗する漫画」があらわれています。
     それら「ポスト天才漫画」はある意味で「バトル・ロイヤル」の物語です。まあ、それらまでを新世界系であるとはいいませんが、ともかくも新世界系を生んだ時代の所産であることはたしかであり、同様の背景を共有しているといえるでしょう。
     で、ここまで長々と書いて来た結論として何がいいたいかというと、「セカイ系」と「新世界系」は裏表であり、ある意味では同じものだともいえるし、べつのある意味ではまったく対照的だと見て取ることもできるということです。
     『ヱヴァ』の新劇場版が、旧作と決定的に異なっているのは、かつては「世界の中心」に否応なく据えられていた碇シンジがその黄金の玉座から追放されていることだと思います。
     往時の『エヴァ』の問題といえば、つまり「主人公であることの苦しみ」でした。しかし、『ヱヴァ』においてはシンジはもはや世界を救うために必要とされてはいません。
     新劇場版の特に『Q』において、シンジは「壊れてしまった世界」を修復するべく行動しますが、物語はそれすらも父・ゲンドウの策略の一部であり、シンジの熱意はむなしく空回りするに留まるところを非情に描きだします。
     それでは、『破』であれほど視聴者を感動させたシンジの成長は、熱情は、単なる幻想に過ぎなかったのでしょうか。そうではないでしょう。
     しかし、単に「熱く生きろ!」というだけでは、新世界を生き抜くためのアンサーにはなりえないということなのだと思います。もはや、ただ熱くなって相手を打ち破るだけでは世界を救うことはできないということは歴然としているのです。
     その「因果の物語」は信頼できない。そういう時代になった。もちろん、『少年ジャンプ』的な「努力、友情、勝利」のテーマ、「因果の物語」が高度経済成長からバブル期にかけて勃興し絶頂を見、そして零落していったことも偶然ではありません。
     そのとき、アンケートから導き出されたという因果の幻想は、経済成長によるリソースの拡大に支えられていたものなのです。その時代を照らした大いなる蜃気楼、それ「努力を続け、友情を育めば、必ず勝利できる」というファンタジーなのでしょう。
     換言するならその時代には「努力」+「友情」=「勝利」というシンプルな「勝利のための方程式」が成立して見えていたということ。
     それに対して、現代のたとえば「小説家になろう」の小説群、いわゆる「なろう系」の作品はしばしば「努力が足りない」と揶揄されます。しかし、もうそのような「因果の物語」は信じられないのです。
     新世界系と「なろう系」の作品はまったく逆にも見えますが、じつは同じ時代という母胎が産み落とした兄弟のような関係にあります。
     つまり、両者ともに上述の『少年ジャンプ』方程式が決して成り立たない理不尽なシチュエーション(狂った世界!)を描いているわけです。
     狂った世界。壊れた世界。しかし、ほんとうは世界は決して狂いもしなければ壊れもしません。世界の厳粛なグランド・ルールは人間のいかなる思想とも観念とも無関係につねに不変であり、壊れたり狂ったりするのは、ただ世界に内在する人間社会だけです。
     そして、社会が崩壊し狂乱するとき、人は素裸で世界に放り出される。しかし、それは世界をダイレクトに感じ取ることができる体験でもある。世界は酷烈ではあるが、しかし、同時にかぎりなく美しい。その美とは、世界の残酷さと一体のものなのです。
     その「美」と「残酷」を求めるときに「新世界」が生まれ、「欺瞞」と「平穏」と追及していくと「無痛文明」に至る。ぼくたちはそのどこにあるべき状況を見い出せば良いのでしょうね? というところで、このいくらか長い記事を終わります。
     「新世界系」については、ここに書いたようなことをグローバリズムがどうこう、ネオリベラリズムがどうこうという社会分析とともにていねいにまとめて、「新世界論」という8万字~10万字くらいの電子書籍を出したいと思います。無料にする予定です。
     これ、もういってもいいと思うけれど、何年か前にドワンゴから本を出しませんかという依頼があったんですよね。 それは口約束のつねで、いつのまにか消えてしまったんだけれど(まあ、ブロマガの数字が減っているからしかたないかな?)、自分のいいたいことを一冊の本にまとめたいという気持ちはずっとあって、有料の電子書籍はとにかく読まれないから、この際、無料で出しちゃえということです。
     このわりと乱雑な記事よりずっとわかりやすい一冊になると思います。いつ出るかわからないけれど、良ければ読んでみてください。でわ、でわ。 
  • ポルノかポリコレか? あるいは『ONE PIECE』の豚骨ラーメン性についての考察。

    2020-05-18 01:35  
    50pt
     次回のニコニコ生放送のテーマを何にしようかなー、とまだ考えています。とりあえず一年分くらいのネタを考えてあるのですが、あまり大きいものを最初にやってしまうとネタ切れを起こす可能性があるし、だからといってつまらない話をしてもしかたないし、となかなか迷うところ。
     とりあえずTONOさんの『カルバニア物語』にしようかなーと思っているのですが、変わるかもしれません。一応、枠は取っておいたので、良ければ聴いてください。
    https://live2.nicovideo.jp/watch/lv326010188
     さてさて、今日はLINEで面白い記事を教えてもらったので、それを枕に「物語」、あるいは「エンターテインメント」とは何か、という話をしたいと思います。この記事。

    文化現象としてのBLは、男性社会の抑圧に対する怒りと裏返しになった女性ジェンダーへの苛烈な憎悪や否認やら何やらがごちゃごちゃ混ざり合っている。でも同時にやっぱりもっと単純に快楽をもたらすポルノでもあって、苦しみも何もなくただ単に萌えるものでもある。どちらか一方ではありません。BL文化にはどちらもある。そこでは「ねじれた表現」なのかそれとも単なるポルノなのか、見分けがつかないほどぐちゃぐちゃに混ざり合っていると思います。
    BL文化のそういうめちゃくちゃさが好きです。危うさが好き。しんどいけどやっぱり好き。こんなことだらだら書いてるわたしが何より一番ねじれてて厄介なのかもしれないけど。まあこれからも厄介なオタクとして生きていきます。
    http://nightyqueer.hatenablog.com/entry/2019/01/23/220614

     この話、めちゃくちゃよくわかる、と思う。ひょっとしたら全然わかっていないのかもしれないけれど、まあ、わかる、と感じる。というのも、ぼくもやっぱりそういう意味での「厄介なオタク」性をある程度持っていると思うからです。
     ここでは「ねじれた表現」と「ポルノ」が対比的に語られていて、しかもその両方を兼ね備えているのがBLである、とされているわけなのですが、ひとつBLだけではなく、「物語」とはそういうものだよね、という話をしたい。
     もっとも、ここでいう「物語」とはぼくが好んで読む一群の作品を指していて、一般にいう物語のことではないわけですが。ややこしい。
     わかってもらえるかな? 一般的にいって、娯楽として、快楽として消費されているエンターテインメント作品は、大いにポルノ的なものです。ここでいうポルノとは、予定調和の快楽を追求する表現、みたいな意味だと思ってほしい。
     たとえば『水戸黄門』、たとえば『美女と野獣』。いや、何でもいいのですが、基本的にエンターテインメントは正義が悪に勝つこととか、愛が苦難の末に実ることとかを描く予定調和の表現なんですよね。
     もちろん、ただそれだけではないからこそ面白いのですが、それでもいわゆる「王道」はやはり予定調和の魅力にある。
     ただ、すぐに予定が調和してしまうとそこで終わってしまうので、そうならないように色々と試練だの苦難だのを描くわけです。そういう意味ではエンタメとは「遠回りするポルノ」であるのかもしれません。
     一方で、上の記事では「ねじれた表現」と書かれている批評的、あるいは文学的、さもなければ芸術的な反予定調和の表現がある。それは現在の社会構造や人間の生のありようなどを分析し、分解し、相対化して突きつける。
     それを「クリティーク(批評)」的な表現ともいえるかもしれませんが、ここでは、「アート」と呼ぶことにしましょう。ぼくが好む「物語」は、この「アート」と「ポルノ」が混然一体となって成立しているものである、と感じるのですね。
     ただのポルノ、ないしエンタメではない、しかしだからといって文学とか芸術とかに分類されて澄ましているような高踏な作品でもない。アートでありながらポルノ、ポルノでありながらアート、というその危うい混交具合が面白いわけです。
     まあ、普通であたりまえの作品に飽き飽きした「厄介なオタク」は喜んでそういうものを味わうわけですよ。上記記事ではBLが例に挙げられていますが、じつは男性向けエンターテインメントだって単純にポルノ的なだけではありません。
     そこには「男性的な快楽」を批評的に相対化し、あるいは脱構築する作品がいくらでも見つかるのです。
     しかし、ここが重要なことなのですが、「それなら、ポルノはいらないのか? アートこそが高度であって、表現はそういうものであるべきなのか?」といったら、決してそうではないのですね。
     たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』はポルノ的な「男の子の物語」のエンタメ構造をぶっ壊し相対化したかもしれない。だけれど、「だから『エヴァ』は偉くて、しょせんポルノ的な予定調和のエンタメであるに過ぎない普通の少年漫画はダメなんだ」ということにはならない。
     「厄介なオタク」はやはりポルノ性がないと惹かれないわけです。文学では物足りない。芸術では満たされない。しかし、だからといってただのポルノにはもう飽きている。そういうめんどくさくもこじらせた「厄介なオタク」が好むのが、ぼくが「物語」と呼ぶ表現だということ。
     これは男性向けでも女性向けでもそうなのですが、ポルノとは、「隠された本音」、「社会的に認められない隠蔽された欲望」が噴出するものです。
     「可愛い女の子をレイプしたい」とか「強い男に支配されたい」とか、そういう、少なくとも現代社会のポリティカル・コレクトネスの基準では「正しい」とはされないであろう「本音」や「欲望」が猛烈な勢いで表に出て来るのがポルノだといっても良い。
     したがって、ポルノはアート的、クリティーク的な分析、分解では語り切れない。どう考えても「これは政治的な正しくない」、「下等で差別的な表現だ」というだけの判断で終わってしまう。
     しかし、いかに差別的であろうが、それは「本音」なのであって、やっぱり「気持ちいい」こともたしかなのです。フェミニストがどんなに声高に「こんな表現があることは間違えている!」と叫ぼうとも、凌辱ものポルノはなくならない。また、少年漫画や少女漫画は価値中立的にはならない。
     あいかわらず『少年ジャンプ』は古典的な「男の子の物語」を紡ぐし、少女漫画はドS男子を描く。もちろん、お偉い批評家の方々は「これは差別的だ! くだらない表現だ!」と叫ぶことでしょうが、それでもそういう表現は決してなくならない。
     ポリコレだけでは決してエンターテインメントにはならないし、ただポリコレ的に正しいということだけがエンターテインメントの価値ではないわけです。このことを根本的にわかっていない批評家は多いと思うのですが……。
     しかし、だからといってアート性やクリティーク性、上の記事で「ねじれた表現」とされている側面がエンターテインメントにないわけではない。優れた物語作品はアートとポルノ、クリティークとエンターテインメントの両方の要素を持っているものなのです。
     だからこそ、面白い。少なくとも、まあ、色々とこじらせた「厄介なオタク」にとっては。
     この記事の無料公開はここまで。後半は会員限定です。海燕のニコニコチャンネルは週一回+αの生放送、無数の動画、ブロマガの記事を含んで月額330円です。海燕の記事を読みたい人は良ければ入会してみてください。よろしくお願いします。 
  • 「想像力」の正体。初期『ドラクエ』や『ウィザードリィ』の感動の本質は何だったのか?

    2020-05-15 03:18  
    50pt


     ども。夜更けて、やることもないので、記事を書いています。いや、やるべきことは色々あるはずなのだけれど、もう、こうね、何ひとつやる気にならない。ミツユビナマケモノよりも怠惰な日常といえるでしょう。
     いやー、『鬼滅の刃』、ほんとうに終わるんですかねー。『SPY×FAMILY』、面白いですよねー。売れまくっていますねー。はあ(精魂尽き果てたため息)。
     そんなリヴィングデッド的に腐り果てた精神状態でTwitterをさまよっていたら、ひとつ面白い記事を見つけたので、紹介させてもらいます。「「昔のゲームの方が想像力を刺激されて良かった」は本当か」というタイトル。
     書き手の方は「ファミコンのゲームをやってた時に、ドット絵からリアルを想像していたか?」ということについて考えた結果、「これ、冷静に自分の記憶をたどってみると、たぶん、「していなかった」と思うんですよね。」という結論にたどり着いています。
     で、そこから先が興味深い。

    確かに、ドット絵の向こうに「見た目以上の何か別の世界」を感じ取ってはいたんだけど、それは「リアル」の延長というわけではなかった。マリオはマリオであってボブ・ホスキンスではなかったし、グーニーズを遊びながら映画のマイキーを想像したこともなかった。ドラクエ1で草原を歩いていても、現実の草原のような風景は浮かばなかった。
    例えば、マリオが狭い足場を渡る時は自分のことのようにハラハラしたし、ドラクエで呪文を唱えれば本当に風や炎がまきおこっているような気がした。「アトランチスの謎」ではだだっ広い島を探索しているような気分を味わったし、「ドラクエIII」は本当に世界をまたにかけて冒険している感覚があった(よくオープンワールドゲームで「マップの広さ比較」が話題になるけど、宇宙規模のやつを除けば僕は今でもドラクエIIIがトップ陣に食い込むと思ってる)。
    それは決して「リアル」な風景ではなかったけど、少なくともわずか25色、256ドット×224ドットの画面から得られる以上の「何か」を受け取っていたのは間違いなかった。でもその「何か」って一体なんだ? と考えると、これがなかなかうまく言語化できないんですよね……。
    https://note.com/tekken8810/n/ncfe394d7d6be

     わかる! わかるわー。この話、めちゃくちゃよくわかるわー。ぼくもファミコンの『マリオ』からずっとゲームを遊んで来ている年寄りゲーマーなので、この方が何をいわんとしているのか、実感としてめちゃくちゃ伝わってくる、と思います。
     たしかに、ぼくも『マリオ』や『ドラクエ』をプレイしているとき、現在のゲームのような「リアルな」グラフィックを想像していたわけではなかった。
     そもそも、どこぞの天才児ならともかく、人並みの平凡なイマジネーションしか持ち合わせていない地方都市の一小学生に「リアルな」映像なんて想像できたはずもないんですよね。
     でも、それなら当時のゲームはつまらなかったかといえば、めちゃくちゃ面白かったんです。まさに「マリオが狭い足場を渡る時は自分のことのようにハラハラしたし、ドラクエで呪文を唱えれば本当に風や炎がまきおこっているような気がした」のです。
     おそらく、多くの人が「チープなグラフィックを想像力で補っていた」というのは、この感覚のことを指しているのではないでしょうか。ごくあたりまえに考えて、ファミコンのドット絵から具体的に壮大な冒険世界を想像/創造できるほどイマジネーションの豊かな人はそうはいないでしょうからね。
     しかし、それでは、上記記事でも書かれているようにこの感覚はいったい何なのでしょう? 「想像力で補う」とは実際にはどういうことなのでしょうか?
     これも上に書かれていることですが、「パッケージやイメージイラストから想像を膨らませ」るということがひとつあると思います。これね、ぼくはかなりやっていた。
     当時のゲームグラフィックは限りなくチープで、それに対しパッケージなどのイラストは(センスの古さはともかく)いまと同等に描き込まれていたわけですから、それらのイラストのイメージをゲームのグラフィックに上書きするかたちで想像していた側面はあると思う。
     ただ、それを「ゲームグラフィックを見て、イラストのリアルなグラフィックが動くところを想像していた」というふうに表現すると、やはり違う。
     もしかしたら一定以上の絵画的才能がある人はドット絵から詳細なグラフィックを想像できたかもしれないけれど、ぼくにはできなかった。
     ただ、何というか、ぼくの頭のなかではチープなドット絵と、パッケージや攻略本などで仕入れてきたイラストなどが混然一体となって、ひとつの「リアルな」、あるいは「リアルに感じられる」世界を形づくっていたのです。
     この感覚、わかりますかね? わかってもらえると非常に嬉しいんですけれど。
     まあ、そういうことをやっていない人もいるとは思うんですけれど、そういう人もただ単にドット絵をドット絵としてしか認識していなかったわけではないんじゃないかな、と思います。
     そう。それは、あるいは夢を見ている感覚に近いものかもしれません。夢のなかでは、すべてがぼんやりと曖昧です。決して理路整然としてはいないし、飛躍しているところもたくさんあるはずなのに、なぜかすべては強烈に現実的に感じられます。
     それと同じように、少年時代にゲームをしていたときのぼくは、すべてが曖昧で抽象的で、しかしなぜかはっきりと現実として感じられる世界を旅していたのではないか。そんな気がするんですね。
     もっというなら、そもそも子供時代にはまだ現実は完全に現実ではなかったのではないか。もちろん、普段は現実に所属しすべてを受け入れて生きていたけれど、ゲームをしたり、小説を読んだりしているときはそのあたりまえの世界から遊離して、まさに夢のようにファジィで非現実的な宇宙に旅立っていたのかもしれない。
     もう少し言葉を弄するなら、ゲームをやっていたときは「リアルの閾値が下がっていた」のかもしれません。
     ぼくたちが現実世界を現実として認識するためには、それなりの情報量が必要です。つまり、視覚、聴覚を初めとする五感で世界を詳細に把握して初めて、これは現実だと感じ取れる。
     その一方で、初期の『マリオ』や『ドラクエ』のようなチープなグラフィックは「現実ではない」と判断するわけです。しかし、もし、ゲームをするとき、その「現実らしさ」の基準がはるかに曖昧になっていたとしたら?
     それならば、チープなグラフィックをチープと認識したそのままで、広大な世界を経巡る大冒険を感じ取るという矛盾した現象が説明できるのではないでしょうか。
     もちろん、「ほんとうに」現実と非現実が区別できなくなっていたわけではない。理性ではゲームはゲームに過ぎないとわかっている。しかし、その一方で感性の領域では幻想と現実が混然となった感覚に酔っていたとはいえないでしょうか。
     それはチープなグラフィックを見ながら「想像力でリアルな世界を築き上げた」ということとは違う。チープなドット絵はチープなものとしてきちんと認識しているのです。ですが、その一方でそれと同時にはるかに広い世界をぼんやりと感じ取っていたということなのではないか、と。
     この話を突き詰めると、人間はどのようにして世界を認識しているのか、ということに行き当たるように思えます。
     この記事の無料公開はここまで。後半は会員限定です。海燕のニコニコチャンネルは週数回の生放送、無数の動画、ブロマガの記事を含んで月額330円です。海燕の記事を読みたい人は良ければ入会してみてください。よろしくお願いします。