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殺人鬼は問い、化け物は答える。「人間らしさ」とは何か?

 『寄生獣 セイの格率』が最終回を迎えました。  いくらかアレンジされているところはあるとはいえ、原作漫画とほぼ同じ結末で――そしてやはり感動的です。  原作で初めてこの結末を見たときはそれはそれは震えたもの。いまから20年も前のことですね。  今月は劇場映画版の『寄生獣』も公開されることになるので、この『寄生獣』という伝説的傑作にとって記念すべき月といえそうです。  さて、この比類ない物語にはひとりの殺人鬼が登場します。  かれは人間でありながら人間を殺しつづける「バケモノ以上のバケモノ」という存在です。  最終的にはおそらく死刑になったものと思われますが、そのかれが主人公に向かっていいます。  「自分こそが人間らしい人間だ」と。  ほかの大半の人間は自分を偽っているに過ぎないと。  その演説は結局はヒロインの「警察を呼んで」という実にまっとうなひと言によって中断されるのですが、ぼくはこの殺人鬼のいうことには一理があると思うのです。  なぜ、ひとを殺してはいけないのか? その問いに明確な答えがない以上、「どこまでも自分の欲望に忠実に生きる」こともまたセイのひとつの答えなのではないか、そう考えます。  そういう姿を「非人間的」と呼び、「バケモノ」とののしることは何かが間違えている。  もちろん、この種の反社会的な存在は社会のルールに抵触しますから、社会はその存在を抹殺しようとするでしょう。  具体的には、捕まえて一生檻のなかに閉じ込めるか、さもなければ死刑にする。それが社会の「絶対反社会存在」に対する対処です。  いい換えるなら、そのくらいしか「どうしても社会と相容れない存在」を処理する方法は存在しないということでもある。  社会はそこで社会自身が生み出した倫理を持ち出すわけなのですが――どうでしょう? そういう真に反社会的な存在に対して、社会のモラルがどれほどの意味を持つでしょうか?  倫理とはつまり社会に生きる人々同士の「約束事」であるに過ぎないわけで、その「約束事」の外にいる存在に対しては何ら意味を持ちません。  ライオンに法を説いたところで意味はない。寄生獣にも、また。殺人鬼もそれと同列の存在なのでは?  それなら、非情な殺人鬼に対して我々はどう行動するべきなのか? それはやはり「社会のルール」に則って処断するよりほかない。つまり、「警察を呼ぶ」しかない。  それがどれほどエゴイスティックなことに過ぎないとしても、やはりそれだけしかできないわけなのです。  しかし、だからといって犯罪者を「人間ではない」とすることは間違えている。  それはつまり、人間の範囲を狭めて理解できないものを排除するだけの理屈に過ぎない。  ぼくはそういうふうに思います。  この世には、社会の常識から見れば「バケモノ」としか思えない存在がある。社会はその「バケモノ」を説得する論理を持たない。ただ、捕まえて処理するだけ。  それは「社会にとっては」正しい理屈です。社会にとっての最優先課題は社会の存続なのですから。  しばらく前に「『黒子のバスケ』脅迫事件」と呼ばれる事件があって、その犯人は、凶悪犯罪者である自分は死刑になるべきだと主張していました。  しかし、社会は決してかれの主張を採用しないし、またそうするべきでもないでしょう。  法律はべつにかれの自意識を満足させるためにあるわけではないからです。それはただ社会が自衛するために存在している。  かれはその欺瞞を問うことはできるかもしれません。ですが、ほんとうは何も矛盾してはいないのです。  社会は社会のことを再優先に考える――それだけのこと。きわめて合理的な理屈だと思います。  ただ、そこに「善悪」とか「倫理」を持ち出すと、話がややこしくなって来るだけのことです。  そう――人間は(人間社会も)しょせん自分のことを第一に考えるしかない。  だから、ほんとうは何が「人間的」で、何がそうでないのか問うことそのものが間違えているのでしょう。  そこまでは当然といえば当然の理屈です。だけれど、 

殺人鬼は問い、化け物は答える。「人間らしさ」とは何か?

シンデレラたちの十二時。最高の作品に「最高のその先」を求めたい気持ち。

 いやー、『アイドルマスターシンデレラガールズ』の最終回、最高でしたね!  特に変わったことをやっているわけではないんだけれど、演出力が凄すぎる。  ある意味、アニメーションとして王道のところで魅せている作品であるといえるでしょう。  トラブルを起こしてそれを乗り越えていくという基本に忠実なシナリオが、至上の演出力によってひとつの「奇跡」という印象を生むとき、いままでにない興奮と感動がひろがります。  ただ、ぼくはアイドルのライブにまったくシンクロニティがない人なので、ちょっと「会場」のファンのノリについて行けないものを感じてしまったけれど……。  いやまあ、それはどうでもいいのだ。とにかく良い作品だったのだ。  ぼくはほかのアニメはどうしても見る前に気力を高める必要があるんだけれど、これだけは実に楽に見れました。  作品世界へ入っていくために特段の気力を必要としない。視聴者が楽をするためには制作スタッフは苦労するわけで、そこにはきっと素晴らしい努力があったのでしょう。  心の底から「ありがとうございました」といいたい気分です。  でも、これで終わりじゃないんだよなあ。シンデレラたちのセカンドシーズンはどうなるのやら、いまから楽しみです。  分割2クールもすっかり定着したなあ。  それにしても、この作品を見ていると、エンターテインメントがどうあるべきかについて考えさせられます。  エンターテインメントとして「良い作品」とは何なのか、ということに正しい答えはなく、それぞれのクリエイターがその作品を通して考えていかなければならないことではあるんだけれど、『デレマス』はその問いに対し、ある種優等生的なアンサーを示しているように思える。  ファンが求めているものを、ファンが想像する以上のクオリティで提供する。  いうまでもなく簡単なことではありえないのですが、その理想をここまで美しい形で体現されてしまうと、ちょっと文句のつけようがない。  もちろん、細かく見て行くと完璧ではないところはいくらもあるのでしょうが、骨太なシナリオがすべてを救っています。  元々がソーシャルゲームだというのに、ここまでの品質でアニメ化するとは――ちょっとぐうの音も出ないですね。ぐ……で、出ない。  ほかの作品とくらべてそこまで圧倒的なリソースを使っているわけでもないだろうに、ここまでの作品が仕上がるんだものなあ。さすがです。  とはいえ、それでもなおあえていうなら優等生の方法論には若干の物足りなさがただようこともたしかで、ぼくなどはそこをもう一歩踏み込んでくれないかな、という気持ちも正直あります。  いや、それをいうのは贅沢だということはよくわかっているんですけれどね。  自分がそんなこといわれたらいやだもの。  よく「ファンの期待には応えて予想は裏切る」といいますが、それができている限りはファンと作品の幸福な「蜜月」は続いていくのでしょう。  ただ、ほんとうに「蜜月」をいつまでも続けていくことが唯一の「解」なのかといえば、ぼくはそんなことはないと思います。  結局のところ、 

シンデレラたちの十二時。最高の作品に「最高のその先」を求めたい気持ち。

『響け! ユーフォニアム』を観て「あずにゃん問題」を再考する。

 今季の新作アニメを粛々と消化しています。  今季の目玉はやはり『アルスラーン戦記』あたりかと思いますが、そのほかにも注目作は多いですね。  そのひとつが『響け! ユーフォニアム』。  武田綾乃による小説を京都アニメーションが映像化した一作です。  京アニの音楽ものということで、どうしても『けいおん!』を連想させられるのですが、それとはまたひと味違う雰囲気の一作に仕上がっています。  非常に王道の青春ものという印象を受けますね。  『けいおん!』は音楽ものとはいっても、じっさいにはぬくぬくとした仲間空間の心地よさを描くことに主眼がありました。  しかし、『響け! ユーフォニアム』は何らかの「競争」を描くことになるのではないかと思います。  ただ仲良くしているだけではいけないような何らかの競争原理が働く世界なのではないかと。  どこまでシリアスな話になるかは未知数ですが、京アニの新境地を期待したいところです。  ところで、この作品を見ていると『けいおん!』放送当時の議論(?)を思い出します。  その頃、「あずにゃん問題」(笑)という問題提起がぼくたちの間であって、つまり「中野梓(あずにゃん)は軽音部のあのぬるい空気のなかで堕落していってしまっていいのか?」という話だったんですね。  努力すれば光るかもしれない才能を持っているのに、それを微温な仲良し空間で腐らせてしまっても良いものなのか、と。  もちろん、明確なアンサーが出る話ではありませんが、この問題をぼくはずーっと抱え込んで考えているのです。  ペトロニウスさんは「日常をたゆたい「いまこの時の幸せをかみしめる」か、それとも志と夢を持ってつらく茨の道をかけのぼるか?」と書いていますが、つまりは「成熟か、成長か」という問題であるのだと思います。  ひととして成熟し幸福になればなるほど、そのすべてを捨ててさらなる成長の試練に挑もうというモチベーションは薄くなる、ということ。  ぼくは昔、 

『響け! ユーフォニアム』を観て「あずにゃん問題」を再考する。

「贅沢貧乏」に憧れて。お金を使い過ぎず豊かに暮らすことは可能か?

 お金が欲しい。  収入を増やしたい。  一方でそう願いながら、他方でぼくは「つましい生活」に憧れている。  むろん、貧乏を希望しているわけではない。清貧の思想とやらにかぶれたわけではさらさらない。  ただ、わが身の浪費を思うとき、もう少し少ないコストで快適に暮らしていけるのではないかと思わずにいられないのだ。  いまのままでは、仮に収入が倍になったとしても、その分をすべて無駄に使い尽くして終わるだけかもしれない。  それは相対的に贅沢な暮らしではあるだろう。だが、ぼくが考える「豊かな人生」とは異なる。  お金が欲しい、収入を増やしたいと強く望みながら、反面、ぼくは「極力お金に頼らずに生きて行く方法」について考えているわけなのである。  西園寺マキエ『稼がない男』を読むと、その「お金に頼らない生活」を成し遂げたひとりの男性の人生を見ることができる。  著者の恋人であるヨシオ(仮名)は、早稲田大学を優秀な成績で卒業し一流企業に就職しながら、あっさりとその就職先を捨て、「稼がない人生」に突入する。  ヨシオの年収はわずか150万円弱。かれは生活のすべてをその金額でまかなっている。  常識的に考えれば困難だが、そもそもあまりお金を使わない生活をしている上、生活に必要なあらゆる雑費を緻密に算出して管理しているため、この金額でも困らないのである。  もっとも、たとえば突然パソコンが壊れたとき、途方に暮れるしかないことも事実。  それでもヨシオはどこまでも楽天的で、「稼がない人生」をほとんど享楽的に味わい尽くす。  著者はこの心優しい「稼がない男」の生きざまを数十年も追いかけていく。  ぼくがこの本を読むと、「ああ、この収入でも生きてゆくことはできるのだな」となんとなく安心する。  そして、その上で自分はなるべく稼ごうと考える。  人間の幸福はお金では決まらない。それはたしかだが、一定額のお金はある程度の「自由」を保障する。  そして、ぼくはヨシオとは違って、その「自由」を放棄できるほどに悟ってはいないのである。  とはいえ、「最低金額での生活」はそれはそれで魅力的だ。  じっさい、様々なものが安価になったいま、無駄な出費を避ければ、限りなくローコストで楽しい人生を送ることができるだろう。  テレビアニメの録画にも、ニコニコ動画の鑑賞にも、LINEやSkypeでのやり取りにもほとんどお金はかからないことであるし。  山崎寿人『年収100万円の豊かな節約生活』を読むと、その節制生活をさらに突き詰めた人物を発見できる。  この本の著者は、生活のあらゆる無駄を切り詰め、年間わずか100万円で暮らしている。  この「楽しく」というところが重要で、かれの生活は決して暗くもなければ憂鬱でもない。  ただ無意味な出費を避けているだけで、かれは十分に「贅沢」な人生を送っている。  ぼくがあこがれる「つましい生活」の理想形がここにある。  何より、日々の食事に凝っているところに惹かれる。  そう、あえて大金を蕩尽しなくても、手間さえかければ美味なものは食べられるのである。ラグジュアリーなレストランの最高級ディナーとまでは行かないとしても。  「お金に頼らない人生」は 

「贅沢貧乏」に憧れて。お金を使い過ぎず豊かに暮らすことは可能か?

生きているってほんとうに素晴らしいことですか?

 てれびんは砂地を掘って回る犬のような奴で、時々、ネットを探りまわっては奇妙な漫画を見つけてくる。  草野佑『余命¥20,000,000-』もそんな一冊。  見つけてきた本人が買おうかどうか迷う様子だったので、ぼくが買って読むことにした。結果としては面白い本だった。  物語は、ある家にひきこもっている「草間さん」という人物が2000万円の懸賞をあてるところから始まる。  こうして預金0円でゆるゆると消滅しようとしていた彼(彼女?)の余命は、2000万円分延長されることになった。  しかし、草間さんはそれで生き方を変えるでもなく、ひたすらローコストなひきこもり人生を全うしようとする。  偶然から草間さんと知り合うことになった主人公はその姿勢に戸惑うのだが――という話。  人間関係をこじらせて会社を辞めるも、なんとか再就職先を探して必死に俗世間で生きようとする主人公と、生きることそのものを放棄してしまったような草間さん。ふたりのコントラストが面白い。  それにしても、実に危険な作品である。  この本を読んでいると、「生きていること」、「働いていること」に対する根本的な疑問が湧いてくる。  なぜ生きていかなければならないのだろう?  どうして働く必要があるのだろう?  そういう根本的な疑義が湧き出してきて、「生のエネルギー」を根こそぎ奪っていかれそうになる。  いや、ぼくなどひとの半分も生きていないような人間だが、そういうぼくでもこう思うのだから、真面目に働いているひとなど、泥沼のような誘惑に捕らわれるのではないか。  さもなければ、激しい嫌悪を抱くかもしれない。  ここにあるものは、生きていくことを自然とみなし、生きていこうとする意思を称える「エロスの価値観」の対極にある思想である。  仮にそれを「タナトスの思想」と呼ぼうか。  ひとが疲れ、ひとり倒れ伏すとき、タナトスは妖しく誘いかけてくる。  そんなにまで辛い思いをして生きている必要があるのかな?  そのまま何もかも忘れて眠ってしまえばいいじゃないか。  そうして、すべてを捨ててしまえば、それで済むことじゃないか。  捨ててしまえ――あまい囁き。すべてを捨ててしまえば、楽になれる。  幸いというか、ぼくはいままで何とか生きてこられたが、それは自分の功績というよりは、ほとんど幸運のおかげだと思っている。  べつだん、生きていくことが偉いなどと思ったこともない。生きているほうがいいという確信もない。ただ、たまたまこの歳まで生きのびただけだ。  もちろん、ことさらに死にたいわけでもないけれど、生はいかにも億劫で、死は魅惑に富んでいる。  何より、生まれつき働くことに適していないぼくなどは、働くくらいなら死んだほうがいいかな、と本気で思う。  そう、「なぜ働かないといけないのか?」を突き詰めると、「働かないと生きていけないから」という考えに突き当たる。  しかし、それは逆にいうなら「生きて行くこと」をあきらめてしまえば働かなくても良いということだ。エロスの価値観を捨て去ってしまえば、ありとあらゆる苦悩が解決するわけだ。  これは途方もなく魅力的なことではないだろうか。  少なくとも草間さんを見ていると、どうしようもなくそんなふうに思えて来る。  一生懸命働いて、家族を作って、子供を育てて――そんな「まともな人生」、「規範的な生活」とされるものは、いま急速に崩壊しつつある。  あたかも、日本全体が繁栄の夢から醒めようとしているように。  そんななか、「生きること」はよりいっそう苦しさを増していこうとしている。  それでも、なお、あくまで「生」にしがみついて、必死に生きていこうとする人たちを、ぼくは偉いと思う。  しかし、一方で「死」にすべてを委ねてしまうというあり方も決して否定されるべきではないはずだ。  『三日間の幸福』について書いたとき、ぼくは「ここではあまりに生が軽んじられている」という意味のことを書いた。  いまでもその考えは変わっていないのだが、「生」の価値のすべてを知り尽くした上で、なお、ゆるやかな「死」を選ぶというあり方は尊重する。  生きていたくない。 

生きているってほんとうに素晴らしいことですか?

萌えラブコメが「ハーレムファンタジーのタブー」を乗り越える日は来るか?

 ぼくの今年いちばんのオススメ作品であるところの『妹さえいればいい。』などを読んでいると、日常系ラブコメがだんだん「現実」に近づいていっているのを感じます。  不毛な対立軸を乗り越え、ルサンチマンを乗り越え――人々はついに現実を受け入れようとしているように見えるのです。  もちろん、そこで描かれる現実はきわめて誇張されたものであるには違いないのですが、どうだろう? それくらい極端な日常は、案外、いまどきめずらしくもない気もします。  少なくともぼくは『妹さえいればいい。』を読む時、「ああ、ぼくの日常とたいして変わらないな」と思う。  ただ女の子がいないだけで(笑)、ひたすらばかなことをやって遊んでいるところは共通している。  もはやこのファンタジーはそこまで極端にファンタジーだとはいえなくなっているんじゃないか。  ところが、いまのところそこにひとつだけ残った明確なファンタジーがあるんですね。  それは「ヒロインは主人公のことを好きになる」ということ。いわゆるハーレムファンタジー。  このファンタジーがあるかぎり、どんなに魅力的な男性キャラクターが出て来ても、主人公以外と結ばれることはありえないということになります。  もちろん、『ニセコイ』みたいに端っこと端っこでくっついている、つまり主人公の友達とヒロインの友達がくっついている、みたいなパターンはあります。  しかし、基本的にはやはり「序列上位」のヒロイン、つまりいちばん可愛い女の子たちは主人公のものでなければならない、というのが萌えラブコメのルールなのです。  それこそ『ニセコイ』でも『化物語』でもいいですが、上から数えて1番から5番くらいまでの可愛い女の子はすべて主人公を好きになる。  そういうルールが萌えラブコメには存在しています。そういうものなのです。  ただ、ぼくはどうしてもそれが納得いかなくてね。  だって、不自然じゃないですか? 世の中にはたくさんの魅力的な男性がいるというのに、主人公ひとりだけがすべてを持っていくということは。  長い間、萌えラブコメにはある種のテンプレートを除いては男性キャラクター自体が登場しえないことが常識的でした。  「主人公の友達」とか「主人公の師匠」とか「金持ちのライバル」とか、そういう必要最小限のキャラクターは出て来るんだけれど、本格的に主人公を脅かす存在は出て来ないということですね。  もちろん、細かく見ていければいくらか例外はあるでしょう。  しかし、全体的に見ればやはり主人公にとって危険な存在となりかねない魅力的すぎる男性キャラクターは(あて馬的登場を除けば)ありえないものだったといっていいと思います。  それも少々変わってきているのかな、と思わせる作品はあります。  たとえば 

萌えラブコメが「ハーレムファンタジーのタブー」を乗り越える日は来るか?

『Fate』衛宮士郎は滅私奉公のバケモノとなるのか?

 『Fate/stay night[UBW]』が再開しましたね。  サーヴァントであるアーチャーがマスターである遠坂凛に背く中盤のクライマックス。  ここから「アーチャーは何を考えているのか?」という謎を巡って物語は佳境へ突き進んでいきます。  最終的には最初にして最強の英霊・荒ぶる半神王ギルガメッシュとの対決が待ち受けているわけなのですが、士郎はその前にアーチャーとの決着を付けなくてはなりません。  あくまで「正義の味方」を目ざす士郎と、その欺瞞を突くアーチャー。近年まれに見る激闘の行方やいかに?  まあ、士郎やその義父・切嗣の生き方というものは、やはりどうしても無理があるよなあ、とぼくも思います。  「全人類の救済」とか、そんなもの個人が背負いきれるわけないんですよ。背負おうとして良いものでもない。  ある人を救おうとすることはべつのある人を犠牲にすることであり、ひとつの正義を貫けばべつの正義と衝突するのが現実というものなのですから。  とはいえ、リアリストの凛ですら惹きつけられるほどに士郎の理想は美しい。  それはもう、ある種宗教的な美しさといっていいでしょう。  常人ならば一歩か二歩であきらめるであろう酷烈な道をひたすらに征く、その凛然とした生き方――そこにはたしかに強烈なロマンがあるのです。  『Fate』という物語の魅力は、一面ではその「マクロに殉じる」姿の美しさにあることでしょう。  そういう意味では、『進撃の巨人』とかにつながっていく文脈にある作品なのかもしれません。  もっとも、それも次の「Heaven's Feel」では崩壊してゆくわけなのですが――。  とにかく、セイバーの生き方は「国」という境界を定めてその内側だけを守るという制限を設けているため、まだしも成立しますが(それさえ「王としてふさわしくない」とかいわれちゃうわけですが)、士郎や切嗣の人生はほんとうに「無理ゲー」だと思う。  自分のミクロな人生よりも、マクロな世界のあり方のほうをどこまでも優先する人生――それはもう、「人の生」とはいえないシロモノなのかもしれません。  おそらくそうした「生」を貫けるものは、もはや人外のバケモノとしか呼びようがない存在なのでしょう。  桂正和の『ZETMAN』なども、そういうヒーローの姿を描いていますね。  「私」の一切を封印して、「公」のために生きる。  滅私奉公。  それは一種、ファシズムにつながっていきかねない危うい思想ではありますが、あくまで物語のなかで見るのなら、何ともいえずひとを惹きつけます。  そしておそらくほんとうに一切の感情を差し挟むことなくマクロのことを考え処理する存在とは、もはや人間ですらなく一種の「装置」であるに過ぎない、といえるでしょう。  ぼくが思いつくところでは、『ファイブスター物語』の天照の帝がこれですね。  天照は魔導師ボスヤスフォートの侵略を受けても一切の報復を行うことがありませんでした。  その気になればボスヤスフォートとそのバッハトマ帝国を一瞬で灰にすることもできたのにもかかわらずです。  天照にとっては「部下を殺された」とか「領土を侵された」、「玉座を穢された」といったことは何の意味もないのに違いありません。  かれはただ一個の「装置」としてマクロ的に最善の政策を選択するだけなのです。  これは天照が本質的に人格を持たない「神」だからなしえることで、生身の人間が真似をしようとしたら恐ろしい苦悩を味わうことになります。  その苦悩を体現しているのがたとえば 

『Fate』衛宮士郎は滅私奉公のバケモノとなるのか?

「声優だけはやめておけ」。大塚明夫が赤裸々に語る声優業界のきびしい現実。

「明夫さん、なんで私に仕事が来ないんでしょう……」  ある時、私にそう相談してきた若手がいました。一番下のランクであがいている声優です。  同じ現場にも入ったことがある私はすぐに答えました。 「下手だからだよ」  大塚明夫『声優魂』を読み終えました。  これはちょっと快心の名著ですね。相当に売れてもいるようで、ぼくは自宅周辺の書店では入手できず、Amazonでも見つけられずに、結局、書店横断検索をしてブックオフオンラインで購入しました。  手間をかけた甲斐のある読書だったと思います。  ぼくは特に声優に興味があるほうではなく、もちろんこれから声優になるつもりもさらさらありませんが、「プロフェッショナルであること」について学ばせてもらったような気がします。  ただのカン違いかもしれませんが。いや、カン違いであるとしとても、実に充実した読後感です。  素晴らしい内容なので、特にこれから就職して社会に出るような世代の人たちには全力でオススメします。  「社会人としてのあり方」を学習するためにはこれ以上ない一冊かと。  本書の趣旨は一貫しています。  「声優だけはやめておけ」。  これに尽きる。  一見すると 

「声優だけはやめておけ」。大塚明夫が赤裸々に語る声優業界のきびしい現実。

『アルスラーン戦記』開幕! 原作既読者の視点からその魅力を考える。

 季節は早春、新しいアニメが始まる頃合い――というわけで、新番組『アルスラーン戦記』第1話を観ました。  大陸を東西に貫く〈大陸公路〉の覇者・パルス国の王子アルスラーンの長い長い物語がここに始まるわけですが、実はこの第1話はまだ「序章」。  本格的に物語が動いてくるのは次の第2話からになると思われます。  実はこの第1話にあたるエピソードは原作小説には存在しません。  小説は、この3年後の〈アトロパテネの会戦〉から始まります。  それでは、アニメが独自にこの「序章」を挟んだのかというと、そういうわけではなく、この第1話は荒川弘による漫画版のオリジナルなのです。  つまり、序盤からすでにオリジナル・エピソードを入れ込んできたわけなのですが、この判断は英断だったと思う。  いきなり一大敗戦から始めてしまう小説の冒頭も素晴らしいのですが、この漫画/アニメの「序章」はよりていねいな印象を与えます。  しかも原作既読者にとっては「なるほど! こう来たか」と唸らされる展開でもある。  雑誌で漫画版の第1話を見たときは「さすが荒川弘」と思わされました。  この第1話に登場する「ルシタニアの少年」の正体は、実は――まあ、原作既読でわかるひとはこの時点でもうわかることでしょう。  ちなみに漫画/アニメでは、原作とくらべてもアルスラーンの繊弱さ、凡庸さがいっそう強調されています。  これはより低年齢層向けの少年漫画としてわかりやすいエンターテインメントに仕上げるためだったのでしょう。  ほんの少しの違いなのですが、その「ほんの少し」が決定的な効果を生んでいる。  いまの時点ではアルスラーンはその地位以外にはまだ何も持っていない平凡な少年に過ぎない。  そして、この頼りない少年が万人が仰ぎ見るパルス中興の祖・解放王アルスラーンにまで成長していくのです。  そのスケールの大きさはやはりあたりまえのファンタジーとはひと味違っていますね。  荒川弘による脚色も凄かったし、アニメそのものの出来も相当のものですが、やはり何より原作小説の出来そのものがあまりにも素晴らしい。  かつて『アルスラーン戦記』は一度アニメ映画化されているのですが、そのときはまだ技術的に作品世界を映像化することに無理がある印象が強かった。  じっさい、原作の第5巻あたりまで追いかけてそのシリーズは終わっています。  しかし、この新しいテレビ版はおそらく圧倒的人気を集めることでしょう。  漫画版は既にベストセラーになっているようですが、アニメが人気が出れば、さらに破格の部数が出るんじゃないかな。  『鋼の錬金術師』や『銀の匙』以上のセールスを記録することができるかもしれません。 原作の長年のファンとしては実に嬉しい事です。  わずか数年で「賞味期限」を迎えて忘れ去られていく作品も少なくないなか、30年近くの時を経てもなお第一線のエンターテインメントとして通用する『アルスラーン戦記』の凄みはやはり尋常のものではありません。  きっとこれが「本物」ということなのでしょう。  流行にも、時代の流れにも左右されない「本物」の面白さ。  特に非西洋世界、それも往古のペルシャを参考にして舞台を作り上げたオリジナリティはいまなお色褪せてはいない――というか、いまでもほとんど追随するものがいない状態です。  『アルスラーン戦記』では今後、インドとかチベットあたりがモデルになった国家も出て来ます。  パルスの周辺では、さまざまな野心的な国が牙を研いでいるのです。  やがては 

『アルスラーン戦記』開幕! 原作既読者の視点からその魅力を考える。

もっと新しさを! 映画『ゴティックメード』は自己否定/自己破壊のプロセスそのものだ。

 何か良い作業BGMはないかな、ということで『花の詩女 ゴティックメード オリジナル・サウンドトラック』を借りて聴いています。  監督の意向により円盤が発売されていない作品なので、いまのところ作品を思い出すよすがとなるものはこのサウンドトラックと設定資料集くらいしかない。  『ゴティックメード』が『ファイブスター物語』と直接につながる作品であることがあきらかになったいま、円盤を発売すれば売れると思うのですが、原作・脚本・監督の永野護にはそんなつもりはさらさらないようですね……。  『ゴティックメード』は『ファイブスター物語』でいうところの星団暦451年の物語です。  本編のストーリーからおよそ2500年前の話ということになりますね。  それだけならまだいいのですが、この映画『ゴティックメード』を境にして『ファイブスター物語』の世界はその様相を一変させることになります。  それまでは騎士と生体コンピューター・ファティマ、それに巨大戦闘ロボット・モーターヘッドが活躍する世界でした。  しかし、ファティマは「オートマティック・フラワーズ」と呼ばれるようになって「アシリア・セパレート」という新たな戦闘服をまとい、何よりすべてのモーターヘッドが「ゴティックメード」へと姿を変えるのです。  それまでにもその展開を予感させるものはありました。  映画『ゴティックメード』の冒頭に現れるナイト・オブ・ゴールドらしき、しかし微妙に違うロボットは何なのか?  『ゴティックメード』の世界が星団史のどこかに位置づけられるとして、なぜこの巨大ロボットはモーターヘッドではなくゴティックメードと呼ばれているのか?  映画本編で一切活躍しないゴティックメードたちはいったい何のためにデザインされたのか?  しかし、ぼくを含むほとんどの視聴者がその微細な違和感をあたりまえのように捨て去ってしまったのでした。  そのときは、まさか永野護が世界ひとつすべての設定を捨て去り、リファインするつもりだなどとは想像すらできなかったのです。  かつてそんなことをやってのけた作家はなく、あるいはこの後もないかもしれません。  しかし、よくよく考えてみれば、その作業は「平行世界」を取り扱って来たゼロ年代からテン年代にかけてのアニメや漫画とシンクロするものでした。  ただ、永野は「平行世界」などという使い古された概念を使用することなく、一切の説明もなしに世界を入れ替えてしまったのです!  いままでも突然に超未来の話になったり、異宇宙、さらには神々の世界から物語が始まったりと、あらゆる意味で衝撃的な展開を遂げてきた『ファイブスター物語』ですが、それにしてもこれほどの展開を想像できたものはだれもいなかったでしょう。  連載30年にしてなお自分自身をアップデートしつづける。  ほかのクリエイターたちが追いついてきたならさらにまたひき離す!  その、想像力の冒険。  結果としてファティマやロボットのデザインはいままでにも増して異形となり、ある種、ピーキーな属性を持つに至りました。  好きなひとにとってはとてつもなく格好良く思える一方、そうでないひとにとってはまさに異常としか感じられないデザインではあるでしょう。  しかし、それでいいのだ、それこそが斬新ということなのだ、「超一流(プリマ・クラッセ)」でありつづけるということはそういうことでしかありえないのだ――そこに永野のその壮烈な宣言を感じないわけには行きません。  いままでにも 

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弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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