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2018年1月の記事 13件

だれからも愛されなかったとしても、愛することはできる。

 前々回の記事の続きです。その記事では、泣き叫んでいる子供は幸福になれない、と書きました。それでは、どうすればいいのか?  あたりまえの結論ですが、大人になるしかないということになります。泣き叫ぶことをやめて、現実と折り合いを付け、成熟すること。ところが、これがむずかしい。そもそも大人とは何なのか? ここでアドラー心理学の話が出て来ます。  『嫌われる勇気』の大ヒットで日本でも非常に有名になったアルフレッド・アドラーの心理学。ここではその続編である『幸せになる勇気』から引用させてもらいましょう。  この本は前作と同じく「哲人」と「青年」の対話によって成り立っているのですが、この箇所で「哲人」は「青年」に愛について優しく語っています。 哲人 愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である。愛によってふたりは、幸福なる生を成し遂げる。それではなぜ、愛は幸福につながるのか? ひと言でいえばそれは、愛が「わたし」からの解放だからです。 青年 わたしからの解放!? 哲人 ええ。この世に生を享けた当初、われわれは「世界の中心」に君臨しています。周囲の誰もが「わたし」を気にかけ、昼夜を問わずあやし、食事を与え、排泄の世話さえしてくれます。「わたし」が笑えば世界が笑い、「わたし」が泣けば世界が動く。ほとんど、家庭という王国に君臨する独裁者のような状態です。 青年 まあ、少なくとも現代においてはそうでしょう。  ここから、「哲人」は自立とは「自己中心性からの脱却」であることを語り、そして、自立して大人になることとは「愛されるためのライフスタイル」を捨てて愛することを選ぶことであることを語っていきます。  そうです。愛すること。それによって人は「わたし」の檻(ナルシシズム)から抜け出て、「わたしたち」のための人生を送ることができるのです。  それは、世界の中心という玉座から降りるということです。世界が自分の思うままに動かないという現実を受け入れること。そして、それでもなお、他者を愛しつづけること。  それは、自分が他者のために犠牲になるということではありません。それは、喩えていうなら「あなた」のために生きるということでしょう。そうではなく、「わたしたち」の幸福を求めて生きることが重要なのです。  そして、その「わたしたち」の範囲は、全人類、全存在にまで広げていくことができるでしょう。この世に存在するすべての存在を深く愛することができるとき、人は、自分は幸福だということができるに違いありません。  それは「わたし」の欲望が充足されるというだけのこととは決定的に違う。人はだれかを愛し、貢献することによって「わたしたち」を主語とした人生を送り、そして泣き叫ぶ子供であることから抜け出すことができるということなのです。  しかし、そうはいっても、大人になることは、特にこの現代社会では、簡単なようでいて、意外にむずかしい。何といっても、優れて近代的な社会とは「人が子供でいてもかまわない社会」であるからです。  ですが、それでお、なお、ぼくたちはみな、泣き叫ぶ子供から成長して大人になるべきだと思います。人はそうやって初めて、幸福になることができるのだから。  碇シンジ少年のように「みんなもっとぼくに優しくしてよ!」と叫んでいるうちはほんとうの意味では大人にもなれない。そうではなく、「自分はどう人に優しくすることができるか?」と考えるべきなのです。  たぶん、そういうことを自然にできる人間を「モテ」というのだろうな、と思うのですが。ぼくが好きな二村ヒトシさんとか、宮台真司さんの議論も、すべてはここに結集していきます。  「愛されることを求めるのではなく、承認され、肯定され、誉めそやされ、ちやほやされることを願うのではなく、自ら愛すること」。それが人をナルシシズムの小部屋から解放するたったひとつの鍵です。  その時、人はだれかの痛みを自分の痛みのように感じ、だれかの哀しみを同じように哀しむことになるでしょう。しかし、そのかわり、だれかの歓びを自分のことのように歓ぶこともできるのです。  とはいえ、あくまで「わたし」にこだわることをやめるとは、何とむずかしいことなのでしょうか。ぼくはちょっと自信がないかもしれません。やっぱり、愛されたいよね……。  ですが、皮肉なことに、「愛されたい」と望んでいる人ほど、ほんとうの意味では愛されません。自ら愛する人こそが愛を手に入れていくのです。  以前に話した恋愛工学の話もここにつながっていくのですが、とりあえずこの話はこれで終わりましょう。  愛されることを待つのではなく、自ら愛すること。むずかしいよね。でも、それこそが人を救うのです。  ぼくはそう信じます。 

だれからも愛されなかったとしても、愛することはできる。

たとえだれからも愛されなくても。

 栗本薫『翼あるもの』は、まだボーイズ・ラブとかJUNEといわれるジャンルが存在しなかった頃に書かれた作品です。 この作品は上下巻で同じ出来事を別の視点から描くという凝った構成になっているのですが、ぼくが取り上げたいのは主に下巻で描かれている森田透の物語です。 透は、上巻の主人公である今西良の、いわばシャドウとして生きてきた若者です。良と同じグループで芸能人としてデビューしたものの、良の影であることに甘んじることができずに脱退、その後は転落の人生を送っていきます。  しかし、そうなってなお、透は良のことを忘れることができません。いつもスポットライトのなかにいる良、光のサークルのなかで常に輝き、だれからも愛され、栄光と讃嘆をほしいままにする良を、だれよりも愛しているのは他ならぬかれだったのかもしれません。  そして、そんなかれを保護しようとするひとりの男が現われます。オオカミのような不器用で大きな男、巽竜二。巽は限りなく破滅的で自暴自棄な透に惚れ込み、かれがいまやトップスターになった良に対するあこがれと恨みを忘れられずにいることを嘆きます。  かれは透に愛しているといい、くり返しかれを慰め、透もやがてかれを愛するようになっていきますが、それでも透は良に対する想いを消せません。  その結果、巽は、そんなに良に執着するなら自分が良のことをめちゃくちゃにしてやるといって、良に近づいていきます。透は、良に近づけばあなたも良のことを愛するようになってしまうと危惧しますが、巽はそんなことはありえないと笑います。  ところが、何と、結局は透のいう通りになってしまうのです。巽は良を愛するようになり、そして、それによって、かれが透に向けていた感情は、本物の愛でもなんでもなく、単なる傷ついた子供に対する同情、ほのかな憐憫に過ぎなかったことがあきらかになります。  巽は透にどんなに怒ってもいい、ののしってくれ、殴ってくれといいますが、透はわかっていたことだと薄く笑うだけ。  『翼あるもの』の下巻「殺意」は、こういう、限りなく整った白皙の美貌に生まれながら、どうしてもだれからも愛されない、本物の愛情を得られない運命を背負った森田透の物語です。  しかし――さらにここから先があります。やがて、巽が危機に陥ったとき、透は、自分を愛してくれなかったかれのために自らを犠牲として投げ出すのです。なぜか? もちろん、愛しているから。決して自分を愛してはくれなかった巽を、それでもかれは愛していたからです。  ぼくはね、ここを読むと毎度毎度、ほんとうに泣けるんですよ。もう、ボーイズ・ラブがどうとか、JUNEだから何だとか、そういう次元にある話じゃない。これは世にも美しい、愛と献身の物語です。  ここから読み取れるメッセージとは何か? それは、人は、愛を求めて泣き叫ぶ子供であるうちは苦しみつづけなければならないけれど、いつだって愛する側に、大人の側に回ることができるということです。  ぼくは栗本薫の実に全作品のテーマはこれだったと思っています。愛されたい、愛してほしいと嘆く子供であることを脱却して、愛をささげる大人になること。  『グイン・サーガ』では、ヴァレリウスがアルド・ナリスに向かって、わたしはあなたを愛していますよ、何を怖がっているんですか、と語りかけますが、すべては同じテーマの変奏曲です。  人は愛を、承認を、讃嘆を、栄光を、肯定を、モテを求めつづけているうちは幸せにはなれません。たとえひとたびそれを手に入れたと思っても、決して満足することはないからです。  そういう人間はブラックホールのように他者の賞賛を求めつづける人生を送るしかありません。たとえば、『グイン・サーガ』のイシュトヴァーンがそうであるように。そういう人格は「泣き叫ぶ子供」のそれなのです。前回の記事で書いた不機嫌な子供と何ら変わりありません。  直接的には、かれのそういう人格ができあがった責任は、たとえば両親にあるかもしれません。しかし、それはしかたないことです。受け容れなければならない現実です。どんなに嘆いても、もがいても、愛は決して降っては来ないのです。  あるいは、仮に愛されたとしても、自分の側に準備が整っていなければ、それを受け入れることはできません。そして、もっと、もっととさらなる愛を望みつづけることになります。愛情飢餓とはそういうものです。  一見すると、「モテ」のように見える人が限りなく「非モテ」的な行動、言動を取りつづけることがあることはここに理由があります。非モテはモテてもそれだけは幸せにはなれないんですよ。心が非モテだからです。魂が飢えているからです。  だれかに承認されればいっときは幸せになれるかもしれない。でも、それは本質的な解決になりません。泣き叫ぶ子供でいるうちは人はほんとうに幸せになれないのです。それが、この世の真実です。 

たとえだれからも愛されなくても。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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