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記事 8件
  • 「地獄」から「天国」へたどり着くためのルートとは。

    2016-09-20 17:05  
    51pt

     恋愛工学の話は終わったと書きましたが、どうにも書きたいことが湧いて出てくるので番外編をひとつ。いや、まだ続くかもしれないので「番外編1」としておきましょうか。
     この話、いつまでも延々と続くような気もする。いいかげんいやになっている人もいるでしょうが、ぼくは書きたいことを書きたいように書くのだ!
     すいません、『麒麟館グラフィティー』の話も必ず書きます。赦してください。平身低頭。
     さて、ネットでおそらく最も手きびしく恋愛工学を批判した記事に以下があり、このように書かれています。

     僕は恋愛工学の信奉者を、特別にミソジニーだとか下卑た人間だとは思わない。頭悪いんだなとは思う。ナンパブログにも言えることだが、恋愛工学徒が書いたりしてるものを見て思うところがあるのは、「とにかくやりまくりたい!」とかじゃなくて「ただ普通に女の子と仲良くなりたいだけなんだ…」という人が少なくないことだ。その
  • コミュニケーションのクオリティは「メディア力」で決まる!

    2016-05-06 11:51  
    51pt

     山田ズーニー『あなたの話はなぜ「通じない」のか』読了。ひと言、素晴らしかった。
    「山田ズーニー」という奇妙な筆名に偏見を抱いていたが(まさか本名じゃないだろう)、読んでみれば実に骨太で説得力に富む一冊だった。
     いままでぼくが抱えていて、しかも抱えていることに気づいてすらいなかったいくつもの問題点に対する解答が明快に記されていた。
     コミュニケーションというより、「ひとに自分の意見を伝えること」について悩んでいる人すべてに対する適切なアドバイスである。
     これほどに実りのある本だとは思っていなかったのでさらさらと一読してしまったが、もういちどていねいに読み直さないと、と感じるくらい。
     これほど多くの「発見の感動」があった本は、アドラー心理学について解説した『嫌われる勇気』以来だ。
     本書は、初めから終わりまで実に無駄がない本である。どこにも埋め草めいた個所がなく、ぎゅうぎゅうに中身が詰まっている。
     そのなかでも印象深いのは、本書がただ「主張の内容が論理的であればいい」とはしていないところだ。
     本書によれば、いくらロジカルな主張であっても通じないことがある。
     相手に嫌われていたり、そうでなくても不信感を抱かれている場合だ。
     人間をひとつのメディアだと考えると、「メディア力」が下がっているのである。
     新聞のようなメディアに喩えるとわかりやすい。たとえば同じニュースを伝えるにしても東スポと朝日新聞ではメディアとしての性質が違う。
     どちらが優れているという単純な話ではなく、両者は別ものなのだ。
     それは人間でも同じことだということ。
     このメディアとしての性質、徳望、信頼感などのことを、著者は「メディア力」と呼んでいるわけだ。
     この本が優れているのは、その「メディア力」を築く方法について紙幅が割かれていることだ。
     この本によれば、メディア力を上げることこそが話を通じさせるためのいちばんの基礎である。
     この本では、どうしたら自分という人間への信頼と共感を高めながら、相手にいいたいことを伝えればいいか、そのための技術が記されている。
     そういう意味では、この本は「ディベートのように強い自己主張で相手を言い負かす論法とは決定的に違う」と著者はいう。
     ただ主張を押し通せばそれでいいというものではないのだ。
     主張は通したが、相手には嫌われてしまったでは、本末転倒である。
     それでは、自分のメディア力を上げるために、多少のうそを吐くことは赦されるのか。自分のほんとうにいいたいことはいくらかごまかして、相手に合わせるべきなのだろうか。
     そうではない、と著者は語っている。
     表現は「何をいうか」より「どんな気持ちでいうか」が大切である。
     根っこに愛情があれば、「バカ!」といっても温かい。逆に、根っこに軽蔑をためた人から発せられる言葉は「おりこうさん」といってもバカにしている。
     その人の根っこのところにある想い、あるいは発言の動機、著者はそれを「根本思想」という。
     根本思想は、短い発言でもごまかしようがなくにじみ出て、相手に伝わってしまう。
     ふだん環境に関心がない人が、テクニックを駆使して環境保護を訴えても人の心に響かない。
     そう、ただ技術だけ磨けばいいというものではないのだ。
     逆にいえば、根本思想はそれだけ強いものだから、根本思想と言葉が一致したとき、非常に強く人の心を打つ。
     あくまでも「自分の想いにうそを吐かない」ことが大切なのだ。
     しかし、あくまでも自分の想いにこだわるなら、相手と衝突することは避けられないのではないだろうか?
     そこで、技術である。
     この本には、いかにして相手を不快にさせずに自分の想いを正確に伝えるのか、そのための技術と思想と論理がいっぱいに記されている。
     著者は、通じ合えずに苦しむ人の志は高い、という。
     もし相手を決めつけて切り捨ててしまっているなら、その苦しみもないはずだからだ。
     志が高いからこそ、傷つき、また苦しむのだ。
     それでは、ぼくたちはそんな苦しいコミュニケーションを通じて何を目指しているのだろう? コミュニケーションのゴールとはどこにあるのだろうか?
     ただ阿諛追従を使ってでも相手の賛意を得れればそれでいいのか? そういう人もいるかもしれない。しかし、「志が高い」人間はそうではないはずだ。
     著者はいう。「自分の想いで人と通じ合う、それが私のコミュニケーションのゴールだ」と。
     単なるきれいごとに聞こえるだろうか。しかし、 
  • 面白いブログ記事を書くためにまずやるべきこととは?

    2016-05-04 18:12  
    51pt

     山田ズーニー『あなたの話はなぜ「通じない」のか』を読んでいます。
     なぜこの本を選んだのかといえば、前の記事でも書いた通り、コミュニケーションの技術を学びたかったからです。
     Amazonで「コミュニケーション」でサーチするとこの本が最前列に出てきたのですね。
     しかし、読んでみると、あにはからんや、単に対人コミュニケーションで役立つという次元を超えて、ブログの書き方にも参考になる点多数でした。
     いや、めちゃくちゃ参考になりましたよ。
     まあ、最も広い意味でのコミュニケーションについて書かれた本だから、あたりまえといえばあたりまえの結果なのですが、いかにこの本がコミュニケーションの本質を鋭く突いているかということだと思います。
     それでは、この本のどこがどうブログの執筆に役立つと思うのか?
     まあ、細かい文章の技術などについては書かれていませんし、役に立ちません。文章技術の本ではないのだから当然です。
     そうではなく、文章の構成の仕方そのものについて非常に有益な情報が多かったと思うわけです。
     ぼくはこのブログの記事を書くとき、何かしら「コンセプト」を設定しています。
     あるいは「主張」といったほうが良いかもしれないけれど、まず初めに「この記事は何をいいたい記事なのか?」を考えるのですね。
     それは最終的にタイトルに象徴されることになるわけだけれど(タイトルは最後に考えているのです)、たとえば前の記事だったら「ナンパとコミュニケーションスキルについて書こう」という程度のことは考えてから書き始める。
     ここがあいまいだと、あまり面白い記事が仕上がらない。「ナンパとコミュニケーションスキルについて書こう」もけっこうあいまいだから、前の記事はそこまで面白くないと思います。
     自分でそんなことをいってしまっていいのだろうかという気もしますけれど、まあ、いいでしょ。
     さらにいうと、まったくコンセプトを考えないでいきなり書き始めている記事もあります。
     以前はそういう記事が多かった。たとえば本の紹介なんかは、コンセプトがなくてもそこそこ書けてしまうのです。
     あらすじを書いて、それに対する感想を書いて、あとひとつふたつ雑談を付け加えておけば、それで一応、文字数は埋まる。
     でも、そういう記事は概して面白くない。まあ、なかにはそういう記事もあっていいのかもしれないけれど、ぼくとしては力が入っていない記事なのですね。
     こういうふうに書くと、おそらく読者の皆さまも「ああ、あの記事はそれだな」と思いあたるものがあると思います。そして、おそらくそれはあたっています。
     やっぱり力を抜いた記事は読むほうにしてもわかるものなんですよ。どうしたって内容が薄くなりますから。
     だからぼくは「コンセプトがない記事はダメだ」と思っています。
     ただ、それなら具体的にどうやってコンセプトを設定すればいいか? そして、どのようにしてそのコンセプトからロジカルに文章を展開すればいいか? それがいままで良くわかっていなかった。
     ぼくはいままでそこを「ただなんとなく」やっていた。
     ただなんとなくでできるのだからぼくもそこそこ偉いものだと思うけれど(増長)、やはり手なりで書いているから根本的に実力が足りなかったと思います(反省)。
     そう、十数年間ネットに文章を書いてきて、読みやすい文章を書くための細々とした技術はだいぶ身についたと思うんだけれど、根っこになる構成力がいまひとつなのです。
     うーん、致命的じゃね?
     で、構成力とはつまり論理力なんですね。いかに明晰なロジックに基づいて書くかということが大切。
     そのことはわかっていたんだけれど、それでは、どのようにすれば論理力を鍛えられるかということがわかっていなかった。
     「こういうふうに書けばいい」と解説している本はいくらでもあるのだけれど、そういう本を読めば読むほど反発しちゃうので(笑)、身につかないのですよね。
     しかし、この『あなたの話はなぜ「通じないのか」』を読んで、初めてわかりました。
     文章のコンセプトとは「問い」のことで、そのロジカルな展開とは「いかにして問いに答えていくか」なのだと。
     つまり、ある事実が初めにある。たとえば、前の記事だったら「ナンパ」という「テーマ」が存在している(より正確には、ナンパについて書かれた漫画があって、そこからナンパというテーマをひっぱりだしてきているわけですが、まあ、それはいいとしましょう)。
     その「テーマ」に対し、なんらかの「問い」を設定するのが「コンセプト」なのですね。
     前の記事でいえば、ぼくはなかば無意識的に「どうすればナンパができるくらいコミュニケーションがうまくなるのか?」という「問い」を設定していた。
     それが即ちあの記事のほんとうの「コンセプト」であり、記事全体を端的に象徴するタイトルにもつながっているわけです。
     言葉の正しい使い方として合っているかどうかはともかく、ぼくの理屈としてはそういうことになる。
     ようするに、記事の「コンセプト」を発見するためには、目の前にある「テーマ」に対し、なんらかの「問い」を仕立てればいいということになる。
     これは、ぼくにとっては非常に画期的な発見でした。
     いいえ、 
  • どうすればコミュニケーションの達人になれるのか?

    2016-05-04 14:58  
    51pt

     きょうのエッチな漫画レビューです。
     このコーナー(いつコーナーになったんだろ)は、18禁ではないエッチな漫画を紹介することを目的としています。
     好評なのか不評なのかまったくわかりませんが、最近、ダンボールにひと箱その手の漫画を注文したので(笑)、もうしばらく続けるつもりです。
     いやさ、この手のぬるいエッチ漫画って、何か妙に心癒やされるものがあるんだよね。
     たくさん読んでいると、わりと幸せ。ダメ人間だなー、おれ。
     独身だからこそできることだとも思う。このままシングルで生きていこ。
     さて、きょう取り上げる作品は『クロスエッチ』。ナンパネタの漫画です。
     初めて愛した女性から「100人とセックスして、それでもわたしのことを好きだったら交際してもいい」といわれた主人公が、ストリートに出てナンパ師として成長していくさまを描いています。
     が、正直、あまり面白くない。もうちょっとナンパのテクニックとか詳細に描いていたら読む価値があるかもしれないけれど、この手の漫画の常であっけなく成功してしまうので、読みごたえがないのですね。
     まあ、エッチ漫画なんだから成功しないと困るのかもしれないけれど、物語としては盛り上がりを欠く。絵もあまりうまくない感じ。
     ただ、ぼくはナンパという趣味(?)そのものには興味がある。
     正確には、ナンパには興味がないけれど、コミュニケーション一般にはある。
     ぼくもコミュニケーションスキルがあるほうじゃないから、どうすれば人とうまくやり取りできるか? 知りたいと思うのですね。
     特に初対面の他者に対しどういうふうに対応すればいいのかということには大いに関心があります。
     初対面の人に逢うとき、事前に相手が情報を仕入れているのでなければ、好感度プラスマイナスゼロからゲームはスタートするはずです。
     そこからどうやって好感度を高めていくか? いい換えるなら「自分というメディア」の信頼度を上げていくか? そういうテーマについてはしょちゅう考えます。
     自分の苦手分野だからこそ、なんとかしたいと思うのですね。
     まず、簡単に改善できるのは、いわゆる「第一印象(ファーストインプレッション)」でしょう。
     よく「清潔感のある恰好」をせよ、といわれますが、まあまったくの正論で、真新しい服装に靴、まともな髪型であれば、容姿は普通であってもそこそこ好印象を与えられるものです。
     じっさい、髪型の第一印象に占める割合って大きい。で、ちょっと高い理髪店で髪を切ってもらえば、やっぱりそこそこかっこいい髪形になるものなんだよね。
     まあ、ぼくはいま全身性円形脱毛症でハゲとしての人生を送っているので、どうしようもないけれど……。治療に2年くらいかかるらしい。しくしく。
     とにかく、あまり気合いを入れておしゃれをしなくても、そこそこお金をかけた、くたくたになっていない、清潔感のある恰好をすることが大切なのでしょう。
     顔を洗うとか歯を磨くとかは当然として、とりあえずそこを押さえておけば、第一印象は悪くないものにできるはず。相手が同性であれ異性であれね。
     問題は、 
  • 細田守最新作『バケモノの子』は、父性不在の世界における葛藤を描く傑作映画だ。

    2015-08-19 00:21  
    51pt

     「正しい言葉」が、ある。
     大切なあの人に投げかけるべき真実の言葉が。
     そのひと言はすでにのど元まで出て来ている。
     なんと告げるべきなのかもうとうにわかりきっている。
     だから、あとはただその言葉を放ち、形のない銃弾で相手の胸を射抜く、それだけ。
     さあ、早く。
     さあ。
     しかし、どういうわけかその言葉はのどから飛び出さない。
     どんなに必死になってもすべては無駄に終わる。
     懸命にのどを掻きむしればむしるほど、想いは冷め、言葉は遠のいていくばかり。
     待って。
     お願い。
     待ってくれ。
     もう少しでこの想いを言葉にできるんだ。
     しかし、もう遅い。
     だれよりも大切なその人は去っていく。
     切なる想いはだれにも届くことなく、伝わることもない。
     そしてどうしようもなく途方にくれる。
     たったひとり喧騒の町並みに放り出された迷い子のように。
     ひとがひとと対峙しようとすることは、そういうことのくり返しではないだろうか。
     きっとどこかに「正しい言葉」がある。
     それさえ見つけ出せば自分の想いを正しく伝えることができる。
     そう思い、そう信じながらも、どうしてもその言葉を見つけられない。
     だから表現は乱暴に堕し、態度は尊大に変わって、いつしかその言葉を目ざしていたことすら忘れてしまう。
     それが人間存在の哀しむべき一面だろう。
     ディスコミュニケーション。いつだってそればっかりだ。
     細田守がこの夏ぼくたちに送り届けてくれた新作アニメーション映画『バケモノの子』は、そんな切なくももどかしいディスコミュニケーションを繊細に描き出した傑作である。
     世界に見捨てられた少年の成長――そして、かれを育てることによって自分自身が育てられていく一匹のバケモノの成熟。
     つい先ほどまで劇場にいたわけだが、素晴らしい映画体験だったことを告白しておく。
     前作『おおかみこどもの雨と雪』の時はついに入り込めずに終わったが、この『バケモノの子』でようやく細田守の世界に指先が届いた気がする。
     つまりはこの人は恐ろしく真剣で生真面目なのだ。
     かれの作品を見ていると、ついもっともらしく解釈を連ねたくなる欲求に駆られる。
     そもそもこの映画を見る前、前作を敬虔な母性の物語とするなら、今度は力強い父性の物語だろうかと憶測した人は少なくないだろう。
     ぼくもその種の偏見を抱いて劇場を訪れたことは否めない。
     しかし、やはり映画は無心になって見るべきものだ。シンプルに母性だ父性だと割り切れないものがここにはある。
     物語は、母親を事故で喪った少年・蓮が渋谷の街へ飛び出していくところから始まる。
     見知らぬ人ばかりの雑踏で、ほんの偶然、かれは一匹のバケモノと出逢う。
     熊鉄。
     乱暴者で口が悪く、腕っ節こそ強いがまるで人望がない男。
     なぜか蓮を気に入った熊鉄はかれをかってに弟子にしようとする。
     それというのも、現実の渋谷と平行して存在するバケモノの街を束ねる「宗師」の地位が、もう少しでだれかに禅譲されるところだからだ。
     武術の腕前はほぼ互角ながら人徳で大差をつけられているライバル・猪王山を追い抜くためには、掟破りの人間の弟子でも育て上げてみせなければならないというわけ。
     かくして嫌われ者のバケモノと見捨てられた人間の、奇妙な師弟関係が始まるのだが、それは蓮の成長とともに破綻を迎えることとなり――と、プロットはサスペンスフルに進んでいく。
     終盤、蓮が向き合うことを余儀なくされるのはかれが封印した「もうひとりの自分」だ。
     自分自身がそうであったかもしれない可能性。シャドウ。
     その存在は巨大な闇となってバケモノも人間も飲み込んでいくのだが――。
     映画全体を見ればそこまで洗練されたシナリオとはいいがたく、時折り、錯綜する展開を屋台骨が支えきれなくなっていると感じる時もあった。
     しかし、骨太な物語の力とファンタジー特有のマジカルなイマジネーションは、最後まで映画を先へ先へと牽引しつづけ、クライマックスでは美しい展開を迎える。
     その正しくも奔放な想像力の冒険は良質な児童文学を思わせるものがある。
     まさにアニメーションを見る快楽そのものである。
     『バケモノの子』というタイトルだから、熊鉄と蓮の関係を擬似的な父子関係と見、形ばかりのニセモノの親子が本物になっていくプロセスと見ることもできるだろう。
     じっさい、その見方は間違えていないと思う。
     しかし、ぼくはここに「親子」、「父と子」という関係が解体されたあとでのひとりの人と人の真剣な対決を見いだしたい。
     「見捨てられた子供」である蓮はいかにもアダルトチルドレン的に見えるが、かれを渋谷の街に放り出したかに見える大人たちにしても、ほんとうにそこまで悪しき存在なのかはわからない。
     冒頭、いかにも悪役然として描かれている蓮の祖父母にしたところが、真心から蓮を身請けしようとしたのでないとだれにいえるだろう?
     また、蓮のほんとうの父親もまた、別れた妻の死後、必死にかれを探していたのだった。
     だれもが必死で、だれもが懸命、ただそこには「正しい言葉」が欠けていて、だから「正しい関係」にはたどり着けない。そういうことでしかないのではないだろうか。
     蓮と熊鉄の関係もまた一日にして終わっていてもおかしくなかった。
     ところが、どんな奇跡か、ひととの関わり方をしらず、まして愛し方や教え方など考えたこともないであろう熊鉄と、世界から見捨てられたと信じる蓮は、互いの魂の欠けたところを補い合うかのように成長していく。
     いずれが父でいずれが子か、いずれが師でいずれが弟子かは、ここにおいてはもはや重要ではない。
     熊鉄は蓮を育てることによって自分自身のなかの子供を癒やしたという見方もできるだろう。
     だが、ここでも「正しい言葉」は致命的に欠けていて、ふたりはおっかなびっくり、くっついては離れてをくり返す。
     蓮が熊鉄と真剣な関係を築けたことは、ほんのささやかな偶然、「縁(えにし)」というべきだろう。
     はたして人として未熟な熊鉄に親として師としての資格があったのかどうか、それはわからないし、おそらくそんな資格を持っている者はだれもいないのかもしれない。そう思う。
     「先生」という言葉がある。「先に生まれた」と書く。
     じっさい、ひとを教え導く先生とは、「先に生まれた」だけのことに過ぎないのかもしれず、あとはすべて対等なのかもしれない。そうも思うのだ。
     「正しい言葉」がある。「正しい愛し方」が、「正しい教え方」がある。
     けれど、決してそれに手が届くことはなく、ひとにできることはただあがきもがくだけ。
     愛し方なんて知らない。愛され方なんてわからない。
     ひとはだれもが不完全な形でこの世に落とされて、溺れないように泳ぎつづけているだけなのだ。
     熊鉄も。
     蓮も。
     蓮の父親も。
     全知全能と見える宗師だってそうなのだろう。
     その意味でここに「父」はいない。
     『バケモノの子』は、絶対的な父性が不在の世界でそれでも懸命に「縁」をたどり、「絆」を見つけようとする人々を描いた作品だ。
     「正しい言葉」がある。そして「正しい関係」があり、「正しい親子」がきっとどこかにいる。
     いいや、違う、そんなもの、どこにも存在しない。
     じっさいにあるものは、不器用に関わりあいながら、時に愛し、時に憎み、時に成し遂げ、時にしくじる生身の人間同士の関係だけだ。
     理想は遠く、幸福は届かない。それでも、一歩ずつ前へ進んでいこう。
     映画はそう訴えかけているように思える。 
  • 暗くて内向的なオタクのススメ。群れず、つながらず、「孤独力」を磨こう。

    2015-07-15 05:08  
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     あるいはニコニコ動画の登場以来ということになるのかもしれない、「オタク」という言葉のイメージはずいぶんと変わった。
     それまでは「暗い/内向的な」イメージだったものが、いまでは「明るい/社交的な」イメージが強い。
     それはじっさいにオタク青少年たちの実像が変わっているからであるだろう。
     LINEやTwitterなどの発達にともなって「つながること」が重視されるようになり、アニメやゲームは体験をシェアして楽しむメディアへと変質した。
     それ自体は一概に良いこととも悪いことともいえない。ただ、そういう事実があるというだけのことだ。
     ひとついえることがあるとすれば、変化があったからには失われたものもあるということだろう。
     ぼくは基本的にこの変化を肯定的に受け止めているが、それでも時々、その失われたものが恋しくなる。
     みんなでわいわい騒いでひとつのコンテンツを共有し、明るく楽しむのは良い
  • 友だちが少なければ寿命も短い。

    2015-07-12 00:12  
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     石川善樹『友だちの数で寿命は決まる 人との「つながり」が最高の健康法』を読み上げました。
     ハーバード大学で学んだ予防医学の研究者である著者が、ひとの寿命はいかにして決まるのかについての最近の研究成果を紹介した一冊。
     著者によると、実は運動不足だとか血圧といった要素だけでは「病気の引き金」を説明しきれないのだとか。
     たとえば、心臓病の危険を高めるリスクファクターはいままでにいくつも見つかっているけれど、それらすべてを足し合わせても心臓病の発生の半分も説明できないといいます。
     そう、何か病気の原因となる「サムシング」があるはず――そして、この本のテーマである「つながり」こそが、その「サムシング」なのだ、と話は続きます。
     あなたはたぶん喫煙がからだに悪いことを知っているでしょう。
     一部には頑固に認めたがらない向きがありますが、いまでは大半の人が喫煙の害を承知しています。
     しかし、著者が説明するところでは、孤独は喫煙よりもからだに悪いのです。
     これは著者がかってにそう主張しているわけではなくて、ブリガム・ヤング大学のトランスタッドという研究者の研究によっています。
     「メタアナリシス」という手法を駆使したその研究によれば、「お酒を飲みすぎない」とか「からだを動かす」といった要素よりも、「「つながり」があるかどうか」のほうがはるかに大きく健康に影響していたらしい。
     ちょっとにわかには信じがたい話ですが、「つながり」の多寡は健康にダイレクトに影響を与えるのです。それも、喫煙や運動といった一般に知られている要素以上に強く。
     論理的にいって、あなたが長生きしたかったら、たばこをやめたり運動を始めたりするより前に、友達を作ることが有効だということになります。
     「嘘だろ?」といいたくなるところですが、れっきとした複数の研究によって導き出された法則なのです。
     ほかにも、寿命と「つながり」に関しては次のようなことがいえるといいます。

    ・「つながり」が少ない人は死亡率が2倍になる。
    ・同僚があなたの寿命を決めている。
    ・「つながり」が単調な男子校出身者は早死にする。
    ・お見舞いに来てくれる人の数で余命が変わる。
    ・女性が長生きなのは「つながり」を作るのが上手なことも関係する。
    ・たくさんの「つながり」を持つほど長命である。
    ・「つながり」が幸せ感を高めてくれる。

     
  • あなたは、なぜ、コミュニケーションに失敗しつづけるのか。

    2015-07-07 02:44  
    51pt

     いつになく「つながり」がもてはやされる時代である。
     LINEやFacebookを初めとするSNSの発達で、ひとは24時間だれかとつながっていることができるようになった。
     テクノロジーはついに人々の心から孤独を駆逐しつくしたように見える。
     それでいて、多くの人が「つながりつづけること」に泥のような疲労を感じてもいる。
     それが現代。
     人々はかつてなく長いあいだ他者とつながりながら、その一方でより深いつながりに飢えている。
     そして、それにもかかわらず、ほとんどの人はどうすればほんとうにつながったことになるのかなんて、知りはしないのだ。
     高石宏輔『あなたは、なぜ、つながれないのか』は「つながり」の作法に着目し、それをどこまでも詳細に解体していった一冊。
     ある人とある人が向かい合い、話し合う、それだけのことのなかにどれほどの情報量のやり取りがひそんでいるのか、あらためて自覚させられる脅威の一冊だ。
     ひととひとが向き合ってコミュニケーションを取ろうとするとき、そこには自然とある種のパワーゲームが発生する。
     どちらが会話の主導権を握るか。相手をどのようにして威圧するか。あるいは、どのようにして相手の精神をコントロールし、自分の思うままの反応を引き出すか。
     それらは剣や銃ではなく言葉を利用して戦いあう決闘に似たところがある。
     己の身体と知性の限りを尽くして相手を圧倒しつくそうとする男性的なゲーム。
     しかし、本来、ひととひとのやり取りはこのような力のぶつけあいに留まるものではない。
     ただ自分の弱点を隠し、相手の弱点を狙うといった戦術だけが有効なわけではないのだ。
     それは本来、「その人のことを知りたい」という純粋な好奇心から発して、非敵対的に続いていく共同作業である。
     それは「心を開く」ところからスタートする。相手との接触で自分が変わっていくことを許すこと。
     過剰に自分を防御して相手だけを変えようとするのではなく、自然な変化を受け入れること。
     それが、コミュニケーションだ。 いわゆる「コミュ障」だけがコミュニケーションを苦手としているわけではない。 世の中には、だれより饒舌に話しながら、一切、意味のある会話をなしえない人間もいる。そういう人物も広い意味での「コミュニケーション弱者」に入るだろう。
     世の中には、