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少しは成長しているといいな、と思う海燕さんなのであった。
2016-12-31 03:4751pt創作小説第二弾として、『夜の花冠』という長篇を書いています。10万字overくらいで完結予定の作品で、『灰色猫と猟犬のダンス』と同じ世界を舞台にした吸血鬼ものです。
で、そのために まず、雰囲気と構成を掴むため、適当に書きだしてみたのですが、あ、なんかすらすら書ける!と思ってしまいました。
一作書き上げたからなのかどうなのか、どういえばいえばいいのかな、ようするにブログを書いているときに近い感覚で書けるのですね。いままで小説を書くのにはやたら手間がかかっていたんですが、それがより少ないエネルギーで書けるようになったといえばいいでしょうか。
当然、スピードもいままでの倍以上になっていて、何かあっというまに書けてしまいます。自分でいうのも何ですが、何かひとつ「壁」を超えたかな、という感じですね。
もちろん、本人がそう思っていても、周りから見たら「まるで成長していない……」ということも -
『灰色猫と猟犬のダンス』第三章。
2016-12-28 01:5251pt『灰色猫と猟犬のダンス』の第三章です。
第三章「灰色猫と猟犬の舞踏」
1.
そして、〈その日〉がやって来た。暦によれば、柘榴月の三日である。王都は湧いていた。モーズ・アラハンド子爵には決して人望はなかったが、美しく心優しく聡明なアイビス姫は人々に好かれていたし、そうでなくても祝祭は人々の望むところであった。
日が昇り朝が来たそのときから、祭は始まった。大人から子供まで、男も女も、あらゆる種類の人々があらゆる場所で騒いだ。酒場はあふれ返らんばかりの人々で満たされた。多くの人が安物のシレーンワインで咽喉をうるおした。常は謹直で冷厳な妖精種族の人々ですら、陽気にワインを呑み、狂ったように踊った。〈シレーンダンス〉の名で知られる官能的な舞踏であった。男女ふたりがひと組となり、密接に躰を近づけ合ってときに回り、ときに跳ね飛びながら踊るというものである。自然、ふたりのあいだにはそれなりの関係 -
『灰色猫と猟犬のダンス』第二章。
2016-12-28 01:5051pt『灰色猫と猟犬のダンス』の続きです。
第二章「犯行計画」
1.
アラハンド侯爵家の歴史は古い。この地にシレーン国を築いた〈始まりの入植者たち〉までさかのぼるといわれる。アラハンド侯爵の祖先は、伝説の入植者たちの一員だったのだ。つまり〈大破滅〉を遂げたミトランジア帝国からの流民であり、シレーンで最も古い血筋ということになる。その後、アラハンドの祖先は〈天祖〉ハバートの覇業にくみし、爵位を与えられる。それが侯爵家の直接の始まりである。そこから八百年をかけアラハンド家は繁栄を続けていくことになるのだ。
そして三百年前、アラハンド家は国を二分する歴史的な戦役をひき起こす。黒旗に有翼獅子の紋章を戴いたアラハンド家と、白旗に一角獣の紋章を掲げたマールトン家が、些細な契機から対立しあい、ついに内戦にまで突入した事件である。当時のシレーン国王ですら和解に持ち込むことができなかったほど大規模な戦い -
『灰色猫と猟犬のダンス』第一章。
2016-12-27 22:3151pt小説、完成しました~。『灰色猫と猟犬のダンス』、56000文字ほどです。のちほど適宜改行を増やして「なろう」に載せるつもりですが、その前にここに置いておきます。
そのままだと読みにくいものと思われるので、エディタなどにコピペするなどして読んでいただければと。いや、すぐに「なろう」に上げるので、そちらで読んでいただいてもかまいませんが。
もしよければ感想をください! あまりきびしくいわれると泣いちゃうかもしれませんが……。いや、明確なプロット上の欠点がいくつかあるのはわかっているのですが、自分でそう思っているのと人にいわれるのはまた違いますからね。
とはいえ、欠点を直視しなければ上達しないこともまたたしかなので、どうにかしたいと思います。次は同じ過ちはくり返さないぞ! では、よろしくお願いいたします。
『灰色猫と猟犬のダンス』
第一章「ハートランの泥棒猫」
1.
王都の夜は暗か -
LINEやTwitterは集中力を要する作業の敵である。
2016-12-25 01:0751pt困った。続けて更新しようと思っていたんだけれど、書くことがない……。おれ、一日何をやっていたんだろ。何もやっていなかったのかorz
最近、ひとつの物事を消化する集中力が下がっているなあ、と感じます。何をするにしろ注意力が散漫になっていて、結果にしろ余計な時間がかかる感じ。
その主な原因はネットにあって、つまり、しょっちゅうメールだのLINEだのをチェックしてしまうから、そのたびに集中力が途切れてしまうのですね。
かつては何百ページとか何千ページという本を延々と読みつづけたりできたのですが、最近はちょっと間が空くとLINEとかTwitterをチェックしたりしてしまいます。うーん、これはダメだな!
あと、部屋のなかに膨大な本やらゲームやらが入った電子端末が転がっているからついそっちに気が行ってしまうということもある。これはたぶん、意思の力だけではどうにも解決できない類の問題で、環境を -
小説を書き終わりそう。
2016-12-23 21:4751pt書きかけの小説『灰色猫と猟犬のダンス』がようやく終わりそうです。原稿用紙にして200枚、約50000文字程度の作品に一か月以上もかかってしまいました。やっぱり創作って大変ですね。このブログのような文章なら下手すると3,4日で50000文字書けてしまうのですが……。
ほぼ書き終えたいまになってみると、やはり設定のご都合主義が目立ちます。偶然で処理しているところが多すぎる。ある程度のご都合主義はしかたないとは思うのだけれど、ちょっとあまりに度が過ぎると白けますよね。
これはどうやって改善すればいいんだろう。まあ、初期のプロットの段階で無理があるということなのだろうけれども。
もうひとつの反省点はあまりダークにならなかったこと。ぼくはエルロイとか、マーティンとか、『ワールド・オブ・ダークネス』とか、あっち系の作品を書きたかったのだけれど、どうもそういう雰囲気にはなりませんでしたね。
ラ -
萌え日常系ラノベに「リア充主人公」が登場する日は来るか?
2016-12-22 20:2151pt平坂読『妹さえいればいい。』最新刊を読み上げました。前巻で一気にストーリーが進んだのでこの巻ではどうなるかと思っていたのですが、物語は停滞することなく先へ進み、ひとつのターニングポイントへたどり着きます。
同じ作者の前作『僕は友達が少ない』では、物語は主人公が決断を避けることによって徹底的にひきのばされたのですが、この作品では正反対の方法論が採用されているように思えます。
主人公はあっさりと決断を下しつづけ、物語はどんどん進んでいくのです。こうも真逆の方法論を続けざまに使いこなす平坂読の実力には驚かされます。すごいや。
ネットで平坂さんの作品を取りあげてラノベ批判を行っている人たちのばかばかしさがよくわかります。どうして平坂読の次代を読む力量がわからないかな、と思うのですが、わからないんだろうなあ。
もちろん、作品の評価は人それぞれではありますが、あまりにも議論のポイントがずれて -
にこなまー。
2016-12-21 18:4351pt本日午後10時から1時間の予定でニコ生を放送しようと思います。相手役はいつものてれびんです。
http://live.nicovideo.jp/watch/lv285423971
それにしてもめちゃくちゃブログをサボっていますね! ごめんなさい~。さすがにアリエナイと思うので、これから年末年始までは連続更新しようと思います。どうかお見捨てなきよう(見捨てられてもしかたありませんが)。 -
萌え日常漫画は21世紀の新しいライフスタイルの表現である。
2016-12-18 01:2351pt
佐々木俊尚さんの最新刊『そして、暮らしは共同体になる。』を読み上げました。タイトルからわかるように「暮らし/生活」テーマの本です。
ぼくは最近、本はほぼKindleとかBOOK☆WALKERでしか買わないのだけれど、この本は電子化するのを待てず紙で買ってしまいました。それくらいぼくにとっては重要なテーマを扱った一冊です。
ここ数年、ぼくはこの本で扱われているテーマを追いかけて色々な本を読んできましたが、「決定的な一冊」には出逢えなかった。この本はまさにその「決定的な一冊」です。
ぼくが漠然と思い描きながらはっきり言葉にすることができずにいたさまざまな問題がクリアに言語化されている。こんな本と出逢えて幸せです。
それでは、この本にはいったい何が描かれているのか。ぼくにいわせれば、ごくシンプルなことです。「いまの時代、どうすれば快適に暮らすことができるのか」というテーマ。
もっと -
『ユーリ!!! on ICE』は「愛」を拡張するBLである。
2016-12-08 05:4051ptどもです。ここ数日、ぼくはオープンワールドという名の沼にはまっていました。『スカイリム』面白いです。『ドラゴンエイジ:インクイジション』面白いです。『ファイナルファンタジー15』面白いです。
ていうか、最近のゲーム、マジすごい。『ウィッチャー3』は根性なしにも投げ出してしまったぼくだけれど、でも現代コンピューターゲームのすごさはわかる。つくづくエンターテインメントは進歩したよなあ。中毒性高い。
というような話はすべてただの仕事をサボっていたいい訳で、これから本題に入ります。アニメ『ユーリ!!! on ICE』の話。こんな記事を読みました。
ご存知大人気アニメ、ユーリ!!! on ICE。私も毎週楽しく見ている。
言うまでもないことかもしれないが、スケートという珍しい題材や美しい映像表現に加え、腐女子をニヤッとさせる(どころでは済まないが)BLチックな表現がこのアニメの特色として挙げられる。
特に作中にまんべんなく含まれる、主人公の勝生勇利とコーチのヴィクトル・ニキフォロフのスキンシップは毎週多くの視聴者を墓地送りにしてきた。そして最新第7話ではさらに決定的な表現を盛り込んできたのである。
キスした。
え?!マ?!?!
やりよったな!!!!
(中略)
このキスシーンが指し示す可能性に、私はとても希望を抱いている。それは
「BLの脱BL作品(占有)化」
である。
これはBLがBL作品と腐女子の妄想の占有下から脱する一つの兆しではないだろうか。男女恋愛と同じくらいのハードルの低さでBLがBLをメインとしないような作品に登場する日もそう遠くないのではないかという希望が(こんな大仰な狙いは制作側からはなかったにしても)今回のユーリ!!! on ICEからもたらされたように思う。
http://illumination1710.hatenablog.com/entry/2016/11/18/113920
はいはいはいはい。なるほどなるほど。実はこの記事を書いている時点でぼくは『ユーリ』を最新話まで見ていないのですが、いいたいことはわかる(と思う)。
いや、ほんとは最新話まで見てからこの記事を書くべきなのだろうけれど、鉄は熱いうちに打ちたいので書いてしまいます。でも、これから必ず最新話まで見ます。ごめんなさい。
さて、ここで書かれていることは非常に興味深いと思います。「BLの脱BL作品(占有)化」という言葉は一見すると意味が取りづらいかもしれませんが、つまり「BLの表現及び思想の脱ジャンルBL作品(占有)化」ということでしょう。
ようするに、いままではほぼBL作品のみで描かれてきた「男性同士の愛(広く愛という名で呼ばれる関係)」がジャンルBL作品以外でも見られるようになることを指しているのだと思います。
これはただ「ジャンルBL作品以外でも男同士がイチャイチャする描写が認められるようになる」ことに留まりません。BL以外でも「男性同士の愛」が「パッケージングされないままで描かれる」可能性を示しているのです。
どういうことか。ここでべつの記事を引用しましょう。
『ユーリ!!! on ICE』は「『愛』の再定義」を試みるアニメなのだとわたしは思う。
これは、要は「辞典内容の改訂」である。昨今、国語辞典における恋愛絡みの言葉の説明に「男女の〜」という表現を用いるのをやめようという動きがある。これはとてもよいことだが、辞典に書かれた定義が変わっても、人々の認識が変わらなければ、世界は変わらない。
『ユーリ』は世界を変えようとするアニメだ。
(中略)
「友愛」と「恋愛」を区別するのは一体なんだろう。
ひとりだけに特別な思いを向けるのが「恋愛」? じゃあそのひとりを特別に思ったら、そのひとと結婚しなくてはならないの? 誰かを特別に大切に思う気持ちに、婚姻関係や肉体関係への欲求が必ずしも付随するの?
よくよく考えれば、これはとても奇妙な話ではないだろうか。
人間の感情って、もっと自由なんじゃないだろうか。その自由な感情を、そのまま語れる言葉があってもいいんじゃないだろうか。
その人を好きだと思ったら「だいすき」と言えばいいし、その人を特別だと感じたのなら「愛してる」と言えばいいし、その人にキスしたいと感じて、相手がそれを受け容れてくれるのなら、キスをすればいいはずだ。
そのコミュニケーションは、本来ならば個人と個人の間のものであるはずだが、そこに当然のように社会的慣習が介入することが多いのが現状である。
もちろん、ステレオタイプを悪だとするわけではない。ただ、ステレオタイプから一歩外れると、驚く程の不寛容が待っていることがあるのは事実だろう。
http://mortal-morgue.hatenablog.com/entry/2016/11/17/205149
そうですね。『ユーリ』がどこまで意図して「愛の再定義」を描こうとしているかはわかりませんが、結果としてこの物語がそういうものを表現していることはたしかだと思います。
しかし、その前に、まず、前提として、ある関係は「本来ならば個人と個人の間のもの」であるにもかかわらず、そこに「社会的慣習が介入する」とはどういうことでしょう。
それはつまり、本来なら無限に等しい多様性をもっているはずの人と人の間の関係の形が「社会的慣習」に沿ってある「様式」にパッケージングされるということです。
たとえば、妙齢の男女の間の親密な関係は、多くの場合、「恋愛」と呼ばれるでしょう。
そのどこが問題なのかと思われるかもしれません。しかし、ほんとうはある人とある人の間にある関係性はひとつひとつ違っているはずで、それは「恋愛」などというわかりやすい言葉でパッケージングできないものであるはずなのです。
言葉による「名づけ」は暴力です。名づけられることによって、そこにある多様性はひとつの形に収れんする(ように見える)。つまり、本来なら自然で自由であるはずの関係が、「恋愛」と名づけられることによって、ある種の「様式」に定型化するということです。
その「様式」とは、たとえば恋愛しているならキスしたり、セックスしたりするのがあたりまえだし、デートもしなければならないし、浮気などありえないし、またゆくゆくは結婚も――というようなものです。
ほんとうはキスしたくて相手が受け入れてくれるならすればいいし、そうでないならしなければいいというだけのシンプルな話であるはずなのですが、そこに「恋愛」という言葉による「名づけ(パッケージング)」が関与することによって、「お前たちの関係は恋愛と呼ばれるものであり、したがってこれこれこういう行動を取るのが自然であり、また当然である」というような暴力的な押しつけが行われることになってしまうわけです。
上記ブログでも書かれているように、これはほんとうはおかしなことです。しかし、ぼくたちの社会ではそれがあたりまえになっている。
たとえば男女ふたりで旅行に行ったりしたら、そのふたりは恋愛関係にあるものと見られるわけです。ほんとうはそうとは限らないはずなのですが、なぜかそういうことになってしまう。
これが「関係性の名づけによる収れん」という現象です。しかし、ぼくたちの社会は、この「収れん」を疑問視し、本来の多様な関係性を多様なままで受け止めるということができるところまでもう一歩のところに来ている。それが『ユーリ』のような作品に表れているのではないかと思います。
ぼくは上記ふたつの記事を読んで、以前に見たツイートを思い出しました。
多様性ってのは足し算で考えなきゃダメなんだよ。イスラム教徒が吉野家で牛丼食ってるなら、隣の席で豚丼食える世界が多様性なんだよ。ムスリムに配慮して豚丼の提供は止めますってのは多様性とは逆方向なんだよ。勘違いするな。その勘違いを正しいと思い込んだ結果が今の欧州だ。
https://twitter.com/threemission1/status/803668266698706944
多様性は足し算でなければならない。この原則は「関係の表現の多様性」についてもあてはまります。
「BL」、あるいは「百合」という関係性の表現は、べつに既存の「恋愛」を脅かすものではありません。ただ、そこにべつの可能性を「足し算」するだけのものです。
ぼくはべつに「広い心をもって同性愛も寛容に受け入れましょう」的なことをいいたいわけではありません。いや、もちろん同性愛が異性愛と同じくらい社会に認められるようになることを願ってはいるけれど、今回いいたいのはそういうことではない。
「同性同士の間にある関係」も、あえて名づけてパッケージングしてその内実をある「様式」に収れんさせることなく受け入れられてもいい、ということなのです。
愛が多様であるとは、ある人とある人の間にある関係性が安易にパッケージングされないということです。
漫画『Q.E.D.』のなかで、自分と主人公との関係を問われたヒロインの少女が、「(その関係には)まだ名前がついていない」と語るシーンがあります。
これはつまり、その関係がまだ「年ごろの男女の間の親密な関係なのだから恋愛である」というような決めつけと「名づけ」によってパッケージングされていないということだといえます。
このような「名前のつけられない関係」は男性同士、女性同士の間にあってもいいし、それを描いた作品があってもいい。いまのところ、BLや百合というジャンルはその表現に挑戦しているように思えます。
たしかに、それらは単に「同性愛」と名づけられた同性間の関係を描いているだけに見えるかもしれません。しかし、たとえば『BL進化論』といった本を読めばあきらかなように、最新の作品においてはBL(や百合)はそれにとどまる表現ではなくなっています。
それらは、「同性同士の恋愛(と名づけられる関係)が広く認められる、現代より先進的な社会」を描くに至っているのです。
まあ、それは横道なのでくわしくは解説しませんが、それは同性同士の「恋愛」的な関係が特別視されない現実の社会より理想に近い社会を描くことによって、「愛を再定義」しようとしているといえるでしょう。それが現代のBLという表現なのです。
したがって、「BL(と呼ばれる表現)の脱ジャンルBL化」の果てにある作品とは、「男女も、男性同士も、女性同士も、自由に好む関係を築くことができて、なおかつそれが他者によって安易に名づけられない(パッケージングされない)環境を描いた作品」なのではないでしょうか。
ここでは仮にそれを「ジャンルX」と呼びたいと思います。ジャンルXはある意味では「BL」でもなければ「百合」でもありません。
なぜなら、現状においてBLは「男性同士の愛のみ」、百合は「女性同士の愛のみ」を描いているのに対し、ジャンルXではそれらも含めたさらに広い愛が描かれるからです。
また、それは「ぼくたちが住んでいる現実」を描いた作品でもありません。なぜなら、「ぼくたちが住んでいる現実」とは「愛が容易にパッケージングされる社会」だから。
つまり、ジャンルXとはぼくたちがまだ到達していないより自由で多様性に満ちた社会を描いた作品なのです。もちろん、それをラブストーリーと呼んでもいいし、BLと呼んでもいいし、あるいは百合と呼んでもいいでしょう。
しかし、それらはやはり「愛」がそうであるように、既に手垢のついた言葉です。また、「男性同士」、「女性同士」という性差に依存した言葉であることも否定できない。
いくら「BLというのは男同士の恋愛だけではなく、「パッケージングされていない愛」を描いた作品全般を指すのですよ」といってみたところで、世間的なイメージというものがあります。たとえそれが偏見に過ぎないにせよ、いまからそのイメージを覆すことは大変でしょう。
だから、とりあえずぼくは「愛が名づけられない(パッケージングされない)物語」をあえて名づけることはしません。ただ仮名としてジャンルXとだけ呼んでおきたいと思います。
それはいまの段階ではほとんど見られない作品なのではないかと思うのですが、いつかは現れてくるのではないかとも考えています。『ユーリ』はそのきっかけであるということができるでしょう。それは素晴らしいことかもしれません。
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