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タグ “アルスラーン戦記” を含む記事 15件

小説、漫画、アニメ。30年の時を超え多面展開する『アルスラーン戦記』が凄い!

 この記事で今月30本目ですねー。我ながらよく書くわ、と思ってしまう。  これだけ書いているとさすがに読者満足度は高いらしく、過去10日で退会者はひとりだけです。  もちろん量だけ多くてもしかたないので、質と量を兼ねそなえた運営を心がけたいところですね。  さて、きょう取り上げる作品は田中芳樹&荒川弘『アルスラーン戦記』の最新巻です。  表紙は旅の楽師ギーヴ。たいして努力をしている様子も見えないのに天才的に強いという田中芳樹らしいキャラクターですが、この巻ではそのギーヴがアルスラーン、エラムらとともに活躍します。  王族や権力者に反感を抱き、忠誠心などかけらも抱いていないギーヴがいかにしてアルスラーンに心寄せるようになるのか、原作でも見どころのひとつです。  荒川さんはそこらへん、実にていねいに漫画化しているので、原作ファンも満足できるでしょう。  もっとも、どこまでいってもあくまで「荒川弘の漫画」なので、原作の雰囲気を至上視する人のなかには不満を持つ人もいるかも。  ただ、それはしかたないことだと思うのですよね。才能ある漫画家であればあるほど、単なる「原作の再現」に留まらないものを描こうとするだろうし、それこそがある作品の多面的なメディア展開の面白さでもあるわけですから。  とはいえ、どこまでも「荒川弘の漫画」であるという事実を受け入れるなら、この漫画版は相当に原作に忠実に作られているといっていいでしょう。  正直、もっとアレンジを加えてくるかと思っていただけに、意外なくらいです。  ギーヴとアルスラーンのコミカルなやり取りとか、漫画オリジナルの描写もあるけれど、それも完璧に原作を消化していることがわかるものに仕上がっている。  さすが一流の漫画家は違うなあ、とうなってしまいます。  原作への忠実度という意味ではアニメより高いでしょうね。そのアニメはこのたび第2シーズン「風塵乱舞」が放送されるのだとか。  どうしてサブタイトルを「王都奪還」にしないんだろ?と思っていたのですが、なんと全8回のショートシリーズだそうで、王都エクバターナ奪還まで話が行かないようなのですね。  次はまた『王都奪還』だけのシリーズを作るのだろうか。うーむ。まあいいけれど、あまり中途半端なところで終わってほしくないなあ。人気はあるようだから途中で終わることもないかもしれませんが。  それにしても、漫画版は第5巻にしてようやく原作2巻の途中です。  この調子でいくと、漫画版が原作をすべて消化したら全50巻程度の超大作になってしまうわけですが、はたしてそこまでやるのでしょうか? ――うん、いや、やるのだろうなあ。  そこら辺は『鋼の錬金術師』をみごと完結させた荒川さんのことだから特に心配はしていません。きっと時間はかかっても最後まで語り切ってくれることでしょう。  問題は原作そのものがまだ未完だということなのですが――驚くべきことに今月、原作第15巻が出るそうです。  全16巻完結予定のため、クライマックスまでのこり1冊を残すのみということになります。  一時期は未完に終わる宿命かと思われたこの作品に、完結の見込みが出てきたということになります。  というか、 

小説、漫画、アニメ。30年の時を超え多面展開する『アルスラーン戦記』が凄い!

『封神演義』の藤崎竜、『銀英伝』を再度漫画化!

 田中芳樹『銀河英雄伝説』が藤崎竜の手で漫画化されるそうですね。  日本を代表するスペースオペラの名作を『封神演義』の作家が手がける。  期待は高まるばかりですが、さて、どんな出来になることやら。  ぼくは25年来の田中芳樹読者にして、『PSYCHO+』からのフジリューファンなので、どういった仕上がりでも受け止める覚悟はできています。どんと来い。  それにしても、『アルスラーン戦記』の漫画化&アニメ化といい、往年の田中芳樹作品の再ブームがいままさに来ていますねー。  30年前の作品がいま最先端のエンターテインメントとして堂々と通用してしまうその普遍性の高さには驚かされるばかり。  『アルスラーン』にしろ『銀英伝』にしろ、ちょっと意匠(キャラクターデザインとか)を変えただけで十分に現代の作品として読まれてしまうんだよなあ。  ここらへん、5年も経つと時代遅れになってしまう傾向がある一般のライトノベルとは格が違うかも。  まあ、『アルスラーン』はともかく、『銀英伝』はさすがにSF設定等々が古びてしまっていると思うので、そこらへん、適当にリファインして「いままで見たことがない『銀英伝』」を見せてほしいところです。  この小説はすでに再来年にふたたびアニメ化することも決まっていて、そちらのほうも気になります。うーん、凄いなあ。  いまさらいうまでもないことですが、『銀英伝』は一度、道原かつみさんの手で漫画化されています。  こちらも出来は良いのですが、何しろ遅筆寡作の方なので、『銀英伝』のような大長編を手掛けることに無理がありました。  その点、フジリューさんには『封神演義』や『屍鬼』を完結させてきた実績があるので、最後まで描き切れるのではないでしょうか。  SF的なセンスもちゃんと持ち合わせている作家さんだしなあ。  意外な組み合わせながらけっこういけるんじゃないかと推測。  だれがマッチングしたのか知らないけれど、偉い偉い。  あとは思想的なところをどう演出しなおすかですね。  30年前とはやっぱり政治状況が異なっているわけで、そのままの展開をすると古びて見えると思う。  少なくとも民主主義のシステムを至上視し、そのために血を流すヤン・ウェンリーはより悪役っぽく見えて来るのではないか。  まあ、それはそれで一興ですし、原作にたびたびの再解釈を許す奥深さがあるからこそいまなお極上のエンターテインメントとして通用しているということもいえるでしょうが。  いや、なんといっても 

『封神演義』の藤崎竜、『銀英伝』を再度漫画化!

『アルスラーン戦記』に見る完結という至難。

 昨日、なにげなく書店の棚を見てまわったところ、『岡田斗司夫の愛人になった彼女とならなかった私 サークルクラッシャーの恋愛論』という本が出ていました。  タイトルを見ただけでこれは買わねば、と思ったものの、電子書籍版が出ていないのでとりあえず見送ることに。  すっかり紙の本より電書のほうが購入意欲が高くなっているなあ。電書はさまざまな点で紙の本より便利だと思うのです。  さて、いいかげん「ハッピーエンド評論家」の肩書きを掲げておいて何もしていないので、この企画の失敗を認めて修正作業を行いたいと思います。また名前を変えるかな……。  いろいろ手を変え品を変えて行動してはいるのですが、どうにもうまく行かないのはやる気がないためなのか、どうか。うーむ。悩むところ。  まあ、やる気さえ出せばたちまち成功というわけにもいかないだろうけれど。  さて、アニメ『アルスラーン戦記』がなかなかに面白いので、原作を読み返してみたところ、予想以上に面白く、いまさらながらに感心してしまいました。  磨き抜かれたエピソードやキャラクターの魅力はもちろんのこと、注目するべきはその密度。  一行一行をいちいち面白くしようとしているような、高密度の展開にはうならされます。  第一巻『王都炎上』から第一部完結の『王都奪還』まで七冊、その七冊でなんと多くの出来事が起こっていることか。  ここらへん、傑出した構成力がなければできないことで、全盛期田中芳樹の凄みを思い知らされます。  いまだ流浪の王子に過ぎないのちの「解放王」アルスラーンのもとに、次々と馳せ参じる「十六翼将」たち。  この第一部の波乱の物語は、ほんとうに面白い。  それに比べると物語を畳みにかかった第二部は一枚落ちる、という評価が一般的なものかもしれませんが、まあ、物語を閉じることはそうでなくてもむずかしいんだよなあ。  作者の責任という意味では始めた物語はすべてきちんと閉じるべきなのでしょうが、そう理屈どおりは行かないのが大長編の執筆というもの。  書き始めたものをきちんと書き終えることは至難の業、しかもそれはその物語が長くなればなるほど、構成が緻密を究めれば究めるほど、よりむずかしくなっていくのです。  あの『十二国記』ですら長いあいだ未完のまま放り出されているではありませんか。  だれも小野不由美の物語に対する至誠を疑わないことでしょうが、それにしても未完の物語をきれいに閉じることはことほどさようにむずかしいのです。  そうはいっても 

『アルスラーン戦記』に見る完結という至難。

善か、悪か? 百万人を殺した男の割り切れない素顔。

 『アルスラーン戦記』がゲームになるそうですね。  アニメ化は数しれない田中芳樹作品でもゲームになったものはそう多くありません。  現代のハードであの世界がどう再現されるのか気になるところです。  その昔、メガドライブでシミュレーションゲームになっていたような気がしますが、きっと気のせいでしょう。ええ、そうに違いありません。  いずれにしろ漫画、アニメ、ゲームと『アルスラーン戦記』の世界がしだいに拡大していっていることはたしかで、いちファンとしては非常に嬉しいところです。  これで原作の新刊が出ると文句がないのだけれど、それはまあいうまい。  アニメも出来はいいですし、漫画はこのまま行くとおそらくミリオンセラーになるでしょう。  これで新たに『アルスラーン戦記』のファンになる人も数多くいるはずで、長年の読者として感慨深く思います。  それもこれも原作のストーリーがきわめて優れているからこそ。  全盛期田中芳樹作品の面白さはやはりただごとではありません。キャラクター小説の歴史に冠絶するものがある。  アニメはパルス王都エクバターナの陥落にまで話が進みました。  アルスラーンと黒衣の騎士ダリューンに加えて、軍師ナルサス、その弟子エラム、楽師ギーヴ、女神官ファランギースと旅の一行はほぼそろいました。  対するは侵略者ルシタニア王国軍30万。それになぞの銀仮面の男――この銀仮面の正体はもうすぐわかりますが、アルスラーンにとって宿命の難敵ともいえるこの男を巡って、物語は今後、二転三転していきます。  そのほかにも王都奪還を目ざすアルスラーンの前に立ちふさがる者は少なくなく、いまのところは線が細く頼りない少年に過ぎないかれはいっそう成長していかなければなりません。  この流浪の王子アルスラーンの成長物語としての面白さが『アルスラーン戦記』の魅力の一端です。  わずか14歳の無力な子供が、いかにして数々の宿敵をも凌駕する真の王にまで成長していくのか。  原作未読の皆さまには期待していただきたいと思います。  ところで、第7話にしてルシタニア王国の王弟ギスカールが登場しましたね。  この男、きわめて有能な軍人であり策謀家であり政治家であるというマルチタレントの持ち主なのですが、人格的に見ても実に面白いキャラクターの持ち主です。  パルス征服戦争、王都陥落、その後の戦争と続く悲劇の根源はすべてこの男にあるわけで、その意味では何十万もの命に責任を持つ大悪人ともいえるのですが、どうにも憎めない。  ええ、ものすごく悪いやつなんですけれどね(笑)。  この 

善か、悪か? 百万人を殺した男の割り切れない素顔。

『アルスラーン戦記』と「同性愛的な二次創作」の微妙で複雑な関係。

 作家の田中芳樹さんが所属している有限会社らいとすたっふの「らいとすたっふ所属作家の著作物の二次利用に関する規定」が改定されたことが話題を呼んでいる。 http://www.wrightstaff.co.jp/  「露骨な性描写や同性愛表現が含まれる」二次創作を禁止した項目を廃し、新たに「過激な性描写(異性間、同性間を問わず)を含まないこと」とする項目を加えたようだ。  いままでの書き方ではことさらに同性愛描写を禁止するように受け取られかねないから、これは適切な変更だと思う。  もちろん、らいとすたっふ側にそのような意図はなく、ただ「いわゆるカップリング」を抑制したいというだけの目的だったのだろうが、誤解や曲解を招きかねない表現であることに違いはない。変更されて良かった。  しかし、この規定には微妙な含みがある。  「過激な性描写(異性間、同性間を問わず)を含まない」なら、「いわゆるカップリング」的な同性愛描写そのものは「お咎めなし」にあたるのだろうか。  判断はむずかしいところだと思うが、Twitterで検索してみたところ、いわゆる腐女子界隈の人たちはこれを「18禁でなければカップリングも問題なし」と受け止めている人も多いようだ。  ただ、これで全面的にカップリング描写が認められたと見ることはいかにも早計には思える。  原作者がそういう描写を好ましいと思っていないことはたしかだろうから、何かのきっかけで再度規定が変更ということもありえる。注意するべきではないだろうか。  というか、あきらかに原作者が嫌がっているような二次創作を展開しても後ろめたさがありそうなものだが、そういうものでもないのだろうか。  人それぞれだろうが、自分が気分良ければいいと思う人もいるのかもしれない。  もともとが人気があり、これからさらに人気に火がつく可能性が高い作品だけに、今後、どういう展開をたどるのか注目してみたいと思う。  それにしても、「同性愛のカップリング」一般を禁止することは、意外に色々な問題を抱えているようだ。  シンプルに「同性愛のカップリングを禁じる」と書けば、それなら異性愛のカップリングは良いのか、それは同性愛差別ではないか、と受け取られる。  しかし、作者の心理として自分のキャラクターがかってに同性愛者化されたところは見たくないという人がいても、それほどおかしいなこととはいえないのではないか(田中芳樹がそうだというのではないが)。  じっさい、ぼくにしても、「同性愛的なカップリング」の禁止が同性愛差別化というと――やはり、それは違うんじゃないか?と思える。  まず、なんといってもそれらの二次創作が原作作中の登場人物の性的指向をねじ曲げているようには思えるわけで、異性愛とか同性愛という以前に、それこそが問題なのだ、と考えると話はシンプルになると思う。  つまり、「作中で異性愛者として描かれている人物を同性愛者であるかのように描くこと」はやはり不快である、そういうふうに表明しても同性愛差別にはあたらないのではないだろうか。  当然、この理屈で行くと 

『アルスラーン戦記』と「同性愛的な二次創作」の微妙で複雑な関係。

どうすれば物語は面白くなるのか?

 アニメ『アルスラーン戦記』が面白いです。  アニメーションとしての演出にそれほど傑出したものがあるというわけではないのですが、極上の物語をお金をかけて演出している凄みがある。  何しろ原作は日本の架空歴史ものを切り開いた傑作ですから、きちんと映像に仕上げればそれなりのものが出来上がるはずなんですよね。  そう、『アルスラーン戦記』はひとつの途方もなく面白い「物語」です。それでは、物語とは何なのかという話をいまからしたいと思います。  学術的、あるいは辞書的な定義がどうなっているのかはともかく、ぼくにとっては、物語とはあるコンセプトに則り、一連の出来事を語った話ということになります。  この「コンセプト」というものが大切で、そう、物語を語るためにはそれだけの目的があるわけです。  何か伝えたいテーマなりメッセージがあって、それを伝えるためにこそ物語という形式を採るということが一般的だと思います。  このコンセプトは、まったく何でもかまいません。べつだん、偉いことや崇高なことに限らない。  ただ「主人公を格好良く描きたい」でもいいし、「日本海軍の凄さを知らしめたい」でも「繊細な恋愛心理の妙を描きたい」でもかまわない。  しかし、とにかく通常は何らかの「その物語を通して伝えたいこと」があって、初めてひとは物語を語ろうとするものだと思うのです。  まあ、いわゆるワナビのなかにはただ作家になりたいだけで特に語るものがないというひともいるかもしれませんが……。  そして、これも重要なことですが、物語には「始点」と「終点」があります。  始めた物語はいずれ終わらなければならないわけですから、当然のことです。  『アルスラーン戦記』第一部の物語を例に取るとわかりやすいでしょう。この物語は王子アルスラーンの軍勢が敵国ルシタニア軍に敗れ去るところから始まり(始点)、やがてルシタニア軍を打倒し国を奪い返すところまでを描いています(終点)。  物語のすべてはこの始点と終点の間で語られることになります。  そして、作者はその物語をなるべく面白くするべく、始点から終点に至るルートにいろいろな事件を配し、可能な限り緻密に「構成」しようとします。  その構成の力量を「構成力」といい、また構成の方法論を「ドラマツルギー」といいます。  この構成が不十分であったり、また終点に至るルートや終点そのものがはっきりしないまま物語を語り始めてしまうと、作者自身にも物語がどこへ行き着けばいいのかわからなくなり、物語が未完に終わってしまったりします。  いわゆる「エタる(エターナルする)」という現象ですね。哀れ、港を出た船は目的地にたどり着くことなく、永遠の漂流者となってしまうわけです。  とにかく、物語を緻密に語っていくためには始点と終点、そしてその間のルート設定が大切だということです。  世の中にはこのすべてを天然の感覚でやってのける「天才」と呼ばれる人たちがいますが、ぼくには理解できない存在なので解説できません。わけがわからないよ……。  まあ、それはともかく、普通の人たちはそこでなんらかの計算を行います。  たとえば、終点の時点で主人公が幸せになっているためにヒロインを出そうとか、それでではつまらないからヒロインは悪漢に浚われてしまうことにしようとか、そういうことですね。  天才はしらず、一般的には、物語は終点、少なくとも先の展開が見えていて初めて厳密に構成できるものです。  たしかに全何十巻にも及ぶ長大な漫画とか小説はあり、そういう作品では終点までのルートがはっきりしていないまま書き始めていたりするのでしょうが、その場合はやはり構成の緻密さに限界があると思います。  大抵は途中で話を区切って構成するんですけれどね。  さて、この「終点」に近いけれど異なる言葉で、物語のすべての展開が行き着くところのことを、LDさんの言葉で「結晶点」といいます。クリスタライズポイントですね。  その物語のさまざまな展開はそこで結晶するべく進展していっているということでしょう。  わかりにくいでしょうか?  これも『アルスラーン戦記』を持ち出すとわかりやすいのですが、この物語では実にいろいろな謎があり、事件があり、伏線があります。  しかし、それらすべてはやがて王都エクバターナ奪還という一点に集約していくのです。  その瞬間にほとんどすべての登場人物が集まり、対決しあい、雌雄を決しあいます。  これは、よく考えてみると不自然といえば不自然なことです。  現実的には、なぞの銀仮面卿はどこかで偶然に足を滑らせ落馬して死んでいたかもしれず、王子アルスラーンはどこかでもたもたして見せ場に間に合わなかったかもしれないわけですから。  現実にはそういうことも十分ありえるわけですよね。しかし、物語を演出しようとして構成する以上、それはあってはならないことです。  やはりクライマックスにはいちばん盛り上がるように構成されていなければならないのです。  ちなみにこのクライマックスを意図して外すこともあって、そういう展開はアンチクライマックスとか呼ばれたりします。  旅の勇者が苦難の末、魔王を倒そうとしたらもう寿命で死んでいたとか、そういう展開が想像できますね。元々は修辞法の言葉だそうです。  が、それは、あとで説明しますが、あくまで例外。通常、面白い物語はちゃんと盛り上がるべきところで盛り上がるよう計算されているものだといっていいでしょう。  そして、面白い物語とは普通、始点と終点のあいだで波乱万丈の展開を迎えるよう構築されているものです。  何ひとつ事件が起こらず、老人がひたすら日向ぼっこをしているだけという物語は、少なくとも一般的な尺度では面白くない。  次々と深刻な事件が起こって、「いったいこの先どうなるんだ?」と読者/視聴者を惹きつけるのが良くできた物語というものです。  それでは、波乱万丈とは具体的にどういうことなのか。  単純にいって、それは状況の「落差」で表現できます。善と悪、明と暗、天国と地獄――そういった状況のコントラストが激しいほどドラマティックな展開ということになる。  これも『アルスラーン戦記』が非常に良いテキストになるでしょう。  今回、パルス国の王子として何不自由ない身分にいたアルスラーンは、敗戦によって一気に流浪の身に叩き落とされます。  一国の王侯から追われる身の旅人へ。この、普通の人の人生にはまずめったに起こらないような巨大な「落差」をもつ展開が、見るものにドラマティックな印象を与えるわけです。  べつだん、戦記ものでなくても、どんな物語でもこのことはあてはまります。  ペトロニウスさんが「強さのデフレ」という文脈で、この「落差」のことを語っているので、ちょっと長くなるけれど引用しておきましょう。  こういう表現を考える時に、視点の落差、、、、具体的に言うと、萩原一至さんの『BASTARD!!』を思い出すんですよね。ぼくこの2部が、とても好きで、、、2部って主人公が眠りについた後の、魔戦将軍とかサムライとの戦いの話ですね。何がよかったかって言うと、落差、なんです。『BASTARD!!』は、最初に出てきた四天王であるニンジャマスターガラや雷帝アーシェ・スネイなど、強さのインフレを起こしていたんですね。普通、それ以上の!!ってどんどん強さがインフレを起こすのですが、いったん第二部からは、彼らが出てこなくなって、その下っ端だった部下たちの話になるんですよね。対するサムライたちも、いってみれば第一部では雑魚キャラレベルだったはずです。。。。しかし、同レベルの戦いになると、彼らがいかにすごい個性的で強い連中かが、ものすごくよくわかるんですね。  強さがいったんデフレを起こすと僕は呼んでいます。  これ、ものすごい効果的な手法なんですよね。何より物語世界の豊饒さが、ぐっと引き立つんです。要は今まで雑魚キャラとか言われてたやつらの人生がこれだけすごくて、そして世界が多様性に満ちていて、下のレベルでもこれほどダイナミックなことが起きているんだ!ということを再発見できるからです。なんというか、世界が有機的になって、強さのインフレという階層が、役割の違いには違いないという感じになって、、、世界がそこに「ある」ような感じになるんですよ。強者だけが主人公で世界は成り立つわけではない!というような。  そこで、、、、ヒロインのヨーコが、、、、圧倒的な敵に対して、主人公(覚醒前のね)を抱きしめて絶望的に空を見上げるシーンがあります。グリフォンだったか、、、一匹でもみんな大事な仲間がバタバタ死んでいくのに、それがものすごい数が現れたのを見て、、、、  そして、そこで主人公が覚醒して、、、、そしてガラやネイが戻ってくる、、、、という話になるのですが、僕は、このシーンがとても好きで、、、、というのは、一つは、  どうにもならない絶望感 と、  ありえないような絶望のどん底から一筋の光明のような希望が舞い降りる瞬間  が、見れるからなんですよね。物語って、そういうドラマトゥルギーの落差が欲しいなと僕は思うのです。  けれども、、、、この絶望のどん底感を描けるのって、とても難しいのです。なぜならば、主人公は、当然強者であり、世界を救うものじゃないですか。基本的にそういう前提が隠れているのが普通で、なかなかこの絶望が描けない。この絶望は、まったく力がない、一兵卒や一市民の視点からでないとわからないからです。そして、勇者やヒーローと呼ばれる存在の、「凄み」というのも、このどん底の絶望との「落差」を通してでないと、実はわからないんじゃないか、といつも思っています。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131228/p2  そう――ぼくやペトロニウスさんのような「物語読み」は、何よりもこの「落差」のコントラストを見たくて物語を見ているところがあります。  最もひよわで幼げな王子がやがて大陸に覇を唱える大王になるとか、その反対に天才的なジェダイの素質をもつ少年が悪のダース・ベイダーにまで堕ちていくとか、そういう日常にはありえない落差が物語にとってとてもとても大切なのです。  つまり、始点と終点のあいだでなるべく落差が大きくなるよう状況を変化させていく話が「面白い物語」であると、とりあえずはいうことができるでしょう。  そのための方法論がドラマツルギーであり、展開の「定石」です。  定石とは、だいたいこういう展開にしておけば面白い物語ができあがるというパターンのことですね。  それはたとえば「フラグ」といった概念で理解することができます。脇役が急に昔の話を始めたら死んでしまう予兆だというようなあれです。  このような「死亡フラグ」は、もちろん現実には存在しません。物語のなかだけにある概念です。  物語はただなんとなく語られるわけではなく、状況の落差を生みだし、その上で結晶点を目指そうとして計算して語れるわけですから、効果的に落差を生むために伏線やフラグが多用されるわけです。  たとえば、主人公が昔いっしょに過ごした可愛い幼馴染みの女の子のことを思い出したら、これは伏線に決まっています。  ただたまたま思い出しただけで、その女の子がその後一切物語に関わってこなかったら読者は怒ることでしょう。  それが現実と物語の違いです。現実世界にはすべてを面白くするよう計算して事象を配している存在はいませんが、物語世界には作者という神がいるのです。  したがって、物語世界には始点があり、終点があり、結晶点があり、ドラマツルギーがあり、また定石があって、それらが物語を面白くしています。  しかし――しかしです。世の中にはなんとこの「定石」にあてはまらない物語が実在するのですね。  それは、 

どうすれば物語は面白くなるのか?

『アルスラーン戦記』開幕! 原作既読者の視点からその魅力を考える。

 季節は早春、新しいアニメが始まる頃合い――というわけで、新番組『アルスラーン戦記』第1話を観ました。  大陸を東西に貫く〈大陸公路〉の覇者・パルス国の王子アルスラーンの長い長い物語がここに始まるわけですが、実はこの第1話はまだ「序章」。  本格的に物語が動いてくるのは次の第2話からになると思われます。  実はこの第1話にあたるエピソードは原作小説には存在しません。  小説は、この3年後の〈アトロパテネの会戦〉から始まります。  それでは、アニメが独自にこの「序章」を挟んだのかというと、そういうわけではなく、この第1話は荒川弘による漫画版のオリジナルなのです。  つまり、序盤からすでにオリジナル・エピソードを入れ込んできたわけなのですが、この判断は英断だったと思う。  いきなり一大敗戦から始めてしまう小説の冒頭も素晴らしいのですが、この漫画/アニメの「序章」はよりていねいな印象を与えます。  しかも原作既読者にとっては「なるほど! こう来たか」と唸らされる展開でもある。  雑誌で漫画版の第1話を見たときは「さすが荒川弘」と思わされました。  この第1話に登場する「ルシタニアの少年」の正体は、実は――まあ、原作既読でわかるひとはこの時点でもうわかることでしょう。  ちなみに漫画/アニメでは、原作とくらべてもアルスラーンの繊弱さ、凡庸さがいっそう強調されています。  これはより低年齢層向けの少年漫画としてわかりやすいエンターテインメントに仕上げるためだったのでしょう。  ほんの少しの違いなのですが、その「ほんの少し」が決定的な効果を生んでいる。  いまの時点ではアルスラーンはその地位以外にはまだ何も持っていない平凡な少年に過ぎない。  そして、この頼りない少年が万人が仰ぎ見るパルス中興の祖・解放王アルスラーンにまで成長していくのです。  そのスケールの大きさはやはりあたりまえのファンタジーとはひと味違っていますね。  荒川弘による脚色も凄かったし、アニメそのものの出来も相当のものですが、やはり何より原作小説の出来そのものがあまりにも素晴らしい。  かつて『アルスラーン戦記』は一度アニメ映画化されているのですが、そのときはまだ技術的に作品世界を映像化することに無理がある印象が強かった。  じっさい、原作の第5巻あたりまで追いかけてそのシリーズは終わっています。  しかし、この新しいテレビ版はおそらく圧倒的人気を集めることでしょう。  漫画版は既にベストセラーになっているようですが、アニメが人気が出れば、さらに破格の部数が出るんじゃないかな。  『鋼の錬金術師』や『銀の匙』以上のセールスを記録することができるかもしれません。 原作の長年のファンとしては実に嬉しい事です。  わずか数年で「賞味期限」を迎えて忘れ去られていく作品も少なくないなか、30年近くの時を経てもなお第一線のエンターテインメントとして通用する『アルスラーン戦記』の凄みはやはり尋常のものではありません。  きっとこれが「本物」ということなのでしょう。  流行にも、時代の流れにも左右されない「本物」の面白さ。  特に非西洋世界、それも往古のペルシャを参考にして舞台を作り上げたオリジナリティはいまなお色褪せてはいない――というか、いまでもほとんど追随するものがいない状態です。  『アルスラーン戦記』では今後、インドとかチベットあたりがモデルになった国家も出て来ます。  パルスの周辺では、さまざまな野心的な国が牙を研いでいるのです。  やがては 

『アルスラーン戦記』開幕! 原作既読者の視点からその魅力を考える。

アニメ開幕直前! 10分でわかる『アルスラーン戦記』。

 いよいよ来週から『アルスラーン戦記』アニメ版がスタートします。  原作は田中芳樹のベストセラー戦記小説。  架空の王国パルスとその周辺の諸国家を舞台に、ひよわな王子アルスラーンの冒険と成長を描いた気宇壮大な大河ロマンです。  86年に始まった原作はこれまで既刊14巻が発売されていて、完結を目前に控えたところまで来ています。  原作は一度漫画化及びアニメ化されていますが、このたび、荒川弘という才能を得てふたたび漫画になりました。  荒川さんによる漫画は基本的には原作に忠実ですが、ところどころにオリジナル要素を盛り込み、壮麗な原作をいっそう勇壮な物語に仕立てあげています。  それがいまテレビアニメという形で展開するわけです。期待せずにはいられません。  そこで、この記事では「10分でわかる『アルスラーン戦記』」と題して、この未曾有の物語の説明をして行きたいと思います。 ■『アルスラーン戦記』ってどんなお話?■  広大な大陸を東西に貫く「大陸公路」の覇者、パルス王国はいま、西方からやって来たルシタニア王国の侵略を受けていた。  勇猛でしられるパルス国王アンドラゴラス三世はただちに軍勢を集結、アトロパテネの平原に布陣する。  無敵を誇るパルス軍が敗れることなど、かれは考えてもいなかった。  ところが、パルスの将軍として一万の兵を預かる万騎長カーラーンが味方を裏切ったことによって、パルス軍は壊滅、アンドラゴラスは敵軍に捉えられる。  そしてその頃、パルスのただひとりの王子であるアルスラーンはただひとり平原をさまよっていた。  かれは絶体絶命のところを「戦士のなかの戦士」ダリューンに救われ、ただふたり、戦場を抜け落ちる。  アルスラーン、ときに十四歳。  このひよわな少年がやがて長きにわたるパルス解放戦争を導いていくことになるのである――。  『アルスラーン戦記』は特にとりえがないように見えるパルス国の王太子アルスラーンの成長物語であり、パルスと野心的な周辺諸国を巡る戦記ファンタジーです。  ファンタジーとはいっても、魔法的な側面はそれほど強くありません。  後半になってくると邪悪の蛇王ザッハークの魔軍などというものが出て来てファンタジー色が濃くなっていきますが、当面、アルスラーンが取り組まなければならないのはパルス国を占拠してしまったルシタニア軍の討伐と国土の解放です。  したがって、あくまでメインの要素となるのは戦争や謀略。  そしてそこに、アルスラーンの出生の秘密が関わってきます。  そして、そもそもなぜカーラーンはパルスを裏切り、国土を灰にしたのか?  カーラーンを意のままに操るかに見える「銀仮面卿」と呼ばれる人物は何者なのか?   「銀仮面卿」に力を貸す暗灰色の衣の老人の目的とは何か?  アンドラゴラスが知っている秘密とは何なのか?  バフマン老人は何を悩むのか?  さまざまな謎が謎を呼ぶのですが、それらはすべてアルスラーンによるパルス解放にあたって解き明かされることになります。  ひろげられた大風呂敷がみごとにとじていく「王都奪還」のエピソードは見事としかいいようがありません。  まあ、そのあともさらに物語は続いてゆくのですが、この長い長い小説はいまになってようやく終わろうとしています。  これから読むひとはあまり長い間新刊を待たなくて済むかもしれません(はっきりとはわかりませんが……)。  田中芳樹は多くの魅力的なシリーズを生み出しては未完で放り投げていることでしられている作家なのですが、決して風呂敷をとじる能力に欠けている作家ではありません。  この流浪の王子と邪悪の蛇王を巡るあまりにも壮大なプロットがどのようにして完結を見るのか、期待しても良いでしょう。  「皆殺しの田中」と呼ばれるくらいの作家ですから、おそらく物語の終幕に至っては何かしらの悲劇が待ち受けているはずではあるのですが、その点も含めて続刊を楽しみに待ちたいところです。 ■どこが面白いの?■  先ほども書いたように、アトロパテネの野を命からがら脱出したアルスラーンに付き従うものは、最強の騎士ダリューンただひとりです。  それに対し、かれが打倒しなければならないルシタニア軍は、アトロパテネの野の会戦で多数の兵を失ったとはいえ、なお、その数30万。  いかにダリューンが無敵といっても、ひとりで30万の軍を倒すことなどできるはずがありません。  したがって、アルスラーンはパルス全土に残っている兵たちを糾合し、ルシタニア軍に匹敵する軍を生み出して戦いを挑まなければならないのです。  初めふたりだったアルスラーンたちが、やがて軍師ナルサスやその弟子エラム、流浪の楽師ギーヴ、女神官ファランギースといった人々の協力を得、また多数の軍勢を集め、しだいしだいに形勢を逆転していくそのカタルシスが『アルスラーン戦記』序盤の読みどころです。  いったい凡庸な王子とも見え、周囲からもそのように扱われていたアルスラーンがいかにしてこの非凡な人々をひきいる「王」にまで育っていくのか。その点もまた見どころのひとつでしょう。  そしてまた、きわめて劇的に演出された名場面の数々!  ことケレン味という一点において、『アルスラーン戦記』に匹敵する小説は日本にはいくつもないのではないでしょうか。  それくらい何もかもがドラマティックに描かれている。  そもそもいきなり無敵だったはずの軍隊の「敗戦」から物語がスタートするあたり、凡庸ではありません。  そしてその状態からの史上空前の逆転劇は大きなカタルシスがあります。  ひよわと見られていたアルスラーンはやがて「十六翼将」と呼ばれる最強の騎士16人を麾下にくわえ、「解放王アルスラーン」としてしられるようになっていくのですが、そこにまで至るまではいくつもの試練を乗り越えなくてはなりません。  物語が始まった時点では、アルスラーンはまだ何者でもないといっていいでしょう。  そのアルスラーンが、ちょっと「個性的」という言葉だけではいい表せないくらい個性的な面々をどのようにしてコントールしてゆくのか、ひと筋縄では行かない物語が待っています。  殊に旅の楽師にしてパルス最高の弓使いであるギーヴなどは、王家への忠誠心は皆無、美貌の女神官ファランギースに惹かれてアルスラーン陣営に入るという人物だけに、並大抵のリーダーに使いこなせるような性格ではありません。  しかし、最終的にアルスラーンはそのギーヴからすらも忠誠を誓われるようになっていくのです。  武術においても知略においても必ずしも秀でたものを見せないアルスラーンの才能とは何なのか?  ぜひ本編をお楽しみください。 ■『アルスラーン戦記』独自の魅力は何?■  そうはいっても、その手の戦記ものやファンタジーはもう見飽きたよ、というひともいるでしょう。  じっさい、『アルスラーン戦記』が開幕した頃にはライバルとなる異世界戦記作品といえば栗本薫の『グイン・サーガ』くらいしかなかったのですが、その後、雨後の筍の喩えのように膨大な数のその種の作品が生み出され、ファンタジー的想像力はすっかり陳腐化しました。  しかし、いまなお『アルスラーン戦記』はほかの凡百のファンタジーとはものが違います。  この小説のどこが特別なのか? 

アニメ開幕直前! 10分でわかる『アルスラーン戦記』。

『タイタニア』に、矛盾の作家・田中芳樹の真骨頂を見る。

 田中芳樹『タイタニア』最終巻を読了した。小学生の頃から読んでいる作品を、四半世紀もの時を越え読み上げたことになるわけで、さすがに感慨深い。  思えば25年前、当時流行していた『ファイナルファンタジー3』の主人公たちの名前を、タイタニアの四公爵から拝借した記憶がある。  アリアバート、ジュスラン、ザーリッシュ、イドリス。いずれ劣らぬ豊かな才能を持ち、20代にして全宇宙を睥睨する立場にある若者たち。  『タイタニア』はこの俊英ぞろいの四公爵と、かれらの上に立つ藩王アジュマーン、そして期せずして「反タイタニア」の象徴になってしまった天才戦術家ファン・ヒューリックを中心に語られていく。  およそ200年にわたってタイタニア一族の専横が続く「パックス・タイタニア」の時代を舞台に繰りひろげられる支配と叛逆、戦乱と謀略の物語。  はるかな未来を舞台にしているにもかかわらず、ほとんどSF的な意匠が登場しないことも含めて、まさに『銀河英雄伝説』に続く「田中スペースオペラ」の典型かと思わせる。  『タイタニア』の前作にあたり、いまなお傑作として歴史にその名をとどろかす『銀英雄伝』は、対等なふたつの巨大勢力、そしてふたりの主人公の戦いを描いていた。  『タイタニア』も一見するとその規範を踏襲しているかに見える。しかし、全5巻の物語が中盤に至ると、しだいに『タイタニア』独自の個性が見えて来る。  つまり、これはあくまでタイタニアと呼ばれる人々を中核に据え、「タイタニアとは何か?」をテーマに据えた小説なのだ。その意味で『タイタニア』は決して『銀英伝』の亜流ではない。  いや、ほんとうはもっと決定的なポイントで『銀英伝』と『タイタニア』は異なっているのだが、それについては後にしよう。  個人的な見解だが、田中芳樹のすべての作品は権力志向的な人物を中心に置いた作品と、そうではない人物を主人公にした作品に分かれる。  まさにその両者の対立と対決を描いているのが『銀英伝』であるわけだが、『タイタニア』はほぼ前者に属する作品だといえる。  ほぼ、と書くのは一向に権力に目覚めないファン・ヒューリックという人物が主役級の活躍を見せるからだが、全編が完結したいま考えてみると、やはりヒューリックはこの物語の主人公とはいいがたく思える。  むしろ、この長編にただひとり主人公というべき人物がいるとすれば、それはジュスラン・タイタニア公爵だろう。  宇宙を支配するタイタニア一族の血統に生まれながら、タイタニアとして生きる自分に疑問を抱くこの青年は、そのきわめて思索的な性格で強い印象を残す。  かれ自身は権力にそこまでの価値を見いだしていないものの、権力の中枢に生まれ、また激しい権力闘争のなかで生きのこる才覚に恵まれたために否応なく宇宙屈指の地位を得ることとなったジュスランや、かれと同格の実力を持つアリアバートを主役に据えたことで、『タイタニア』は権力をめぐる物語となった。  もっとも、この小説にただひとりで全宇宙を統一できるような「天才」は登場しない。タイタニアの藩王アジュマーンにしろ、かれの下の四公爵にしろ、傑出した才能のもち主ではあるものの、人類史に冠絶する天才とはいいがたい。  作中、唯一「天才」と称されるファン・ヒューリックの才能は限定的なものである。その意味で『タイタニア』とは、いわば二流の役者たちが演じるオペラであり、ここにはラインハルト・フォン・ローエングラムも、ヤン・ウェンリーも不在なのだ。  しかし、だからといって即座に『タイタニア』が『銀英伝』に劣るということにはならない。むしろ、不世出の英雄たちの「伝説」を綴った『銀英伝』の後に、かれらより才能的に劣る人物たちを主役にした物語を書こうと考えた田中芳樹の発想は一驚に値する。  この人は、『銀英伝』を書き終えた後に、『銀英伝』と同趣向で、それよりもっと壮大なスケールの物語を書こうというふうには考えなかったわけだ。  それでは、『銀英伝』に続く『タイタニア』で田中芳樹が描こうとしたものは何だったのか。そこを正確に捉えられなければ『タイタニア』を的確に評価することはできないだろう。  それに対するぼくなりの解答をいわせてもらうなら、『タイタニア』とは権力を巡る無数の矛盾を描いた小説である、ということになる。  『銀英伝』は「戦争」を主題に置き、戦争の天才同士のやり取りを綴った作品だった。しかし、『タイタニア』のテーマはむしろ「権力」にあり、だからこそ戦争の天才であるところのファン・ヒューリックは脇役に留まることになった。  それなら、田中芳樹はこの作品のなかで、権力に取り憑かれた者の愚かさを描いているのか、それとも権力を目指す野心家たちの競演を肯定的に綴っているのだろうか。これが、実は単純ではない。 (ここまで1971文字/ここから2621文字) 

『タイタニア』に、矛盾の作家・田中芳樹の真骨頂を見る。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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