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記事 94件
  • 『氷と炎の歌』、『ダークソウル』、ダークファンタジーの伝統とは。

    2021-06-20 16:23  
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     ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』、ゲーム『ダークソウル』など、さまざまなメディアで世界的に流行を続けるダークファンタジー。そのジャンルはどのような歴史と特徴を持っているのか、ひと通りのことを解説しました。
    『ENDER LILIES』が面白そうだ。
     明後日の6月22日、『ENDER LILIES: Quietus of the Knights』が発売される。「死の雨」によって壊滅した王国を舞台に、少女と騎士の昏い冒険が描かれる、とか。
     「2Dグラフィックのマップ探索型アクションゲーム」を意味する「メトロイドヴァニア」と呼ばれるジャンルの作品で、バリバリのダークファンタジーだ。
     「メトロイドヴァニア」という言葉は『メトロイド』+『キャッスルヴァニア(悪魔城ドラキュラ)』から来ているのだが、まあ、ようするにそういうゲームであるらしい。
     すでに先行版が発売されていて大好評だし、何よりぼくはこの手のダークファンタジーが大好物なので、ぜひプレイしたいと思う。
     いま、ゲームの世界に留まらず、映画でもマンガでもダークファンタジーは大流行だ。否、もはや流行というよりメジャーな一ジャンルとして印象した印象すらある。
     世界的に見て、そのなかでも最も大きいタイトルはやはり『ゲーム・オブ・スローンズ』だろう。

     ジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』を原作に、「七王国の玉座」を狙い合うさまざまな野心家たちの策謀と戦いを、ドラゴンやゾンビといったファンタジー的なキャラクターをも絡めて描写したテレビドラマ市場に冠たる大傑作にして大ヒット作である。

     原作も優れた傑作にして世界的なベストセラーだが、その人気が広まったのはやはり映像化されたことが大きいと思う。
     また、ゲームの世界では、ダークジャンファジーと呼ぶべき名作が山のように発売されている。
     どこからどこまでをそう呼ぶべきなのかは微妙なところだが、たとえば日本のゲームである『ダークソウル』などは、世界的に熱狂的なファンを抱えていて、「ソウルライク」と呼ばれるゲームもたくさん出ている。

     『ドラゴンクエスト』の新作もどうやらダークファンタジー風味の作品になるらしい。このダークファンタジーのブームはどこから来ているのか、なるべくわかりやすく解説してみよう。
    ダークファンタジーとゴシックロマンス。
     歴史的に見れば、ダークファンタジーと呼ぶべき作品は、そのときはそう呼ばれてはいなかったにしても、じつは大昔からあった。
     そもそも世界中の神話やお伽噺などがかなりダークな性質を持っていることは広く知られている通りであるわけで、そういう意味では数千年前からダークファンタジーは存在していたということもできるかもしれない。
     ただ、それだけではあまりにざっくりした説明になる。より近代的な意味でのダークファンタジーに注目してみよう。
     おそらく、いまのダークファンタジーにとって先祖ともいうべき作品があるとするなら、それはいわゆる「ゴシックロマンス」の小説たちだろう。
     ウォルポールの『オトラント城奇譚』に始まる18世紀のロマンス小説は、たしかに狭い意味でのファンタジーとはいえないだろうが、その昏い魂を凝らせたような展開の数々、また荒涼たる風景の描写は、非常にダークファンタジー的である。
     エドガー・アラン・ポーという例外はあるにしても、その大半がいまの目から見ると冗長で無駄が多いように思えるところも含めて、ダークファンタジーはゴシックロマンスから生まれた、といっても良いものと思われる。
     それらの作品については『ゴシックハート』、『ゴシックスピリット』といった解説書にくわしい。

     悪の魅力と異国情緒(オリエンタリズム)あふれる『マンク』などは、今日のたとえば『アラビアの夜の種族』の遠い祖先といえるかもしれない。

     ただ、これらの作品は一般にホラーの先祖とみなされていて、ダークファンタジーとのつながりを考える人は少ないだろう。
     また、その雰囲気はいかにもダークファンタジーと似ているとしても、もっと直接的にいまのダークファンタジーと関係があるというものでもない。
     その上、18世紀はあまりにも遠い。したがって、よりダイレクトにダークファンタジーといえる作品たちは、20世紀初頭のアメリカに見ることができるはずである。
    100年前のヒロイックファンタジー。
     いまの視点から振り返ってみると、エンターテインメントとしてのダークファンタジーの成立は、いまから100年ほど前、20世紀前半の頃なのではないかと思えて来るのである。
     『ウィアード・テールズ』などといったアメリカの娯楽雑誌で、いわゆる「パルプフィクション」として誕生した「ヒロイックファンタジー」のうちのいくつかがそれだ。
     いまではほとんどは取るに足りない凡庸な作品に過ぎなかったともいわれるヒロイックファンタジーだが、なかには素晴らしい名作もあった。
     たとえば、ロバート・E・ハワードやC・L・ムーアなどの作家たちが物した『英雄コナン』や『ジレル・オブ・ジョイリー』などのシリーズがそれである。そのなかでも『コナン』のシリーズはいまに至るも名作中の名作として知られている。

     これはいまから一万年以上も昔の時代に、頽廃した文明のなかで活躍した野生児「コナン」を主人公とした物語で、かなりダークでデカダンでエロティックな作品群である。
     その即物性というか、ある種、プラグマティズム的な雰囲気も含めて、ある意味では、『コナン』は最初期のダークファンタジーといえるかもしれない。
     これもまた、日本では100年以上が過ぎたいまでも新刊として読むことができる。いかに優れたシリーズであるかがわかろうというものだろう。
     一方、当時のヒロイックファンタジー作家にはめずらしい女性作家であるムーアは、その傑出した感性で、きわめて官能的なファンタジーを綴った。彼女の「ジレル」や「ノースウェスト・スミス」のシリーズはいまでも読まれている。
     また、「ジレル」にしろ「ノースウェスト・スミス」にしろ、「やおい趣味」的なフレーバーが濃厚で、そのような意味でも興味深い作品なのである。
     そして、それらの作品よりさらにダークでデカダンな作品を物したのが、クラーク・アシュトン・スミスだ。
     
  • イエス・キリストは人類の積み(ゲー)を背負って十字架の上に斃れた、のかもしれない。

    2021-02-25 23:29  
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     やたらむずかしくて死にまくる『ダークソウル3』をとりあえず放り投げて、『スーパーマリオ3Dワールド+フューリーワールド』をプレイしています。

     こうやって途中で投げて最後までたどり着いていないゲームがいくつあるか、数えるのもイヤになる感じですけれど、まあ、とりあえずは『マリオ』を終わらせることにしましょう。
     『スーパーマリオ3Dワールド』はじつはWiiUで一度クリアしているのですが、そのときの記憶はもう完全に忘却の彼方なので、じつに新鮮な気持ちでプレイできます。
     うん、面白い。膨大な『マリオ』シリーズのなかでも『ギャラクシー』と並んで最高傑作のひとつなのではないかと思うくらい。まあ、3Dになっているだけで操作方法はいつもの『マリオ』なのだけれど、これでもかと創意工夫あふれる各ステージが素晴らしい。
     いったいどこからこの発想を持って来たのかと思わせられる秀抜なアイディア盛りだくさんのステージが延々と続く。
     ちなみに、途中まではすべてのグリーンスター(各ステージに三つずつ配置されている緑色のスター。巧妙に隠されていることもある)を取っていくつもりだったのだけれど、ステージ5ともなるとただクリアするだけでも苦労するところもあるので、さすがにあきらめました。最後までクリアして、もしまだ余裕が残っていたら集めることにしよう。
     いやー、それにしても、『マリオ』といい『ゼルダ』といい、『スマッシュブラザーズ』や『ファイアーエムブレム』といい、任天堂のゲームはどれもレベルが高いですね!
     どのシリーズも大ヒットしているうえ、新作を出すたびに最高傑作を更新していっている印象で、この期に及んで新しい挑戦を怖れない姿勢には脱帽です。
     『ファイアーエムブレム 風花雪月』も18時間ほどプレイして投げ出しているので、この機会にクリアしておきたいのですが、三つ(ダウンロードコンテンツを入れると四つ)のルートをすべて制覇するためには果てしなく長い時間がかかるというウワサも聞くので、ちょっと二の足を踏んでしまう。
     まあでも、これと『マリオ』と『ダークソウル3』がいまのところ、ビデオゲームの優先順位トップ3ですね。あと、アリスソフトの集大成といわれる『ランス10』とかもやりたいのだけれど、そのまえに『戦国ランス』とかもやっておきたいので、なかなか大変。
     神さま、ぼくに長時間ゲームをやっていても疲れないだけのコンセントレーションをください。
     それから、昨日もふれたメトロイドヴァニアの傑作『Bloodstained』と、PSP版の『タクティクス・オウガ』もクリアしておきたいんですよね。

     それをいうなら『サイバーパンク2077』もまだ終わっていないし、いったいいくつ積みゲーがあるのか、もうよくわかりません。やりかけで止まっているものだけで十数本はくだらないと思う。

     『パンツァードラグーンリメイク』とか、『聖剣伝説 レジェンド・オブ・マナ』とか、なつかしのリメイクもの、移植もののなかにも気になる作品はあるのだけれど、そこにまで手を出していたらほんとうに時間がいくらあっても足りないのでやりません。
     いや、さっきの『タクティクスオウガ』のほかにも、『ゼノブレイド』とか『ファイナルファンタジー7リメイク』とか、手を出しているリメイクものもいくつかあるんですけれどね。それらもすべて途中で止まっているんだよなあ。

     もう何か、 
  • ビデオゲームはいまこそまさに黄金時代! 無数の傑作がぼくらを待っている。

    2021-02-25 17:23  
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     冒頭からいきなりどうでもいい話なのですが、コロナウィルスが流行を続けるなか、ついにわれらが島耕作もコロナに罹患してしまったようです。
    https://gunosy.com/articles/aNbOT
     うーん、島ほどの人物ですらかかってしまうことがあるのだから、これは気をつけないといけませんね! ……いや、もう何が何やらわからないよ。
     それはともかく、きょうはゲームのほうのファンタジーの話です。このところ、以前購入した『ダークソウル3』を始めたのですが、むずかし過ぎてさっぱり進みません。
     もともとアクションゲームが得意なほうではないのですが、いや、このゲーム、難易度高くね? 何度も何度も死んで操作を習得する「死にゲー」という噂は聞いていたけれど、ほんとうにクリアできるかどうか、いまから心配。
     まあ、一時代を画したゲームなので、その世界といい、アクションといい、面白いことは面白いんですけれどね。問題はぼくの腕前がついていかないことだ。
     しかし、日本に棲んでいるとあまり実感できない一面もありますが、いま、コンピューターゲームはほんとうに黄金時代を迎えていますね。
     巷にはスーパーファミコンとか初代プレイステーションの時代をなつかしんでいる人もいるようですし、その時代はその時代でたしかに面白かったのですが、でも、客観的に見れば現代ほど質の高いビデオゲームが次々に発表されている時代はないと思います。
     次々と買っては積んでいるぼくがいえたことではないかもしれませんが、まさに時代はゴールデンエイジ、素晴らしいフロンティアが目のまえに開けていることを感じます。
     いわゆるAAA級といわれるような膨大な資金を蕩尽した大作ゲームも良いのですが、もう少し規模の小さい作品も凄いものがいろいろと出てきているようです。
     個人的には『メトロイド』と『キャッスルヴァニア(悪魔城ドラキュラ)』の名前を足して「メトロイドヴァニア」といわれている2D探索ものが好きなので、『Bloodstaind』や『ENDER LILIES』といった作品に興味が湧いています。

     あと、『Wizardly』も好きなのでダンジョンクローラー系の『Operenncia』もやってみたい。あ、ネットではどう見ても『タクティクスオウガ』じゃんといわれてる『Project TRIANGLE STRATEGY』なども気になっているのですが、これは来年の発売になるようですね。
     これらにオープンワールド系の大作ロールプレイングゲームを足すと、とてもプレイしている時間が取れないくらいの膨大な作品が発売されているわけで、ちょっとどうしたものかと思ってしまいます。
     Steamではウォッチリストに入れたセールになるたびに購入しているので、積み(罪?)ゲーは溜まる一方なんですよね。『真・女神転生』の新作もやりたいんだけれど、これはいつ出るのか。
     ちなみに、きのう触れた『炎と血』の作者であるジョージ・R・R・マーティンは『ダークソウル』シリーズを制作したフロムソフトウェアの新作オープンワールドゲーム『エルデンリング』にもかかわっているそうです。
     いいからあんたは『氷と炎の歌』の続きを書けよといいたくなるところですが、『炎と血』の訳者あとがきによるとマーティンは他にも山ほどシリーズを抱えているそうで、ほんとうに『氷と炎の歌』の完結を見ることができるのかどうか、ますます心配になって来ます。
     いや、きのうも書いたように、ぼくはきっと終わらないだろうと思っているのだけれど、それでも結末を見たいという気持ちはある。『ベルセルク』といい、ダークファンタジーの傑作には未完の呪いでもかかっているのだろうか。 
  • バグいっぱいの『サイバーパンク2077』はそれでもやっぱり傑作だ!!!

    2020-12-29 23:08  
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     先日、Steamで購入した『サイバーパンク2077』を少しずつプレイしています。ダークな世界観とシリアスな物語、そして広大かつ印象的なマップによってスマッシュヒットを記録した傑作『ウィッチャー3』を作り上げたポーランドのメーカーの新作です。
     『ウィッチャー3』と同じいわゆる「オープンワールド」ゲーム、ただし今回は西暦2077年の未来世界を舞台にしたサイバーパンクゲームとなっています。
     いままで本格的なサイバーパンクオープンワールドはなかったから、その意味では斬新な作品と云えるでしょう。サイバーパンクって、映画でも『ブレードランナー』以来あまり成功作が見あたらないし、意外に鬼門のジャンルなんですよね。
     昔、ウィリアム・ギブスン原作の『JM』とか見に行ったなあ。しみじみとひどい出来だった。
     さて、『サイバーパンク2077』、相当にハイスペックのPCでもなかなかまともに動作してくれない
  • オープンワールドRPGはゲームドラッグ。

    2020-12-11 03:01  
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     たびたびの延期を乗り越えてようやく発売された『サイバーパンク2077』ですが、表現規制が入らないPC版をプレイするには相当なマシンパワーを必要とするです。
     ぼくの機体ならたぶん動くのではないかと思うけれど、ゲーム中に何度もクラッシュするという評判もあり、とりあえずは買い控えています。
     うーん、とりあえず『アサシンクリードヴァルハラ』をやって飢えを凌ぐかな。でも、こちらはPCでも表現規制がひどいらしいんだよなあ。せっかくのダークなゲーム体験を台なしにする表現規制には大いに不満があります。
     そういうわけでとりあえず手持ちの未クリアゲームをやろうと思っているのですが、何しろ序盤で放り出したもの、まったくの手つかずのものを含め大量の積みゲーがあるのでどれから手を出して良いやらわからない感じ。
     じつは 
  • プレイステーション5発売! 世界は「祭り」に酔いしれる。

    2020-11-12 21:16  
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     今日はプレイステーション5の発売日でしたね。ビデオゲームの未来を指し示す「最後のゲームマシン(?)」ということで、とても期待しています。『デモンズソウル』とかやりたいなあ。
     それにしても、いまさらではありますがゲームのグラフィックも綺麗になったものですね。プレイステーション4のレベルですでに十分以上に綺麗だと思うのに、そこからまた進化するのだものね。
     もちろんグラフィックだけが良いゲームの条件じゃないとは思うけれど、それにしてもここまで映像が美麗になるとうっとりと見入ってしまいそうです。
     その一方で、SteamとかNintendo Switchなどではある種チープなアイディア勝負のインディーズゲームが盛んだったりして、制作側にとってはともかく、いちプレイヤーとしてはじつに素晴らしい時代が来たものだと感じます。
     早く『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』の続編出ないかなあ。『
  • シャカイ系と新世界系とはどこが決定的に違うのか?

    2020-05-29 17:42  
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     ども。ここしばらく更新が途絶えていて申し訳ありません。ここら辺でちょっと読みごたえのある記事を書いて今月を締めることにしたいと思います。
     ぼくたち〈アズキアライアカデミア〉でいうところの「新世界系」のまとめと、「その先」の展望です。
     新世界系の発端である『進撃の巨人』の連載開始から11年、『魔法少女まどか☆マギカ』の放送から9年、いわゆるテン年代が終わり、2020年代が始まったいま、新世界系は新たな展開を迎えつつあるように思います。
     そこで、ここで「新世界系とはいったい何だったのか?」を踏まえ、「これからどのような方向へ向かうのか?」を占っておきたいと思うのです。
     まず、新世界系の定義についてもう一度、振り返っておきましょう。新世界系とは、そもそも『ONE PIECE』、『HUNTER×HUNTER』、『トリコ』といった一連の作品において「新世界」とか「暗黒大陸」と呼ばれる新たな冒険のステージが提示されたことを見て、「いったいこれは何なのか?」と考えたところから生まれた概念でした。
     そして、この「新世界」とは「まったくの突然死」すらありえる「現実世界」なのではないか、と思考を進めていったわけです。
     物語ならぬ現実の世界においては、『ドラゴンクエスト』のように敵が一段階ずつ順番に強くなっていって主人公の経験値となるとは限りません。最初の段階で突然、ラスボスが表れてデッドエンドとなることも十分ありえる、それが現実。
     したがって、ある意味では、新世界においては「物語」が成立しません。いきなり最強の敵が出て来ました、死んでしまいました、おしまい、では面白くも何ともないわけですから。
     そこで、「壁」という概念が登場します。これは、たとえば『進撃の巨人』のように、物理的、設定的に本物の壁である必要はありません。あくまでも「新世界(突然死すらありえる現実世界)」と「セカイ(人間の望みが外部化された世界)」を隔てる境界が存在することが重要なのだと思ってください。
     それは『HUNTER×HUNTER』では「海」でしたし、『約束のネバーランド』では「崖」の形を取っていました。とにかく残酷で過酷な「新世界」と「相対的に安全なセカイ」が何らかの形で隔てられていることが重要なのです。
     この「壁」の存在によって初めて新世界系は「不条理で理不尽な現実」をエンターテインメントの形で描くことが可能となった、といっても良いでしょう。
     それでは、なぜ、ゼロ年代末期からテン年代初頭にかけてこのような新世界系が生まれたのか? それは、つまりは高度経済成長からバブルの時代が完全に終わり、社会に余裕(リソース)がなくなり、状況が切迫してきたからにほかなりません。
     生きる環境がきびしくなっていくにつれ、人間の内面世界を描く「セカイ系」的な作品群からよりリアルな世界を描く「新世界系」へ関心が移ってきたわけです。
     これはどうやら、日本だけの現象というよりは、アメリカを含めた先進国である程度は共通していることらしい。ヨーロッパあたりのエンターテインメントがいま、どのような状況になっているのか不勉強にしてぼくは知らないのですが、おそらくそちらでも同じようなことが起こっているのかもしれません。
     さて、ここで以前も引用して語った評論家の杉田俊介氏による『天気の子』評をもう一度引いてみましょう。

    それに対し、帆高は「陽菜を殺し(かけ)たのは、この自分の欲望そのものだ」と、彼自身の能動的な加害性を自覚しようとする、あるいは自覚しかける――そして「誰か一人に不幸を押し付けてそれ以外の多数派が幸福でいられる社会(最大多数の最大幸福をめざす功利的な社会)」よりも「全員が平等に不幸になって衰退していく社会(ポストアポカリプス的でポストヒストリカルでポストヒューマンな世界)」を選択しよう、と決断する。そして物語の最終盤、帆高は言う。それでも僕らは「大丈夫」であるはずだ、と。
    象徴的な人柱(アイドルやキャラクターや天皇?)を立てることによって、じわじわと崩壊し水没していく日本の現実を誤魔化すのはもうやめよう、狂ったこの世界にちゃんと直面しよう、と。
    しかし奇妙に感じられるのは、帆高がむき出しになった「狂った世界」を、まさに「アニメ的」な情念と感情だけによって、無根拠な力技によって「大丈夫」だ、と全肯定してしまうことである。それはほとんど、人間の世界なんて最初から非人間的に狂ったものなのだから仕方ない、それを受け入れるしかない、という責任放棄の論理を口にさせられているようなものである。そこに根本的な違和感を持った。欺瞞的だと思った。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66422

     「狂った世界」。ここで何げなく使用されているこの言葉はじつに新世界系とその時代を端的に表現するキーワードだといえます。
     世界は狂っているということ、過酷で残酷で不条理で理不尽で、「間違えて」いるということこそが、新世界系の端的な前提なのです。
     新世界系とは、「この狂った世界でいかにして生きる(べき)か?」という問いに答えようとする一連の作品を示すといっても良いでしょう。
     しかし、杉田氏はここでその「狂った世界」は是正されるべきだという考えを示し、そういった想像力を「シャカイ系」と名づけます。杉田氏によればそういった「シャカイ系の想像力」こそ『天気の子』に欠けているものなのです。かれはさらに続けます。

     「君とぼく」の個人的な恋愛関係と、セカイ全体の破局的な危機だけがあり、それらを媒介するための「社会」という公共的な領域が存在しない――というのは(個人/社会/世界→個人/世界)、まさに「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観そのものだろう。そこでは「社会」であるべきものが「世界」にすり替えられているのだ。
     「社会」とは、人々がそれをメンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである。その意味でセカイ系とはネオリベラル系であり(実際に帆高や陽菜の経済的貧困の描写はかなり浅薄であり、自助努力や工夫をすれば結構簡単に乗り越えられる、という現実離れの甘さがある)、そこに欠けているのは「シャカイ系」の想像力であると言える。

     以前にも書きましたが、この認識は致命的なまでに甘い、とぼくは考えます。というか、若者層のシビアな実感からあまりにもずれているというしかありません。
     もちろん、我々個人と世界のあいだには中間項としての「シャカイ」が存在することはたしかであり、それを民主的な方法によって改善していかなければならないということは一応は正論ではあるでしょう。
     しかし、あきらかに時代はその「狂った世界」を変えることは容易ではなく、ほとんど不可能に近いという実感を前提にした作品のほうに近づいている。
     『フロストパンク』というゲームがあります。これは大寒波によって全人類が滅んだ時代を舞台に、「地球最後の都市」の指導者となってその街を導いていくという内容です。
     ぼくはまだプレイしていませんが(その前に遊んでおかないといけないゲームが無数にあるので)、プレイヤーが指導者として人を切り捨てたり見捨てたりするという倫理的に正しいとはいえない選択肢を迫られる内容であるらしい。
     このゲームの内容はある意味、現代という時代をカリカチュアライズしていると感じます。倫理的に正しく生きようにも、その「正しい選択」を行うためのリソースが不足しているというのが現代の実感なのだと思う。
     もっとも、これは必ずしも社会が衰退していることを意味しません。それこそ『ファクトフルネス』あたりを読めばわかるように、地球人類社会は全体としては確実に前進しているし、成長している。問題は、その結果として生まれたリソースが平等に配分されることはありえないということなのです。
     「狂った世界」とは、たとえば、一部に富が集中し、多くには不足するというモザイク状の状況を意味しています。日本を含めた先進国でも中産階級が崩壊し、都市市民はかなりギリギリのところにまで追いつめられているのがいまの現状でしょう。
     もちろん、これは放置していて良い問題ではない。だから、あるいは中長期的にはこの問題すらも解決されていくかもしれません。しかし、その解決策は短期的状況には間に合わないであろうこともたしかです。
     つまり、おそらく生きているあいだはぼくたちの多くはあらゆるリソースが不足する過酷な環境を生き抜くしかない。このきびしい認識は、いまとなっては若者層の「所与の前提」となっていると思うのです。
     そして、そこから新世界系の物語が生み出されてくる。余裕(リソース)がない環境とはどのようなものか? 『フロストパンク』を見ていればわかるように、それは「正しい答え」が絶対に見つからないなかで、どうにか選択して生きていかなければならないという状況です。
     いい換えるなら、そもそも「正解の選択肢」が存在しないなかでそれでも選択していかなければならないということ。ここで、ぼくは山本弘さんが新世界系の代表作のひとつである『魔法少女まどか☆マギカ』について、ブログに書いていた文章を思い出します。
     この記事の無料公開はここまで。後半は会員限定です。海燕のニコニコチャンネルは週一回+αの生放送、無数の動画、ブロマガの記事を含んで月額330円です。海燕の記事を読みたい人は良ければ入会してみてください。よろしくお願いします。 
  • 「想像力」の正体。初期『ドラクエ』や『ウィザードリィ』の感動の本質は何だったのか?

    2020-05-15 03:18  
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     ども。夜更けて、やることもないので、記事を書いています。いや、やるべきことは色々あるはずなのだけれど、もう、こうね、何ひとつやる気にならない。ミツユビナマケモノよりも怠惰な日常といえるでしょう。
     いやー、『鬼滅の刃』、ほんとうに終わるんですかねー。『SPY×FAMILY』、面白いですよねー。売れまくっていますねー。はあ(精魂尽き果てたため息)。
     そんなリヴィングデッド的に腐り果てた精神状態でTwitterをさまよっていたら、ひとつ面白い記事を見つけたので、紹介させてもらいます。「「昔のゲームの方が想像力を刺激されて良かった」は本当か」というタイトル。
     書き手の方は「ファミコンのゲームをやってた時に、ドット絵からリアルを想像していたか?」ということについて考えた結果、「これ、冷静に自分の記憶をたどってみると、たぶん、「していなかった」と思うんですよね。」という結論にたどり着いています。
     で、そこから先が興味深い。

    確かに、ドット絵の向こうに「見た目以上の何か別の世界」を感じ取ってはいたんだけど、それは「リアル」の延長というわけではなかった。マリオはマリオであってボブ・ホスキンスではなかったし、グーニーズを遊びながら映画のマイキーを想像したこともなかった。ドラクエ1で草原を歩いていても、現実の草原のような風景は浮かばなかった。
    例えば、マリオが狭い足場を渡る時は自分のことのようにハラハラしたし、ドラクエで呪文を唱えれば本当に風や炎がまきおこっているような気がした。「アトランチスの謎」ではだだっ広い島を探索しているような気分を味わったし、「ドラクエIII」は本当に世界をまたにかけて冒険している感覚があった(よくオープンワールドゲームで「マップの広さ比較」が話題になるけど、宇宙規模のやつを除けば僕は今でもドラクエIIIがトップ陣に食い込むと思ってる)。
    それは決して「リアル」な風景ではなかったけど、少なくともわずか25色、256ドット×224ドットの画面から得られる以上の「何か」を受け取っていたのは間違いなかった。でもその「何か」って一体なんだ? と考えると、これがなかなかうまく言語化できないんですよね……。
    https://note.com/tekken8810/n/ncfe394d7d6be

     わかる! わかるわー。この話、めちゃくちゃよくわかるわー。ぼくもファミコンの『マリオ』からずっとゲームを遊んで来ている年寄りゲーマーなので、この方が何をいわんとしているのか、実感としてめちゃくちゃ伝わってくる、と思います。
     たしかに、ぼくも『マリオ』や『ドラクエ』をプレイしているとき、現在のゲームのような「リアルな」グラフィックを想像していたわけではなかった。
     そもそも、どこぞの天才児ならともかく、人並みの平凡なイマジネーションしか持ち合わせていない地方都市の一小学生に「リアルな」映像なんて想像できたはずもないんですよね。
     でも、それなら当時のゲームはつまらなかったかといえば、めちゃくちゃ面白かったんです。まさに「マリオが狭い足場を渡る時は自分のことのようにハラハラしたし、ドラクエで呪文を唱えれば本当に風や炎がまきおこっているような気がした」のです。
     おそらく、多くの人が「チープなグラフィックを想像力で補っていた」というのは、この感覚のことを指しているのではないでしょうか。ごくあたりまえに考えて、ファミコンのドット絵から具体的に壮大な冒険世界を想像/創造できるほどイマジネーションの豊かな人はそうはいないでしょうからね。
     しかし、それでは、上記記事でも書かれているようにこの感覚はいったい何なのでしょう? 「想像力で補う」とは実際にはどういうことなのでしょうか?
     これも上に書かれていることですが、「パッケージやイメージイラストから想像を膨らませ」るということがひとつあると思います。これね、ぼくはかなりやっていた。
     当時のゲームグラフィックは限りなくチープで、それに対しパッケージなどのイラストは(センスの古さはともかく)いまと同等に描き込まれていたわけですから、それらのイラストのイメージをゲームのグラフィックに上書きするかたちで想像していた側面はあると思う。
     ただ、それを「ゲームグラフィックを見て、イラストのリアルなグラフィックが動くところを想像していた」というふうに表現すると、やはり違う。
     もしかしたら一定以上の絵画的才能がある人はドット絵から詳細なグラフィックを想像できたかもしれないけれど、ぼくにはできなかった。
     ただ、何というか、ぼくの頭のなかではチープなドット絵と、パッケージや攻略本などで仕入れてきたイラストなどが混然一体となって、ひとつの「リアルな」、あるいは「リアルに感じられる」世界を形づくっていたのです。
     この感覚、わかりますかね? わかってもらえると非常に嬉しいんですけれど。
     まあ、そういうことをやっていない人もいるとは思うんですけれど、そういう人もただ単にドット絵をドット絵としてしか認識していなかったわけではないんじゃないかな、と思います。
     そう。それは、あるいは夢を見ている感覚に近いものかもしれません。夢のなかでは、すべてがぼんやりと曖昧です。決して理路整然としてはいないし、飛躍しているところもたくさんあるはずなのに、なぜかすべては強烈に現実的に感じられます。
     それと同じように、少年時代にゲームをしていたときのぼくは、すべてが曖昧で抽象的で、しかしなぜかはっきりと現実として感じられる世界を旅していたのではないか。そんな気がするんですね。
     もっというなら、そもそも子供時代にはまだ現実は完全に現実ではなかったのではないか。もちろん、普段は現実に所属しすべてを受け入れて生きていたけれど、ゲームをしたり、小説を読んだりしているときはそのあたりまえの世界から遊離して、まさに夢のようにファジィで非現実的な宇宙に旅立っていたのかもしれない。
     もう少し言葉を弄するなら、ゲームをやっていたときは「リアルの閾値が下がっていた」のかもしれません。
     ぼくたちが現実世界を現実として認識するためには、それなりの情報量が必要です。つまり、視覚、聴覚を初めとする五感で世界を詳細に把握して初めて、これは現実だと感じ取れる。
     その一方で、初期の『マリオ』や『ドラクエ』のようなチープなグラフィックは「現実ではない」と判断するわけです。しかし、もし、ゲームをするとき、その「現実らしさ」の基準がはるかに曖昧になっていたとしたら?
     それならば、チープなグラフィックをチープと認識したそのままで、広大な世界を経巡る大冒険を感じ取るという矛盾した現象が説明できるのではないでしょうか。
     もちろん、「ほんとうに」現実と非現実が区別できなくなっていたわけではない。理性ではゲームはゲームに過ぎないとわかっている。しかし、その一方で感性の領域では幻想と現実が混然となった感覚に酔っていたとはいえないでしょうか。
     それはチープなグラフィックを見ながら「想像力でリアルな世界を築き上げた」ということとは違う。チープなドット絵はチープなものとしてきちんと認識しているのです。ですが、その一方でそれと同時にはるかに広い世界をぼんやりと感じ取っていたということなのではないか、と。
     この話を突き詰めると、人間はどのようにして世界を認識しているのか、ということに行き当たるように思えます。
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  • ゲーム実況『アサシンクリード オリジンズ』やるよ!

    2019-05-28 13:15  
    51pt
     本日午後8時ごろからYouTubeでSteamのセールで購入した『アサシンクリード オリジンズ』のゲーム実況を行う予定です。
     何しろ生まれて初めての実況なので、上手くいくかどうかさっぱりわかりませんが、もし良ければご視聴ください。
    https://youtu.be/P2L7cnfbZL0
     これがある程度、成功するようだったらシリーズにしたいと思います。失敗したら改善点を見つけてやはりシリーズにしたいと思います。だって、やりたいんだもの!
     ほんとうはNintendo Switchのゲームなんかを実況したいところなのですが、そのためにはさらに数万円の出費を覚悟しなければならないため、まずはPCゲームでチャレンジです。
     以前に比べればPCのスペックは破格に向上しているのでどうにかなるはず。たぶん。きっと。
     視聴者数がゼロだと寂しくて死んでしまうので見に来てね。ついでにコメントもしてく

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  • 人狼ゲーム部員を募集するよ!

    2019-01-07 13:23  
    51pt
     さて、一昨日の記事の続きです。2018年は友達のあいだの関係性がさらに一段階ディープに進展した年だったという話でした。
     これはぼくの友人関係のなかでも最も親しく付き合っている人たちとの話ですが、もう少し広い関係でもいろいろと成果が出ています。
     ぼくはいま、いくつかのそれぞれ性質の異なるLINEグループで日々、コミュニケーションを続けているのですが、そのなかにはある趣味を共有しようとするグループもあります。
     たとえば、「ゲーム部」であるとか、「読書部」だとかですね。「ゲーム部」はいっしょに対戦ゲームを遊ぶ人たちのグループですし、「読書部」では月一回、ボイスチャットによる読書会をひらいています。
     ここに「映画部」などを加えたいのですが、どうかなあ。需要はあるでしょうか?
     まあ、それはともかく、そういうLINEグループをいくつか持っているわけです。これらのグループは、オフ会に参加して