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なぜ社会は「右傾化」して見えるのか。
2014-11-30 06:5451pt前の記事の結びで「今月もよろしくお願いします」とか書いたんだけれど、よく考えなくてもまだ月末だった。どうして新しい月だと思い込んだのかな。まあいいか。さらにもうひとつ記事を書いてごまかすとしよう。
http://synodos.jp/international/11835
古い記事ですが、この対談、素晴らしく面白かったです。
「なぜ戦争はセクシーで、平和はぼんやりしているのか――戦争とプロパガンダの間に」という刺激的なタイトルながら、内容は具体的でわかりやすく、とても興味深い。ご一読をオススメしておきます。
この対談のなかでは、「平和」が「戦争」に反対するという形でしか定義できないことに「ぼんやり」したものを見いだしています。
つまり、戦争は銃や飛行機やカーゴパンツといった形で具体的な手ざわりをもってイメージできるのに対し、平和はあいまいだと。
実に面白い指摘です。それなら、「平和」を具体的にイメージしやすいヴィジョンとして浮かび上がらせるにはどうすればいいのか。うーん、いかにもむずかしそうです。
なぜそうなのかと考えていくと、結局のところ「平和」とはある種の幻想であるのだという事実に突きあたります。つまり、完全に平和な状態ではすべてのひとは「生」を十全に謳歌できるはずであるけれど、現実を見ればそうはなっていないわけです。
日本は何十年も平和だったというけれど、それでもそこでは年間数万人が自殺していっている。あるいは、近年減少したとはいえ、交通事故で10000人を超える人が死んだりしている。
そうでなくても、人生が辛い、苦しい、死んでしまいたいと思って生きている人間は数え切れない。じっさいには「戦争がない状況」は楽園でもなんでもないわけです。
そして、それにもかかわらず、「いや、それでも戦争状態に比べればずっと良いんだ」、「間違えても戦争を賛美してはならない」という建前がある。
だから、本音のところでは「こんな日常、ぶっ壊れてしまえばいいのに!」と思っていても、それを表出することは赦されない。
つまり、どんなに生きることが苦しくても、「お前のいまの苦しさはまだマシだ」といわれているように感じられるような、そういう状況がこの日本では何十年か続いて来たわけです。
「だから我慢しなさい」と直接いわれるわけではなくても、平和思想にはそういう含意があるように思えてなりません。
そしてまあそれはじっさいかなりの程度まで事実なのでしょう。ぼくだって、毎晩空襲に怯えるような生活が幸せだとは思いません。戦場で補給不足のために餓死したいとも思わない。
しかし――「戦争がない状況」としての「平和」が楽園ではない以上、「戦争のほうがまだマシなのでは?」という疑いは潜在的に残ります。
ただ、通常、平和教育の現場では、それはあくまで「平和ボケ」であり、戦争の実態を知らないからこそ考えることなのだ、だからもっと戦争がいかにひどいのか教えてやらなければならない、というふうに考えられてきたように思います。
こうして建前としての反戦と本音としての戦争への仄かなあこがれは乖離しつづけて行くわけです。
きょう、「右傾化」といわれる現象が起こっているように見えるのは(ほんとうに起こっているのかどうかはわかりません)、そこらへんにひとつの原因があるのではないでしょうか。
平和を大切にしなさいとか、ひとを差別してはいけませんといった訓戒は、表面的にはいかにも正しい。しかし、それはどうしようもなく「高みの視点からのお説教」という色あいを帯びます。
それでも、経済成長が続いているあいだはそのお説教は効果を発揮したかもしれませんが、沈滞の季節を迎えるいま、一気に「抑圧された本年」が噴出しているのでしょう。
それは「悪」でしょうか? そうかもしれませんが、ひと口に「ネトウヨの発狂」などといって済ませられるものではないでしょう。その種の高みに立った傲慢な視点設定は、事態を悪化させる役にしか立ちません。
ぼくは「ネトウヨ」といわれる人たちの気持ちもわかるように思うのです。じっさい、中国の軍事的脅威は幻想とはいい切れないわけですから。
「いや、中国に侵略の意図などない。脅威は存在しない」という人もいます。おそらくそうかもしれないと思いますが、それでも隣国の強大な軍隊は実在するのであって、その圧力は日々、ぼくたちの「平和」にのしかかっている。それは事実。(ここまで1830文字/このあと1920文字) -
何が正義なのか? ヘイトスピーチと反ヘイトを考える。
2014-11-30 01:0451ptども。『3月のライオン』最新刊が面白いので人生が幸せな海燕です。きょうは趣向を変えてヘイトスピーチの話など取り上げようかと思います。この記事ですね。
http://lite-ra.com/2014/09/post-431.html
「反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通に直撃!」というタイトルですが、ようするに「C.R.A.C」(旧「レイシストをしばき隊」)なる集団のリーダーへのインタビューです。
これがなかなか面白かったので、ぼくの感想を書こうかと思ったわけ。
何が面白いのか。ひとつには、野間さんが、ポストモダン的な相対主義を批判しているところ。このインタビューではその体現としてのマスコミが槍玉に上がっています。
「彼らはなんでも必要以上に相対的に見る癖がついている。『断罪している我々のほうにも問題があるのだ』みたいなことを言いたがる。ヘイトスピーチ規制法をどうするのか、ということに対するマスメディアや知識人の反応も近いものがある。ようは、何もしないことのエクスキューズでしょう。俺は朝日新聞に対して『自分たちのほうに正義がある』とはっきり言った。ヘイトスピーチ対カウンターというのは“正義と正義のぶつかり合い”ではない。この問題をそういうふうに捉える時点であなたたちは間違ってますよ。追及しているわけでもなんでもなく、たんに無難なコメントを出しているにすぎない」
ふむ?
しかし、「ひとつの立場を絶対的な正義と位置づけることが危険性を孕むのは、歴史的に明らか」ではないかという問いに対して、野田さんはこう語っています。
「そらそうかもしらんけどさ。今、『正義のなかにも不正義がある』と言うのがそんなに重要ですか? あれだけひどいレイシズムが蔓延しているなかで、それを正そうとする人たちだって聖人君子ではない。ポリティカリー・インコレクトな場合もあるでしょう。レイシズムの方が不正義としては断然問題が大きいのに、『ニューズウィーク』の深田のように『正義の中にも不正義が…』ってことばかり言いたがるのって、単なるサボりでしょ。何がいちばんの問題か。それをちゃんと共有していこうよ。賢くない人であればあるほど、ちゃんとそれができるわけです。ヘイトスピーチはおかしいと分かる。自分はちょっと賢いぞ、と思ってるような、でも実際にはアホなやつらが、いろいろとこねくり回して『本当の正義などないのだ』みたいな、クソくだらない結論に至って悦に入る。安い理屈で価値の相対化をする前に、もっと普通に考えろよということです」
うーん。面白いですね。「大きな物語」が失われたポストモダンの相対主義地獄において、「何が正しいのか」という価値判断が困難になり、ひとは立ちすくむしかなくなる。
そしてそこで「ひたすら立ちすくんでいても埒が明かない」とばかりに「決断」して何らかの行為にコミットする人間が出て来るという流れを、ぼくなどはゼロ年代批評のなかで見て来たわけですが、そういう意味では野間さんは決断主義者で、ただ立ち尽くすばかりの大マスコミに怒りを感じている、というところなのかもしれないですね。
野田さんはさらに語ります。
「在特会自体も、そういう価値相対主義の上でなりたっている。〈「反差別」という差別が暴走する〉を書いた深田政彦みたいなやつはレイシストだとは言わないが、そうした価値観の混乱こそが今の日本のレイシズムの温床であり、本体でもあるんだよね。ようするに、ポストモダンの失敗例なんです」
なるほどねー。そういう話と繋がってくるわけか。
ここでぼくはいくつかの感想を抱きます。第一に、在特会が「ポストモダンの失敗例」だとして、しばき隊はそうではないという根拠はどこにあるのか。同じようにののしり言葉を相手にぶつけているではないか?
いや、もちろん野間さんの理屈によれば、「あいつらはヘイトのための言動で、自分たちは反ヘイトのために動いているんだからまったく違っている」ということになるのでしょう。
しかし、そういう背景にある「文脈」を切り離して考えるなら、両者の言動はまさに似たり寄ったりであるように見える。この主張はいかにも危ういように思えます。
もうひとつは、やはりしばき隊が自分たちを「正義」とみなすことの危険性です。仮にポストモダンな社会が相対主義の陥穽に陥っているとしても、それは理由がなくそうなっているわけではないわけです。
やっぱり「暴走する正義」というものに底知れない恐ろしさがあるからこそ、そういうことになるんですね。そこらへんはどう考えているのだろう?
もちろん、答えは書いてある。「レイシズムの方が不正義としては断然問題が大きい」のだから、それに比べれば大した問題じゃない、ということなのでしょう。
しかし、これはどうにも危険な論法であるように思えます。ようするに「いまはより大きな悪があるのだから、まずはそっちを批判しろよ」といういい方であるわけで、「いや、両方とも批判されるべきでわ?」としか思えないんだよね。
野間さんはこのインタビューのなかで何度か「正常」とか「普通」という言葉を使っています。たぶん「人を差別して罵倒するような奴らが悪なのはあたりまえだろ。そしてそれに対向することは正義。そんなの当然じゃないか」といいたいのかもしれない。
ですが、ぼくとしてはそこに「何が普通であり、正常であるか?」という深い思索が欠けているのではないかと懸念せざるを得ません。
なぜなら、それはぼくのような人間が愛好する表現を規制するために利用されて来た言葉であり、価値観であるのだからです。
端的にいって、ぼくは自分が「普通」だとは思わないので(もちろん、ある面では「普通」だが、べつの面ではそうではないと思うので)、このいい方には違和を感じます。
というか、反レイシズムのリーダーが「正常」とか「普通」という言葉を無邪気に使うことは、やっぱり良くないと思う。それこそレイシズムとは、自らをその国における「正常」の代表とみなし、「異常」な「普通じゃない」人々を排斥しようとするものだからです。
「普通」とか「正常」とか「あたり前」とか「自然」とかね、そういう言葉はつまりは思考停止ワードに過ぎないことが多いので、あまり使わない方がいいかと。
以上のような疑問はあるのだけれど、もし、野間さんなり「しばき隊」が「レイシストの罵倒はむかつくから同じことをやり返す!」と考えているのなら、ぼくは特にそれを問題だとは思いません。
やりたいだけやればいいのではないでしょうか? ただ、それが(あるいは「善意」ではあるかもしれないにせよ)「正義」だとは思わないけれど。
さて、野間さんはそこからさらに反ヘイトスピーチの法制化の話に持っていきます。でも、そんな法律ができたら「しばき隊」のような集団こそ裁かれてしまうんじゃないの?と思うわけですが、どうもそういうことは想定していないらしい。
野間は「ヘイトスピーチ規制法をどんなに権力の都合のいいものにしたとしても、しばき隊をパクるのは無理よ」と豪語する。カウンターの罵声は“人種差別的”ではないし、「権力者への抗議をヘイトスピーチとするような法律を成立させることはできない」のだ、と。
「在特会の悪口として『死ね!アホ!ボケ!』って言ってるけど、それは社会で対等な立場にあるマジョリティ同士でのことだから、マイノリティへの差別煽動発言であるヘイトスピーチではない。『ニューズウィーク』の深田政彦はこの点全然わかってなかったけど、カウンターは罵詈雑言をガナってはいても差別的なことはほとんど言ってないですよ。日本はまだこのレベルでの議論をしなければいけない状況ですが、それでもそんな罵詈雑言をヘイトスピーチとして刑事罰の対象にするような法律をつくることは、いくらなんでも無理です。人種差別撤廃条約の条文をそのままヘイトスピーチ規制法にもってくると、マジョリティに対してもそれが適用できるという指摘はありますが、でもそれだって法律の運用やポリティカルな力関係で決まるものでしょう。マジョリティの差別に抵抗したマイノリティの方を規制してはならない、というレギュレーションは国際的にもう確立している。だから。法規制にむやみと反対するよりも、間違いが起きにくいように縛りをかけていくことのほうが重要でしょう」
ただの罵倒はヘイトスピーチではない。それがマイノリティを差別する趣旨のものであった場合のみ、ヘイトスピーチということになるのだ、ということなのでしょう。
ぼくは、その場合の「マイノリティ」とはどう定義されるのか、その正確なところを考えてみるべきではないかと思う。(ここまで3568文字/このあと1807文字) -
雑然と。
2014-11-27 21:3551ptきょうは特にネタがないので思いつきをつらつらと書く。たまにはいいでしょ。
【宣伝】
今年のぼくのベスト漫画であるところのカザマアヤミ『恋愛3次元デビュー ~30歳オタク漫画家、結婚への道。』がいまKindleで99円(!)で購入できるので、皆さん、ぜひ購入してください。面白いよ。
【予告編】
クリント・イーストウッドの最新作『アメリカン・スナイパー』が予告編からして傑作の匂い。今回は正面から戦争を題材とし、その暗黒面を抉っていくものと思われる。最高の愛国者であるが故にアメリカの罪と正面から向き合うその態度は素晴らしすぎるなあ。
https://www.youtube.com/watch?v=TP-RCpuheyc
【映画】
映画といえば、クリストファー・ノーランの最新作『インターステラー』を観に行かなくては。映画史上屈指のハードSFにして大傑作エンターテインメントということで、気になる気になる。
今年はあと『ベイマックス』を観たらそれでいいかなあ。『ゴーン・ガール』は後味悪そうだし、『フューリー』にはあまり興味が沸かない。今年はわりとがんばって月2本ずつくらい観ましたね。
なかでも印象に残ったのはやはり『ホドロフスキーのDUNE』。こんなやりたい放題の人生が赦されていいのか、いいんです、というテーマで、実に痛快。
わざわざとなり町まで観に行った大林宣治監督の『野のなななのか』も素晴らしかった。反戦とか反原発とか、そこらへんの左翼的イデオロギーが臭わなくもないんだけれど、映像が凄すぎてそれどころではなくなっているという、ある意味本末転倒な映画。でも凄いのです。
【時代劇】
テレビ番組表にすっかり時代劇を見なくなって久しいわけですが、NHKでやっている『ぼんくら』という時代劇が面白い。原作は宮部みゆき。そして、さすが練達の作家らしくひとひねりもふたひねりもされた内容です。
初めは一話完結の人情ものかと見え、「まあ、こんなものか」と思っていたのだけれど、しだいにエピソードが連鎖し始め、面白くなってくる。それにしても、全10話のうち第7話まで消化されてなお、いったいどこに話が落ちるのか見えて来ない。
最後に謎の真相が明かされて終わるのは間違いないのだろうけれど、いったい何がどうなってこういうことになっているのか、さっぱり見当がつかない。原作は評価が高いので破綻した結末にはならないだろうけれど、あと3週、続きが気になるなあ。 -
幸せとは「心の境界線」の内側の問題である。
2014-11-26 14:4751pt「必要なものはここにある、大富豪バートが小さな家を選ぶ理由「Tiny House of Burt’s Bees」」と題する記事を読んだ。
http://yadokari.net/minimal-life/18328
小さな家で質素な生活を送る大富豪の話である。こういう話を読むと、「人にとってお金とは何だろう?」と考えさせられる。
金銭はすべてをあがなえるように思える――が、それは幻想だ。じっさいには、お金で買えるのは市場で売っているものだけだ。愛も買えない。幸せも買えない。
そんなことはない、という人もいるだろう。たとえば高級ブランドのバッグを買うことが自分の幸せなのだ、とか。
しかし、それは結局、それがなければ幸せにはなれないというある種の思い込みではないだろうか。ほんとうは幸せになるためにはモノは何もいらないのではないかと思う。
思考実験として、世界をふたつに分けてみよう。自我の境界線(ATフィールド)の内側(自分)と外(世界)だ。自分の心以外すべてのものは、この境界線の外側にある。
そして、幸せとはあくまで内側の問題でしかない。よって、幸せは境界線の外側の問題によっては決定しない。あくまで内側が重要なのだ。
大富豪になろうがすべてを失おうが、変わるのは自分の外部であって、「自分が自分であること」には変わりがないということ。
そして幸せが境界の内側の問題なのだとすれば、その外側をどんなに飾り立てたところで意味はない。ほんとうに幸せになるために必要なことは、自分の内面を豊かにしていくことなのだろう。
きれい事だろうか? たしかに自分の心の内側と外側は常に情報が行き来しているわけで、心の外側があまりに喧騒に満ちていたら、心の内側を穏やかに保つこともむずかしいだろう。
また、心の外側が過剰な刺激にあふれているのに、感性を麻痺させずにいることは大変かもしれない。心を安定した状態に保つために心の外側を調整することは大切なことだ。それなくして心を幸せにしつづけることは、やはりたやすくはない。
ただ、それはひたすらにモノを充実させていくということではない。そのやり方は方法論的に間違えているのだ。
その意味で、小さな家に住む大富豪の話はよく理解できる。幸福に過ごすために必要なものは何なのか、自分の頭で考え、自分の心で決めること。それができなければ、どんなに財貨があっても、心はむなしいばかりに違いない。
小さな家に住むことが幸せなのではない。かれが幸せになるために必要だと考えたものが、小さな家と静かな土地だったということなのだ。
幸せになるためにはどうしても大豪邸が必要だと考える人もいることだろう。しかし、 -
エンターテインメント飽食の時代を主体的に生き抜く。
2014-11-26 00:0151pt
城平京&水野英多『スパイラル 推理の絆』全15巻読了。まだ番外編の『スパイラル・アライヴ』は残っていますが、とりあえず城平京原作の漫画シリーズ三作はすべて読みました。
これがもう、三者三様の傑作ぞろい。作画はそれぞれ別人が担当しているにもかかわらず、強烈な作家性を感じさせます。これは才能だなあ。
あまりに面白いので、城平さんのデビュー作にあたる『名探偵に薔薇を』も買って来ました。いや、ほんと、世の中、面白いものが多すぎる。
このブログではくり返し書いてきましたが、ほんとうに現代は知的なものから俗悪なものもまで、エンターテインメントが飽和している時代だと実感します。
もはや一部の限られた傑作だけに絞ってみたところで、一生かけても消費しつくすことはできない。これは幸せなことではありますが、ある作品との「一期一会の感動」を奪うことでもあるかもしれません。
というか、社会のすべての局面において「一期一会の感動」は失われていっているといっても良いでしょう。ぼく(たち)は膨大な作品が提供されるのに慣れ、ひとつひとつの作品と真剣に向き合う目を失いつつあるのかもしれない。
ただ、一方ではネットでこれまた膨大な人間による集合知的な作品分析も行われているわけで、そう簡単に悲観論を唱えることもできません。
じっさい、このあまりにも豊かな時代を前にして、どう適応するかは人によって違っているという辺りが真実ではないでしょうか。
ある人は自分に合った作品を消化しつつ毎日を楽しく過ごし、またある人は次々と生み出されるコンテンツに対し飽食的にうんざりしている。その二者の間の格差は何かといえば、つまりは「意識の持ちよう」でしかないわけです。
ぼくは個人的に、このエンターテインメント飽食の時代に適応するために自分なりの文脈を用意して、それに沿ったものを消化していくことを課しています。
そうでなければいくらか傑作でも切るということですね。何とも贅沢な話です。気分は生きることに飽いた大貴族。生きることか、そんなことは家来に任せておけ、ですよ(これ、だれのセリフだったっかな)。
ともかくひとつはっきりしていることがあります。この享楽過多の現代社会では、すべての体験をただ受動的に受け入れるか、それとも主体的に追いかけるかによって、「生」の輝きに大きな差ができるということです。
ただ単に与えられた快楽を享受しつづけるだけでは、やがては生きることそのものに飽き飽きし、本来は素晴らしいはずのものの価値がわからなくなっていくことでしょう。
そして -
幸福とは何だろう? 幸せをもたらす「ピングドラム」とは何なのだろう?
2014-11-25 03:0251pt
ども。あいかわらず深夜に起きている海燕です。最近、ろくに陽の光を見ていないような気がします。いいかげん生活リズムを改善しなくては。
夜中に起きて何をやっているかというと、城平京さん原作の漫画『スパイラル 推理の絆』を読んだり、インストールしなおした『魔法使いの夜』をプレイしたりしているわけなのですが、いやー、世の中、面白いものがたくさんあって楽しいですね。
このほかにも万巻の書があり、常に進歩しつづけるコンピューターゲームがあり、また様々な映像が音楽があり――まず一生かけても消費し切れないほどの娯楽に充ちているのが現代社会だと思います。
そう、世界は面白い。読者(傍観者)として一生を過ごす限り、いかなる意味でも退屈はない。そのはずです。ところが、純粋な読者としてあろうとすると、やっぱり人生はむなしいんですよね。
ぼくはわりといままで読者で十分だと考えて来ましたが、30代も半ばになって、「やっぱり自分の人生を生きたいなあ」と考えるようになりました。
これはぼくの人生そのものを変えるほどのコペルニクス的転回だったりするのですが、つまり、読者からひとつの物語の主人公(行動者)へ、自分の役割をチェンジさせる必要があったわけです。
そうしないと、ただ読者であることも十分に楽しめないと感じたんですね。だって、この世の娯楽はあまりにも量が多すぎて、いったい何を選べばいいのかわからなくなるくらいなのですから。
しかし、いざ主人公として自分の物語を生きようとすると、そのむずかしさはまさに「リアルはクソゲー」レベルでした。
何しろ、36年間ひたすらに傍観者として生きて来たぼくは、何の武器もそろえていない。このきびしい世界を生き抜くための方法論をひとつも持っていないのです。
それでは、どうすればいいのか? 結局のところ、ひとつひとつ地道に努力して揃えていくほかないのだろうけれど、いまさらそんなことをしていて間に合うのか?という疑問がある。
だから焦るのだけれど、結局は地味なことを地味にこなしていくしかないんだろうなあ、ということもわかるんですよね。ひとつひとつ、始めたことを終わらせて、そのくり返しのなかで、少しでも成長していけるようがんばりつづけるよりほかない。
しかし、そもそもぼくはいったい何が欲しいのでしょうか? 「自分の物語を生きる」とはどういうことなのか? うーん、わかるようなわからないような。
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。ピングドラムを探すのだ」。いったいそのピングドラムとは何なのでしょう? ひょっとしたら既にぼくはもうそれを持っていて、しかしそれがピングドラムだとは気づかずにいるのかもしれないなあ、などと思ったりもします。
ふと見あげれば夜空にはぽっかりと欠落のような紙の月。あるいは幻想かもしれない「幸福」を望むことは正しいのか、間違えているのか、むずかしいところです。
思うに、幸福とは -
何が批判を狂わせるのか? 「正しさの毒」に注意しよう。
2014-11-22 22:5951ptこんな記事を読んだ。
極論、周囲から批判される人は「良い感じ」なのだ。事実はどうであれ、周囲の人はあなたに嫉妬しているからこそ、あなたを批判するのだ。誰もが自分が心からそうしたいと思うような人生を生きたいと思っていて、しかし、何らかの理由や制約があってそれを実行することができない。だからこそ、自由に生きている(風に見える)人を見ては(自由に生きれない自分を肯定するために)「あなたは間違っている」みたいなことを言いたくなってしまうのだろう。
http://ibaya.hatenablog.com/entry/2014/11/21/151546
んー、まあ、そこまでは思わないかな。たしかに嫉妬からひとを批判する人は大勢いるだろうけれど、「批判の動機は大半が嫉妬だ」というのは、いかにも批判される側に都合がいい決めつけであるように思える。
ちゃんとした理があって批判している場合だっていくらでもあるわけですからね――というところまではだれでも考えるだろう。もう少し考えてみる。
昔からよく思うのだけれど、ひとはなぜ何かを批判する時、そこに「過剰なもの」を付け足さずにはいられないのだろう。この場合の「過剰なもの」とは、皮肉や、厭味や、揶揄や、罵倒や、そういうもののことである。
何かを批判したいなら、ストレートに批判すればいい。それなのに「だからバカは困る」とか「このカスがwww」とか「まあどうせあなたにはわからないでしょうけれど」とか、そういう余計なことを足してしまうのは、いったいどうしてなのだろう。
そんなことをしても相手がその批判を受け取りにくくなるだけで、何の得もないではないか? 合理的に考えれば、「過剰なもの」は批判そのものの論理性を疑わしくするだけで、何の意味もないと考えるべきだと思うのだが……。いったい何なんでしょうね、「過剰なもの」とは?
この疑問に対するひとつの答えは、そこで「権力ゲーム」が行われているからだというものだ。つまり、ひとを批判する際に皮肉や罵倒を加えるひとは、その行為によって自分が相手より「上」であることを示したいのだと考えるわけだ。
一種のパワーハラスメントがそこで行われているということになる。
これは、かなりあたっていると思う。じっさい、ひとの「上」に立ちたくてたまらないのだろうな、と見えるひとはインターネットにも大勢いる。
常にだれかを小馬鹿にして、いやみったらしく嘲笑したりしている人物だ。あなたにも心当たりがあるのではないだろうか?
そういう人がなぜ正面から合理的に批判するだけで済ませられず、わざわざ「笑い」という行為を行うかというと、笑うことによって「自分は相手よりはるかに上だ」と誇示したいからだと思われる。
「自分にとってこの相手は真剣に論争するような対象ではなく、ただ一笑して済ませられる程度の存在に過ぎない」というアピール、それが笑いなのだ。
ようするに相手と同じ土俵に立つ気がないのだろう。同じ土俵に立ったら、ひょっとしたら負けるかもしれないから、これはある意味で賢明な戦術ではある。たったひとつ、限りなく不毛であるという一点を除いて。
そうなのである。批判に伴う「過剰なもの」とは、しばしば周囲に対するアピールでしかないのだ。「自分は大人ですよ」、「この程度の問題に真剣になったりしませんよ」、「こんなにも精神的な余裕がありますよ」というアピールのためにひとは「過剰なもの」を使う。
ぼくから見るとばかばかしくも思えるが、そういうものなのだ。だからインターネットでは批判するだけでいいところを皮肉ってしまい、皮肉るくらいでやめておけばいいところを罵るひとが続出する。
そうして、「理」は失われて、感情的な極論と極論のぶつけあいに終始することになる。「どちらがよくうまく厭味をいったか」という、限りなく低次元の争いを、あなたも何度となく見てきたのではないだろうか。
ぼくはなるべくそういうことに巻き込まれたくない。しかし、それでもやはり言葉の端々に「過剰なもの」がただよってしまうことはある。なぜか。 -
蜜月が終わるとき。かつて愛したものに笑顔で別れを告げよう。
2014-11-21 22:2751pt
貞本義行による漫画『新世紀エヴァンゲリオン』の最終巻を読みました。連載開始から実に18年もの歳月をかけての完結となったわけですが、卓越した表現力で、テレビシリーズとも新劇場版ともまた違う「もうひとつの『エヴァ』」を描き抜いてくれたと思います。
ここには庵野秀明の「狂気」はありませんが、その代わり、シンジを初めとする登場人物の心理がとてもていねいに描写されています。
こういう『エヴァ』が見たかったんだ、という人も多いのではないでしょうか。いまさらではありますが、やはり貞本さんは絵がうまい。一本一本の線の綺麗なこと。この人はこの人である種の天才だよね。
それにしても18年です。その長い年月の間に、『エヴァ』と別れを告げた人も多いでしょう。いつまでも終わる気配を見せない物語に、「もう『エヴァ』はいいよ」と感じている人もいるかもしれません。
それはおそらく制作サイドにしても同じことで、あるいは「もう新しいファンがいるのだから、いつまでも古いファンに支持してもらわなくてもかまわないよ」と思っているかもしれません。
つくづく思うのですが、作品と読者が心の底から互いを愛しあい、求めあう蜜月の時期は短いものです。
どれほど愛しあった作品と読者でも、かつて愛しあった恋人たちの気持ちがすれ違い、やがて離れていくように、いつのまにか疎遠な関係になってしまったりするようです。
『エヴァ』にしてすらそういうことはあると思う。いまになってなお新たに生み出される謎、新しく付け加えられる設定――その膨大な分量に、「いいかげんにしてくれ」と思っているファンは少なくないかもしれません。
しかし、物語が続いていくということはそういうことなのです。ひとつの作品は、それが続いていく限り、変化しつづけ、ある意味では元の魅力を失いつづけていきます。
読者がどれほど「もういいよ」、「ここで止まってくれ」と望んでも、作り手にはべつの意図があり、そして作り手が続けたいと望む限り、作品は続いていくのです(あるいは完全に人気がなくなって見捨てられるか)。
こういう構造を、寂しい、と感じる人もいるでしょう。あの日愛した作品にそのままの姿であってほしい、そう願う人はたくさんいるはずです。
そして作り手の側にしても、叶うものならずっと同じファンに愛されつづけたいと願っているかもしれません。ですが、それは結局、決して叶わない願いです。
ある物語を続けていけば、どうしたって一途に支持しつづける読者だけというわけには行きません。なかにはかつてその作品を愛したからこそ、可愛さ余って憎さ百倍の思いで攻撃してくる読者もいるでしょう。
その気持ちはよくわかる。でも、ぼくはそれは正しい姿勢ではないと思うのです。ひとは変わるものであり、作品もまた変わっていく。
そしてその終わりない運動によって、作品と読者の間には距離が生まれていく。とても哀しいこと。しかし、それは作品のせいでもなければ、読者のせいでもないわけです。
ひとは変わるもので、作品もまた同じ。時の仮借ない責め立てのなかで、すべてのものは変化していきます。そのことを止めようとすることは、自然の摂理に反することです。
ひとにできることは、時の流れを受け入れること。無常――何もかも変わっていくというその真理を受容し、笑顔で作品と別れを告げることだけなのではないでしょうか。 -
『俺の棒銀と女王の穴熊』翻訳プロジェクト。
2014-11-17 22:2251pt
うっかり忘れていましたが(ごめんなさい)、以前紹介した将棋ライトノベル『俺の棒銀と女王の穴熊』のアライコウさんが、クラウドファンディングのKickstarterでその作品の翻訳プロジェクトを行うそうです。
[For overseas shogi fans! Shogi novel translation project]
https://www.kickstarter.com/projects/2103126194/for-overseas-shogi-fans-shogi-novel-translation-pr
将棋ライトノベルの翻訳実現に向けて Vol.1
http://ch.nicovideo.jp/orebou/blomaga/ar660171
英語に翻訳するわけですからターゲットは海外になるわけですが、そこはやはり日本人の協力も必要ということで、気になる方はリンク先 -
映画『紙の月』にゆるやかな破滅への下り坂を見た。
2014-11-17 16:2751pt宮沢りえ主演の映画『紙の月』を観てきました。
おお、これは、傑作。ここのところ『ふしぎな岬の物語』、『ぶどうのなみだ』、『グレース・オブ・モナコ』、『トワイライト ささらさや』、『楽園追放』と立て続けに「なかなか面白いけれど、それほどでもないかな」という映画を見てきただけに、久々のあたり!という感じ。
同じ破滅的な恋の物語でも、ぼく的には『私の男』より断然こっちだなあ。まあ、オタク男子向きの映画では全然ないので、ここでオススメするのもどうかとは思うわけなのですが、でも凄いものは凄いので取り上げておきます。
ぼくは未読ですが、これは原作が良いんでしょうね。角田光代。偉い人です。いずれ原作も読んでみたいと思いますが――さて。
物語は、ある銀行に勤める平凡な主婦が、些細なことから横領を犯し、そして少しずつ少しずつ転落していく軌跡をリアリスティックなタッチで描いています。
何か心のなか
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