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2020年12月の記事 41件

萌え絵は公的に認められてはならないのか? 「フェミニスト」の誤謬を追う。

 あるるもさんという現役女子高生がいわゆる「萌え絵」的な絵画で大きな賞を受賞したことがTwitterで話題となっている。該当ツイートを引用したいところだが、あらためて探してみると見あたらない。本人の手で削除されてしまったらしい。  まあ、あきらかに性的な「萌え絵」が公的に認められたということで、例によって「フェミニスト」が怒っているので、その批判の対象になることを厭ったのだろう。  とはいえ、何しろその絵を描いて賞に応募したのは少女本人だから、追求し指弾する言説も弱いものにならざるを得ないようだ。これがもし同じ歳の少年が描いた絵だったなら嵩にかかって弾劾したことだろうが。  「フェミニスト」たちの主な主張はこうである。「本人の表現行為を責めはしない。だが、このような絵に賞を与えることは問題だ」。  しかし、これはさすがに通らない話だろう。いうまでもなく、性的な表現は美術、芸術のひとつの主流となるものだからである。  フラヴィオ・フェブラオの『エロティック美術の読み方』を捲ってみると、エロティックアートがどれほど長い歴史と膨大な作品を有するかを知ることができる。  いまから3000年以上前の古代エジプトにはすでに性行為を描いた絵画が見られる。そして、性の抑圧に熱心であったはずのキリスト教国も含め、どこの国や文化圏でもエロティックな絵画や彫刻は存在したのだ。  もしかしたらいや、そのような作品はあくまで「芸術」なのであって、ポルノとして消費されている「萌え絵」とは違うと強弁する人もいるかもしれない。  しかし、アートとポルノを明確に分断することは不可能である。たとえば田中雅志の『エロティック美術館』を読むと、貴族たちが収蔵していた美術品がポルノ的に消費されていた事実を知ることができる。性と芸術は両立する。「わいせつか、芸術か」という問いは無意味なのだ。  もっとも、すでに高い評価を得ている性的な芸術作品を市場や美術館から追放しようとする動きもないではない。すぐに思い出すのは、ピカソに「20世紀最後の巨匠」と激賞されたバルテュスの『夢見るテレーズ』に対して撤去や但し書きを求める署名運動が巻き起こったことだ。  性的とみなされうる作品は、たとえどれほど高度な芸術であれ、公共の場にはふさわしくないと考える人は少なくない。しかし、そのような発想は 

萌え絵は公的に認められてはならないのか? 「フェミニスト」の誤謬を追う。

だれでもふたつ憶えておくだけで文章が上手くなる豆知識。

 文章術の本が好きだ。少しでも上手く文章を書けるようになりたいと日々切望しているから、参考になりそうな本は片端から読むことにしている。  ところが、この手の本で実践的に役に立つものというと、意外に少ない。有名な本はいくらでもあるが、いずれも意外に内容が抽象的で曖昧なのだ。  あの大文豪・谷崎潤一郎の高名な『文章読本』など、最初からいきなり「感性を磨きなさい」みたいなことが書かれてある。それはたしかにその通りだろう。しかし、いかにも迂遠な話で、すぐに役に立つとは惟(おも)われない。  音楽の教本にはあまり「感性が大事」みたいなことは書かれていないだろうから、文章技術の話がいかに曖昧になりやすいかがわかる。  世の中にはあきらかに「良い文章(名文)」と「酷い文章(駄文)」があるのだが、その両者がどこがどう違うのかは意外に説明しづらいものなのだ。  そのわかりそうでわからない微妙な、それでいて決定的な違いをどうにか明快に語った本はないものだろうか、ぼくはずっと探していた。で、ここで巷で話題の古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』の話になる。  この本は「名文」と「駄文」の違いをかなり明瞭に断定している。それは「論理性」にもとづく「リズム」の違いだというのだ。  「論理」とは「論」が「理」によって裏打ちされていることである。つまり、文章は「そこで語られている論」が綺麗に「理」で説明されているほどリズミカルになり、読みやすくなるという理屈である。  これは一面的ではあるが、真実だろう。ぼくも文章においてまず大事なのは論理性だと考える。もちろん、一定の限度はある。自然言語での論理性は、どうしても完璧とはいかない。それでも、可能な限りクリアにロジカルに書くべきだ。  それができて、初めて「美しい文章(美文)」を目ざす門のまえに佇(た)てる。美文とはただ感傷的な語句を並べ立てれば良いというものではない。そこにはどうしても透徹した論理が必要であり、それがあって初めてレトリックの「美」が際立つのだ。  まあ、ほんとうに一読して「美しい」と感じさせられる文章を書ける人など、いまの日本にもめったにいないとは惟うけれど。  そういうわけで、『20歳の自分に受けさせたい文章講義』はなかなか良い本だった。文章術の本としては初歩的な内容だが、この本を読んでいるといないのとでは大きな違いがあるだろう。オススメである。  ちなみに、ぼくの場合の文章術の基本を、以下にほんの少しだけ公開しておこう。ぼくはいわゆる「上手い」文章を書くためには最低限、以下のふたつの認識が必要であると考えている。 ①「構想」と「構成」は違う。 ②「文」と「文章」は違う。  この二点を頭に入れるだけで、文章は劇的に上手くなる。必ず。少なくとも他の多くの人の文章とは確実に差がつく。なぜなら、プロの書き手はともかく、ほとんどの一般人はこの単純な事実を理解していないからである。  偉そうなことを云っているようだが、ぼく自身、このことに気づいて言語化できるようになったのは随分と最近になってからだ。気づいてしまえばどうということはない事実なのだが、気づくまでは意外と大変なのである。  どういうことか? まず①。この場合の「構想」とは「頭のなかで書きたいテーマについて思いを巡らすこと」、そして「構成」とは「その巡らせた想いを正しい順番に並べること」である。  違いがわかるだろうか? つまり、「構想」は古賀さんが「ぐるぐる」と云っているものを頭のなかに浮かべる行為なのだ。「何を書こうかなあ」と脳裡に思考を展開し、ああでもないこうでもないと考える。  あるいは紙に書いたり、エディタにメモしたりするのも良いだろうが、とにかく「ぐるぐるぐるぐる」と延々、考えるわけである。これはいわば文章の「素材」を用意することだと云っていい。  それに対し、「構成」はその「ぐるぐる」を的確に並べていく作業になる。云わば用意された「素材」を「料理」することに相当するだろう。  『20歳の自分に受けさせたい文章講義』には、「起承転結」とか、「序論・本論・結論」といった構成のスタイルが紹介されている。そのいずれを採用するかはともかく、とにかく適切な順番で話を展開することが重要だ。  ちなみにぼくは我ながら構成力がいまひとつのところがある。それもこれもすべての文章を一切構成せずに頭のなかで完結させて書いているからである。はい、手抜きですね。どうもごめんなさい。  いや、ちゃんとした依頼を受けて文章を書くときは ブログの文章くらいは良いかな、って。イイワケですね。ごめんよー。この文章も文頭からつらつらと書いています。ダメじゃん。  それはともかく(と、強引に話を変える)、②である。この「文」と「文章」の違いがわかると、文章力が劇的に成長します。注目。この場合の「文」とは、即ち「一文」を指す。つまり、  わたしは丹念に薔薇の花びらを摘み取った。  とか、  かれは人情家で、始終、金を貸しては逃げられている。  といった、句点で区切られた文のことだ。この「文」が集まって、全体として「文章」を形づくる。だから、「文」と「文章」を「一文」と「文章全体」と云い換えれば、もう少しわかりやすいだろうか。  それがどうした、あたりまえのことだろう、と惟われるだろうか。そうではない。重要なのは、この「文」と「文章」には、それぞれに「構成」が存在するということなのだ。  そして、「文(一文)」の構成とは単語を順番に並べることである。それに対し、「文章(文章全体)」の構成とは、 

だれでもふたつ憶えておくだけで文章が上手くなる豆知識。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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