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記事 2件
  • セカイ系と新世界系(シン・セカイ系?)の長い物語。

    2020-06-25 16:44  
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     人づてに某かわんごさん(で、いいのかな?)が「新世界系」のことを記事にしてくれていると聞いて、読みに行ったので、いまさらですがお返事を書きたいと思います。おひさしぶりです。またお逢いしてお話したいですね。
    http://kawango.hatenablog.com/entry/2020/06/01/233919
     個人的な見解としては、セカイ系の時代の作品と新世界系の時代の作品には共通する部分と明確に異なっている部分があるように思います。
     ただ、上記記事にある通り、そこに一定の共通項が見られることはたしかで、その意味でたしかに新世界系を「シン・セカイ系」と呼ぶことは可能かもしれない。何かかっこいいし。
     それでは、まずはなつかしいセカイ系ジャンルを振り返ってみることにしましょう。「セカイ系」とは、往年のウェブサイト「ぷるにえブックマーク」で、当時流行していた西尾維新などの作品に対して、揶揄的に使用されたのが最初だといわれています。
     つまりは、西洋絵画における「印象派」などと同じく、初めは批判的な表現に過ぎなかったわけです。そこから哲学者、批評家、SF作家の東浩紀や、作家にして批評家の笠井潔らによる引用と展開を経て「セカイ系」概念はかぎりなく拡散しました。
     ゼロ年代からテン年代初頭にかけてのサブカルチャー批評はこの概念を中心に動いていたといっても良いかもしれません。その証拠にタイトルにこの言葉を冠した本が色々出ています。
     とはいえ、セカイ系は、その射程を最大に見積もるとしても、その時代のエンターテインメント作品全体を覆いつくすほどの巨大なムーヴメントだったとはいいがたいでしょう。
     たとえば、それこそ世界的にヒットした『ONE PIECE』も『NARUTO』もセカイ系にはあたらないわけです。サブカルチャーないしエンターテインメントの広漠たる世界をあくまで冷静に一望するのなら、それはあくまで傍流の一マイナージャンルに過ぎないのです。
     それなら、そうにもかかわらず、セカイ系がサブカルチャー批評界隈においてあれほど取り沙汰されたのはなぜか。あえていうなら、そこに「批評難度の低さ」があったことは否めません。
     セカイ系がどうこう、シャカイがどうこうといっているだけで、いかにも何か深遠な意味を内包しているように感じられる。その一方で、たとえば累計発行部数1000万部を超えるようなベストセラー・ライトノベルはほとんど無視されたのです。
     ここではそのサブカルチャー批評の構造的問題をあえて語ることはしませんが、ぼくはそういった批評の偏りをいささか懸念するものではあります。
     ただが、そうはいってもやはり「セカイ系の時代」はあったのでしょう。ようは、ある種、90年代後半から2010年代までの「時代の空気」を象徴する概念が、セカイ系だったわけです。
     セカイ系という概念は、『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』といった作品が代表的であるとされています。その定義を考えると一般的なSF小説はほとんどがセカイ系になってしまうといった指摘もあるようですが、ぼくにはセカイ系とクラシックなSF作品のあいだにはやはり落差があるように思われます。
     つまり、『最終兵器彼女』にしろ、『ほしのこえ』にしろ、サイエンス・フィクション的なリアリティは明確に、そしておそらくは意図的に、無視されているのです。
     『最終兵器彼女』においてはなぜ平凡な女子高生だったヒロインが世界最強の最終兵器に改造されてしまったのかは説明されないし、『ほしにこえ』においてもどうして宇宙の彼方にまで携帯電話のメールが届くのかはわからない。
     いや、説明のしようがないといったほうが正しいでしょう。そこで問題になっているものはまさに世界ではなくセカイなのです。
     ここで思い出されるのが、『ほしのこえ』の新海誠監督のウルトラヒット作『君の名は。』に対し、隕石の軌道が科学的に不自然であるという批判があったことです。
     思うに、おそらくその点は新海誠にとってそれほど重要ではなかったのでしょう。それはたしかにSF的な視点から見れば明確な瑕疵ですが、セカイ系的な視点ではそうでもないのです。
     これは、先行する時代の代表作にあたる庵野秀明監督の『トップをねらえ!』がSF的な設定にこだわり抜いていたことと比較するとわかりやすい。
     セカイ系とはSF的な遠近法が狂った世界だということもできるかもしれません。逆にいうのなら、セカイ系を批判した人々にとって、その遠近法は自明のものであったわけです。
     で、上記で引用したかわんごさんの記事でも記されていますが、やはり『新世紀エヴァンゲリオン』が「セカイ系の時代」を代表し、あるいは産出した道標的傑作であることは論を俟ちません。
     いわゆるセカイ系の作品すべてが『エヴァ』を意識していたわけではないにしろ、セカイ系一般が『エヴァ』の隠然たる影響下にあることは間違いないと思えます。
     その『エヴァ』がマクロなハードSF的の側面とミクロな関係性の物語という両面性を持っていたことを考えると、セカイ系が矛盾した性格を持つに至っていることも当然に思われます。
     おそらく、『エヴァ』が最初に構想されたとき、そこでめざされていたのはまさに『トップをねらえ!』のようなハードSFであったのでしょう。
     しかし、じっさいには『エヴァ』はそのハードSF構想を完遂するどころか、主人公・碇シンジ個人の「補完」という、きわめてミクロな終着点としての「人類補完計画」を描くことに着地したのです。
     これを作劇の失敗として揶揄することはできるし、しょせんその程度の作品だったと評価することも可能ではあると思います。
     ですが、『エヴァ』の放送からじつに四半世紀が経ったいまあらためて思うのは、そのときはたしかにハードSF的に壮大な物語より、ミクロの『中学生日記』が優先されるだけの理由があったのだということです。
     「セカイ系」は時代のあだ花でした。けれど、この時代にはまだ社会にある程度の「余裕」があった。故に、碇シンジは思い悩みながらも行動をストップさせることができたのです。
     そして、その「余裕」が致命的になくなっていった頃、「新世界系」が登場する。いままでにもくり返し説明していますが、新世界系という概念は、『少年ジャンプ』で連載されているいくつかの漫画を観察するなかで出て来たものです。
     つまり、ある時期の『ジャンプ』で、「新世界」とか「暗黒大陸」と呼ばれるような「新しい領域」の話が同時多発的に出て来た。これは何なのか?というところから話がスタートしている。
     もちろん、それは連載が長期化するなかで、物語の新たなフィールドが要請されたというだけのことではあるでしょう。いい換えるなら、「パワーのインフレ」ならぬ「舞台のインフレ」と見ることはできる。
     いままでの舞台よりもっと凄い、もっと恐ろしい舞台があるんだぞ、というわけですね。しかし、ただそれだけにしてはそこには何かしら過剰なものがあった。
     特に『HUNTER×HUNTER』などは、あきらかにいままでの物語の前提が通用しない、途方もない場所として「新世界」を描写するわけです。まあ、もっとも、それから数年経って連載は未だに新世界にまでたどり着いていないんですけれどね……。
     これらはいったい何なのか? そう、つまり、いままで物語の都合によって巧妙に隠蔽されていた「現実世界」なのではないか、とLDさんやぼくたち〈アズキアライアカデミア〉の面々は考えました(ちなみに、サークル〈アズキアライアカデミア〉は四人で構成されるグループです。ラジオに登場するのはほぼ三人だけですが)。
     「現実世界」とはどういうことかというと、つまり何が起こるかわからないような世界ということです。ぼくたちの生きているこの世界は本来、そういう場所ですよね?
     次の瞬間、何が起こるかはだれにもわからない。地面が割れて呑み込まれるかもしれないし、空から隕石が降ってくるかもしれない。人はつねに死の危険にさらされていて、偶然にそれを避けているに過ぎないわけです。
     しかし、こういったあまりにも身も蓋もない認識はぼくたち人間には耐えられない。次に踏み出す一歩もまた、必ず地面を捉えるはずだという確信がなければただ歩くことすらできないわけです。そこで、「物語」が生まれる。
     物語とは、無限に複雑な世界を人間に理解できるよう単純化して語ったものです。たとえば、「努力したので、成功した」というのは典型的な物語だといえるでしょう。
     ジャーナリストの佐々木俊尚さんは著書『時間とテクノロジー』のなかで、このような種類の物語を「因果の物語」と呼んでいます。「××した。故に〇〇になった」という因果関係を説明する物語ですね。人間はあらゆるところにこの因果の物語を見る。
     ところが、このような物語というものはしょせんは虚構、フィクションに過ぎないわけです。というか、限りなく複雑な現実を人間にわかる形で切り取っているだけであって、ほんとうは「××」をしても、結果が「〇〇」になるとは限らない。
     努力すれば必ず成功するとは限らないんですよね。ただ、後から考えるといかにもそのような因果が存在したかのように感じられることもたしかで、事後的に振り返ってこのような「因果の物語」を信じ込むことを「生存者バイアス」といいます。生存者バイアスに捕らわれると老害真っ逆さまですね。
     まあ、それは余談なのですが、とにかく「因果の物語」は基本的にウソなのであって、あまり信用できない。しかし、我々は「因果の物語」なしには生きていけない。そういうことがいえます。

    佐々木:そうですね。去年の暮れに、『時間とテクノロジー』という本を出しました。これは何を書いているかというと、「我々は物語によって生きているよね」と。Aが起きたからBが起きている。大学受験をがんばったからいい大学に入れて、いい大学に入ったからいい会社に入れたみたいな因果関係で生きている。
    でも、因果関係なんて、実際にはほとんど嘘っぱちだよね。後付けでしかなくて、だいたいの出来事は理由もなく唐突に起きるわけです。まさに今のコロナがそうだし、3.11もそうだったし、すべては唐突に起きてしまう。
    唐突に起きてしまうことは、我々にとっては許しがたいわけです。許しがたいから「そこになにか因果関係があるんだよね」と思いたがるのが、人間の性なわけですよね。
    でも、そういう因果関係的なものさえも意味がなくなってきて、それこそAI、人工知能が出てきて、今の機械学習、深層学習のメカニズムは、人間には到底理解できないような、ある種のロジックをそこに見つけてしまったりするわけです。
    そうすると、我々にとってはなぜそれがいい結果を招くのかわからないんだけど、AIが「それをやるといいはずだ」と言い、そのとおりにやると確かにいい結果が起きる、ということが起きてしまうわけ。
    そうすると、もはや自分たちがロジックやメカニズムを理解できなくても、この世界が動いているんだと認識せざるを得ないし、そのほうが実は我々がチープな因果関係で考えているよりもずっといい社会ができる可能性があることが、わかりつつあるんじゃないかと。それだけ社会が複雑になっているということなんですよね。
    中世とか古代のシンプルな時代であれば、我々が想像する程度のメカニズムで世の中が動いていたと思うんだけど、これだけさまざまな要因が無数にあって、その要因の力学によっていろんなことがどんどん起きてくるようになると、もはや我々の認識能力では世の中が動いている理由なんて実際理解できないよねと。
    https://logmi.jp/business/articles/323004

     で、この「因果の物語」が通用しない、いつ何が起こるかわからないということが、ぼく(たち)のいう「現実」です。都合の良いフィクションでごまかされていない真のリアルといっても良いかもしれません。
     そして、その「現実」を象徴的に表したものが「新世界」なのではないか、と考えたのです。それまでの『少年ジャンプ』の作品は、基本的に「弱いやつから順番に襲いかかってきて、そのあいだに主人公が成長する」ようにできていました。
     『ドラゴンボール』あたりがわかりやすいですが、つねに主人公より少し強い強敵が目の前に立ちふさがるようにできているわけですね。その敵は主人公と比べると圧倒的に強くはあるんだけれど、まったく勝ち目がないほどではない。そういうスタイル。
     このような物語の形式のことを、ぼくたちは「階梯的ビルドゥングス・ロマン」と呼んでいます。まるで階段を登るように主人公たちの成長を促す物語ということですね。
     まあ、ほんとうなら「しかし奴は四天王のなかでは最弱」とかいっていないで最強からいきなりかかって来れば良いと思うわけなのですが、それでは主人公たちが成長している余裕がない。だから、あくまで敵は段階を踏んで出て来るわけです。
     それが、いままでの物語のあたりまえだった。なぜなら、あまりにも実力差がある相手が最初から出て来ると、その時点で主人公は死んでしまい、物語は終わるからですね。
     この「突然死」の概念は新世界系を語るとき、きわめて重要です。「主人公の突然死がありえる場所」、それが新世界なのです。
     いい換えるなら、ほとんど一切の物語が成立しない場所ともいえる。次の瞬間に何が起こるか予想できないのですから、まともなストーリーが成立しないことは当然です。
     その意味で、原理的に新世界はエンターテインメントとして描けないことになる。あるいはカフカやカミュのような不条理文学として発表すれば高い評価を得るかもしれませんが、大衆向けの娯楽作品にはなりえないでしょう。
     そこで、かどうかはわかりませんが、新世界と旧世界?(因果の物語が通用する世界)のあいだは、何らかの「壁」で隔てられることになりました。
     「過酷で残酷な新世界とより安全で階梯的な世界を何らかの「壁」でさえぎったうえで語られる物語」、これが新世界系だといっても良いと思います。
     時系列的には前後することになりますが、この方法論を端的に完成させて大成功したのが、いわずと知れた傑作『進撃の巨人』です。
     『進撃の巨人』の、特に序盤においては、「壁」でさえぎられた平和な都市と、その周囲の、人食いの巨人が徘徊する「新世界」が舞台となっています。
     非常にわかりやすい形で「平和だが欺瞞に満ちた社会」と「悪夢のように過酷で残酷な現実世界」をパラレルに描きだすことに成功したわけです。まさに最も典型的にして最も成功した新世界系作品です。
     『進撃の巨人』について語りたいことはたくさんありますが、あまり寄り道ばかりしていると際限なく記事が長くなるのでカットすることにしましょう。
     とにかく、2009年に『進撃の巨人』の連載は始まり、直後に話題になって大ヒットを遂げます。この時点では、「欺瞞に満ちた平和にまどろんでいた人々が突然の災厄に恐怖する」という演出はきわめて効果的だったのです。
     ですが、いま、2020年、この種の新世界系の演出は、すでに過去になったと考えています。つまり、新世界系はもう終わった、あるいはいままさに終わろうとしているわけです。
     ほんとうならいまごろ、『進撃の巨人』の最終回や『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の結末によって終止符が打たれていたかもしれないのですが、新型コロナウィルスの蔓延というまさに突然の事態によってとりあえずそれが延期されているのが現状といえるでしょう。
     この記事は、その新世界系は終わったという認識を踏まえたうえで、「それは結局、何だったのか?」をまとめるために書かれています。
     さて、『進撃の巨人』以降、あるいは『少年ジャンプ』の『ONE PIECE』、『HUNTER×HUNTER』、『トリコ』の三作品以降も、いくつか上記の「新世界系の演出」を使った作品はあらわれてきています。
     たとえば、その後の『少年ジャンプ』で連載された『約束のネバーランド』での「孤児院を取り囲む崖」、『ワールドトリガー』における「世界の境」も「壁」の一種と見ることはできるでしょう。
     いずれも、その外には「壁の中」に比べてより過酷な、そして広大な別の世界がひろがっていることが共通しています。
     『ワールドトリガー』においては一貫して「壁の中」で物語が進むわけで、この作品を新世界系と呼ぶことはむずかしいでしょうが、いずれにしろ新世界系の見立てで語ることは可能です。
     ただ、もちろん、ぼく(たち)は何もこの批評的な見解がこの時代のあらゆる作品を説明するための唯一の方策であると主張するつもりはありません。念のため。
     新世界の血塗られた系譜は、2010年代後半にひとつの秀抜な作品を生みます。いうまでもなく『鬼滅の刃』のことです。
     もっとも、『鬼滅の刃』の設定においては、「壁」らしきものは見あたらないので、これは新世界系というよりは「さらに次の時代の作品」と見ることが正しいかもしれない。あるいは、「新世界系とジャンプ漫画のハイブリッド」というのが正解でしょうか。
     いずれにしても、この作品がきわめてきびしい環境を描いていることはたしかで、したがって主人公は平穏な日常からあっさりと人が死ぬ「狂った世界」に突然に放り出されることとなってしまいます。
     平和で幸福な生活を送っていた主人公の家族が突然そろって殺害されてしまう展開の『鬼滅の刃』アニメ第一話のタイトルは、あまりにも象徴的なことに「残酷」です。
     もうご理解いただけることと思いますが、この「突然」というところがキーポイントなのであって、つまり、この作品もまた「次に何が起こるかわからない」新世界系的な世界を背景としているわけです。
     また、この作品が荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』の大きな影響のもとに描かれていると思しいこともよく納得できる。『ジョジョ』もまた、ときにはシビアな「突然死」を描いてきた作品でした。
     『鬼滅の刃』は、『ジョジョ』と同じく、シビアで残酷な世界を舞台にどう生きるべきか? 人間らしさとは何か? その問いを突き詰めています。
     そう、「この狂った世界でどう生きるべきか?」、それが新世界系のグランド・テーマであり、『進撃の巨人』にせよ、『魔法少女まどか☆マギカ』にせよ、あるいは『鬼滅の刃』にせよ、このアポリアともいうべきビッグ・クエスチョンに対し何らかのアンサーを提示したために大ヒットしたように見えます。
     事実、『まどマギ』の後、同じように少女を残酷な環境に叩き込んだ作品がいくつも作られましたが、『まどマギ』ほど大きく話題になることはありませんでした。
     これは、『まどマギ』の魅力が、女の子を酷烈な環境(新世界)に投げ込んでサディスティックに嬲ることそのもの「ではなく」、「そのような環境でどう生きれば良いのか?」に答えたところにあるということを証明しているように思います。
     まさに時代の要請でしょう。「狂った世界」。しかし、それはこの世界の本来の姿である。人間の目で見るから狂っているように思えるだけなのであって、世界の側から見れば、それはごく当然の自然な形なのです。
     とはいえ、それはあまりにも残酷で過酷で、耐えがたい。いうなれば、人類はこの「狂った世界」に産み落とされた寄る辺なき孤児です。
     かれはこの酷烈な世界を生き抜くため、そのなかにより快適で生存に適した「社会」というシェルターを作り出し、それを整備し、拡大していくことによって世界の理不尽なまでの残酷さを緩和しました。
     そのことによって不条理な(人間には不条理と感じられる)もろもろの出来事、たとえば「突然死」といった事態は限りなく遠くなりました。
     もちろん、原理的にいってどれほど社会が整備されようとも世界が内在する本質的な残酷さが消え去ることはなく、我々はときにそのことを突然に思い出させられて愕然とするわけですが、それにしても普段はそのことを忘却していられるわけです。
     その結果、現代社会は一面でハックスリーのディストピア小説『すばらしい新世界』めいたものとなっている。だから、いくらか視点を変えるなら、新世界系は、新世界におけるむき出しの「生」にある種の可能性を見ていると捉えることもできます。
     我々は新世界のような環境ではなかなか生きられない。よって、新世界ではあたりまえの「突然の不条理な死」を遠ざけるために「社会」を必要とし、そのなかで「権利」とか「平等」といったフィクションを整備していったわけですが、その「社会」にはどうしようもなく欺瞞が付きまとう。
     社会とは、世界に直面する苦痛から人を守る保護膜のようなものですから、そのなかで生きている限り、「世界(新世界)」のことを直接に感じ取れないのです。そこでは、「生きていることそのものの歓び」はかき消えていくことになる。
     そうだとしたら、「新世界」には、ほんとうの「生のよろこび」があるのかもしれない。『灰と幻想のグリムガル』のような作品はそのことをかなりわかりやすく描いています。
     あるいは、この矛盾を、「身体の欲望」と「生のよろこび」というタームで説明した『無痛文明論』という本もあります。
     無痛文明とは何か。それは、あらゆるやり方でさまざまな苦痛を徹底して排除する社会構造のことです。「新世界」が「世界」の本質を極限的な形で伝えるものだとすれば、「無痛文明」は「社会」のありようを極限化した状態といえるかもしれません。
     この本の筆者は、無痛文明を批判的に語ります。「身体の欲望」にのっとって苦痛を避けつづける無痛文明については、「生のよろこび」はなくなってしまうというのです。
     この本を読むと、「新世界」も「無痛文明」もぼくたちが生きていくべき場所としてふさわしくないことがあらためてわかります。
     つまり、過酷な「世界」と安楽な「社会」のいずれもそれぞれべつの意味で過剰なのであって、そのあいだのどこかに、あるべきバランスポイントは存在するのでしょう。もっとも、そのバランスを維持することは限りなく困難なことでしょうが。
     そう、人にとって世界、あるいは他者とはそもそも不快な存在です。他者の存在が明確に認識されるのは、その他者とのあいだに何らかの摩擦が生じたときなのですから、当然のことでしょう。
     この「他者の本質的な不快さ」を極限的な形で描写したアニメーションが即ち『新世紀エヴァンゲリオン』であったことはいまさら指摘するまでもありません。
     その事実は劇場版『THE END OF EVANGELION』において閉幕を飾った「気持ち悪い」というひと言に端的に表れています。どうしようもなく避けがたい、他者の、そして、世界の不快さ。
     そしてまた、そこには「それでもなお、その残酷なる環境を生き抜け」という鮮烈なメッセージもありました。他者は不快であり世界は残酷である。しかし、その不快で残酷な場所を生き抜くことがどうしても必要なのだ、と。
     とはいえ、このメッセージは間違いなくポジティヴなものではあるものの、同時に、限りなく厳酷でもあります。『エヴァ』の「気持ち悪い」という言葉を受けて、そのような世界をそれでもなお積極的に生きようと思える人はまれでしょう。
     じっさい、その後のアニメーションの主流は『けいおん!』や『らき☆すた』に代表されるいわゆる「空気系」を中心とする「萌え系」作品に流れていきました。
     この時代のアニメーションファンは『エヴァ』が描出した「狂った世界」の過酷さに耐えられなかったのだともいえるかもしれません。それはまさに麻酔的な描写、無痛文明的な世界であったということもできるでしょう。
     そういった「萌え」作品を逃避的なものと見て批判する書き手は数知れませんが、ようはそれほどまでに視聴者層が疲労していたのだということもできると思います。
     また、人間にとって物理法則を初めとする「世界」のグランド・ルールは変更不可能ですが、「社会」のルールは変更可能です。したがって、「社会」をより良く改善していくべきだという考え方は基本的に正しい。
     評論家の杉田俊介氏の述べるところの「シャカイ系の想像力」とはそういうものでしょう。ですが、同時に、「シャカイ系」概念の現代における求心力の弱さは、その本質的な楽天性に由来しています。
     なるほど、環境問題などの大きな問題も含めたもろもろの問題の多くが、人間には決して変更不可能な「セカイ」ではなく、改善可能な「シャカイ」に属していることはたしかです。ぼくはそのことを認めます。
     しかし、それは「シャカイ」が容易に変えられるところであることを意味しません。現代において、きわめて複雑で不透明な「シャカイ」を解決していくことは非常にむずかしいことです。
     何もかもアベが悪いとか、そういった物語にわかりやすい話にフォーカスするのならべつですが、その種の論理は若い世代には説得力を持たないと思います。
     ぼくは安倍政権の政策に問題がないといっているのではありません。ただ、きわめて複雑な社会問題をひとりの絶対悪としての個人に象徴させることはそれ自体がひとつの単純すぎる物語、フィクションだといっているのです。
     しかし、それでは我々は社会の変革をあきらめるべきなのか? 種々の問題を「しょせん個人の手のとどかない領域」とみなして放棄してしまうべきなのでしょうか? 答えはもちろん否でしょう。
     我々はこれからも社会のあらゆる問題を積極的に改革し、改善していくべきだし、それはじっさいに可能であると考えるべきです。当然のことでしょう。
     ただ、重要なのは、そういった複雑な問題を、あくまで民主的で漸進的なプロセスを経て解決しようとしていく限り、その「解決」は致命的に間に合わないかもしれないということです。
     いわゆる地球環境問題はその典型的なものです。それは人類全体が影響を受けるグローバルな規模の問題なのであって、いますぐ簡単に解決する方法はない。
     その認識は、新世界系を受容する消費者たちのあいだで所与の前提となっていると思います。だからこそ、『進撃の巨人』や『天気の子』が熱狂的に受け入れられたのです。
     もちろん、『進撃の巨人』のまえにも「狂った世界でのサバイバル」を主眼にした作品は存在しました。最も典型的なのは三浦健太郎『ベルセルク』でしょう。
     『ベルセルク』が「新世界系のグランド・テーマ」の答えとして提示したものは一種の狂気であった。ただひたすらに狂い切ったものこそがこの新世界を生き抜けるのだと。
     また、現代においては『ブルーロック』や『アオアシ』といったスポーツ漫画も、サバイバル漫画の一面を見せます。
     『少年ジャンプ』のそれを初めとするスポーツ漫画の内容的な変遷についてはいずれまた書きたいと思いますが、『H2』、『SLAM DUNK』といった「天才マンガ」の後には『黒子のバスケ』、『ベイビーステップ』といった「自分の個性を最大限に活かして天才に対抗する漫画」があらわれています。
     それら「ポスト天才漫画」はある意味で「バトル・ロイヤル」の物語です。まあ、それらまでを新世界系であるとはいいませんが、ともかくも新世界系を生んだ時代の所産であることはたしかであり、同様の背景を共有しているといえるでしょう。
     で、ここまで長々と書いて来た結論として何がいいたいかというと、「セカイ系」と「新世界系」は裏表であり、ある意味では同じものだともいえるし、べつのある意味ではまったく対照的だと見て取ることもできるということです。
     『ヱヴァ』の新劇場版が、旧作と決定的に異なっているのは、かつては「世界の中心」に否応なく据えられていた碇シンジがその黄金の玉座から追放されていることだと思います。
     往時の『エヴァ』の問題といえば、つまり「主人公であることの苦しみ」でした。しかし、『ヱヴァ』においてはシンジはもはや世界を救うために必要とされてはいません。
     新劇場版の特に『Q』において、シンジは「壊れてしまった世界」を修復するべく行動しますが、物語はそれすらも父・ゲンドウの策略の一部であり、シンジの熱意はむなしく空回りするに留まるところを非情に描きだします。
     それでは、『破』であれほど視聴者を感動させたシンジの成長は、熱情は、単なる幻想に過ぎなかったのでしょうか。そうではないでしょう。
     しかし、単に「熱く生きろ!」というだけでは、新世界を生き抜くためのアンサーにはなりえないということなのだと思います。もはや、ただ熱くなって相手を打ち破るだけでは世界を救うことはできないということは歴然としているのです。
     その「因果の物語」は信頼できない。そういう時代になった。もちろん、『少年ジャンプ』的な「努力、友情、勝利」のテーマ、「因果の物語」が高度経済成長からバブル期にかけて勃興し絶頂を見、そして零落していったことも偶然ではありません。
     そのとき、アンケートから導き出されたという因果の幻想は、経済成長によるリソースの拡大に支えられていたものなのです。その時代を照らした大いなる蜃気楼、それ「努力を続け、友情を育めば、必ず勝利できる」というファンタジーなのでしょう。
     換言するならその時代には「努力」+「友情」=「勝利」というシンプルな「勝利のための方程式」が成立して見えていたということ。
     それに対して、現代のたとえば「小説家になろう」の小説群、いわゆる「なろう系」の作品はしばしば「努力が足りない」と揶揄されます。しかし、もうそのような「因果の物語」は信じられないのです。
     新世界系と「なろう系」の作品はまったく逆にも見えますが、じつは同じ時代という母胎が産み落とした兄弟のような関係にあります。
     つまり、両者ともに上述の『少年ジャンプ』方程式が決して成り立たない理不尽なシチュエーション(狂った世界!)を描いているわけです。
     狂った世界。壊れた世界。しかし、ほんとうは世界は決して狂いもしなければ壊れもしません。世界の厳粛なグランド・ルールは人間のいかなる思想とも観念とも無関係につねに不変であり、壊れたり狂ったりするのは、ただ世界に内在する人間社会だけです。
     そして、社会が崩壊し狂乱するとき、人は素裸で世界に放り出される。しかし、それは世界をダイレクトに感じ取ることができる体験でもある。世界は酷烈ではあるが、しかし、同時にかぎりなく美しい。その美とは、世界の残酷さと一体のものなのです。
     その「美」と「残酷」を求めるときに「新世界」が生まれ、「欺瞞」と「平穏」と追及していくと「無痛文明」に至る。ぼくたちはそのどこにあるべき状況を見い出せば良いのでしょうね? というところで、このいくらか長い記事を終わります。
     「新世界系」については、ここに書いたようなことをグローバリズムがどうこう、ネオリベラリズムがどうこうという社会分析とともにていねいにまとめて、「新世界論」という8万字~10万字くらいの電子書籍を出したいと思います。無料にする予定です。
     これ、もういってもいいと思うけれど、何年か前にドワンゴから本を出しませんかという依頼があったんですよね。 それは口約束のつねで、いつのまにか消えてしまったんだけれど(まあ、ブロマガの数字が減っているからしかたないかな?)、自分のいいたいことを一冊の本にまとめたいという気持ちはずっとあって、有料の電子書籍はとにかく読まれないから、この際、無料で出しちゃえということです。
     このわりと乱雑な記事よりずっとわかりやすい一冊になると思います。いつ出るかわからないけれど、良ければ読んでみてください。でわ、でわ。 
  • 『カノジョも彼女』と「恋愛伴侶規範」の呪縛。

    2020-06-19 04:35  
    50pt
     LINEでちょっと話をしたのだけれど、ヒロユキの『カノジョも彼女』というマンガがちょっと面白い。
     大好きな彼女(恋人)がいるのにべつの女の子から告白された主人公が、二股をかけて付き合うことを提案するというなかなかふざけた設定のラブコメディだ。
     いや、ただのふざけた話だと思っていたのだが、回を追うごとに物語は進み、そうとばかりもいい切れなくなっているようなのだ。
     「どうせよくあるハーレムネタだろ。この先、恋愛対象が増えていくんだろ」と思い込んでいたぼくとしては反省させられる展開で、かなり革新的なラブコメになる可能性が見えてきた。
     どういうことか? つまり、この漫画、現代のほぼあらゆる恋愛ものの前提となっている「対幻想」、恋愛とは一対一の異性ないし同性間で継続的に行われるものであるというファンタジーを壊しにかかっているのである。
     もっとも、前述したように、主人公が複数の異性と付き合う「ハーレムもの」、ないし「逆ハーレムもの」は無数にある。BLとか百合にも複数の同性と付き合う作品はある。
     しかし、この作品においては主人公はハーレムを築こうとしているわけではない。複数の相手と同時に恋愛関係を結ぶセクシュアリティのことを専門用語(?)で「ポリアモリー」と呼ぶのだが、かれはそういうポリアモリー志向の人間ではないのだ。
     むしろ、かれはふたりの少女と同時に恋愛関係にあることを心苦しく思っている。また、少女たちのほうもべつだん疑似ポリアモリー関係に納得しているわけではない。
     かれらには、恋愛は自然、一対一であるべきである、そうでなければならないという対幻想の「恋愛伴侶規範」が内面化されており、そして、それにもかかわらず、現実に複数の相手に恋愛感情を抱いてしまったことに主人公の苦悩はあるのである。
     もちろん、あくまでコメディ漫画ではあるから、あくまでその悩みはコミカルに描かれる。だが、よくよく考えてみると、これはギャグでは済まない話なのかもしれないと思えてくる。
     そもそも、なぜ恋愛は一対一でなければならないのか? 恋愛的(romantic)に複数の相手に惹かれることは可能性としてありえるし、現実にあるわけで、必ずしも一対一の関係が神聖視される必要はないのではないか。
     だが、じっさいにはぼくたちの社会では、一対一の恋愛が当然であり自然であるという考えがほぼ支配的であり、そこから逸脱する「浮気」や「不倫」に対しては、当事者以外のだれかに被害を与えるわけではないにもかかわらず、きわめてきびしい社会的批判が向けられる。
     なぜなのだろう? 結論から書いてしまうと、その背景には先に書いた「恋愛伴侶規範(amatonormativity)」と呼ばれる思想があるのである。
     これは北米の哲学者エリザベス・ブレークが考案した用語で、この記事(https://note.com/asexualnight/n/ndb5d61122c96)によると、「「一人の特別な人に恋愛をして、その人と結婚して、ずっとその人だけを大切にすることが、人間の最高の幸せ」という考え方、あるいは、そういった考えに基づく圧力のこと」ということになる。
     「恋愛至上主義」と呼ばれる現代社会の背景には、この恋愛伴侶規範が強烈に存在している。そこでは、複数の人間との恋愛を選択するポリアモリーや、そもそも恋愛を欲望しないAロマンティックのようなクイアな形はどこまでも異端である。
     すべての人が一対一の恋愛を志向して当然という、見方によっては相当に傲慢な認識があるわけだ。
     で、『カノジョも彼女』の話に戻るのだけれど、この漫画の主人公もまたその恋愛伴侶規範を抱いて恋愛している。しかし、物語が進むにつれ、かれは自分自身のその規範性を信じられなくなっていくのである。
     それはやはりコミカルに描かれるわけだが、よく考えてみれば深刻な話だ。それはつまり、ある幻想を信じて生きていた人間が、それを信じ込めなくなっていくプロセスの描写だ。
     あるいは、対幻想を信じている人からしてみれば、このような主人公は不誠実な異常者とも見えるかもしれない。また、こんなものはあくまでフィクションとしての、ラブコメディとしての奇妙な設定であるに過ぎず、現実にはありえないことだと思われるかもしれない。そうでなければよくある三角関係ものとみなすことだろう。
     だが、そうだろうか。ぼくたちがいま抱いている恋愛観はキリスト教社会の伝統から生まれたもので、古来から綿々と続く伝統というわけではない。
     ご存知のようにイスラム社会などでは複数婚が認められているし、わが日本でも昔は富裕な男性なら幾人かの「妾(めかけ)」を持っていて当然だという時代があった。
     対幻想は恋愛の唯一の自然な形などではない。つまり、ある社会においてひとつの慣習が100年も続けば、あっさりとそれは「常識」で「あたりまえ」になるが、決してほんとうの意味で「あたりまえ」のことなどないものなのである。
     『カノジョも彼女』はその「常識」が壊されていくところを見せてくれるかもしれない。そして、その果てに待つものは、「だったら三人で恋愛すればいいじゃん! それでハッピー!」などという能天気な発想ではないかもしれない。
     この作品が示そうとしているものは、つまりはどんな種類のものであれ、人間の人間のあいだのある関係が永続的に続く保証など何もなく、むしろ変化していくことが大半なのだ、というファクトである。
     あるとき、どんなに好きであっても、その感情がいつまで続くかはわからない。あしたには消えてなくなっているかもしれない。したがって、恋愛に「ハッピーエンド」などありえない。
     そういう身も蓋もない事実が、この路線を進めば見えて来るように思う。それはラブロマンスというジャンルそのものの崩壊である。はたしてじっさいにそこまで行くかどうかはわからないが、行ったとしたら面白い。かなり洒落にならない話ではあるけれど……。