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タグ “中田永一” を含む記事 4件

たとえ運命に選ばれなかったとしても。

 石田衣良『オネスティ』を読んだ。  石田の得意とする恋愛小説なのだが、普通の恋愛ものとは一風変わっている。  幼い頃、運命的に出逢い、一生をともにする間柄となったカイとミノリふたりを描く物語。  そこまでは普通なのだが、このふたり、決して肉体関係に進まないことを誓い合うのだ。  恋人にはならない。結婚して夫婦になることも決してない。そう決意した上で、かれらは一切の秘密のない関係を築いていく。  親友のようでもあり愛人のようでもあり、そのいずれともいくらか異なる間柄。  石田は繊細な描写で、ふたりだけにしか理解できないそのオネスティ(誠実さ)にもとづく絆をていねいに描きだす。  きわめて美しい物語だ。感動的といってもいいかもしれない。  しかし、ここでぼくが注目したいのは、その物語のなかで脚光を浴びる主人公たちではない。  カイの妻となるミキという女性のことだ。  彼女はカイを愛し、かれと結婚するのだが、カイの心にいつもミノリがいて、自分は代役に過ぎないことを知っている。  そして、その想いはやがて彼女を狂おしく責め立てていくのだ。  ミキは、この物語で主人公としてフォーカスされた人物ではない。  カイとミノリのオネスティの物語の単なる「わき役」である。  だが、彼女を見ていると思わずにはいられない。  物語に選ばれていないこと、「わき役」であるとは、なんと切ないことなのだろうと。  いままでも、いくつもの物語を読む過程で、何度も思うことがあった。  「主人公」と「わき役」で、なぜこうまで区別されなければならないのだろうかと。  本来、この世に「主役」も「わき役」もいない。すべては平等であるはずである。  けれど、物語は必ずだれかひとりなり数人を「主人公」として選び出し、注目する。  そのとき、スポットライトがあたらない人間たちはみな「わき役」ということになる。  『オネスティ』でいうのなら、ミキがどんなに悩んでも、苦しんでも、それは「主人公の悩み、苦しみ」ではありえないのだ。  スポットライトが照らし出すのはどこまでいってもカイとミノリ。ミキの懊悩に光はあたらない。  もちろん、それは小説という構造があるからこその嘘ではある。  これが現実なら、ミキは自分を中心として、つまり主人公だと思って悩み、苦しむことだろう。  物語というシステムがあるからこそ、主役とわき役が選抜されて見えるのであって、現実にはそんな区分はないのだ――いや、しかし、ほんとうに?  ぼくには現実世界にも「選ばれて主人公である人」と「わき役でしかありえない人」はいるようにも感じられる。  少なくともそういうふうに感じ、考える人は必ずいることだろう。  自分にスポットライトがあたることはついにない、一生、自分は光の差さない暗がりのなかで生きていくしかない、そういうふうに思っている人は相当数にのぼるはずだ。  そしてそれは、必ずしも思い込みとばかりはいえないだろう。  この世は一面で平等ではあるが、しかし真実は決してそうではない。  「運命に選ばれて主人公のように生きる人」と「そうではない人」の格差は凄まじいものがある。  もちろん、主役には主役の苦悩がある。それはわき役でしかない人には想像できないものではあるだろう。  とはいえ、単なるわき役から見れば、その悩みすら、苦しみすらうらやましいものに思えるのではないか。  わき役にはわき役の悩みがあり、苦しみがあるにもかかわらず、それらは世界に無視されて終わるのだから。  だからこそ、ぼくたちの多くは選ばれたがる。  「あなたは選ばれました」という言葉は、詐欺師の常とう手段だ。  あまりにもありふれていて陳腐と化した言葉だが、それでもそのなかには何かひとの心を狂わせる蠱惑がひそんでいる。  あなたは選ばれました――神に、世界に、運命に選ばれたのです。  そういわれてほの暗い喜びを感じない人は少ないだろう。たとえ、そこに欺瞞の彩りがひそんでいると気づいたとしても。  それほどまでに「何者かに選ばれる」ということはひとの心を強く魅了する。  「愛されたい」という想いも、ひっきょう、「だれかに選ばれたい」という意味ではないだろうか。  しかし、「わき役」はだれにも愛されないし、選ばれない。そのちっぽけな存在に注目する人はいない。  『オネスティ』のミキはとても可哀想な女性だ。  彼女は真摯に愛しながら、愛されない。  カイとの間にオネスティな関係を築くことができない。  カイの財産をもらうことはできるが、それがなんだろう。  彼女が求めたものは、たったひとつ、かれの愛情だけしかなかったというのに。  だが、その孤独、その絶望すら、あくまでも「わき役」のそれでしかなく、彼女の悲恋に光があたりはしない。  それが物語というものではある。とはいえ、それはなんと残酷なことなのだろう。  そして、自分は主人公になれないと感じながら生きていくということは、なんと辛いことなのだろう。  わき役はどこまでもわき役。主人公にはかなわないのだ。  いや、しかし、この世にはそんな「わき役」の美しさを描く物語もある。  たとえば先日読み上げた中田永一(乙一)の傑作短編「少年ジャンパー」はそういう話だった。  これはほんとうに傑作だと思う。  中田はいままでも無数の傑作短編を書いているが、そのなかでも新境地をひらく一作といえるのではないだろうか。  この物語の主人公は人並み外れて醜い容姿の少年である。  だれからも愛されていないし、最後まで愛されることもない。  かれはあるとき「ジャンプ」という超能力に目覚める。  一度行ったことがある場所なら、世界中どこへでも一瞬で「ジャンプ」できるという素晴らしい能力だ。  しかし、そんな超能力を持ってしても、かれが「世界にとってのわき役」であり「キモメン」であるという事実は変わらない。  かれはいかなる意味でも世界にも運命にも物語にも選ばれていないのだ。  よくネットには「おれはキモメンだから異性から差別されてきた!」と書く人がいるが、まさにそういう境遇の少年である。  あるとき、かれは偶然から異性に恋心を抱くようになる。  かれがほんとうに「主人公」なら、どんなに醜い顔をしているとしてもその恋は実り、幸福な結末を迎えることだろう。  あるいは少なくとも悲劇的に美しいクライマックスが待っているに違いない。  ところが、 

たとえ運命に選ばれなかったとしても。

北風に立ち向かえ。映画『くちびるに歌を』は感涙の傑作。

心に太陽を持て。 あらしが ふこうと、 ふぶきが こようと、 天には黒くも、 地には争いが絶えなかろうと、 いつも、心に太陽を持て。  映画『くちびるに歌を』をみた。  圧倒されて言葉ひとつ出て来なかった。  これは、まさに吹き荒れる嵐のなか、なお青褪めたくちびるに歌声を保とうとする、その健気な人々の物語だ。  運命の無情な羽ばたきに吹き飛ばされながら、それでも心に太陽を抱きつづけようとする人たちの鮮烈な生の記録だ。  ここには〈世界〉がある。そして〈人間〉がいる。  どうしようもない巨大な歯車に押しつぶされながら、何とか一生懸命に生き抜こうとするひとの意思がある。  美しい。なんと美しい映画なのだろう。  傑作とか名画とか、そのような陳腐な表現はこの清新な一作に似合わないが、あえてそういうふうに呼ばせてもらおう。傑作だ。名画である。  ひとつ映画に限らず、今年ふれたあらゆる物語のなかでも、出色の一作ということができる。  話は、ある小さな離島の中学校に、ひとりの美貌の女性教師が赴任してくるところから始まる。  ささやかな約束によって合唱部の担当となったその教師は、しかしかれらを熱心に指導しようとはしなかった。  やがてその教師目あてに幾人かの男子部員たちが入って来て、部は分裂し、混乱する。  そしてあきらかになる教師の過去。彼女は元々、素晴らしいピアニストだったのだ。  それなら、なぜ自分たちのためにその天性の技量を振るおうとはしないのか? 合唱部の生徒たちの間にフラストレーションが溜まっていく。  しかし、そのうち彼女が心に抱えたひとつの〈瑕〉が明かされることになる。  一方、生徒たちもまた物語を抱えている。自閉症の兄とともに暮らす少年。実の父親に見捨てられた少女。そして、かれらの想いと教師の想いが響き合うとき、ひとつの奇跡が起こる――。  この映画が描こうとしているものも、ある種の〈諦念〉である。  主人公の少年は自閉症の兄の世話をする人生を受け入れている。自分の生の意味はそこにあるのだと、はっきりとわかっている。  父に見捨てられた少女はそれはどうしようもないことだときちんと理解している。  しかし、それでもなお、そこに「どうしても割り切れない想い」がある。  ひとがひとである限り、純粋に無私の境地には到達できない。どんなに割り切ろうとしても、やはりほんの少しだけ無念がのこる。  だから、そう、くちびるに歌を。  何もかも思い通りにならない、辛く、また切ない日々のなかでも、歌声を保ちつづけること、それが、 

北風に立ち向かえ。映画『くちびるに歌を』は感涙の傑作。

後味爽やかな傑作短編「宗像くんと万年筆事件」。

 その年の本格ミステリの最高傑作短編を集めた『ベスト本格ミステリ2013』に、中田永一「宗像くんと万年筆事件」が収録されている。第66回日本推理作家協会賞短編部門の候補作となったという作品である。  これが面白くて面白くて、ひさしぶりに夢中になって読み耽った。ちなみに中田永一はデビュー作「百瀬、こっちを向いて」が映画化され、『くちびるに歌を』で第61回小学館児童出版文化賞を受賞するなど活躍中の作家だが、この名前が乙一の別名義であることは周知の通りである。  いや、しかし、「宗像くんと万年筆事件」、実に素晴らしい。何が良いって、爽やかな後味がたまらない。中田永一(乙一)のほとんど全作品がそうなのだが、読み終わったあと、実に切なくも爽涼とした印象が残る。  中田は「少年と少女が出会って、ほんの一瞬だけ交流し、去って行く、という物語を予定していました」と書いているが、まさにその一瞬の交流の哀切さが胸に刻み込まれる。文句なしの傑作だ。  主人公は小学校である事件に巻き込まれ、ぬれぎぬを着せられたひとりの少女。その彼女をさっそうと救い出すヒーローとなるのが同級生の宗像くんだ。  もっとも、この宗像くん、見かけはちっともさっそうとしていない。むしろクラスの嫌われ者ですらある。  「宗像くんは小学五年生のときにうちの学校に転入してきて、それ以来ずっと友だちがいない。彼の嫌われている理由はあきらかで、ちかくによると、ぷんとにおうのだ。何日もお風呂に入っていないらしく、彼の毛は脂でてかっており、爪の間には真っ黒な垢がたまっていた。服は黄ばんでおり、あきらかに何日も、もしかしたら何週間も洗濯されていなかった。席替えの際、彼のとなりになってしまった女子児童は泣き出してしまい、彼がおろおろと困惑していた。」というキャラクター。  しかし、このダーティーな宗像くん、あるときに十円玉を借りた恩義を返すため、意外な知性と推理力を発揮して、主人公の無実の罪を晴らしてしまうのだ。しかも、かれは最後にはその十円を返してどこへともなく去ってゆく。格好いい!  この種のミステリでこんなにも爽やかな後味を覚えたのはいつ以来だろう。ぼくは現代の本格ミステリの最大の弱点は読み終えたあとの後味の悪さだと思っているので、こういう小説は大歓迎である。もっと読みたい。 

後味爽やかな傑作短編「宗像くんと万年筆事件」。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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