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記事 11件
  • 『ドラゴンクエストビルダーズ』で夜更かし。

    2016-03-27 15:33  
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     告白します。
     プレイステーション4の『ドラゴンクエストビルダーズ』を購入して10時間くらいぶっつづけでプレイしていました。
     真夜中に始めて、気づいたら朝になっていた。
     いやはや、こいつは面白い。こんなに集中してゲームをプレイするのはひさしぶり。
     やっぱり『ドラクエ』は、というか国産ゲームはいいなあ、と思うのです。
     『アサシンクリードシンジケート』とか、めちゃくちゃ面白いけれど放り出しちゃっているものなあ。
     どうもぼくはやはり海外ゲーより国産ゲーのほうに惹かれるたちのようです。
     まあ、しかたないよね、日本人だもの。海外のリアリズムを追求するゲームはそれはそれで面白いんですけれどね。
     さて、『ドラクエビルダーズ』の話。
     いやー、素晴らしい出来です。ここしばらく、ゲームを買ってはちょっと遊んで放り出すということをくり返していたんだけれど、これはクリアできるんじゃないか。
     ただ、かなりボリュームはある模様。10時間やってもまだ第一章が終わっていませんからね。
     ストーリー的にもまだ序盤っぽいし、さて、無事、竜王を倒すところまで行けるかどうか、ちょっと心配でないこともない。
     ただ、今回は相当ストーリーが魅力的なのでたぶん確実に先へ進められると思う。
     物語は、竜王の「世界の半分をお前にやろう」という言葉に勇者がうなずいて、世界が闇に閉ざされたその数百年後から始まります。
     人類の文明は実質的に崩壊していて、ラダトームやリムルダールといったアレフガルドを代表する町々も崩れ去ってしまっています。
     主人公はそんな状況下で生まれた「ビルダー」の少年(もしくは少女。ぼくは少年でプレイしている)。
     人類から失われたはずの「ものを作り出す」という能力を持つこの少年は、大地の精霊ルビスに導かれるまま、その力を使って崩れ去った町を再建し、人々を集めようと画策する。
     しかし、当然、その行為は魔物たちに目をつけられ――と話は進んで行きます。
     ついに『ドラクエ』もパラレルワールドものに突入か、となかなか感慨深い。
     何しろたよりの勇者もなく、王国も潰え、人類文明は風前のともしびという状況なので、ただならぬ悲壮感が――いやそこは『ドラクエ』なので特にただよわないけれど、いままでにない世界設定でなかなか面白い。
     物語の背景には「なぜ勇者は人類を裏切ったのか?」という大きな謎が存在するようですが、はたしてこれはきちんと答えが出るのか、どうか、注目ですね。
     もちろん、 
  • 究極の異世界ファンタジーとは。

    2016-03-23 08:27  
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     山本弘さんが「現代日本の異世界ファンタジーの多く」を批判的に語って話題になっているようです。
    http://togetter.com/li/952223
     いきなりですが、この意見が、炎上とは行かないまでも賛否を呼ぶ背景には、わりと典型的なディスコミュニケーションの問題がある気がしてなりません。
     というか、ある意見が非難を集めるときは、しばしばそこに何かしらの誤解が生じていると思うのですよ。
     これは非常にむずかしい話ではあるとも考えるのですが、だれかの意見を理解しようとするときには、ただ言葉の表面だけを追っていけばいいというものではなくて、その奥底にある「その人がほんとうにいいたいこと」を慎重に探っていかなければなりません。
     しかし、それと同時に、かってに憶測をたくましくして、その人がいってもいないことをわかったと思ってはいけないのです。
     この一見矛盾する条件を満たそうと努力することが「読む」ということなのであって、ただあいまいな印象だけを受け取るとそこに誤解が生まれます。この場合もそのパターンだと思う。
     論者である山本さんとそれを批判するほうで、認識にずれが生じている可能性が高い。
     ぼくはこういうやり取りを見るたびにもう少しどうにかならないかなあと思うのです。
     情報を発信する側と受け取る側のどちらに責任があるともいえないし、またどちらにも責任があるともいえるというケースだと思うのですが、責任の所在はともかく、あまりにも話が不毛すぎる。
     だれもが自分だけは正しい、自分だけは正確にひとのいわんとするところをわかっていると思い込んでいて、結果として誤解が広まっている。
     このパターンを、いったいどれくらい見てきたか。
     ネットで「議論」とか「論争」と呼ばれているものの正体は、大抵が放置されたディスコミュニケーションに過ぎないのではないかと思うくらいです。
     こういうやり取りを見ていると、簡単にひとのいわんとするところを理解したつもりになってはいけないのだなあと思いますね。
     もちろん、ぼく自身、山本さんのいわんとするところをわかっていると思ってはいけなくて、誤解が生じていると思うこと自体が誤解なのかもしれませんが……。
     それはともかく、「どうも現代日本の異世界ファンタジーの多くは(もちろん例外もあるが)、「異世界」じゃなく、「なじみの世界」を描いてるんじゃないか」という意見は、ある程度は正しいものだと思われます。
     山本さんは作家ひとりにつきひとつの世界があってもいいという前提で考えているわけで、それに比べれば「現代日本の異世界ファンタジー」の多くはよりシンプルに規定された世界を描いているに過ぎない、これは想像力の貧困じゃないか、という指摘は、まあありえると思う。
     問題は 
  • 情報洪水の時代をいかに生きるか。あるいはウェブ小説と音楽定額配信の共通点。

    2016-03-21 21:45  
    51pt
     敷居さんがブログで「ウェブ小説を読むことの気楽さ」について語っていますね。
    http://d.hatena.ne.jp/sikii_j/20160314/p1
     なぜわざわざ素人が書いた小説を読みあさるのかという問いへの解答です。
     曰く、「小説家になろう」を読むときは「ちょー気楽に、面白くない場合もあるってことを織り込み済でとりあえずパラパラ読む」。
     なるほど、納得です。多くのアマチュア小説は、最低限の面白さすら保証されていないわけですが、なぜそういうものをあえて読むのかといえば、まったく期待せずに読むから労力を使わなくていいのだということですね。
     いい換えるなら、「心が正座していない」ということができるかもしれません。
     真剣な姿勢で物語に向き合っているのではなく、ごく気楽にページをめくってみるという態度。
     あるいはそれは小説に向き合う態度として不遜なものとそしられるかもしれませんが、じっさいのところ、ウェブ小説のような媒体を読むためには必然的なスタイルだと思われます。
     敷居さんはこの姿勢を「雑誌」を読むときに喩えていますが、ぼくはむしろ音楽の定額配信を連想します。
     ウェブ小説を読む気楽さは、1000万曲とか3000万曲といったまさに途方もない数の楽曲をてきとーに流して聴いていく気楽さと、一脈通じているのではないか。
     その昔、といってもわずか数十年前のことに過ぎませんが、その頃には音楽はある程度「正座して聴く」ことが普通のものだったでしょう。
     日常生活のなかで音楽を聴く方法がレコードを聴くことくらいしかなく、「好きな楽曲を好きなように好きなだけ」聴くというスタイルは困難だったからです。
     人間のアートの受容のしかたはテクノロジーに規定されるわけで、その時代には音楽を聴くということはいまよりいくらかシリアスなことだったと思われます。
     もちろん、そのさらに昔、レコードすら存在しない頃にはさらに真剣だったことでしょう。
     トーマス・マンの『魔の山』で、山上のサナトリウムでモーツァルトか何かのレコードを流す場面がありましたが、とても神聖な時間として描写されていた記憶があります。
     ようするにテクノロジーの進歩は、ひとが小説なり音楽といったアートに向き合うことをきわめて気楽なことにしてしまったのです。
     それが良いことなのかどうかは一概にはいえません。
     見方を変えるなら、ぼくたちは作品にほんとうに真剣に向き合うことを忘れてしまっているということもできるかもしれません。
     あまりにも大量の小説やら映画やらアニメやらがあふれているいまの時代、かつてのように「人生で数少ない貴重な体験」として物語を味わうことは不可能に近いように思われます。
     いまではもう一期一会の真剣さで物語と付き合うことは非常にむずかしい。
     どうしたって、ある程度は「気楽」なスタイルで膨大な物語を次から次へと消費していくという形にならざるをえません。
     しかし、 
  • 新しいオタク文化が見えない。

    2016-03-20 21:27  
    51pt

     こんばんは。『精霊の守り人』ドラマ版、なかなか面白そうですね。
     さて、きょうのラジオでも最後に少し話したのですが、「「この素晴らしい世界に祝福を!」はコンプレックスまみれの視聴者を徹底的にいたわった作品?」というまとめがちょっと面白いです。
    http://togetter.com/li/931628
     『この素晴らしい世界に祝福を!』というアニメを巡る野尻抱介さんと新木伸さんのやり取りをまとめたもので、単純にいい切ってしまうと「反対派」と「賛成派」の対決という文脈で読むことができます。
     野尻さんはこの作品についてこう語っています。

    トラック転生して異世界という名の想像力のかけらもないゲーム世界に行って、なんの苦労もせず女の子がいっしょにいてくれるアニメを見たけど、コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ。少しは向上心持とうよ。

     よく読むと色々ツッコミどころがある発言なのですが(トラック転生じゃなくてトラクター転生だとか、主人公はかなり苦労しているよねとか)、細かいところをあげつらったところで仕方ないので流します。
     このツイートの勘どころは「コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ」というところにあるでしょう。
     ようするに「こんなしょうもないアニメを見ていないでもっとエラい作品を見ろ!」ということだと思われます。
     まあ、おそらくは1000年くらい前からエンターテインメントに対する批判としてあったであろうパターンなので、あまり新味はないわけですが、いっていることはわからなくもない。
     たしかに、このアニメを見て教養が身についたり人格が向上したりはしないでしょうから。
     問題は、ひとは普通、お勉強のためにアニメを見たりしないということで、この論旨を突き詰めて行くと「エンターテインメントなんて役に立たないから見るのやめろ」という結論になりそうだと思うのですが、どうなんだろうな。
     ひとは普通、鍛錬のためではなく楽しみのためにアニメを見るのだから、その点を否定してもしかたないとは思うけれど。
     とはいえ、まあ、最近のアニメ(特に萌え系)はいくらなんでもあまりに甘ったるいという意見もわからなくはないので、ある程度は傾聴に値する意見だと思います。
     新木さんの発言については、ぼくは生涯一切触れないというゲッシュを立てたので語りませんが、まあ、野尻さんの意見に反対することをいっているわけですね。
     問題は、話題が進むほどに話がずれていっているように思えること。
     アニメやライトノベルといった最近の若者向けエンターテインメントを巡る話はしだいに一種の若者論の様相を呈して来るのですが、『このすば』を「最先端の若者向けエンターテインメント」の代表格のように扱うことには無理があると思うのですよ。
     だって、 
  • 『ドラえもん のび太と鉄人兵団』リメイクを見て旧作の偉大さを考える。

    2016-03-14 02:36  
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     ひさしぶりに――おそらく30年弱ぶりくらいで、映画『ドラえもん のび太の鉄人兵団』を見ました。
     いや、LINEで話していたらなぜかこの作品の話題になったのでAmazonで見てみただけなのですが、面白いですねー。
     あらためて鑑賞してみてそのエンターテインメント性の高さに驚かされました。
     正直、記憶のなかで美化されている側面もあるのではないかと思っていたのだけれど、いま見ても普通に面白い。いや、普通以上に面白い。
     家出したドラえもんを探すのび太が北極で巨大ロボットの部品を発見するところから始まって、いったいこの部品はなんなのか? そしてそのロボットを探すなぞの少女の正体は? と、謎また謎の展開で惹きつけます。
     そして、劇場版『ドラえもん』シリーズのなかでも最も鮮烈かつ悲劇的なラストへと一直線に物語は進んで行くのです。そのスピーディーなこと。
     ほんとうにまったく無駄がない緻密なシナリオです。素晴らしい。あー、いいものを見た。面白かった。
     ――で終わらせられればいいのですが、どうもぼくとしてはそうもいかないのですね。
     というのも、この『鉄人兵団』、『新・のび太と鉄人兵団 はばたけ天使たち』としてリメイクされているのです。
     となると、どうしたってリメイク版と比較して見てみたくなる。はたしてリメイク版の出来はどうなのか? 旧作を超えることができたのか? 比べて考えて考えてみたくなるのは人情でしょう。
     で、続けて新作も見たのですが、その結果はどうだったかというと――うーん、微妙?
     非常によくアレンジされていると感じたので、旧作と比べて単純に良い、悪いとはいい切れない感じですね。
     アニメーションとしての迫力、それに遊びやくすぐりの部分では確実に旧作から進歩を遂げていると思います。
     さりげなくドラえもんが意地が悪くなっているあたりはうまいなあと。
     また、細部に至るまでシナリオに手が加えられていて、一貫してより見やすく、わかりやすいように調整されていると感じました。
     だから、そのあたりをどう捉えるかでこの作品の評価は決まって来るでしょう。
     それでは、ぼく自身はどうなのか? うーん、やっぱり微妙、という答えになっちゃうんですよね。
     新作がとてもよくできているだけに、新作に軍配を上げたい気持ちもあるのだけれど、そのアレンジの巧みさが逆に旧作の偉大さを知らしめているところもあって、なかなか優劣を付けにくい。
     結局、好みの問題になって来ると思う。で、そう前置きしたうえでいうなら、ぼくはやっぱり旧作が好きだなあ、と思うのです。
     なぜか?
     それは、 
  • 『エロマンガ先生』アニメ化おめでとう。でも……。

    2016-03-12 15:44  
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     伏見つかささんの人気ライトノベル『エロマンガ先生』がアニメ化決定したようです。
     ぼくは第1巻が発売された頃から「この作品はアニメ化する」といってきたので、予想があたったことになります。
     べつに自分の先見の明を誇るつもりはありませんが(普通に読めばだれだって予想できるでしょう)、「ああ、やっぱり」とは思いますね。
     伏見さんにとっては『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』に続くアニメ化になるわけで、二作続けてきちんとあてて来るあたり、さすがだなあ、とも感じます。すごいすごい。
     ただ、この作品に関しては微妙に絶賛しきれないものを感じるのもたしかではある。
     文章やキャラクター造形力やバランス感覚はものすごいレベルに達しているのだけれど、そのぶん、新しいチャレンジがないと感じてしまうのですね。
     もちろん、堅実に作品を作りこんでいくのはひとつの手ではあるのだけれど、どこか保守的になってしまっているのではないか、という懸念を覚えます。
     いったんディフェンスに入ってしまったら、いくら才能と実力を兼ね備える作家といえども新しい読者を獲得していくことはむずかしいでしょう。
     まあ、ぼくがそう思うだけではあるのですが、はっきりいってしまうなら、『エロマンガ先生』は『俺妹』から、批判を受けそうな要素をすべて取り除いた作品であるように感じられるのです。
     『俺妹』における「毒」の部分は薄くなり、実の兄妹のラブストーリーという物議をかもすテーマも義理の兄妹という設定になった。
     おかげで、この作品に特に批判するべきところはないように思われます。でも、なんだろう、この隔靴掻痒な感じは?
     たしかにずば抜けて完成度の高い、素晴らしい作品ではある。
     しかし、あまりにもチャレンジとサスペンスがないように思えてならない。
     ぼくの言葉を使うなら「置きに行っている」ということになりますが、勝率の高い安全圏で勝負しているという印象が強いのです。
     まあ、それの何が悪いのだといわれたらそうなのだけれど、もう少し挑戦してくれてもいいのになあと思ってしまう。
     『俺妹』の最終巻が賛否両論の内容だっただけに、今回は批判を受けないように調整して来たのかもしれませんが、ぼくにはそういう態度はあまり好ましくないように思われます。
     いや、ほんとうにものすごくよくできたお話ではあるのですよ。
     第6巻にしてアニメ化が決まるくらいの人気もうなずける、最高に洗練されたライトノベルだといっていいでしょう。
     「エロマンガ先生」なんていうタイトル自体、前作に続いてうまいところ突いて来るなあと思うし、各キャラクターの活き活きとした描写は素晴らしいのひと言です。
     文字のなかの存在であるにすぎないのに、あたかもそこに生きて動いているかのような躍動感。
     これはほんとうに優れた作家だけが生み出すことができる「生きた」キャラクターの存在感です。
     そういう意味ではほんとうに文句を付けるのが申し訳なくなるくらい、非常に素晴らしい作品であることは間違いない。
     ただ、 
  • アニメ『ガラスの花と壊す世界』を観たが、よくわからなかったよてんてんてん。

    2016-03-11 00:28  
    51pt

     プレイステーションストアで『ガラスの花と壊す世界』を観ました。
     先日まで劇場公開されていた作品ですね。
     『コードギアス 亡国のアキト』もそうですが、この手の最新の作品をすぐにネットで落として観れることは実にありがたい。
     なかなかそうはいかないのだろうけれど、ほかの作品もこういうふうになってくれると嬉しいですね。
     で、作品内容の話なのですが、結論から書くと、このアニメ、見なくてもいいです(笑)。
     少なくともぼくはそう思う。Amazonなんかだとわりと評価が高いのですが、それはそもそも褒めるような客層しか観ていないからではないでしょうか。
     たぶん、一般の客層が見たら「ぽかーん」となるに違いありません。それくらい初見ではよくわからない感じ。
     もちろん、ちゃんと細部に注目してくり返し見ればある程度は内容の推測ができるのですが、そこまでしたくなるほど魅力のある作品だとはぼくは思えませんでした。
     ぼくの場合、それでも記事を書くため二回続けて観たのである程度は理解できるようになりましたが、初見ではやはり「ぽかーん」でしたから。
     普通はそこで投げるよな。
     よく見ていくと突然に挿入されるカットのひとつひとつに意味があることがわかるのですが、すぐにはそこまで把握できないよなあ。
     ちゃんと一回観ただけで事実関係が把握できるようにしてほしかった。
     いや、お前がもっと注意して観ていればいいのだといわれればそれまでですが、でも、この作品の場合、奇妙な難解さに意味があるようには思われないのですよね。
     もちろん、情報量が膨大だったりすぐには意味が読み取れない映画はいくらでもあります。
     でも、それらのなかで名作と呼ばれるものはわからなくてもわからないなりに面白く観れるように作ってあると思うのです。
     『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』とか、細部は何がなんだかよくわからなくても映像の凄さで一定のカタルシスはあるわけで、やっぱりエンターテインメントはそうでないといけないと考えるのですよ。
     「難解だからダメ」とひと言で切り捨てるつもりはないけれど、この映画の場合、視聴者に対する姿勢が不親切だったなあと思わずにはいられません。
     何か壮大なSF的ヴィジョンがありそうにも思えるのだけれど、視聴者の側で想像力をたくましくしないとそれはわからない。
     いわゆる「脳内補完」と呼ばれる作業が必須なのです。あまりにもよくわからないシーンが頻出するので途中で考えるのをやめたくなるのもほんとうですが。
     この作品、そもそも、 
  • 『ウェブ小説の衝撃』の、ここはほんとに納得いかなかったところ。

    2016-03-06 01:20  
    51pt
     三つ前の記事に対し、「最近、ウェブ小説が流行っているが、一部の人向けの、特定の傾向の作品ばかりが流行っていて多様性がない。けしからん」という構図に持って行きたがっていた記者に対して、ひとつひとつつぶしてゆくQ&Aだということを伏せて、対話のやりとりの一部だけ抜粋して、話を誘導するのは、フェアじゃないと思います。」というコメントが付きましたので、この「抜粋」についてもう少し詳しく解説したいと思います。
     まず、問題になっているのは以下のQ&Aなので、再掲します。公正を期して、前回は中略していた部分も復元しておきましょう(前回中略したのは全文を書き移すのが面倒だったからで、それ以上の意図はありません。念のため)。

    Q. ウェブ発のほうが紙よりウケるとか売れるとかいう以外の軸で、小説の文化的な価値をもっと考えた方がいいんじゃないですか? 売れないけれども文学的な価値の高い「いい本」だってあるでしょう?
    A. もし紙の世界の作家や記者が、出版ビジネスの商売の部分を否定して文化的な価値だけを称揚するのであれば、今すぐ自分の本や雑誌に値段を付けて売るのをやめて、ウェブ小説のプラットフォームにアップして無料で読めるようにしたらいい。「売れなくてもいい」「多くの人に読まれなくても、自分の作品の価値を信じる」という書き手はウェブにもたくさんいる。無料で読めるようにしている時点で、神で値段を付けて売っているくせに「商売よくない! 文化大事!」などと言っている人間よりも、純粋に文化というものを信じていると思う。どうしてタダで広く読めるようにしないのか? どうしてウェブの作品には紙に載っている作品より価値がないような言い方ができるのか?

     こうしてみると、中略しないほうがよりぼくの意見がよりわかりやすくなりますね(中略されていてもわかるとも思いますが)。
     ぼくはこの意見は「Q」に対する「A」になっていないと考えます。「Q」と「A」で話がずれている。
     まず、そもそもここでの「Q」は「文化的な価値」だけが大切で「商売の部分」なんてどうでもいいといっているわけではないと思うのですよね(それ以前にこの「Q」自体、著者が自分の記憶に沿って書き記したものなので、じっさいの記者の考えそのものとはかけ離れている可能性もあるわけですが、それはとりあえず置いておく)。
     この「Q」はただ、どこまでも「商売の部分」を重視する著者に対し、「小説の文化的な価値をもっと考えた方がいいんじゃないですか?」と問うているだけだと考えるほうが常識的だと思えるわけです。
     だから、その意見に対し、「もし紙の世界の作家や記者が、出版ビジネスの商売の部分を否定して文化的な価値だけを称揚するのであれば」という前提で答えていくことはおかしい。だれもそんなことはいっていないわけですから。
     ただ単に「文化的な価値をもっと考えようよ」というだけの意見がなぜかあっさりと「商売の部分を否定して文化的な価値だけを称揚する」意見にすり替わっている。
     また、中略されていたところを元に戻したことであきらかになったように、なぜか突然、「商売よくない! 文化大事!」と叫ぶ架空の人物が登場させられてしまっている。
     だれがそんなことをいっているのでしょう? 少なくとも「Q」からはそんな趣旨は読み取れませんよね。
     だから、ぼくは「そういうことではないでしょう」といったのです。
     「ビジネス」だけを考えるのではなく、「文化」だけを考えるのでもなく、「ビジネス」と「文化」の両方を考えていくことが大切なのではないか、と。
     これに対して、もし仮に「いや、ビジネスだけが重要で、文化など重要でないのだ」という答えが返って来るとしたら(じっさいにはそこまではいわないでしょうが)、それは「文化」だけを重視し「ビジネス」を軽視する考え方をそのまま裏返しただけの思想に過ぎないとしかいいようがありません。
     だから、ぼくは「「文化」と「ビジネス」はいわば鳥の両翼です。文化なくしてビジネスが栄えつづけることなく、また、ビジネスなくして文化が花ひらくこともない。両方が大事なのです。「こんなに売れているのだからいい作品に決まっている」というのでは、「いい作品」の条件の片方しか満たしていません。」と続けるのです。
     おわかりいただけるでしょうか。
     ちなみに、同じQ&Aのほかの部分になりますが、「特定のタイプの、程度が低いくだらない作品ばっかり流行っていて、作品の多様性がないんじゃないかと思うんですが、どうなんですか?」という質問に対し、「流行りがあること、流行りに乗っかった作品が目立ち、そうでない作品が埋もれがちなのはウェブ小説に限らず、どのジャンルのエンタメでも起こっていることにすぎない。それをもってウェブ小説を断罪するのであれば、規制の紙の小説も同様に批判すべきである。(後略)」と答えているやり取りもずれていると思います。
     「くだらない作品ばっかり流行っているんじゃないの?」という問いに対して「流行りはどのジャンルにもある」と答えるのは、あきらかにずれているでしょう。意図的にやっているんじゃないかと邪推したくなるくらいです。
     もし著者が真にウェブ小説の価値に自信を持っているのなら、ストレートに「くだらない作品ばっかり流行っているなんてことはない。素晴らしい作品が多い。」と答えればいいところですからね。
     可能性として想定できるのは、著者自身、内心では「程度の低いくだらない作品ばっかり」という意見を否定しきれないと考えているということですが、真相はわかりません。
     しかし、どうやらこの「Q&A」では「「最近、ウェブ小説が流行っているが、一部の人向けの、特定の傾向の作品ばかりが流行っていて多様性がない。けしからん」という構図に持っていきたがっていた記者およびその上司の思惑」を潰し切れているとはいいがたいようです。ぼくはそう考えます。 もうひとつ念のために付け加えておくとしたら、ぼく自身は「くだらない作品ばっかり」とは考えていません。
     では、何か異論があったら、どうぞ。 
  • 熱論再び! 『幸せになる勇気』があなたを啓発する。

    2016-03-06 00:20  
    51pt

     日本と韓国の双方でミリオンセラーを記録した名著『嫌われる勇気』の続編『幸せになる勇気』を読みました。
     前作はぼくにとって十年に一度ともいうべき傑作だったわけですが、それに続く本作の出来はどうか?
     よくあるベストセラーの二番煎じに過ぎないのか? ありふれた商業主義の果実でしかないのでは?
     否、否、否。本作も前作に引き続いてきわめて刺激的な議論が続き、まさに「勇気の二部作」完結編の風格を示しています。
     というより、前作と合わせて二冊で一冊の作品と考えたほうがいいでしょう。
     前作を読んで消化不良だった人も、本作を読む価値はあります。
     なぜなら、この本では『嫌われる勇気』を読んだひとが疑問に思うかもしれないところが逐一解説されているからです。
     前作で友情を誓って別れた「青年」と「哲人」はこの本で再開し、再び議論を開始します。
     はたして目くるめくロジックのたどり着くところはどこなのか? 前作を味わえた人なら本書も楽しめること間違いなしです。
     そもそも『嫌われる勇気』には、日本ではもうひとつ知名度が低いアドラー心理学の入門書という側面がありました。
     時代に100年先んじているという「自己啓発の源流・アドラーの教え」を、アドラー研究者である「哲人」とかれの思想に疑問を抱く「青年」の対決という形で描くという卓抜なアイディアは、いま考えても素晴らしい。
     結果としてはアドラーの常識を超越した思想を伝えるためにこれ以上の形式はなかったといっていいでしょう。
     「結果としては」と書くのは、いままでの出版の常識ではこのような形式は想定されていないから。
     小説でもなく、物語でも、実録でもなく、「対話篇」ともいうべきこの独特のスタイルは、一切の出版上の思い込みを排したところで生まれたのだと思います。まさにアドラーの思想そのもののように。
     それでは、『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』全二冊を通じて語られたアドラーの教えとはどんなものなのか。
     それは「心理学」と名付けられているものの、ギリシャ哲学の正嫡ともいうべき剛健な思想です。
     常識を疑い、あたりまえのことに逆らうきわめてオリジナリティの高い考え方。
     世界的にはフロイトやユングと並び称されているというアドラーの哲学は、『嫌われる勇気』のなかできわめて明快に解説されていました。
     ひとは他者から嫌われる勇気を持つことによって自立することができるということ。
     自分と他人の「課題」は分離しなければならないということ。
     そして、人間は過去のトラウマに縛られるような弱い存在ではないということ。
     いずれも現代の一般知識からすれば非常識ともいうべき発想です。
     しかし、それらすべては「哲人」その人によってとてもわかりやすく解説されたのでした。
     そして、「哲人」を論破するべくかれの家を訪れた「青年」も納得して去って行ったのです。
     ところが、 
  • 待望の『コードギアス 亡国のアキト』最終章に残念な気もち。

    2016-03-03 22:23  
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     映画『コードギアス 亡国のアキト』最終章が配信されていたので、ダウンロードして観ました。
     見たのですが――うーむ、どういったらいいだろう、まあ、正直にいうしかないのですが、これがかなり期待外れの出来。
     第四章までは楽しく見ていたのだけれど、この最終章はどうにも苦笑いの連続になってしまいました。
     ど、どこで狂ったのだろう。おっかしいなあ、第一章のときは傑作になる予感しかしなかったのだけれど、終わってみると紛うかたなき雰囲気アニメ。
     「なんとなくそれっぽいセリフ」と「よく考えると無茶な行動」が続き、まったく納得がいかないままに終わってしまった感じです。
     あまり批判的なことばかり書くのは気が引けるのだけれど、この最終章はさすがに評価できないかな、と。
     ほんとうにどうしてこういうことになってしまったのだろう。
     ツッコミどころがひとつふたつある程度でどうこういうつもりはありませんが、それにしてもロジックが通らない物語だったように思えます。
     最後の最後でここまで評価が下がるアニメを見たのはひさしぶり。
     ずっと楽しみに追いかけてきたシリーズだけに、とにかく残念です。
     もちろん、作品の評価はひとによって異なっているわけですが、少なくともぼくは肯定的な評価を下せなかった。
     あいかわらずアクションは迫力があるのだけれど、肝心のシナリオがここまで勢いまかせだと、一本の映画として高く評価することはむずかしいです。
     ちょっとネタバレすると、この映画、最後まで主人公陣営はだれひとり死なないんですよね。
     敵はわりとあっさり死んでいくのだけれど、味方はことごとく死線を超えて生き残り、べったべたのハッピーエンドになってしまう。
     まあ、悲劇が良いとは一概にいえませんが、まさか前回死亡フラグが立っていたユキヤきゅんまで生き残るとは。
     ちょっと意外過ぎてどうなの?と思ってしまいます。
     もちろん、ひとが死ねば戦場のリアルを表現できていることになるというものではないのはわかっています。
     しかし、このエンディングはやっぱり甘すぎるように思う。
     結局、どこらへんが「亡国の」アキトだったのかよくわからない。
     国を失ったイレブンたちの漂白は最後までべつに描かれないで終わっちゃいましたからね。
     第一章の思わせぶりな展開はなんだったんだろうと思ってしまいます。
     ほんと、