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2015年9月の記事 12件

漫画版『無職転生』が至上の完成度。

 漫画版『無職転生』最新刊を読み終わりました。  あいかわらず素晴らしい出来ですねー。  「小説家になろう」で抜群の人気を誇る有名作の漫画化です。  ある事件をきっかけにしてひきこもりになった男が異世界に転生して、今度こそ本気で生きようと決意するというお話なのですが、この漫画版は原作を忠実に再現しています。  もっとも、原作の内容をそのままデッドコピーしているわけではなく、かなりエピソードの取捨選択が行われてもいます。  この巻では主人公のルーデウスにとって最初の「ターニングポイント」まで話が進むのですが、コンパクトに構成しなおされた展開が非常に美しい。  この調子だとかなり先まで話が進むかも、と思わせられます。  さすがにラストまで全部描き切るのはむずかしいだろうけれど、後半まで描くことはできるのでは。  ちなみに主人公の人生にとってターニングポイントにあたるエピソードを、そのまま「ターニングポイント」と題してしまうのは『無職転生』の発明ですね。  この「ターニングポイント」ではいつもルーデウスの人生が根本から揺り動かされるような事件が起こり、物語はドラマティックに進展します。  この第一の「ターニングポイント」は特に過激で、ルーデウスのそれまでの人生は根こそぎ破壊されてしまいます。  守るべきものはただひとり、傍らの少女エリスのみ。しかし、そのエリスを守って旅を続けることは至難。さて、そんなルーデウスの前に現れる男は何者なのか――?  原作を読んでいる人にしてみれば自明な話なのですが、非常に盛り上がる展開となっています。  この「どんなに幸せを積み上げても一瞬で覆される」という感覚は『無職転生』のオリジナリティですね。  あとで書きますが、これあっての『無職転生』という気がします。  漫画版はまだ序盤ではありますが、原作のサスペンスをうまく再現していますね。  まあ、とにかくこの漫画版は非常にうまくできていて、第1巻及び第2巻のときも感心した記憶がありますが、続くこの第3巻は輪をかけて高い完成度を示しています。  ルーデウスの日常を描く合間にロキシーの冒険がインサートされたりとか、とてもとても洗練された印象。  最近、小説や漫画を読んでも「面白い」より先に「うまい」という言葉が出て来ることが多くなったぼくですが、この作品もとにかくうまくできていると感じます。  もちろん、原作の物語の素晴らしさがあってこそですが、この序盤は『無職転生』全編のなかでも殊の外完成度が高い下りなので、こうも巧みに漫画化されたことはいち読者として嬉しいです。  以前にも書いた記憶がありますが、この『無職転生』という物語の面白さはひとつにはその「優しさ」にあると思います。  「ひとを裁かない優しさ」。 

漫画版『無職転生』が至上の完成度。

『封神演義』の藤崎竜、『銀英伝』を再度漫画化!

 田中芳樹『銀河英雄伝説』が藤崎竜の手で漫画化されるそうですね。  日本を代表するスペースオペラの名作を『封神演義』の作家が手がける。  期待は高まるばかりですが、さて、どんな出来になることやら。  ぼくは25年来の田中芳樹読者にして、『PSYCHO+』からのフジリューファンなので、どういった仕上がりでも受け止める覚悟はできています。どんと来い。  それにしても、『アルスラーン戦記』の漫画化&アニメ化といい、往年の田中芳樹作品の再ブームがいままさに来ていますねー。  30年前の作品がいま最先端のエンターテインメントとして堂々と通用してしまうその普遍性の高さには驚かされるばかり。  『アルスラーン』にしろ『銀英伝』にしろ、ちょっと意匠(キャラクターデザインとか)を変えただけで十分に現代の作品として読まれてしまうんだよなあ。  ここらへん、5年も経つと時代遅れになってしまう傾向がある一般のライトノベルとは格が違うかも。  まあ、『アルスラーン』はともかく、『銀英伝』はさすがにSF設定等々が古びてしまっていると思うので、そこらへん、適当にリファインして「いままで見たことがない『銀英伝』」を見せてほしいところです。  この小説はすでに再来年にふたたびアニメ化することも決まっていて、そちらのほうも気になります。うーん、凄いなあ。  いまさらいうまでもないことですが、『銀英伝』は一度、道原かつみさんの手で漫画化されています。  こちらも出来は良いのですが、何しろ遅筆寡作の方なので、『銀英伝』のような大長編を手掛けることに無理がありました。  その点、フジリューさんには『封神演義』や『屍鬼』を完結させてきた実績があるので、最後まで描き切れるのではないでしょうか。  SF的なセンスもちゃんと持ち合わせている作家さんだしなあ。  意外な組み合わせながらけっこういけるんじゃないかと推測。  だれがマッチングしたのか知らないけれど、偉い偉い。  あとは思想的なところをどう演出しなおすかですね。  30年前とはやっぱり政治状況が異なっているわけで、そのままの展開をすると古びて見えると思う。  少なくとも民主主義のシステムを至上視し、そのために血を流すヤン・ウェンリーはより悪役っぽく見えて来るのではないか。  まあ、それはそれで一興ですし、原作にたびたびの再解釈を許す奥深さがあるからこそいまなお極上のエンターテインメントとして通用しているということもいえるでしょうが。  いや、なんといっても 

『封神演義』の藤崎竜、『銀英伝』を再度漫画化!

作家は面白い物語を生み出すため非情に徹しなければならない。

 前々回の記事「なぜ作家は衰えるのか。」の続きです。  あの記事は、結局のところ、作家は歳とともに「窮屈さ」に耐えられなくなっていくから衰えるのだという話でしたが、それではその「窮屈さ」の正体とは何なのか話したいと思います。  作家を縛る「窮屈さ」。それは結局、エモーション(感情)に対するロジック(論理)の束縛だとぼくは思います。  つまり、作家は自分の内なるエモーションに従って作品を書こうとするけれど、良い作品を書くためには精緻なロジックに従う必要がある。  そこで湧き上がるエモーションを管理しつづける作業は窮屈だといえます。  その窮屈さがしだいに耐えられなくなっていくというのが「作家衰退」の真相なのではないかと。  もちろん、エモーションそのものが枯れ果ててしまうこともありますが、そういう人は大抵が作家を辞めてしまうので「衰えた」という印象は与えない。  やはり問題はエモーションの暴走をどう止めるか、というところにある。  ここでむずかしいのは、作家本人にとってはエモーションが暴走している状態のほうが楽しいということです。  あるいはロジックという窮屈な枷のなかで書いているより、面白いものを書けているという実感を持てるかもしれない。  しかし、ぼくが岡目八目で見る限り、やはりエモーションを優先させすぎた作品はダメですね。  なんというかこうキャラ愛あふれる同人誌みたいなものになりがちです。  そう――ロジックによって管理しなければならないエモーションの第一が「愛情」なんですね。  キャラクターに対する、あるいは物語に対する愛情を的確にコントロールできなければ、面白い物語(「読者にとって」面白い物語)は作れない。  このあいだ、Twitterで話していて偶然、椎名高志『ゴーストスイーパー美神極楽大作戦‼』の「ルシオラ事件」の話になりました。  いまとなっては「ルシオラ事件」について知っている方のほうが少ないかもしれませんが、ようはこの漫画の脇役のひとりであるルシオラというキャラクターが人気が出すぎてしまい、また作者が愛着を抱きすぎて物語が破綻しかけるところまで行ってしまったという「事件」です。  最終的には一応、ルシオラは物語から退場して終わるのですが、かなり苦し紛れともいえる結末に多くの読者は不満を抱きました。  これなどは物語空間に横溢するエモーションを冷徹なロジックによって管理し切れなかった典型的な一例だと思います。  ルシオラなー。可愛いんだけれどなー。  でも、そのおそらく作者にとっても可愛い、愛しいキャラクターを、作劇のための「駒」として割り切る視点がなければ面白い物語は書けないのです。  シナリオメイキングとは 

作家は面白い物語を生み出すため非情に徹しなければならない。

『ベイビーステップ』の説明できない作劇術。

 勝木光『ベイビーステップ』を読み返しています。  第1巻から始めて、いま、第20巻くらい。全日本ジュニアの全国大会が始まったあたりですね。  あらためて読み返してみると色々気づくことも多いわけですが、今回特に思ったのは、作劇の方法論がほんとうに独特だな、ということ。  通常のスポーツ漫画とストーリー展開の方程式が異なっている。非常にオリジナリティが高い。  通常のスポーツ漫画の代表格として、たとえば『スラムダンク』を挙げたいと思いますが、『スラムダンク』と『ベイビーステップ』の作劇を比較してみると落差が露骨にはっきりしています。  『ベイビーステップ』のほうが変わっているんですよ。  いまさらいうまでもないことですが、『スラムダンク』の全体の構成は非常に美しく完成しています。  各試合が過不足なく描き込まれ、日本最強の山王工業への勝利で終わるという流れ。  主人公桜木花道は全体を通し一貫して成長していて、その頂点で物語そのものが完結します。  なんて素晴らしい。  しかし、逆をいうなら、あまりに美しくできているからこそ次の展開は予想しやすいということもいえるわけです。  すべてが「物語的必然」に沿ってできあがっているわけで、たとえば湘北が突然無名の高校に負けてしまうなんてことは起こりえない。  『スラムダンク』の展開は厳密な「漫画力学」にきれいに従っているということもできるでしょう。  しかし、『ベイビーステップ』は違います。  主人公であるエーちゃんがだれに勝ち、だれに負けるかが「物語的必然」で決まっていないように見える。  もちろん、適当に決まっているはずはないのですが、エーちゃんの試合結果は「漫画力学」とはべつの理屈でもって決まっているように思えます。  予想外のところで勝つこともあるし、負けることもありえる。  なぜそこで勝ち、負けるのか、「そのほうが面白くなるから」という理屈では説明できない。  読者から見れば非常に先が予測しにくい漫画といえます。  まあ、読者の予想を先読みしてあえて外しにかかる漫画ならほかにいくらでもありますが、『ベイビーステップ』の作劇はそれとも違う。  どういえばいいのか、「こうなれば面白いはず」という期待をかなりの程度、無視しているようなのです。  典型的なのが 

『ベイビーステップ』の説明できない作劇術。

なぜ作家は衰えるのか。

 ぼくは小説であれ漫画であれ映画であれ、物語と名の付くものが大好きな人間なのですが、それだけに物語の良し悪しについてはうるさいところがあります。  で、常々疑問に思っていることが、「若い頃、非常に優れた作品を作っていたクリエイターが、歳を取ると衰えるのはなぜだろう?」ということです。  なぜも何も、加齢とともに能力が衰えるのは一般的なことかもしれませんが、それにしても時とともに成長していける作家の少なさは恐ろしいものがあるように思えます。  決して才能がないわけではない、十分に優れた素質を備えているように見え、またじっさいにそれなりの実績を示した作家たちですら、時が過ぎると作品のクオリティを落とすように見える。これはいったいなぜなのか。  まあ、ぼくは作家ではないからほんとうの答えはわからないのですが、ひとつ考えがあります。  それは結局、やっぱりどこかで力を抜いているからじゃないかということです。  もちろん、本人は手抜きをしているつもりはないんだろうけれど、無意識にせよどこか楽をしちゃっているんじゃないか、というのがぼくの予想。  というのも、物語を構成するということは、本質的に窮屈なことだと思うのですね。  少なくとも、書きたいことをただ書きたいように並べていけばいい、というものではない。  その物語のオープニングやクライマックスやエンディングを効果的に演出するための緻密な計算が必要なのです。  この計算が、歳を取ると面倒になって来るんじゃないかな、とぼくは思ったりします。  もちろん、真相はわかりませんが、大作家の全集なんかを見ていると、後期の作品ほど大長編が増える傾向があると思うんですよね。  これはやはり物語を圧縮する能力が下がるせいなんじゃないかと。  ごく常識的に考えて、巨匠と呼ばれて好きなものを好きなように書いてもだれにも文句をいわれなくなった作家が、なお、自分の作品を窮屈な公式にあてはめて書こうとするかというと――自分はもう奔放に書いても大丈夫だ、と思ってしまうんじゃないか、と予想したりします。  でも、物語を自由奔放に書くのって、やっぱり致命的だと思うのですよ。  あるいは、それでも傑作を書けてしまう天才はいるのかもしれない。  でも、それはやはり意識下できちんと計算をしている結果なんじゃないか。  「ただなんとなく書きたいように」書くのではやはりダメなんじゃないか。そう思います。  ただ、ね、たぶん物語を作っているほうとしては、奔放に作りたいものを作っていくほうが楽だし、気持ちいいと思うのです。  構成なんていう頭を使う面倒な作業は避けて、そのぶん、存分に想像力を働かせて壮大な物語を考えることのほうが、楽しいと感じる人が多いんじゃないかと。  歳とってそういう楽しさに目覚めてしまうと、やめられないんじゃないかなあ、と想像します。  でも、そういう作家が書く作品は、作家自身は楽しんでいても読むほうとしてはあまり面白くないものに仕上がったりするわけです。  書き手が楽しければそれは読み手に伝染するものだ、といういい方をする人もいますが、それはたぶん半分しか正しくない。  作家が真剣に物語を楽しんでいればそれが読者に伝わることはたしかですが、作家が気楽に書けば読者も楽しくなる、というものではないのです。  べつに苦しみながら書くのが正解だとはいわないけれど、たとえば囲碁や将棋で正着、つまり「たったひとつの正しい一手」を見つけ出す作業が苦しいとすれば、物語を書くことも同じように苦しいでしょう。  しかし、その作業を超えないとどうしたって印象的な物語は書けない。  物語とは「山あり谷あり」だからこそ面白いものなのであって、延々と山が続いたり、あるいは谷ばかりだったりしては良くないのです。  だから計算が必要になる。一種の建築ですね。そのようにして作られた物語を、ぼくは「美しい」と形容します。  そのような美しい物語を作る能力はやはり若い頃のほうが高い傾向がある、例外はあるにせよ、ということです。  残念ではありますが、それが現実なのではないでしょうか。  ただ、ですね。これをいいだすとまた長くなるのですが、このような思想に対し、「べつに冗長でもいいじゃん」、「同じことの繰り返しでもかまわないじゃん」という思想はありえます。 

なぜ作家は衰えるのか。

伏見つかさ『エロマンガ先生』の神がかった完成度にいまさらながら驚く。

 伏見つかさ『エロマンガ先生』の最新刊を読みました。  ベストセラーになった代表作『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』に続く新シリーズであるわけですが、前作に負けず劣らず面白いです。  始まったときは「ちょっと守りに入っているんじゃないの?」などと思っていたのですが、なかなかどうして、ここまで堅実に続けられると降参するしかない。  圧倒的な完成度に全面降伏です。  『エロマンガ先生』の主人公は高校生ライトノベル作家。  そこそこ才能があり面白いものを書いてはいるものの、あまりヒット作には恵まれていないという状況。  かれには義理の妹がひとりいるのだけれど、自室にひきこもって出てこない。  ある日、ささいな偶然から、その妹が自作に絵を付けてくれているイラストレーター「エロマンガ先生」であることがあきらかとなるのだが――と話は進みます。  人気作家やらイラストレーターがことごとく中高生であるあたり、荒唐無稽といえばそうですが、ライトノベルとしては十分に「あり」な設定でしょう。  偶然にも、というか必然なのかもしれませんが、平坂読が同時期にやはりライトノベル作家を主人公にした『妹さえいればいい』を書いています。  ぼくはどちらも好きなのですが、じっさい読み比べてみるとかなり作家性の違いを感じます。  ネタがかぶったりしているから非常にわかりやすい。  あえていうのなら、『妹さえいればいい』はわりに現実的な年齢の作家を主役に据え、徹底的にディティールに凝って見せているのに対し、『エロマンガ先生』は完全にファンタジーに走っている印象がある。  いや、もちろん『妹さえいればいい』も非現実的な話ではあるのだけれど、そこにはひとさじの「毒」が垂らしてあって、奇妙にリアルに思えてくるのです。  まあ、『エロマンガ先生』に毒がないわけでもないけれど、その毒は慎重に量が測られていて、決して一定のレベルは超えないよう調整されている、という感じを受ける。  根本的に世界がひとに優しいというか、あまりひどいことが起こらないよう守られている世界なのだと思うのです。  いや、物語の始まる前には交通事故で主人公の義母が亡くなっているので、何もかも幸福な世界、というわけではない。  それなりに一定のリアリティに配慮が行われているのはたしかなのだけれど、それでも登場人物がみないい人で、深刻な裏切りがないという意味で、牧歌的な世界ということができると思います。  それを指して、甘ったるいファンタジーに過ぎないという人はいるかもしれません。  しかし、作者はこのファンタジーを成立させるためにどれほど繊細な努力をしていることか。  それはなんというか、ほとんどジャック・フィニィあたりのファンタジー小説を思い起こさせるほどなのです。  いや、ぼくもみんなが幸せで、みんなが互いに思い合っていて――というのは、やはりウソであるとは思うんですよね。  でも、 

伏見つかさ『エロマンガ先生』の神がかった完成度にいまさらながら驚く。

「普通の顔」を喪うことをリアルタイム体験中だよ!

 ども、海燕です。  いま、ぼくは全身脱毛症で困っています。  全身脱毛症というのはぼくがかってに見立てた病名に過ぎませんが、じっさい全身の毛という毛が抜け落ちているのだから全身脱毛症といってもいいでしょう。  初めは頭部の軽い円形脱毛症から始まったのだけれど、いまでは眉毛やまつ毛もほぼ抜け落ちているし、腋毛やすね毛もほとんど抜けてしまいました。  きのう、皮膚科へ行って招待状書いてもらったので、きょう大学病院で検査してもらって来ます。またお金がかかるなあ。ぐぬー。  しかしまあ、こういう病気にかかると、やっぱり「なんでおれだけが」という気分になりますね。  じっさいにはぼくだけじゃないし、ぼくよりずっと深刻な病気の人もたくさんいるのだけれど、そういう正論に対しては「あー、あー、きーきーたーくーなーいー」と耳をふさぎたくなる。  ぼくの場合は肉体的苦痛があるわけではないので、本人が気にしなければそれで終了なのだけれど、髪の毛はまだしもまつ毛まで抜けるとなると、さすがにストレスが大きいわけです。  検索してみると同じような症状で悩んでいる人は大勢見つかる。  ぼくはいいかげんおっさんだからまだいいけれど、これが年頃の女性だったりすると辛いであろうことは容易に想像できます。  「ひとと違う顔」を持っているということはただそれだけで生きづらいことなのです。  ぼくはべつにそこまで気に病まないけれどねー。うん、さすがにちょっと辛いけれど、まあ、べつにもとからイケメンだったわけでもないしな。  ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、いまから何年か前、『ジロジロ見ないで “普通の顔”を喪った9人の物語』という本が出ています。  これはそれぞれの理由で「普通の顔」をなくした9人の人物に取材した本で、初めて読んだときはそれはそれは大きなインパクトがありました。  ああ、「普通の顔」をなくすということはなんと辛いことなのだろうと衝撃を受けたのです。  しかし、それから何年か経っていまぼく自身もほぼ同じ状態になってしまったわけなのですが、「ユニークフェイス」の当事者となったいま、顔の問題が人生を決するほど大きいとはやはり思いません。  結局、当人の受け止め方しだいなんですよね。  ぼくの場合、とりあえず顔面の毛はほぼすべて抜け落ちましたが、それでひとの目が気になるかというと、まったく気にならない。  そういう意味ではぼくはたぶんあまりひとの目が気にならない人なのだと思います。  特にジロジロ見られているとも感じないし、差別的な扱いを受けたわけでもないし。  これが会社勤めだったりするとまた違うのかもしれませんが、そこは気楽なフリーランス。  まあ、せっかくなので普通の人が体験できないであろう状態を味わっています。  いくらかストレスになっていないというとウソになってしまうし、「香港映画の悪役みたいな人相になってしまったなあ」と思わんこともないけれども。  ちなみに『ジロジロ見ないで!』に出て来る脱毛症の女性は、撮影終了後、自殺されたということです。 

「普通の顔」を喪うことをリアルタイム体験中だよ!

シンデレラの魔法が解けないように。滑稽なまでの真剣さだけがひとの心を打つ。

 高河ゆん『REN-AI』の文庫版が発売されました。  否、しばらく前に発売されていたことにいまようやく気づきました。  愚かにもいままで気づかなかったということですね。  ともかくなんとか気づいたので即座に購入しました。  ぼくはこの漫画が好きで好きで好きで――ほかのどの漫画よりも好きだといっても過言ではないくらいです。  単に高河ゆん全盛期の最高傑作のひとつというだけではなく、個人的にものすごく相性がいい作品なのですね。  あえて順位を付けることにどれほどの意味があるかはわかりませんが、もしランキングするならぼくの漫画人生における堂々の首位ということになります。  それほどまでにぼくはこの作品を高く評価しているわけです。  ところが、どこがそんなに良いのか? 面白いのか? というと、これがよくわからない。  じっさい、ぼくがこの漫画を薦めた人たちは大抵、微妙そうな態度を見せます。  それほど面白いと感じないらしいのですね。  とはいえ、ぼくは直感的に「これはすごい」と感じましたし、自分の感覚には確信があります。  ぼくがすごいと思った以上、すごい漫画であるはずなのです。  しかし、初めて読んでから十数年経って、最近ようやくこの作品のすごさを言語化できるようになって来ました。  『REN-AI』という作品の魅力、それは一にも二にもその「圧倒的な真剣さ」にあるのだと。  この漫画の物語は主人公の少年があるアイドルの少女に恋をするところから始まります。  それも、どこかで偶然出逢って恋をするとかではない。テレビ画面のなかの彼女を見て、それだけで熱烈な恋に落ちてしまうのですね。  そして、かれは彼女の心を射止めるために自分もひとりのアイドルとして芸能界に入っていきます。ほんとうは芸能界にもアイドルにもなんの興味もないのに。  常識で考えたらありえないというか、異常な展開ですよね。  もちろん、テレビ画面のなかのアイドルに恋をする男はいまも昔も大勢いるけれど、だからといって本気でアイドルと恋愛できるなどと考える奴はいない。  もしいたとしたら「痛い奴」でしょう。  しかし、この主人公、田島久美は不可能な恋を実らせるためにあくまで真剣に行動するのです。  フィクションの筋書きとはいえ、あまりにあまりの話といえばそうなのですが、これが面白い。  なぜ面白いのか。結局、「本人が真剣だから」としかいいようがありません。そしてきわめて大切なことに、作家も真剣なのです。  ぼくはそういう真剣な話が好きです。というか、真剣な話しか読みたくない。  どれだけばかばかしく見えようとも、真剣な作品にはすごみがあります。  もちろん、的を外していればただ滑稽でしかないのですが……。  そう、真剣な作品を書くということはある種のリスクを引き受けることでもある。  真剣な作品を書くとき、ひとは「言い訳が利かない」のですね。  わかってもらえるでしょうか。「こんな恥ずかしい作品をあえて書いてみました」という逃げの態度を取るなら、そこにはいくらでも「言い訳の余地がある」わけです。  たとえほんとうに失敗したのだとしても、「わざとそういうふうに見えるようやったのだ」といいこしらえることが可能なわけですね。  ですが、何もかも真剣な作品ではそういうわけにはいきません。  「こんなのが恰好いいと思っているのかよ」といわれたら、作家は「そうだよ。これを格好いいと真剣に思っているよ」と答えることしかできないでしょう。  真剣な作品を書くとは、揶揄や嘲弄や、そういったものに晒されたときも、真剣に受け止めなければならないということなのです。  それを避けるためには、ほんの小さじいっぱい、知的な素振りを入れてみせればいい。  「わかっているよ」、「ほんとうは何もかも自覚していて、その欠点も恥ずかしさも了解していて、その上でやっているのだよ」というインテリジェントな批評性を作品に盛り込めばいい。  ただそれだけで、その作品の「防御力」は各段に上がることでしょう。  いつの頃からか、そういう作品がとても増えたように思います。 

シンデレラの魔法が解けないように。滑稽なまでの真剣さだけがひとの心を打つ。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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