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タグ “議論” を含む記事 6件

究極の異世界ファンタジーとは。

 山本弘さんが「現代日本の異世界ファンタジーの多く」を批判的に語って話題になっているようです。 http://togetter.com/li/952223  いきなりですが、この意見が、炎上とは行かないまでも賛否を呼ぶ背景には、わりと典型的なディスコミュニケーションの問題がある気がしてなりません。  というか、ある意見が非難を集めるときは、しばしばそこに何かしらの誤解が生じていると思うのですよ。  これは非常にむずかしい話ではあるとも考えるのですが、だれかの意見を理解しようとするときには、ただ言葉の表面だけを追っていけばいいというものではなくて、その奥底にある「その人がほんとうにいいたいこと」を慎重に探っていかなければなりません。  しかし、それと同時に、かってに憶測をたくましくして、その人がいってもいないことをわかったと思ってはいけないのです。  この一見矛盾する条件を満たそうと努力することが「読む」ということなのであって、ただあいまいな印象だけを受け取るとそこに誤解が生まれます。この場合もそのパターンだと思う。  論者である山本さんとそれを批判するほうで、認識にずれが生じている可能性が高い。  ぼくはこういうやり取りを見るたびにもう少しどうにかならないかなあと思うのです。  情報を発信する側と受け取る側のどちらに責任があるともいえないし、またどちらにも責任があるともいえるというケースだと思うのですが、責任の所在はともかく、あまりにも話が不毛すぎる。  だれもが自分だけは正しい、自分だけは正確にひとのいわんとするところをわかっていると思い込んでいて、結果として誤解が広まっている。  このパターンを、いったいどれくらい見てきたか。  ネットで「議論」とか「論争」と呼ばれているものの正体は、大抵が放置されたディスコミュニケーションに過ぎないのではないかと思うくらいです。  こういうやり取りを見ていると、簡単にひとのいわんとするところを理解したつもりになってはいけないのだなあと思いますね。  もちろん、ぼく自身、山本さんのいわんとするところをわかっていると思ってはいけなくて、誤解が生じていると思うこと自体が誤解なのかもしれませんが……。  それはともかく、「どうも現代日本の異世界ファンタジーの多くは(もちろん例外もあるが)、「異世界」じゃなく、「なじみの世界」を描いてるんじゃないか」という意見は、ある程度は正しいものだと思われます。  山本さんは作家ひとりにつきひとつの世界があってもいいという前提で考えているわけで、それに比べれば「現代日本の異世界ファンタジー」の多くはよりシンプルに規定された世界を描いているに過ぎない、これは想像力の貧困じゃないか、という指摘は、まあありえると思う。  問題は 

究極の異世界ファンタジーとは。

妥協なき不毛な議論を乗り越えるために。

 ちょっと興味があるので、原発とエネルギー問題について書かれた本を探し出しているのだけれど、Amazonのレビュー欄がみごとに政治的闘争の現場と化していて役に立たない。  正直、実物を読まなくては何が正しく何が間違えているのか判断できないので、自分で書店なり図書館へ行って本を探すことにしたいと思う。  電子書籍で入手できればそれがいちばん楽なのだが、そういうわけにもいかないようだ。  余談だが、最近は物理書籍が邪魔に感じて仕方ないので、電子書籍以外の本をほとんど買わなくなっている。  出版社の人には物理書籍と同時に電子書籍を出版するよう努力したもらいたいものだ。余談終わり。  さて、個人的な意見を述べるなら、原発を巡る「議論」は、絶対正義と絶対正義の対決という印象で、不毛そのものといった様相を呈しているように思う。  タバコを巡る論争と同じ現象が、さらにいびつな形で起こっている感じ。  ぼくはこういう議論を「ハルマゲドン型」と呼んでいる。  聖書にある最終戦争のごとく、絶対に譲らない善悪の戦いであるかのような論争という意味だ。  ハルマゲドン型の議論は、永遠に進展することなく、ただ互いが互いに向けて自分の主張を延々と投げつけ続けるだけに終わる。そこに妥協の余地は一切ないのだ。  したがって、ハルマゲドン型論争はいつも限りなく無意味である。  議論とは普通、より正しい結論を導き出すために行うものだろう。  しかし、ハルマゲドンと化した議論はいつまでも平行線をたどるばかりでいかなる結論も出ないのだから、労力の無駄遣いというしかない。  もちろん、その議論を行う両者は、やり取りの不毛さはすべて相手側の愚かしさと無理解に起因すると考えるわけだが、お互いに心からそう思っているのだから世話はない。  ハルマゲドン化した時点で、その議論には未来がないのだ。  もっとも、ハルマゲドン型論争にも主観的な勝利なり決着はある。  この種の論争が終わるときがあるとすれば、それはどちらか一方が相手に対し勝手に勝利宣言した時である。  その時点をもって議論は決裂という形で終結を見る。  そのような形の終結を見ない限り、この「議論」は、多くの場合、果てしない嫌味と皮肉と決めつけと揚げ足取りの応酬という形で続いてゆく。  まるでよりうまく嫌味をいえたほうが勝利者だと決まっているかのように。  大人とは、ひとより誠実に言葉を選べる人をいうのであって、他人を皮肉るのがうまい人のことではないのだが……。  とにかくまあ、「自分は絶対に正しくて、相手がバカ」だと考える類の「自分は賢いので絶対にバカなミスはしないと思い込んでいる人たち」の繰り広げる「議論」とは、おおむねこのようなものである。  場合によってはじっさいにどちらかが正しく、どちらかが間違えているのかもしれないが、それにしてもその議論に価値があるとは思われない。  絶対対絶対の不毛を乗り越えるためには、問題の結論が絶対正義ならぬ灰色の領域に属していて、100パーセント自分が正しいとはだれにもいえないという認識が必要である。  「議論」とは、それに参加する両者がこの「グレイゾーン思考」を備えていて初めて、有効になりえる可能性を持つ。  もちろん、正か否か、完全に割り切ることができる問題もあるだろう。1+1は、いついかなるときも普遍的に2であって、3にはならない。  しかし、 

妥協なき不毛な議論を乗り越えるために。

熱い議論が不毛に終わるたったひとつの理由。

 ふと思ったこと。  よく同性愛者は異常だという人がいる。ネットを検索してみるとたくさん見つかるだろう。  いまの常識から見ればそれは間違えた意見であるわけだが、そういう人と「議論」をしても相手の考え方を変えることは困難である。  というか、何らかの信念を抱いている人と議論をしてその人の考えを変えようとすることはいずれも不可能に近いくらいむずかしいと思う。  なぜだろう?  それは、ようするに「言葉」とか「理屈」の次元で話をしているからだと思う。  もちろん、議論は「言葉」で交わすよりないわけだが、そうやっていくら「言葉」を重ね、「理屈」を丁寧に説明しても、ひとの心は変わらない。  なぜなら、ひとはほんとうは「言葉」や「理屈」でものを考えたりしていないからである。  ほんとうは「心」ですべてを判断していて、その「心」を納得させるために「言葉」を生み出しているに過ぎないのだ。  いわば「心」は基地で、「言葉」はその先兵である。  だから、いくら「言葉」で相手を論破したところで、相手の「心」を変えない限り、ほんとうにその人を説得したことにはならない。  同性愛者を嫌う人は、同性愛が異常である理由を、十でも百でも並べ立てるだろう。  そして、同性愛者や同性愛者をサポートしようとする人はその「理屈」を打ち破ろうと自分たちの「理屈」を並べ上げる。  ぼくの主観では、後者の理屈のほうが「正しい」ように思える。  しかし、その理屈が「正しい」なら同性愛者異常説はそのうち消えてなくなるかというと、そうではない。  それは「言葉」のレベルでは勝利していても、相手の本丸である「心」を変えることはできていないからだ。  ひとは「心」が変わらない限り、また新しい「理屈」をいくらでも考え出してくる。  「同性愛者が異常である理由」という「理屈」は、「同性愛者が嫌いだ。気持ち悪い」という「心」を正当化するために、無限に生産されつづけるのだ。  つまり、だれかの意見が間違えていると思うとき、ほんとうに変えてもらうべきなのは「言葉」ではなく、それを生み出す「心」のほうであるわけだ。  しかし、ひとの「心」を動かすことは至難である。  そしてまた、ひとは往々にして「言葉」の次元での勝ち負けに拘ってしまうものだ。  「言葉」による「議論」が概して不毛なのはこういう理由もあると思う。  もちろん、相手を説得したり論破したりすること以外のところに目的がある場合はこの限りではないが。  この話はべつに同性愛に限ったことではない。あらゆる何かしらの信念を持った人との議論にいえることである。  たとえば一般に「歴史修正主義者」と呼ばれる人たちの議論は、限りなく不毛に陥りやすい。  修正主義者たちは、たとえばあるユダヤ人虐殺が実はなかったということを説明するために膨大な量の「理屈」を持ち出してくるからである。  それに反論する側はいちいちその「理屈」を潰していくしかないわけだが、どんなに「理屈」を否定してみせたところで相手は怯まない。  ユダヤ人収容所が実在しなかったことのそれらしい理由など、その気になればいくつでも生み出されるものだからである。  これは南京虐殺否定論でもなんでも同じことだ。  ほんとうに問題なのは、差別や虐殺がなかったと思いたがる「心」のほうなのだ。  しかし、 

熱い議論が不毛に終わるたったひとつの理由。

プレイヤー全員が「自分以外はバカ」と信じるゲームの滑稽さ。

 平坂読の代表作『僕は友達が少ない』、通称『はがない』の最終巻を読み終わりました。  面白かった! ライトノベルの一時代を画した作品として迎えるべき終幕を迎えたように思います。ありがとう、ありがとう。  シリーズ通して素晴らしく面白かったです。  それにしても、Amazonレビューのあの酷評の山はなんなのだろうな。  読んでいるとげんなりしてくるので途中で読むのをやめてしまったけれど、あれはさすがに不当な評価が多いのではないかと思う。  いつも思うことだけれど、ネットでレビューを書く読者層ってほんとうに保守的。  ほとんど冒険も実験も許さないように見える。  もちろん、個々の意見としては素晴らしいものもいくらでもあるのだろうけれど、総体として見ると、やたらに保守的だなあという意見になりますね。  まあ、一般の読者はこんなものなのかな……。  平坂読さんは世間に認められづらい作風で実に可哀想です。  だれにでも書けそうに見えるんだろうなあ。じっさいにはものすごい才能と修練の結晶なのだろうけれど。  この「「このくらい自分にだって書ける」と思わせる小説がベストセラーになる」という事実は何十年か前に中島梓が『ベストセラーの構造』で指摘していまして、けだし慧眼だったな、といまにして思います。  まあ、このレビュー群だけではなく、最近、ネットでひとの意見を読みつづけることに神経が耐えられなくなって来ているぼくがいるのですけれど。  あるいは退歩なのかもしれませんが、読めば読むほどにげんなりしてしまうのですね。  なんだか何もかもどうでもいいように思えて来てしまう。  だれもが自分だけは正しいと考えて、他人の非を鳴らしてばかりいる。そんなふうに見える。  いや、べつだんぼくひとり高みに立つつもりはなくて、ぼく自身が何かひとことでも言葉を口にした途端に、そのどうでもいい正当性の競争に巻き込まれているのです。  うんざり。  それではどうすればいいのかというと、結局、沈黙するしか方法はないのかもしれない。  無言の者だけが賢者でありえる。何であれ口にした瞬間に、その言葉の成否を巡っていさかいが始まる。  どうでもいいといえばどうでもいいが、どうにも疲労させられる話です。  ほんとうに自由でありたいのなら、黙るしかないということ。  うーん、憂鬱な結論だね。  もちろん、そうだからといってぼくなどは黙り込むわけにもいかないので、自分の責任のとれる範囲内で発言していくつもりであります。  しかし、自分のいっていることがすべてではないということはどうにか自覚しておきたい。  これがじっさい、むずかしい。  世の中には、たしかに間違いなく正しいと思えることがあって、そういうことですら意見は四分五裂する。  そしてまた、どうしようもなく間違えていると思えていることもあるけれど、そういうことさえ正しいと主張する人がいる。  1000人いれば、1000通りの意見があるのが現実。  しかし、ぼくも含め、ひとはそれを単色に塗りなおさなければ気が済まない性質があるようです。  ひとが何か間違えたこと(と、自分には思えること)を主張するのが気に食わない。  原発を停止しつづけるべきなのは(あるいは、再稼働させるべきなのは)あきらかなのに、それがわからない人物の愚かさが気に入らない。  それが有名人だったりするとなおさらいやになる。だから、その意見を否定して、世界を正常に戻してやらなければならない。  そういうふうに信じて、どれだけの人が泥沼の論争にひき込まれていったことでしょう。  何がいいたいかというと、もうネットで自分の意見の正当性を巡っていい争うのはやめようということなんですけれどね。  自分は正しい、正しい、正しい、お前は間違えている、間違えている、間違えている。  そんなことを繰り返しいいあって何になるというのか? 

プレイヤー全員が「自分以外はバカ」と信じるゲームの滑稽さ。

議論をすればするほど意見はダメになる。

 どもです。またか、と思われることと思いますが、ブログの名前を変えました。  「いまどきエンタメ解剖講座」というタイトルで、いまどきのエンタメを解剖していきたいと思います。  結局、「ハッピーエンド評論家」としてはなんら活動をしないで終わってしまったことになるわけで、これは失敗だったな、と思いますね。失敗だらけなのですけれど。  もうひとつ、新しいパソコンはどうやら20日あたりに届くようです。  3年保証込みで70000円程度の安いノートパソコンですが、それでもいま使っている機体と比べると格段に性能が良いはずなんですよね。  ちなみにぶっ壊れたパソコンは4年前の3月11日、そう、東日本大震災の当日に購入したマシンだったりします。  だからどうだというわけではありませんが、時が経ったなあ、と思わせられます。  震災の傷はもとより消え去るはずもないにせよ、ひとつの機械が寿命を終えるだけの時間が流れたのだ、と。感傷ではありますが……。  さて、きょうは「議論」の話をしたいと思います。「正義」の話といってもいい。  インターネットを眺めていると、広く一般に、何か主張をする人が議論を避けることは悪いことだ、というコンセンサスがあるように思います。  自分に正義があることをわかっているなら堂々と議論をすることができるはずだ、ということでしょう。  なるほど、それは一理あると思います。理屈の上では。  しかし、現実に目を向けてみると、議論をすることによって事態が改善したという例はほとんど見つけることができない気がするのです。  議論をすればするほど何が正しいのかあきらかとなり、すべての真実がつまびらかとなって、現状の問題はことごとく解決する、というのはどうやら幻想に過ぎないのであって、ほとんどの議論はただ対立を深める役にしか立たないというのが事実ではないでしょうか。  なぜそうなのか。  それは、およそ議論と呼ばれるものはほとんど、自分の「正しさ」ばかりを主張して相手の「正しさ」を否定することに終始するからではないでしょうか。  少なくともインターネットのレベルでは、議論と呼ばれているものは、いかに相手の主張に耳を傾けず、ひたすら自分の主張をくり返しつづけるか、その勝負という次元に留まっているように思います。  結果として、議論をした論者は互いに自分の主張の正しさをさらに確信し、より強固な信念を抱くに至る。そしてその主張はより先鋭化することになるのです。  これがぼくが「議論をすればするほど意見はダメになる」という理由です。  そもそもその種の議論とは、ひたすらに「自分は正しい、正しいんだ」と主張しあうだけの言語的決闘であって、いささかならず品を欠くことは否めない。  その種の決闘は、どうしたって一種の権力闘争の趣きを帯びます。  したがって、初めは純然たるロジックで公正に「正しさ」を見極めるはずだった議論は、そのうち単なる口汚いののしりあいへと堕ちていくことになるのです。  じっさい、ネットですばらしく白熱しながらなおかつ公正なまま進んでいく議論を見たことがあるという人は少ないでしょう。  それくらい、議論はうまくいかないものなのです。  もちろん、 

議論をすればするほど意見はダメになる。

「正しさ」はどこまで正しいか。ぼくが議論より対話を求める理由。

 需要のなさそうな記事シリーズ最新版である。  さて、この世にはいろいろな主張があり、意見がある。  そのなかにはほぼだれでも正しさを認めると思えるものもあれば、かなり突拍子もないものもある。  ここで問題にしたいのは、前者の、大方の人に対してそれなりに説得力があると思われる「正しさ」のことだ。  たとえば「ひとを差別してはいけない」といった主張は、どこからどう見ても正しいように見える。  正しさ指数100%で、どんなに拡大していってもどこまでも無条件に正しさが続く。そんな気がする。  少なくともこの現代社会に生きている人で「人間を差別するべし!」とする人はほとんどいないはずである(そのわりに差別自体はなくならないわけだが)。  しかし、ほんとうに「差別反対」は純度100%の「どこまでも正しい」主張なのだろうか? ぼくにはそうは思えないのだ。  「差別反対」が絶対的に正しいとすれば、この世にはいかなる差別もあるべきではないことになる。  ぼくは人間にそんな社会が構築可能だとは思わない。  やはりひとには好き嫌いがあるし、どこかで完全に公正ではいられないところもある。  完璧に差別が撤廃された社会などとてもできるものではないだろう。  仮にそういう社会が成立したとしても、相当に息苦しい社会であることも考えられる。  やはり「ひとを差別してはならない」という「正しさ」も程度の問題だと思うわけだ。  もちろん、だから「差別反対」と唱えることに意味がないことにはならない。  「差別反対」はおおむねは正しい理屈なのだから、可能な限り大きな声で唱えるべきだろう。  しかし、それには限界があることをわきまえておくべきではないか。  それがどこにあるかはひとによって意見が違うところだろうが、「とりあえずあることはどこかにある」、「完全に無条件の正しさではありえない」と考えておくほうが、その逆の考え方をするより、ずっと安全だと思う。  ほかにもたとえば「戦争をしてはいけない」とか、「子供をしいたげてはいけない」というのも、いかにも「どこまでも正しい」主張であるように見える。  だが、人類史上すべての戦いはすべて絶対悪そのものであり、また、今後未来永劫すべての戦いは絶対悪でありつづける、となると、「ほんとうにそうか?」と思えて来る。  また、「子供をしいたげてはいけない」のは当然だが、ほんの少し叱ってみせることも決して赦されないとなったら、害悪のほうが大きくなってくるかもしれない。  これらのわりあいに「どこまでも正しい」ように思われる主張も結局は程度問題に過ぎない。  何がいいたいのか。  ようするに、「どんなに拡張していっても正しいままの正しさというものはないのではないか」、「どんな正しさもどこかに限界を抱えているのではないか」と問いたいのだ。  「無条件の正しさ」は存在しないということ。  いわゆる価値相対主義か、と思われる読者もおられるかもしれないが、必ずしもそうではない。  たとえば、3歳の子供が親に殴り殺されたといった場合、それは99.9%、その親が悪いに決まっている。  「親に責任があるとも子供に責任があるともいい切れない」などという玉虫色のいい草はいかにも胡散臭い。そんなわけがないだろう、とぼくも思う。  しかし、だ。 

「正しさ」はどこまで正しいか。ぼくが議論より対話を求める理由。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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