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  • C・A・スミスからG・R・R・マーティンまで。ダークファンタジーの黒い血脈。

    2017-12-12 07:00  
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     いまさらながら『ダークソウル3』が面白いです。やたら複雑な操作があるダークファンタジーアクションゲーム。暗鬱で陰惨な世界設定にダークファンタジー好きの血が騒ぎますね。
     ダークファンタジーというジャンルは昔からあって、たとえばクラーク・アシュトン・スミスという作家がいます。
     栗本薫の『グイン・サーガ』などにも影響を与えたといわれる伝説的な作家で、クトゥルー神話ものなども書いているのですが、その作品は暗く重々しく、現代のダークファンタジーに近いものがあります。
     100年ほど前のパルプ雑誌でその名を響かせた作家であるにもかかわらず、なぜか現代日本で再評価され、何冊か新刊が出ているようです。悠久の過去とも久遠の未来とも知れぬ世界を舞台に、闇黒と渇望の物語が展開します。く、暗い。でも好き。
     栗本さんの作品でいうと、このスミスの影響が直接ににじみ出ているのは『グイン・サーガ』よりむしろ『トワイライト・サーガ』のほうかもしれません。
     『グイン・サーガ』の数百年、あるいは数千年後、世界そのものがたそがれに落ちていこうとしている時代を舞台にしたダークファンタジーの傑作です。
     全2巻しかないのだけれど、その妖しくも頽廃したエロティックな世界の美しいこと。主人公の美少年ゼフィール王子と傭兵ヴァン・カルスの関係は、のちにJUNEものへと発展していくものですね。
     あとはやはり、マイケル・ムアコックが書いた〈白子のエルリック〉もの。いまの日本では『永遠の戦士エルリック』として知られる作品群は素晴らしいです。
     この物語の主人公であるエルリックは、一万年の時を閲するメルニボネ帝国の皇子として生まれながら、生まれつき体が弱い白子の身で、斬った相手の魂を吸う魔剣ストームブリンガーなしでは生きていけません。
     しかし、この意思をもつ魔剣は、時に主を裏切り、かれが最も愛する者たちをも手にかけていくのです――。この絶望的パラドックスと、〈法〉と〈混沌〉の神々の対立と対決という壮大な世界が、何とも素晴らしい。
     一時期、映画化の話があったようですが、さすがに実現しなかったようですね。まあ、ひとことにファンタジーとはいっても『指輪物語』よりはるかにマニアックな作品ですからね。
     ちなみにムアコックは『グローリアーナ』というファンタジーも書いています。これはマーヴィン・ビークの『ゴーメンガースト三部作』に強い影響を受けたと思しい作品で、とにかく凝った文体と世界を楽しむものですね。
     エンターテインメントとして読むならエルリックとかエレコーゼのほうがはるかに面白いでしょうが、この作品には文学の趣きがあります。そういうものが好きな人は高く評価するでしょう。
     ただ、かなり読むのに骨が折れる作品には違いないので、気軽に手を出すことはできそうにない感じ。よくこんなの翻訳したよなあ。
     あと、最近日本では、アンドレイ・サプコフスキの『ウィッチャー』シリーズも翻訳されています。ぼくはいまのところ未読ですが、売れないと続編が出ないそうなので、先の展開が心配です。
     早川書房は時々こういうことがあるんだよなあ。ぼくはマカヴォイの『ナズュレットの書』の続きを楽しみに待っていたんだけれど、ついに出なかった……。
     この手のヒロイック・ファンタジーものとは系列が違いますが、ダークファンタジーを語るなら天才作家タニス・リーの偉業は外せません。
     彼女の作品は数多く、すべてが日本に紹介されているわけではありませんが、訳出されたものを読むだけでもその恐るべき才幹は知れます。その代表作は何といっても『闇の公子』に始まる平たい地球のシリーズでしょう。
     「地球がいまだ平らかなりし頃」を舞台に、数人の闇の君たちの悪戯や闘争を描いた作品で、アラビアンナイトの雰囲気があります。耽美、耽美。すべてが徹底的に美しく、あるいは醜く、半端なものは何ひとつありません。
     主人公である闇の公子アズュラーンは邪悪そのもので、人間たちの意思をからかって遊びます。しかし、この世界に神はおらず、いや正確にはいるのですが人間たちに関心を持っておらず、かれの悪戯を止める者はだれもいないのです。
     まあ、こういう作品たちがダークファンタジーの世界を切り拓いてきてくれたからこそ、ぼくはいま『ダークソウル3』を遊ぶことができるわけですね。
     はっきりいってめちゃくちゃ好みの世界だけれど、クリアまで行けるかなあ。ちょっと無理そうな気がする。いまの時点で操作の複雑さ、多彩さにココロが折れそうだもの。
     それから、もちろん、現代におけるダークファンタジーの巨峰として、以前にも何度か触れたことがあるジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌(ゲーム・オブ・スローンズ)』があるのですが、これはスケールが壮大すぎてダークファンタジーの枠内にも入りきらないかもしれません。
     世界的に大人気の作品ですので、未読の方はぜひどうぞ。 
  • 連休には『ゲーム・オブ・スローンズ』を観よう!

    2017-01-06 14:13  
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     あけましておめでとうございます――という時期でも既にないですね。あいかわらず更新が遅れていて申し訳ありません。
     この正月、ぼくは何をしていたかというと、一心に小説を書き進めるほか、欧米を初め世界で大人気、既刊5作で7500万部突破!という超人気タイトル『氷と炎の歌』のテレビドラマ版『ゲーム・オブ・スローンズ』を借りて来ては見ないで返却したりしていました。
     ええ、ぼくはいままで延滞金で数万円は使ってきた男です。これからはダウンロードオンリーにしようかな。それはそれでお金かかるけれど……。
     まあ、観ずに返却しておいていうのも何ですが、『ゲーム・オブ・スローンズ』は原作もドラマも傑作の評判も高く、じっさい異様に面白い作品です。
     最近、やたらにレベルが上がっているという噂のアメリカのテレビドラマのなかでも、頂点に君臨する作品だといいます。
     いったいどこがそんなに面白いのか? ひと言でいうと、超が付くほど重厚なんですね。この作品に、『進撃の巨人』などと同じく「壁」が登場するのですが、ちょっと世界の分厚さが桁違いという気がします。
     もちろん、『進撃の巨人』も傑作なのだけれど、『ゲーム・オブ・スローンズ』のそれは、ほとんど世界が「そこにある」という感じで、ほかのファンタジーの追随を許しません。
     ちょっと一読しただけでは憶えきれないほどの膨大な登場人物が錯綜し、殺し合ったり、貶め合ったり、それはもう大変なドラマを繰りひろげています。
     一応、ファンタジーには違いないのですが、むしろ架空戦国絵巻という色合いのほうが強く、特に序盤では魔法とかドラゴンといった存在はほとんど出てきません。
     そのあとは徐々に幻想色が強まっていきますが、それにしても『指輪物語』みたいな作品とは一線を画す印象です。いわゆるダークファンタジーの理想的結実といえるかもしれませんが、ひと口にダークといっても、その「世界の色あい」の多様性は半端ではない印象。
     とうてい善悪では割り切れない、途方もなく複雑な個性をもった登場人物たちの活躍やら暗躍やら没落には、強く惹き付けられるものがあります。
     作者のジョージ・R・R・マーティンは、いわゆる「天才」というべき才能ではないかもしれませんが、なまじの天才ではとても追いつけない技量に到達していると思えます。化け物め……。
     まあ、あまりにも世界を拡大しすぎた結果、新刊がなかなか出ないというよくある現象が例によって発生し、遅々として出ない続刊を待つ読者たちが焦れに焦れるという事態になったりしているようですが、それも大長編ものの宿命といえるでしょう。
     作者の寿命から考えて未完に終わる可能性も高いという洒落にならない事実もあるのですが……。あと2作で終わる予定なんだけれど、果たしてほんとうに完結を迎えるものなのか、神々のみぞ知るというところ。
     しかしまあ、とにかく、克明きわまりない描写の積み上げによって生み出されたそのリアリティは半端じゃないものがあります。
     『銀河英雄伝説』とか『グイン・サーガ』、『ベルセルク』といった大河群像劇が好きな向きは必ず嵌まると思われるので、ぜひ読んでみてください。マジパネェっすよ。
     とはいえ、この作品、いったいどういうわけなのか日本での知名度はあまり高くないようです。Googleで検索してもあまり多くの記事が見つかりません。
     どうしてなのかと考えてみてのですが、そもそも翻訳ファンタジーというジャンルの需要があまり高くないのだと思い至りました。このライトノベルが百花繚乱のご時世に、翻訳ファンタジーなんて読んでいる人はマニアだよね……。
     まあ、先述した通り、『ゲーム・オブ・スローンズ』はシンプルにファンタジーとはいい切れない作品ではあるのですが、そこら辺は読んでみないとわからないわけで、一緒くたにされて敬遠されているのでしょう。可哀想な子!
     何といってもあまりに長いし、一冊は分厚いし、登場人物は記憶力の限界に挑戦する数である上に同名の人物がたくさん出て来るし、何かととっつきづらい作品であることは間違いありません。
     しかし、一旦はまったら最後、ちょっと抜け出せない程の深みがあることはぼくが保証します。おそらく、世界中のあらゆる長篇ファンタジー小説のなかでも最高の一作です。厚みが違うんだよ、厚みが。
     とはいえ、先に述べた通り、未完のままなかなか続刊が出ないこともたしかで、いまとなっては何とドラマ版が原作の展開を追い抜いてしまうという奇妙なことになってしまいました。
     そう、原作ではまだ未刊の第六シリーズ「冬の狂風」がドラマでは既にリリースされているのですね。このままだとほぼ確実にドラマのほうが先に完結することになるでしょう。何てこったい。
     まあ、このまま原作が未完に終わったらドラマを見ればいいということかもしれないけれど、でも、そんな訳にいくか。何とかしてよ、マーティン! と思いつつ、ぼくは小説を書くのでした。いや、ほんと、未完の大長編ロマンって罪だよね……。 
  • 電子書籍第26冊目、27冊目、28冊目、29冊目。

    2016-10-12 17:54  
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     Kindleで電子書籍『ファンタジー漫画書評集 竜と剣と公子のバラッド』、『海燕漫画批評集「恋と銃弾」』、『海燕映画批評集(2): 「若き革命家の肖像」』、『『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』リアルタイム評論集「「狂気」の向こう側へ」』の4冊を出版しました。よろしければお読みください。
     おかげさまで、Kindle Storeからの収入もだいぶ増えて来ました。この調子で100冊、200冊と出していけば、一定額にはなるのではないでしょうか。まあ、何が起こるかわからないけれど。とりあえず皮算用しつつ、出しつづけたいと思います。はい。
  • 書評集刊行。

    2016-10-03 18:21  
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     電子書籍の新刊『海燕本格ミステリ書評集』と『海燕SF&ファンタジー書評集(上)』を出版しました。近く『海燕SF&ファンタジー書評集(下)』も出す予定です。内容的にはかなり昔のものになりますが、いまより文章が工夫されています。うーむ。
     実は『名作エロゲ思い出語り』上下巻というエロゲレビューの本を先に出す予定だったのですが、これがAmazonの審査をなかなか通らないw べつに問題のある内容でもないからそのうち通るだろうとは思うのだけれど、エロ関連は審査に時間がかかるみたいですね。なんだかなー。 さて、ふつうのブログ記事も書かなくては……。
  • 『Re:ゼロ』は骨太にして王道の傑作ループファンタジーだ。

    2016-04-22 00:05  
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     『Re:ゼロから始まる異世界生活』の第2話を見ています。
     ほんとうは世間は第3話が放送されているのだけれど、ぼくの住んでいる地域では見れないので、ニコニコで第2話を視聴しているわけです。
     このペースで行くと次の次くらいで原作第1巻の内容が終わるかな?という感じ。
     さすがに面白いですね。いまどきのアニメのなかでは特別に目立つ内容ではないかもしれませんが、物語としてのクオリティはぴかいちなので、未見の方がいたらぜひ見てみることをお奨めします。いい作品ですよ。
     以前にも書きましたが、ぼくはこの作品は一本の物語としては『Fate』に匹敵するくらいのポテンシャルを持っていると考えています。
     つまり、現代最高水準ということです。
     それくらいこの『Re:ゼロ』という物語への評価は高い。めちゃくちゃよくできたシナリオだと思うのですよ。
     少しずつ「面白さ」を積み上げていく王道にして正統派のストーリー。
     ただ、まさに正統派であるだけに「掴み」は弱いかもしれないんですよね。
     ループものという設定も最近ではありふれているし。
     最近ではもっと変則的な作品も増えているわけだし。
     『はいふり』とか『はいふり』とか『はいふり』とかね(第1話の終盤で初めて『ハイスクール・フリート』という真のタイトルがあきらかになった作品。おかげで第2話を録画しそこねた人が続出しているようですね……)。
     そういう作品と比べると、『Re:ゼロ』はある意味で直球勝負だし、べつの意味では古くさく思えるかもしれない。
     非常にストレートなだけに骨太な力強さがあって、ぼくとかペトロニウスさんみたいな「物語」を愛するタイプの人は好きになるわけだけれど、現代においてはどうなんだろうなあ。ウケるのかなあ。
     純粋な「物語」の骨格という文脈では『Fate』とかに匹敵するにしても、キャラクターの魅力という意味では奈須きのこ作品みたいなスーパー個性を持っているわけではありませんしね。
     いってしまえば地道で地道な作品なのです。
     いや、物語としての面白さはずば抜けているので、ほんとうにヒットして第二シーズンまで行ってほしいのですが、どうなんだろ。
     アニメは非常にていねいに作られているので、大切にされている作品だということはわかるのですが。
     これも以前に書きましたが、『Re:ゼロ』は必ずしも「小説家になろう」的な作品ではありません。
     「なろう小説」としてはあまりにも構成が秀抜すぎる。文章もうますぎる。ようするに一本の小説としての完成度が高すぎるのです。
     小説としての品質はおそらく「なろう」でもトップクラスにある。
     そして、王道にして骨太の物語でもある。
     ただ、 
  • 大作RPGにひたるだらけた生活。

    2015-11-15 00:27  
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     プレイステーション4版の『ウィッチャー3 ワイルドハント』を始めました。
     ポルトガルの会社が制作したダークファンタジーで、きわめて壮大。
     ポルトガルってこんなものすごいゲームを作れる国だったんだ、という驚きがありますね。ひょっとしたら国はあまり関係ないのかもしれませんが。
     何がすごいって、世界が広い。
     いわゆるオープンワールド系のRPGなのだけれど、それはそれは果てしなく世界が続いています。
     ただ広漠としているだけだったら日本のゲームにもあるかもしれないけれど、フィールドはきわめて詳細に設計されており、どうやったらこんな世界をひとつまるごと作れてしまうのだろうと驚嘆するばかり。
     まあ、日本のゲームも日本のゲームなりに進歩しているのでしょうが、世界のスピードは恐ろしいことになっているということを実感させられます。
     グロテスク表現も満載で、これがもう一段階グラフィックがレベルアップしたら、さすがに気持ち悪くて見ていられないと思う。
     どこまでリアリズムに徹するべきなのか、判断はむずかしいでしょうね。
     ちなみに主人公は異世界のモンスターハンター「ウィッチャー」の戦士で、かれは戦乱の世界を旅しながら求めるものを探しつづけます。
     いまのところ、まだグランドストーリーは始まってもいないようなのだけれど、この時点ですでに世界の作り込みの凄まじさはよくわかります。
     戦乱の世界とひとことでいってしまいましたが、戦争状況下の世界の様子は徹底してリアル。
     何もここまでリアルに描き出さなくてもいいだろうと思うくらい。
     人々の生活は地獄のような戦争のなかで困窮を究めています。
     あしたの暮らしすらままならない上に、グリフィンやレイスといったさまざまな怪物たちが襲い掛かって来るという絶望的状況。
     だがそれでもひとは生きていかなければならない。
     そういう異常に辛く暗い世界を舞台に物語は進んでいきます。
     当然ながら、その世界を旅する主人公も単なる善人ではいられません。
     かれは(プレイヤーの選択によっては)それなりに善良になり、人助けもしますが、決してただひとが良いだけの甘ちゃんではないのです。
     むしろ、かれこそはこの野蛮な世界を代表する人物だといってもいいかもしれません。
     しかし、それでもかれは自分の信念を持った人物でもあり、あくまで自分なりの信条を貫こうとします。
     とはいえ、超人的なヒーローではあっても決して個人の能力の限界を超えているわけではないかれは、どこかで妥協することを余儀なくされます。
     その葛藤がこのゲームの見どころです。
     ここまで来ると単純にゲームといっていいのか?と思うくらい素晴らしい作品といっていいでしょう。
     序盤はちょっと主人公が弱い印象もあるんだけれど、後半に行くにしたがって無双もできるようなので、先が楽しみです。 
  • 細田守最新作『バケモノの子』は、父性不在の世界における葛藤を描く傑作映画だ。

    2015-08-19 00:21  
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     「正しい言葉」が、ある。
     大切なあの人に投げかけるべき真実の言葉が。
     そのひと言はすでにのど元まで出て来ている。
     なんと告げるべきなのかもうとうにわかりきっている。
     だから、あとはただその言葉を放ち、形のない銃弾で相手の胸を射抜く、それだけ。
     さあ、早く。
     さあ。
     しかし、どういうわけかその言葉はのどから飛び出さない。
     どんなに必死になってもすべては無駄に終わる。
     懸命にのどを掻きむしればむしるほど、想いは冷め、言葉は遠のいていくばかり。
     待って。
     お願い。
     待ってくれ。
     もう少しでこの想いを言葉にできるんだ。
     しかし、もう遅い。
     だれよりも大切なその人は去っていく。
     切なる想いはだれにも届くことなく、伝わることもない。
     そしてどうしようもなく途方にくれる。
     たったひとり喧騒の町並みに放り出された迷い子のように。
     ひとがひとと対峙しようとすることは、そういうことのくり返しではないだろうか。
     きっとどこかに「正しい言葉」がある。
     それさえ見つけ出せば自分の想いを正しく伝えることができる。
     そう思い、そう信じながらも、どうしてもその言葉を見つけられない。
     だから表現は乱暴に堕し、態度は尊大に変わって、いつしかその言葉を目ざしていたことすら忘れてしまう。
     それが人間存在の哀しむべき一面だろう。
     ディスコミュニケーション。いつだってそればっかりだ。
     細田守がこの夏ぼくたちに送り届けてくれた新作アニメーション映画『バケモノの子』は、そんな切なくももどかしいディスコミュニケーションを繊細に描き出した傑作である。
     世界に見捨てられた少年の成長――そして、かれを育てることによって自分自身が育てられていく一匹のバケモノの成熟。
     つい先ほどまで劇場にいたわけだが、素晴らしい映画体験だったことを告白しておく。
     前作『おおかみこどもの雨と雪』の時はついに入り込めずに終わったが、この『バケモノの子』でようやく細田守の世界に指先が届いた気がする。
     つまりはこの人は恐ろしく真剣で生真面目なのだ。
     かれの作品を見ていると、ついもっともらしく解釈を連ねたくなる欲求に駆られる。
     そもそもこの映画を見る前、前作を敬虔な母性の物語とするなら、今度は力強い父性の物語だろうかと憶測した人は少なくないだろう。
     ぼくもその種の偏見を抱いて劇場を訪れたことは否めない。
     しかし、やはり映画は無心になって見るべきものだ。シンプルに母性だ父性だと割り切れないものがここにはある。
     物語は、母親を事故で喪った少年・蓮が渋谷の街へ飛び出していくところから始まる。
     見知らぬ人ばかりの雑踏で、ほんの偶然、かれは一匹のバケモノと出逢う。
     熊鉄。
     乱暴者で口が悪く、腕っ節こそ強いがまるで人望がない男。
     なぜか蓮を気に入った熊鉄はかれをかってに弟子にしようとする。
     それというのも、現実の渋谷と平行して存在するバケモノの街を束ねる「宗師」の地位が、もう少しでだれかに禅譲されるところだからだ。
     武術の腕前はほぼ互角ながら人徳で大差をつけられているライバル・猪王山を追い抜くためには、掟破りの人間の弟子でも育て上げてみせなければならないというわけ。
     かくして嫌われ者のバケモノと見捨てられた人間の、奇妙な師弟関係が始まるのだが、それは蓮の成長とともに破綻を迎えることとなり――と、プロットはサスペンスフルに進んでいく。
     終盤、蓮が向き合うことを余儀なくされるのはかれが封印した「もうひとりの自分」だ。
     自分自身がそうであったかもしれない可能性。シャドウ。
     その存在は巨大な闇となってバケモノも人間も飲み込んでいくのだが――。
     映画全体を見ればそこまで洗練されたシナリオとはいいがたく、時折り、錯綜する展開を屋台骨が支えきれなくなっていると感じる時もあった。
     しかし、骨太な物語の力とファンタジー特有のマジカルなイマジネーションは、最後まで映画を先へ先へと牽引しつづけ、クライマックスでは美しい展開を迎える。
     その正しくも奔放な想像力の冒険は良質な児童文学を思わせるものがある。
     まさにアニメーションを見る快楽そのものである。
     『バケモノの子』というタイトルだから、熊鉄と蓮の関係を擬似的な父子関係と見、形ばかりのニセモノの親子が本物になっていくプロセスと見ることもできるだろう。
     じっさい、その見方は間違えていないと思う。
     しかし、ぼくはここに「親子」、「父と子」という関係が解体されたあとでのひとりの人と人の真剣な対決を見いだしたい。
     「見捨てられた子供」である蓮はいかにもアダルトチルドレン的に見えるが、かれを渋谷の街に放り出したかに見える大人たちにしても、ほんとうにそこまで悪しき存在なのかはわからない。
     冒頭、いかにも悪役然として描かれている蓮の祖父母にしたところが、真心から蓮を身請けしようとしたのでないとだれにいえるだろう?
     また、蓮のほんとうの父親もまた、別れた妻の死後、必死にかれを探していたのだった。
     だれもが必死で、だれもが懸命、ただそこには「正しい言葉」が欠けていて、だから「正しい関係」にはたどり着けない。そういうことでしかないのではないだろうか。
     蓮と熊鉄の関係もまた一日にして終わっていてもおかしくなかった。
     ところが、どんな奇跡か、ひととの関わり方をしらず、まして愛し方や教え方など考えたこともないであろう熊鉄と、世界から見捨てられたと信じる蓮は、互いの魂の欠けたところを補い合うかのように成長していく。
     いずれが父でいずれが子か、いずれが師でいずれが弟子かは、ここにおいてはもはや重要ではない。
     熊鉄は蓮を育てることによって自分自身のなかの子供を癒やしたという見方もできるだろう。
     だが、ここでも「正しい言葉」は致命的に欠けていて、ふたりはおっかなびっくり、くっついては離れてをくり返す。
     蓮が熊鉄と真剣な関係を築けたことは、ほんのささやかな偶然、「縁(えにし)」というべきだろう。
     はたして人として未熟な熊鉄に親として師としての資格があったのかどうか、それはわからないし、おそらくそんな資格を持っている者はだれもいないのかもしれない。そう思う。
     「先生」という言葉がある。「先に生まれた」と書く。
     じっさい、ひとを教え導く先生とは、「先に生まれた」だけのことに過ぎないのかもしれず、あとはすべて対等なのかもしれない。そうも思うのだ。
     「正しい言葉」がある。「正しい愛し方」が、「正しい教え方」がある。
     けれど、決してそれに手が届くことはなく、ひとにできることはただあがきもがくだけ。
     愛し方なんて知らない。愛され方なんてわからない。
     ひとはだれもが不完全な形でこの世に落とされて、溺れないように泳ぎつづけているだけなのだ。
     熊鉄も。
     蓮も。
     蓮の父親も。
     全知全能と見える宗師だってそうなのだろう。
     その意味でここに「父」はいない。
     『バケモノの子』は、絶対的な父性が不在の世界でそれでも懸命に「縁」をたどり、「絆」を見つけようとする人々を描いた作品だ。
     「正しい言葉」がある。そして「正しい関係」があり、「正しい親子」がきっとどこかにいる。
     いいや、違う、そんなもの、どこにも存在しない。
     じっさいにあるものは、不器用に関わりあいながら、時に愛し、時に憎み、時に成し遂げ、時にしくじる生身の人間同士の関係だけだ。
     理想は遠く、幸福は届かない。それでも、一歩ずつ前へ進んでいこう。
     映画はそう訴えかけているように思える。 
  • 至高のハイファンタジー『Landreaall』を語る。

    2015-07-26 02:50  
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    王の首というものは
    いつか国民全員の命と引き換えに
    落ちるためにあるのさ

     昨日発売だった『Landreaall』最新の26巻を読み終えました。
     クレッサール編がクライマックスを迎える巻で、うん、この巻はすごく面白かった。
     ひさびさに『Landreaall』の凄みであるところの「どこにつながっているかわからない伏線」の面白さが炸裂した巻だったと思います。
     このままこの巻の面白さについて語っていってもいいのですが、『Landreaall』自体読んでいない人もたくさんいらっしゃると思うので(というかそういう人のほうが多数派であるはずなので)、この作品全体のことを紹介したいと思います。
     まあ、ぼくは数年前から絶賛している作品なので、ぼくのブログを長い間追いかけている人は知っているでしょう。
     おがきちかさんの冒険ファンタジー漫画です。
     ひとことで冒険ファンタジーといってもいろい
  • 追悼タニス・リー。バビロニアの女神の名を与えられた天才作家。

    2015-05-27 02:27  
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     タニス・リーが亡くなったそうで、追悼として、以前、『悪魔の薔薇』のレビューとして載せた記事を再録しておきます。世界は不世出の天才物語作家を失いました。残念です。 1947年9月19日。
     この日付は記憶されるべきだろう。この日、世界は不世出の語り部を得たのだから。
     もちろん、そのときにはだれひとりそうとは気づかなかったことだろうけれど。
     その日生まれた赤子はタニスと名づけられた。タニス・リー、と。
     バビロニアの月の女神にちなんだ命名である。いかにもそのひとにふさわしい名前ではないか。
     やがて赤子は育ち、九つのとき、作家を志す。
     初めて長編を上梓したのは二十を三つ過ぎた頃。
     そして、その生涯の傑作といわれる『闇の公子』を生み落としたのは、さらにその数年後のことだった。
     その物語を一読した読者は、リーの才能が尋常なものではないことを、いやでも悟らずにはいられなかっただろう。
     リーの世界はトールキンの箱庭には似ていなかった。C・S・ルイスのナルニアにも程遠かった。
     それははるかに遠い日、はるかに遠い国で語られたアラビア夜話に似た世界であり、しかもはるかに暗く、はるかに邪悪で、美しかった。
     リーには言葉で異世界をつむぎ出す天稟があった。
     その昔、地球が平らかなりし頃、と彼女は語りはじめる。
     平たい地球には五人の闇の君がおり、それぞれ、〈悪〉や、〈狂気〉、あるいは〈死〉を司っていた。
     王侯も奴隷も、学者も乞食も、しょせん彼らのチェスの駒。
     しかし、ときには、おそらく数千年年に一度のことではあるだろうが、駒が操り手を上回ることもあった、と。
     リーの紡ぐ神秘的な物語は、灰色の都市生活に疲れた人びとを熱狂させたことだろう。
     そして、彼女は飽くことなく新たな物語を生み出し続けた。
     彼女は泉である。尽きることを知らない物語の泉。そしてその水の芳醇さときたら。 
  • 『ログ・ホライズン』は「ニセモノ」の時代に「本物」を追い求める物語だ。

    2015-03-10 03:21  
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     日常もいいけれどやっぱり冒険もね、ということでアニメ『ログ・ホライズン』を追いかけています。
     テレビでは第二シリーズもクライマックスを迎えているようですが、ぼくはまだ第一シリーズの中盤。いよいよ物語が最初の佳境を過ぎ、スケールを増して盛り上がって来るあたり。
     『ログ・ホライズン』の物語は、あるオンラインゲームのプレイヤーたちが異世界に召喚されるところから始まっています。混乱を究めるその異世界で、主人公シロエとその一行はさまざまに活躍を続け、やがてアキバの町に統治機構〈円卓会議〉を作り出すに至ります。
     そして、シロエ自身は自らのギルド〈記録の地平線(ログ・ホライズン)〉を生み出し、ひとりの冒険者として世界の探索を続けるのですが――というところがいまのお話。
     ここらへん、実にカタルシスに満ちた展開で、初めて「小説家になろう」でこのくだりを読んだときはそれはそれは感動したものです。
     とはいえ、『ログ・ホライズン』全体の物語からすれば、それすらも全体の導入であるに過ぎず、物語はさらにさらに壮大な展開を迎えることになるわけです。うーん、面白い。
     いま、色々なアニメが放送されていますが、冒険物語の面白さという意味では『ログ・ホライズン』は一級のものがあるでしょう。
     なぜこれほど面白いのだろうと考えてみると、やはりオリジナルなファンタジーを幾重にもひねってあるところに第一の魅力があるのだろうと思います。
     ファンタジー小説の歴史をたどってみると、やはり前世紀の『指輪物語』や『ナルニア』といったハイ・ファンタジーに突きあたります。
     それはもちろんさらに前の時代の民話や神話、宗教に大もとがあるわけなのですが、それを現代の小説として洗練させて提示したという意味で、やはり『指輪物語』はエポックだったのでしょう。
     その物語や世界は映画『ロード・オブ・ザ・リング』の成功によって原作読者以外にも広く知られるようになりました。それもあっていまとなってはそれほど目新しくは思われないでしょうが、もともとは非常にオリジナリティが高いものだったのです。
     で、これが膨大なファンタジー小説に模倣され、また、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』や『トンネルズ&トロールズ』といったテーブルトークRPGに移植されてひろまっていった。
     そしてやがてコンピューターゲームが生まれ、その世界はいっそう広まるとともに陳腐化していきました。そしてそれからさらに数十年経って、『ログ・ホライズン』はそれらのゲームをもっとひねった物語を展開しているわけです。
     最初期の『指輪物語』や一部の優れたヒロイック・ファンタジーから数えると、どれだけのコピーを重ねているのかよくわかりません。自然、そこではもはや初期のファンタジーが持っていた超常的な輝きは失われてしまっています。
     『ドラクエ』や『FF』がどんなに面白いとしても、あるいは『ログ・ホライズン』がどれほど楽しく見られるとしても、そこにはトールキンやダンセイニのオリジナルなファンタジー小説が持っていた神秘は存在しないということ。
     いまとなっては想像しづらいことですが、「ファンタジー」という言葉が黄金のひびきを備えていた時代もあったわけなのですね。
     ここらへんの歴史に関しては小谷真理『ファンタジーの冒険』が網羅的に語ってくれています。すごい本です。オススメ。
     それはともかく、とにかく模倣に模倣を重ねることによって、ある意味でファンタジーの魔法は消え去ってしまった。いま、ファンタジー小説と呼ばれている作品のほとんどは、最初期のファンタジーが持っていたマジック以外のところで読者を惹きつけているといえるでしょう。
     最近は早川文庫FTなどでも、クラシカルなファンタジーはそれほど見かけないような気がしますね。フィリス・アイゼンシュタインの『妖魔の騎士』とかR・A・マカヴォイの『魔法の歌』、好きだったなあ。いやまあ、そういうことをいいだすとただの懐古厨になってしまうのだけれど。
     ただ、いまだに創元推理文庫あたりではイニシエのファンタジー小説が翻訳出版されつづけているようで、やっぱりそういう意味でのファンタジーが好きなひとはまだ一定数残っているのでしょう。
     クラーク・アシュトン・スミスとかね。いまになってクラーク・アシュトン・スミスが翻訳されるのって凄いことだよね。
     いや、余談に走りすぎました。とにかく21世紀も随分と過ぎ去ったきょう、ぼくたちはそういう「オリジナルな物語」が失われたご時世を生きているわけです。
     ここでいう「オリジナル」とは、「現実の体験」から生まれた物語ということです。ぼくたちはいま、そうではない「コピーのコピーのコピー」から生まれた物語を楽しんでいる。『ログ・ホライズン』もまたそういう作品だと思います。
     そう、ここでようやく『ログ・ホライズン』の話に戻るわけですけれど、この物語の面白さは「オリジナル」ではありえないことを受け入れた上で、「オリジナル」なファンタジーの定石をひねりにひねったところにあるのだとぼくは考えています。どういうことか?