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お誕生日おめでとう。
2015-07-30 02:2251ptきょう、7月30日はぼくの37歳の誕生日である。
37歳――ほとんど信じられないような歳だ。
35歳になったときも憂鬱だった気がするが、37歳となると、これはもう、逃げ場がない。
ぼくはもはやいかなる意味でも若者ではない。ただの中年男性である。
ほんとうに歳を取ったものだ、と思う。何か哀しいような気持ちがする。
そんな日に、ぼくはまた自分の二面性について考えてみた。
前の記事では、ぼくの人格は本来のものから歪んでいるのではないか、と書いた。
これはだれしもそうであるかもしれない。
生まれた時の自分そのままで生きているという人など、めったにいるものではないだろう。
ひとの人格は世間に揉まれ、社会に揺らいでしだいしだいに変わっていき、みずみずしさと柔らかさを失って硬直していく。
筋肉が凝るように、心もまた凝る。硬くなってより柔軟に変化しづらくなっていく。
それが「老い」ということだ。
10歳の頃にはもうすでに老いは始まっている。とすれば、37歳のぼくなど、老人もいいところだろう。
しかし、これはぼくだけではないだろうが、ふしぎと、子供の頃から変わっていない部分も残っているように思える。
ぼくのなかのある部分だけは、子供の頃の自然な柔らかさのまま、保存されているような気がするのだ。
その「本来の自分(先天的な自分)」と「大人の自分(後天的な自分)」が矛盾しあい、対立しあい、それでも混ざり合うことなく、一定の純度を保って独立しているのがぼくという人間なのではないか、と思ったりする。
ぼくはじっさい、37歳になったいまでも、部分的には子供のままなだ。そのほかの部分はすっかり老いて硬直してしまっていることもたしかだが……。
ひとは一般に加齢によってさまざまな邪念を身につけて硬直し、変化を恐れるようになる。
さまざまな「常識」という名の固定観念によって硬く、硬く変わっていくのだ。
ぼくは可能な限り柔らかくありたいと思う。
そのためには「心のストレッチ」をして、先入観や固定観念で硬くなった心をほぐしていく作業が必要になるのだろう。
ぼくの場合、本を読んでいる時は童心に帰る。
おそらく、本を読んでいるときが「本来の自分」に最も近いのではないかと思う。
その自分が「基準」になるわけだ。
一方、感情的に昂って小さなプライドを守ろうとする自分はあきらかに後天的に身につけたものだ。
心を柔らかく保ちたいなら、自分のなかの「怒り」や「憎しみ」と向き合わなければならないということ。
生まれたときの裸の自分は、怒ることはあっても根に持ちはしなかったはず。それが、いつまでもひとつのことで延々と怒っているのなら、心のどこかが凝っている証拠だ。
その凝りはどうにかしてほぐさなければならない。
おそらく、自分なりの「正義」を重んじ、それが叶わないとなると烈火のように怒るぼくは、思春期のあたりで生まれた人格だと思う。
本来のぼくは、もっと自然体で、力が抜けているような気がするのだ。
その人格が「基準」となる自分で、時々、マグマのように噴出する感情は、いずれも「心の凝り」から来ているものだと思っている。
この「凝り」をどうほぐしたものか……。
どこまでも柔らかく自然で変化を怖れない心を取り戻したい。 -
いつかどこかで出逢った人たちとともに。水上悟志『スピリットサークル』が見せる壮大な世界。
2015-07-29 03:3351pt
読みさしで止まっていた『スピリットサークル』の第3巻と第4巻を読みました。
読みたいと思えば真夜中だろうと読めてしまう電子書籍すごいなあ。
まさしく魔法のテクノロジー。じゃぶじゃぶお金が出て来る魔法のカードと合わせて使う万能アイテムですね。翌月には負債を払うことになるけれど――。
それはともかく『スピリットサークル』面白いです。
最新の第4巻まで読んだわけですが、既にして傑作の風格をただよわせています。
作者は以前『惑星のさみだれ』を完結されている水上悟志。
あの作品も「セカイ系」の完成形ともいうべき傑作でしたが、続けてさらにすごい作品を送り出してきました。
『惑星のさみだれ』にもその要素はありましたが、『スピリットサークル』は輪廻転生ものです。
一応、舞台は現代に設定されていますが、数千年の過去や未来もまた平行して描かれます。
この手の転生ものだとやはり手塚治虫の『 -
至高のハイファンタジー『Landreaall』を語る。
2015-07-26 02:5051pt
王の首というものは
いつか国民全員の命と引き換えに
落ちるためにあるのさ
昨日発売だった『Landreaall』最新の26巻を読み終えました。
クレッサール編がクライマックスを迎える巻で、うん、この巻はすごく面白かった。
ひさびさに『Landreaall』の凄みであるところの「どこにつながっているかわからない伏線」の面白さが炸裂した巻だったと思います。
このままこの巻の面白さについて語っていってもいいのですが、『Landreaall』自体読んでいない人もたくさんいらっしゃると思うので(というかそういう人のほうが多数派であるはずなので)、この作品全体のことを紹介したいと思います。
まあ、ぼくは数年前から絶賛している作品なので、ぼくのブログを長い間追いかけている人は知っているでしょう。
おがきちかさんの冒険ファンタジー漫画です。
ひとことで冒険ファンタジーといってもいろい -
自分という人間がよくわからない。
2015-07-25 05:1951ptえー、月末近くで会員が減っていく時期なのですが、読者の需要を無視して自分語りをしたいと思います。
書きたいことを書きたいように書いていないと続かないですからね。
ぼくはよく自分という人間について考えます。自分とはどういう人間だろう、と。
するとすぐに答えが出ます。「よくわからん」と(笑)。
これは自分のことだからわからないという側面もあるでしょうが、客観的に見ても相当よくわからない人間なんじゃないかなーと思います。
もしかしたらぼくのまわりにいる人たちはぼくよりもぼくのことを理解しているかもしれませんが、ぼく自身はぼくのことをよくわからないなーと思っています。
ぼくの最も親しい他者である母なども「お前はよくわからない」といいます。
そうだろうな、と思うのですよ。ぼく自身がさっぱりわからないのだから。
もとより、人間なんてよくわからないものではあります。
ひとのことを理解できたと感じたとき、それはほとんど錯覚です。
でも、そのなかでもぼくは割合にわかりづらいほうに入っていると思うのです。
あるいはだれしも自分についてはそう思うのかもしれませんが。
ぼくが自分の性格を「よくわからん」というのは、人格に整合性が取れていないように思えるからです。
ぼくという人間はどこか矛盾している気がしてなりません。どこかでねじ曲がっているような……。
いや、これもすべての人がそういう側面を持っていることではあるでしょうが、ぼくはたぶんそのねじ曲がり具合がわりと大きいほうだと思う。
なので、自分で分析しきれない。
具体的にいうと、ぼくは我が強いのか弱いのかわからないなあ、と思います。
この場合の我が強いとは自分自身に対しどのくらいプライドを持っているか、ということに近い概念です。
基本的には頭がいい人ほど我が強く、自己主張もまた激しいとぼくは考えています。
で、その考え方でいくと、ぼくはあきらかに我が弱い人ということになると思うのですね。
そもそもあまり頭は良くないですし、主張するべき「自己」というものがいかにもあいまいですから。
そして、それでは肉体的な人間かというとそうでもないわけで、ぼくは空っぽな奴だなーと思います。
何をしたいとか、何が欲しいとかいうこともありないですしね。
この認識にはもうひとつ論拠があります。
以前にも書いたことがありますが、 -
仮想現実ゲームが中毒者を生むとき。
2015-07-24 02:3851pt
WiiUの『ヨッシーウールワールド』を遊んでいます。
たとえばプレイステーション4あたりと比べると露骨にプレイできるソフトが少ないWiiUなのですが、そこは任天堂だけあってじっさいやってみると面白いゲームが色々あります。
『ヨッシーウールワールド』もそのひとつで、スーパーファミコン時代から続くヨッシーシリーズの最新作。
今回は「毛糸の世界」での冒険を楽しめます。
ヨッシーが毛糸で編まれているのはもちろん、背景も毛糸。
画面に出てくるものすべてが毛糸で表現されているんですね。
なんともあたたかみのある世界としかいいようがなく、画面を見ているだけでかなり楽しい。
『スーパーマリオ』シリーズと比べるとあきらかに低年齢層向けで難易度も低め、ぼくがやるとさすがに物足りなさを感じるものの、すべてのアイテムを集めようと思うとそこそこむずかしいので、やっぱり攻略サイトのお世話になることに。
なるほど、そこにあったのかと膝を叩く隠し場所にはいちいち驚かされます。
WiiUユーザーでお子さんがいらっしゃる方にはオススメの一本です。大人は『マリオ』をやっていればいいかと。
ゲームの世界が暗殺だの強盗だのとサツバツとしている昨今、こういうあたたかいゲームを出しつづける任天堂には価値があると思いますね。
もっとも、サツバツとしたゲームも好きなわけで、いろいろ手を出しては投げ出したりしています。
PS3の『THE LAST OF US』とか。
異様に評価が高い作品なのでぜひクリアまで持って行きたいのだけれど、ゾンビものはいまひとつ相性が良くないので、さて、どうなるか……。
この頃、ゲームを買ってもクリアまで行かずに投げ出すことが多いので、なんとかクリアしたいとは思うんですけれど。
まあ、なかなかゲームをクリアできなくなった背景には、ゲームの容量が膨大になってきているということもあるとは思います。
最近の海外製オープンワールドRPGは、プレイ時間が数百時間に上るものも少なくないと聞きます。
ヴィジュアルが異常にきれいになっていることは素直に受け止めているものの、もう少しコンパクトに楽しめるゲームが増えてくれると嬉しいかな、と思ってしまうことは否めません。
もっとも、ほんとうに面白いゲームならなるべく長い間どっぷりと浸っていたいという思いがあることも事実で、プレイ時間の長大化はそういう気持ちに応えた結果なのかも、という気もします。
最近のゲームは、ほんとうに美しく背景が描き込まれているものが多いので、その世界に浸っているだけで楽しめるんですよね。
もっとも、ぼくは最新鋭のゲーム機を持っていませんが。
いいかげんPS4を買おうかな。たぶん買ってもほとんどプレイしないだろうとは思うんだけれど……。
さて、来年にはゲーム業界にまたも革新が訪れるであろうことが予想されています。仮想現実技術の普及です。 -
物語論。奈須きのこの世界は「拡散」する一方で「前進」しない。
2015-07-20 07:3051pt
昨夜、LINEで話したことがちょっと面白かったのでメモしておこう。
最近、『アベンジャーズ』とか『バットマンVSスーパーマン』とか、本来、独立しているヒーローの映画を組み合わせた映画作品が次々と発表されて話題をさらっている。
映画史的にはそれなりに画期的な事態だと思うのだが、この種のクロスオーヴァーは、アメコミの歴史のなかではくり返し行われてきたことであるらしい。
というのも、本来、「なんでもあり」のアメコミでは、バットマンやスパイダーマン、ウルヴァリンといったキャラクターだけを活用してさまざまな実験的な作品が描かれてきたからだ。
それもこれも作家ではなく出版社が著作権を有しているからではあるのだが、あるキャラクターが何度も死んだり、そのたびに生き返ったり、いろいろなキャラクター同士がくっついたり離れたりすることはかなり常識的に行われているのだとか。
日本人の目から見るとかなり奇妙にも思える話ではあるが、あらゆる物語の根源である神話や民話に近いと考えると、こちらのほうが正統な物語の系譜であるといえるかもしれない。
一方、より作家的/近代的な作品が多いと思われる日本ではそういうオールスターキャスト的作例は少ないと思われる(ないことはない)。
『ガンダム』とか『仮面ライダー』あたりは比較的近いだろうか。
もっとも、『ガンダム』でさえひとつの宇宙を共有しているというわけではない。
その一方で「ある作家が描いた複数の作品がひとつのバックグラウンドを共有する」という真逆の現象はよく起こる。
それはたとえば永井豪の作品がそうなったように、独立して描かれた複数の作品が最終的にはひとつの物語世界へ流れ込んでいく、という形を取ることもあるし、奈須きのこの作品がそうであるように、初めからひとつのバックグラウンド世界を想定して書かれることもある。
『エヴァ』とか『ジョジョ』とか『ファイブスター物語』などを見て行くと、まったく異なる作品を作り出そうとしても最終的には同じものに仕上がってしまう作家がいることもわかる。
その作家が自分の内面世界を象徴的に描き出しているだけなのだと考えるなら、それは当然のことであるのだろう。
『エヴァ』にしても、新劇場版のシリーズは「まったく新しいものを作ろうとしても『エヴァ』になってしまう」というところから「それなら『エヴァ』にしよう」ということになったらしいし……。
とにかく、このように、それぞれ独立した物語であるように見えていた物語がひとつの物語世界の出来事として語られることは洋の東西をまたいで少なくない。
もっというなら、その際、「公式」か「非公式」か、一次創作か、二次創作か、という話は原理的にはあまり意味がない。
重要なのは、一度発表された魅力的な物語は、その瞬間から「拡散」しはじめるということである。
たとえば、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズものは発表以来、数知れない「パスティーシュ(贋作小説)」を生み出している。
その数、数万ともいわれるパスティーシュは出来も内容もさまざまだが、シャーロック・ホームズないし類似の人物が登場していることだけは共通している。
これをすべてひとつの世界のパラレルワールドの出来事として考えると、ちょっと面白い。
というか、こういう「同じキャラクターが登場するが内容的に矛盾する複数の物語」を合理的に整理しようとすると、必然的に「平行世界(パラレルワールド)」を持ちださざるを得なくなるということだろう。
逆にいえば、その設定さえ持ち出してしまえばどんな異質な物語であろうと、異なる世界線の出来事として整理してしまえるということでもある。
先述した奈須きのこの作品世界は、それぞれの作品がパラレルワールドの関係にあり、しかもひとつの作品内でもパラレルな複数の物語が展開しているという非常に複雑な構造になっている。
そこに『Fate/Zero』を初めとする「外典」がいくつも加わるわけで、もう何がなんだか、という状況ではある。
だから、たとえば『Fate』なり『月姫』の番外編的新作が作られても、それは必ずしも『Fate』や『月姫』の物語が先へ進んだことにはならないわけだ。
それぞれ「Fate」とか「Unlimited Blade Works」と名付けられた物語はあくまですでに完結しており、それはもう変わることはないということなのだろう。
ここまで書いてきて、それでは、一本の連続した物語とはどう定義すればいいのだろう、ということが頭に浮かんだ。 -
圭角の人。
2015-07-20 05:4251ptせっかく公開範囲を設定できるブロマガを使っているのだから、たまにはあまり広く公開したくない話でも書こう。
ここに書く以上は広く世界に向けて書いているのも同じだということは理解しているが、わざわざ自分から世界に向ける必要もない記事というものもあるわけだから。 -
ライトノベルの主人公みたいに楽しく人生を過ごしたい。
2015-07-20 01:1151pt
敷居さん(@sikii_j)がこんなツイートをしていました。
読み損ねていた平坂さんの『妹さえいればいい』の一巻を電子書籍で買って読んでいるのだけど、めっちゃくちゃ面白い上になんか色々と共感する部分があってやばい。中高ぼっち気味で大学辞めてしばらく経ってからやたらと仲間が増えて家にわらわらと人が集まってくるとかそれは
https://twitter.com/sikii_j/status/622647824845402113
ツレの影響で海外産のビールにはまったりうちに遊びに来た人が家主が漫画読みながらダラダラしている横で勝手に台所使ってなんか用意したりなんか気が付いたら勢いで旅行してたりとかもうなんなのこれ。全部やっとるぞw
https://twitter.com/sikii_j/status/622649056217567232
……時代とシンクロしていやがるなー。
えー、ここでうらやましいとか妬ましいとかばくはつしろとかいいたいところなのですが、仮にぼくが同じことをやったら3日目くらいで精神がパンクして廃人になることが容易に予想できるので、実のところ特にうらやましくはありません。
ただ、世間は広いなー、世の中には大変な人がいるなー、と詠嘆するばかり。
思いつきで旅行するくらいはぼくにもできそうなので今度やろうっと。
でも、新潟からだと飛行機がいくらか高くつくんだよね。羽田とか成田からだといまはほんとうに安くあちこちへ行けるようなのだけれど。博多行って屋台でラーメン食べたいなあ。
それはさておき、とにかく『妹さえいればいい』が面白いです。
昔々、敷居さんに奨められてハマった『らくえん』もそうなのだけれど、これって「学校生活を謳歌できなかった人間たちの第二の青春」の話なのですよね。
そりゃ、ぼくとか敷居さんがハマるのも当然だわ。
ぼくも敷居さんほど極端な生活をしているわけではないとはいえ、成人してからネットを通して仲間ができてわいわい騒いで楽しんでいるという点はいっしょ。
それもだんだんレベルアップしてきていて、最近は自分でも「……いいのかな、こんなに恵まれていて」と思うくらいの域に達しています。
このあいだ、日本に一時帰国したペトロニウスさんを祝うために某高級レストラン(食べログランキング4.0以上)でランチを取って、その後、友人の家に転がり込んで鍋をつつきつつラジオを放送したりしたんですけれど、そのときの幸せ具合は半端なかったですね。
広大な邸宅を食事が取れるよう改装したというスペイン料理のレストランも素晴らしかったけれど、友人宅の鍋(と釣りたてのイカ)がとにかく美味かった。
ペトロニウスさんなんか「和食うめー」、「イカうめー」と涙を流さんばかりの勢いで食べたあと、ラジオの途中で寝てしまうし。
いやー、幸せでした。何年かに一回ああいうことがあると、それだけで暮らしていけるかもな、というくらい。
まあ、それはあまりにスペシャルな体験なので、「日常の豊かさ」という文脈とは少々離れているかもしれないけれど、でも、こういうイベントが時々あることじたい、ぼくの現状を示していると思う。
普段はプアだニートだといっているぼくだけれど、結婚とかしようと思わなければ十分に楽しく暮らしていけるくらいの収入はあるんですよね。
ええ、それもこれも皆さまのおかげなんですが、それもあって、とにかく最近、あたりまえの日常のクオリティ・オブ・ライフが格段に上がっている気がします。
それはもう、ひとを妬もうとかうらやもうとかほとんど思わない、思う必要がないくらいです。
まあ、もともとぼくはひとを妬む気持ちがほとんどない人間なんですけれどね。
それにしても、最近のぼくの人生は妙に充実してきているなあ、と思いますよ、ほんとに。
そういえば、 -
オタクとリア充の境界線を超えていけ。平坂読『妹さえいればいい』が日常ものの新境地を切り拓く。
2015-07-19 02:2851pt
待ちに待った平坂読『妹さえいればいい』の第2巻を読みました。
面白かった!
ぼくの場合、現在刊行継続中のライトノベルで続きを楽しみにしているのはこれくらいなのですけれど、じっさい待つに値する面白さ。
第1巻の要素を発展的に継続させているところが素晴らしい。
ライトノベルの第2巻としてはお手本にしたいような出来といっていいでしょう。
この巻のあらすじはこんな感じ。
俺達はアニメの原作を書いてるんじゃない!
妹バカの小説家・羽島伊月は、人気シリーズ『妹法大戦』最新巻の執筆に苦戦していた。 気分転換のためゲームをしたり混浴の温泉に行ったりお花見をしたり、担当への言い訳メールを考えたりしながら、どうにか原稿を書き進めていく伊月。彼を取り巻く可児那由多やぷりけつ、白川京や義弟の千尋といった個性的な面々も、それぞれ悩みを抱えながら日々を生きている。そんな中、伊月の同期作家で親友・不破春斗の『絶界の聖霊騎士』のテレビアニメがついに放送開始となるのだが――。
妹と全裸に彩られた日常コメディ、第2弾登場!!
そういうわけで、この巻のメインイベントは不破くんの作品のアニメ化ということになります。
紛らわしい帯の文句のおかげで『妹さえいればいい』そのもののアニメ化が決まったと思い込んでいる人も散見されますが、残念ながらそうではない、あくまで「アニメ化のエピソード」が挟まれているというだけのことです。
この巻のクライマックスではそのアニメ化の顛末が描かれることになります。
具体的な内容に関するネタバレは避けますが、さすがというか、非常に攻めている印象が残りました。ここまで踏み込んでくるとは思わなかった。
さらなるラブコメ展開への伏線も張りつつ、物語は進んで行きます。
もちろん、そのあいだにテーブルトークRPGをしたり、お花見を開いたりと楽しいイベントは目白押し。お色気もあるよ☆
ここらへんの日常描写のさじ加減はさすがに『はがない』の作家というべきか、まったくそつがありません。
よくこの小説が売れるのはエロが多いからだといういい方をされるのだけれど、エロいラノベなんて掃いて捨てるほどあるわけで、その点はほかの作品との差別化になってはいないでしょう。
『妹さえいればいい』がヒットしているとすれば(Amazonを見る限り相当売れているようですが)、それは純粋に作者の技量のたまものです。
ライトノベル作家を主人公に楽しい日常を描く、それだけならきわめてありふれた素材であり、料理であるといえるでしょう。
しかし、料理人の技量の差は細部に表れます。 -
幸せとは人間関係である。本物の関係を通じて幸福と充実を手に入れよう。
2015-07-18 03:0151pt
Amazonインスタント・ビデオで映画『happy しあわせを探すあなたへ』を見ました。
いまさらではありますが、すっかりレンタルビデオに頼らなくても自宅で動画を見れる時代になりましたね。便利、便利。
『happy』は「幸せ」について探求したドキュメンタリー映画です。
この作品のなかにはさまざまな「幸せのかたち」が登場し、「いったい幸せってなんだろう?」という根源的な疑問に答えてくれます。
このブログを継続的に読まれている方なら、ぼくが最近、幸せについて続けて本を読んでいっていることはご存知でしょう。
その理由は簡単で、自分自身が幸せになりたいから。
しかし、現実に幸せに生きることはそう容易ではありません。
ぼくはいま、幸せと不幸せの境界くらいのところにいて、どちらにも行ける状況にあると思います。
これから幸せのほうに行きたいのですが、そのためにはどうすればいいか? そのヒントをこの映画のなかに見いだしたいと思っていました。
この映画は同様の疑問を抱いたらしい映画監督によって企画され、数年の歳月をかけて撮影されました。
心理学や脳医学の世界的権威たちの協力を得、さまざまな国や立場の人々のなかに幸福を探っていきます。
映画はまずインドの貧しい車夫を描くところから始まります。
驚かされるのは、現代社会を生きるぼくたちから見るときわめて貧しいように見えるかれが、それでも「自分は幸せだ」と胸をはって答えていること。
いままでこのブログでは幾度もくり返し述べてきたことですが、どうやら幸せはその人の富とはあまり関係がないらしいのです。
じっさい、戦後日本は奇跡的とも思える経済成長を続けて来わけですが、日本人の生活満足度はほとんど変わっていないというデータもあるようです。
富と幸せのあいだには一定の相関関係こそありますが、イコールで結べるようなたしかな関係はないということ。
それでは、ひとの幸せはどこにあるのか? 答えはきわめてシンプルです。
映画を一見してみて感じたことは、「幸せとは人間関係である」ということです。
抜きん出て幸福度が高い人には、必ずといっていいほど親しい家族や友人がいる。
そういう人とともに暮らせることが人間の幸せなのです。
あたりまえといえばあたりまえのつまらない結論かもしれません。
しかし、幸福学やポジティブ心理学の結論はやはりここに行き着くらしい。
映画はアメリカや日本のたくさんの家族や仲間を描いて行きます。
そこから導き出されるのは、良好な人間関係をたくさん持っている人ほど幸せになりやすいという事実です。
それに対して、あまりに孤独だったり不都合な人間関係しか築けていない人はそうなりづらいばかりか、寿命さえ短くなるらしい。
映画のなかでは、先進国のなかで最も幸福度が低い国として日本が登場します。
ここは考えさせられるところです。
いったいぼくたち日本人に欠けているものはなんなのか?
真面目に懸命に生きてきたはずの日本人がなぜそれでも幸福になりきれないのか?
映画はあまりにも仕事をしすぎるからだと匂わせていますが、それはつまり仕事に専心するあまり身近な人間関係を犠牲にしているということではないでしょうか。
人間関係こそがひとの幸福度を大きく左右する。その事実を忘れないようにしたいと思います。
もちろん、ひとはいくらだれかと親しくなったところで最後はひとりですし、自ら望んで孤独を選んでいる人もいることでしょう。
そういう生き方が悪いとはいいませんし、先の記事で書いたように「孤独力」には価値があります。やたら群れればいいというものではない。
しかし、その一方でやはりひとはその一生を通じて安易な「つながり」に留まらない本物の人間関係を求めていく必要があるのです。
そういう関係を作り出せた人はまったき幸福をも手に入れることができます。モンスターからお姫さまを救い出した騎士のように。
ぼくが思い出すのは、ディケンズの『クリスマス・キャロル』です。
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