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  • 『Landreaall』最新刊のネタバレ感想!「おまえって奴は」。

    2021-06-24 23:44  
    300pt
    『Landreaall』、一年に一、二回の最新刊です。



     どんどんぱふぱふぱふー。本日、おがきちかの人気シリーズ『Landreaall』最新の第37巻が発売されました。
     さっそく電子書籍で入手して読み終えたわけですが、いやー、面白い!
     このシリーズ、一応、少女漫画のほうのカテゴリに属しているとは思うのですが、膨大な登場人物が絡み合う群像劇を平然と展開していて、少女漫画にバイアスを抱えている向きにも読んでほしい作品だといえます。
     高度な戦術や戦略や権謀術数が絡み合う一部の展開は、むしろ男性読者のほうが楽しめたりするのではないかとも思ってしまうのですが、それはジェンダーにもとづく偏見でしょうか?
     とにかくめちゃくちゃ面白いマンガには違いないので、ぜひ、いますぐ読んでほしい。
     既刊37巻というといまさら入りづらいという方も多くいらっっしゃるかとは思うものの、大丈夫、そこは何しろ少
  • 『進撃の巨人』の「愚か者たちのデモクラシー」は本当に成り立つか?

    2021-06-21 23:22  
    300pt
    杉田俊介氏が語る『進撃の巨人』論への強烈な「違和」。
     杉田俊介氏の『進撃の巨人』論「『進撃の巨人』は「時代の空気」をどう描いてきたか? その圧倒的な“現代性”の正体」を読んだ。
     べつだん、いま読み終えたわけではなく、『進撃の巨人』全巻を読み返し終えたあとに反応しようと考えて放置していたのだが、それではいつまでも書けないのでいま書くことにした。つまり、本文はこの記事への批判的応答である。
     ぼくは『宮崎駿論』や『ジョジョ論』を初め、杉田氏が公に書いた文章はその大半を読んでいる。その意味では、杉田氏の愛読者といって良いのだが、同時にこの人が書くものにはつねにつよい違和感を感じる。
     それは、ぼくの目から見て、あまりにかれの書くものが傲慢に思えてならないことが頻繁にあるからである。
     杉田氏の批評は、いずれもきわめて精緻に、論理的に考え抜かれていることが一読してあきらかだ。そして、それにもかかわらず、ぼくはその結論に納得できないことがしばしばなのである。
     『天気の子』のときもそうだった。そして、『進撃の巨人』でもやはりそうであるようだ。なぜそういうことになるのだろう? 思うに、そこにあるものはひとり作品の上に立ち、作品の良し悪しを問うというか決めつける批評家というポジションそのものの傲慢不遜さなのだろうと思う。
     それはただ「何となく偉そうで気に食わない」という次元のことではなく、ある作品を批評することがどのようにあるべきかを問う行為であるのだと考える。ぼくは杉田氏の批評のやり方がいまひとつ気に入らないのだ。
     かれが書くものはいつもぼくにとって刺激的、かつ説得的であり、その意味で、ネットで散見される「感想」とはたしかに一線を画している。あたりまえといえばあたりまえだが、かなりハイレベルなクリティークがそこにあるのだ。
     だが、そうであってなお、かれの文章には「何かが違う」という「世界観の違い」とでもいいたいものを感じる。それが率直な「感想」である。
    「型通りの正論」という「気楽な作法」。
     もちろん、そうかといって、その違和をただあいてを皮肉ったり、揶揄したりするだけで終わらせるわけにはいかない。それではまさにインターネットに跋扈する無数の過激な(過激なだけの)論者と同じでしかない。
     だから、ぼくは自らが違和を抱く言論には自分なりの言論をもって対抗しようと思う。もちろん、杉田氏の書くもののように広く読まれることはないだろうが、ぼくなりに誠実に書いていくつもりだ。もし非常に最後まで読んでいただければありがたい(一応、これも有料記事だが、最後まで無料で読めるようにしておく)。
     さて、それでは端的にいって、杉田氏の批評のどこにそれほどまでの傲慢を感じ取り、あるいは違和を抱いているのだろうか。ひと言でいうなら、それはかれのリベラルな「正しさ」との距離の取り方であると考える。
     『天気の子』の批評でもそうだったし、今回の『進撃の巨人』でもそうなのだが、かれはつねに「正しい」ことをいっている。
     世界が水没しているのに「大丈夫」なわけがない――その通り。人類の大半を虐殺する行為は「狂気のような自由」の矮小化である――なるほど。
     それらは、たしかに一読すると「そうかもしれない」と思わせるだけの意見だとは感じる。ただ、それなのに、ぼくはどうしても杉田氏の意見に納得し切ることができない。
     たしかに東京をなかば水没させたり、人類の過半数を虐殺したりする選択が倫理的に考えて「正しい」はずはない。どう考えてもどこかで間違えているに違いない。
     それはそうなのだが、そのことは特に杉田氏の指摘を待つまでもなく、おそらくはそれぞれの物語の「内」と「外」のだれもがわかっていることだと思うのだ。
     それをことさらに指摘して済ませる行為そのものに、ぼくは物語をそのメタレベルから一方的に裁断する読者、あるいは批評家という立場の、あえていうなら「気楽さ」を思わずにはいられないのである。どういうことか。
    具体的にどこがどう問題なのか?
     たとえば、『天気の子』だ。杉田氏はいう。
    私は、主人公の選択には賛否両論があるだろう、というたぐいの作り手側からのエクスキューズは、素朴に考えて禁じ手ではないか、と思う。そういうことを言ってしまえば、作品を称賛しても批判しても、最初から作り手側の思惑通りだったことになってしまうからだ。
     ぼくはこのくだりに非常な違和を覚える。なぜか。そもそも「最初から作り手側の思惑通りだったことになってしまう」として、それの何が問題なのかと考えるからだ。
     素直に読むのなら、この一節は、作品の受け手側の称賛なり批判は決して「作り手側の思惑通り」ではないと主張しているとしか読めない。
     この場合、杉田氏は作品を批判しているわけだから、「自分の批判は意見は作り手の思惑を乗り越えたものである」と主張したいということになるだろう。
     もっというなら、自分の意見は作り手の思惑を乗り越えているにもかかわらず、「最初から思惑通り」だという態度を取られることは不愉快だ、アンフェアだ、といいたいということではないだろうか。
     その気持ちは、わかる。せっかく自分なりに作品に決定的な批判を加えたのに、「最初からそんな批判は想定済みでしたよ」という態度を取られたらつい「それは卑怯じゃないか」と思ってしまう、その心理は十分に理解できる。
     だが、それでもやはりぼくは杉田氏のこの主張はどこか違っていると思うのだ。いったい杉田氏はいつから「作り手側の思惑」を超えることを目指していたのか。
     もしあくまで自説に自信があるのなら、むしろたとえそれが「作り手側の思惑」通りであったとしても、おかしいものはおかしい、間違えているものは間違えている、そう主張するだけで満足するべきではないか。
     それができないとするのなら、ただ「作り手側の思惑」を超えて何か鋭い批判を加えてやるというゲームに夢中になっている。そういうことでしかありえないではないだろうか。
    批評家には謙虚さが必須であるということ。
     そう、ぼくには、杉田氏は、わたしはこの作品に対して「作り手側の思惑」を遥かに超えた素晴らしい批判を行っているのだから、「作り手」である新海誠監督はそれを素直に認めるべきだ、そして自分の作品の拙劣さを反省するべきなのだ、といっているようにしか思えないのだ。
     ぼくの見方は過剰なものだろうか。あるいは意地悪な見方に過ぎないだろうか。そうかもしれない。だが、そうであるとするならなぜ杉田氏はことさらに「作り手の側の思惑」を問題とするのだろう。
     自分(たち?)の意見が「作り手側の思惑」の範疇にあるかどうかを問題にするのでなければ、このような意見は出てこないはずである。
     そして、それならそうで素直にいえばそう良いと思うのだ。「自分の意見のような鋭い批判を、新海誠監督はまったく想像もしていなかっただろう。それなのに、あたかも思惑通りであるような態度を取るのはずるい。卑怯だ」と。
     ほんとうに、そういえば良いと思う。なぜいわないのかといえば、そこまでいってしまえば、それがあまりにも傲慢な態度であることがだれの目にもあきらかになってしまうからだろう。
     過剰な意見かもしれないし、意地悪な見方かもしれないが、ぼくにはどうしてもそういうふうに思われてならない。
     そして、その傲慢さは本質的に「後出し」でしかありえない批評という行為にどうしても必要な謙虚さを欠く結果につながっているように感じられる。
     もちろん、それはひとり杉田氏のみが陥った落とし穴というよりは、ある作品を後から語るとき、だれもが落ち込みかねない陥穽ではあるだろう。その意味で、かれ個人を攻撃して済ませるつもりはない。
     だが、それにしても杉田氏の姿勢はその種の傲慢さに対して無自覚であり過ぎないか。むろん、そのような意見を「後出し」でいっているぼくもまた、だれかのさらなる「後出し」による批判にさらされる可能性はあることはわかった上でなお、そのように考える。
    リアリティのシェアができていない。
     ぼくは杉田氏のいうことが必ずしも端的に間違えているとは思わない。
     『天気の子』にせよ、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』にせよ、『進撃の巨人』にせよ、たしかに批判されるべきポイントを抱えた作品ではあるだろう。杉田氏の批判は、紛れもなく作品の根幹を突いているところがある。
     が、それでもぼくがどうしても納得がいかないと思うのは、ひとり「物語の外側、あるいはそのメタレベル」に立って、わかったような「正論」を説くだけの行為に批評的な意味を見いだせないからだ。
     ある一連の物語のなかで、きわめて切迫した状況下において、ひとつの判断を下した「作り手」なり登場人物なりに対して、その外側からあたりまえの正論でもって説教する。もしそれが批評の本質なのだとしたら、批評とは何と気楽で他愛ないものだろうか。
     杉田氏のいうように、気候現象は一面で人為の作用した「シャカイ」なのだから、人間に責任がないと考えることは間違えているかもしれない。しかし、「それなら具体的にどのように問題を解決すれば良かったのか」。
     なるほど、杉田氏のいうように極限的な状況で二者択一を求められることじたいが「間違えている」ことなのかもしれない。だが、映画のなかの人物たちにとって、じっさいに二者択一を求められているように感じられることは紛れもない事実なのだ。
     もし、杉田氏が映画のなかの登場人物たちと同様の責任感と切迫したリアリティを持って物語を語っているのなら、二者択一に限らない第三の、より優れた選択肢をきちんと提示しなければならないだろう。
     それなくして、「二者択一など幻想だ。第三、あるいは第四の選択肢があったかもしれないのだ」といっても、無責任な放言としか思われない。
     それはその通りではあるだろう。すべてを二者択一と捉えることはおかしいだろう。だが、そこにはそうとしか考えられない状況下に置かれた主人公を初めとする登場人物たちへの共感がない。同じリアリティをシェアしていないのだ。
    プロフェッショナルが負うべき責任。
     ぼくは何かおかしいことをいっているだろうか。映画の物語のなかで「正しい判断」を行う責任はその物語の登場人物が負っているのであって、単なる一観客が負うべきものではないといえば、それもまたその通りだ。
     だが、少なくとも卑しくもプロフェッショナルな批評家たるものは、そのようなあたりまえの逃げ口上に終始して非現実的な「正論」を唱えて良しとするのではなく、よりシビアに自分を追い詰めていくべきではないのか。
     そう、作品の外にいる立場なら、物語のメタレベルに立つその気なら、どのような「正論」でも語ることができる。最後まであきらめるな、もっと努力しろ、簡単に決めつけるな、幻想を捨て去れ――何とでもいえるだろう。
     そして、また、そのそれぞれが何もかもたしかにお説ごもっともな話ではあるのだ。だが、それはすべて、物語の「外」から「内」へ投げかけられた、いわば野次馬的な意見でしかない。
     批評家が単なる観客、野次馬を超越した意見を述べるためには、物語のなかの登場人物と切迫した状況を共有していなければならないはずなのだ。
     そのリアリティのもと、それでもなお、自分の意見としてそれは間違えていると叫ぶのなら、たとえより悲惨な結果につながったかもしれないとしてもあくまで「第三の選択肢」を模索しつづけるべきだと主張するのなら、それはまさに一聴に値する意見だと感じる。
     また、そのリアリティそのものが幻想なのだ、ほんとうの現実はもっと気楽で、多様な選択肢が用意されているものなのだと主張することも可能だろう。
     問題は、そういった、見ようによってポジティヴともネガティヴともいえる価値観が、じっさいに物語で採用された価値観と比べ、人の心に響くものであるかどうかである。
     もしその意見がまったく人心を打たないのなら、そのときは作品ではなく批評家こそが「時代のリアリティ」を読み損ねていることになる。批評家にはそういうふうに自分自身を賭ける勇気が必要だろう。
    「血を流しながら」批評せよ。
     かつて、宮崎駿はその昔に「弟子」であった庵野秀明について「庵野は血を流しながら映画を作る」と語ったという。しかし、ぼくにはそれはひとり映像界の鬼才である庵野だけのことではなく、程度の差こそあれ、多くのクリエイターに共通する話だと考える。
     「作り手側」はいつも血を流しながら作品を作っている。物語のなかの登場人物も、それが何かしら優れた作品であるなら、多くの場合、血を流しながら判断を下している。
     それでは「受け手側」はどうだろうか。はたして血を流しながら作品を語っているといえるのか。むろん、単なる一観客に「ちゃんと血の通った批評をしろ」と詰め寄ることはできないだろう。
     だが、批評家は違う。プロフェッショナルな批評家は、少なくとも自分が裁断する作品を作ったクリエイターたちと同じくらいには血を流しているべきだ。ぼくはそう思う。
     杉田氏の批評は、あえて明言してしまうのなら、いかにも血の流し方が甘いように思えるのである。ぼくの目には、いかにも自分を安全圏に置いてどうとでもいえるような正論を語っている印象がつよい。
     そのようなやり方では、いかにロジカルな意味で「正しい」としても、有意義な批評とはいいがいように思う。それはつまりただ単に「正しくあることが容易な」次元に留まっていることしか意味していないと考えられるからだ。
     むろん、それはいままさに「批評家に対する批判」を繰り広げているぼくにしてもいえることではある。したがって、ぼく自身もまた、はたして自ら血を流し、血の通った言説を展開できているか、シビアに問われなければならないだろう。
     その上でいうなら、ぼくは血を流して話を続けるつもりである。この記事を単なる「上から目線での批判」に終わらせることはしない。ぼくはそうしたい。じっさいにそうできているかどうかは、読者諸氏ひとりひとりにご確認いただきたい。
     とりあえず血を流す覚悟を持っているつもりであることと、ほんとうに血を流しているかはまったくべつのことなのだから。
    杉田氏による『進撃の巨人』評の傲慢。
     さて、ようやく『進撃の巨人』批評の話に移る。ここまでのぼくの杉田氏への批判の根幹は「物語のメタレベルから、傲慢にも一般論としての「正論」を述べているに過ぎない」というものである。
     それでは、この『進撃の巨人』論においてはそれはどう違っているのだろうか。ざんねんながら、ぼくにはあまり違っているようには思えない。
     杉田氏はあい変わらず非常に不遜な議論を繰り広げている、そしてほとんど血を流すことなく「正論」を語っている。かれの言説は、ぼくの(あるいは歪んでいるかもしれない)目にはそのように映る。
     それは決して「その態度が偉そう」ということではなく、より本質的なところで謙虚さに欠けているという問題だ。
     とはいえ、杉田氏の議論はじっさい、説得的なものである。かれは『進撃の巨人』は政治的な物語であると語る。まったく賛成だ。『進撃の巨人』が、たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』などと違うのは、その高度な政治描写にあるだろう。
     しかも、その政治性とは、真実が二転三転し、何がほんとうなのかまったく判断できないという「ポストモダンにしてポストデモクラシー」なストーリーに宿っていることも指摘している。
     これもまた、そのような言葉を選ぶかどうかはともかく、間違いのないところだろう。『進撃の巨人』にはどこか一流のミステリーのようなところがあって、その時点で「善」であったり「悪」であるように見えたものが、後でまったく違う姿に逆転するといったことが次々に起こる。
     そこにこそ、この作品の魅力があるわけだが、それは同時に「いったい何が真実なのか?」、その点を最後の最後までたしかめることができないということもであって、だからこそ、作中にはいつも一種の相対主義的なニヒリズムに陥りかねないような絶望的な雰囲気がただよっているのだ。
     そこまでは納得できる見解だ。ぼくがついていけなくなるのは、その先である。
    長い長い引用。
     杉田氏はまた書いている。いくらか長くなるが、大切なポイントなので、引用させてもらおう。

    その点では、むしろポイントだったのは、最後の結論に至る手前の、次のような可能性ではなかったか――地ならしによって人類殲滅戦争へと突き進むエレンを食い止めようとするミカサやアルミンたちの態度は、エレンとの友情を信じながら、敵対勢力との対話を尊重する、という対話型の平和主義であり、つねにどこか、甘っちょろい不徹底さを感じさせるものだった。それはエレンの覚悟や決断に匹敵していない、と思われていた。
    しかし、最終回から振り返ってみると、そこには、『進撃の巨人』の連載の積み重ねによってはじめて生まれつつあった、新しい可能性があったように考えられる。
    すなわち、第127話、第128話あたりの、アルミン、ミカサ、ジャン、コニー、リヴァイ、ハンジ、ライナー、アニ、ピーク、マガト、ガビ、ファルコ、イェレナ、オニャンコポンたちが一時的に形成する集団性に私は注目してみたい。
    その場には、火を囲んで、敵と味方、仲間を殺された者、仲間を殺した物、裏切った者、裏切られた者などが複雑に重層的に入り乱れて、異様なまでに混乱した、わちゃわちゃした協力関係(デモクラシー)が形成されつつあった。ここに新しい重要な可能性があったのではないか。彼らは同じ普遍的な正義感を共有しているわけでもないし、何らかのコンセンサスがあるのかも疑わしい。彼らにとっては、憎み合うことと話し合うことがもはや見分けがたいのだ。
    重要なのは、それでも彼らが、おそらく次のような最小限の前提を分かち合っていた、ということだ。マガト元帥の言葉に耳をすまそう。
    「昨夜の…私の態度を詫びたい/我々は…間違っていた/軽々しくも正義を語ったことをだ…/この期に及んでまだ…自らを正当化しようと醜くも足掻いた/卑劣なマーレそのものである自分自身を直視することを恐れたからだ(略)/この…血に塗れた愚かな歴史を忘れることなく伝える責任はある/エレン・イェーガーはすべてを消し去るつもりだ…/それは許せない/愚かな行いから目を逸らし続ける限り地獄は終わらない」(第128話)
    第127話、第128話あたりに開かれかけていたのは、いわば、愚かさをわかちあう人たちの協同的な関係、あるいは、愚か者たちのデモクラシー(無知と無能のデモクラシー)とでも呼ぶような何かだったのではないか。

    「愚か者たちのデモクラシー」という切実な呉越同舟。
     「愚か者たちのデモクラシー」。これもまた、『進撃の巨人』終盤の「わちゃわちゃした」呉越同舟的なグループの雰囲気を、なかなかに的確に表現した造語であるかもしれない。
     ぼくは、物語のクライマックスにおけるアルミンたちの集団が、その言葉にふさわしい可能性を示していたことを認めるものである。
     アルミンたちは、その時点で、何らシェアしあうべき「正義」を持ってはいなかった。かれらが共通して持っていたのは「自分自身の無知と無能の痛切な自覚」ともいうべき「愚かさの意識」だけであり、その意味でかれらのパーティはたしかに一群の「愚か者たちのデモクラシー」を成している。なるほど、そうかもしれない。
     そこまでは、わかる。ただ、ぼくがそれでも杉田氏の見解に納得しがたいものを感じるのは、その「愚か者たちのデモクラシー」が成立するためには、ひとつの削り取ることのできない条件が存在していると考えるからだ。
     これもごくあたりまえのことかもしれないが、「愚か者たちのデモクラシー」を成り立たせるためには、「自分はほんとうにどうしようもない愚か者である」という苦い自己認識と、「それでもなお、より良い選択を考えつづけることをやめはしない」という強烈な意思が併存している必要がある。そのいずれが欠落していてもこの「デモクラシー」は成立しない。
     それでは、この両者は、アルミンたちのなかできちんと併存できているだろうか? ひとまずは、できていると見て良いように思われる。そのとき一時だけのことではあるかもしれないが、かれらは世界の滅亡を目前にして、ごく謙虚に自分の愚かさを省みている。
     自分は、自分たちは正しくなどない、正義の見方などではない、ただのひとりの愚かな過ちを犯した人間であるに過ぎないのだ、と。そして、その上でそれでもエレンの虐殺行為は認められないと考えているわけである。
     その、切迫した言葉たちよ。ここには最も切実な民主主義がある。素直にそう思う。 
  • 『氷と炎の歌』、『ダークソウル』、ダークファンタジーの伝統とは。

    2021-06-20 16:23  
    300pt
     ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』、ゲーム『ダークソウル』など、さまざまなメディアで世界的に流行を続けるダークファンタジー。そのジャンルはどのような歴史と特徴を持っているのか、ひと通りのことを解説しました。
    『ENDER LILIES』が面白そうだ。
     明後日の6月22日、『ENDER LILIES: Quietus of the Knights』が発売される。「死の雨」によって壊滅した王国を舞台に、少女と騎士の昏い冒険が描かれる、とか。
     「2Dグラフィックのマップ探索型アクションゲーム」を意味する「メトロイドヴァニア」と呼ばれるジャンルの作品で、バリバリのダークファンタジーだ。
     「メトロイドヴァニア」という言葉は『メトロイド』+『キャッスルヴァニア(悪魔城ドラキュラ)』から来ているのだが、まあ、ようするにそういうゲームであるらしい。
     すでに先行版が発売されていて大好評だし、何よりぼくはこの手のダークファンタジーが大好物なので、ぜひプレイしたいと思う。
     いま、ゲームの世界に留まらず、映画でもマンガでもダークファンタジーは大流行だ。否、もはや流行というよりメジャーな一ジャンルとして印象した印象すらある。
     世界的に見て、そのなかでも最も大きいタイトルはやはり『ゲーム・オブ・スローンズ』だろう。

     ジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』を原作に、「七王国の玉座」を狙い合うさまざまな野心家たちの策謀と戦いを、ドラゴンやゾンビといったファンタジー的なキャラクターをも絡めて描写したテレビドラマ市場に冠たる大傑作にして大ヒット作である。

     原作も優れた傑作にして世界的なベストセラーだが、その人気が広まったのはやはり映像化されたことが大きいと思う。
     また、ゲームの世界では、ダークジャンファジーと呼ぶべき名作が山のように発売されている。
     どこからどこまでをそう呼ぶべきなのかは微妙なところだが、たとえば日本のゲームである『ダークソウル』などは、世界的に熱狂的なファンを抱えていて、「ソウルライク」と呼ばれるゲームもたくさん出ている。

     『ドラゴンクエスト』の新作もどうやらダークファンタジー風味の作品になるらしい。このダークファンタジーのブームはどこから来ているのか、なるべくわかりやすく解説してみよう。
    ダークファンタジーとゴシックロマンス。
     歴史的に見れば、ダークファンタジーと呼ぶべき作品は、そのときはそう呼ばれてはいなかったにしても、じつは大昔からあった。
     そもそも世界中の神話やお伽噺などがかなりダークな性質を持っていることは広く知られている通りであるわけで、そういう意味では数千年前からダークファンタジーは存在していたということもできるかもしれない。
     ただ、それだけではあまりにざっくりした説明になる。より近代的な意味でのダークファンタジーに注目してみよう。
     おそらく、いまのダークファンタジーにとって先祖ともいうべき作品があるとするなら、それはいわゆる「ゴシックロマンス」の小説たちだろう。
     ウォルポールの『オトラント城奇譚』に始まる18世紀のロマンス小説は、たしかに狭い意味でのファンタジーとはいえないだろうが、その昏い魂を凝らせたような展開の数々、また荒涼たる風景の描写は、非常にダークファンタジー的である。
     エドガー・アラン・ポーという例外はあるにしても、その大半がいまの目から見ると冗長で無駄が多いように思えるところも含めて、ダークファンタジーはゴシックロマンスから生まれた、といっても良いものと思われる。
     それらの作品については『ゴシックハート』、『ゴシックスピリット』といった解説書にくわしい。

     悪の魅力と異国情緒(オリエンタリズム)あふれる『マンク』などは、今日のたとえば『アラビアの夜の種族』の遠い祖先といえるかもしれない。

     ただ、これらの作品は一般にホラーの先祖とみなされていて、ダークファンタジーとのつながりを考える人は少ないだろう。
     また、その雰囲気はいかにもダークファンタジーと似ているとしても、もっと直接的にいまのダークファンタジーと関係があるというものでもない。
     その上、18世紀はあまりにも遠い。したがって、よりダイレクトにダークファンタジーといえる作品たちは、20世紀初頭のアメリカに見ることができるはずである。
    100年前のヒロイックファンタジー。
     いまの視点から振り返ってみると、エンターテインメントとしてのダークファンタジーの成立は、いまから100年ほど前、20世紀前半の頃なのではないかと思えて来るのである。
     『ウィアード・テールズ』などといったアメリカの娯楽雑誌で、いわゆる「パルプフィクション」として誕生した「ヒロイックファンタジー」のうちのいくつかがそれだ。
     いまではほとんどは取るに足りない凡庸な作品に過ぎなかったともいわれるヒロイックファンタジーだが、なかには素晴らしい名作もあった。
     たとえば、ロバート・E・ハワードやC・L・ムーアなどの作家たちが物した『英雄コナン』や『ジレル・オブ・ジョイリー』などのシリーズがそれである。そのなかでも『コナン』のシリーズはいまに至るも名作中の名作として知られている。

     これはいまから一万年以上も昔の時代に、頽廃した文明のなかで活躍した野生児「コナン」を主人公とした物語で、かなりダークでデカダンでエロティックな作品群である。
     その即物性というか、ある種、プラグマティズム的な雰囲気も含めて、ある意味では、『コナン』は最初期のダークファンタジーといえるかもしれない。
     これもまた、日本では100年以上が過ぎたいまでも新刊として読むことができる。いかに優れたシリーズであるかがわかろうというものだろう。
     一方、当時のヒロイックファンタジー作家にはめずらしい女性作家であるムーアは、その傑出した感性で、きわめて官能的なファンタジーを綴った。彼女の「ジレル」や「ノースウェスト・スミス」のシリーズはいまでも読まれている。
     また、「ジレル」にしろ「ノースウェスト・スミス」にしろ、「やおい趣味」的なフレーバーが濃厚で、そのような意味でも興味深い作品なのである。
     そして、それらの作品よりさらにダークでデカダンな作品を物したのが、クラーク・アシュトン・スミスだ。
     
  • 映画『映画大好きポンポさん』を庵野秀明や宮崎駿と比較し語る。

    2021-06-17 01:40  
    300pt
    映画版『映画大好きポンポさん』が腑に落ちない。

     先日、すでに各地で好評を集める『映画大好きポンポさん』を観て来たのですが、いまひとつ自分のなかでどう評価するべきなのか納得が行っていないところがあって、考え込んでしまいました。
     特にクライマックスのあたりをどう解釈するべきなのか、正直、良くわからなかったんですね。
     通常、映画作りテーマの作品でも光があたることが少ない「編集」という作業にスポットライトをあてていることはわかるのだけれど、それが何を意味しているのか、主人公のジーンくんが何を選び、何を捨てているのか、明確には理解できなかった。
     そのあたりのとまどいは哲学さんと放送したYouTubeを聴いていただければわかるかと思います。
    https://youtu.be/Ivcr1xm0XGs
     思いっきり腑に落ちない感じで話している。
     そのことについて語るまえにまずは物語のあらすじから話をしますと、この映画の主人公は映画の都ニャリウッドへやって来て天才プロデューサー・ポンポさんのアシスタントをしている青年ジーン・フィニ。
     「えっ、ポンポさんが主役じゃないの!?」と思われるかもしれませんが、ポンポさんはあくまでそのジーンくんが召使いのごとく忠実に仕える美少女プロデューサー。『ドラえもん』でいえばジーンくんがのび太、ポンポさんがドラえもんの役どころですね。
     ジーンくんは、伝説の超大物映画プロデューサーから地盤も人脈も才能もすべて受け継いだニャリウッドいちの敏腕プロデューサーであるポンポさんのもと、映画作りのノウハウを学んでいくのですが、あるとき、ポンポさんが書いた脚本を映画化するというビッグチャンスが舞い込んできて――というところからストーリーは始まります。
     まあ、おおまかなあらすじはほぼ原作通りですね。少なくとも前半前半のあたりはほぼ原作そのまま。原作に出てこないキャラクターが顔を見せたりして気になるところもあったのですが、原作既読のぼくは「まあまあかな」などと偉そうに思いつつ、スムーズに見れました。
     ところが、映画は後半に入ると、お話は大きく原作から逸脱しはじめます。
    いったい「それ」は何を意味しているのか?
     それは、具体的には、映画の撮影が終わったあと、監督であるジーンくんが自ら映像を編集するくだりです。原作ではわずか数ページしかないこの場面が、映画では物語のクライマックスとして長々と語られます。
     じつはぼくはここがわからなかったんですよね。どう考えたら良いのか、どうにも釈然としなかった。良い話のような気はするのだけれど、いまひとつ心から納得はできないというか、ナチュラルに受け止めることができなかったのです。
     というのも、この後半で、ジーンくんはいままで撮った膨大なシーンを片端からカットしていくのですね。
     良い映画を作るためには不要なシーンを捨てなければならないという信念のもと、いままで苦労して撮ったシーンの数々を捨て去っていくわけなのですが、それでは、そうやって「いらないもの」を捨てていったあとに残るものは何なのか? かれにとっての選択の基準とはどういうことなのか? そこがいまひとつわからなかった。ピンと来なかったんです。
     良い映画を作り出すためには、スタッフがどれだけ苦労して撮ったシーンであっても、捨てなければならないことはある。それはよくわかる。その通りだと思う。でも、それでは、その良い映画、優れた作品とは何なのか?
     この『ポンポさん』という映画は一種のメタ構造になっていて、物語が進んでいくにつれ、作中のジーンくんと、作中作(映画内映画)『Meister』の主人公、天才指揮者のダルベールとが重なり合っていくようになっているのですが、そのダルベールが最後に指揮に成功する「アリア」とはどのような性質のものなのか? ええ、白状しますと、もうさっぱり理解できませんでした。
     作中の設定によると、アリアとは感情を乗せなければ表現できない曲であり、孤独で尊大なダルベールはいったんその指揮に失敗してしまいます。
     その後、ヒロインのリリィと出逢って過去の感情や思い出を取り戻し、再度挑戦して成功するのですが、そのことは具体的に何を意味しているのか? ここがどうしても判然としなかった。
    二度目の鑑賞に挑んでみた。
     そこで、しかたないので、もういちど映画館に行って同じ映画を見てきました! 日々、赤貧にあえぐぼくとしては同じ映画を二度も見に行くというのはきわめてめずらしいことです。それくらい、この映画のことが気になっていたのですね。
     ぼくがこの映画について抱いていた「謎」とはこのようなものでした。作中で、ダルベールは「感情」がなければ指揮できないアリアを成功させる。ということは、かれはリリィと出逢ったあと、「感情や思い出」を取り戻したと解釈できるはず。
     したがって、そのダルベールと重ね合わせられて描かれているジーンくんもまた「感情や思い出」、いい換えるなら「愛」を取り戻したと見ることができるはずなのだけれど、作中の描写を見ると、かれはひたすら「友情」や「生活」といったものをカットしていっている。
     これはなぜなのか? いったいジーンくんは捨てているのか得ているのか、どちらなのか? うーん、わからないよう、と。
     どうも同じような感想を抱いた人はやはりいたようで、某映画感想サイトにはこのような意見が載っています。

    「一番気になったのが追加撮影からのジーン。
    まず追加撮影で何を撮りたかったのかが、イマイチピンとこない。
    何よりマイスターのダルベールは作中劇でリリーと出会い、忘れてたものを取り戻し、それを音楽に還元したのでは?
    ジーンが映画以外を削ぎ落として作品を完成させたのならそこが一致してないのがモヤモヤする点だった。
    結局削ぎ落とすのか、拾うのかがわからなかった。
    「アリア」というワードも急に出てきた感じがしてしまう。後半にテーマ(情報量)が増えてちょっと集中しにくかった。」
    https://eiga.com/movie/91732/review/02568914/
     そうそう、ぼくもそう思ったのよ。ジーンくんは自分にとって大切なその他のものを捨てて、犠牲にして、映画を選んだように見える。
     しかし、作中作のダルベールは「忘れていたもの」を取り戻して、アリアの指揮を成功させている。その意味でふたりは同じではない。それにもかかわらず、かれらは重ねあわされて演出されている。これは矛盾ではないのか、と。
    ジーンくんは「映画の鬼」になったのか?
     もし、ジーンくんは映画を作るという目的のためだけにすべてを捨て去って、ただ最高の映画を撮ることだけを目指す一匹の修羅になり果てただ、ということならそれで良いし、それはそれで凄い話なのですが、どうもそういうふうにも見えない。
     創造や芸術の傲慢と狂気を描く、たとえば芥川龍之介の「地獄変」とか、そういう系統の物語だとは思えないのです。
     たしかにかれは自らの「狂気(映画作成を至上目的とする傲慢なエゴ)」の命じるまま、「映画にとって不要なもの」すべてをカットし、自らの人生を重ね合わされた映画を編集しつづけるのですが、論理的に考えるなら、かれが最終的に「これがぼくのアリアだ!」と叫ぶほどの傑作を作ることができたのは、そこに「愛」があったからであるはず。
     そうでなければ、「ただの傑作」はともかく、「かれにとってのアリア」は撮ることができなかったと思うのですね。
     LINEで色々と話をしたところ、狂ったように編集にこだわるジーンくんの姿に、『シン・エヴァ』の庵野秀明さんを重ね合わせて見た人もいたのですが、ぼくが思い出したのはむしろ『かぐや姫の物語』の高畑勲さんでした。
     高畑さんは映画を一本作るために、ほんとうに人が死んでしまうところまで追い込むような作り方をしているわけですよね。作品至上主義をつらぬいて、それでほんとうに死者が出ている、ということはまことしやかに語られているところです。
     これはもう、映画の鬼というか修羅というか、そういう境地であるわけですが、ジーンくんがめざしたのもそういうところなのか。それだったらそれで凄いけれど、どうにもそうは思えない。
     いや、高畑勲ではなく、宮崎駿の『風立ちぬ』でもかまいません。あの映画は、おれは自分が美しいと思うもののためなら人も殺すし国も滅ぼすんだ、良い仕事をするとはそういうことでしかありえないんだ、というテーマであったように思います。
     『風立ちぬ』はそれによってものすごい傑作になっているのですが、ジーンくんもあの映画のなかの堀越二郎と同じような道を往こうとしているのか?
    ジーンくんはなぜ「かれにとってのアリア」を撮れたのか?
     そう、ジーンくんが捨てて捨てて、最後に残そうとしたものは何だったのか?と思ったのですね。作中作のダルベールの場合、それは家族との思い出、家族への愛だった。それでは、その作中作を撮っているジーンくんにとっては何だったのか?
     映画はかれとダルベールが重なるように作られているので、かれにもまた何らかの愛があるはずであるという結論が出て来そうなのだけれど、そうなのか? ジーンくんは映画しか愛していない男だったのではないのか? そんなかれの「アリア」とはどのようなものなのか? そこがどうしても解釈し切れなかった。
     ダルベールは家族への愛があったから感情がこもるアリアを指揮できた。それはわかる。理解できる。では、ジーンくんはなぜかれにとってのアリアである『Meister』という映画を作れたのか? そこがわからない。
     ただ映画しか愛していない男にダルベールにとってのアリアに相当するような映画が作れるのか?
     ここで気になるのがジーンくんがすべての撮影が終わったあと、スケジュールを延長してまで追加撮影するシーンです。
     それはダルベールと家族との確執と別れの場面であるわけなのですが、これはつまり、ジーンくんはダルベールが家族を愛していることを説明するシーンがこの映画には必要不可欠だ、それがダルベールの音楽の核心なのだから、とそう思ってその場面を撮影したのだと見るべきだと思うのです。
     しかし、それだったらこの『映画大好きポンポさん』という映画にも、ジーンくんにとってのコアのところにあるものを説明する箇所が必要なんじゃないの?と思ったんですよ。
     まあ、随分と長々と話してしまいましたが、ぼくはその点がどうにも納得がいかなくて、それでこの映画の評価を保留していたわけです。「どうやら傑作のような気はするけれど、まだ断定できないぞ」と。
     
  • 炎上中の「なろう」パロディ『チートスレイヤー』本当の問題点とは?

    2021-06-14 01:09  
    300pt
    「愛のないパロディ」として炎上している『チートスレイヤー』を読んでみた。
     いま、Twitterを初めとする各種SNSで『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』という漫画作品が(主に批判的な意味で)話題に挙がっています。
     まあ、タイトルでわかるようにそれぞれが何らかのチートを与えられた邪悪な異世界転生者に対し、主人公が復讐を繰り広げていくという物語なのですが、そのチートキャラクター各人たちにひとりひとりに具体的なネット小説発のモデルがいると思しいことが問題視されているのですね。
     具体的には、こんな感じ。
     うん、ほかのはまだしも「双剣の黒騎士キルト」って『ソードアート・オンライン』のキリトそのままやんけ、と思ってしまいますね☆
     いや、キリトくん、べつに異世界転生なんてしていないんだけれど、まあ、チートキャラクターといえばまず思いつくのはかれであることはわからないでもない。
     ただ、キリトがチートだというなら『ドラゴンボール』の孫悟空や『ONE PIECE』のルフィを初め、あらゆるヒーローキャラクターはチートだといえなくもないわけで、「そもそもチートとは何なのか?」、「ヒーローの条件とはいったいどのようなものなのか?」という問いにも繋がっていきそうにも思えますが、そこまでの深みを期待できる作品でもないだろうな。
     すでにネットでは「悪質なパクり」、「愛のないパロディ」などと批判されていますが、そういった意見ももっともなのではないかとは思う。
     しかし、読まないで批判することもやはり良くないので、わざわざこの作品が連載開始した雑誌『ドラゴンエイジ』を買って読んでみました。
     買ってみて初めて気づいたんだけれど、この雑誌、かなり大量の「なろう系」作品が連載されているんですね。そんな雑誌で「なろう小説」に喧嘩を売るような作品を連載していて、この作者さん、忘年会パーティーとかで袋叩きにあったりしないかしらん。
     他人事ながら心配になってしまいます。いやまあ、ネットではすでに炎上しているわけですが。
    「面白いか、面白くないか?」、それこそが問題だ。
     で、本作を読むにあたってぼくが考慮したことはたったひとつ、「一個の作品として面白いのか?」。それだけです。
     この作品がいわゆる「なろう小説」を初めとする具体的な作品のパロディであろうがオマージュであろうが、それは良い。
     たしかに「双剣の黒騎士」やら「ネームド・スライム」やら、あきらかに元ネタを消化し切れていない印象があるので、単純に訴訟沙汰になったら負けるのでは? 「パロディ」とか「パクり」という以前にただの純粋な「盗作」という次元なのでは? といった疑問が浮かばないこともありませんが、この際、それも良い。
     いや、良くないかもしれないけれど、少なくともいち読者であるぼくが最初に考えることではない。もし単に漫画作品として面白いなら、どんなにひどいパロディであっても、それはそれで許そう。ぼくはそういうふうに考えています。「面白いは正義」。
     そもそも「なろう」に限らず、既存の有名作品のパロディでヒットした漫画はいくらでもあるわけで、法的、著作権的にどうであるかはともかく、この作品だけをその文脈で非難することも何か違っているように思えます。
     それで、結局、『チートスレイヤー』は面白いのか? ……うん、さんざんひっぱるだけひっぱっておいて申し訳ないのだけれど、いやこれ、ダメですね。
     もちろん、まだ第一話の段階なので軽々に判断はできないものの、とてもこの先、傑作になろうとは思われない。ごく普通に企画倒れのただのよくある凡作でしかないすね。
     あえて称賛するなら、この作品を読むと、ネットではバカにする人も少なくない『ソードアート・オンライン』とか『Re:ゼロ』とかがじつはいかによくできていて面白い作品であるかが逆説的によくわかる。
     『モナ・リザ』の贋作が『モナ・リザ』の威光を高めるように、といったらいい過ぎか。とにかく、全然面白くない。そういうわけで、この先は「具体的に何がダメなのか?」を他の作品を踏まえて語っていきたいと思います。
    なぜ『チートスレイヤー』は面白くないのか?
     この作品を読み終えたあと、ぼくは「この漫画、なぜこんなに面白くないのだろう?」と考えてみたのですが、まあ、その理由はいくつもあるでしょう。
     しかし、そのなかで最も致命的なのは、「エンターテインメントとしての志が低い」ことなのではないかと考えます。
     先述したようにこの種のパロディは歴史上無数にあるわけですが、それがただ単に露悪趣味的なパクりで終わるか、それとも元ネタをも超える傑作として評価されるかは、その元ネタに対する批評性にあるのではないかと思います。
     つまり、元ネタの作品ないし作品群が暗然と抱える構造的な欠点や問題点を批評的に語ることができているかどうか、それがパロディのクオリティを決定する。
     で、『チートスレイヤー』はその点で決定的に稚拙ですね。この作品に登場する異世界転生者たちは作中で「前世はただの陰キャ」だの「恋愛脳の非モテ」だのと批判されていて、あえていうならそれがいわゆる「なろう」的なネット小説に対する批判になっているわけですが、そんなの、いままでさんざんいわれていて、もうウンザリするくらい聞き飽きた話であるわけですよ。
     いま、「なろう」的なものを書いている人たちはだれもがその点はわかった上でやっているわけでね、まず、批判なり批評としての底が浅い。ネット小説に対する「アンチテーゼ」としてまったく新鮮味がない。それが第一点。
     この時点でもうわりとダメダメなのですが、まだいろいろと問題があって、そのなかでもけっこうどうしようもないのが、主人公のキャラクターがきわめて弱いことですね。
     他作品からキャラクターを借りて来て敵役に仕立て上げている以上、この作品の主人公であるオリジナルキャラクターはそれらに匹敵する個性と魅力を持っていなければならないわけですが、実際にはこの主人公、ほんとにただのつまらない奴なんですよ。まったく何の魅力もない。ちょっと論外ですね。
     それなら、この『チートスレイヤー』と同じような路線で「成功したパロディ」には、どのようなものがあるのか?
    『ザ・ボーイズ』や『ウォッチメン』といった先行例。
     ネットでは、すでにこの作品がアメリカンヒーローものパロディの『ザ・ボーイズ』と酷似しているという指摘があります。
     ぼくは不勉強でまだ『ザ・ボーイズ』を観ていないので(これから観ます!)、それがほんとうなのかどうなのかわからないのだけれど、話を聞く限り、たしかによく似ているようですね。おそらく、同じようなアイディアから出て来た作品なのでしょう。
     もっとも、当然ながらこの手のヒーロー・パロディにも歴史があって、この作品が特別だというわけではありません。先行例としては、ときにアメコミ史上の最高傑作とも呼ばれることがあるダークな超名作『ウォッチメン』などがありますね。
     この作品ではたくさんのオリジナルヒーローが出て来ますが、当初の予定では既存のヒーローを流用する予定だったそうです。
     というか、ヒーローを悪役にするという発想は、それ自体はきわめて普通のもので、だれもが最初に思いつくところなんですよ。最も魅力的な主人公とは最も強烈な個性を持つ悪役にもなりえることはわかり切ったことであるわけです。
     だから『仮面ライダー』とか『ウルトラマン』とか『機動戦士ガンダム』などでも、最終的にはライダー対ライダー、ウルトラマン対ウルトラマン、ガンダム対ガンダムといった展開になっていきますよね。
     その発想の根底には「もしあのヒーロー同士が戦ったらどっちが勝つのだろう?」という、いかにも子供っぽい、しかし本質的なクエスチョンがあります。
     これはいまも昔も変わらず、人をつよく惹きつける問いで、この手の作品はいくつも挙げられることでしょう。
     ちょっと路線は違いますが、『スーパーロボット大戦』なんかも同じような発想から出てきているものと見て良いでしょうね。「もしマジンガーとガンダムがいっしょに戦ったら?」みたいな。
     そのなかでもぼくが傑出した名作と見ているのが、戦後最大の天才娯楽作家・山田風太郎の最高傑作『魔界転生』です。 
  • 『よつばと!』を読むといつも悠々と過ぎ去る時の不思議に想いを致す。

    2021-03-07 07:00  
    50pt

      うう、おととい、『シン・エヴァ』のチケット予約のため夜中まで苦闘していて、きのうはそのぶん寝ていたため、更新できませんでした。申し訳ない。
     さて、今日はなんの話をすることにしよう。最新刊が出た『よつばと!』の話でもしますかね。『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』といっしょに買ってきたのだけれど、いやあ、面白い。
     すっかり数年に一冊しか出ない状態が定着してしまった印象がある『よつばと!』ですが、その何年かに一冊の新刊はやはり極上の出来です。
     「笑って泣ける」漫画こそが最も漫画らしい漫画であるとするのなら、この作品は日本の漫画界を代表する一作といって良いでしょう。
     この作品のなかで無敵の幼児・よつばと「とーちゃん」が経験するのは、奇跡のようなあたりまえの日常。しかし、そのなかでも時は経っていき、この巻でよつばはついにランドセルを買うに至ります。
     もうすぐ小学生! まあ、例によってその「もうすぐ」に到達するまでに何年かかるかわからないのですが、第一巻からずっと読みつづけている一読者としてはまさに感慨無量というしかありません。
     いやあ、よつばもいよいよ小学生か。いつかこの時が来るとは思っていたけれど、じっさいにそうなってみると感動するなあ。何しろここまで18年かかっているからね……。
     そういえば、よつばは幼稚園とか保育園へは通っていないんだよね。まあ、まったく人見知りしない子だからいきなり小学校でも問題ないとは思うけれど。
     『よつばと!』の作中でよつばはさまざまなイベントを経験して少しずつ大人になっていくわけなのですが、とくべつ壮大な事件は何もありません。
     たいていはごく日常的な出来事でしかなく、いくらか劇的なイベントにしても、せいぜいがほんの少しだけ日常から逸脱しているかどうか、という程度でしかない。その意味ではほんとうにドラマティックなことは何もないといって良い話ではあります。
     それにもかかわらず何十万もの読者が続刊を待ちわびているのは、そこに圧倒的な「実在感」があるからでしょう。よつばのデザインはいかにも漫画的なのだけれど、それでもよつばは「たしかに生きて鼓動しているキャラクター」ならではの確固たる存在感がある。
     リアリティのある描写というのとはちょっと違う。「たしかにそこに生きて、動いている感じ」があるといえば良いのか。この実在感って 
  • 「正義」と「寛容」は矛盾し対立する。

    2021-03-04 07:00  
    50pt

     きのう、『無職転生』の「低俗の肯定」というテーマに関する記事を書いたわけですが、それからちょっと考え込んでいます。つまり、「低俗を肯定すること」はほんとうに正しいことなのか、と。
     この場合の「低俗の肯定」とは、たとえば性的なだらしなさを許容することを差しています。
     べつだん、性的にだらしないことを「正しいこと」と見なすわけではない、それはダメなことであるには違いないのだけれど、ダメなことをダメなことと認めた上で、その存在を許すこと。それが、現代社会に最も欠けている視点なのではないか、という話でした。
     ぼくは、個人的にこの考え方に強く共感するところがあります。何といっても、現代社会は、というよりインターネットは、あまりにも個人の失敗に厳しすぎる。
     芸能人が何かちょっとセックススキャンダルでも起こした日には、再起不能になるまで叩いて、叩いて、叩く、それがインターネット、あるいはソーシャルメディアのスタイルです。
     そこには一切の容赦はないし、許容もない、「寛容の美徳」など夢のまた夢というしかありません。
     ネットではよく「また××が炎上した」などといいますが、このいい方は誤解を招く余地がある。「炎上事件」はかならずしも「炎上」した本人に責任があるとはかぎらないのです。
     もちろん、そこには何かしらの「火種」があるには違いないけれど、その「火種」が完全に倫理的な悪であるとはいい切れないことも多い。「燃えあがらせる」側が何らかの誤解や誤読にもとづいて一方的に怒り狂っている場合も少なくないのです。
     じっさいのところ、「炎上」という言葉は、「集団での一方的な袋叩き」というほうが遥かに実態に即していると思います。それが「炎上」と呼ばれているのは、結局は「炎上」させる側が責任を負いたくないからに過ぎないでしょう。
     インターネットにはあまりにも「正義」が、いな、「独善」が強すぎる。「自分で勝手に正義の味方だと思い込んだ頭のおかしいネットストーカーたち」が徒党を組んで(ただし、自分の自覚ではたったひとりで)何か問題を起こしたとみなされた個人を攻撃している状態こそが、「炎上」の本質です。
     そして、「炎上」に参加した各人は、その後何が起こっても、たとえば自殺騒動に発展しても、決して責任を取ることはありません。この種の「正義の味方」ほど醜いものはないとぼくは思います。
     いやー、ひどいですね。ここら辺、『推しの子』という漫画の最新三巻を読んでいただくとわかっていただけると思います。面白いですよ。

     さて、そのあまりにも「正義」が過剰すぎるいまのネットに決定的に欠けているのが、 
  • 『せんせいのお人形』は人間の知性のあり方の違いを描き出す傑作漫画。

    2021-03-02 07:00  
    50pt

     この記事はおそらく3月2日の午前7時に公開されることになると思うのですが、書いているいまは先ほど日付けが変わって3月になったばかりの午前1時ごろです。
     じつはクレジットカードの支払いの関係で2月に購入するのはためらっていた本を3月になってから何冊か買ってしまって、さっきまで読んでいたのでした。
     電子書籍の良いところのひとつは日付けが変わった瞬間にダウンロードして読むことができるところですよね。
     まあそういうわけで、前々からわくわく! どきどき! 非常に楽しみにしていた『せんせいのお人形』の最新刊を読みました。
     いやあ、ぼく、この漫画、ほんとうに好きだなあ。最近読んだ漫画のなかにはわりと何作もヒットがあるのですが、そのなかでも「好き/嫌い」でいうならベストに近い作品かもしれない。いくら客観的によくできていても、好悪はまたべつですからね。
     それでは、何がいったいそれほど好きなのか
  • アメコミはいつまでも果てしなく続く無限並行世界の連鎖の物語だ。

    2021-03-01 07:00  
    50pt
     この頃、アメコミことアメリカンコミックを集めることに凝っています。何しろ一冊が数千円からするので、それほど数を集めることはできないけれど、こつこつ読み耽っている。
     『ウォッチメン』、『キングダム・カム』、『ダークナイト・リターンズ』といった名作どころはさすがに面白いですね。
     『ウォッチメン』はアメコミ史上の最高傑作ともいわれる作品で、天才作家とも呼ばれるアラン・ミラーの代表作でもある。そのダークでディープな世界は他の追随を許しません。
     以前、映画化されたほか、最近になってテレビドラマで続編が登場したことでも知られていますね。あと、コミックのほうでも『ドゥームズデイ・クロック』という続編が出ていて、スーパーマンが絡んだりして、なかなか評判も良いようです。

     『キングダム・カム』は圧倒的画力を誇る(しかし、それが故に遅筆でもある)アレックス・ロスという人の作品です。まあとにかく絵が巧くて、一ページ一ページがひとつの作品といっても過言ではないくらい。
     ストーリーも歳をとって白髪混じりになったスーパーマンとかれと対立するバットマンを主人公にした、なかなか渋い話で、読ませます。アレックス・ロスには『マーヴルズ』という作品もあって、そちらもやっぱり巧いです。
     『ダークナイト・リターンズ』はいささか古さを感じさせるものの、バットマンもののクラシックで、面白いですね。
     アメコミは日本の漫画と違って、ほぼ共通するキャラクターを使ってそれぞれの物語を描いているわけですが、まさにそうだからこそ各作家の個性が出て来ることは興味深い。たとえばバットマンひとつ取っても、作家によってまったく描き方が異なります。
     ぼくはやっぱりバットマンものに興味があって、『ロング・ハロウィーン』だとか『HUSH』あたりは読みたいのだけれど、何しろ一冊一冊が高いのでいまのところ入手できていません。ぐぬぬ。いつか読んだるからな!
     もうひとつ個人的に興味深いのがスパーダ―マンで、『スパイダーバース』は面白かったですね。これは無数の並行世界からありとあらゆる作品の主人公であるスパイダーマンが集まって来るというかなりとんでもないストーリーで、ここから派生して『スパイダーグウェン』のシリーズとか続いています。
     スパイダーグウェン、日本人の眼から見てもなかなか魅力的なキャラクターデザインなんですけれどね。『グウェンプール』あたりはほぼ日本の萌え漫画の影響バリバリといったデザインで、『モーニング』あたりに連載されていてもおかしくないんじゃないかという気がします。

     ちなみに、 
  • 『天気の子』対『鬼滅の刃』。

    2021-01-08 04:16  
    50pt

     昨日は何と暴風のためインターネットが使えなくなり、更新できませんでした。ごめんなさい。
     さて、先日、新海誠監督の『天気の子』が初めてテレビ放映されました。この機会に初めて作品に触れた人も少なくなかっただろうと思うのですが、衝撃的なクライマックスがどのように受け止められたのか気になるところです。
     いまさらネタバレに配慮する必要も感じないので語ってしまいますが、この作品の終盤で、ヒロインである「天気の子」を失った東京は水没してしまいます。
     そしてその水に沈んだ都市のなかでも人々は健気に懸命に暮らしているのでした、というオチなのですが、どう考えても何万人か何十万人か、膨大な数の人が死んでいるんですよね。
     これは一般に「世界」か「ヒロイン」か、二者択一の状況を突きつけられて、どちらを選べば良いのかわからないというセカイ系の問題軸に対し、「それでもヒロインを選ぶ」というアンサーを示したものと見られています。
     劇場で見たときはあまりにあまりの展開に呆然としたもので、はたしてこの結末をどう受け入れれば良いのか、いまでも悩むところです。
     たしかに、水没した都市のなかで人々は頑張って生きのびている。しかし、それはいってしまえば「たまたまそうだった」というだけのことに過ぎず、可能性としては文字通り都市がひとつ死滅してしまった可能性もあったわけです。
     もっと云うなら、人類が滅亡したかもしれなかったでしょう。それでも、なお、「ヒロインを選ぶ」なら、それはたしかに意味がある。しかし、ほんとうにそうだったのか。ぼくはいまでも思い迷う。
     ここでぼくが思い出すのはディズニー映画『アナと雪の女王』です。この作品でも、アナは姉エルサに対し無償の愛を示し、そのことによって彼女をも国家をも救うことになるのですが、ぼくにはそこで示された「絶対の愛情」がいかにも無根拠なものに思われてしかたなかった。
     ようするにアナは王族であるにもかかわらず何も考えていないからこそ、その国でささやかな人生を生きつづける無辜の人々について思いを馳せていないからこそ、無邪気に「エルサを選ぶ」ことができたに過ぎなかったのではないか。そう思われてならない。
     もちろん、「ヒロインか、世界か」というとき「世界」を構成するひとりひとりの市井の人々の人生にまで思い馳せることは人間には不可能で、だからこそ目の前のひとりの少女を救うことを選ばざるを得ない、という事情はあるかもしれません。
     「世界よりヒロインを選ぶ」と宣言するとき、「そこで犠牲になる「世界」の重さを、ほんとうに十分に想像したか」とぼくは考えてしまうわけですが、そもそも「十分に想像する」ことなどありえないのであって、人は限定された想像力のなかで決断していかなければならないものなのだということです。
     しかし、『天気の子』はともかく、『アナと雪の女王』の「めでたしめでたし」なハッピーエンドを見ていると、どうにも釈然としないものが残ります。
     悪く取るなら、そこにあるものは、ようは自分に関係のない人々のことは知ったことではない、自分にとって好ましい人間だけ生きのこれば良いというエゴイズムであるとも云えるからです。
     一方でその問いをまえに決然と「世界」を選び取ることを描く作品も存在します。他ならない『鬼滅の刃』です。

     『鬼滅の刃』では、