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2016年4月の記事 65件

寝取られは淫靡なマゾヒズムの悦び。色白好『ネトラセラレ』は昏い背徳の欲望の物語だ。

 きょうも懲りずにエッチな漫画のレビューを続けます。  いやいや、ぼくはべつに好きじゃないんだけれど、読みたくもないんだけれどね、ほらほらお仕事だからしかたなく!  いやー、仕事辛いわー。マジ辛いわー。対価をもらって文章を書くって大変だね!  ――ごめんなさい。ぼくはいま嘘をつきました。エッチな漫画は好きです。心のオアシスです。  仕事もめっちゃ楽です。こんなに楽でいいのかにゃあと思うくらい。まあたぶんいいんだろうけれど。  さて、らぶらぶいちゃいちゃな漫画を二冊ほど紹介したので、今回は趣きを変えてダーク&エロティックな作品をひとつ。  色白好『ネトラセラレ』。  タイトル通り、「ネトラレもの(NTR)」です。  きれいで可愛くて胸が大きい、ある種の男性の理想を絵に描いたような女性がヒロイン。  主人公は彼女の夫なのですが、彼女との性生活に満足できないものを感じ、不能に近い状態になっています。  そしてあるとき、悪魔がかれの心にささやきかけるのです。彼女がほかの男と寝ているところを見ることができれば、自分の不能も直るかもしれない。  そして、かれは妻に土下座して頼み込みます。どうか一度だけほかの男と寝てほしい、と。  頼まれたらいやといえない妻は渋々その願いを聞き届け、ひとりの男と夫公認の不倫を行うことにします。  そして、夫はその行為の「実況中継」を聞いてひとり欲情するのです――。  「ネトラレ」はマゾヒズムの極致ともいうべき表現ですが、自らほかの男に妻を寝取られることを望み、そのことに強い性的快楽を感じるこの主人公は変態としかいいようがないですね。  世の中にはひとに迷惑をかける(かけざるをえない)変態とそうでない変態がいるわけですが、この男がどちらに属するかは微妙なところでしょう。  違法行為に手を染めていないという意味ではだれにも迷惑をかけていないと強弁することもできるだろうけれど、何よりかれの最愛の妻が犠牲になっているわけです。  こんなろくでなしの男、とっと別れたほうがいいと思うのですが、そこは漫画なので彼女はなかなか夫を見放しません。  しかし、 

寝取られは淫靡なマゾヒズムの悦び。色白好『ネトラセラレ』は昏い背徳の欲望の物語だ。

『あまあま*パフュメ』。香りと性の密接な関係。

 ども。きょうのエッチな漫画のコーナーです。  最近、ココロの潤いを求めて色々読んでいるわけですが、そのなかでも良かったものを紹介します。  久遠ミチヨシ『あまあま*パフュメ』。  「香り」テーマにしたちょっとめずらしい漫画です。  漫画では直接的に香りを描くことはできないわけで、主人公は香りを視覚的に認識することができる特殊能力を持つ青年という設定。  かれがある美人三姉妹が経営する香水店に就職するところから物語は始まります。  そのうちの次女に惹かれるものを感じたかれは、彼女とからだを重ねるのですが、三女もまたかれに恋をしてしまい――というふうにわりとご都合主義的にお話は進みます。  もっとも、ハーレムものではないので、最終的には主人公は結ばれるべき人と結ばれることになります。  エッチシーンは主に次女のもので、三女が一回だけ。  贅沢をいうならどうせなら長女のエッチシーンも入れてほしかったなあという気がしますが、構成的に入るところがなかったのかもしれません。  そのかわり、次女とのエッチは濃密に描きこまれています。  それはもう、何回も何回もらぶらぶいちゃいちゃをくり返します。やだもう、照れちゃう(じゃあ書くなよ)。  いやー、愛のある行為はいいですねえ。でも、毎回そればかり紹介するのもアレだから、次はダーク系でも取り上げようかなあ。  まあ、ぼくは肉体的に痛そうなの一切ダメな人なんですけれどね。SMものでもむち打ちとかは見ていて辛いものがある。精神的な支配、束縛といった関係性はいいんだけれども。  よくセックスは五感でするものなどといいますが、本来的にはあらゆるコミュニケーションが性的な意味を持ちえるのでしょう。  吐息のひとつひとつ、言葉のひと言ひと言で性行為は成り立つ。  香りもまたそのひとつ。良い香りがするよう清潔感を保ちたいものですね。うん、ちゃんとお風呂入ってからだを洗おう(あたりまえだ)。  ちなみに性と香りの関係について書かれた文学作品としては、パトリック・ジュースキントの『香水 ある人殺しの物語』が有名です。  これは 

『あまあま*パフュメ』。香りと性の密接な関係。

鬼頭莫宏の非情のリアリズムが冴える新作漫画『双子の帝國』。

 『双子の帝國』。  鬼頭莫宏さんの新作は、架空の世界を舞台にした冒険物語です。  といっても、いわゆる中世ファンタジーの世界とは一風異なっていて、日中戦争あたりの中国をモデルとしたと思しいわりに近代的な世界。  ただ、空を飛ぶ船が出てきたりするあたり、ファンタジーの要素がないわけではありません。  過酷で残酷な現実を淡々と描き出す作風で知られる鬼頭さんですが、この頃は『のりりん』とか『なにかもちがってますか』で新境地を拓いた感がありました。  しかし、この『双子の帝國』では作風がもとに戻っています。  ああ、ひとってそう簡単には変わらないものだなあ、と思わせられるくらい昔ながらの鬼頭さんのスタイル。  それも大昔の『ヴァンデミエールの翼』とかの時代の鬼頭さんが帰ってきた感じです。  非常にきびしい世界をしずかに描き出しています。  あまりにしずかなものだから、この第一巻の段階ではそれほど面白くない。  物語の主人公は皆殺しにされた部族の少年と、「魔法使い」に呪いをかけれたなぞの少女なのですが、困ったことに共感できるところが何もない。  もちろん、意図してそう設計されているわけですが、どうにも好きになれそうにない奴らだという気がします。  もっとも、これは長い物語になるという予感がするので、第一巻はまだプロローグに過ぎないのでしょう。  これから盛り上がってくることに期待したいと思います。背景には壮大な戦争の設定があるようですしね。  空戦のアクションなんかは、さすがに冴えています。これから集団戦とか描かれると面白そうですね。描くほうはたいへんだろうけれど。  まあ、そういうわけで、いつもの鬼頭さんなのですが、ぼくはこの人の作風は好きです。  正しい意味での「リアリズム」の作家さんだと思うのですよね。ただ 

鬼頭莫宏の非情のリアリズムが冴える新作漫画『双子の帝國』。

『ズートピア』は美しくもきびしい理想主義を謳いあげるディズニーの傑作映画である。

(メキシコ移民について)  メキシコは、ベストではない人々、問題があり、麻薬や犯罪を持ち込む人々を送り込んでくる。彼らは強姦魔だ、中には善良な人もいるかもしれないが。 「ドナルド・トランプの発言・暴言・名言まとめ:米大統領選2016」  物語の話をしよう。力強い物語の話を。  いまこそ、その需要がある。世界を憎悪が覆い、都市を反目が支配するとき、そのときまさに物語の力が必要になるのだ。  想像力を巡らせよう。気高い理想を語り、怒りと差別心を封じ込めよう。  ぼくたちにはそれができるはずだ。なぜなら、ぼくたちは偉大な夢を見るよう生まれついているのだから。  ディズニーの新作映画『ズートピア』はある崇高な理想の物語、そして、ときにその理想が挫折し、打ち砕かれる現実についての寓話だ。  主人公は新米警官のジュディ。ある田舎町に生まれた彼女は、保守的な両親の反対を振り切って警察学校を首席で卒業し、ウサギ初めての警官として動物たちの理想都市ズートピアに着任する。  しかし、あこがれのズートピアでジュディを待っていたもの、それはウサギでしかも女性の警官などだれも認めはしないというきびしい現実だった。  それでもくじけない彼女は、必死に努力し、48時間以内にひとりの行方不明者を探し出すという約束を署長と交わす。  もしそれができなければ警官を辞めるという条件だった。  ジュディは偶然に知りあったキツネで詐欺師のニックとともに捜査を開始するが、やがて彼女はズートピア全体を揺るがす大陰謀に遭遇してしまう――。  主人公が動物たちということで、一見すると子供っぽくも見える映画である。大人の視聴者にとっては、それほど面白そうには見えないかもしれない。  しかし、これは、今年を代表する大傑作だ。  シンプルでコミカルなシナリオが見ていて面白いというだけではなく、非常に深く考えさせられるテーマを持った作品である。  すみすみまで練られた脚本はただ完成度が高いという次元を超えて、観客に強く訴えかける力を持っている。つまり、「あなたならどうする?」と。  だれが見てもわかるように、無数の種類の動物たちが集うズートピアはアメリカ合衆国の暗喩だ。  つまり、この映画のテーマは「アメリカ合衆国の理想と現実」ということになる。  「だれでもなりたいものになれる」というズートピアの理想はまさにアメリカン・ドリームのことであり、そして、ズートピアが抱える問題はじっさいにアメリカが抱え込んでいる問題そのものである。  そういう意味で本作はきわめて政治性の高い映画であり、保守的にも見えるディズニーが、その実、決して単純ではないことがよくわかる。  ただ、「差別」という重いテーマを扱っていながら、この映画が決して重たいだけのものになっていないこともたしかだ。  基本的には痛快無比なエンターテインメントであり、ちょこまかと動きまわる動物たちのアクションを見ているだけでも楽しい。  ただ、大人の観客はその向こうに深い問いかけを感じるというだけのことだ。  そう、本作のテーマは差別問題である。優秀な成績で警官になったジュディはまず性差別に直面し、彼女の相棒ニックは「キツネは嘘つきで信用できない」という人種差別に苦しんだ挙句、その偏見をなぞるように詐欺師になってしまっている。  しかし、ジュディは決してあきらめないし、ニックもひょうひょうとした態度の裏に優しい素顔を持っている。  差別と反目が支配的なズートピア社会において、どこまでも理想を信じるジュディはさんざんに傷つき、痛めつけられる。それでも彼女は前進しようとする。その姿勢には胸が熱くなるものがある。  この映画が9・11以降のアメリカに伝えようとしているものはあきらかだろう。  そして、ドナルド・トランプが圧勝を続け、気高い自由と平等の理想が地に堕ちようとしているかに見えるいま、この映画は強く訴えかけてくる。  『ズートピア』はつまり「アメリカの理想を守ろう」といっているのだ。  そういう意味できわめて純度の高い理想主義の映画である。  ただ、さらにすばらしいことに、『ズートピア』は単なる理想主義の映画に終わらない。  まさに作中の言葉にあるように「人生はミュージカルではない」。  ジュディは 

『ズートピア』は美しくもきびしい理想主義を謳いあげるディズニーの傑作映画である。

同性愛という概念はいつ頃生まれたのか知っていますか?

 牧村朝子『同性愛は「病気」なの?  僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル』を読みました。  『百合のリアル』の著者によるタイトル通りの本です。  同性愛を「病気」、あるいは「犯罪」とみなし、さまざまな方法で「診断」、「分類」しようとした人々、そしてそれに対抗しようと試みた人たちの歴史を紹介しています。  あなたは「同性愛(Homosexual)」という言葉、あるいは概念がいつの頃からあったものか、だれが作り出したものかご存知でしょうか?  おそらくご存知ないでしょう。ぼくも知らなかった。なんとなく太古の昔からあるように思っていました。  しかし、歴史的に見ればごく最近まで「同性愛」という概念は存在しなかったのだそうです。  ひとはみな異性を愛するように生まれついているのだと素朴に信じられていて、同性との性行為は「病気」とか「犯罪」とされていた。  それが「同性愛」という言葉で捉えられるようになるのは、1869年にケルベトニという人物が論文で発表したところから始まるのだそうです。  つまり、「同性愛」という概念は、わずか150年ほどの歴史しかないわけです。  そこから同性愛が「人権」として認められるまで、さまざまな人々の、まさにさまざまな苦闘がありました。  そしてまた、その一方で「同性愛は病気である」とした人々の偏見や決めつけの歴史もまたあったのです。  この本には、そういったこっけいとしかいいようがないような「同性愛治療法」の数々が紹介されています。  しかし、ひとつひとつはこっけいであっても、現実にそれが通用してきた歴史があることを考えると、まったく笑えません。  たとえば、ナチスでは「人工睾丸」を同性愛者に移植するという手術が行われていたという話を聞くと、おぞまさしさに震える思いです。  「同性愛者」の歴史は、被差別と偏見にさらされてきた歴史でもあるということ。  しかし、著者は過大な被害者意識に溺れることなく、あくまで淡々と、ときにコミカルに「同性愛」病理化の歴史を追いかけていきます。  同性愛は生まれつきなのかそれとも後天的に身につけるものなのか? 幾人もの学者たちの多様な論説が紹介され、それらの問題点が現代の視点からつまびらかにされたのち、ついに「伝説の心理学者」エヴリン・フーカー登場に至ったときには大きなカタルシスがあります。  当時、女性ひとりで男性社会に切り込んでいったこの人物は、友人である同性愛者フロムの頼みによって、当時の「同性愛研究」の権威的な学者たちに対して、こんな形で「挑戦状」を送りつけたといいます。 ・フロムの人脈を生かし、男性同性愛者を(刑務所からでも病院からでもなく)30人集める。 ・続いて、男性異性愛者も30人集める。 ・合計六十人の被験者に、ロールシャッハ・テストなど、当時主流であった心理検査を受けてもらう。 ・その結果をまとめたうえで、被験者のプロフィールだけ隠して心理学会の権威に提出し、「あなたたちはこの心理検査結果だけで同性愛者を見分けることができますか?」と問う。  心理学会のお偉いさんたちは、自信満々でこの挑戦を受けて立ち――そして、だれひとりとして正解する者はいませんでした。  やがて、百数十年に及ぶ長い長い「同性愛」病理化を巡る戦いは終わりを告げることになります。  1973年、 

同性愛という概念はいつ頃生まれたのか知っていますか?

『HUNTER×HUNTER』と強さのインフレ、デフレ、そしてランダムウォーク。

 『HUNTER×HUNTER』が連載再開してしばらく経ちます。  いまさらいうことではないかもしれませんが、めちゃくちゃ面白いですね!  今週号はなつかしの「天空闘技場」を舞台とした、ヒソカとクロロの死闘。  最初に「どちらかが死ぬまでやる」と宣言され、いったいふたりのうちどちらが勝者となり、敗者となるのか、目が離せません。  普通に考えれば、両者とも物語にとっての重要人物であるわけで、ゴンやクラピカと無関係のところであっさり死んでしまうはずはないと思えるのですが、そこは『HUNTER×HUNTER』、予断を許しません。  おそらく、この戦いが終わったとき、どちらか片方は闘技場に斃れることになるのでしょう。あるいは、両者ともが闘技場の土となる運命化も。  この、先の予想をまったく許さない展開こそが『HUNTER×HUNTER』の本領です。  ああ、戻ってきたのだな、という気がしますね。おかえりなさい。  ただ、クロロにしろ、ヒソカにしろ、いままでの物語のなかでは最強の存在であった「キメラアントの王」メルエムと比べれば、実力的には劣るはずです。  いかに「念能力に強弱という概念はない」とはいっても、メルエムはあまりに強すぎた。  だから、いまさらクロロ対ヒソカ戦をやってみたところで、盛り上がりに欠けることになる――はずなのですが、じっさいにはそうはなっていません。  この上なく緊張感のある死闘がくり広げられています。  結局のところ、「もっと強く、もっともっと強く」という方向性だけが面白いわけではない、ということなのですね。  たしかに、読者は一般に「もっと強いやつ」を求める傾向がある。  しかし、その読者の声に応えつづけていると、はてしなく強さは数的に上がっていくことになってしまう。  その「強さのインフレ」をまさに極限までやったのが『ドラゴンボール』であるわけですが、そこには「同一パターンのくり返し」でしかないという問題点があった。  で、『ドラゴンボール』以降の漫画はそこから何かしら学んで、同じことをくり返さないようにしているわけです。  その端的な例が『HUNTER×HUNTER』ということになる。  この世界では、いったん極限まで行った強さの表現が、ふたたび下のレベルに戻ることがありえるのです。  これについては、ペトロニウスさんが昔、『BASTARD!!』を例に「強さのデフレ」という言葉で説明していました。  「強さのインフレ」ならよく聞きますが、「強さのデフレ」とはなんでしょうか?  こういう表現を考える時に、視点の落差、、、、具体的に言うと、萩原一至さんの『BASTARD!!』を思い出すんですよね。ぼくこの第2部が、とても好きで、、、第2部って主人公が眠りについた後の、魔戦将軍とかサムライとの戦いの話ですね。何がよかったかって言うと、落差、なんです。『BASTARD!!』は、最初に出てきた四天王であるニンジャマスターガラや雷帝アーシェスネイなど、強さのインフレを起こしていたんですね。普通、それ以上の!!!ってどんどん強さがインフレを起こすのですが、いったん第2部からは、彼らが出てこなくなって、その下っ端だった部下たちの話になるんですよね。対するサムライたちも、いってみれば第1部では雑魚キャラレベルだったはずです。しかし、同レベルの戦いになると、彼らがいかにすごい個性的で強い連中かが、ものすごくよくわかるんですね。  強さがいったんデフレを起こすと僕は呼んでいます。  これ、ものすごい効果的な手法なんですよね。何より物語世界の豊饒さが、ぐっと引き立つんです、要は今まで雑魚キャラとか言われてたやつらの人生がこれだけすごくて、そして世界が多様性に満ちていて、下のレベルでもこれほどダイナミックなことが起きているんだ!ということを再発見できるからです。なんというか、世界が有機的になって、強さのインフレという階層が、役割の違いには違いないという感じになって、、、世界がそこに「ある」ような感じになるんですよ。強者だけが主人公で世界は成り立つわけではない!というような。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131228/p2  世界は、絶対的強者だけで成り立っているわけではないということ。  「頂点」の戦いがすべてで、そのほかの戦いには価値がないというわけではないということです。  「底辺」は「底辺」で、きわめて熱いバトルをくりひろげているわけで、その「底辺」を描き出すこと(=強さをデフレさせること)は、「世界の豊饒さ」を描き出すという一点において、大きな意味を持ちます。  つまり、ひたすら「強い奴」にフォーカスしている世界より、強い奴もいる、弱い奴もいる、それぞれがそれぞれのレベルで懸命に生きているということがわかる世界のほうが、より豊かに感じられるということだと思います。  『HUNTER×HUNTER』の場合、ヒソカにしろクロロにしろ、「底辺」には程遠い最強の一角を争うひとりであるわけですが、メルエムのレベルには及ばないであろうことは間違いありません。  しかし、そのふたりが、これほどの実力を持っているのだ、ということを示すことによって、世界はあらためて豊饒さを取り戻すのです。  ところで、「レベル1のときにレベル99の敵が現れるかもしれないリアルな世界」のことを、ぼくたちはLDさんに倣って「新世界系」と呼んでいました。  新世界系の物語は、「突然、異常に強い敵が現れるかもしれない物語」であるわけですが、いい換えるなら、「強い敵と弱い敵があらわれる可能性がランダムに設定されている物語」ということもできそうです。  つまり、そこではひたすら「もっと強く、もっともっと強く」という方向には物語は進まない。  「レベル1のときにレベル99の敵が現れるかもしれない」ともいえる一方で、その逆、「レベル99のときにレベル1の敵が現れるかもしれない」ということもできるわけです。  これは、一見するとつまらないようにも思える。レベル99のときにはレベル1の敵なんて相手になるはずがありませんからね。  しかし、「強さのデフレが豊饒な世界をもたらす」という視点で見ると、意味があることであるように思えてきます。  ようするに、新世界の物語とは、強さが単純にインフレしたり、デフレしたりするのではなく、その時々で乱高下する「強さのランダムウォーク」の物語であるということです。  『HUNTER×HUNTER』はだんだん 

『HUNTER×HUNTER』と強さのインフレ、デフレ、そしてランダムウォーク。

けろりんさんちの巨乳女子はナチュラル可愛い。

 けろりん『猫なカノジョと犬の僕』。エッチな漫画です。  8編の短編が収録されていて、ベタならぶらぶいちゃいちゃものから、ちょっとビターな話まで、色々な話が取りそろえられております。  裏表紙の煽り文句によると「純情・恋情・熱情がハジけるエバーグリーンな8編の短編集」だそう。  エバーグリーンな短編集って、意味がわかりませんが、まあ、爽やかな読み味のことを指しているのでしょう。  全体に「ばくはつしろー」な甘ったるい物語たちで、しかも豊かなおっぱいの女の子が出てきます。  ぜひ掲載してお目にかけたいところなのですが、記事ごと削除されたくないので載せることはできません。残念。  個人的には、あんまり非現実的な巨乳は好きじゃないんだけれど(『BASTARD!!』のキャラがなぜかみんなものすごい巨乳になってしまったときは無念だった)、この人の描くおっぱいはあまり変な感じは受けない。  ありえるべき人体の構造からそこまで逸脱していないという気がする。なぜだろ? ひょっとして女性作家さんかな?  いまのこの種の漫画はあたりまえに女性が描いていることもあって、区別がつかないんですよねー。  もちろん、男性だろうが女性だろうが、漫画の出来にはかかわりないことですけれど。  それにしても、ほんとに巨乳キャラ多し。ひとり、胸が小さいという設定の女の子が出てくるのですが、見ていると全然小さくないよなあと思ってしまう。  漫画的に「大きい」って、リアルにいたらとんでもなく目立つくらいの大きさですからね。  まあ、おっぱいに貴賎なし。大きくても小さくてもきれいに描かれた乳房は好きです。  たとえ数少ない女性読者に嫌われようとも、数多くの男性読者の需要を満たすために、ぼくはエッチな漫画のレビューを書くのだ。 

けろりんさんちの巨乳女子はナチュラル可愛い。

『ダンまち』外伝漫画と「シェアード・ワールド・ノベル」の話。

 大森藤ノ&矢樹貴『ダンジョンに出逢いを求めるのは間違っているだろうか外伝 ソード・オラトリア(1)』読みあげました。  アニメ化もされた『ダンまち』の番外編第1巻ですね。  アニメはシンプルかつストレートなシナリオでとても面白かったのですが、この外伝漫画のほうはどうか? うん、なかなか面白く仕上がっています。  外伝の主役は本編のほうで主人公ベルくんの想い人として登場した最強の美少女アイズ・ヴァレンシュタイン。  この世界でも指折りの冒険者パーティ「ロキ・ファミリア」の中心人物である彼女が、「絶対的な強さ」を追い求め、さまざまなモンスターたちと死闘をくり返していく様子が丹念に綴られます。  ストーリーの背景は本編と同じ時系列なのですが、視点がアイズに移ることによって、まったく違う物語が展開します。  ベルくんがひとりで冒険し、成長している間にアイズと「ロキ・ファミリア」は何をしていたのか? その物語が綴られるのです。  ちなみに、この外伝もアニメ化されるようですね。おそらく本編が好評だったのでしょう。良いことです。  本編よりこの外伝のほうが面白いという人もいるので、新作アニメにも期待したいところ。  ちなみに、この『ダンまち』の場合は、ひとりの作家さんが本編と外伝の両方を手がけてるわけですが、複数の作家が同じ世界を舞台に作品を書く場合を「シェアード・ワールド」スタイルといいます。分割された世界、ですね。  アメリカには『Thieve's World(盗賊世界)』というタイトルの作品があって、これがシェアード・ワールドものの皮切りなのだそうです。  ときに1979年といいますから、いまから40年近く前のことですね。  中心となった作家はロバート・アスプリン。日本でも『銀河おさわがせ中隊』シリーズなどで知られている人です(ちなみにこのシリーズ、第2巻までは文句なしに面白いので読んでみてもいいかも。ほぼライトノベルです)。  『盗賊世界』も翻訳されるという話があったようですが、なんだかんでいまのところ邦訳は出ていません。  また、超能力者たちの戦いを連作短編のスタイルで描く『ワイルドカード』というシリーズも(アメリカでは)有名なようです。  これは 

『ダンまち』外伝漫画と「シェアード・ワールド・ノベル」の話。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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