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2017年8月の記事 5件

『ワンダーウーマン』と映画の独立性。

 話題の映画『ワンダーウーマン』を観て来ました。  ふたりのスーパーヒーロー、バットマンとスーパーマンの激突を描く『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』に続き、スーパーヒーロー勢揃いのお祭り映画『ジャスティスリーグ』を予告する、DCコミック系宇宙に属する一作です。  完璧な計画に沿って続けざまに作品を発表、ファンからも批評家からも熱い支持を受けているマーベル系の作品に比べ、『バットマンvsスーパーマン』、『スーサイド・スクワット』などの作品がイマイチの出来で批評家から冷たい目で見られた(らしい)DC系の起死回生の一作になります(あくまで他人の評価の話よ)。  いやー、これは面白かった! ワンダーウーマンやアクアマンなどさまざまなヒーローたちがバットマンの召集のもとに集い壮絶な戦いを繰りひろげる(であろう)『ジャスティス・リーグ』も必ず見に行こうと心に誓いました。  まあ、たぶんマーベルお祭り映画の『アベンジャーズ』ほど面白くならないとは思うけれど、この『ワンダーウーマン』でDCEU(DCエクステンデット・ユニバース)の方向性もわかったので、どこまでも付いていくつもりです。  もちろん、マーベル作品も(とりあえず面白そうなものは)追いかけるつもり。忙しくなりそう……。  それにしても、広大なアニコミの世界はいったん入り込むと楽しみつくすのも大変です。映画だけで年に何作公開されるのかわからないくらいですが、そのほかにテレビドラマもあり、また当然、原作のコミックもあるわけです。  ぼくはアメコミについてはまったく無知ですが、こうもアメコミ原作映画が続くとそれなりに購読意欲をそそられるわけで、少なくとも古典的名作とされる『ウォッチメン』、『ダークナイト・リターンズ』、『キングダム・カム』くらいは読んでおきたいと思っています。  特に『キングダム・カム』は買ったはいいもののまだ読んでいないので、いいかげん積読を崩したいと考えています。そうですね、この記事を書き終わったらすぐ崩すかな。  さて、『ワンダーウーマン』の話。この映画の主人公はイスラエル出身の女優ガル・ガドットが演じるワンダーウーマンことアマゾンのプリンセス・ダイアナ。  彼女が女性しかいないセミッシラ島を抜け出して、ちょうど第一次世界大戦真っ最中の世界へ飛び出ていき、さまざまな戦争の悲劇に遭遇しながらも少しずつ成長していく物語です。  で、これが非常に出来がいい。冒頭のセミッシラ島の神話的光景といい、第一次世界大戦中のヨーロッパの様子といい、素晴らしく凝った美術で見ていて飽きない。  何より主演のガル・ガドットの美しさ。超絶的な美貌とスタイルの良さで見せること、魅せること。男性も女性もこの映画を見れば半神的ヒーローであるところのワンダーウーマンに魅了されること請け合いです。  ただ、問題はシナリオで、とてもよくできた話には違いないのですが、それにしても現代ヒーロー論的にとてもむずかしいところに入り込んでしまったな、と思わずにはいられません。  というのも、セミッシラ島を出たダイアナは、躊躇なく世界大戦に干渉していくのです。もちろん、それは彼女の未熟さのためでもあり、また純粋さの発露であるということは劇中ではっきりと匂わせてあるのですが、それでもどうしても「おいおい、いいのかよ」と思ってしまう。  超人的な力をもつスーパーヒーローが人間同士の戦いに関与することの違和感。まあ、たしかにそこでへたに主人公に葛藤させてしまうと、途端に「正義とは何か? 悪とは?」みたいな哲学問答が始まって、クリストファー・ノーラン的な暗い世界観に一直線であることはわかるのですが、それにしてもダイアナさん、躊躇なくドイツ人殺しすぎじゃないですか。  いうまでもなく、単純に「ドイツが悪で、英米が善」といった善悪二元論的な描写になっているわけではありませんが、それにしたってスーパーヒーローともあろう者があたりまえのように戦争に参加している姿は倫理的な違和感を呼び起こさずにはおきません。  たしかに、一応、その戦いは「戦争を止めるための戦い」であり、ダイアナの行動は一貫して平和を目的としたものではあります。だが、それでも人を殺していることには違いないし、ダイアナの行動にはまるで迷いが見られないのです。  だから終盤で登場するラスボスが「戦争をやめられない愚かな人間どもめ……」的な演説を始めると、いや、彼女もいっぱい殺しているじゃん、と思ってしまうわけです。  ここら辺のラスボスとダイアナの議論は古典的な「それでも人間には善いところもあるし、わたしはそれを信じる!」パターンのそれで、正直、あまり説得力がありません。  『ガッチャマンクラウズ』のカッツェなら嬉々として「暴力ですやん!」といいだしたところでしょう。  その上、ダイアナはラストではてしない戦争を超える概念として「愛」に目覚めるのですが、そもそも戦争とは愛のために起こるものなのではないでしょうか。  ひとはだれかを愛すればこそ、その人を殺したり傷つけたりした相手が許せないもので、だからこそ戦火は拡大していくのです。  あるいは自身、女神的存在であるダイアナはそういう「敵」をも包括的に許すような壮大な「愛」を想定しているのかもしれないけれど、少なくとも作中ではそういった描写は一切ありません。  ダイアナは最初から最後まで、心理的な葛藤も躊躇もなくアクションを続けていきます。そのスタイリッシュな行動にはカタルシスが伴いますが、同時に違和感を消し去ることもできません。  ただ、これは『ワンダーウーマン』一作がどうこうというより、ハリウッド映画を初めとする現代的なヒーローストーリー(英雄譚)が抱え込んだジレンマでもあるとは思います。  人間的な葛藤を描き込めば即座に善悪の軸は定かでなくなり、物語は暗い深遠に落ちていく。そうかといって神話的な二元論の遠近法を採用すれば、キャラクターに共感させることを基本とする現代の脚本技術を活かせない。どっちに転んでも痛しかゆしなわけです。  いまのところアメコミ映画の一方の極には『アベンジャーズ』があり、他方の極には『ダークナイト』があるといえるでしょう。アメコミ表現のファンタジー路線の最高傑作とリアリズム路線の最高傑作というわけです。  『ワンダーウーマン』も紛れもなく傑作ではありますが、ちょっと思想的な深みに欠けるところはあるかもしれませんね。まあ、だからこそ楽しく見れる映画にはなっているのだけれど。  実はこれは主演のガル・ガドットの出自にも関係してくる話題なのです。イスラエル出身の彼女には必然的に政治的バックグラウンドがあるわけで、たとえば、こんな告発記事が存在します。  今年6月17日、フランスの国際ニュース専門チャンネル『フランス24』は、中東の国々で映画『ワンダーウーマン』がレバノンでの上映禁止になり、アルジェリアやヨルダン、チュニジアでも上映の規模縮小や映画祭参加が見送られるなどの動きがあることを報じた。これらの国々で『ワンダーウーマン』が反発を招いている背景には、主演女優のガル・ガドットが、イスラエル人であり、パレスチナ占領や数々の戦争犯罪をくり返してきたイスラエル軍でブートキャンプ(新兵訓練所)のトレーナーとして2年間従事したことが、その理由に挙げられる。イスラエルの若者達にとって兵役は国民としての義務であり、拒否することは容易なことではないため、このことだけなら仕方ないとも言えるが、問題はそれだけではない。ガドットが中東の人々を怒らせた最大の理由は、2014年の夏、イスラエルがパレスチナ自治区ガザに大規模な軍事侵攻を行った際の、ガドットがフェイスブックに投稿した内容だ。  ガドットは「女性や子どもの陰に臆病者のように隠れ、恐ろしい行為を行っているハマスから、私達の国を守るために命をかけている全ての少年、少女に、私の愛と祈りを送ります」と書き、#weareright(私達は正しい)、#loveidf(イスラエル軍を愛します)等のハッシュタグをつけていた。この投稿にはイスラエル軍を支持する人々などから、実に20万件もの「いいね!」がクリックされ、約1万9000件のコメントも、その多くがイスラエル軍を支持するものだった。ガドットはイスラエルの戦争を支持するオピニオンリーダーの一人となったのである。現在でもガル・ガドットの画像を検索すると、兵役時代の写真と共に「彼女はテロリストと戦った」等、賞賛するコメントが書き込まれている。 https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20170826-00074988/  ともかくも一応は正義の味方であるワンダーウーマンを演じる女優にはこんな「暗黒面」がある、というわけです。この指摘についてどう考えるべきでしょうか。この記事を受けた意見として、こんな記事があります。  読んでまず疑問に思うのが、この記事では「『ワンダーウーマン』の主演女優であるガル・ガドットは親イスラエルでイスラエルの軍事行動も支持している」ということや「ガル・ガドットが活躍することでソフトパワーとして機能してイスラエルのイメージが良くなる、ということを期待する論調がイスラエルの新聞に書かれている」ということは書かれていても、映画の『ワンダーウーマン』そのものがイスラエルを支持しているとか何らかのイデオロギーを伝えているとかいうことは書かれていない。とすると「暗黒面」とされているものはあくまで主演女優のガル・ガドットのものであって、映画『ワンダーウーマン』自体に暗黒面が存在するかと言わんばかりのタイトルはミスリーディングな気がする。 http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2017/08/29/102244  ぼくの意見もこの記事のそれに近いですね。何といってもガル・ガドットは『ワンダーウーマン』の主演女優ではあっても脚本家でも監督でもなく、映画の筋をコントロールする立場にいたとは考えづらい。  さらにいうなら、『ワンダーウーマン』本編のなかにイスラエルを支持したり戦争を美化したりするイデオロギー色はほとんど見当たらないわけで、「イスラエル人でありイスラエル軍の行動を支持しているガル・ガドットが主演だから」というだけの理由でこの映画を非難するのは筋違いであるように思うのです。  それをいうなら、「あの」百田尚樹が原作の『永遠の0』や『海賊とよばれた男』など論外ということになってしまうではありませんか?  ある映画の関係者が政治的に批判に値する発言をしていたとしても、「だからそんな関係者がいる映画は良くない」ということにはなりません。映画の価値は映画だけを見て判断するべきであり、映画に直接関係がないイデオロギーで判断してはならないと思うのです。  もちろん、映画のなかに直接に政治的主張が込められていたり、ガル・ガドットが何か批判に値する発言をしたなら、いくらでも批判をすればいい。しかし、一本の映画としての『ワンダーウーマン』のバリューはそれとは別です。  結局、ぼくはぼくのいつもの信条に立ち返ることになります。「映画を映画以外のもので判定することなかれ」。主演女優の発言に問題があっても、それはそれ、これはこれ。別の問題として考えるべきでしょう。  ただ、おそらく、このように書いても納得しない人もいるでしょう。それもたしかにわからなくはない。この映画が成功することによって、ガル・ガドットの発言力は増すでしょうし、それは巡り巡ってイスラエル軍の軍事的蛮行を正当化することに繋がるかもしれない。その可能性はじっさい否定できないのですから。  しかし、それをいいだすなら、そもそもハリウッド映画そのものが、たとえ政治色の強い映画ではなくても、アメリカという国家のイメージを好転させ、その問題点を覆い隠す効果を持っているかもしれないということも無視できません。  アメリカの数々の暗殺や陰謀や軍事活動に賛成できないのなら、そもそもハリウッド映画は見てはいけないのでは? いや、それをいうなら中国の映画も、韓国やイラクのも見ちゃダメかも。  『シン・ゴジラ』は日本の政治を美化しているからダメだし、『風立ちぬ』は戦争を肯定しているように取れるからやはりダメでしょう。というか、そもそも映画という芸術自体、その映画が撮られた国と切り離すことはできないわけで、政治的に慎重な人間は映画なんてもの見ちゃいけないのでは――?  うん、まあ、まさかそこまでいいだす人はいないとは思いますが、理屈の上ではそういう話になると思うのですね。だから、「映画を映画以外のもので判定してはいけない」とぼくは主張するわけなのですけれど。  これは、映画と政治が無関係だというわけではありません。当然、関係はあるだろうけれど、スクリーンの外の関係でスクリーンのなかの作品の良し悪しを語ってはいけないということです。  そんなことが許されるなら、たいていは人格破綻者の天才が作っているハリウッド映画なんて、片端から見ちゃいけないことになるではありませんか……。  まあ、そうはいっても、世の中には自分は正義と反戦の側に立っていると信じて疑わず、そのスーコーな信念のもとに他人を攻撃して回っている人が大勢いるわけで、「『ワンダーウーマン』は悪い映画だ」という人はいなくはならないでしょう。それもまた自由だとは思います。  ただ、ぼくはその種の「正義の味方」的行動に疑問を感じるほうなので、やはり『ワンダーウーマン』のラストには微妙に納得いかないものが残ったのでした。いまさら愛とかいわれてもなあ、と。『北斗の拳』じゃあるまいし。  ほんとうは、大局的な平和のためには、愛とか正義とか優しさとか人命尊重とか、そういう人間的な感情は脇に置いて考えるべきなんじゃないかな、と思わなくもない。  そういう感情を間違いなく善なるものであるとしてしまうと、冷静で現実的な議論は悪であることになってしまいがちですからね。わかる人にはわかる理屈だと思います。  まあ、いろいろ書きましたが、『ワンダーウーマン』、いい映画には違いないので、ぜひ見に行ってみてください。さて、あしたは『スパイダーマン ホームカミング』を見に行こうっと。お楽しみは続くぜ。 

『ワンダーウーマン』と映画の独立性。

正義とは何か? そして物語とは? その魅力と危険。

 白倉伸一郎『ヒーローと正義』を読み上げました。  著者は平成仮面ライダーシリーズのいくつかを手がけたプロデューサーで、ここでいう「ヒーロー」も仮面ライダーやウルトラマンを指しています。  しかし、この本ではむしろ「ヒーロー」より「正義」のほうに重点が置かれているといって良いでしょう。これは著者による正義論であり、ある意味では「反」正義論でもあります。  著者はこの本のなかで「特撮番組の視聴者である子供たちがウルトラマンや仮面ライダーを正義だと認識するのはなぜか」という問いを立てます。  これは一見、あたりまえのことのように思えるかもしれません。物語のなかでそのように描写されているからだ、と。しかし、よくよく考えてみるとそうではない。  ウルトラマンは人間でも怪獣でもない第三者的存在であり、本来であれば人間に味方するべき理由はないように思われます。また、仮面ライダーとショッカーのいずれに正義があるのかも真剣に考えてみれば微妙な問題でしょう。  ですが、それにもかかわらず、子供たちはウルトラマンや仮面ライダーに正義があると信じてしまう。これはなぜなのか。つまり、かれらは物語を通してロジカルに主人公たちの正義を確認しているのではなく、ただ直感的に主人公の側を正義だと認識しているということになるのです。  著者はここで色々と言葉を尽くしているのですが、ぼくなりにまとめてしまうと「それは視点の効果だ」ということになります。  子供たちは――いや、ぼくたち大人も含めた人間は一般に、物語に触れるとき、視点人物に自分を重ね、その人物の行動を正当化するバイアスをかけながら見るものなのです。それが物語の力であり、危険さです。  著者は書きます。 「おれが正義だ」「おれたちが正しい」――世界中のだれもがそう言う。「おれ」「おれ以外」、「おれたち」「おれたち以外」の二項が、正義・不正義という、べつの二項に重ね合わされる。  そうなのです。まさにこの二項対立の構図こそが「物語(ナラティヴ)」のもつ構造的な問題点だといえるでしょう。ペトロニウスさんがいうところの善悪二元論の問題ですね。  人が物語を語るとき、それはまず二元論の形を取ります。なぜなら、物語とは「わたし」の視点からロゴス(言語)によって世界を秩序立てることであり、「わたし」を認識した瞬間に「わたし以外」という区分が生まれるからです。  世界の神話の多くにおいて、世界の始まりは混沌であった、といわれています(この本では「渾沌」という表記が採られていますが)。ギリシャ神話ならカオスですね。その混沌を神が秩序立てることによって世界が誕生するわけです。  たとえば、キリスト教神話においては神は七日間かけて光と闇を分け、海と陸を分け、女と男を分け、世界を体系化しました。混沌(カオス)のなかに秩序(コスモス)を生み出したわけですね。混沌とした世界をロゴスによって体系的に分類した、ということもできるでしょう。  しかし、この分類は人間による差別の始まりでもあります。「わたしたち(善=仲間=中心=文明)」という認識は、即座に「あいつら(悪=敵=周縁=野蛮)」という認識を生みます。その行き着くところは戦争です。  もし人間が一切の物語をもたず、分類に興味を示さなければ、世界はただ世界としてのみ存在し、差別も争いもなかったかもしれません。それが物語がもつ危険さであり、問題点です。  現代思想ではキリスト教やマルクス主義のような世界を巻き込むほどの物語はしばしば「大きな物語(メタナラティヴ)」と呼ばれますが、そのような物語の危険性は、いまとなってはだれもが即座に理解するところでしょう。  人間を、というか生きとし生けるすべての存在を無造作に「わたしたち」と「あいつら」を分け、「わたしたち」のみを正当化しつづけること、それが物語であり、また正義であり、その焦点となるのがヒーローなのです。  白倉さんはこの観点から正義とヒーローの物語を受け取る問題点を述べていきます。  わたしたちの心は、単純きわまるしろものである。  怪人を両義的でらうがゆえに〈悪〉とみなす心性。  ヒーローものという物語を、「正義と悪」の対立構造としてだけ受け取ろうとする心性。  そうしたわたしたちの心性はすべて、ナチスにいいようにあやつられて、極端な迫害行為に走ってしまった、悲しいドイツ民衆となんら変わらない。  一読、なるほど、と思います。ぼくも昔、かんでさんと対話するなかで似たようなことを書きました(http://d.hatena.ne.jp/kaien/20110727/p2)。話はかんでさんの『3月のライオン』批判から始まります。  それと、もう一つ、誤解を恐れずに言うけど、この描写だと、いじめをした側がかわいそうだ。   担任に理解されていないのは、いじめをした側も同様なのに、それを誰にも指摘してもらえていない。   しかも、居心地の悪さを、どうにも出来ない立場に追い込まれつつある。   現実では、彼女たちも平等に扱われるべきである、と思っている。ただ、彼女たちの権利は「3月のライオン」という物語では現実よりも狭められたものとなる。   それは圧倒的に正しいことではあるが、事実である。   その辺に私は物語の限界を感じてしまう。   これに対し、ぼくはこのように異論を呈しました。  たしかに『3月のライオン』は現実を「狭めて」描いているけれど、そもそも物語とはすべて現実を「狭めて」描くものだということがいえるわけです。そこに物語の限界を見ることは正しい。正しいけれど、それが物語の力の源泉でもある。なぜなら、ある人物をほかの人物から切り離し、フォーカスし、その人物の人生があたかも特別に重要なものであるかのように錯覚させることがすなわち物語の力だからです。だから作家が物語を語るとき、どこまで語るかという問題は常に付きまとう。あえていうなら、ひなたの担任の先生にだって、ああいう人格になるにいたったプロセスがあるに違いないんですよね。実は親から虐待されていたとか。でも、それは描かれない。作家はすべてを描くことはできないわけで、必ず恣意的選択をすることになる。それが物語の限界であり、力。あとはその点に対する想像力が確保されているかどうか、という問題かと思う。  かんでさんはこの言葉(と、一夜にわたる対話)を経て、さらにこのように書きます(読みやすいよう引用の際にインデントを入れてあります)。  凡人の私には、ひなの至っている境地、辛くて泣きながらでも自分の立ち位置を決して曲げない、という強い心は、それ以前にどうしようもない理不尽な状況によるなどして、己の価値観を曲げたうえで失敗した(と感じた)経験に裏打ちされる種類の境地ではないか、と感じるのです。   ひなたは天才でしょうか?それとも英雄でしょうか?   そういう描写はありません。   しかし、ひなたが決して己を曲げない理由は描かれません。   そして、彼女はその、己の正義を貫き通すことによって、立場の対立する「いじめっこ」や「担任教師」の正義を踏みにじってもいるわけです。   しかも、その自覚は描かれません。   その自覚は物語上必要ではないものだ、という指摘はあるでしょう。この漫画の主人公は桐山くんであり、ひなたの内面を中心に描く必要はない、と。   しかし、ならば、何故、ここまでひなたのいじめ問題を大きく取り上げたのか、という意図が理解できないのですよね。   桐山くんの価値観も基本的にゆらぎません。TOKAさんも触れている5巻での、ひなたを恩人だと定義するところで、桐山くんの成長の要因、という意義も既に大部分果たされているのではないでしょうか。   その上で、6巻の大部分を割いても決着しないほどのページを割いて、このいじめエピソードを扱うのであれば、ひなたの内面が軽視されるデメリットはメリットに対して遥かに大きいのじゃないでしょうか。   そこを描くことはエンターテインメントの物語としての質を下げるから忌避したのだと、あくまで主張するのであれば、それは認めざるを得ません。   しかし、同時に私は、それを描けないのであれば、物語なんてくそくらえだ、と思う。   そんな物語の質に、どれだけ尊い価値があるのか、と。   「ひと」と「ひとでなし」とを峻別し、自分は「ひと」であることを声高々に叫ぶことは正しい。しかし、「ひとでなし」は、ただ溜息をつくしかない。   そして、この意見を受けて、ぼくはある種の最終結論として、以下のようなことを書きました。  つまり、ぼくはかんでさんが指摘する『3月のライオン』の問題点は、ひとつ『3月のライオン』だけの問題点ではなく、「物語」というものすべてに共通する問題点だといいたかったわけです。  で、ここから三者会談(笑)に入るわけですが、話しあってみると、ぼくとLDさんはともに「物語」を好きで、擁護したいという立場に立っていることがわかりました。しかし、LDさんは同時に「物語」には「残酷さ」が伴うともいう。  ぼくなりにLDさんの言葉を翻訳すると、それはある「視点」で世界を切り取る残酷さなのだと思います。つまり、「物語」とはある現実をただそのままに描くものではない。そうではなく、ひとつの「視点」を設定し、その「視点」から見える景色だけを描くものである、ということ。  『3月のライオン』でいえば、主に主人公である桐山くんやひなたちゃんの「視点」から物語は描かれるわけです。そうしてぼくたちは、「視点人物」である桐山くんたちに「共感」してゆく。この「視点人物」への「共感」、そこからひきおこされる感動こそが、「物語」の力だといえます。  しかし、そこには当然、その「視点」からは見えない景色というものが存在するはずです。たとえば、『3月のライオン』のばあいでは、ひなちゃんの正義がクローズアップされる一方で、ひなちゃんをいじめた側の正義、また彼女の話を頭からきこうとしない教師の正義は描写されない。  これはようするにひとりひとりにそれぞれの正義が存在するという現実を歪め、あるひとつの正義(それは作者自身の正義なのかもしれない)をクローズアップしてそれが唯一の正義であるかのように錯覚させる、ある種のアジテーションであるに過ぎないのではないか。これがかんでさんの批判の本質だと思います。  LDさんはその批判を受け止めたうえで、その「物語のもつ限界」を「物語の残酷さ」と表現しているわけです。つまり、「物語」とはどこまで行っても「歪んだレンズ」なのであって、世界の真実をそのままに描くものではない、ということはいえるでしょう。  長い引用になってしまいましたが、ぼくも一応、「物語」が「歪んだレンズ」であり、差別を生み出すものであるということは理解していたわけです。  かんでさんが「ひと」と「ひとでなし」を峻別することの問題を指摘していますが、それはまさに「わたしたち」と「あいつら」を分ける二元論的思考の根本的な危険性だといえるでしょう。  物語はしばしば視点人物のまわりの「わたしたち」のみを「ひと」とみなし、それに敵対する「あいつら」を「ひとでなし」として描きます。しかし、それは差別です。  「ひと」という名の物語に根差す差別。二元論によって世界を分けることとはどうしようもなくこういう差別を生み出してしまうわけなのです。  そして、ここに付言しておくなら、主人公たちの心理が繊細に描写される一方で、敵対者の視点の描写が不足しているようにも見えることは、『3月のライオン』の物語としての欠点ではありません。  『3月のライオン』はむしろ優れた物語作品であるからこそ、物語がもつ問題点をあらわに露出させることになったのだと思います。  ぼくはこれと似たようなことを有川浩さんの作品にもよく感じます。有川さんの代表作のひとつ、『阪急電車』について書いたことを、またも長くなりますが、引用しましょう(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar502713)  ぼくは有川さんの作品が好きでずっと読んでいるんだけれど、どうしてももうひとつハマり切れないところがある。その容赦ない「裁きの目」に、共感し切れないのだ。  たとえば、この小説のヒロインのひとりは、その電車にウェディングドレスを思わせる白いドレスで乗り込んできた女性である。  彼女は実は自分を裏切って自分の「友人」と結婚することにした元恋人の結婚式から帰ってきたばかりなのだ。あえて結婚式の常識的なドレスコードを破り、花嫁よりも美しい純白のドレスを来て式に出席することが、彼女の「討ち入り」なのだった。  彼女は自分を捨てた男への怒りと憎しみと、そして軽蔑を込めてそういう「復讐」をやり遂げ、そしてむなしさとともに電車に乗って来たわけなのである。  この女性の描写に違和感を抱く読者は少ないかもしれない。ぼくにしても実によく描けてはいると思う。でも、なあ。この発想はどこかねじ曲がっているとも考えるのである。  何といっても、取ったの取られたの、裏切ったの裏切られたのとは云っても、本来、あくまで自由恋愛のなかでの出来事のはずだ。いま付き合っているからといって、だれも相手に絶対の所有権など主張できないわけである。  自分を「捨て」て「裏切った」相手や、その男を「寝とった」友人をまるで倫理的な「悪」のように見ることはおかしくないだろうか?  もちろん、理性ではそうとわかっていても、どうしても怨んでしまうということならわかる。ぼくが好きな村山由佳の『すべての雲は銀の…』には、最愛の恋人を、よりによって実の兄に寝とられてしまった青年が出て来る。  かれは理屈では恋愛ごとにあたりまえの倫理は持ち込めないとわかっていても、どうしても割り切ることができない。その「瑕」を延々とひきずりつづけ、兄や元恋人を怨みつづけることになる。  これならわかる。この心理は理解できるのだ。しかし、この女性はそうではない。彼女は、少なくとも自分の心理のなかではどこまでも「被害者」であり「犠牲者」である。  元恋人の結婚式に白いドレスを来てゆくという自分の行動に対し後ろめたさがなくはないにしても、それはただやりかえしただけだと正当化されているように見える。  少なくともこの物語のなかでは恋人を寝とった女はどこまでも悪役で、こずるく卑怯な女である。それはじっさいそうなのかもしれない。たしかにその女はひどい奴なのかもしれない。  しかし、ここには、それでは、そもそも、そういう人間を選んで友達付き合いをしてきた自分はどうなんだ?という問題提起はない。  自分だってその「友人」を、ほんとうの友達とは思っていなかったくせに、そして内心で「ウザい奴」として見下していたくせに、会社内での立場を考えて打算の付き合いを続けてきた身なのだ。  ある意味では、この展開はそういう不誠実な人間関係の当然の結末とすら云えるかもしれないではないか。違うかな?  もしかしたら彼女は、だれに対してもそうやって表面的な付き合いを続けてきたのかもしれない。だからこそ、恋人も彼女を「裏切る」ことになったのではないか?  暴力や暴言でも振るわれたというならともかく、普通は恋愛ごとにおいて片方が一方的に悪いなどということはないと思うのだが……。しかし、彼女の描写を追っていっても、そういう考えは一切、出て来ない。  つまり、ここでは「被害者」はどこまで行っても「被害者」で、「加害者」、あるいは「イヤな奴」は、ほんとうにただの「イヤな奴」のままで終わってしまうのだ。  視点を変えてみればまたべつの真実が見えてくるかもしれない、という希望は提示されない。「あるいは自分の側にも責任があったのではないだろうか?」という反省も湧いてこない。どこまでも一方通行の「怒り」があるだけだ。  この一作にかぎらず、ぼくが読んだ有川浩の作品は、ほとんどが「正義の怒り」とも云うべき、暴力やハラスメントへの怒りが主題に据えられていた。それが悪いとは思わない。だが、その視野は、やはり広くはないと思う。  有川浩の小説においては、視点は物語の主役になった人物にフォーカスして、揺らがない。  そこでは、「主人公のまわりの迷惑だったり非常識だったりする人物への怒り」はあからさまなのだが、あるいはその視点人物も見方を変えれば何か事情を抱えているかもしれないという方向には物語が進まない。  『ガッチャマンクラウズ』のはじめちゃんがそこにいたら何と云うだろう、と思ってしまう。  もちろん、だれかから「正義の怒り」をぶつけられた人間が、反省したりして心を入れ替えるという描写は時々出て来る(本作のなかにもある)。  ただ、その場合も「正義の怒り」の正当性に疑いはさし挟まれない。どこまで行っても正義は正義なのである……。ここらへんがどうも有川作品を読んでいてひっかかるところなんだよなあ。  実は宮部みゆきを読んでいても同じようなところでひっかかる。しかし、有川浩の「怒り」は宮部のそれよりはるかに苛烈で、だから、ずっと印象が強い。  宮部作品においてはほのかな違和感で済むものが、有川作品においてはどうしても見過ごせない辛さになってしまうのだ。もちろん、どこまでも登場人物に共感して、その「正義の怒り」に同調できれば気分が良いのだろうけれど……。  そこにあるものは「ひとを裁く視点」である。ぼくは思う。このひとはいつもこういう「裁きの目」でひとを眺めているひとなのだろうか、と。そこには、どうにも「赦しの視点」が欠けているように思う。  ただ、これこそが「物語」の面白さであることもたしかなのだ。だからこそ、有川作品は人気がでる。ベストセラーになる。じっさい、ぼくも面白いと思うからこそ読んでいるわけだ。  複雑な世界をひとつの視点にフォーカスして単純に描く「物語」の魅力と、そして残酷さを象徴するような作家であり、作品だと思う。  『阪急電車』を読んでいて、主人公の女性の行動に違和感を抱く人はそう多くはないかもしれません。じっさい、この作品はミリオンセラーになっているわけで、それだけの人の共感を集めることができた優れた小説だといえます。  しかし、いったん物語の視点を外してよくよく考えてみると、主人公の心情や行動は倫理的ないし審美的に正しいものであるとはいいきれないことに気づきます。それこそ、ウルトラマンや仮面ライダーが倫理的に完全に正しい行動を取っているとはいえないように。  『阪急電車』はとても優れた物語です。だから、読んでいる間は視点人物である主人公の感情にのっかっていっしょに怒り、嘆くことができる。  ですが、それは見方を変えるなら物語のマジックでそう見せられているだけであって、ほんとうに世界がこの女性の見ている通りのものなのか、どうか、その点は判断できないともいえるのです。  これは白倉さんが指摘している通りの物語が抱える問題点でしょう。それは主観視点にもとづく世界の秩序化という物語がもつ「力」の負の面であり、この危険な力のために人類は幾度となく差別や迫害や戦争を巻き起こしてきたのです。  つまり、二元論の物語とはそういうどこまでも危険な方法論だということです。それなら、どうすればいいか? ひとつには、二元論という単純すぎる構図を、三元論なり四元論なり五元論――つまり多元論に置き換えていくという行為が考えられるでしょう。  しかし、そういうふうに複雑化していくと、世界はその分だけ見通しが悪くなり、秩序(コスモス)は再び混沌(カオス)へと近づきます。「世界の秩序化」という物語の力は、その分だけ弱くなると考えて良いでしょう。  そういう物語は、あるいは世界の複雑さをそのままに捉えたものとして批評家には高く評価されるかもしれませんが、大衆的な人気を獲得するのはむずかしいと思います。  それでも「混沌(渾沌)を混沌のままにしておく」ことが正しいのだ、と主張する人もいるかもしれません。そちらのほうが単純な二元論より高度な物語なのだと。じっさい、白倉さんは書いています。  とするなら、わたしたちがすべきことは決まっている。 「世界は自分を中心に回っているのではない」ことに、気づかなければならない。天動説から地動説へのコペルニクス的転回を、わたしたち一人ひとりが、自分の中でなしとげなければならない。  渾沌そのものである世界や他者を、「わたし」という一元的原理によって秩序づけようとするのではなく、渾沌のまま受け入れ、理解し・許容し・評価する回路を、みずからの中につくりださなければならない。  これは、一般論として、まずは正しい意見だといえるでしょう。他人に偏見をもってはいけない。複雑な存在である他者や世界にレッテルを貼って理解したつもりになるのではなく、そのとほうもない複雑さをそのままに受け入れるべきだ、と。  しかし――ぼくはあえていいたいのですが、人間にそのようなことが可能でしょうか。もちろん、「ある程度までは」できるでしょう。ただ、その一方でやはり人は物語と、物語による秩序化なしには世界を理解できないのではないかとも思うのです。  もちろん、21世紀のいまとなっては、いかにも単純に過ぎる二元論的な物語は勢いを失い、日本の少年漫画やハリウッド映画ですら複雑な群像劇を描くようにはなっています。  ぼくやペトロニウスさんが「現代は神話的物語が受け入れられなくなった時代だ」と語るのはそういう文脈です。とはいえ、物語による世界の分類という方法論は人間の世界認識の根幹に関わるものであり、まったく失われてしまうはずはありません。  人の脳は混沌を渾沌のまま認識することはできない。人はそのあまりにも膨大な情報量を処理するために秩序を求め、物語を作るのです。もちろん、そこで切り捨てられる情報もあるでしょう。「正義」の物語において「悪」として差別を受ける者もいるでしょう。  けれど、それでもなお、物語は魅力的であり、物語なしに世界を眺めることはできない。一切の物語を失ったとき、おそらく人は何も行動を取れないと思います。それだけ、物語は人の思考の根幹に関わっているのです。  白倉さんは「わたしたちが見たいのは、秩序ではなく渾沌なのである」とそれこそ単純に書いてしまっていますが、これはいいすぎであるように思えます。  より正確には「わたしたちが見たいのは、完全な秩序でも完全な混沌でもなく、秩序が混沌を整理する過程であり、また混沌が秩序をかき乱す様子である」ということになるのではないでしょうか。  だからこそ、名探偵が混沌とした状況を快刀乱麻の推理で秩序立てることにカタルシスを感じる一方、不条理そのものといった筋立てのホラー小説や映画に強く惹かれる。  ぼくたちは、完全なコスモスにも完全なカオスにも耐えることができない。したがって、最上の物語は、その間のどこかに均衡点を見いだす。そしてたとえそれが差別や迫害や戦争につながるとしても、物語は限りなく魅力的で美しい。ぼくは、そういうふうに考える。  そういうわけで、正義論として、ヒーロー論として、なかなか面白い本でしたが、結論は一面的に過ぎると考えます。ここら辺のことを踏まえていると、ぼくやペトロニウスさんやLDさんが何をいっているのかわかりやすくなるでしょう。  でわでわ。また逢う日まで。 

正義とは何か? そして物語とは? その魅力と危険。

本を書きたい!

 何か一冊、電子書籍でもいいから本を書きたいと思って、いろいろ参考資料を読みあさっています。  本のタイトルは『花々と王冠 ポップカルチャーに見る性差越境の冒険』となる予定なのですが、変わるかもしれません。どうも話題がポップカルチャーに留まらない様相を見せそうで、いったいどのように終わるものやらさっぱり見えません。  前二冊の批評(?)同人誌では、大いに迷い惑いながらもどうにか本としての体裁にまとめあげたわけですが、今度という今度はむずかしいかもしれない、そんな気がします。  テーマは大まかにいって「現代の物語と性(セックス/ジェンダー)」。目次はこんな感じで考えています。 序章「神話から現代へ」 第一章「『新世紀エヴァンゲリオン』と男の子の挫折」 第二章「『魔法少女まどか☆マギカ』と魔法少女の系譜」 第三章「『獣の奏者』と日本ファンタジーの課題」 第四章「『ハリー・ポッター』と海外ファンタジーの世界」 第五章「『アナと雪の女王』とディズニー映画の魅力」 第六章「『カルバニア物語』と少女漫画の血脈」 第七章「『千と千尋の神隠し』とスタジオジブリの王国」 第八章「『けものフレンズ』と夢みるべき未来」 あとがき  それで、神話学やら宗教学やら女性学の本を片端から読み耽っているわけです。しかし、ただこれだけではありふれたアニメ/漫画/ノベル批評の域を出ず、そんなに面白いものができそうには思えません。  現代思想やら何やらを引用しつついかにもそれらしい言葉をさかしらに並べ立てただけの魂を欠いた批評なら、いまの世の中、いくらでも類例が存在する。  あえてぼくが書くからには、何かしらの強烈な「主張」を孕んだ「作品」をこそ指向したい。そういうふうに思います。あたりまえのえせ文芸批評ならぼくよりうまく書ける人はいくらでも存在するでしょうから。  しかし、それならどのようなスタイルとメディアを選ぶべきか? ここは大いに迷うところです。たとえば『ソフィーの世界』風の小説形式を採るのはどうか?  悪くはないと思いますが、いかにも不要に長くなりそう。そもそもぼくは『ソフィーの世界』を読んだことがないので、あまり明確に良し悪しをいえないのですが。うん、まず読んでみようかな、『ソフィーの世界』。  いっそ商業出版ではまず出せないような分厚い「本」を書いてやろうかとも思うのですが――さて、どんなものだろ。  ぼくが書きたいのは既存のジャンル主義を超越した、男性向け/女性向けといった分類をも越境した「語り」です。  ぼくはたとえば「オタク」という言葉での消費者や作品の分類には違和を感じます。ということは、いままであたりまえのように「オタクの夢物語」として認識されていた物語群は別の見方から光をあてられなければならないでしょう。  つまりは、たとえば宇野常寛さんあたりがあっさりと「レイプファンタジー」と呼んで棄却した物語群にも別の評価が与えられなければならないということになります。  したがって、いままで当然のごとく男性中心的な物語として男性中心的な言説のなかで消費されて来た、たとえばKeyの『AIR』あたりでもべつの軸からべつの評価を与えなければならないでしょう。  『AIR』はいままでのぼくの価値観ではまるで理解できない作品で、そのため、ぼくの思考は迷走を繰り返して来たのですが、最近、ようやく理解できるようになってきた気がします。  つまり、あるひとりの少女の男性論理(今回はあえて「男性原理」という言葉は使わない)に「呪われた」スピリットが、「聖なるもの(ルードルフ・オットーのいうヌミノーゼ?)」に触れ、そこから解放されて上位次元に飛翔するまでの物語なのだ、と。  以前、ぼくはこの「上位次元への飛翔」を説明するために「ウルトラマクロ」という言葉を使いました。これは「ミクロ/マクロ」という区分を超えた「超越的な世界」を意味する言葉です。  非常に抽象的な概念なので、自分でもうまく処理できないものを感じていたのですが、神話学や宗教学の本を何冊か読んで、ある程度、把握できるようになった気がします。  たとえば、井辻朱美はC・S・ルイスの『ナルニア国物語』を引いて、ファンタジー小説の本質についてこのように書いています。  ファンタジー衝動の究極の焦点はここにあるのではないだろうか。なんらかの聖なる、幸福な、本来の、世界への目覚め。それは目覚めであるからには、いままでの自分は夢を見ていたうその自分、小さい悪夢に悩まされていた自分である。宗教的なひろびろとした境地への解脱と言ってしまうと、みもふたもない。だが個々の宗教の用語や世界観を超えて、この言葉にはそうした世界への帰依と救済への渇望がある。  物語が「聖なるもの」に触れあうとき、それは書き尽くせないというジレンマを伴う。書き尽くしてしまえば、それは終わって閉じられる掌上の小世界になるからだ。だからC・S・ルイスはこの先を書かなかった。そしてどんなファンタジーも、現実からのこの垂直次元上昇を目指している、少なくとも目指す衝動から出発しているのではないだろうか。それは願望が充足される異国や別世界への水平転移だけではない。「リアル」の密度の変化、ある意味では現実の重さが薄められ、希薄化されて、しかしより充溢した価値観のようなものに満たされる世界への垂直上昇。  「なんらかの聖なる、幸福な、本来の、世界への目覚め」、「現実からのこの垂直次元上昇」。これこそまさに『AIR』を語るための言葉である、といっても異論は少ないでしょう。  そして、「願望が充足される異国や別世界への水平転移」とは、あきらかに「小説家になろう」発のウェブ小説に至る言葉であるように思えます。  『AIR』は男性向けポルノグラフィとして発売されたゲームであり、その物語はたしかに一見すると男性中心的なロジックのなかで感傷的に消費されて終わったように見えるかもしれません。  宇野さんによる「レイプファンタジー」といった批判もそこから来ているのでしょう(もっとも、宇野さんはご自分の好きなAKB48についてはレイプファンタジーではないと考えておられるようで、ここら辺の首尾一貫しない言説は興味深いものがあります)。  たしかに、『Kanon』や『AIR』はオタク好みの甘ったるい対幻想のロマンティック・ラブ・ファンタジーと見ることもできるし、『CLANNAD』に至っては、近代家族幻想追認物語、と受け止めることもできるでしょう。  しかし、それでいてこれらの作品はあまりにもそこから逸脱するところが大きいこともたしかです。  いったい『Kanon』の「奇跡」、『AIR』での「惑星の記憶」、『CLANNAD』における「幻想世界」とは何だったのか? ほんとうに物語を成立させるためのご都合主義的な装置以上のものではないのか? ここは一考に値するものがあるように思えます。  この文脈を語るためには『Rewrite』も見ないといけないのだろうな、と思うのですが――うん。頑張る!  個人的にいうと、いわゆる「エロゲ」発の物語のなかでも、たとえば『SWAN SONG』あたりの作品的完成度はそこらの芥川賞受賞作にまったく負けていないと考えています。  あるいは、単なるオタク向けポルノグラフィと権威ある文学賞受賞作を同列に並べて評価することを揶揄し嘲笑する向きもあるかもしれませんが、その種の思考は単なる権威主義に過ぎません。  「偉い人が高く評価している作品は立派なものに決まっているのだ」といった、主体性を放棄した権威追認の思考です。ぼくはその種のジャンル/メディア差別主義を容認しない立場なので、あくまで作品は作品として、他者の作った文脈を無視して見たいと考えています。  たしかに『AIR』は「男性向けエロゲ」かもしれませんが、その一方でたとえば少女小説として発表されていたかもしれず、そのときはまったくべつの評価を受けていたに違いないのです。  このように、発表されたジャンル/メディアのコンテクストによって作品の評価が固定されるということは、つまらないことではないでしょうか? それは一方では芥川賞を受賞した『グランド・フィナーレ』といった作品においてもいえることです。  ぼくはずっとこの「ジャンル/メディア」という文脈に違和と懐疑を抱きつづけて来ているのですが、自分と同じように考えていると感じた人はいまのところペトロニウスさんくらいです。  だから、初めてペトロニウスさんのブログに到達したときは「ぼくと同じように考えている人がいる!」と感動したものです。いまを去ること10年前くらいの話ですが。  もちろん、ジャンル主義を懐疑するとはいっても、あるジャンルの歴史に則った「影響の連鎖」はあるでしょうし、それをひとつの文脈として認識することに異議はありません。  しかし、その一方で、その文脈を越境した影響も大いにあるはずであり、また突然変異的に生まれて来る才能や作品も存在する以上、ジャンルですべてをくくることはできないと思うのです。  だから、ぼくはさやわかさんの『文学としてのドラゴンクエスト』での、『ドラクエ』を「文学作品」として、村上春樹作品と対比するといった試みは(いささか浅い考察であることは否めないものの)、面白いと感じますし、そこから見えて来るものも大いにあると考えます。  「オタク文化」と当然のように総称されて来た作品群を「性(ジェンダー)」という視点からそのくくりを外して見たとき、何が見えて来るか。単なる男根崇拝的男性中心主義以上のものはないのか。  そのことを検証するためには、既存の日本文学の、三島由紀夫や谷崎潤一郎、川端康成、村上春樹、あるいは渡辺淳一といった作家の男性中心的なエロティシズムの系譜を再検証しなければならないでしょう。  つまりは、たしかに日本文学の一翼をなす文化的、視覚的、ポルノグラフィ的なイマジネーションを読み解くこと。  三島がジョルジュ・バタイユの禁止と侵犯のエロティシズムをそのまま日本文学化したような『豊饒の海』四部作を最後に自殺したことは、かれのバタイユ的な禁止侵犯のエロスに対する絶望であったと語る論者がいます(樋口ヒロユキ『ソドムの百二十冊 エロティシズムの図書館』)。  そのことを踏まえると、谷崎潤一郎が初期の「刺青」といった作品で視覚的エロティシズムに拘りながらも、のちに『春琴抄』などの「盲人もの」を書いたことも、つまりは文化的に構成された男性的エロティシズムを解体しようとした試みだったのではないかと思えてきます(たぶん失敗しているわけですが)。  それでは、非男性中心的なエロティシズムとはどのようなものか――それをあきらかにするためには、たとえばJUNE小説やボーイズ・ラブ漫画を読むことも必要になるでしょう(お奨めがあったら教えてください)。  『花々と王冠』というタイトルは、「花々(女性論理)」と「王冠(男性論理)」の相克、あるいは超克という意味を孕んでいます。あるいはこの喩え自体、問題含みであるかもしれませんが、まあ、仮題に過ぎないのでご容赦を。いつになるかわかりませんが、何とか書き上げたいものです。  そういえば、いま、小谷真理さんの『聖母エヴァンゲリオン』を再読しているのですが、昔に読んだときはあまり意味がわからなかった内容が、いまとなっては深く、深く心に染み入って来ることには驚かされます。  そう――いまにして思えば、小谷さんがいうように、『エヴァ』とは神話の時代から連綿と続いてきた「英雄譚」、つまり「男の子の物語」が侵食され崩壊していくプロセスにほかならなかった。  いかにも雄々しく、理性的、科学的、男性的にスタートし、「ヤシマ作戦」的な男根的カタルシスを演出した物語が、しだいに「女性的なるもの=おぞましいもの=メス状無意識(ガイネーシス)」に侵され、どうにか「男の戦い」を演じながらも、最終的には崩壊していく、それが『新世紀エヴァンゲリオン』という作品だったのだと思います。  その「おぞましいもの」とはつまり家父長制的神話が封印してきた女性性であり同性愛性であるわけですが、あの時点で「男の子の物語」は決定的に挫折してしまっているわけです。  もちろん、LDさんがあの巨大なマインドマップ(オフ会に来た人しか見れなかった「魔法の絨毯」)で説得的に語ったように、その「男の子の物語」の没落の前には、『海のトリトン』や『機動戦士Ζガンダム』といった富野アニメーション(特にロボットアニメ)を初めとする予言的作品群が存在するわけですが……(LDさんの、あの「語り」はやっぱり本としてまとめる必要があるよなあ、と思うきょうこの頃です)。  そういう意味ではやはり「プレ『エヴァンゲリオン』」と「ポスト『エヴァンゲリオン』」という時代区分は有効なのかもしれませんね。  いや、たしかに『エヴァ』の後にも無邪気に男性中心的想像力を愉しむ「男の子の物語」はいくらでもあるように思えます。それこそ「なろう小説」の「水平転移」的な異世界転生物語とか。  しかし、それらは一方である種の「開き直り」にも見えます。「なろう小説」を批評的にどう落着させるかという問題はむずかしいところですね。それらはほんとうにガイネーシスを封じ込め、男性中心的世界観を再生させることに成功しているのでしょうか?   「なろう小説はポルノである」といった言説は、たとえばライトノベル作家転じてなろう作家の新木伸さんなどに見られるものですが、そこでいう「ポルノ」とは文化的、歴史的にどのように構築されたものなのか? ぼくが知りたいのはそこです。  近代文学的な言葉を使うなら、たとえば太宰治の「人間(マン)失格」とは、畢竟、「男性(マン)失格」という意味だったと思えるわけですが、『エヴァ』もまたそのような「男性=人間失格」の物語だったでしょう。  しかし、世の中には男性だけではなく女性もたくさん生きているわけであり、そこには男性のそれとは異なる「生=性=聖」の構造がある。ぼくはそこら辺に興味があるわけなのですね。  何をいっているのかさっぱりわからないという人もいるでしょうが、ブログを書き始めてから20年近く、最近、ようやくここら辺のことが整理できそうに感じています。長かったなあ。  はたしてこの本がほんとうに出るのか、それとも未完のままに終わるのか、いまのところは何ともいえません。でも、頑張るぞ! ふぁいと! おー!  ちなみに、とりあえず取り扱う範囲を定めるべく、以下のようなリストを作ってみたのですが、どうにもこれでは収まりそうにありません。少なくとも倍くらいにはなりそう。でも、どうにか頑張る。 〇取り上げる作品 『エルリック・サーガ』 『ズートピア』 『アナと雪の女王』 『シンデレラ』 『平たい地球』 『ドラゴンクエスト』 『ファイナルファンタジー』 『ゼルダの伝説』 『AIR』 『Fateシリーズ』 『風の谷のナウシカ』 『風立ちぬ』 『紅の豚』 『ハウルの動く城』 『ONE PIECE』 『ベルセルク』 『BASARA』 『新世紀エヴァンゲリオン』 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』 『機動戦士ガンダムシリーズ』 『ファイブスター物語』 『グイン・サーガ』 『カルバニア物語』 『チキタ☆GUGU』 『デルフィニア戦記』 『かぐや姫の物語』 『銀河英雄伝説』 『アルスラーン戦記』 『マルドゥック・スクランブル』 『スレイヤーズ』 『十二国記』 『西の善き魔女』 『これは魔法のかぎ』 『Landreaall』 『ブギーポップ・シリーズ』 『ソードアート・オンライン』 『無職転生』 『魔法少女まどか☆マギカ』 『少女革命ウテナ』 『ユリ熊嵐』 『美女と野獣』 『ギルガメッシュ叙事詩』 『指輪物語』 『ナルニア国ものがたり』 『コナンシリーズ』 『ジレル・オブ・ジョイリー』 『ハリー・ポッターシリーズ』 『アヴァロンの霧』 『ゲド戦記』 『闇の左手』 『トワイライト』 『女には向かない職業』 『塔の上のラプンツェル』 『メリダとおそろしの森』 『フランケンシュタイン』 『カーミラ』 『守り人シリーズ』 『紫の砂漠』 『宇宙戦艦ヤマト』 『シュピーゲルシリーズ』 『勾玉三部作』 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』 『ねじまき鳥クロニクル』 『海辺のカフカ』 『1Q84』 『魔法科高校の劣等生』 『プリンセス・プリンシパル』 『アリーテ姫』 『エフェ&ジーラシリーズ』 〇参考資料 『文学としてのドラゴンクエスト』 『ファンタジーとジェンダー』 『戦う姫、働く少女』 『聖母エヴァンゲリオン』 『世界を創る女神の神話』 『私の居場所はどこにあるの?』 『女神ー性と聖の人類学ー』 『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』 『戦闘美少女の精神分析』 『母性社会日本の病理』 『大地の神話』 『世界神話入門』 『人類最初の哲学』 『ジェンダーで学ぶ宗教学』 『ドラゴン神話図鑑』 『聖娼 永遠なる女性の姿』 『男たちの知らない女』 『ファンタジーの冒険』 『わが心のフラッシュマン』 『お姫様とジェンダー』 『紅一点論』 『英雄の旅』 『千の顔をもつ英雄』 『ヒロインの旅』 『神話・伝承事典 失われた女神たちの復権』  皆さんも本が完成することを祈っていてください。でも、たぶん無理かもしれない。うーん。まあ、なるようになるでしょう。たぶん。はい。 

本を書きたい!
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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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