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2016年2月の記事 7件

レズビアン妊娠活動漫画『ゆりにん』を読んでみた。

 ども。最近、料理に凝っている海燕です。  凝っているとはいってもちろん家庭料理のレベル、それも初心者に毛が生えた程度の腕前ですけれど、日々、何を作ろうかなあと考えることは楽しいです。  じっさいに作ってみると上手くいかなかったりするんですけれどね。  きょう作った「えびとセロリの塩炒め」はしみじみと美味しくなかった。  ていうか、セロリに火を通すとダメなんじゃないかな。このレシピは「お気に入り」から抹消しておこう。  ちなみにダイエットも粛々と実行していて、合計で5キロちょっと痩せました。  その時々でいくらかの増減はあるにしても、まずまずのスピードといえるのではないでしょうか。そろそろ停滞期に入る可能性もありますが……。  さて、それとは特に関係ありませんが、きょう紹介するのはある同性愛カップルの妊娠活動を描いた『ゆりにん レズビアンカップル妊活奮闘記』。  一作の漫画としてのクオリティは正直、オススメできるかどうか微妙なところにあるのですが、ほかに類例がない本であることは間違いないのでここでレビュっておきます。  この本、あるとき、ふとしたことから妊娠・出産を目指すことになったひと組のレズビアンカップルの過酷な「妊活」を描いています。  レズビアンと妊活という言葉がうまく結びつかない人もいるかもしれませんが、当然ながら同性愛者でも子供を欲しいと望む人は多く、じっさいに産み、育てている人も少なくないわけです。  これまた当然のことながら女性同士のカップルでは精子を用意できないので、だれか第三者に提供してもらう必要があることにはなりますが、それでも子供を持ちたいと望む人はいる。  よく同性愛者は子孫を残せないから不完全なのだとかばかげたことをいう人がいますが、じっさいには同性愛でも子供を産んだり育てたりしている人は大勢いるのです。  この本の主人公たちもそんなカップルのひと組。ちょっとしたことをきっかけにして子供を持ちたいと希望し、それから長く大変な「妊活」に励むことになります。  ひと言で「大変」と書きましたが、いや、これがほんとうに大変なんだ。  まず、妊娠のための精子を手に入れることがむずかしい。  やっと提供者が現れてその問題が解決しても、なかなか妊娠できない。  さらには主人公には持病があり、それとの兼ね合いも探り探りになる。  その上、過去の虐待のトラウマが突然よみがえったりする……。  それはもう、「壮絶」といいたくなるような凄まじい展開が続きます。  いやー、妊娠・出産するってほんとうに大変なんですね。  幸いにというべきか、主人公たちの周囲には理解者や協力者が多く、彼女たちはその人々に助けられて「妊活」を続けるのですが、なかなか結果は出ません。  そしてやがては 

レズビアン妊娠活動漫画『ゆりにん』を読んでみた。

「サポーター男子」の時代が来る。

 ども。何度目かのダイエット中の海燕です。  今度こそ!の思いを胸に、とりあえず3週間で4.4キロ減らしました。  ちょっと減らし過ぎかな。でも、減らせる時に減らしておかないといけないですからね。  具体的に何をしたかというと、間食をやめただけなんだけれど、それでも減るものですね。  ダイエットって、体重を減らすことは実は簡単で、それを維持することが大変なんだよなあと思います。  リバウンドを計算に入れずにただ体重を減らすだけだと、岡田斗司夫さんみたいになってしまう。  やっぱり食事制限だけで体重を落とすことには無理があって、運動しないといけないのだと思います。  しかし、いまの体重でジョギングしたりするのは辛いし、足に負担がかかる。  そこで、ぼくはいまいわゆる「アニメダイエット」を試みています。アニメを見ながら踏み段昇降をするというダイエットですね。これが意外に効果があるらしい。  もちろん、見るのがアニメである必要はないわけで、ぼくはNHKの朝ドラ『あさが来た』を見ながら踏み段しています。  ぼく、このドラマ、好きなんですね。好みはもちろんあるけれど、最近の朝ドラのなかではかなり面白いほうに入ると思う。  単純明快といえばそれまでながら、気分がいやになるエピソードがないのがいい。  朝から気分が落ち込むようなドラマを見たくないですからね。  このドラマでは公私ともに主人公あさを助ける「五代さま」を演じたディーン・フジオカがブレイクしましたが、ぼくは玉木宏演じるあさの夫・新次郎が好きです。  ほとんど仕事をしない遊び人ではあるものの、ワーカホリック気味の妻を愛し、彼女をさまざまな形でサポートしていく良き夫。  なるほど、いまの時代はこういう人物が理想的な夫なのだなあ、と思わせられますね。  普段は温厚ながら、妻が侮辱されるとちゃんと怒るあたりも格好いい。  やっぱり夫はこうでなくてはいけません。自分の妻の悪口をいわれてへらへらしているようではダメです。  まあ、 

「サポーター男子」の時代が来る。

妥協なき不毛な議論を乗り越えるために。

 ちょっと興味があるので、原発とエネルギー問題について書かれた本を探し出しているのだけれど、Amazonのレビュー欄がみごとに政治的闘争の現場と化していて役に立たない。  正直、実物を読まなくては何が正しく何が間違えているのか判断できないので、自分で書店なり図書館へ行って本を探すことにしたいと思う。  電子書籍で入手できればそれがいちばん楽なのだが、そういうわけにもいかないようだ。  余談だが、最近は物理書籍が邪魔に感じて仕方ないので、電子書籍以外の本をほとんど買わなくなっている。  出版社の人には物理書籍と同時に電子書籍を出版するよう努力したもらいたいものだ。余談終わり。  さて、個人的な意見を述べるなら、原発を巡る「議論」は、絶対正義と絶対正義の対決という印象で、不毛そのものといった様相を呈しているように思う。  タバコを巡る論争と同じ現象が、さらにいびつな形で起こっている感じ。  ぼくはこういう議論を「ハルマゲドン型」と呼んでいる。  聖書にある最終戦争のごとく、絶対に譲らない善悪の戦いであるかのような論争という意味だ。  ハルマゲドン型の議論は、永遠に進展することなく、ただ互いが互いに向けて自分の主張を延々と投げつけ続けるだけに終わる。そこに妥協の余地は一切ないのだ。  したがって、ハルマゲドン型論争はいつも限りなく無意味である。  議論とは普通、より正しい結論を導き出すために行うものだろう。  しかし、ハルマゲドンと化した議論はいつまでも平行線をたどるばかりでいかなる結論も出ないのだから、労力の無駄遣いというしかない。  もちろん、その議論を行う両者は、やり取りの不毛さはすべて相手側の愚かしさと無理解に起因すると考えるわけだが、お互いに心からそう思っているのだから世話はない。  ハルマゲドン化した時点で、その議論には未来がないのだ。  もっとも、ハルマゲドン型論争にも主観的な勝利なり決着はある。  この種の論争が終わるときがあるとすれば、それはどちらか一方が相手に対し勝手に勝利宣言した時である。  その時点をもって議論は決裂という形で終結を見る。  そのような形の終結を見ない限り、この「議論」は、多くの場合、果てしない嫌味と皮肉と決めつけと揚げ足取りの応酬という形で続いてゆく。  まるでよりうまく嫌味をいえたほうが勝利者だと決まっているかのように。  大人とは、ひとより誠実に言葉を選べる人をいうのであって、他人を皮肉るのがうまい人のことではないのだが……。  とにかくまあ、「自分は絶対に正しくて、相手がバカ」だと考える類の「自分は賢いので絶対にバカなミスはしないと思い込んでいる人たち」の繰り広げる「議論」とは、おおむねこのようなものである。  場合によってはじっさいにどちらかが正しく、どちらかが間違えているのかもしれないが、それにしてもその議論に価値があるとは思われない。  絶対対絶対の不毛を乗り越えるためには、問題の結論が絶対正義ならぬ灰色の領域に属していて、100パーセント自分が正しいとはだれにもいえないという認識が必要である。  「議論」とは、それに参加する両者がこの「グレイゾーン思考」を備えていて初めて、有効になりえる可能性を持つ。  もちろん、正か否か、完全に割り切ることができる問題もあるだろう。1+1は、いついかなるときも普遍的に2であって、3にはならない。  しかし、 

妥協なき不毛な議論を乗り越えるために。

ひとが「アイデンティティ」を捨て去るとき。

 『同居人の美少女がレズビアンだった件』。  フィクションとしか思えないようなタイトルですが、これは(いくらかデフォルメされているところがあるらしいとはいえ)ノンフィクションの漫画で、そしてここでいう「同居人の美少女」とは『百合のリアル』の著者である牧村朝子さんのことです。  この本はその「レズビアンの美少女」を主人公に、彼女の恋の顛末を語った一冊。  波乱万丈、痛快無類、とても面白い本なので、『百合のリアル』と合わせてオススメです。  『百合のリアル』と違ってこちらはKindleで買えるのもありがたい。  まあ、そういうわけで、「レズビアン」に興味がある人にもない人にも、オススメの一冊なのでした。  このタイトルでレズビアン「だった」と書かれている通り、牧村さんは最終的には「レズビアン」という「アイデンティティ」を放棄してしまいます。  「自分は自分」。それで十分だと考えるようになるのですね。  これは社会的にマイノリティに置かれた人がいかにして自分に誇りを持ち、なおかつその誇りすら捨て去るか、というプロセスとして、きわめて興味深いものに思えます。  社会的に弱者である人間は、社会から身を守るためになんらかの「アイデンティティ」を必要とします。  それは社会が押しつけて来る「カテゴリ」とは別物で、当事者が自ら選択する「プライド」です。  「ホモ」と呼ばれていた人たちが「ゲイ」と名乗ったのはその典型的な一例でしょう。  そして、その「プライド」はしばしば「少数派である自分たちこそほんとうに素晴らしい存在なのだ」という域に達します。  たとえば「ブラック・イズ・ビューティフル」といった言葉がありますね。  そういった言葉は社会において弱者の立場に立たされてきた人々がどうしても持たざるを得なかった「プライド」であるに違いありません。  しかし、社会が変わって行くとなると、必ずしもいつまでもその「プライド」を保ちつづける必要があるわけではありません。  「自分たちこそがほんとうは優れている」という「プライド」の論理は、逆説的に自分たちを孤立させているわけで、歴史的な過程のなかで必要とされる一プロセスではあるにせよ、どこかの時点で捨て去ることもまた必要なのだと思います。  これ、「オタクは知的エリートである」といった理屈もまったく同じであることがわかるでしょうか? 

ひとが「アイデンティティ」を捨て去るとき。

熱い議論が不毛に終わるたったひとつの理由。

 ふと思ったこと。  よく同性愛者は異常だという人がいる。ネットを検索してみるとたくさん見つかるだろう。  いまの常識から見ればそれは間違えた意見であるわけだが、そういう人と「議論」をしても相手の考え方を変えることは困難である。  というか、何らかの信念を抱いている人と議論をしてその人の考えを変えようとすることはいずれも不可能に近いくらいむずかしいと思う。  なぜだろう?  それは、ようするに「言葉」とか「理屈」の次元で話をしているからだと思う。  もちろん、議論は「言葉」で交わすよりないわけだが、そうやっていくら「言葉」を重ね、「理屈」を丁寧に説明しても、ひとの心は変わらない。  なぜなら、ひとはほんとうは「言葉」や「理屈」でものを考えたりしていないからである。  ほんとうは「心」ですべてを判断していて、その「心」を納得させるために「言葉」を生み出しているに過ぎないのだ。  いわば「心」は基地で、「言葉」はその先兵である。  だから、いくら「言葉」で相手を論破したところで、相手の「心」を変えない限り、ほんとうにその人を説得したことにはならない。  同性愛者を嫌う人は、同性愛が異常である理由を、十でも百でも並べ立てるだろう。  そして、同性愛者や同性愛者をサポートしようとする人はその「理屈」を打ち破ろうと自分たちの「理屈」を並べ上げる。  ぼくの主観では、後者の理屈のほうが「正しい」ように思える。  しかし、その理屈が「正しい」なら同性愛者異常説はそのうち消えてなくなるかというと、そうではない。  それは「言葉」のレベルでは勝利していても、相手の本丸である「心」を変えることはできていないからだ。  ひとは「心」が変わらない限り、また新しい「理屈」をいくらでも考え出してくる。  「同性愛者が異常である理由」という「理屈」は、「同性愛者が嫌いだ。気持ち悪い」という「心」を正当化するために、無限に生産されつづけるのだ。  つまり、だれかの意見が間違えていると思うとき、ほんとうに変えてもらうべきなのは「言葉」ではなく、それを生み出す「心」のほうであるわけだ。  しかし、ひとの「心」を動かすことは至難である。  そしてまた、ひとは往々にして「言葉」の次元での勝ち負けに拘ってしまうものだ。  「言葉」による「議論」が概して不毛なのはこういう理由もあると思う。  もちろん、相手を説得したり論破したりすること以外のところに目的がある場合はこの限りではないが。  この話はべつに同性愛に限ったことではない。あらゆる何かしらの信念を持った人との議論にいえることである。  たとえば一般に「歴史修正主義者」と呼ばれる人たちの議論は、限りなく不毛に陥りやすい。  修正主義者たちは、たとえばあるユダヤ人虐殺が実はなかったということを説明するために膨大な量の「理屈」を持ち出してくるからである。  それに反論する側はいちいちその「理屈」を潰していくしかないわけだが、どんなに「理屈」を否定してみせたところで相手は怯まない。  ユダヤ人収容所が実在しなかったことのそれらしい理由など、その気になればいくつでも生み出されるものだからである。  これは南京虐殺否定論でもなんでも同じことだ。  ほんとうに問題なのは、差別や虐殺がなかったと思いたがる「心」のほうなのだ。  しかし、 

熱い議論が不毛に終わるたったひとつの理由。

モテるためにはどうすればいい? あるレズビアンの答え。

 以前から気になっていた『百合のリアル』という本を読みました。  これが、とてもとても、とても素晴らしい内容だったので、皆さんにオススメしなければと思っているところです。  いやー、久々に良い本を読んだ。ジェンダー系の内容に抵抗がなければ、ぜひ読んでほしい本ですね。  タイトルに「百合」という言葉は使われていますが、ジャンルフィクションとしての「百合」ではなく、「セクシュアリティ」一般について考察している書籍です。  この問題について、ここまで平明に、かつ明快に書かれている本はちょっと読んだ記憶がない。  内容的にもっと深遠な本は、フェミニズムやLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)系統の書物を探ればあるかもしれないけれど、このジャンルの入門編としてほぼ文句がない出来といっていいのではないかと。  むしろ、シンプルすぎるタイトルが内容の奥深さを隠しているようにも思えますが、読み終えてみるとこのタイトルの意図するところもわかってきます。  とにかくディープかつ明晰な一冊なので、百合に興味がある方もない方もぜひ読んでいただきたいところ。  未だに電子書籍が出ていない(!)という欠点はあるものの、内容的には満点を付けたいくらい。いや、ほんと、素晴らしい。  と、空虚な言葉を連ねていても仕方ないので内容を紹介したいと思いますが、ちょっとめずらしい形式の本なのでどう説明したものか迷う。  基本的にセクシュアリティを巡るさまざまな知見や価値観について書かれた内容なのだけれど、それがとある恋愛セミナーの「マヤ先生」と生徒たちの対話、という形式で書かれている点に特徴があります。  また、各章の合間には著者からの「手紙」も挟まれていて、読者はそれらを通じて少しずつセクシュアリティの問題について学び、考えていくことができるようになっている。  著者は女性として女性を愛し、一般に「レズビアン」として「カテゴライズ」されるタイプの女性なのだけれど、自分では自分をそう定義する必要は感じていないらしい。  ただし、その境地に至るまでには長い葛藤の歴史があったようです。  また、世間的には「レズビアンタレント」という「カテゴリ」で活動している人物でもあります。  この人の性格や来歴については、ほかにくわしく語っている本があるのだけれど、その話はまたいずれ。  さて、一般的には「レズビアン」と呼ばることが多い立場である著者は(こう書いてみても、「一般」ってなんだ?といった疑問は浮かぶわけですが)、「マヤ先生」の講義という形で、セクシュアリティについてのさまざまな知見を紹介していきます。  必ずしも「レズビアン」に限るわけではなく、もっと広く、人間ひとりひとりの存在と生き方についての話が続きます。  まず「モテるとは何か?」、「モテるためにはどうすればいいのか?」という話から始まり、しだいに人間の不思議、人間の認識の仕方の面白さへと話が進んで行く構成が秀逸。  ちなみにこのこの「モテるためにはどうすればいいのか?」には、最後に簡潔な答えが出ます。  このアンサーが実に目からうろこ。モテるための具体的なテクニックといったものではないものの、ちまたの恋愛指南本を100冊読んでもなかなか出てこないであろう秀抜なものです。  ネタバレなのでここに書いてしまうのはためらわれますが、あまりに素晴らしいのでぼくなりに解釈して書くと、 

モテるためにはどうすればいい? あるレズビアンの答え。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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