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2015年8月の記事 15件

プレイヤー全員が「自分以外はバカ」と信じるゲームの滑稽さ。

 平坂読の代表作『僕は友達が少ない』、通称『はがない』の最終巻を読み終わりました。  面白かった! ライトノベルの一時代を画した作品として迎えるべき終幕を迎えたように思います。ありがとう、ありがとう。  シリーズ通して素晴らしく面白かったです。  それにしても、Amazonレビューのあの酷評の山はなんなのだろうな。  読んでいるとげんなりしてくるので途中で読むのをやめてしまったけれど、あれはさすがに不当な評価が多いのではないかと思う。  いつも思うことだけれど、ネットでレビューを書く読者層ってほんとうに保守的。  ほとんど冒険も実験も許さないように見える。  もちろん、個々の意見としては素晴らしいものもいくらでもあるのだろうけれど、総体として見ると、やたらに保守的だなあという意見になりますね。  まあ、一般の読者はこんなものなのかな……。  平坂読さんは世間に認められづらい作風で実に可哀想です。  だれにでも書けそうに見えるんだろうなあ。じっさいにはものすごい才能と修練の結晶なのだろうけれど。  この「「このくらい自分にだって書ける」と思わせる小説がベストセラーになる」という事実は何十年か前に中島梓が『ベストセラーの構造』で指摘していまして、けだし慧眼だったな、といまにして思います。  まあ、このレビュー群だけではなく、最近、ネットでひとの意見を読みつづけることに神経が耐えられなくなって来ているぼくがいるのですけれど。  あるいは退歩なのかもしれませんが、読めば読むほどにげんなりしてしまうのですね。  なんだか何もかもどうでもいいように思えて来てしまう。  だれもが自分だけは正しいと考えて、他人の非を鳴らしてばかりいる。そんなふうに見える。  いや、べつだんぼくひとり高みに立つつもりはなくて、ぼく自身が何かひとことでも言葉を口にした途端に、そのどうでもいい正当性の競争に巻き込まれているのです。  うんざり。  それではどうすればいいのかというと、結局、沈黙するしか方法はないのかもしれない。  無言の者だけが賢者でありえる。何であれ口にした瞬間に、その言葉の成否を巡っていさかいが始まる。  どうでもいいといえばどうでもいいが、どうにも疲労させられる話です。  ほんとうに自由でありたいのなら、黙るしかないということ。  うーん、憂鬱な結論だね。  もちろん、そうだからといってぼくなどは黙り込むわけにもいかないので、自分の責任のとれる範囲内で発言していくつもりであります。  しかし、自分のいっていることがすべてではないということはどうにか自覚しておきたい。  これがじっさい、むずかしい。  世の中には、たしかに間違いなく正しいと思えることがあって、そういうことですら意見は四分五裂する。  そしてまた、どうしようもなく間違えていると思えていることもあるけれど、そういうことさえ正しいと主張する人がいる。  1000人いれば、1000通りの意見があるのが現実。  しかし、ぼくも含め、ひとはそれを単色に塗りなおさなければ気が済まない性質があるようです。  ひとが何か間違えたこと(と、自分には思えること)を主張するのが気に食わない。  原発を停止しつづけるべきなのは(あるいは、再稼働させるべきなのは)あきらかなのに、それがわからない人物の愚かさが気に入らない。  それが有名人だったりするとなおさらいやになる。だから、その意見を否定して、世界を正常に戻してやらなければならない。  そういうふうに信じて、どれだけの人が泥沼の論争にひき込まれていったことでしょう。  何がいいたいかというと、もうネットで自分の意見の正当性を巡っていい争うのはやめようということなんですけれどね。  自分は正しい、正しい、正しい、お前は間違えている、間違えている、間違えている。  そんなことを繰り返しいいあって何になるというのか? 

プレイヤー全員が「自分以外はバカ」と信じるゲームの滑稽さ。

正義は血を求める。

 安田浩一『ネット私刑(リンチ)』を読んだ。  長年、ヘイトスピーチ問題に取り組んでいる著者が「ネットを利用した個人情報晒し」について語った一冊である。  テーマはズバリ、「インターネットの暴走する正義」。  最初から最後まで延々と暗鬱な話が続く。読んでいてどうしようもなく気が重くなる本だ。  本書には、見ず知らずの人間を罵倒し、揶揄し、攻撃してやまない人間が多数登場する。  そういった人物たちの正体は何者か。ぼくやあなたの隣にいる「普通の人たち」なのである。これで気が滅入らずにいられるだろうか。  しかし、すべてはわかっていたことだ。  「普通の人たち」こそ最も怖い。最もおぞましい。  そして、ぼくやあなたにしてからが、そういう「邪悪な凡人」にならないとは限らないということ。  人間の底知れない醜さと邪さを思い知らされ、しかも他人ごととして処理することを許されないという意味で、ほんとうに重たい一冊だった。ぐったり。  それにしても、人はなぜ、ネットを利用して「悪」を狩ろうとするのだろうか。素直に司法に任せておくことはできないのか。  できないのだ。なぜなら、司法による裁きは何千年にも及ぶ検討の末にできあがったもので、苛烈な制裁を望む者にしてみれば甘いのである。手ぬるく感じられるのだ。  また、司法はすでに腐敗していて、正義を行うのに十分ではないという疑いもある。  見なれた退屈な陰謀論ではあるが、その種の意見が「正義」を求める。一点のしみもない酷烈きわまりない「正義」を。  それは見方を変えればきわめて悪質かつ醜悪な「私刑」にほかならないが、その種の「私刑」を実行しようとする者にとってはその残酷さは必然である。  なぜなら、少しでも妥協してしまったなら、その「正義」は意味を失うからだ。  どこまでも濁りのない純色の「正義」こそが求められている。  そして、その「正義」の執行においては、法的に定められている手順はスローに感じられる。  たとえば「性犯罪者は全員死刑にしてしまえ!」といった極端な主張を展開する際、「いや、性犯罪者にも人権があって……」といった主張はいかにもまだるっこしく感じられるに違いない。  だから、手順はすっ飛ばされることになる。手順を踏むのは面倒くさいのだ。  ほんとうはその省かれた部分こそが致命的なものであるのかもしれないのだが、「正義」に酔いしれている人々はそのことに気づかないし、気づきたいとも思わない。  こうして、「炎上」事件が起こる。やり玉に挙がるのは、特定の犯罪者やその家族、共謀者、とされる人たちだ。  火のないところに煙は立たないはず 

正義は血を求める。

細田守最新作『バケモノの子』は、父性不在の世界における葛藤を描く傑作映画だ。

 「正しい言葉」が、ある。  大切なあの人に投げかけるべき真実の言葉が。  そのひと言はすでにのど元まで出て来ている。  なんと告げるべきなのかもうとうにわかりきっている。  だから、あとはただその言葉を放ち、形のない銃弾で相手の胸を射抜く、それだけ。  さあ、早く。  さあ。  しかし、どういうわけかその言葉はのどから飛び出さない。  どんなに必死になってもすべては無駄に終わる。  懸命にのどを掻きむしればむしるほど、想いは冷め、言葉は遠のいていくばかり。  待って。  お願い。  待ってくれ。  もう少しでこの想いを言葉にできるんだ。  しかし、もう遅い。  だれよりも大切なその人は去っていく。  切なる想いはだれにも届くことなく、伝わることもない。  そしてどうしようもなく途方にくれる。  たったひとり喧騒の町並みに放り出された迷い子のように。  ひとがひとと対峙しようとすることは、そういうことのくり返しではないだろうか。  きっとどこかに「正しい言葉」がある。  それさえ見つけ出せば自分の想いを正しく伝えることができる。  そう思い、そう信じながらも、どうしてもその言葉を見つけられない。  だから表現は乱暴に堕し、態度は尊大に変わって、いつしかその言葉を目ざしていたことすら忘れてしまう。  それが人間存在の哀しむべき一面だろう。  ディスコミュニケーション。いつだってそればっかりだ。  細田守がこの夏ぼくたちに送り届けてくれた新作アニメーション映画『バケモノの子』は、そんな切なくももどかしいディスコミュニケーションを繊細に描き出した傑作である。  世界に見捨てられた少年の成長――そして、かれを育てることによって自分自身が育てられていく一匹のバケモノの成熟。  つい先ほどまで劇場にいたわけだが、素晴らしい映画体験だったことを告白しておく。  前作『おおかみこどもの雨と雪』の時はついに入り込めずに終わったが、この『バケモノの子』でようやく細田守の世界に指先が届いた気がする。  つまりはこの人は恐ろしく真剣で生真面目なのだ。  かれの作品を見ていると、ついもっともらしく解釈を連ねたくなる欲求に駆られる。  そもそもこの映画を見る前、前作を敬虔な母性の物語とするなら、今度は力強い父性の物語だろうかと憶測した人は少なくないだろう。  ぼくもその種の偏見を抱いて劇場を訪れたことは否めない。  しかし、やはり映画は無心になって見るべきものだ。シンプルに母性だ父性だと割り切れないものがここにはある。  物語は、母親を事故で喪った少年・蓮が渋谷の街へ飛び出していくところから始まる。  見知らぬ人ばかりの雑踏で、ほんの偶然、かれは一匹のバケモノと出逢う。  熊鉄。  乱暴者で口が悪く、腕っ節こそ強いがまるで人望がない男。  なぜか蓮を気に入った熊鉄はかれをかってに弟子にしようとする。  それというのも、現実の渋谷と平行して存在するバケモノの街を束ねる「宗師」の地位が、もう少しでだれかに禅譲されるところだからだ。  武術の腕前はほぼ互角ながら人徳で大差をつけられているライバル・猪王山を追い抜くためには、掟破りの人間の弟子でも育て上げてみせなければならないというわけ。  かくして嫌われ者のバケモノと見捨てられた人間の、奇妙な師弟関係が始まるのだが、それは蓮の成長とともに破綻を迎えることとなり――と、プロットはサスペンスフルに進んでいく。  終盤、蓮が向き合うことを余儀なくされるのはかれが封印した「もうひとりの自分」だ。  自分自身がそうであったかもしれない可能性。シャドウ。  その存在は巨大な闇となってバケモノも人間も飲み込んでいくのだが――。  映画全体を見ればそこまで洗練されたシナリオとはいいがたく、時折り、錯綜する展開を屋台骨が支えきれなくなっていると感じる時もあった。  しかし、骨太な物語の力とファンタジー特有のマジカルなイマジネーションは、最後まで映画を先へ先へと牽引しつづけ、クライマックスでは美しい展開を迎える。  その正しくも奔放な想像力の冒険は良質な児童文学を思わせるものがある。  まさにアニメーションを見る快楽そのものである。  『バケモノの子』というタイトルだから、熊鉄と蓮の関係を擬似的な父子関係と見、形ばかりのニセモノの親子が本物になっていくプロセスと見ることもできるだろう。  じっさい、その見方は間違えていないと思う。  しかし、ぼくはここに「親子」、「父と子」という関係が解体されたあとでのひとりの人と人の真剣な対決を見いだしたい。  「見捨てられた子供」である蓮はいかにもアダルトチルドレン的に見えるが、かれを渋谷の街に放り出したかに見える大人たちにしても、ほんとうにそこまで悪しき存在なのかはわからない。  冒頭、いかにも悪役然として描かれている蓮の祖父母にしたところが、真心から蓮を身請けしようとしたのでないとだれにいえるだろう?  また、蓮のほんとうの父親もまた、別れた妻の死後、必死にかれを探していたのだった。  だれもが必死で、だれもが懸命、ただそこには「正しい言葉」が欠けていて、だから「正しい関係」にはたどり着けない。そういうことでしかないのではないだろうか。  蓮と熊鉄の関係もまた一日にして終わっていてもおかしくなかった。  ところが、どんな奇跡か、ひととの関わり方をしらず、まして愛し方や教え方など考えたこともないであろう熊鉄と、世界から見捨てられたと信じる蓮は、互いの魂の欠けたところを補い合うかのように成長していく。  いずれが父でいずれが子か、いずれが師でいずれが弟子かは、ここにおいてはもはや重要ではない。  熊鉄は蓮を育てることによって自分自身のなかの子供を癒やしたという見方もできるだろう。  だが、ここでも「正しい言葉」は致命的に欠けていて、ふたりはおっかなびっくり、くっついては離れてをくり返す。  蓮が熊鉄と真剣な関係を築けたことは、ほんのささやかな偶然、「縁(えにし)」というべきだろう。  はたして人として未熟な熊鉄に親として師としての資格があったのかどうか、それはわからないし、おそらくそんな資格を持っている者はだれもいないのかもしれない。そう思う。  「先生」という言葉がある。「先に生まれた」と書く。  じっさい、ひとを教え導く先生とは、「先に生まれた」だけのことに過ぎないのかもしれず、あとはすべて対等なのかもしれない。そうも思うのだ。  「正しい言葉」がある。「正しい愛し方」が、「正しい教え方」がある。  けれど、決してそれに手が届くことはなく、ひとにできることはただあがきもがくだけ。  愛し方なんて知らない。愛され方なんてわからない。  ひとはだれもが不完全な形でこの世に落とされて、溺れないように泳ぎつづけているだけなのだ。  熊鉄も。  蓮も。  蓮の父親も。  全知全能と見える宗師だってそうなのだろう。  その意味でここに「父」はいない。  『バケモノの子』は、絶対的な父性が不在の世界でそれでも懸命に「縁」をたどり、「絆」を見つけようとする人々を描いた作品だ。  「正しい言葉」がある。そして「正しい関係」があり、「正しい親子」がきっとどこかにいる。  いいや、違う、そんなもの、どこにも存在しない。  じっさいにあるものは、不器用に関わりあいながら、時に愛し、時に憎み、時に成し遂げ、時にしくじる生身の人間同士の関係だけだ。  理想は遠く、幸福は届かない。それでも、一歩ずつ前へ進んでいこう。  映画はそう訴えかけているように思える。 

細田守最新作『バケモノの子』は、父性不在の世界における葛藤を描く傑作映画だ。

議論をすればするほど意見はダメになる。

 どもです。またか、と思われることと思いますが、ブログの名前を変えました。  「いまどきエンタメ解剖講座」というタイトルで、いまどきのエンタメを解剖していきたいと思います。  結局、「ハッピーエンド評論家」としてはなんら活動をしないで終わってしまったことになるわけで、これは失敗だったな、と思いますね。失敗だらけなのですけれど。  もうひとつ、新しいパソコンはどうやら20日あたりに届くようです。  3年保証込みで70000円程度の安いノートパソコンですが、それでもいま使っている機体と比べると格段に性能が良いはずなんですよね。  ちなみにぶっ壊れたパソコンは4年前の3月11日、そう、東日本大震災の当日に購入したマシンだったりします。  だからどうだというわけではありませんが、時が経ったなあ、と思わせられます。  震災の傷はもとより消え去るはずもないにせよ、ひとつの機械が寿命を終えるだけの時間が流れたのだ、と。感傷ではありますが……。  さて、きょうは「議論」の話をしたいと思います。「正義」の話といってもいい。  インターネットを眺めていると、広く一般に、何か主張をする人が議論を避けることは悪いことだ、というコンセンサスがあるように思います。  自分に正義があることをわかっているなら堂々と議論をすることができるはずだ、ということでしょう。  なるほど、それは一理あると思います。理屈の上では。  しかし、現実に目を向けてみると、議論をすることによって事態が改善したという例はほとんど見つけることができない気がするのです。  議論をすればするほど何が正しいのかあきらかとなり、すべての真実がつまびらかとなって、現状の問題はことごとく解決する、というのはどうやら幻想に過ぎないのであって、ほとんどの議論はただ対立を深める役にしか立たないというのが事実ではないでしょうか。  なぜそうなのか。  それは、およそ議論と呼ばれるものはほとんど、自分の「正しさ」ばかりを主張して相手の「正しさ」を否定することに終始するからではないでしょうか。  少なくともインターネットのレベルでは、議論と呼ばれているものは、いかに相手の主張に耳を傾けず、ひたすら自分の主張をくり返しつづけるか、その勝負という次元に留まっているように思います。  結果として、議論をした論者は互いに自分の主張の正しさをさらに確信し、より強固な信念を抱くに至る。そしてその主張はより先鋭化することになるのです。  これがぼくが「議論をすればするほど意見はダメになる」という理由です。  そもそもその種の議論とは、ひたすらに「自分は正しい、正しいんだ」と主張しあうだけの言語的決闘であって、いささかならず品を欠くことは否めない。  その種の決闘は、どうしたって一種の権力闘争の趣きを帯びます。  したがって、初めは純然たるロジックで公正に「正しさ」を見極めるはずだった議論は、そのうち単なる口汚いののしりあいへと堕ちていくことになるのです。  じっさい、ネットですばらしく白熱しながらなおかつ公正なまま進んでいく議論を見たことがあるという人は少ないでしょう。  それくらい、議論はうまくいかないものなのです。  もちろん、 

議論をすればするほど意見はダメになる。

ふたりだけの地獄。ふたりだけの聖域。

 どもです。  迷いに迷った挙句、なんとか新品パソコンを注文しました。  しかし、じっさいに商品が届くまでにはまだしばらくかかるでしょう。  しかたがないので、iPadで書いて、壊れかけのパソコンで更新する方式を採ろうと思います。  まだしばらくこのパソコンが保ってくれるといいのですが……。  さて、きょうは最近読んだ漫画の話でも。  マツモトトモ『インヘルノ』。これが、面白い。  この頃読んだ漫画のなかでは傑出した緊迫感。  画力がテーマに追い付いていないといわれればその通りなのだけれど、そこは気にしない方向で読むと、非常に楽しめます。  物語は高校生の姉と弟が再開するところから始まります。  姉は何をやらせても完璧な美少女。弟はどこか野獣の気配を残した少年。  この姉とこの弟は運命的に惹かれ合い、やがて結ばれてゆきます。禁忌を超えて。  そして、ふたりはどうなるのか?  いわゆる近親相姦ものの一類系ではありますが、物語の本質はそこにはないでしょう。  どうしようもなく愛し合ってしまった者たちの絶望、とでもいうべきものがこの作品を傑作にしています。  『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の結末はあれはあれでとてもよく考えられたものだったと思うのだけれど、あの先にもう少し進んでいたらどうなっていたか、それを見たいと思う人はぜひこの漫画を読んでみてください。素晴らしい出来です。  なんといっても姉のキャラクター造形が秀逸。  生まれつき何もかも持ちあわせていながら、まさにそうであるために何も愛していない少女。  人並み以上の感性はある。ひとを好きになることもできる。しかし、それにもかかわらず、ちっともその対象を愛していないのです。  表面だけ完璧に仕上がった美しい人形、とも取れる。  ところが、その人形はたったひとりの弟と再会することによって、なまめかしく生まれ変わります。まるでピグマリオンの神話のように。  そして、ふたりの世界を守るため、静かな戦いを始めるのです。  そこに倫理や道徳は一切関わってきません。たくさんの人を傷つけることになるかもしれない。すべてを失う羽目になるかもしれない。  聡明な彼女にそのことがわかっていないはずもない。それでも、まさにどうしようもなく止められない想い、そして渇き。  作家はていねいにていねいにそのふたりだけの地獄(インヘルノ)を描いて行きます。  お互いにとってお互いがすべて。世界など、滅び去るがいいといわんばかりの頽廃的な関係は、はたしてどこに着地するのでしょうか?  ふたりの聖域。決して知られてはならない関係。思わず魅せられる物語が展開します。  作中、 

ふたりだけの地獄。ふたりだけの聖域。

『響け! ユーフォニアム』のたったひとつの瑕。

 ペトロニウスさんが『響け! ユーフォニアム』の記事を上げていますね。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150807/p1  で、ぼく、これを読んでびっくりしたのだけれど、『ユーフォ』のキャラクターデザインって、『青春しょんぼりクラブ』の作者さんなんですね……。  いやー、いまさら何をいっているんだお前はといわれるかもしれないけれど、ぼくのなかでこのふたつの名前は結びついていなかった。  アサダニッキってどこかで聞いた名前だとは思っていたんだけれども。  予想外のところで色々関係が繋がっているものだなあ、とあらためて感嘆。  いや、ぼくの予想が貧弱なだけかもしれませんが、それにしてもね。  ぼくはそんなにアニメを見る人ではないのですが、『ユーフォ』は『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているのだろうか』と並んで、ここ最近見たもののなかでは収穫といえる秀作だと思います。  何か異常な熱気があるというわけではないかもしれないけれど、とにかくていねいに脚本が組まれていて、作画も綺麗にまとまっている。  『けいおん!』以降の青春ものアニメとして、最高の作品といっていいのではないでしょうか?  青春の光と闇、栄光と挫折を、非常に美しく描いているように思えます。  ひと言でいうと「やる気のない人間がやる気を出すまでのお話」なので、気に食わない人もいることでしょう。  しかし、どこまでも続く永遠の日常もさすがに苦しく思えて来ている昨今、その突破を目ざす作例のひとつとして本作は記憶されてもいいと思います。  なんといっても、圧倒的に出来がいい。  コメディにも依らずシリアスにも依らず、しかし全体的にはきわめて感動的に演出された物語は、まさに「さすが京都アニメーション!」といいたくなるクオリティです。  特に後半の盛り上がりは素晴らしく、パーフェクトではないにしても、限りなくそれに近い作品といってもいいでしょう。  しかし――そこにひとつだけ瑕疵があるように見えることもたしか。  これは以前、友人たちと話をした時もその話題になったことですが、ほとんど完璧に組まれているように見えるこの物語の唯一といっていい問題点が滝先生の描写だと思うんですよ。  かれがどういう動機でもって吹奏楽部の生徒たちを指導しようとしていて、それにどこまでの正当性があるのか、その点がいまひとつあきらかになっていない。  もちろん、かれ個人の内面では正当性がある話なのだろうけれど、客観的に見ればそうでもないわけで、その問題点が突き詰められずに終わっているところが隔靴掻痒の印象を残す。  当然、制作スタッフはその点に気付かなかったわけではなく、検討の結果、そこは描かないと決めたのだと思います。  あるいは 

『響け! ユーフォニアム』のたったひとつの瑕。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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