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記事 2件
  • 『冴えない彼女の育てかた』に刻の涙を見た。

    2015-10-01 19:16  
    51pt

     最近、どういうわけか積読していたライトノベルを読もうという気になっていて、きょうは丸戸史明『冴えない彼女の育てかた』第2巻を読み終えました。
     第1巻を読んだのはずいぶん前のことで、それからテレビアニメが放送されたりもしたのだけれど、なんとなく止まったままだった本をようやく読むことができ、感慨無量です。
     さっそく第3巻にも取り掛かったから、こうなったら既刊全巻を読了する日も近いでしょう。たぶんね。きっとね。
     で、感想なのですが、大変面白かったです。
     第1巻も面白かった記憶がありますが、この手のシリーズものは読み進めれば進めるほどにキャラクターに愛着が沸き、よりいっそう楽しめるようになるもの。
     この作品もご多聞に漏れず第1巻以上に楽しく読めたと思います。
     しかし、いまさらながらに思い知りましたが、内容が古いですねー。
     「主人公が小さなサークルを作って同人ギャルゲーを制作する」という突端からしてとても時代を感じさせるわけですが(いまどきギャルゲーて)、それ以上に「オタク」をことさらに強調する感性そのものが古い。
     ここらへんのオタク自己言及テーマのカッティング・エッジはやはり『妹さえいればいい。』だと思うのだけれど、それと比べると二世代くらい前の作品に感じます。
     まあ、これはあとがきで作者自ら語っていることでもあるし、特に欠点といえるようなことでもないとは思うのですが、それにしても古めかしい。
     思わず「そうそう、昔はこうだったよね!」とうなずきながら読みましたとさ。じっさいにはさして昔のことでもないはずなのに……。
     刊行されたのは数年前のことだからかもしれませんが、それを考慮にいれてもちょっと時代とずれている感じ。
     逆にいえば、ここ何年かの「オタク」を巡る状況の変化には驚かされます。
     新井輝さんの『俺の教室にハルヒはいない』あたりもそんな感じでしたが、もはやこの手の自虐的なひとり語りは通用しなくなっているのかもしれません。
     時代は変わったなあ(しみじみ)。
     具体的に何が変わったのかといえば、「オタク」という言葉を巡る自意識のあり方でしょう。
     『冴えない彼女の育てかた』の主人公はかなり意識的に「オタク」と「リア充」を対比し、時に劣等感に浸ったりしているのですが、こういう形の自意識は最新のライトノベルでは解体されています。
     オタクがどうこう、リア充がどうこうということをあえて意識する必要がなくなったのですね。
     これはリアルに世相を反映していると思うのだけれど、そういう意味ではこの主人公は前世代的なキャラクターといってもいいのではないでしょうか。 
  • あたりまえの恋愛を成り立たせている条件とは何か。(1883文字)

    2013-07-22 22:17  
    53pt




     江國香織の『神様のボート』をぱらぱら眺めている。読んでいるわけではなく、ただ眺めているのだ。本を適当にめくって、ひらいたページに書かれてある文章を見つめる。そのくり返し。
     だから、物語は全然わからない。かろうじて、母と娘の一人称が交互に記されていることがわかるくらい。あと、恋愛小説であることと。
     ふだんはこういう女性向けの恋愛小説を読むことはほとんどない。ぼくが読むものといえば、SFや推理小説や冒険小説ばかりだ。しかし、江國香織の言葉づかいは好きなので、こうして買ってきて、「眺める」わけだ。読書ならぬ眺書である。
     べつだん江國の作品に波瀾万丈は求めていないので、これでも十分、もとを取れる。江國の文章はとにかく綺麗で、繊細で、眺めているとほうっとため息がもれる。もう、ページをひらいた瞬間に美しさがわかる。
     しかし、このひとは長編より短編のほうがいいな、などと思ったりする。彼女の綴る物語には特に興味を抱けないからだ。それならひたすらに切れ味鋭く、あと味涼やかであるほうがいい。もちろん、一読者(ともいえない者)のわがままな「感想」に過ぎない。
     ところで、恋愛ものというと、こちらは大いに耽溺したゲーム『ホワイトアルバム2』が思い浮かぶ。ここ数年でぼくが読んだり観たりしたラブストーリーのなかでも最高の傑作である。
     この作品についてはしばらくまえにペトロニウスさんたちとラジオで話して、いくらか思うところがあった。つまりは、この話は「ヘテロセクシュアル(異性愛)」と「モノガミー(単婚)」、さらには舞台が日本という条件がそろって初めて成り立つ傑作だということである。
     この条件がひとつでも狂うと、簡単に破綻してしまうのだ。否、「破綻」という表現は的確ではない。登場人物たちがかれらを縛る桎梏から「解放」されてしまうというべきだろう。
     この場合の桎梏とは何か。それは春希、雪菜、かずさの三角関係である。『ホワイトアルバム2』は、高校時代に出逢い、それぞれ恋に落ちた三人の若者が、大学、社会人と進んだあとにその想いに翻弄される物語だ。
     ここで春希はかずさにつよく惹かれながらも、雪菜と離れることもできずに苦しむ。しかし、少し視点を変えてみると、この一見どうしようもないようにみえる状況はあっさり解決してしまう。
     ぼく自身はその三角関係の閉塞感が好きでならなず、きりきりと胸を締め付けられるような切なさに溺れたひとりなのだが、三人のうちのだれかひとりが、「三人でいっしょに暮らす」ことを提案したなら、そしてほかのふたりが受け入れたなら、このシチュエーションは意味をなくしてしまうのである。
     これはゲーム的な「ハーレムエンド」というよりは、ヘテロセクシュアルやモノガミーの限界を超越した「第三の解」だと考えたい。
     「一対一の異性愛」という限界のなかでは答えを見いだすことができない問題が、その条件を外せばあたりまえのように解決しまうことはおもしろい。