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  • 妥協なき不毛な議論を乗り越えるために。

    2016-02-15 02:05  
    51pt
     ちょっと興味があるので、原発とエネルギー問題について書かれた本を探し出しているのだけれど、Amazonのレビュー欄がみごとに政治的闘争の現場と化していて役に立たない。
     正直、実物を読まなくては何が正しく何が間違えているのか判断できないので、自分で書店なり図書館へ行って本を探すことにしたいと思う。
     電子書籍で入手できればそれがいちばん楽なのだが、そういうわけにもいかないようだ。
     余談だが、最近は物理書籍が邪魔に感じて仕方ないので、電子書籍以外の本をほとんど買わなくなっている。
     出版社の人には物理書籍と同時に電子書籍を出版するよう努力したもらいたいものだ。余談終わり。
     さて、個人的な意見を述べるなら、原発を巡る「議論」は、絶対正義と絶対正義の対決という印象で、不毛そのものといった様相を呈しているように思う。
     タバコを巡る論争と同じ現象が、さらにいびつな形で起こっている感じ。
     ぼくはこういう議論を「ハルマゲドン型」と呼んでいる。
     聖書にある最終戦争のごとく、絶対に譲らない善悪の戦いであるかのような論争という意味だ。
     ハルマゲドン型の議論は、永遠に進展することなく、ただ互いが互いに向けて自分の主張を延々と投げつけ続けるだけに終わる。そこに妥協の余地は一切ないのだ。
     したがって、ハルマゲドン型論争はいつも限りなく無意味である。
     議論とは普通、より正しい結論を導き出すために行うものだろう。
     しかし、ハルマゲドンと化した議論はいつまでも平行線をたどるばかりでいかなる結論も出ないのだから、労力の無駄遣いというしかない。
     もちろん、その議論を行う両者は、やり取りの不毛さはすべて相手側の愚かしさと無理解に起因すると考えるわけだが、お互いに心からそう思っているのだから世話はない。
     ハルマゲドン化した時点で、その議論には未来がないのだ。
     もっとも、ハルマゲドン型論争にも主観的な勝利なり決着はある。
     この種の論争が終わるときがあるとすれば、それはどちらか一方が相手に対し勝手に勝利宣言した時である。
     その時点をもって議論は決裂という形で終結を見る。
     そのような形の終結を見ない限り、この「議論」は、多くの場合、果てしない嫌味と皮肉と決めつけと揚げ足取りの応酬という形で続いてゆく。
     まるでよりうまく嫌味をいえたほうが勝利者だと決まっているかのように。
     大人とは、ひとより誠実に言葉を選べる人をいうのであって、他人を皮肉るのがうまい人のことではないのだが……。
     とにかくまあ、「自分は絶対に正しくて、相手がバカ」だと考える類の「自分は賢いので絶対にバカなミスはしないと思い込んでいる人たち」の繰り広げる「議論」とは、おおむねこのようなものである。
     場合によってはじっさいにどちらかが正しく、どちらかが間違えているのかもしれないが、それにしてもその議論に価値があるとは思われない。
     絶対対絶対の不毛を乗り越えるためには、問題の結論が絶対正義ならぬ灰色の領域に属していて、100パーセント自分が正しいとはだれにもいえないという認識が必要である。
     「議論」とは、それに参加する両者がこの「グレイゾーン思考」を備えていて初めて、有効になりえる可能性を持つ。
     もちろん、正か否か、完全に割り切ることができる問題もあるだろう。1+1は、いついかなるときも普遍的に2であって、3にはならない。
     しかし、 
  • 熱い議論が不毛に終わるたったひとつの理由。

    2016-02-06 13:35  
    51pt
     ふと思ったこと。
     よく同性愛者は異常だという人がいる。ネットを検索してみるとたくさん見つかるだろう。
     いまの常識から見ればそれは間違えた意見であるわけだが、そういう人と「議論」をしても相手の考え方を変えることは困難である。
     というか、何らかの信念を抱いている人と議論をしてその人の考えを変えようとすることはいずれも不可能に近いくらいむずかしいと思う。
     なぜだろう?
     それは、ようするに「言葉」とか「理屈」の次元で話をしているからだと思う。
     もちろん、議論は「言葉」で交わすよりないわけだが、そうやっていくら「言葉」を重ね、「理屈」を丁寧に説明しても、ひとの心は変わらない。
     なぜなら、ひとはほんとうは「言葉」や「理屈」でものを考えたりしていないからである。
     ほんとうは「心」ですべてを判断していて、その「心」を納得させるために「言葉」を生み出しているに過ぎないのだ。
     いわば「心」は基地で、「言葉」はその先兵である。
     だから、いくら「言葉」で相手を論破したところで、相手の「心」を変えない限り、ほんとうにその人を説得したことにはならない。
     同性愛者を嫌う人は、同性愛が異常である理由を、十でも百でも並べ立てるだろう。
     そして、同性愛者や同性愛者をサポートしようとする人はその「理屈」を打ち破ろうと自分たちの「理屈」を並べ上げる。
     ぼくの主観では、後者の理屈のほうが「正しい」ように思える。
     しかし、その理屈が「正しい」なら同性愛者異常説はそのうち消えてなくなるかというと、そうではない。
     それは「言葉」のレベルでは勝利していても、相手の本丸である「心」を変えることはできていないからだ。
     ひとは「心」が変わらない限り、また新しい「理屈」をいくらでも考え出してくる。
     「同性愛者が異常である理由」という「理屈」は、「同性愛者が嫌いだ。気持ち悪い」という「心」を正当化するために、無限に生産されつづけるのだ。
     つまり、だれかの意見が間違えていると思うとき、ほんとうに変えてもらうべきなのは「言葉」ではなく、それを生み出す「心」のほうであるわけだ。
     しかし、ひとの「心」を動かすことは至難である。
     そしてまた、ひとは往々にして「言葉」の次元での勝ち負けに拘ってしまうものだ。
     「言葉」による「議論」が概して不毛なのはこういう理由もあると思う。
     もちろん、相手を説得したり論破したりすること以外のところに目的がある場合はこの限りではないが。
     この話はべつに同性愛に限ったことではない。あらゆる何かしらの信念を持った人との議論にいえることである。
     たとえば一般に「歴史修正主義者」と呼ばれる人たちの議論は、限りなく不毛に陥りやすい。
     修正主義者たちは、たとえばあるユダヤ人虐殺が実はなかったということを説明するために膨大な量の「理屈」を持ち出してくるからである。
     それに反論する側はいちいちその「理屈」を潰していくしかないわけだが、どんなに「理屈」を否定してみせたところで相手は怯まない。
     ユダヤ人収容所が実在しなかったことのそれらしい理由など、その気になればいくつでも生み出されるものだからである。
     これは南京虐殺否定論でもなんでも同じことだ。
     ほんとうに問題なのは、差別や虐殺がなかったと思いたがる「心」のほうなのだ。
     しかし、