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2014年2月の記事 9件

赤児をたたき殺し、淫魔に身を委ねよ。悪魔の大祭に酔いしれるとき。

 何度目になるかわからないのですが、栗本薫の『トワイライト・サーガ』を読み返しています。これ、ぼくの最も好きな作品のひとつで、栗本さんがデビュー前に書いていたものですね。  昔、東京でひらかれた栗本薫展で、この小説の生原稿を目にしたときは感動ものでした。小さな紙に細かい文字でびっしりと書かれているのですが――修正の跡がない!  おお、なるほどこれは天才だ、と感じ入ったものです。ものすごい速度で頭のなかに降りてくるイメージを、そのまま言葉に変えているんだろうな、と。まさに物語の巫女。物語作家のひとつの理想の形です。少なくともこの頃はそれができたんですね。  さて、『トワイライト・サーガ』の物語の舞台は『グイン・サーガ』から何百年、何千年かを経た未来の世界。  まあ、じっさいには『グイン・サーガ』のほうが後に書かれているわけですけれど、とにかく『グイン・サーガ』と同じ世界の、遥かに時を経た時代を描いているわけです。  その頃、人類は既に文明の盛りを過ぎ、惑星そのものが永遠の闇へ沈んでいこうとしています。しかし、文明のともし火が及ばない草原などには、未だに健康な精神の持ち主が生きのこっていもます。  この、まさにたそがれの枯れゆく衰えゆく世界で、偉大なジェイナス神に仕える闇王国パロスの王子ゼフィールと、草原の剣士ヴァン・カルスがさまざまな冒険を繰りひろげるというのが、まあこの小説の簡単な筋立て。  合わせて十篇の短編から構成されているのですが、やはりある種の天才を感じさせることに、最初の話である「カローンの蜘蛛」において既に冒険を終え、愛するゼフィール王子と離ればなれになってしまったカルスの姿が描かれています。  つまり、その先、どんな冒険、どんな活躍が待ち受けているとしても、ゼフィール王子とカルスは別れて終わる運命なのです。  ここらへんの突き放した設定は、ある種の「若さ」を感じさせますね。のちの栗本薫であったなら、もう少し何か救いを用意したことでしょう。  そういう意味では若書きの作品なんだけれど、そのクオリティはさすがのひとこと。そこには、最近、再刊行が進んで一部で注目を集めている(かもしれない)美と退廃の作家クラーク・アシュトン・スミスの影響が濃密に伺えます。  ちなみに、同じ世界のさらに未来、もはや完全に人類が闇と悪徳に染まりきった時代を描いているのが『グイン・サーガ・ハンドブック』に収録されている短編「悪魔大祭」で、そちらは完全に淫靡な頽廃の美、死と暗黒とグロテスクの賛歌となっています。  ぼくはこの狂えるデカダンスの世界が好きで、好きで、それで栗本薫を読んでいるようなところがあるので、『トワイライト・サーガ』も「悪魔大祭」も、実に素晴らしい傑作だと思います。  もちろん、 

赤児をたたき殺し、淫魔に身を委ねよ。悪魔の大祭に酔いしれるとき。

2014年の最高傑作候補。映画『ラッシュ』に熱い男の友情を見ろ!

 ニキ・ラウダ――有名なその男はある事故を契機にさらに有名となり、さらには伝説にまでなった。偉大なF1チャンピオンとして。そして、大炎上するレースカーのなかに取り残され、1分間にわたって全身を炎に包まれながらなお再起した不屈の男として。  『ラッシュ プライドと友情』は、そのF1史上伝説のヒーロー、ニキ・ラウダと、かれの永遠のライバルであるジェームズ・ハントの火花散るライバル関係を、実話をもとに描いた映画だ。  はっきり云っておくが、これこそは観ておくべき映画だ。アカデミー賞は獲れなかったようだけれど、そんなことは実にどうでもいい。少しでもぼくの目を信じてくれるなら、ぜひ上映期間中に観てほしい。これこそは何を置いても観なければならない映画だ。  まだ今年は11ヶ月近く残っているが、おそらく、ぼくのベスト・ムービー・オブ・ジ・イヤーはこれに決まりだと思う。それくらいハートにズドンと来る出来だった。  ひとの価値観は色々だが、この映画を大して高く評価しない人もいるとは思う。しかし、少なくともぼくにとってはこのレベルの映画はめったに出逢えるものではない。  監督は『アポロ13』など実録ものを多く手がけていることで知られるロン・ハワード。この稀代の名監督は実話をベースにフィクションを折り混ぜながら物語を組み立ててゆく。  かるくネットで調べたところによると、じっさいには、ラウダとハーバートは対照的な性格ながら気の合う友人であったらしい。  しかし、映画のなかのふたりはあたかも水と油、氷と炎、何もかも正反対でぶつかり合わずにはいられない関係だ。  ラウダは氷のように怜悧な頭脳を持つコンピューターレーサー。マシン整備に無二の天稟を持ち、名家の生まれで孤独な毒舌家。  一方のハントは自由奔放なプレイボーイ。酒とセックスを愛し、どこまでほんとうなのか、生涯で数千人の女性と寝たと云われている。  映画はこのふたりのスーパーレーサーの逸話をさらりと描きながら、一定の映画的リズムを刻みつつ「伝説の1976年」へ向けて加速してゆく。  1976年。その年、ふたりはカーレース史上にのこる熾烈なバトルを繰り広げることになる。序盤、ラウダはハントに大差をつけ前年度に続く二連覇に向け突き進む。  ところが、ラウダの炎上事故をきっかけに、ふたりの差は縮み、戦いはさらに白熱する。そして、最終戦、富士山の麓での日本グランプリへと至るのであった――。  映画はおそらくは最新の撮影技術を用いて1976年のF1シーンをヴィジュアル的に再現しながら、しかし、レースではなく、レーサーに焦点をあてている。  それもただふたり、ラウダとハントだけに焦点を絞り、ほかのレーサーのことはほとんど描写しない。したがって、この1976年のF1がどのようなものだったのか、映画を観終えても観客はほとんどわからないだろう。  それでいいのだ。あくまでこの作品の主眼はヒューマンドラマを描き出すところにあり、克明にレースを描き出すところにはないのである。  ラウダとハント。性格から哲学から何もかも反対で、逢えば罵りあい、互いに傷つけあうふたり。しかし、やがてかれらの間にはほかの人間には理解できないような深い敬意と友情が芽生えてゆく。  既にチャンピオンの座に輝いたラウダに取って、地上でただひとり宿敵といえる男、それがハントだったのかもしれない。映画を観終えたあとにはそう思える。  ハントはその天才的なドライビングテクニックとは裏腹に、 

2014年の最高傑作候補。映画『ラッシュ』に熱い男の友情を見ろ!

戦争という名の悪魔の娯楽。大西巷一『乙女戦争』に人間の残虐と醜悪を見る。

 大西巷一『乙女戦争(1)』を読みました。おそらくこれを読んでいる方のなかでも知らない人のほうが多いタイトルなのではないでしょうか。  当然、知っているひとは知っているのでしょうが、ぼくは購入するまでまったく内容を知りませんでした。新たな作品との出逢いを開拓したくて、カンだけで買ってみたのですが、いやー、今回は正解だった。この漫画、面白いです。  「乙女戦争」というタイトルからだけではわかりませんが、この物語の背景となっているのは1415年、プラハの神学者ヤン・フスが教会の腐敗を批判し、異端として処刑されたことから始まる「フス戦争」。  フスや「宗教改革」のことは知っていても、日本人にはあまりなじみがない戦争ですが、「初めて銃が本格的に使用された戦争」ということで、主人公の少女も銃を持って戦うことになります。  ちなみにこの少女、物語冒頭でいきなり強姦されて死にかけます。あまりにもえげつないけれど、的確な展開だと思う。じっさい、こういうものなんだろうなあ、と。  この一事だけではなく、作者の描写は全編にわたって容赦なく、人々は拷問めいた苦痛のなかで死んでいきます。そこには決して「クリーンな死」は存在しません。どこまでも血と泥にまみれて、だれもがみじめに死んでいくことになるのです。  一応、格好いい騎士なども出て来はするのですが、基本的には権力者たちの愚かしい闘争が下々を苦しめている構図があるばかりです。戦争の非道さ、残虐さというより、人間の非道さと残虐さがよく伝わって来ます。  この頃の戦争には大量破壊兵器こそないけれど、人間のやることはあまり変わりがないので、決して「人道的」ではありません。敵の女と見れば犯し、男と見れば殺す。そういうものなんですね。  ぼくなどは戦争の悲劇というと「東京大空襲」や「原爆」といった大量破壊兵器による死のことがまず思い浮かんだりするのですが、人類の歴史上においては、ひとが直接手を下した死のほうが多いのだと思います。  人間はその気になればいとも簡単に人道やら倫理やらを手放せるのです。戦時において非道を働く連中が生まれつき邪悪だというわけではないでしょう。  あたりまえの人間がやらかすことがいちばん恐ろしいということなのでしょうか。まあどうであれ死の悲惨さに違いがあるはずもないんですけれどね。  それにしてもこの漫画のなかで描かれる死は恐ろしくもおぞましい。延々と続く苦痛、この世の地獄の再生産――それが戦争なのでしょう。  いまからみれば貧しい時代においても、人々にはその時代なりの幸福があるわけですが、戦争はそれをねこそぎ破壊してしまう。戦争とはありとあらゆる幸福や生活をすべて踏みにじる巨大な車輪のようなもなのかもしれません。  戦争は戦場で完結しているわけではなく、むしろほんとうの悲劇というべきなのは兵士による民間人の虐殺であったり、強姦であったりするということがこの作品を読んでいるとよくわかります。  英雄たちの花やかな戦いという幻想の陰には、いつでも民間人たちの無残な死という現実がある。実にぼく好みの題材で、これはほんとうに読んでよかったと思う。どんな気高い理想があろうが、くりひろげられる現実は悲惨で醜悪なものだよね。  ここらへん、『Fate/Zero』で衛宮切嗣とセイバーが展開する議論を思い出します。いつの時代も、花やかな英雄たちこそが戦争の汚穢な現実を隠蔽する――。  英雄というものが一面ではいかに罪深いか、という話ですね。しかし、一方では 

戦争という名の悪魔の娯楽。大西巷一『乙女戦争』に人間の残虐と醜悪を見る。

どこまで広がる『Fate』ワールド。

 ここのところカラダとココロの具合が悪くて更新が滞って申し訳ありません。いま飲んでいる精神安定剤は飲むと起きていることができません。たぶん効果は出ていると思うんですけれどね……。寝る前とかに服用するのが良いのかも。  さて、しばらく前に発売された『Fate』シリーズの新作『Fate/apocrypha』第1巻を読んでみました。最新作というか、番外編というのがふさわしいかも。  「apocrypha」とは「外典」の意味で、その名にふさわしくいままでの『Fate』とはまた趣きが違う物語が展開します。  『Fate』の小説版というと、既に『Fate/Zero』という巨峰がそびえ立っているわけで、その後に続く作品はこれと比較される運命だと思うのですが、さて、『apocrypha』の出来は如何に?  結論から書いてしまうと、やっぱり『Zero』には及ばないかなと。まあこれは『Zero』が抜群によく出来すぎているということで、仕方ないんだけれど、ちょっと肩透かし。  もちろん、『Zero』と比較してどうこう云うこと自体が無意味なので、単体として読めば十分に面白いと思います。  物語の舞台は第三次聖杯戦争が終わった時点で既存の『Fate』正史と分岐したもうひとつの世界。世界各地で小規模な聖杯戦争が繰りひろげられているこの世界で、サーヴァント七騎と七騎が雌雄を決する「聖杯大戦」が開かれることになる、というところから物語は始まります。  いままでの『Fate』では、過去の世界の英雄七人をサーヴァントとして召喚して覇を競わせる聖杯戦争が描かれてきたわけですが、この作品ではそれが一気に倍になったわけですね。  まず、この設定をどう見るか。もともとは 

どこまで広がる『Fate』ワールド。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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