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記事 42件
  • ハッピーエンド小説×100作リスト制作中。

    2015-04-30 22:35  
    50pt
     ハッピーエンド評論家として活動を開始するべくとりあえず「ハッピーエンド小説×100作リスト」を作ってみました。
     名前の頭に×が付けているのは未読ないし結末の記憶があいまいでほんとうにハッピーエンドなのかどうかわからない作品です。つまり、このリストは未完成ということ。
     これがほんとうにハッピーエンドか?という作品もあるでしょう。そこらへんの定義についてはおいおい詰めていく予定です。
     『たったひとつの冴えたやりかた』とか、表題作は悲劇的内容ですが、全体の構成としてはハッピーエンドだと判断して入れました。
     今後、未読の作品をすべて読んだ上で全作品を書評し、まとめて電子書籍として出版するつもり。
     「ハッピーエンド映画×100作リスト」と「ハッピーエンド漫画×100作リスト」は現在作成中ですね。
     まあ、ハッピーエンド評論家を名乗るなら、このくらいが最低限の仕事ですかね。頑張ります。 
  • ハッピーエンド評論家になりました。情報求む。

    2015-04-30 17:53  
    50pt

     唯野奈津実『副業革命! スキマ評論家入門 世界で一人だけの評論家になって稼ぐ方法』という本を読みました。
     著者は日本唯一のカラオケ評論家で、カラオケに関しては日本一くわしいと自称する人物。
     そのかれが「どうすれば評論家になって稼ぐことができるか」を懇切丁寧に解説しています。
     その答えは簡単で、「名乗ってしまえばいい」というもの。
     評論家に資格はいらないのだから、そう名乗ってしまえばきょうからでも「××評論家」になれるわけです。
     もちろん、それ相応の知識や見識は必要になるが、それはあとから身につけていけばいいというのがかれの考え。
     よく考えてみればそれももっともな話で、「ちゃんとした知識が身についてから名乗ろう」などと考えていたらいつまで経っても名乗れないかもしれない。
     とにかく無謀でもなんでも一歩を踏み出す勇気が必要なのでしょう。
     そういうわけなので、ぼくもがっぽり儲けるべく、何かの評論家を名乗ってみようと考えました。
     当然ながら、評論分野は自分の趣味、好きなことから選ぶべきでしょう。 しかし、そうかといって文芸評論家、映画評論家、ミステリ評論家といったジャンルにはすでに途方もなくくわしい人たちがいます。後発ではちょっと勝負になりそうにありません。
     それなら、どうすればいいのか。
     実はぼくには腹案があるのです。
     以前からハッピーエンドの物語ばかりを集めた本を出したいと思っていたのですね。
     もちろん、出版社にコネはないので同人誌か電子書籍で出すことになるでしょうが、とにかくそういう本を作りたいなあというアイディアはあったのでした。
     というのも、ぼくが殊にハッピーエンドの作品を好きだからで、そしてそういう作品を調べようと思ってもあまり情報が見あたらないからなのです。
     ちょっと調べてみたのですが、意外にも日本にはハッピーエンドの作品をまとめた本やウェブサイトは存在しないらしいのですね。
     検索でひっかかってくるのは、精々が「ハッピーエンドの作品を読みたいのですが、いいのはありませんか」というQ&A程度。
     そこでぼくが日本初のハッピーエンド評論家を名乗り、ハッピーエンド作品の情報を集めて、このブロマガを通じて発信していこうと考えたわけなのです。
     ついでにブロマガの名前も(すいません、何度目になるかわかりませんが)変えようと思います。
     「海燕ハッピーエンド研究室」ということでどうでしょう? 平凡だけれど無難なところなのではないでしょうか。
     さて、そういうわけで、お初にお目にかかります。きょうからハッピーエンド評論家になった海燕です。
     ほんとうは本名を名乗ったほうがいいのかもしれないけれど、海燕という名前をあまりに長く使ってきて愛着もあるので、そこはどうしたものかと悩むところですね。
     まあ、とりあえずこのままでいいだろう。
     さて、めでたくハッピーエンド評論家とはなったものの、当然ながらまだ「ハッピーエンドに関しては日本一くわしい」というほどの知識はないので、ハッピーエンドの作品に関する情報を募集しています。
     小説、漫画、映画、なんでもいいです。
     できれば客観的に見て「これはハッピーエンドだろう」という作品が望ましいですが、あなたがハッピーエンドだと思う作品ならなんでもいいので教えてください。
     コメント欄、Twitter、またはメール(kenseimaxi@mail.goo.ne.jp)などでよろしくお願いします。
     たとえば『風ととともに去りぬ』や『あしたのジョー』がハッピーエンドかどうかは微妙なところですが、そういう作品でもかまいません。
     ぼくひとりで調べられることには限りがあるし、ましてこの件に関しては(一種のネタバレになるからでしょうが)インターネットにもそれほど情報がない。
     どうか「海燕ハッピーエンド研究室」にご協力ください。
     もちろん、 
  • 『セッション』は「狂気の特訓」の欺瞞を描き切ったサイコバイオレンス映画の大傑作だ。

    2015-04-28 16:09  
    50pt

     注意! 以下の文章で公開中の映画『セッション』について全面的にネタバレしています。これから『セッション』を見る予定の人は読まないか、あるいは覚悟をもって読むかしてください。
     25日に超会議のために東京に行ったとき、せっかく上京するのだから新潟では見れない映画を見ようと、話題作『セッション』を見て来た。
     結論から書くと、実に面白い映画体験だった。
     この作品はある有名音楽学校でジャズバンドを指揮する教師フレッチャーと、かれの生徒に選ばれた青年ニーマンの対立と対決を描いている。
     フレッチャーは生徒に対しくり返し暴力と暴言を用いて「指導」する人物で、ニーマンはその影響下でしだいに追い詰められながらも才能をのばしていく。
     音楽映画としては非常に演出が過剰で、何度となく血を流しながら練習するシーンなど、ちょっと苦笑いしてしまうようなくどさがある。
     一定以上の年齢の日本人ならちょっと大昔のスポ根ものを思い出すだろう。
     しかし、単なるスポ根映画としてはあまりにも暗い情念に満ちていることもたしかだ。
     なんといっても生徒に対して軍隊的な(というかおそらく軍隊でも赦されない)ハラスメントをくり返すフレッチャーの暴力性は迫力に富んでいる。
     リアルに考えるならなぜこんな人物が教師を続けられるのかと思ってしまうが、それはこの際、どうでもいい。観客個々人が好きなように理由を見つければいいことだ。
     フレッチャーはニーマンの密告によって最終的に教師を馘首になってしまうのだが、その後、あるコンサートを利用してかれに復讐する。
     しかし、ニーマンはそこで初めてミュージシャンとして「覚醒」するのである。
     この映画の評価のポイントはこのフレッチャーという人物をどう評価するか、だろう。
     はたしてフレッチャーはあまりに音楽を愛しているが故に狂気の行動に走ってしまった善良な人物なのか。それとも根っから暴力的な悪党なのか。
     ぼくの答えはどちらでもない。これに関してはいっしょに映画を見たてれびんが(めずらしく)とても良いことを書いているので引用しよう。
     ちなみにてれびんはこの文章を宿泊したカプセルホテルのなかでスマホで書いたらしい。寝ろよ。

     フレッチャーは天才を作り上げたい教師ではない。口ではそう言っているが、実は違う。彼の本質は自己を偏愛し肯定を求める器の小ささだ。物語ラストで自身を告発したニーマンへの復讐心は純粋なものだ。自己を偽り後付けで肯定していく器の小さい男なのだと思う。ニーマンがラストでフレッチャーに反旗を翻したとき彼はその9分19秒に自己肯定を再構成していく。
     はじめは自分の復讐に反旗を翻したニーマンへの怒りがあった。しかし自分では止めることの出来なくなったニーマンを見て考え方を変える。俺はこの反発をこそ待っていたのだと後天的に自己を偽るのだ。偽りの信念はいつの間にか本物と入れ替わり、ニーマンこそが自分の作り上げたかった超人なのだと思い込むようになる。
     この自己を後天的に肯定してしまう姿勢は一見すると天才を生み出そうとする狂気にみえる。しかし違うのだ。これはフレッチャーのミニマムな王国を作ってしまう自己顕示欲と、フレッチャーの狂気に感化されて自己を肥大化させてしまったニーマンの狂気が並列に存在してるだけの現象に過ぎない。この天才を生み出そうとした狂気は、自分に制御できない怪物をフレッチャーが見たときに後天的に自己肯定をしてしまったが故に産まれた錯覚だ。
     フレッチャーは作り手のエゴを体現した存在だ。もし自分が諦めなかったら音楽の極地に辿り着けたのではないかという無念を体現している。しかし同時に器の小ささ故に理想に身をさらけ出すことを許さない。フレッチャーは他者への指導にテンポの追求を求める一方、自身のピアノ演奏は非常にリリカルになっている。同時に自分の王国を自分の小さな手の中に置いておきたいのだ。
     そこにはエゴしかない。自己のみを見ている。肥大化した自己は自分の小さな王国を作りだす。自分の小さな王国を完成させたなら、次は自分の創り出した天才を産みたいという偽りの欲求を充実させる番となる。
     グロテスクで醜悪にして器の小さなモルモット実験である。
     この姿こそがセッションという映画の一つの真実なのかもしれない、とぼくは思ってる。
     とても珍しい映画を観た。通常では見れないものだろう。観て後悔はない。http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-9243.html

     その通り。『セッション』という映画で印象的なのは、フレッチャーとニーマンのむき出しのエゴである。
     普通、この手の暴力的な師弟関係を描く物語では、「暴力を振るうもの」と「暴力を振るわれるもの」の間にある種恋愛的な相互依存関係が成立するものだ。
     もちろん、それは正常な愛ではなく狂った依存に過ぎないのだが、ともかく暴力による紐帯とはある種、異常に甘美なしろものなのである。
     ストックホルム症候群という言葉をしっている方もおられるだろう。しかし、この映画ではフレッチャーはニーマンをどこまでも蹴落とそうとし、ニーマンはフレッチャーのことを最後まで憎みつづける。
     ふたりの間に『巨人の星』のような、『エースをねらえ!』のような、『ガラスの仮面』のような甘美な依存関係はない。
     あくまでエゴとエゴの衝突が本作のコンセプトである。
     そして、ラスト9分19秒、ニーマンがフレッチャーに反逆したその時から、ふたりの男はついに音を使って強烈にぶつかりあう――のではなく、すれ違い合う。
     この映画はあたかもボクシングのような音のバトルを描いた一種の格闘技映画「ではない」。
     ニーマンとフレッチャーは殴り合うことにすら成功していない。
     ただ、まずフレッチャーがニーマンが殴って、今度はニーマンがフレッチャーを殴るという作業の繰り返しがあるだけで、格闘技的な意味での「殴り合い」というコミュニケーションの次元に到達していない。
     フレッチャーにしろ、ニーマンにしろ、あくまで自分の世界に閉じているのだ。
     その意味で『セッション』という邦題はきわめて皮肉な響きを持つ。
     そう――ペトロニウスさんふうにいうなら、『セッション』はどこまでも閉ざされて内圧を高めていくふたりの男のナルシシズムの狂気を描いた物語である。
     フレッチャーとニーマンは互いを見つめているようで実は見ていない。かれらのなかにはどこまで行っても自分しかない。
     菊池さんがいうところの「愛」がこのふたりには致命的に欠落している。あるものはただ暴力だけである。
     したがって、かれらはほんらい愛の儀式であるはずの音楽をも暴力的に活用する。
     しかし、それはこの映画の欠点ではない。むしろ最大の特長というべきだ。
     『セッション』は近年まれに見るほど巧みに暴力と暴力を振るう人間の本質を描いたバイオレンス映画の傑作なのである。
     フレッチャーをどう評価するか、とぼくは書いた。そのぼくなりの答えを書こう。
     かれはつまりどこまでも自分を肯定しつづける自己正当化の化け物である。
     チャーリー・パーカーのような天才を生み出したい、そのためなら自分はどんなきびしい指導をもいとわない、とフレッチャーは口先ではいう。
     そしておそらく、自分でもそのことを信じ込んでいる。
     しかし、それはどこまでも暴力を振るう側にとって都合がいい理屈である。
     じっさい、フレッチャーはそのハラスメントによって生徒をひとり自殺に追い込んでいるのだが、その生徒のことを感傷的に思い出して涙したりする。
     この演出をどう捉えるかは微妙なところだが、ぼくはフレッチャーが本心で涙しているのだと考えるべきだと思う。かれの頭のなかで事実はねじ曲げられてしまっているのだ。
     フレッチャーは際限なく現実を恣意的に捻じ曲げ自分を正当化しつづける。
     これを見て思い出したのが『フライト』という映画。その作品ではある航空機パイロットの自己欺瞞とそこからの救済が描かれているのだが、『セッション』では最後の最後までフレッチャーの欺瞞が暴かれることはない。だからこそそこには救いはない。
     てれびんが書いているように、フレッチャーは自分の暴力を触媒として「覚醒」したニーマンの暴走をもあたかも自分が計算した通りの出来事であるかのように自分を偽っていく。
     『DEATH NOTE』的にいうなら「計画通り」というところだ。
     しかし、もちろんすべてがフレッチャーの計画通りでなどあるはずがない。
     かれはただ好き勝手に暴力を振るい、そしてその結果を正当化しつづけているだけの怪物だ。この映画の本質はここにある。他者に暴力を振るう人間の心理の想像を絶するグロテスクさ。
     自分は誤解されているといい、すべては音楽のためなのだと語るフレッチャー。かれはその戯れ言を本気で信じ込んでいるのだろう。
     つまり、かれは自分が暴力のために暴力を振るっていると認めることができるほど強くないのだ。
     すべてを偽る弱い男、他人を威嚇し抑圧することでしか自分を肯定することができない小さな男――それが真実のフレッチャーである。この造形は見事としかいいようがない。
     そう、人間がいかにして暴力に走るか、そしてそのためにいかに自分を偽るか、また暴力の被害者がそのためにどのように壊れていくのか――それを克明に迫力たっぷりに描いているという一点において、『セッション』はやはり傑作なのだ。
     ただし、万が一にも「やっぱり天才を育てるためにはフレッチャーのようなやり方が必要なんだ」などと受け取ってはならない。
     フレッチャーは最悪の教師である。間違いなく。
     ただし、最悪の教師の最悪さを徹底的に描き切ったという一点において、映画は最高である。
     ぼくは、そう考える。 
  • 人間社会を遠く離れて。アンチヒューマニズムの地平に見る希望。

    2015-04-27 21:56  
    50pt

     さて、そういうわけで、実家に帰ってきました海燕です。
     初の顔出し生放送、いかがだったでしょうか? わずか2時間ばかりの放送でしたが、さすがにちょっと疲れました。
     まあ、津田さんとLDさんのおかげでかなりうまく行ったと思うんだけれど、事前に緻密な打ち合わせとかをしたわけではなく、かなり行きあたりばったりだったので、ともかくも無事に放送を終えられたことにひと安心です。
     あとなんかもうひとりいたような気もしますが思い出せません。たぶん気のせいですね。お茶おいしいです。
     とにかくひとまず責任を果たし終えてホッとしています。来年も呼んでもらえるようだといいのですが――無理かな。まあ、期待せずに待っていよう。
     聴かれた方はコメント欄に感想など書き込んでいただけれると嬉しいです。よろしく。
     それにしてもおれ、滑舌悪いなあ。
     いまさら努力して直そうとも思わないので一生このままだろうけれど、人前に出る仕事には向かないなとつくづく実感。
     やはり家でちょこちょこブログでも更新しているのが似合っていますね。
     で、その生放送でもコメントを書いてくれたなろう作家・青井硝子さんの『異自然世界の非常食(フェアリアフィリア)』をいま読んでいます。
     ペトロニウスさんがブログで取り上げていた作品ですね。
     ペトロニウスさんは「なろう」で読んだらしいのだけれど、ぼくはあえて書籍版を読んでみることにしました。
     これが面白い。例によって主人公がある日突然異世界に飛ばされるところから始まるのですが、その世界におよそ人間的な文明らしいものとて存在しそうにないあたり斬新。
     主人公は異質きわまりない大自然のなかに突然叩きこまれてしまうことになったわけで、自然、生きのこりを賭けた過酷な生活が始まります。
     SF小説には「異常な自然環境」をテーマにした作品があるわけなのですが、それに連なる作品にあたるでしょう。ブライアン・オールディスとか山田正紀の作品の仲間。
     面白いのが主人公の設定で、社会の一切を拒絶し、自分で小屋を建ててそこで暮らしているひきこもり野郎なんですね。
     当然、そんなダメ人間に異世界で文明的に生きて行くだけの強い動機などあるはずもなく、何か辛い出来事があると小屋に帰ってふて寝してしまいます。
     いやー、ある意味ではほんとうにどうしようもない奴なのですが、ぼくとしては「お前はおれか」というほど親近感が湧くキャラクターですね。
     ぼくも10万円くらいでDo It Yourselfよろしく小屋とか建てて晴耕雨読の生活をできたらいいなと思うもん。
     じっさい一時期その手の本を読みあさっていたくらいで、「なるべくお金を使わずに快適に暮らすこと」に強いあこがれがあるのです。
     この超過酷な異世界自然環境とひきこもりダメ人間主人公という「混ぜるな危険」な両者を試みに化合させてみたところ、怪しい化学反応が起こってとんでもない作品が出来上がったというのがこの小説だと思います。
     なんだかぼくがしっているなろう小説と違いすぎるんですが、世の中にはたまにこういう「カテゴリエラーな作家」が存在するんですね。
     あるジャンルで幾人かの作家が互いに影響を与えあって楽しそうにやっていると、時々、本質的に異質な作家が「ぼくも仲間に入れてくれよー」とやってくるものなのです。
     傍から見ると「……いや、お前は仲間じゃないだろ」という異質すぎる才能であるわけなのですが、そのジャンルの「型」さえ守っていれば一応、表面的にはその種の作家に見えるわけで、そういう人が書く作品は尋常のジャンルフィクションに飽き飽きして珍味を好むようになったディープなファンに絶賛されたりすることになります。
     まあ、ティプトリーやスタージョンが書いたSFや、麻枝准や瀬戸口廉也が作ったエロゲがそれにあたるでしょう。
     見る人が見ればまさに宝石のような名作ぞろいであるものの、ジャンルのお約束から見るとあまりに異質な作品であることには違いありません。
     この『異自然世界の非常食』もどうやらその手の代物らしい。タイトルと設定だけなろう小説の定石から借用しているだけで、中身は全然なろうじゃない。
     異世界に飛ばされて妖精を発見した主人公がまず考えることが「食べられるかどうか」ですからね。野性的すぎるだろ、お前。
     ペトロニウスさんはかれを「内発性をカットしたキャラクター」として語っているけれど、ぼくから見るとむしろ異常なくらい生活力に満ちた奴に見える。
     ただ、社会に適応して前向きに生産しようという意欲が完全に欠落しているだけで、「生きること」に関してはきわめて貪欲。
     そういう意味では貴族的頽廃とかではまったくない。ぼくの意見としてはこの主人公に欠落しているものは「内発性」というよりむしろ「社会性」と「生産性」なのでは?という気がします。
     この主人公、社会的存在としては最低もいいところなのですが、一個の生き物としては必ずしも弱くない。
     最低限のモノさえあってネットにつながっていれば(そう、なぜか異世界なのにネットにはつながるのだ!)、生きていけるという種類の人間なのです。
     「生きることか、そんなものは家来どもに任せておけ」と 
  • 「名前のない神」に仕える。

    2015-04-25 02:48  
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     さて――こういう記事ばかり書いていても一向に会員は増えないので商売としてはあきらかに方向性を間違えているのだが書きたいので書くシリーズである。
     一連の記事の締めとして、「宗教」について考えてみたいと思う。
     生活ということを考えて行くと、どうしても最後には宗教にたどり着く。
     「生き、また活きること」としての生活と、ある種の宗教的精神とは切り離せない一面がある。
     とはいえ、ぼくもひとりの現代日本人として「宗教って胡散くさいな」と思うところはある。
     何より、非科学的じゃないか? 神さまなんてほんとうに信じられるものだろうか? 
     こと宗教に対しては、そういうふうに懐疑的に捉える人がいまの日本では大多数だと思うが、ぼくもまあそのひとりであるわけだ。
     しかし、その一方でぼくたちは、食事を採る前には「いただきます」というし、正月には神社にお参りしたりもする。
     それは宗教から切り離された
  • 生放送@超会議の告知。

    2015-04-25 01:55  
    50pt
     きょうからニコニコ超会議に参加するため東京へ行ってまいります。超会議からの放送は26日午前11時から2時間。以下のアドレスです。
    http://live.nicovideo.jp/watch/lv218002523
     「超言論エリア」のミニブースのどこかからの放送になります。どこなのかはぼくもまだ知りませんw もし会場に来られる方がいらっしゃったら、当日は混みあうことが予想されますので、早めの行動をお願いいたします。場所は幕張メッセですね。
    http://www.chokaigi.jp/2015/booth/chogenron.html
     ミニブースということなので、狭い空間だとは思うんだけれど、さすがにだれも来ないと寂しいので、ぜひ遊びに来てください。もしよければ秋葉原か上野あたりでいっしょに夕食でも食べましょう。
     当日はLDさんと、『やる気なし英雄譚』の津田彷徨さんをお呼びしていま
  • 『CLANNAD』対『2001年宇宙の旅』。岡崎汐はスター・チャイルドの夢を見るか。

    2015-04-24 05:07  
    50pt


    深い眠りに落ちる
    少し前の手前の
    まどろみの中に似た
    密やかな夜に
    探し続けてるのは
    あのメタフィジカ
    祈るように紡ぎだす
    ひとつの歌
     「メタフィジカ」(http://www.nicovideo.jp/watch/sm25268427)

     「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」。
     20世紀最大の哲学者のひとりである(らしい)ヴィトゲンシュタインのこの言葉はあまりにも有名でしょう。
     ヴィトゲンシュタインその人の真意がどうであったかはともかく、人間には「語りえぬこと」があるというそのことを思うとき、ぼくなどは何か神秘的なものを感じ取ってしまいます。 また、山田正紀のSF小説『神狩り』の冒頭には、次のようなヴィトゲンシュタインの箴言が意味ありげに掲載されています。

     かつて、神は万物を想像することができるが論理的法則に背くものだけは創造できない、と語られていたことがある。すなわち非論理的なる世界については、それがどのようなものであるか語ることさえできないのだから。

     さて、本題に入りましょう。
     このタイトルと書き出しですでに引いている人も多かろうかと思いますが(笑)、気にせず始めることにします。
     これはテレビアニメ『AIR』と『CLANNAD』、特にそのアフターストーリーのいち解釈を示そうとする記事です。
     べつだん、これが「正解」だというつもりはありませんが、ちょっと面白い内容なのではないかとは思います。良ければお読みください。
     さて、どこから語り始めたものか。まず、『CLANNAD』の話から始めましょう。
     いうまでもなく『CLANNAD』はKeyのパソコンゲームを原作として京都アニメーションが制作したアニメですが、これが非常に難解な仕上がりで、ちょっと解釈に困る作品といえます。
     少なくともぼくはいままで何が何やらさっぱりわからなかった。
     その唐突ともいえる結末は、ともすると単なるご都合主義とも受け取られかねないものであるわけですが、よくよく考えてみると、ある程度は合理的な解釈を行うことが可能です。
     じっさい、Googleを検索するといくつかその手の文章が見つかる。
     ぼくは一応、原作ゲームもプレイしていますが、すでにだいぶ記憶が摩耗していてあいまいなので、ここではアニメ版に絞ってその解釈を追ってみましょう。
     この文章(↓)あたりがよくまとまっていてわかりやすいと思います。
    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1274730242
     この解釈がどこまで「正しい」かはわかりませんが、とりあえず納得がいく解釈だとはいえるでしょう。
     しかし、そもそも『CLANNAD』のシナリオライターである麻枝准さんはなぜ、これほど難解なストーリーを組まなければならなかったのでしょうか。
     そして、なぜかれは『ONE』、『Kanon』、『AIR』、『CLANNAD』、『リトルバスターズ!』、『Angel Beats!』と自身がシナリオを務める作品において、「えいえん」、「奇跡」、「惑星の記憶」、「翼人」、「呪い」、「幻想世界」といった解釈のむずかしいスーパーナチュラルな現象を出現させているのでしょう。
     答えは謎ですが、ぼくなりの結論をひとことでいってしまいましょう。
     それは「想像できないものを想像しようとする」努力の痕跡であると思うのです。
     「想像できないものを想像する」――ご存知の方も多いでしょう。いまから40年前の1970年代、23歳の青年SF作家・山田正紀がデビュー作『神狩り』が掲載されたSFマガジンに記し、その後、各所で幾度となく引用されることになる言葉です。
     ネットで拾ってきたところによると、正確には以下のような文章だったようです。

     なぜ書くのか、などと考えてみたこともないし、考えるべきだとも思わない。(中略)
     では、なぜSFなのか、と訊かれたらどうなのか? それも応えない、としたら、やはり、怠慢のそしりはまぬがれないだろう。
    「想像できないことを想像する」
     という言葉をぼくは思い浮かべる。一時期、この言葉につかれたようになり、その実現に夢中になっていたことがある――。
     SFだったら、それが可能なのではないか?
     だめだろうか?

     だめに決まっているじゃん、と思ってしまうわけですが、山田正紀はあきらめませんでした。
     かれはその作家人生を費やし、幾度となく「想像できないもの」そのものである「神」と格闘しつづけることになります。
     そして何より日本SF史上伝説の一冊といわれるこの『神狩り』はまさに「想像できないことを想像する」努力に貫かれた一冊です。
     前述した哲学者ヴィトゲンシュタインが作中人物のひとりとして登場することでもしられています。
     そこで焦点があたるのが「神の言語」というアイディア。この物語の骨子となる発想です。
     『神狩り』は、古代文字――論理記号がふたつしかなく、関係代名詞が十三重以上に入り組んだ「神」の言語を中心として展開していくのです。
     「人間は関係代名詞が七重以上入り組んだ文章を理解することができない」という前提を乗り越える超越存在、「神」。
     その絶大なる力を前にして、人間はただ翻弄されるだけの存在でしかありえません。
     山田正紀は斬新にも、ここで「論理認識のレベルが異なる存在」として「神」を定義したわけです。
     そもそも「神」とは、人の想像の外にある存在です。人間程度が想像できるようなら、ほんとうの意味で「神」であるとはいえないということもできるでしょう。
     どんな天才であっても想像できないほど神々しい、眩いばかりの超越的存在、それが「神」であるはず。
     ユダヤ教、キリスト教、イスラムといういわゆる「アブラハムの宗教」において、偶像崇拝が禁止されたのはこのためでしょう。
     つまり、神は想像できないばかりか、描くこともできない存在であるのです。
     それを仮初めにでも描いてしまったら、「神」そのものではなく、その偶像を崇拝することになる。

     それで、あなたがたは神をいったい誰とくらべ、どんな像と比較しようとするのか。偶像は細工職人が鋳て造り、鍛冶が金でそれを覆ったり、それのために銀の鎖を造ったりする。貧しい者は供物として腐りにくい木を選んで、細工職人を探し、動かない像を立たせる。あなたがたは知らなかったのか? あなたがたは聞かなかったのか? はじめから、あなたがたに伝えられなかったのか? 地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったのか?
     『イザヤ書』

     しかし、ひとはなかなかそのような抽象的存在を崇めつづけることはできません。
     「決して想像できないもの」を信じよ、といわれてもむずかしいでしょう。
     そこで、「神」の存在をなんとかして形にしようとする美術が生まれていったのだと思います。
     おそらく宗教美術の歴史では、本質的に「描けないもの」である「神」とその世界をどうにか描くための努力がさまざまに行われたことでしょう。
     あいまいな書き方をするのはぼくが美術史にまったくくわしくないからですが、たとえばイコンなどは「神」を描こうとする努力、つまり「想像できないものを想像しようとし、描写できないものを描写しようとする」行為の作例なのではないでしょうか。
     そのほか、重要な作品としては、たとえばベルニーニの「聖テレジアの法悦」などがすぐに浮かびます。
     いままさに天使が持つ矢に貫かれようとしている聖女テレジアの法悦を描いた官能的な彫刻ですが、注目するべきは彫刻の背後に描かれた光です。
     この光はあきらかに「より上位の世界」、つまり「神の世界」から降りそそいでおり、聖テレジアはその耐えがたいエクスタシーに陶然としているように見えます。
     彼女はある意味で「神の指先にふれた」のです。
     「神の指先にふれる」――それはひとが感じえる最も崇高な「法悦」なのかもしれません。
     さて、より近代的なエンターテインメント作品においても「想像できないものを想像し」、「描写できないものを描写する」その苦闘は続いています。
     20世紀、多くの作家のなかで宗教心は褪せたかもしれませんが、ひとに想像力がある限り、「想像できないもの」への興味と憧憬が失われることはありません。
     そして作家であるからには、「描写できないもの」をなんとか描写したいという野心を抱くものでもあるのでしょう。
     その壮大な野心は結果として多くの名作を生み出しました。 たとえば、ときに「神学ミステリ」と呼ばれることもあるエラリイ・クイーンの傑作『九尾の猫』においては、最後の最後で推理に失敗し絶望する名探偵エラリイに向かって、傍らの人物が「神はひとりであって、そのほかに神はない」と語ります。
     この台詞をどう解釈するべきかはむずかしいものがあります。
     神のように推理しようとするエラリイの傲慢をいさめているようにも思えるし、その反対に神であろうとして失敗したかれをなぐさめているようにも感じられる。
     いずれにしろ、この瞬間、読者はすべての運命の糸を操る存在であり、エラリイがどんなに必死に推理を展開してもなお届かない超越者である「神」の存在をありありと感じることでしょう。
     ここでも、「想像できないもの」である「神」を「描かないことによって描く」という手法が採用されているわけです。
     あるいは前の記事で取り上げた『ブラック・ジャック』などにしても、ブラック・ジャックが巨大な運命の前に敗北し、「神」に向かって叫ぶという場面が存在します。
     これも同じような意図のシーンだといっていいのではないでしょうか。
     しかし、これらの作品はべつだん、「神なるもの」を描こうとするところに狙いがあったわけではないでしょう。
     一方、『神狩り』のように、あきらかに「神なるもの」を描くために物語を積み重ねたと思しい作品も存在します。
     とりあえず、ここではひとが認識することはできず、まして描き出すことは到底不可能な神の次元、光の世界――それを仮に「超越世界」と呼ぶことにしましょう。
     その「超越世界」をどうにか描き出そうとした名作といえば、SFファンにとっては小松左京の『果しなき流れの果に』、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』といった作品が思い浮かぶところでしょう。
     いずれも古い作品ですが、そのイマジネーションの壮麗さはいまなお読者を圧倒します。
     さて、これらの作品はぎりぎりのところまで「想像できないもの」を想像しようとし、また描こうとしますが、それでもやはりそれを描くことはできません。
     『果しなき流れの果に』は、長い長い物語の果てにある存在が限りない高次元へと登りつめようとし、そして失敗してあたかも太陽の陽に灼かれたイカロスのごとく「下界」、20世紀の地球という現実的な世界に堕ちていくところで閉じられています。

     とまれ
     階梯概念が指示した――だが、彼は、それにさからって、上昇をつづけた。秩序をやぶってまで、それにさからうエネルギーは、ひたすら共振にあった――上るにつれ、多元時空間をのせたまま流れて行く、超時空間は、はげしい、湾曲した激流となって遠ざかった――混沌とした晦冥の渦まく中に、朦朧とした概念があった。彼は、はげしく問いを投げた。
     超意識の意味は?
     低次の意識発生過程とのアナロガスな理解……
     晦冥が晴れて、ふっと概念が姿をあらわす。

     一方、『百億の昼と千億の夜』も、放浪の末に世界の終焉にまでたどり着いた主人公・あしゅらおうが、「この世界の外」に存在すると思われる何者かの言葉を仄聞するところで終わっています。
     いずれも、直接に描き出すことができない「神なるもの」と「超越世界」を間接に描き出そとうした作品であると思います。
     『果しなき流れの果に』のアイにしても、『百億の昼と千億の夜』のあしゅらおうにしても、結局は「超越世界」に到達することはできないのですが、まさにその苦い敗北の味が読者に強い印象を与えます。
     それは、先ほど取り上げたエラリイ・クイーンやブラック・ジャックの敗北と同系統のものであるといえるかもしれません。
     もっと具体的にその次元に到達したものを描いているように見える作品としては、アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』が存在します。
     天才スタンリー・キューブリックの手によって映画化され、いまなお伝説的評価を受けているこの作品は、超越存在であるスター・チャイルドの出現を示唆して終わっています。
     ここでは、超越存在の実在は明確に描写されているのですが、その具体的な行動は描かれていません。
     スター・チャイルドがこの先、いったい何を行うのか、それはどこまでも謎なのです。

     目のまえには、スター・チャイルドに似合いのきらめく玩具、惑星・地球が人びとをいっぱい乗せて浮かんでいた。
     手遅れになる前にもどったのだ。下の込みあった世界では、いまごろ警告灯がどのレーター・スクリーンにもひらめき、巨大な追跡望遠鏡が空をさがしていることだろう。――そして人間たちが考えるような歴史は終わりを告げるのだ。

     同じクラークの『幼年期の終り』に出て来る超越存在であるオーバーマインドにしても、やはりその存在は描かれてはいても、具体的にかれらが宇宙をどうするつもりなのかはわからないままです。
     これも結局は「描かないことによって描く」手法のバリエーションであると思われます。
     一方、本格ミステリでありながら「神のトリック」を描くことによって、この世界への神の影響を描き出そうとした超異色作も存在します。
     麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』。
     この小説では、夏に雪が降るという超常現象(とも解釈できる現象)の上で、あたかも高次元の存在が起こしたかのような「神のトリック」が炸裂します。
     はたしてそれがほんとうに「神のトリック」だったのか、それともありふれた俗界のトリックに過ぎなかったのか、ほんとうのところはわかりません。
     しかし、多くの読者はその神秘的展開に「神」の存在を思うことでしょう。
     少し毛色が違うところでは、乙一の『くつしたをかくせ!』という作品をご存知でしょうか。
     この絵本では、世界中の子供たちがサンタクロースがプレゼントを入れられないようさまざまな場所に靴下を隠すという逆説的な物語が展開するのですが、最後の最後、子供たちの必死の努力にもかかわらず、すべての靴下にはプレゼントが入っています。
     なぜ? それはわかりません。
     ただ、サンタクロースは子供たちがどんなに巧妙に逃れようとしてもその裏をかくことができるのだ、と考えるしかないでしょう。
     ここでのサンタクロースがあらゆる物理法則を乗り越えた「超越世界」の超常存在――「神」を意味していることはあきらかです。
     つまりは、これもまた「神のトリック」であるということができるでしょう。
     『くつしたをかくせ!』の本編にはサンタクロースは登場しません。
     やはり、これもまた「想像できないもの」を「描かないことによって描く」作品のひとつなのです。
     さて、いままでSFやミステリの作例を見て来たわけですが、より宗教に近いジャンルであるファンタジーはどのように描いてきたのでしょうか。
     たとえば、C・S・ルイス『ナルニア国物語』、J・R・R・トールキン『指輪物語』などは、「超越世界」をどう描写しているのか。
     トールキンはともかく、ルイスはあきらかにキリスト教の信仰をもとにして『ナルニア』を書いたといわれています。
     それでは、ルイスは「ナルニア」こそがまさに「超越世界」そのものである、と考えていたのでしょうか。
     そうではありません。ここでも「ナルニア」はあくまで「真の楽園」へ至るひとつのステップであるに過ぎないのです。
     「真の楽園」は「超越世界」であるが故に描くことができない。そのためにその世界の「影」としてのナルニアを描く。そういう方法論だといってもいいでしょう。
     あるいは、これは孫引きになりますが、より世俗的とも受け取られるJ・K・ローリング『ハリー・ポッター』シリーズにしても、このようないち場面があるそうです。

    「僕は、帰らなければならないのですね?」
    「きみ次第じゃ」
    「選べるのですか?」
    「おお、そうじゃとも」
     ダンブルドアがハリーに微笑みかけた。
    「ここはキングズ・クロスだと言うのじゃろう? もしきみが帰らぬと決めた場合は、たぶん……そうじゃな……乗車できるじゃろう」
    「それで、汽車は、僕をどこに連れていくのですか?」
    「先へ」
     ダンブルドアは、それだけしか言わなかった。

     「先」。
     それは決して描けない「超越世界」を意味しているものと思われます。
     つまり、SFにしろミステリにしろファンタジーにしろ、直接描くのではなく示唆することによってしか、「超越世界」の神秘を描くことはできないのです。
     さて、ここでようやく麻枝准の作品の話に戻ります。
     『ONE』から『Angel Beats!』に至る麻枝作品は、実は 
  • そろそろ皆さん、飽きて来ているとは思いますが……。

    2015-04-23 17:39  
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     そろそろ読むほうも飽きて来ていると思うが、もうふたつだけ生活の記事を書いておきたい。これはぼくの関心がそこにあるからだ。退屈かもしれないが、どうかご容赦を。
     さて、先日購入したばかりのアジアンタムの葉が早くも枯れそうになっている。どうやら水をやりすぎて根腐れしたらしい。
     しかたがないので、外に出して陽を浴びせることにした。これで少しでも回復してくれると良いのだけれど。園芸初心者としてはただ晴天が続くことを祈るばかりだ。
     植物を育てるということはどこか自分を育てるようなところがある。
     己の心が乱れていて、水をやりすぎたり、あるいは水やりを怠ったりすれば花や葉は自然と枯れる。
     そうなると、その不手際を悔やみつつ、その頃の生活を省みることとなる。まさに「自分育て」だ。
     どうやら、ぼくの心はまだまだ未熟もいいところのようだ。あたりまえといえば、あたりまえのこと。
     それにしても、「生活」とはすごい言葉だ。
     それは「生」きると「活」きるというふたつの文字から成り立っている。
     生き、また、活きる。それが「生活」なのである。
     この頃、ぼくはまさにその意味での生活に興味を持つようになった。つまり、どうすればより良く、より幸せに生きることができるのか、というテーマ。
     ひとつには、怠惰や贅沢に流されることなく生活を「管理」することが大切だと思う。
     なぜなら、怠惰や贅沢は何より大切な「感性」を鈍らせるからである。
     どんなにたくさんの電波が飛び交っていてもアンテナがなければ受け止められないように、どれほどたくさんの幸福があっても感性が鈍ければ感じ取れない。
     世界を感受するアンテナとしての感性をいつもぴかぴかに磨いておくこと。まずはそれが大切なのではないか。
     そのために自分をきびしく管理する。それはひどく大変なように思えて、その実、最も効率的な「道」なのかもしれない。
     そういうふうに考えて行くと、自然と「修行」という言葉が思い浮かんでくる。
     生き、また活きることとしての「生活」は、それ自体が「修行」という一面を持つのではないか。
     もちろん、ぼくは僧侶や修験者のような過酷な日常を過ごしたいとは思わないし、そもそもそんなあり方には耐えられない。
     ただ、毎日、あたりまえのことをあたりまえにこなす、その日々がささやかな精神修行になっていればいいと思うだけである。
     真に感性を研ぎ澄まし、世界を飛び交う「電波」を感受するアンテナを張り巡らせていれば、べつだん贅沢を究めなくても、一杯のスープ、一冊の本、路傍に咲く一輪の花にも深い喜びを感じることができるはずだ。ぼくはそういう「生活」を目指したい。
     もっとも、ぼくには一切の欲望を断つことは無理である。どうしたって「欲」はあとからあとから滾々と湧き出てくる。
     ただ、ぼくはその「欲」をより精密に満たしたいと思うのだ。
     「ただなんとなく」生きるのではなく、自分の望みを正確に洞察しながら活きる。それができて、初めて「幸福」という言葉に近づけるように思う。
     膨大な情報があふれ、金しだいであらゆる欲望が満たされるようにも思われる現代社会で、その奔流に流されることなく、どこまでもしずかに自分自身の内面を見つめつづけること。それが「生活」であり、「修行」なのではないか。
     ただ、社会からのがれ、その情報や快楽を捨て去り、ただ「心のしずけさ」だけを求めることも、何か違うと感じられる。
     それは自分のなかで「聖」と「俗」を分かつことになる。
     ぼくにはひたすら「聖」を目ざすことも、「俗」に溺れることも、「ほんとうの幸せ」からかけ離れた「道」であるように思える。
     本来、自然世界に「聖」も「俗」もなく、ただ人間だけがそれを区別してやまないのだから。
     ナチュラルな心に従うのなら、「聖」であれ、「俗」であれ、この世のあらゆるものが福音となるはずだ。
     泥の海も。
     空の星も。
     スティーヴ・ジョブズは 
  • 泥の海で空の星を見上げる。

    2015-04-22 03:30  
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     豊かに生きたい。
     ぼくは前の記事でそう書いた。そして、豊かな人生とは一瞬一瞬の奇跡に気づくような生き方のことだと。
     それでは、具体的にどのようにすれば豊かに生きることが可能となるのだろうか。
     茂木健一郎は著書『僕たちは美しく生きていけるのだろうか。』のなかで、こう書いている。

     それでも、「美を生きる」ことには、何とも言えない喜びがある。お金持ちになどならなくてもよい。「良い学校」など出なくてもよい。社会的地位などいらない。ただ、「美を生きる」こと、それさえできればよい。
     「美を生きる」ことさえできれば、呼吸する一瞬一瞬は福音となる。見るものすべてが意味深いものとなる。行き交う人に、笑顔で接することができるようになる。生きながらえて、イデアの世界に接続できるようになる。
     日常に追われ、疲れて眠りに就き、ふと目覚めたその夜の静寂に、自分の呼吸に耳を済ませながら考える。
     僕た
  • ときには幼子のように。

    2015-04-21 21:41  
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     ふと思う。 美しく生きるとは、どういうことだろう。あるいは、丁寧に暮らすとは、どういうことだろうか。
     きょう、ひとり園芸店へ行って、べラルゴニュームと、アジアンタムと、フィッカスプミラの鉢を買って来た。
     12センチとわりあい大きいべラルゴニュームは鉢ごと皿の上に載せ、6センチのアジアンタムとフィッカスプミラは100円ショップで買って来た小さなバケツとバスケットに入れて、それぞれ部屋の隅の緑のテーブルクロスを敷いた空間に置くことにする。
     インテリアグリーンというのだろうか、部屋のなかに緑が生まれるとなんだか少し気分が和む。
     ちょっとしたインドアガーデニング。
     うまいこと枯れずに育ってくれるといいのだけれど、何しろ園芸初心者のやることだから、既にとんでもない失敗を犯していないとも限らない。
     ぼくにできることは水と液肥をやって、あとはただ祈るだけである。
     なぜ、唐突にこんなこ