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山崎貴監督『寄生獣 完結編』はエクセレントな傑作映画。
2015-11-12 00:4851pt
映画『寄生獣 完結編』を見ました。
上映時はついつい見逃してしまい、いまになってブルーレイディスクで見ることになった作品ですが、いや、これが相当に完成度が高かった前作をあきらかに上回る傑作。
いま、映画として往年の名作漫画『寄生獣』を復活させることの意味に満ち満ちた素晴らしい野心作でした。
『寄生獣』が名作であることは論を待ちませんが、そうはいっても20年前の作品。
いま、そのままに映像化したら古さは禁じえないはずなので、数々の映画としての脚色は秀逸だと思います。
映画と原作では、根っこのところの設定から何から多くの部分が改変されて違っているわけですが、それらの改変は一点を除いておおむねうまく処理できていると感じました。
その一点に関してはネタバレになるのでここでは話しません。
ただ、ここらへん、あくまで「映画としての完成度」、「面白い映画であること」を最優先にした設定変更なので、原作優先の立場から見ると微妙だったりするかもしれません。
しかし、個人的にはどれも秀逸な改変と感じました。
原作から一切変えてはならないという原作至上主義の立場に立つなら別ですが、そういう人はそもそも映画なんて見なければいいわけで、それ以外の人にとっては望みうる限り最高の演出がなされていると感じたわけです。
『寄生獣』を映画化するということは、『デビルマン』をそうするのと同じくらいむずかしいことだと思うのですが、その制作に果敢に挑み、結果として最高の成功を遂げた監督を初めとするスタッフには拍手を送りたいです。
いや、ほんと、いいものを見せていただきました。
映画では、『寄生獣』という単行本全10巻に及ぶ長大なストーリーを2時間×2本の尺にはめ込むために数々のキャラクターが切り捨てられています。
そのなかで最大の存在は主人公である泉新一の父でしょう。
また、新一にとって「仲間」といえそうな幾人かの人々の存在も切り捨てられている。
結果として、『完結編』の新一は原作以上に孤独を抱えています。
信じられるのは、自分の右手に宿ったミギーただひとり。
映画の泉新一は一切の暖かな人間関係から切り離され、暗い目をした「どこまでも孤独なヒーロー」なのです。
その孤独な新一が、「人間とは何か?」という問いに直面しながらも幾人もの寄生獣たちと戦いを続けるさまは胸を打ちます。
今回も実に質の高い映画化でした。エクセレント。
監督の山崎貴さんはネットではさんざん叩かれている人であるわけですが、今回の『寄生獣』、『寄生獣 完結編』を含むかれのフィルモグラフィーを虚心坦懐に見ていけば、じっさいには質の高い作品を作りつづけている一流の映像作家であることは瞭然としています。
現実にそれは各作品の大ヒットという形で表れているわけで、一部のひねくれた映画ファンがなんといおうと、大衆がかれを支持しているわけです。
もちろん、ヒットしていてもつまらない作品も多々あることでしょう。
しかし、 -
殺人鬼は問い、化け物は答える。「人間らしさ」とは何か?
2015-04-11 02:5451pt
『寄生獣 セイの格率』が最終回を迎えました。
いくらかアレンジされているところはあるとはいえ、原作漫画とほぼ同じ結末で――そしてやはり感動的です。
原作で初めてこの結末を見たときはそれはそれは震えたもの。いまから20年も前のことですね。
今月は劇場映画版の『寄生獣』も公開されることになるので、この『寄生獣』という伝説的傑作にとって記念すべき月といえそうです。
さて、この比類ない物語にはひとりの殺人鬼が登場します。
かれは人間でありながら人間を殺しつづける「バケモノ以上のバケモノ」という存在です。
最終的にはおそらく死刑になったものと思われますが、そのかれが主人公に向かっていいます。
「自分こそが人間らしい人間だ」と。
ほかの大半の人間は自分を偽っているに過ぎないと。
その演説は結局はヒロインの「警察を呼んで」という実にまっとうなひと言によって中断されるのですが、ぼくはこの殺人鬼のいうことには一理があると思うのです。
なぜ、ひとを殺してはいけないのか? その問いに明確な答えがない以上、「どこまでも自分の欲望に忠実に生きる」こともまたセイのひとつの答えなのではないか、そう考えます。
そういう姿を「非人間的」と呼び、「バケモノ」とののしることは何かが間違えている。
もちろん、この種の反社会的な存在は社会のルールに抵触しますから、社会はその存在を抹殺しようとするでしょう。
具体的には、捕まえて一生檻のなかに閉じ込めるか、さもなければ死刑にする。それが社会の「絶対反社会存在」に対する対処です。
いい換えるなら、そのくらいしか「どうしても社会と相容れない存在」を処理する方法は存在しないということでもある。
社会はそこで社会自身が生み出した倫理を持ち出すわけなのですが――どうでしょう? そういう真に反社会的な存在に対して、社会のモラルがどれほどの意味を持つでしょうか?
倫理とはつまり社会に生きる人々同士の「約束事」であるに過ぎないわけで、その「約束事」の外にいる存在に対しては何ら意味を持ちません。
ライオンに法を説いたところで意味はない。寄生獣にも、また。殺人鬼もそれと同列の存在なのでは?
それなら、非情な殺人鬼に対して我々はどう行動するべきなのか? それはやはり「社会のルール」に則って処断するよりほかない。つまり、「警察を呼ぶ」しかない。
それがどれほどエゴイスティックなことに過ぎないとしても、やはりそれだけしかできないわけなのです。
しかし、だからといって犯罪者を「人間ではない」とすることは間違えている。
それはつまり、人間の範囲を狭めて理解できないものを排除するだけの理屈に過ぎない。
ぼくはそういうふうに思います。
この世には、社会の常識から見れば「バケモノ」としか思えない存在がある。社会はその「バケモノ」を説得する論理を持たない。ただ、捕まえて処理するだけ。
それは「社会にとっては」正しい理屈です。社会にとっての最優先課題は社会の存続なのですから。
しばらく前に「『黒子のバスケ』脅迫事件」と呼ばれる事件があって、その犯人は、凶悪犯罪者である自分は死刑になるべきだと主張していました。
しかし、社会は決してかれの主張を採用しないし、またそうするべきでもないでしょう。
法律はべつにかれの自意識を満足させるためにあるわけではないからです。それはただ社会が自衛するために存在している。
かれはその欺瞞を問うことはできるかもしれません。ですが、ほんとうは何も矛盾してはいないのです。
社会は社会のことを再優先に考える――それだけのこと。きわめて合理的な理屈だと思います。
ただ、そこに「善悪」とか「倫理」を持ち出すと、話がややこしくなって来るだけのことです。
そう――人間は(人間社会も)しょせん自分のことを第一に考えるしかない。
だから、ほんとうは何が「人間的」で、何がそうでないのか問うことそのものが間違えているのでしょう。
そこまでは当然といえば当然の理屈です。だけれど、 -
なぜ彼らは山崎貴監督の映画を攻撃するのか?
2014-12-06 00:5051pt
いつになっても晴れる気配のない新潟の冬空を恨みつつ、雪中行軍で映画『寄生獣』を観て来ました。山崎貴監督の新作ということでそれなりに期待して行ったのだけれど、その期待に違わぬ傑作でした。
前後編の前編なのですが、これだけでも満足感は高い。今年もいろいろ映画を見たけれど、かなり上位に入る出来ですね。
ネットでもおおむね好評な模様。まあ、この映画を攻撃しているのは一部の山崎貴アンチくらいのものなのではないかと。
ネットを見る限り、貶すつもりでいったら予想外に出来が良くて驚いているという人もいるようで、よっぽど心の狭い人原作ファン以外は少なくともそれなりには楽しめるクオリティだと思う。
山崎貴監督は近年、『永遠の0』、『STAND BY ME ドラえもん』と立て続けに記録的なヒット作を生み出したわけですが、必然的に残酷描写が伴う『寄生獣』はさすがにそこまでのキャパシティはないでしょう。
しかし、それでもヒットしてはいるし、この出来なら口コミで客足が伸びるかも。ぜひひとりでも多くの人に観に行っていただきたい作品だと思います。まあ、何しろ『寄生獣』だからグロいのがダメな人は受けつけないかもしれないけれど……。
それにしても、山崎監督の作品を口汚くののしってやまない人たちの存在は不思議です。いまの日本でこの人ほど続けざまに漫画やアニメ原作の作品を実写映像化して成功している監督はいないと思うのですが、一部の人はとにかくこの監督が気に入らないようですね。
多くの場合、その種の人たちは監督の「原作破壊」を問題にするわけなのだけれど、そもそも映像化される以上、そのメディアの特性に合わせて内容を改変することは必須の作業です。
単なる再現VTRなりコスプレショーを希望するならともかく、一本の「映画」を見たいなら原作をそのままに再現しろというのは無理な相談なんですね。
そういう人は、いや、原作から変更すること自体は問題ないが、原作のエッセンスを破壊するような改変だと困るのだ、というかもしれない。しかし、きちんと作品と向き合って考えれば、どの改変も納得がいくものだと思う。
やれリスペクトが足りないだとか、やれ原作の長所を活かしきれていないといった意見は主観的な見方の問題に過ぎないので何ともいえません。あえていうなら、ぼくはそうは思わない、というだけのことです。
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