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無職を楽しむには条件がある。

 きのう、大人の日常系作品では「仕事」が重要なポジションを占めるよね、と書いたのですが、よく考えなくても当然、無職の主人公を描いた作品もありますよね。  その手の作品は必然的にどこか重くならざるを得ないのかな、と思い、参考までに『働かないふたり』を読んでみました。  うん、全然重くないですね。あくまで軽いコメディとして楽しく読める。  ただ、リアルニートの身の上からすると非常に身に詰まされる話で、ほんとうに楽しく読んでいていいのかな、と疑問に思ったりします。  あるニートの兄妹が主役の楽しい日常ものなのだけれど、このまま行くといつかは破綻する生活だよなあと思えて来るところが微妙に辛いです。  もちろん、そういうことは考えないで単なる日常ものとして読むこともできるのだけれど、いや、どうしても考えてしまうよなあ。  まあ、ぼく自身がこの兄妹と変わらないごくつぶしの生活を送っているわけなので、ことさらに非難しようとはまったく思いませんが、先の見えない人生にはどうしたってある種の緊張感がただようもの。  『のんのんびより』を読むのと同じ感覚で読むのは無理でしょう。  いや、『のんのんびより』だって未来は閉ざされているかもしれないけれど……。  そうですね、たとえば『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』にしたところで、主人公は作家という不安定な職業です。  あすをもしれぬ、とまではいかなくても、決して明るい未来が保証されているわけではない。  こうしてみると、案外、不安定な境遇こそがいまの楽園性を強化しているのかもしれません。  ある種の逃避には違いありませんが、将来が不安であればあるほど、いまは輝きを増したりするのかも。  いまの時代、日本全体が未来が見えない状況にあるわけで、将来の幸せまで確実に見えている人は少数派でしょう。  となれば、未来が見えないにもかかわらずいまの日常を楽しむ姿にこそ、リアリティがあるのかなあ、とも思います。  とはいえ、完全に社会と隔絶したひきこもり生活はどう想像してもあまり楽しいものにはなりそうにありません。  だから、どこかで社会との接点を持つ必要がある。  この場合は、 

無職を楽しむには条件がある。

どんなに恵まれていても、ひとは飽きる。

 「いばや通信」のこの記事が非常に面白かった。 http://ibaya.hatenablog.com/entries/2015/06/29  ここで坂爪さんは「漁師とコンサルタント」という有名な寓話を取り出してこう書いている。 坂爪「これさ、俺は『半分同意、半分違和感』って言うのが正直な感想で、半分の同意は『そう言う生活を既に手に入れている漁師は非常に豊か!』ということで、根本的に、自分で自分の人生は最高だと思っている人は、その時点で(他の人間がとやかく言うものじゃないし)勝ち組だと思っているのね」 みっつ「はい」 坂爪「でね、半分の違和感は自分自身に対してなんだけど、『幸せな日々に飽きることはないのかな?』っていうことなの。毎日シエスタをして、自然を楽しみ、仲の良い人達とのんびり過ごす時間は絶対に豊かだと思うけど、もしも自分だったら『絶対にもぞもぞしてくるだろ!』って思うのね」 みっつ「はい」 坂爪「男の子的なもぞもぞ感、とでも言いましょうか。確かに幸せなんだけど、幸せなだけじゃ足りないんだよ。毎日同じことをしていたら必ず飽きるし、『新しい何か』をしてみたくなると思うんだよ。世界にはまだ俺の知らない面白い場所があるはずだ!って、俺は絶対に思っちゃう気がするんだよ」  まさにいまのぼくのことだな、と思う。  家はあるし、そこそこの収入もあるし、友人はたくさんいるし、娯楽もたくさんあるし、とても幸せなのだけれど、同時に「やることがない」という退屈さの地獄に閉じ込められた感がある。それがぼく。  もちろん、あまりに忙しいとそれはそれで苦しいことになるのだが、暇すぎることも楽ではないんだよね。  まあ、真面目に働いている人たちからすれば何をほざいているんだと思う悩みかもしれないが、しかし、この問題、リンク先で坂爪さんが書いている通り、本質的なものだとも思う。  「幸せなだけじゃ足りない」。  たとえ贅沢といわれようと、それはほんとうのことなのだ。ひとは幸福なだけでは生きていけないのである。  じっさい、ポジティブ心理学の本などを読むと、宝くじがあたった人の幸福度は予想されるほど高くないらしいということが書かれている。  その反対に、事故などに遭って障害を負った人の幸福度も意外に低くないようだ。  もちろん宝くじがあたった瞬間は嬉しいだろうし、怪我を負った瞬間は嘆くことだろうが、それらは長くは続かない。  ひとは幸運であれ、不運であれ、あっというまに慣れてしまう。そういう事実があるのである。  だから、ひとは「幸福」にも慣れるし、飽きてしまう。  子供の頃は「学校に行かずに漫画だけ読んで暮らせたらどんなにいいだろう」と思ったものだが、じっさいにそういう暮らしをできる身の上になってみると、やはり飽きるのである。退屈するのだ。  ニートをしていると、どうしてもこの問題に対する答えを出すことを求められる。  ニートブロガーのPhaさんは、一箇所に常住するのが良くないと考えて、他拠点生活をすることにしたようだ。  それが正解なのかはどうかはぼくにはわからないが、とにかく常に新しいことをしていないと退屈するというのが人間のさがであるらしい。  これは非常にむずかしい問題である。なぜなら、この問題に対しある対策を見つけ出して実行したとしても、それがあたりまえになるとやはり慣れ、飽きてしまうからだ。  この退屈という名の地獄に耐えることができる、あるいはそもそも退屈さを感じない能力が、即ち「無職の才能」なのだろう。  しかし、だれもがその種の才能に恵まれているわけではないし、坂爪さんのように大人気ブログの管理人になれるわけでもない。  それでは、どうすればいいのか? 

どんなに恵まれていても、ひとは飽きる。

人生がつまらなくてしょうがねえ問題をどう解決すればいいか?

 ども。きょうもきょうとてニート暮らしの海燕です。  正確にはNEETの定義は35歳までなので、来月で37歳になるぼくはそこから外れまくりであるわけですが、まあ、ただ無職っていうのもどうかと思うよね……。  しかし37歳て。ちょっと自分がそこまで歳をとったことが信じられないですね。  この調子だと無為のまま40歳になり50歳になり60、70と歳を取っていくんだろうな。そこまで生きられればの話だけれど。  いまの生活は非常に安定していて気楽なんですけれど、唯一、やることがなくて活動エネルギーが余ることだけが困ります。  「無職の才能がない」ということなんだろうけれど、やっぱりぼくは何かしら活動していないといらいらしますねー。  暇なのは悪いことではないと思うけれど、ひとりで暇だとね、もうね、やることないんですよね。  一日中『スプラトゥーン』やっていても飽きるしなあ。  やっぱりぼくは何かしら仕事をしたいのだと思う。そうかといっていまさらアルバイトとかも効率悪いし、さて、何をしたものだろう……。  いわゆるワーク・ライフ・バランス、仕事と余暇のバランスがどのくらいが適当かということは、ひとによって違っているんでしょう。  たぶんぼくはプロニートのPhaさんあたりと比べると多少は働き者属性が強くて、無職属性が弱いんだろうな。  まあ、このブログをもっと更新したらいいのかもしれないけれど、どうも1日いくつも記事を更新するのは読者に負担が増えるようなんですよね。  なので、日々、「うーん、どうしたものかなあ」などと唸っています。  いや、その前に1日1本はちゃんと更新しろよって話ですが。今月、更新数少ないですよね。  すいません。ちょっと気を抜くとこうなる。  たぶん1日1本定期的に更新しつづけることが会員を維持するためにはベストだと思うんだけれど、これが意外にむずかしくて、書きすぎたり書かなすぎたりしてしまうんですよね。  まあ、書くだけ書いてストックしておけばいいのかもしれないけれど、それだとブログの特長であるリアルタイム性が薄れて面白くなくなる。なかなかうまく行かないものです。むずかしい。  話が逸れましたが、まあ、リアルライフを神ゲーにするためには、次の「目標」を設定しないといけないのだと思います。  目標が決まればそこに至るまでの作業も決まるし、HHK(暇で暇で困っちゃう)状態も抜け出せるかと。  まあ、限りなく贅沢な悩みといえばそうなのですが。  で、そのためにとりあえず何か電子書籍を出したいなあと思っているのですが、じっさいに電書を出してもなかなか儲からない、わりに合わないという問題がありそうなんですよね。  だから 

人生がつまらなくてしょうがねえ問題をどう解決すればいいか?

「無職の才能」が足りなくて。

 再度、記事に付いたコメントを転載させていただきます。  転載されたコメントの「メディアへの接触は自由である」というのは、ネットへの書きこみや投稿ができる状態でしょうか。  もしそうでないのならば、そのうち楽しくなくなると思います。これは他の記事でもコメントしたことですが、「自己承認欲求」が満たせないからです。  いくら面白いコンテンツを自由に消費できても、これだけだと「自分は世の中の何かに役だっている」という実感を得られません。  「自分は何のために生きているのか」「この世に自分は必要なのか」「このまま何も成し遂げずに死ぬのか」という疑問がわいてきて、楽しむどころじゃなくなってくるのではないかと。  自己承認欲求が無い人も、中にはいるかもしれません。でも、そういう人は少数だと思います。  たいていの人は、社会と関わって他人や自分自身によって「自分を何らかのかたちで認められる」ことがないと、欲求不満になってしまうのではないでしょうか。  ――ああ、承認欲求、ありますよねえ。  いまの世の中には楽しいことや面白いものが山のようにあふれているわけですが、やはりひたすらそれらを楽しんで面白おかしく生きていくことはできないようです。  いや、できる人もいるのだろうけれど、ぼくにはできない。やっぱり「ぼくはなんのために生まれてきたんだ?」とか思い悩んでしまう。  なんといっても人間は社会的動物で、社会との関係を構築せずに生きて行くのはしんどいのだと思います。  ひとは「他者」という鏡があって初めて自分の立ち位置を確認できるようなところがある。  ぼくにしてからそれは変わらず、お気楽なニート暮らしを満喫しているとどうも不満感が高まっていくようなのですよね。  ぼくですらやっぱり何かひとの役に立つことをしたいとか思ってしまうわけなのです。  そういう強迫観念に捕らわれず自由に人生を楽しめる人もいるのだろうけれど、どうやらぼくはそうではない。  そういう意味ではぼくにはあまり「無職の才能」はないのかもしれません。ただやむを得ず無職しているだけなんですね。 

「無職の才能」が足りなくて。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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