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「自分の人生」という物語を避けることはできない。
2016-06-13 23:5651pt本を読んでいます。
村瀬学『宮崎駿再考』と城戸義明『科学とは何か 科学はどこへ行くのか』と出口治明『仕事に効く教養としての「世界史」』を並行して読み進めいるところです。
こう書けば聞こえはいいですが、ようするに読んでは投げ出し、投げ出しては読んでいるわけ。
一冊の本に集中し切れない注意力の散漫さはぼくの欠点だとも思うのですが、しかし一方では幾冊もの本の内容が絡みあい、補いあい、あたかも一冊の本であるかのように響きあう楽しさがあることもたしかなのです。
妙なる調べ響きわたる活字の交響楽。まあ、それはぼく一人にしか聞こえず、感じ取れない孤独の音楽であるわけですが、このようにして本をよむとき、ぼくはとても幸せだったりします。
以前にも書いたように、本という本は必ずほかの本への「ハイパーリンク」が張り巡らされたネットワーク的情報源です。
だからこそ一冊の本を読めばべつの本への興 -
究極のスローライフとはどんな生き方か。
2016-05-29 00:0051pt以前にも書いたかと思いますが、ぼくの生涯の目標は「人生を楽しみつくす」ことです。
いままでのところ必ずしもうまくいっているとはいえませんが、短い一生で可能な限りこの世を楽しみつくして死にたいと思っています。
人生を楽しむには大きく分けてふたつの方法論があると思います。
自分自身で直接に体験することと、本や映画などによって間接に体験することです。
ぼくは35歳を過ぎるまで主に後者の楽しみ方を実践してきたわけですが、最近はそれだけの生き方に限界を感じ、直接に体験することも大切だな、と思っています。
これは「いくらフィクションを味わったところで現実の体験には及ばない」という意味ではありません。
ただ、直接体験と間接体験は補完関係になっていて、ある程度直接体験を進めないと間接体験を十全に味わえないようになっていると思うのです。
逆にいえば、色々体験すればそのぶんフィクションも面白くなるということ。
だから、いまのぼくの目標は「直接的、また間接的に可能な限り人生を楽しむ」ということになります。
これはつまり、同時に自分の人生とフィクションで同じテーマを追いかけることになることでもあります。
あるテーマを、自分の人生で実践しながら本の世界でも追いかけていくということ。
そして、ここ数年のぼくのテーマとして「スローライフ」があります。
日頃からニート生活をしているので、どうしたってスローな暮らしになるのですが、それだけではなく、正しくゆったりとした暮らしを楽しむにはどうすればいいのかとずっと考えていたのです。
以前はこのテーマに関しては禅がひとつの「ゴール」かな、と思っていたのですが、じっさいに禅について調べ始めたところ、さらにさかのぼってその源流である老荘思想にたどり着いてしまいました。
老荘思想とは、中国の古代哲学者である老子と荘子の思想のこと。本来、老子と荘子には直接の関係はないようなのですが、後世、ひとまとめにして老荘思想と呼んでいるようです。
その教えは「無為自然」という言葉に象徴されるように、心の拘りを良しとせず、まさにスローに過ごすことを薦めるもので、孔子に始まる儒教とは対照的なところがあります。
その思想をどう生活のなかに活かすか、いまぼくは考えているところです。
というか、老荘とか禅宗の教えに従って生きようとすると、必然的にシンプルライフとかスローライフといった生き方に至るようです。
モノに拘らず、ナチュラルに、自分の生きたいように生きる。あるいはそれが最も尊い生き方なのかもしれません。
『荘子』のなかの「胡蝶の夢」というエピソードはあまりに有名ですが、じっさい、人生はひと夜の夢のようなものに過ぎないとすれば、肩の力を抜くことも大切なのでしょう。
時には頑張ることもたしかに必要ですが、それと同じくらいリラックスすることも重要なのだと思います。ひとの努力など、巨大な運命、あるいは老子がいうところの「道(タオ)」には逆らえないものなのですから……。
否、おそらく
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