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タグ “TONO” を含む記事 7件

なぜひとは闘わなければならないのか。

 今年の初めあたり、ぼくは「フラワー・フォー・フレッカ」と題した記事を書いています。TONOの名作漫画『ダスク・ストーリィ』の感想記事ですね。 http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar433781  この記事についたコメントにいまさらながらに気づいたのですが、これがなかなか興味深い内容だったので、いまさらながらにレスをつけたいと思います。まずは「フラワー・フォー・フレッカ。TONO『ダスク・ストーリィ』にひとの勇気を見る。」の一部を引用することから始めましょう。  TONOの物語はいつも人間に優しい。人間の弱さ、愚かさ、醜さ、小ささに優しい。それはひとの弱さや醜さをそのままに許容しているということだけでなく、それらを慰撫し、救済しているという意味で優しいのだ。  そしてまたきびしく残酷でもある。ひとを励まし、ふたたび戦いの荒野へ導くという意味でそうだ。その優しさときびしさが相まって、ひとつの物語世界を形作っている。TONOの作品とはそういうものである。  たとえば第一巻の「第五夜」を見てみよう。ここでタスク少年は気がつくとあるパーティーに参加している。招待主は「フレッカ」と呼ばれる正体不明の女の子。  しかも参加者のなかで彼女を知らないのはタスクひとりらしい。タスクが「フレッカなんて知らない」というと、かれはパーティーからはじき出される。  やがて、真実があきらかになる。フレッカはタスクの友人の美少女ニッキーの身代わりとなって刺された少女だったのだ。そして、そのパーティーはフレッカが死の直前に、彼女があこがれた人々の幻想を集めて開いたものだったのである。  何もかも偽者ばかりのパーティー。フレッカはタスクに語る。 「あなたに何がわかるのよ 私みたいにさえないみっともない子の人生が あなたやニッキーみたいにきれいでかっこいい人には絶対わからないわ にせものでいいのよ 知ってる人になんか もう会いたくない!! だって家族も友人もずーっと私の事なんかばかにしてるんだから」  そんなフレッカに向かって、タスクは述べる。 「ばかにしてなんかないよ 誰も君の事をばかにしてなんかいないよ 君はうすれてゆく意識とたたかいながら 苦しい息の下 必死でくりかえした “ニッキーがあぶない” “ねらわれてるのはニッキーだ”って おかげで犯人の男はすぐにとりおさえられた 君の言葉がニッキーを助けたんだ ニッキーも彼女の家族もどれほど君に感謝しているか そしてきのうまでぼくは君の事なんか全然知らなかった でも今は思ってるよ あんな恐ろしい目にあいながら なんて勇気のある女の子だろうって」  ここには真実の物語がある、とぼくは思う。そしてこれこそぼくが求めてやまない物語の形なのだ。  わかるだろうか。これは勇気の物語である。恐怖と絶望があるからこそひときわ輝く勇気の物語である。ひとが偉大でありえるという話、人間の燦然と輝くプライドのストーリー。  ここにこそ美がある。人間存在の美、ひとの魂の高潔さの美しさが。そう、ひとは己の業を呪い、どこまでも堕ちてゆくこともできる。一方、フレッカであることもできる。  そして、ぼくは皆、フレッカであるべきだと思っているのだ。いうまでもない、だれもがフレッカでありえるわけではない。しかし、だからこそその高貴さは際立つ。  で、この記事に対し、こういうコメントが付いたわけです。 海燕さんは、フレッカとは別のものを目指す人達をどう見ているのですか? 海燕さんがフレッカの高貴さに憧れることと、「ぼくは皆、フレッカであるべきだと思っているのだ。」と思う事は別だと思います。 例えば、「恐怖に翻弄されつつ、しぶとく生き残る人」が、フレッカ(恐怖と絶望に立ち向かう人)に、必ずしも劣るわけではないと思うのですが、いかがでしょう? バイソンにはバイソンの生き様があり、亀には亀の生き方が、ヤギにはヤギの生き方があって、それぞれ等しく尊ばれるものだと思います。  一読、なるほど、と思いましたね。「恐怖に翻弄されつつ、しぶとく生き残る人」が「恐怖と絶望に立ち向かう人」に、必ずしも劣るわけではない。その通りです。  このコメントを読んで、ぼくは瀬戸口廉也がシナリオを書いた名作ゲーム『SWAN SONG』のあるセリフを思い出しました。「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」。  このセリフは物語終盤に出て来るのですが、『SWAN SONG』全体の主題を象徴するものと云っても良いでしょう。主人公である尼子司はここで、人間の生き方に優劣はないのだと云っているように思えます。  どんな生き方を選ぶとしても、それはすべて素晴らしいのであって、成功とか失敗とか、勝利とか敗北といった世間のあたりまえの価値観だけでは人間の「生」を計り知ることはできないのだ、と。  ぼくはこのセリフに心から感動しましたし、また、このコメントに共感しもします。たしかに「誰だって人間は素晴らしい」し、どんな生き方も「それぞれ等しく尊ばれるべき」ではあるでしょう。  しかし――それで終わりなのか? 「誰だって人間は素晴らしい」のだから、どういう生き方を選ぼうとそれは勝手で、色々なあり方が「それぞれ等しく尊ばれるべき」であるのだから、どんな生き方をしようがひとに文句をつけられる筋合いはないのか?  たしかにそういうふうに考えることもできるでしょう。ですが、その考え方は矛盾していると思うのです。なぜなら、それなら他者の「素晴らしさ」を尊重することなく、傷つけ、踏みにじるような生き方もまた「等しく尊ばれるべき」である、ということになってしまうからです。  ぼくもまた、司が云うように「誰だって人間は素晴らしい」と思う。さまざまなありようが「等しく尊ばれるべき」であると考える。しかし、それと「ひとはどう生きるべきなのか」という問題は切り離して考えなくてはならないとも思っています。  そうしなければ、「どんな生き方もひとしく素晴らしい」という言葉は、単なる現状肯定や堕落をそそのかすものとしか見えなくなってくるはずです。  だから、ぼくはこう云うのです。なるほど、たしかにこのコメントで書かれているように、「パイソンにはパイソンの生き方があり、亀には亀の生き方が、ヤギにはヤギの生き方がある」。  だが、それでもなお、パイソンはパイソンなりに、亀は亀なりに、ヤギはヤギなりに、「いまある自分」より一歩でも、半歩でもより良いありようを目ざすべきなのだ、それが人間の人間らしい生き方というものなのだ、と。  そう、「恐怖に翻弄され」るひとは、「恐怖に翻弄され」ながら前を目指すべきだし、絶望に打ちのめされるひとは、まさに絶望に打ちのめされたそのままの姿で、それでもなお、先へ進もうとするべきなのである、とぼくは云うのです。  おそらく、この押し付けがましい「べき」という断定に反感を覚えるひともいるでしょう。ひとがどう生きようがそのひとの自由ではないか? そんなこと、だれかに押し付けられる理由はないではないか? そういうふうに考えるひともいるに違いありません。  しかし、ほんとうにそうでしょうか? 中島みゆきに『ファイト!』という名曲があります。「闘う君の詩を、闘わない奴らが笑うだろう。ファイト!」というサビの部分を、だれでも聴いたことがあるに違いありません。  ただ、なにぶん昔の歌であり、全曲通して聴いた経験はないというひとも少なくないのではないでしょうか? あらためて全曲を通しその歌詞を検討してみると、その、まさに壮絶としか云いようがない内容があきらかになります。  くわしい歌詞は、たとえばこちら(↓)を参考にしてもらいたいのですが、全曲を通して聴いてみると、「ファイト!」という何気ない言葉はきわめて重い意味を持っていることがあきらかになります。 http://blogs.yahoo.co.jp/anno_yuki/36823400.html  それは単に「がんばれ!」などという微温な内容ではなく、まさに言葉通り「闘え!」という凄まじくも優しい激励なのです。その歌詞の、たとえばこの一節。 

なぜひとは闘わなければならないのか。

TONOとよしながふみの落差。

 さて、ふたつほど前の記事で書いたように、山梨のてれびんの家に二日ほど居座って漫画を読んで来ました。ちょうどTONO『カルバニア物語』が床に散らばっていたので、拾い集めて再読してみたのですが、いや、これ、ほんとすばらしいですね。  掲載誌がいつのまにかボーイズ・ラブ雑誌になっていた『Chara』ということもあって、あまり一般的な知名度は高くない漫画だと思いますが、でもこれは必読クラスの名作といっていい。  てれびんもいっていたけれど、おがきちかさんの『Landreaall』に近い気がする。まあ、ペトロニウスさんがいつだったか書いていたように、ほぼミクロの関係性に終始する少女漫画なので、つまらないと思う人もいるだろうけれど、ぼくにとっては至上の作品です。  何が面白いのか。ひとつにはやっぱり性差の問題を繊細に描き込んでいることがあるでしょう。  主人公はカルバニア王国のうら若き女王タニアと公爵令嬢のエキュー・タンタロット、彼女たちは国を統べる頑固な男たちとさまざまな局面で対決させられます。そしてしばしば性差別的ともいえる「壁」にぶつかって悩んだり怒ったりすることになるのです。  しかし、それなら「性差別反対!」「女性に権利を!」的な物語なのかといえばまったくそうではないあたりが面白い。  いや、たしかにタニアたちは差別的な扱いにうんざりしながら抵抗を続けていくのですが、だからといって彼女やエキューが常に正しいというわけでもないんだよね。  時には頭の硬いおっさんたちのほうが正論をいっていることもあるし、どっちもどっちということもある。重要なのは決して物語が「政治的正しさ」の奴隷に堕ちないということです。  すべてのエピソードはあくまでナチュラルに、スムーズに進んでゆくのです。で、ぼくとしてはたとえばよしながふみの『きのう何食べた?』とか『フラワー・オブ・ライフ』あたりと比べると、格段にこちらのほうが好みなんですね。  このふたりの作品、どこが違っているんだろうとよく考えます。表面的にはそう大きな違いがないように見える。どちらも非常に政治的に公正で、ユーモラスで、マイノリティへの配慮が行き届いている。それにもかかわらず、ぼくにとってはまったく違う作風です。  たとえば志村貴子さんという作家さんがいますが、彼女の作品に対してはぼくは特段の違和は感じません。『青い花』であれ、『敷居の住人』であれ、とても楽しんで読むことができます。  それに対し、『きのう何食べた?』に対しては何かこう、いいようがない読後感を覚える。いったいどこが違っているのか? さっぱり言葉にならないのですが、あえていうなら 

TONOとよしながふみの落差。

フラワー・フォー・フレッカ。TONO『ダスク・ストーリィ』にひとの勇気を見る。

 それはたそがれ時の物語だ。ダスク・ストーリィ。昼と夜の狭間、世界が暮れゆく時間のお話。  その時、昼間は影の裏側にひそんでいた者たちが立ち現れ、可憐に踊り始めることだろう。忘れ去られた者たちのダンス。ごく一部の人だけがそれを視、かれら死者たちの声を聴く。  TONO『ダスク・ストーリィ』はその「ごく一部の人」である少年タスクを狂言回しに、人々の生と死を繊細に綴った異色作。  TONOには『カルバニア物語』や『チキタGuGu』といった傑作長編があるが、この全二巻は内容的にそれらに劣らない。いくつもの短編によって構成されているのだが、いずれも傑作としかいいようがなく、実に不思議な印象が残る。  ハートウォーミング――ひと言でそういって良いものだろうか。たしかにどれもこれもきわめて涙腺を刺激する作品ぞろい。しかし、ただ「泣ける」といって済ませてしまうにはあまりに複雑な興趣を感じる。  たしかにある種のゴースト・ストーリーではある。だが、それに留まるものではない。美しくも哀しいファンタジーではある。しかし、それだけで済ませられる代物ではない。  どういったらいいのだろう――いや、どう語ろうとしても、容易には説明しきれないだろう。それほどの作品である。  ひとついえるとすれば、これほど優しい物語を読んだことはひさしぶりになるということだ。  TONOの物語はいつも人間に優しい。人間の弱さ、愚かさ、醜さ、小ささに優しい。それはひとの弱さや醜さをそのままに許容しているということだけでなく、それらを慰撫し、救済しているという意味で優しいのだ。  そしてまたきびしく残酷でもある。ひとを励まし、ふたたび戦いの荒野へ導くという意味でそうだ。その優しさときびしさが相まって、ひとつの物語世界を形作っている。TONOの作品とはそういうものである。  たとえば第一巻の「第五夜」を見てみよう。ここでタスク少年は気がつくとあるパーティーに参加している。招待主は「フレッカ」と呼ばれる正体不明の女の子。  しかも参加者のなかで彼女を知らないのはタスクひとりらしい。タスクが「フレッカなんて知らない」というと、かれはパーティーからはじき出される。  やがて、真実があきらかになる。フレッカはタスクの友人の美少女ニッキーの身代わりとなって刺された少女だったのだ。そして、そのパーティーはフレッカが死の直前に、彼女があこがれた人々の幻想を集めて開いたものだったのである。  何もかも偽者ばかりのパーティー。フレッカはタスクに語る。 

フラワー・フォー・フレッカ。TONO『ダスク・ストーリィ』にひとの勇気を見る。

漫画におけるユニークフェイス。「特別な顔」を持つひとたちの物語。(2780文字)

 以前、TONOの代表作『カルバニア物語』に触れたとき、こんなふうに書いた。  タイトルからわかるとおり、この作品の舞台はカルバニアという架空の王国。まだ十代の王女タニアが、この国で初めての女王として即位したあたりから、物語は始まる。  口うるさい貴族やら老臣やらに支配された王宮で、タニアが心を許せるのは、親友の公爵令嬢エキューだけ。  古くさい慣習やしきたりと悪戦苦闘しながら、ふたりは少しずつ女性の地位と権利を確立していく。ある種、フェミニズム的といえなくもないけれど、堅苦しく考える必要はない。  ときには頭の固い男たちと衝突しながらも仕事に励むタニアたちの姿は、ほとんど現代のOLそのもの。何も考えなくても十分楽しく読めると思う。  この作品がフェアなのは、ふたりの少女を囲む男性たちが、たんなる型通りの性差別主義者ではなく、それなりの思想と良識をそなえた大人である点。「ファンタジィは女性をどう描いて来たか。」  それぞれに意見も価値観も違う複数の人物を公正に描こうとする寛容さが、この作品の最大の魅力だと思う。  そういう意味で、第10巻および第11巻に登場する女性ナタリー・ホーンの描写は素晴らしい。  カルバニア一の豪商の娘だった彼女は、あるとき、火事によってその財力のすべてを失い、顔を含む全身に大やけどを負ってしまう。  しかし、彼女はその困難を克服し、エキューの父親タンタロット公爵への十数年越しの恋を実らせて、かれと結婚することになる。  あいかわらず、杖なしでは歩くこともできない身の上だが、その人柄は明るく、朗らかで、屈託がない。  そんなからだでお産が出来るのか、と問うエキューに対し、ナタリーは笑顔で答える(エキューの母親はお産で亡くなっており、彼女はそのことがトラウマになっている)。  

漫画におけるユニークフェイス。「特別な顔」を持つひとたちの物語。(2780文字)

ファンタジィは女性をどう描いてきたか。(3784文字)

 ちょっと「Something Orange」の記事を続けて再録します。まずは「ファンタジィは女性をどう描いてきたか」。  この記事、前にも再録したような気もするのだけれど、調べても出てこないので無視して再録することにします(ほんと、ブロマガって検索性が悪いよな)。  ちなみに、ブロマガの読者に意味が通りやすいように少々文章を修正してあります。ほんとに少しだけ。では、どうぞお読みください。  ――――― 「なに言ってんのエキュー だって〝女〟が爵位をもつんだもの あたりまえのことじゃない〝妊娠〟も〝出産〟も これからもずーっと 女におこりうることは全部そのまま降りかかってくるのよ」  『カルバニア物語』待望の第11巻。  あいかわらず、おもしろかった。どれくらいおもしろいかというと、読み終えた瞬間に第12巻も待望になってしまうくらい。  この巻は第11巻から1年半も間が空いているけれど、そのあいだに『チキタGUGU』や『ラビット・ハンティング』が出ているから、ま、大目に見よう(偉そうだね)。  タイトルからわかるとおり、この作品の舞台はカルバニアという架空の王国。まだ十代の王女タニアが、この国で初めての女王として即位したあたりから、物語は始まる。  口うるさい貴族やら老臣やらに支配された王宮で、タニアが心を許せるのは、親友の公爵令嬢エキューだけ。  古くさい慣習やしきたりと悪戦苦闘しながら、ふたりは少しずつ女性の地位と権利を確立していく。ある種、フェミニズム的といえなくもないけれど、堅苦しく考える必要はない。  ときには頭の固い男たちと衝突しながらも仕事に励むタニアたちの姿は、ほとんど現代のOLそのもの。何も考えなくても十分楽しく読めると思う。  この作品がフェアなのは、ふたりの少女を囲む男性たちが、たんなる型通りの性差別主義者ではなく、それなりの思想と良識をそなえた大人である点。  たとえば、しょっちゅうエキューに小言をいう大貴族のタキオは、彼女に「私の何が気にくわない?」と詰め寄られて、こう答える。  

ファンタジィは女性をどう描いてきたか。(3784文字)
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年生。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼は〈kaien2990@gmail.com〉まで。

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