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  • 『無職転生』と『10年ごしの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してた』を比較する。

    2016-04-14 05:55  
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     ペトロニウスさんの最新記事が面白いです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160413/p1
     今回のぼくの記事は、この記事に注釈をほどこす形で、最近友人と話し合ったりしたことをまとめておこうと思います。
     長くなりますが引用しますね。

     この話を読んだときに僕がとても思い出したのは、レスター伯さんと、永遠の日常モノの類型を話しているときでした。過去の記事で読んでいる人はこのあたりの議論の流れが思い出せると思うのですが、永遠の日常類型モノ、、、、これにハーレムメイカーなどの快楽線ばりばりの類型全部を話していると仮定してもいいのですが、これを話しているときに、レスター伯と僕の世代、僕は団塊Jrで現在の40代。レスター伯の世代は、10年ほど下の世代ですね。1970年代生まれと1980年代生まれ。このあたりの世代からは、どうも感受性がまったく逆になっているんじゃないかという議論しました。このときは、とても抽象的な議論で、団塊Jrくらいの僕らの世代は、物語を見るときに、非日常から入って日常に戻る流れの時間感覚で世界を眺めているみたいなんです。逆に、10歳下ということは1980年代以降の世代は、日常から入って非日常に向かっていく時間感覚をもつようなんですね。
     いまいちよくわからないでしょうが、そのときの議論は、ノスタルジーを感じる、もしくは「自分がいる世界との接続感がある」世界や空間がどんなものか?という議論でした。
     レスター伯が語ったのは、ひとつ前の世代が物語(共同幻想としてもつ世界のイメージ)において、非日常から「帰るべき場所」として想定される日常世界が、そもそも彼らが生まれて育って、抜けられないと苦しみ、そして喜ぶ世界なんだ、ということだったんですね。ここでは、物語の類型で、永遠の日常と呼べるような時が止まったような、マクロと何の関係もなく、非日常に接続されることもなく、明日が今日と同じように続いていく絶望と諦めとぬるま湯の安心が続くために、ミクロの狭小の「そこにある関係性」だけにフォーカスして戯れるのが、彼らにとっての「普通」であると。なので、彼らの基盤は常に「永遠の日常」にあり、その日常以外はリアル(現実感)に感じられなくなっているんです。この物語類型は『ゆゆ式』で頂点を極めたと、当時の僕は分析していますね。

     わかってもらえるでしょうか。
     ペトロニウスさんは1970年代以前の生まれと80年代以降の生まれを区別して、それぞれがべつの感性を持つ世代であるようだ、と語っているのです。
     ここでは仮に前者を「旧世代」、後者を「新世代」と呼ぶことにしましょう。
     70年代以前生まれの旧世代は物語(共同幻想としての世界のイメージ)において「非日常」から入って「日常」へ帰る、というパターンを好みます。
     これが端的に表れているのがたとえば『機動戦士ガンダム』です。
     ペトロニウスさんはこう書いています。

     僕がいつも思い出す例は、ガンダムファーストのアムロ・レイです。彼は「帰るべきところがあるんだ」と擬似家族共同体と化したホワイトベースの仲間のところに帰って行くことになります。物語は、すぐ非日常に叩き込まれて、最後には「帰るべき」「帰りたい」場所として、日常の世界や、擬似家族的な小さな手が届く範囲での共同体の関係性が選ばれ、志向されるんです。これは、非常に僕ら団塊Jr以前の感性です。非日常(戦争)から日常(自覚された家族)に戻るんです。

     しかし、これが80年代以降生まれの新世代となると、まったく逆になる。「日常」から入って「非日常」へ向かう、という形になるわけです。
     さらにペトロニウスさんの記事から引用しましょう。

     なので、同じ物語類型でも順序が逆なんだということを、いっていたんです。究極のところ人間なので、求めている物語の基本的なフォーマットが変わるわけではありませんが、感性の順番が逆だ、と。えっと、ここが重要な部分なんですが、物語世界における「旅に出る(いまいる世界から出て行って、成長して、そして帰ってくる)」という人類の持つ物語のアーキタイプ自体が、別になくなったわけではないんです。別に、エヴァンゲリオンでもガンダムでも、特に何も変わりません。少年がいきなりモビルスーツを動かして、世界を助けるために戦うという原型は、何も変わりませんよね。けれども、昔は、何か事件に巻き込まれて、戦争(=非日常)とかに連れ出されても、特に違和感を感じなったようなんですね。そして、そこで苦しみと成長を遂げて、最も大切な家族という日常(=平和)の元へ帰るという順番でした。それで、特に問題なかった。たぶん、クリエイターの世代の人に、戦争体験者の影が色濃く残っていたり、高度成長期によって社会(家族の在り方)自体が根元から変わっていってしまうような非日常が、その世代の人々にとっては、あたりまえだったからなんだと思います。けれども、1980年以降の停滞期に入った日本社会で育った世代は、もしくはその時代をメインで生きるプロのクリエイターの世代は、戦争とか高度成長による社会の急激な大変革(非日常)が、見たことのない、よくわからないものになったんだろうと思います。彼らの想像力が及ぶ範囲は、いま彼らが生きる世界。それは、1980年代から生まれて、リーマンショックやバブルの崩壊以来、建築という物理的なものですらまったく変化のない、永遠の日常の郊外空間。また彼らのリアルな現実である学校空間。そしてその中で唯一、その日常から脱出できる世界は、ゲームの世界の冒険。それだけなんですよね。

     ここで試みにぼくの知りあいを持ち出して分けてみると、現在40代のLDさんやペトロニウスさんは完全に旧世代ですね。
     30代前半のレスター伯やてれびんあたりは新世代。
     そしてぼくは1978年生まれの37歳ですから、ギリギリ旧世代に属していることになります。
     確認していないけれど、敷居さんあたりはギリギリ新世代ということになるのではないかな。
     さて、ここで、そもそもの話の始まりである「小説家になろう」から旧世代寄りと新世代寄りと思える作品を取り出して比較してみようと思います。
     『無職転生 -異世界行ったら本気だすー』と『10年ごしの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してた』です。
     ぼくの理屈でいうと、前者は旧世代寄りの物語、後者は新世代寄りの物語ということになると思うのですよ。
     なぜ「なろう」の無数の作品からあえてこの二作を取り出して比べるかというと、この二作、構造的にとてもよく似たプロットを採用していると思うからです。
     両者とも何年間もひきこもりしていた男が、異世界へ行って初めて外へ出て、その世界を冒険するという物語です。
     しかし、作品から受ける印象は対照的といっていいほど違う。なぜなのか、という話をしたいと思います。
     結論から書くと、両作品の差異は「主人公の意識の差」にあると考えます。
     そして、その意識の差が世代を象徴していると思うのですね。
     つまり、『無職転生』の主人公ルーデウスは旧世代的な思考の持ち主であり、『引きニート』の主人公であるユージは新世代的な考え方をしているということです。
     まず、「小説家になろう」堂々のランキング第1位である『無職転生』の魅力がどこにあったか確認してみましょう。
     端的にいって、それはひきこもりだった主人公が異世界へ行くことで今度こそ本気をだして生きようとするその真摯な姿勢にあると思います。
     ルーデウスはあるときトラックに轢かれて死んで異世界へ転生するのですが、生前の後悔からこの人生こそは成功させると努力します。
     そのかれの「本気さ」が読者の共感を呼ぶのです。
     一方、『引きニート』はどうか。
     実は、ユージはひきこもりをしていた10年間もの歳月を、それほど強く悔やんでいるようには見えません。
     かれは異世界へ行くとあっというまにそこになじみ、わりと気楽に暮らしていきます。
     それはルーデウスの真剣な姿勢とは大違いといっていいと思います。
     ここでなぜルーデウスは過去を悔やみ、ユージは悔やまないのかと考えると、究極的にはルーデウスはひきこもりの歳月を「自分のせい」と受け止めているのに対し、ユージは「運が悪かった」と捉えているからではないか、と思い至ります。
     つまり、ルーデウスは何年間もひきこもって周りに迷惑をかけたのは自分が悪かったのだと思っている。
     だからこそ、転生した後は同じ過ちを繰り返すまいと考える。
     しかし、ユージはいってしまえば自分は事故に遭ったようなもので、だれが悪いのかといえば、あえていうなら運命が悪いというほどに考えているように見える。
     この差があるから、ルーデウスは悔やみ、ユージは悔やまないのではないか。
     いい換えるなら、ルーデウスはとても自分中心に世界を捉えている。運命を自分の力で変えることができるものだとみなしている。
     対して、ユージは世界と世界として受け止め、運命に対して「ポジティヴな諦念」とでも呼ぶべきあきらめを抱いている。
     ユージにはこの世界は自分ではどうすることもできない悲惨な出来事が起こるものであって、それは避けようがないのだ、という思想があるということでもある。
     これを反転すると、ルーデウスにとっては自分の成功は「自分の功績」であるが、ユージにとっては「運が良かった」ないし「周囲のおかげ」であるということになる。
     まあ、簡単にいって、ふたりの間にはこういう差があるわけです。
     さらに、ルーデウスは非常に生真面目に第二の人生を生きようとし、それが崩壊しそうになると大きなショックを受け放心状態になったりするのに対し、ユージはとてものん気に見える。
     ルーデウスの心理には常に「不安」がよぎっているようにも思えます。
     いくら幸せになっても、成長しても、一瞬ですべてが元の木阿弥に帰すのではないかという心配がかれの脳裏から完全に消え去ることはない。
     そしてじっさい、その心配はいくつかの「ターニングポイント」という形で現実になる。
     一方、ユージはとても警戒心が薄い。よくそれで生きのびられるな、と思うくらいのんびりとしていて、大きな不安は持っていないでしょう。
     つまり、ルーデウスは世界を敵だらけの場所(非日常)だと認識し警戒しているのに対し、ユージはその点にほとんど思いが至っていない(日常)といういい方もできる。
     ルーデウスは危険に対しときに過剰なほど敏感なのに対し、ユージはその逆に過剰なまでに鈍感なのです。
     象徴的なエピソードだと思うのですが、ユージは異世界へ転移してすぐ、食料として赤いきのこを採取します。
     で、いかにも怪しいそのきのこを平気で食べるんですよ(笑)。
     結果として食あたりを起こすのですが、ルーデウスだったら絶対に食べないでしょう、そんなもの。
     ふたりの差はかくのごとし、です。
     世界に対し不安と警戒心を抱くルーデウスは、ときとして不要な小細工にも思えるほど策謀を弄します。
     しかし、どんなに策謀を重ねても、当然、100%成功するというわけにはいきません。
     どこで出て来たのか忘れたけれど、ルーデウスの言葉として非常に印象に残っているものに「自分にはベストを出すのは無理だ。せいぜいがベターにやるしかない」という意味のものがあります。
     これはつまり、100%成功させることは無理で、たとえば80%くらいの成功率の策しか思いつかない、ということだと思います。
     ルーデウスが「本気だす」というのは、この80%をなんとか81%に、82%に、あるいは85%にしようと努力する、ということだとぼくは思っています。
     つまり、かれはある程度の成功の見込みがあるにもかかわらずそれをさらに高めようと頑張る男なのです。
     かなり行きあたりばったりの人生を送っているユージとは大きな違いです。
     こう書くと、二度目の人生を真剣に生きているルーデウスに比べ、ユージはただのん気なだけの男に見えるかもしれない。
     ですが、必ずしもそういうことではありません。
     なんといっても、ユージにはルーデウスにはない「人徳」が備わっている。
     そのおかげでユージは人々の協力を録りつけ、生きることができます。これはルーデウスにはない能力でしょう。
     いや、ほんとうにルーデウスには人徳がないのでしょうか? かれはただ計算高いだけの男だと考えていいのか?
     実はぼくはそうは思いません。じっさい、魔大陸でルイジェルドがルーデウスを助けてくれたのは、ルーデウスが策破れてどうしようもなくなっていたときでした。
     ルーデウスは実はかれの計算が通用しないところでひとに好かれていたりするのです。
     しかし、かれがそれをどこまで自覚しているかというと、怪しいものがある。
     かれの認識では、まわりの人をかなりの程度コントロールしてかれらの好意を得ているということになっているのではないか。
     ですが、事実としては、たとえばルーデウスの妹はルーデウスの抱える不安を見て取って、それで初めてかれに心を開きます。
     意外にもルーデウスの弱さやダメなところこそが、周囲の好意の源になっていたりするのです。
     つまり、ルーデウスもユージもその人柄のよさで人々の協力を得て活躍していることに変わりはない。
     だから、ほんとうに違うのはかれらの意識だけなのです。
     ルーデウスは自分が自分の思惑を超えて愛されていることにわりあい無自覚に思えます。
     一方、ユージはある意味、そのことを当然視しているように見える。
     これはルーデウスが実の兄弟から家を追い出されるという目に遭っているのに対し、ユージの家族仲が良さそうであるところにも原因があるでしょう。
     ユージは愛されることを当然に思っているのに対し、ルーデウスは愛を得るために策を練るのです。
     また、ユージのような感性は日本の平和で豊かな社会でしか育成されえないものであるのに対し、ルーデウスの心理はもう少し貧しく危険が多い時代に生まれた人間のそれであるように思えます。
     そういう意味で、まさにふたりは新世代寄りと旧世代寄りの違いがあるのです。
     『無職転生』が一人称で主人公の行動と心理を追っていくのに対し、『引きニート』が三人称を採用しているのは偶然ではないでしょう。
     『無職転生』は基本的にルーデウスの主観の自己中心的な物語であるのに対し、『引きニート』はもう少し引いた視線で世界を俯瞰しているのです。
     そしてまた、ルーデウスにとっては、世界はどこまでいっても敵だらけであり、ある日それまで積み上げたものが崩れ去るという心配が消せません。
     一方、ユージにとっては異世界での生活すらそこまで警戒に値しないものです。
     ルーデウスは二度目の人生を生きているというチートを用いていますが、インターネットの掲示板にアクセスするパソコンを除くと、ユージにチートはありません。
     ルーデウスは自分は二度目の人生というチートで本気をだすことによって成功していると誤解(というか、一面的な理解)しているかもしれませんが、ユージはそもそも自分だけに根差すチートを持っていないので、他人だよりであることに自覚的です。
     そういう意味では、『無職転生』はやはり「なろう」らしい小説なのですね。
     まだしもチートやハーレムに意味がある。
     『引きニート』はある意味で「なろう」的でないといえる。
     『無職転生』の世界はまだルーデウスの心理のなかで非日常的なところですが、ユージにとっては異世界もまた日本の日常の延長線上にあります。
     だからこそ、かれはあんなに安心しているし、警戒心が足りないのです。
     つまり、ユージにとっては異世界は新しく人生を生きなおせるようなフロンティアではない。
     故にかれは「転生」ではなく「転移」するのだと思います。
     かれには転生して新たに生きなおす意味がないのですね。
     これは、ルーデウスが財産や能力を積み上げていきながら、それがどこかで崩れ去るという心配を抱いているのに対し、ユージはそもそもほとんど積み上げることすらしないという違いにも表れています。
     また、ユージは積み上げたものでも自ら崩すことができるので、ルーデウスのように全部まとめて「リセット」する必要がないのです。
     ここにも世代の差が見えますね。『引きニート』は『無職転生』以上に現代的です。

     ちなみに、自分の理解できる「なじみの風景と関係性」を、異なる世界にまで持ち込んでしまうことは、真の脱出、真の成長、そんなものがあればですが、ではないという風にいえるとは思います。ただ、それは現代社会の、「いまここから」の脱出の不可能性という構造を、無視している議論だと思います。フロンティアが存在しない世界なんですよ、僕らが今生きるパラダイムは。だから、閉塞的になっているんです。それは、全世界的な傾向であって、よほどパラダイムの変換、、、、この場合は、テクノロジーによる巨大なブレイクスルーがない限り、このデジタル中世へ向かうような閉塞感は消えないはずです。

     『無職転生』の物語は、ある意味でルーデウスが「これで安心だ」と不安から解放されるところで終わっています。
     かれは「逃げ延びた」のです。
     論理的にいえば積み上げたものが崩れ去る(新しい「ターニングポイント」が訪れる)可能性がなくなったわけではありませんが、かれは「もう大丈夫」だと考えたのでしょう。
     一方、ユージは初めから不安や警戒心をほとんど持っていません。
     かれは友達でもない掲示板の人間たちをあっさり信用してしまいます。
     そこが、世界すべてがどこまでいっても「平和な日常」である新世代寄りの人間なのだろうと思います。
     ある意味で、新世代タイプのユージはのんびりしていて、性善説的です。
     そして、苦労を苦労とも思いません。
     それこそ、旧世代の人間からすれば説教や注意のひとつでもしてやりたくなるほどに。
     ここで、すべての話の発端である『このすば』に対する野尻抱介さんの苦言のことを思い出してみましょう。かれはこういっていたのでした。

     トラック転生して異世界という名の想像力のかけらもないゲーム世界に行って、なんの苦労もせず女の子がいっしょにいてくれるアニメを見たけど、コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ。少しは向上心持とうよ。

     これは完全に新世代の人間への旧世代の人間からの説教であり、忠告です。
     物語世界を危険な非日常的空間として認識し生きている旧世代の人間からすると、新世代の人間はいかにものん気に思えてしかたないのです。
     そういえば、『このすば』の主人公は実はけっこう苦労しているという話がありましたね?
     なぜそれが「苦労もせず」と見えるのかといえば、苦労しているように演出されていないからです。
     つまり、『このすば』のような新世代的な物語では苦労を苦労として演出することがない。
     それが、旧世代から見ると「苦労もせず」と受け取れるのだと思います。
     それでは、新世代的な物語やキャラクターはほかに何があるでしょうか?
     ぼくはまだすべて見たわけではありませんが、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』のミカヅキなんかは新世代っぽいですよね。葛藤しない。不安がらない。
     そして、『ベイビーステップ』のエーちゃんなんかも新世代のキャラクターだと思います。世界に対して過剰な不安や警戒心を抱いていない。
     今週の『マガジン』のエピソードは象徴的にそこが出ています。
     『ガッチャマンクラウズ』のはじめちゃんなんかも新世代っぽいキャラクターですね。
     彼女は一切悩みませんし、苦しむようすも見せません。
     以上、旧世代(70年代以前生まれ。物語において世界を「危険に満ちた非日常」と認識する)と新世代(80年代以降生まれ。物語においては世界を「平和な日常」と認識する)についての話でした。
     ちょっと面白いでしょ?
     じっさいには世界そのものがほんとうに違っているわけではありません。
     『引きニート』の世界でもそうとうひどいことは起こります。その世界もやはり平和などではなく、地獄的な状況なのです。
     しかし、それに対する認識が新世代は旧世代とは違っているということです。
     うん、面白いですね。ぼくは面白いと思います。
     それでは、次の記事で逢いましょう。
     疲れた! 
  • 映画『マイ・インターン』は一陣の涼風のようにさわやかなファンタジー。

    2015-11-03 23:35  
    51pt

     映画『マイ・インターン』を観て来ました。
     まったく魅力が感じられないタイトルからは何もわからないが、これはいわば「新入社員を雇ったらロバート・デ・ニーロがやって来たんだけれど何か聞きたいことある?」とでもいうべき作品。
     あるファッションサイト企業の若き女性社長ジュールズ(アン・ハサウェイ)が、シニア・インターン制度を活用して入社して来た70歳の新入社員ベン(ロバート・デ・ニーロ)と出逢い、戸惑いながらもやがて固い絆を築くという物語だ。
     物語の冒頭、ジュールズは社長として見事な業績を築き、順風満帆の人生を送っているかに見える。
     しかし、その内実は火の車、仕事に家庭に異常なまでに忙しい日々が続いていた。
     そこへ現われたのが年上の新入社員のベン。
     コンピューターには詳しくないものの、長年の人生経験によってあらゆることを的確に判断できるかれのアドバイスは、しだいにジュールズにとって