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ソーシャルメディアは「きっと何者にもなれない私たち」を中毒させる危険な魔法。
2016-04-26 14:3751pt
ソーシャルメディア中毒。
なんとも恐ろしげな響きですが、それはぼくたちネット民のきわめて近いところに実在している「依存症」です。
本書はそんなソーシャルメディア中毒の「つながりに溺れる人たち」について綴られた一冊。
「新SNS世代の闇に迫り、解決策を探る!」と帯の文句にあるように、この本のなかで主に語られるのはティーン(十代の若者)のソーシャルメディアとのかかわり方です。
いやー、これが、もう、とんでもない話が続出で、すっかりおっさんになった自分を思い知らされます。
と同時に、あまりに過酷な世界で生きているティーンに同情が沸き、自分がティーンのときはソーシャルメディアなんてものがなくて良かったとつくづく思います。
ソーシャルメディアはたしかに便利ですし、「つながり」の実感が持てますが、見方を変えればひとに余計な「つながり」を強要するメディアでもあるわけです。
ほんとうに成熟した大人なら、ソーシャルメディアの限界を意識し、その範囲内で有効に使いこなすことができるでしょう。
しかし、未だ未成熟なティーンにとって、ソーシャルメディアを適度に活用することはとても困難です。
というか、大人ですら中毒になる人は続出しているわけで、そんなものを自我が未発達なティーンに与えたら依存することは目に見えている。
ただ、だからといってティーンからスマホを取り上げればそれでいいかというと、そんなはずはない。
いずれにせよ現代人は何かしらの形でソーシャルメディアとかかわって生きていかなければならないのだから、その正しい使い方を知ることが大切なのです。
とはいえ、そのなんとむずかしいことか。こうしているいまも、ぼくはLINEで複数の部屋を追いかけていますし、たまにTwitterやmixiを開いてチェックしたりもします。
ぼく自身が「中毒」すれすれのソーシャルメディア・ディープユーザーだと思う。
だから、自分のことを棚に上げてひとにお説教などできるはずもないのだけれど、それにしても本書で示されているティーンのソーシャルメディア利用の実態は衝撃的です。
いや、ほんと、これはきついよね。
どこまで満たしても満たしきれない承認欲求を渇望しつづける承認地獄。
それがいまのティーンが生きている世界の実像なのです。
著者は書きます。
ティーンは、始終SNSを利用する。テレビを見ながら、お風呂に入りながら、ベッドに入ってからも、食事中や友達と会っている時も、「ながら利用」をする。一日の利用時間は数時間に上る。SNSを使ったからといってお金をもらえるわけでもなく、やらなければならないわけでもない。格別面白いエンターテインメントというわけでもない。
それだけの時間と手間をかける理由は、孤独な彼らがつながりを感じられるからだ。
誰にも認めてもらえない彼らが、認めてもらえるからだ。
ストレスに苦しめられる彼らが、ストレスを解消できるからだ。
自己肯定感の低い彼らが、自分を認めることができるからだ。
承認欲求。
それがすべての謎を解く鍵です。
なぜ、ティーンは格別面白いわけでもないSNSに夢中になるのか。
それは「自分はそこにいてもいい」という肯定感を与えてくれるから。
「集団から価値ある存在として認められ尊重される」感覚がそこにあるから。
しかし、承認欲求はときに際限なく肥大化し、ソーシャルメディアの利用者はまさに「中毒」のようにそれを使いつづけることになります。
そして、ソーシャルメディア上でさまざまな問題に遭遇するのです。
リアルでのいじめとパラレルに展開する「ネットいじめ」はそのひとつですし、また、「ソーシャル疲れ」というべき鬱や疲労感を感じる人もいます。
じっさいのところ、勉強や部活動などの明確な目標を持って活動している子供は、ソーシャルメディアを利用しはしても中毒になることは少ないといいます。
「つながりに溺れる」のは、ソーシャルメディア上でのつながりのほかには何も持っていないような子たちです。
そう、「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」という言葉が、ここでも聞こえてくるようです。
ソーシャルメディアとは、そのままでは「きっと何者にもなれない」子供たちが、特別な才能や面倒な努力なしで「何者かになる」ための魔法のアイテムなのです。
『輪るピングドラム』でこのセリフを生み出した幾原監督はつくづく天才ですね。
しかし、同時にその魔法はどこか歪んだブラック・マジックの側面を持ってもいます。
ソーシャルメディアを使えばすぐにでも「人気者のわたし」というイメージを演じることができる。
けれど、当然ではあるものの、現実の自分はそのことによって少しも変化するわけではない。
このようにしてリアルとネットは乖離し、使いこなさなければならない「ペルソナ」は増える一方になる。
また、「人気者のわたし」のイメージを維持するために、色々な欺瞞を使いこなさなければならないことにもなりかねない。
たとえばTwitterでひとの発言を盗用することを意味する「パクツイ」などは典型的な問題でしょう。
だれかがいった面白いツイートを、そのまま自分の発言として流用する。
そうすると、たくさんの「ふぁぼ」や「りつい」を得られて、一時、幸せな気分になれる。
「パクツイ」の仕組みとは、そういうもののようです。
ですが、しょせんひとのツイートはひとのツイート。自分の才覚で生み出したものでない以上、いくら一時の承認を得られたとしても、むなしいことこの上ない。
そして、そのむなしさがさらに「パクツイ」を継続させる。
それは著作権を無視した盗用であり、法的にも問題がある行為なのですが、そういうことにはなかなか気づかない。
そのようにして「パクツイ」の連鎖は、その子が何かしら破たんするまで続きます。
そのほかにもソーシャルメディア中毒は多様な問題を引き起こします。
ただでさえ他人の顔色をうかがい、承認の機会を逃がすまいと必死になっているティーンにとって、ソーシャルメディアは甘すぎる果実です。
だから、どれほど問題が発生するとしても、ティーンはなかなかソーシャルメディアの使用をやめることができません。
「既読無視」が罪悪とされ、メッセージが来たらすぐに返信しなければならないルールを、内心では鬱陶しいと思っている子も少なくないはずなのですが、それをいいだすことは赦されない。
そんなことをいったら即座に仲間外れにされ、罪びととしていじめの対象になる。
ソーシャルメディア上に築かれた承認のラビリンスはきわめて抜け出しがたい構造をしているのです。
それでは、このような深い迷宮から抜け出るためにはどうすればいいのか。
著者は最後にひとつの希望を提示します。それは -
孤立せよ! 「つながりの共依存地獄」からの脱出法。
2015-04-02 03:5651pt
現代はひととひとが「つながりつづける」時代である。
FacebookやLINEなど、いくつものソーシャルメディアを使って、人々は互いを接続しあう。
そこには「つながること」の原初的な歓びがある。
すべてソーシャルメディアは自分はひとりぼっちで孤独だという「寂しさ」を癒やすために利用されているといってもいいだろう。
逆にいえば、現代とはだれもかれもがひどく寂しがっている時代だということかもしれない。
常にだれかと「つながっている」ことを確認しなければ寂しさに耐え切れないほどに人々は孤独に対する耐性を失っているということ。
「つながり」の時代はきわめて切実な「孤独」の時代でもあるのだ。
さて、『ソーシャルメディア中毒』という本がある。
文字通りソーシャルメディアに中毒している人々の「症例」を集めた一冊だ。
ソーシャルメディアを使う層に若者が多いため、一種の若者論となっているが、決して「若者叩き」に終始した内容ではない。
この本は現代の若者が抱える「つながり」の問題を赤裸々に綴っている。
現代のティーンのコミュニケーション作法は、ソーシャルメディアの発達によって以前とは決定的に変化しているという。
「未読無視」とか「既読スルー」といった言葉を目にしたことがある方は多いだろう。
「ソーシャルメディアでの発言を無視してはならない」、「素早く返事をしなければならない」というモラルは現在、ティーンにひろく浸透しているようだ。
そこにあるものは「孤立」することを何よりも恐れる心だろう。
自分を認めてもらいたい、自分の儚い存在を肯定してほしい――その、切なる願い。
それ自体はきわめてよく理解できる心理ではあるが、自然、行き過ぎれば依存を生む。
ぼく自身、相当にネットとソーシャルメディアに依存している身の上なので、ひとり高みに立ってその問題を裁こうとは思わない。
しかし、「つながり」への過剰な依存が、十代のまだ未熟な精神をたやすく打ち砕きかねないことは自明だろう。
何者かでありたいと切望しながら、現実にはまだ何者でもない、そして「きっと何者にもなれない」かもしれないティーンの不安を、ソーシャルメディアは優しく癒やす。
しかし、ひとたびその「相互承認のネットワーク」に巻き込まれたら脱出は困難だ。
なぜなら、そこから抜け出すためには「だれにも認められないかもしれない」という恐怖を乗り越えなければならないからだ。
だれに認められなくてもいい、自分は自分だ、と割り切るためには、十代の心はあまりにも繊細である。
かくして、ソーシャルメディアへの依存地獄はより深くなってゆく。
しかし、ひとはソーシャルメディアなしでも行きていけるし、じっさいにそれが誕生するまではだれもそんなものが必要だとも思っていなかったのである。
ひとは社会的な動物であり、ひとりでは生きていけない。それはほんとうなかもしれない。しかし、だからといって必ずしも「常時」だれかとつながっている必要はないのだ。
ぼく自身は、インターネットにふれるまでの20年間、実質的に「ぼっち」だった。ほとんど友達もいなかったし、自分の発言に価値があるとも思っていなかったのだ。
だれと会話するでもなく、したがってだれかに認められることもなく、ひとり、ほんとうにただひとり、孤独に本を読む日々が続いた。
しかし、いま思えば、その物いわぬ孤独の20年間がぼくという人間を育て上げてくれたのだろう。
その意味では、初めから同じ趣味のひとと「つながる」ことができるいまの中高生がうらやましいのと同時に、少し可哀想に感じる。
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