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記事 6件
  • あきらめのその先に続く世界。相田裕『イチゴーイチハチ!』が日常系の新境地を切り開く。

    2015-04-01 05:50  
    50pt



     相田裕の新作『イチゴーイチハチ!』を購入しました。
     『GUNSLINGER GIRL』が完結して以来、ひさしぶりの商業作品ですが、『バーサスアンダースロー』のタイトルで同人誌で出版されていた作品のリメイクとなります。
     第1巻でほぼ同人誌収録分を消化した感じですね。
     これが素晴らしい内容で、非常に読ませます。今年の漫画ランキング暫定首位は間違いないところ。
     それでは、この作品のどこがそれほど良いのか。
     いろいろな評価が既に出ていますが、ぼくはこれは「挫折」と「諦念」の先の「キラキラした日常」を描こうとしているのだと判断しました。
     運命に翻弄され、すべてを失い、夢をあきらめたその向こうにある「楽しさ」。それがこの作品のテーマなのではないかと。
     『妹さえいればいい。』もそうなのですが、「日常系」と呼ばれたジャンルはここに来ていっそう深みを増している印象がありますね。
     物語は、怪我によって野球の道を断念したひとりの少年が、その高校の生徒会に入って来るところから始まります。
     かれはほんらいプロを目ざせるほど優れた資質のもち主だったのですが、いまとなってはその道は断念せざるを得ません。
     その生徒会のほかの面々は、かれに「野球以外の楽しいこと」を教えようとするのですが――という話。
     ぼくはここにある種の「諦念」の物語を見ます。
     不条理な現実を受け入れ「あきらめること」の物語といってもいい。
     普通、「あきらめ」はネガティヴな文脈で使われる言葉です。しかし、ひとはあきらめることなしには先へ進めない局面がある。
     どんなに頑張っても自分の意志が世界に通じないという現実を受け止め、受け入れ、その上で前へ進むとき、「あきらめ」にはポジティヴな意味が宿るのではないでしょうか。
     高河ゆんの『源氏』に、平清盛に仕える嵯峨空也がその清盛に捨てられた白拍子の少女を祗王寺へと連れていくエピソードがあります。
     そこでは、彼女自身かつて清盛の愛妾であった女性祗王が、かれの無事を祈願していました。
     ただ一時愛された思い出だけでここまでできるものなのか、と問い質す空也に対し、祗王は平然と言ってのけます。

    「仕方がありませんわ 英雄色を好むと申します 女は華でございます 咲いて散るものです それが運命です 華と生まれたことになんの不満があるでしょう」

     そんな言葉を受け、空也は呟きます。

    「……わたしは「仕方ない」という言葉が好きです あきらめよりも何か決意を感じさせます」

     ぼくはこの場面と台詞が非常に好きです。初めて読んだとき以来、強く印象に残っています。
     それではこのやり取りをどう解釈するべきでしょうか。
     普通に読むぶんには「女は華でございます 咲いて散るのがさだめです」とは、やけに古風な女性観とも思えるし、男の心変わりを「仕方ない」と受け止める姿勢は後ろ向きとも思えます。
     しかし、空也はその「仕方ない」を好きだといい、ただの「あきらめ」と区別して「何か決意を感じさせます」と語っています。
     つまり、ここでは「仕方ない」にただの「あきらめ」以上の意味が見いだされているのです。
     それはどんな意味でしょう。結論から書くと、ここで語られているものは「ポジティヴな諦念」というべきものであるように思えます。「建設的なあきらめ」といってもいいでしょう。
     それはたしかに「あきらめ」には違いないのだけれど、決してネガティヴな意味での「あきらめ」ではない。あきらめることによって前へ進んでいこうとする、意思の力を秘めた諦念なのです。
     『イチゴーイチハチ!』の「あきらめ」も、この「建設的なあきらめ」だといっていいと思う。
     おかしなことをいっているように思えるでしょうか。
     そうではありません。正しい「あきらめ」はその人自身の意思によってなされるものです。
     そしてひとはその種のあきらめなしでは生きていけません。生きることとはあきらめつづけることである、ということもできるでしょう。
     それでは、負の意味でのあきらめと正の意味でのあきらめをどう区別すればいいのでしょうか。
     答えは単純ではないように思えます。たとえば、その道をあきらめることでほかの道を進めるようなあきらめ、ひとつあきらめることで最終的なゴールにより近づくようなあきらめ、そういうあきらめが「良いあきらめ」だ、ということはできるでしょう。
     しかし、そのいかにも合理主義的な選択に、ぼくは小さな、しかし見過ごせない違和を抱きます。ほんとうにそんな合理主義的にだけ考えることが正しいのか。
     為末大に『諦める力』という著書があります。まさにここでいう「ポジティヴな諦念」について書かれた本です。
     しかし、やはりそこでの諦念は「合理主義的な諦念」の次元に留まっている。
     ある道を行ってもどうせダメなのだとわかったらさっさとあきらめてほかの道へ行くべきだ、そちらの選択のほうが合理的だ、というような話なのです。
     ぼくは、この話に何かとげが刺さったような違和を感じます。
     『イチゴーイチハチ!』でいうなら、野球がダメだとわかった少年はべつの道で成功を目ざせばいい、野球にはもう見込みがないのだから、というような話になるでしょう。
     ですが、ほんとうにそんなふうに簡単に割り切れるものでしょうか。
     割り切るべきなのだ、という思想は正しいかもしれない。けれど、やはり割り切れない思いがある。
     『イチゴーイチハチ!』はそんな「どうしても割り切れない思い」を描いています。
     そして、「その先にあるもの」を描こうとしているように思います。
     為末さんの発想は、ある「競争」で敗者になることを受け入れることによって、べつの「競争」で勝者になろう、というものです。
     しかし、それでは、どんな合理的な手段を選んでもどの道でも勝利できない人間はどうすればいいのか。
     たとえば、不治の病にかかって余命いくばくもなくなってしまったとき、ひとはやはり絶望するしかないのだろうか。
     そうではない、そういうときにこそ「あきらめる力」が必要になってくるのではないか、というのがぼくの考えです。
     「あきらめる力」とは「受け入れる力」であり、自分の意志ではどうしようもない現実を受け入れる強さのことだと思うのです。
     どうにもままならない過酷な運命を受け入れて一歩一歩前進していこうとする意思――それをぼくの言葉で「戦場感覚」と呼びます。
     「あきらめ」と「絶望」は同じものに見えるかもしれない。しかし、ぼくとしてはこういいたいところです。
     絶望的な現実を前にしても絶望しないためにこそ、諦念が必要となるのだ、と。
     「あきらめる力」とは、ただ単に競争における勝利を目ざすための方法論ではない、一切の勝利がありえない状況をも受け入れるそのための力なのではないか、と。
     そして、『イチゴーイチハチ!』はそこから一歩進んで、「あきらめたその先」を描こうとします。ここがほんとうに凄い。
     「いつどんな不条理なことが起こるかわからない現実世界」を「新世界」と呼ぶなら、『イチゴーイチハチ!』はその「新世界の楽しみ方」を描こうとしているように思います。 
  • 『艦これ』は政治的に正しい!

    2014-08-12 04:52  
    50pt


     つい先ほど、「艦これは少女を命がけで戦わせる”美少女ポケモン”なのでヤバい」というTogetterを読みました。
    http://togetter.com/li/703275
     んー、コメント欄で異論反論が百出していることからもわかる通り、「何か違うのでわ?」と思わせられる話なんだけれど、ぼくはそこまで熱心な『艦これ』ユーザーではないので、ここでは一般論として上記リンク先で語られている「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子が比較的安全な後方に陣取り、女子に命令して前線へ送り込み命がけで戦わせる」という形式のどこに問題があるのか、あるいはないのか、という話をしましょう。
     このまとめで語られている論旨は(複数の人物の複数の意見を経たものではありますが)、一貫しているように思えます。
     「少女を前方で戦わせて男性が後方で命令する」形式には倫理的、あるいは政治的な問題がある。それは「ヒモ」めいていて、「醜い」し、「気持ち悪い」という主張です。
     これは一見すると、なかなか論破しがたい主張であるように思えます。だって、大の男が後方で偉そうに命令していて、可憐な女の子たちが前方で戦う。そんな形式って、どこか歪んでいるとしか思えないではありませんか?
     しかし、ほんとうにそうでしょうか? 結論から書いてしまうと、ぼくは違うのではないかと思う。「少女を前面で戦わせて男性が後方で命令する」という形式に、何らかの「歪み」を見てしまうその認識こそが、まさに歪んでいるのだ、と思うのです。
     どういうことか? 前提から考えてみましょう。まず、ここで使用されている「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子が比較的安全な後方に陣取り、女子に命令して前線へ送り込み命がけで戦わせる」」という云い方には、既にしてふたつの予断が含まれています。
     (1)「後方で命令する」人物、『艦これ』の場合で云えば、「提督」が男性であること。そして(2)あくまで少女たち、『艦これ』で云えば艦娘たちは提督の命令に従って戦わせられているに過ぎないのであって、主体的な意志で戦っているわけではない、ということです。
     上記のまとめではこのふたつの予断によって、結論が誘導されている印象があります。まず、少なくとも『艦これ』では客観的事実として「女性提督」が相当数実在しているはずで、「提督は男性」と決め付けるべき理由は見あたりません。
     この時点で、仮に『艦これ』が「美少女ポケモン」ものであると認めるとしても、「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子」だけを描く作品であるとは云えません。
     むしろ、そうであるにもかかわらず、なぜ提督は「男子」であると決めてかかっているのか、その点を考えてみるべきです。そこにはある種の偏見(バイアス)が含まれているように思えます。
     が、それは置いておいて、次のポイントに行きましょう。「(2)」です。ここでは「「タキシード仮面は働かないのにうさぎに惚れられてるけど、物理的に上の位置にいる助言役ってだけで積極的な指示は出さず、命がけで戦うのはあくまで少女の意思なんですよね。「さあ戦え、セーラームーン!」とか煽ってたらダメなヒモっぽさで超いやらしいかんじ。」と書かれています。 また、「その立場の人が働いてる様子なしで命令してたらやらしい感じなのは男女あんまり関係なさそうですけどね。むしろ男女関係的に超慕われてるのが働いてないのに言うこと聞いてもらえる免罪符なのかも。結局ヒモっぽいのは変わんないですか」とも書かれているんですけれど、ぼくはこの意見に大きな異論を感じます。
     提督は提督という仕事をしているのであって、十分に「働いている」ではありませんか? 何の根拠があって命令しているほうが働いていて、命令されているほうは働いていないと決めつけるのか?
     いや、もちろんわかりますよ。命がけで戦場で戦っているのは艦娘たちなのであって、提督は具体的に何の仕事もしていない、安全なところでふんぞり返っていばっているだけだ、ということなのでしょう。
     しかし、この種の主張は組織におけるリーダーの役割を不当に軽んじているように思えます。つまりは一兵卒は働いているけれど将軍は働いていないで楽をしている、という主張ですからね。
     もちろん、無能で傲慢な将軍はそういうものかもしれないけれど、有能な将軍はめちゃくちゃ働いていると考えるべきではないでしょうか?
     つまり、提督は「その戦いにおける戦術を緻密に練り、艦娘たちの戦力を効果的に活かす」という仕事を行っているのです。だから、たとえ自分自身が命を晒していないにしても、そこには重い責任感があると考えるべきでしょう。
     ここにあるものは、ぼくがずっと前から語っている「リーダーとフォロワーを巡る倫理の問題」です。つまり、フォロワーに指示を下すリーダーにはフォロワーに対する無限責任が存在するのか?という問題ですね。
     ぼくは、この問題に対して「存在しない」という結論を出しています。ひとがだれかに対する無限責任を負おうとすることは傲慢であり、不当なのだと。
     もちろん、リーダーはフォロワーに対して「一定の」責任を負っている。そして、最善を尽くしてフォロワーの能力を活かす義務をも負っている。
     しかし、フォロワーの行動と存在のすべてが全面的にリーダーの責任であると考えることは、フォロワーの自我を無視する考え方であり、間違えている、という結論です。
     このことについて、ペトロニウスさんは『魔法先生ネギま!』を例に出してこう書いています。

    でも、僕はよく思うのですが・・・確かにリーダーや公的に責任がある立場の人には、絶大な責任があります。だってマクロを管理する立場にあるわけだから。でも、すべてを管理できるわけではない以上、やはり、どこかで線を引いて、「何をなすにも、それはフォロワーの決断」と考えなければ、それは、相手を対等に見ていないことになってしまうのではないかな?って思うのです。たくさんの情報を持つネギだって、リーダーだって、すべてを見とおせるわけではないのですから。結局は、「どうなるかわからない不確かな未来に足を踏み出している」同じ人間にすぎません。
    http://ameblo.jp/petronius/entry-10056687241.html

     おお、7年前の記事だよ。なつかしい。ぼくもよくこんなやり取りを憶えているよな。
     それはともかく、ぼくもまさにこう思うのです。提督にしろ、艦娘にしろ、サトシにしろ、ピカチュウにしろ、つまりは「「どうなるかわからない不確かな未来に足を踏み出している」同じ人間」に過ぎないのであって、表面的な主従関係を超えて、実は対等なのだと。
     なるほど、表面的にはピカチュウは戦っていて、サトシは後方で楽をしているように見える。しかし、そのとき、サトシにはピカチュウを最善の形で戦わせる責任があり、ピカチュウにはサトシに対する絶対の信頼がある。
     だからこそ、『ポケモン』という物語は表面的な倫理問題を超えて多くのひとの心に波及していくのであって、決して「『ポケモン』はサトシがポケモンを虐待するだけのひどい話」などとは云えないのです。
     むしろ、部下を可能な限り効果的に戦地へ送り込まなければならない将軍の苦悩は、ただひたすらに戦っていれば良い兵士の苦悩を上回ることすらあるでしょう。
     最近の作品でここらへんのことを最もうまく描いているのはおがきちか『Landreaall』だと思います。このテーマの具体的な展開を知りたい方は、この漫画の第12巻から第13巻をぜひどうぞ。
     そして、このテーマを最も先鋭的な形で表現しているとぼくが考えるのは、栗本薫『グイン・サーガ』第65巻の一節です。この巻で、パロの王子アルド・ナリスは、不運にも無数の部下を辺境の土地に散らせてしまったことに重い後悔を感じている黒太子スカールに向けて云い放ちます。

    「私は、いま、心から、『それは、かれら自身が選んだことなのだ。だからそれについて、私がいたんだり、くやんだりするのはあまりに傲慢である』と答えることができます。――私自身もたとえ誰にさとされようとすかされようと、あるいはさまたげられようと迷うことなくおのれの信ずるままに進んできてここにいたった。そしておのれののぞみをつらぬくためにつきすすみ、そのために死んでもいいと思っている。(略)かれらがもしここに亡霊となって立ちあらわれたとしたら、かれらは何というと思います。かれらは誰もあなたを責めはしない。かれらはおのれのことを誇りに思っていないでしょうか? そしてあなたのいのちを守るため、あなたの望みをかなえるためにそのいのちをささげたことをもって『自分の生まれてきたのはこのためだったのだ』と思って死んでいったのではないのですか――あなたのために。あなたのお役にたててよかった――と。(略)」


    「あなたが、かれらに命じたのではない。かれらが、あなたを選んだのだ。あなたには、選ばれたことに対する責任こそあれ、かれらの死を背負いこむ理由などありませんよ。あったとしたらそれは傲慢というものです。こういっては、傷ついているあなたにきびしすぎることばときこえるかもしれませんが。私は――私もまた、いろいろと悩みました……私の迷いを啓いてくれたのは、私がその一生をほろぼすことになった男のことばだった。私が正しい愛国者の道からひきずりおろし、闇にひきこみ、迷わせ、恋を奪い、ともに破滅することへひきずりこんだ、その男がにっこりと笑って、『あなたじゃない、私があなたを選ぶのだ』と考えるにいたったとき――私は、はじめて知りました。それでは世の中には、何かを与えてやることではなく――何かをしてもらうこと、何かを与えてもらうことによってだけ与えることのできる贈り物もあるのだなと――その贈り物の名は、《信頼》というのだと」

     「あなたが、かれらに命じたのではない。かれらが、あなたを選んだのだ」。そして、世の中には「何かをしてもらうこと、何かを与えてもらうことによってだけ与えることのできる贈り物」もある。その贈り物の名は、「信頼」という。
     こう考えるなら、提督と艦娘たちの関係は決して一方的な命令→服従というものではなく、責任↔信頼であることが想像できます。もちろん、作中でそこまでは描かれていないとしても、少なくともそういうふうに受け止めることはできる。
     だとしたら、なぜ、提督と艦娘たちの関係が「醜い」、「気持ち悪い」ものに思えてしまうのか? それは「成人男性」という「強者」が、「未成人女性」という「弱者」を前線で戦わせて自分は戦わない、という形式に倫理的な問題を見るからでしょう。
     たとえば、このツイートではこう書かれています。

    特に日本のゲームやアニメ・漫画に対して感心しないのは、少年少女を戦わせてそれがさも当たり前みたいに話が進んでいくところかな。現実的に考えれば成人男性が真っ先に矢面に立って戦うのに。現実的に見たら主人公が少年少女って少年兵の話ですよ。どこの未開の地の民兵組織よ。

     つまり、ここでは「成人男性が真っ先に矢面に立って戦う」ことが最も正しい、政治的問題が存在しない形式である、という意見が提出されているわけです。
     この意見には成人男性こそが「強者」であり、本質的に「弱者」である「女子供」を守って戦うことこそが正しい姿なのだ、という考え方が背景にあるのでしょう。
     しかし、成人男性こそ強者であり、「女子供」は弱者である、というのはほんとうにそうでしょうか? 仮に現実世界ではそうであると認めるとしても、イマジネーションの世界において、その「現実」をなぞることが最も政治的/倫理的に正しいのでしょうか? 
     ぼくはそうは思わない。それは結局、戦うのは男の仕事、女子供は守られていれば良いという発想であって、「固定的性役割分担にもとづく性差別」というものなのではないですか?
     もちろん、日本のサブカルチャーに、成人男性が「矢面に立って」戦う物語がまったく存在しないというのなら、それは倒錯であり歪みである、という云い方はできるでしょう。
     しかし、現実にはそうではない。仮面ライダーやウルトラマンの大半が成人男性であることからもわかるように、ちゃんと大人が戦っている作品もあるわけなんですよ。
     何が云いたいのか? つまり、ぼくは「成人男性が戦い、女子供は守られる」という形こそが唯一の政治的に正しい形式だとは考えないということです。
     それどころか、そもそも「唯一の政治的に正しい関係」なるものが存在し、その反対の「許されるべきではない間違えた関係」も存在する、という認識そのものを認めない。
     そういうことじゃないと思うんですよ。逆に考えるんだ、ジョジョ、です。そう、たったひとつの「政治的に正しい」関係性が存在するのではなく、ありとあらゆる多様な倒錯的関係性が許容され、しかもそれが倒錯と認識されない状況こそが最も政治的に正しいのだと考えるべきなのです!
     つまり、成人男性が少女に命令する形式があっても良いし、成人女性が少年に命令する形式があってもいい。あるいは少女が男性に命令する形式があってもかまわない。
     さまざまな関係性が野放図に繁栄している状況こそが最も倫理的なのであって、あるひとつの作品、ひとつの形式、ひとつの関係性を取り上げて「これは政治的に間違えている」ということは、じっさいにはむしろ差別的言説であるかもしれない、ということです。
     『艦これ』に従来の前衛男性中心的関係性からの逸脱なり倒錯が見られるとしても、それを是正しようとするべきではありません。むしろもっと広範に多角的に倒錯させるべきなのです。
     そのような逸脱的主従関係を、ぼくたちはたとえば『Fate』シリーズに見て取れるでしょう。この物語では、ほとんどありとあらゆるパターンのマスター×サーヴァント関係を発見することができます(二次創作まで入れるとさらに多様。ここでこっそり自分の同人誌を宣伝しておくと、ぼくが夏コミで発売する予定の『Fate/Bloody rounds(1)』は「美少女リーダー、男性フォロワーたち」の物語です。よろしくお願いします)。
     詳細は以下をどうぞ。http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar592457 いやまったく、「男性が戦い、女子供は守られる」というひとつのパターンしか許されないような社会に比べ、現代日本は何と素晴らしいのでしょうか!
     『艦これ』はたしかにそれ単体を見ればひとつの倒錯した人間関係を推奨しているように見えなくもない。しかし、だからその倒錯を見直そう、ということは間違えている。
     もっともっと倒錯させつづけ、ありとあらゆる倒錯があたりまえな状況を作るべきなのです。それが最もポリティカル・コレクトな結論だと思います。
     だから、

    そうすると、ぼくの考える美少女ポケモンもの、「男性指揮官が女性戦闘員を使役して命がけで戦わせる」「戦闘員が幼い女性だとヤバい」「恋愛感情で操ってるともっとヤバい」ってのにいちばん自覚的な作品は、『ガンスリンガー・ガール』ってことになりますねー。


    ガンスリンガー・ガールは、オタが好きな少女兵士の非人道的なヤバさをドライアイスで固めてブン殴ってくるような、画期的に自覚的な作品です。2002年の時点ですでに美少女ポケモンをテーマの中核に据えたマスターピースですね。いや終盤読んでないんですが。

     いや、終盤も読みましょうよ! だって、その終盤ではまさに「たとえ、表面的な関係に主従、支配と被支配といった非対称性があろうとも、それでもなお、ほんとうに対等な関係を築くことは可能である」というテーマが打ち出されているんだから!
     どんな人間関係も、必然的にある種の権力関係を内包します。そこでは強者と弱者が生まれ、支配と被支配の関係が表れる。それでもなお、その限界を超えて、ひとは対等な愛と信頼の関係を築くことができる、ということが『GUNSLINGER GIRL』の、あるいは栗本薫作品の最終的な結論でありテーマでした。
     たとえそれが一瞬のうたかたの幻であるに過ぎず、次の瞬間にはまた果てしない権力闘争に戻っていくしかないとしても、です。
     たしかに初期の『GUNSLINGER GIRL』は「オタが好きな少女兵士の非人道的なヤバさをドライアイスで固めてブン殴ってくるような、画期的に自覚的な作品」と評価するべきだったかもしれませんが、終盤ではそれをも確信的に乗り越えていると思うんですよ。
     こういう作品がちゃんと出て来るということが、この世の中の面白さであり、それを無視して「これは倫理的に間違えている!」と告発しても始まりません。ただ上から目線で告発して終わらせるのではなく、「その先」を考えていくのが読者たる者の役割ではありませんか?
     ちなみにぼくはもう疲れたので(現在早朝5時……)、あえて語りませんが、『GUNSLINGER GIRL』のドラマツルギーに関する詳細な分析は、ペトロニウスさんの以下の記事をどうぞ。さらには永野護『ファイブスター物語』あたりも押さえておきたいところです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130103/p1
     そして、この分析は、昨日発売(!)の『ビッグコミックスピリッツ』で商業版連載が始まった『バーサスアンダースロー』こと『1518!』へと続いていきます。
     こうやって、物語は語られ、詠われ、継がれてゆくものなのでしょう。ひとつの物語の終わりは次なる物語の始まり。そして、さらなる次の世代、次のテーマへ、ひとが、ひとを愛するということを巡る物語は続いてゆくのです。
     
  • 『GUNSLINGER GIRL』が乗り越えた限界。(2131文字)

    2013-06-24 15:57  
    52pt




     いまから十数年前、「少女と銃の物語」と銘打たれた『GUNSLINGER GIRL』が始まったとき、ぼくはそれほど感心しなかった。
     国を害するテロリストたちと戦うため、薬物投与され機械改造された少女たちと「兄」の役割を与えられた男たちが、銃弾が乱れ飛ぶ架空のイタリアで戦いつづけるという物語は、あまりにも同人誌的というか、ロリータ・コンプレックスの夢じみていると思ったものだ。
     じっさい、途中まで『GUNSLINGER GIRL』はそれ以上の作品とは思えなかった。甘ったるいセンチメンタリズムと加虐趣味のほか、特別に見どころがある作品とも思われなかった。
     しかし、話が中盤に至ったあたりから、作家の表現力は奇跡のように向上し始める。ぼくには具体的にどこがどう上手くなったのか、くわしくはわからないが、圧倒的に画力が増したことはたしかだ。
     ひとりひとりのキャラクターもよりリアルタッチになっていくのだが、それ以上に背景の描写が濃密になった印象が強い。
     あるいは有能なスタッフがひとり入ったとか、そういうところに原因があるのかもしれないが、とにかく『GUNSLINGER GIRL』は中盤を過ぎて一気に変貌し始める。
     あたかも作品のなかから新しい作品が生まれ落ちたかのように、作品そのものがドラスティックに生まれ変わってゆくのだ。それと並行して、物語もいままでにない深みを見せるようになる。
     初め、義体少女たちと兄(フラテッロ)の関係は、ひたすらにセンチメンタルで先が見えないオタク好みの悲劇に過ぎなかったはずだ。
     しかし、話が進展していくにつれ、作家は「希望」を模索しだす。このすべての未来が閉ざされたかにすら見える世界でなお、雲間から差し込む一条の光のようにかがやく希望。それをこそ、作家は追い求めてゆくのである。
     そもそも長くても数年で寿命を迎える義体少女たちに未来はない。彼女たちの進む道はすべてあらかじめ潰されている。しかし、その苦しみ、その哀しみと痛みは、彼女たち一身を超えて、「次の世代」へとつながってゆく。
     この「次の世代」の物語を構想することによって、初めて、この物語ははてしなく続く絶望と苦悩の堂々巡りからの出口を見いだすことができた。そこで初めて『GUNSLINGER GIRL』は「少女と銃の物語」を乗り越えていくことになる。
     「少女と銃の物語」とは、あえていってしまえば、ロリータ・コンプレックスと武器フェティシズムを安直に結びつけたオタク好みのありふれたテーマに過ぎなかったようにも思える。
     
  • すべては日常に帰着する。相田裕『バーサス・アンダースロー』に現代社会の最先端を見た。(2175文字)

    2013-01-10 18:57  
    52pt
    相田裕『バーサス・アンダースロー総集編』を読み終えたので、感想を書いておきます。『バーサス・アンダースロー』は当然、Amazonに画像がないので、画像は『BANANA FISH』ものを利用しています。なんだか何をいっているのかわからないような文章になってしまいましたが、わかるひとにはわかるはず。ここらへんのことを中核に、いつか同人誌を書きたいですね。
  • 人形と人形使いのゲーム。相田裕、栗本薫、永野護らが描こうとしているものは何なのか。(1734文字)

    2013-01-04 00:15  
    52pt
    相田裕『GUNSLINGER GIRL』と栗本薫の『真夜中の天使』、永野護『ファイブスター物語』という、一見何の関係もなさそうな作品について語った論考です。そこには「つくるもの」と「つくられるもの」、つまり創造者と被造物の関係の逆転というテーマがひそんでいるのだと語っています。いやー、しかし、『真夜中の天使』は名作だなー。あらためてそう思いました。
  • 愛と欺瞞と恩讐と希望と。完結した『GUNSLINGER GIRL』を一気読みする。(1961文字)

    2013-01-01 13:21  
    52pt
    相田裕『GUNSLINGER GIRL』を一気読みしました。正確には再読なのですが、いいかげんな読み方しかしていなかったので初読に等しい再読だと思います。いや、良かった。素晴らしかった。ぼくは初めの辺りには違和感を禁じえなかったのですが、中盤でいっきに表現力が深みを増し、作者の伝えたいものが正しく伝わるようになったと思います。今夜、ニコ生で語ります。